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「戦争のない世界」ノーム・チョムスキー 2002年5月29日 − 民主主義に残されたものは商品のどれかを選ぶ権利である −
http://www.asyura.com/2003/dispute8/msg/183.html
投稿者 あっしら 日時 2003 年 2 月 10 日 18:42:51:


http://www.jca.apc.org/~kmasuoka/persons/chomwsf2.html

ZNet原文:http://www.zmag.org/content/ForeignPolicy/chomwsf2t.cfm

最初に、話の前提として、いくつかあたり前のことを確認させて下さい。私たちが紛争と対立の世界に生きているということは、ほとんど驚くようなニュースではありません。紛争や対立には、多くの次元が絡んでおり、複雑なものですが、それでも、ここ数年の間に、分断線がかなり明確になってきました。大胆に簡略化すると−とはいえそんなに極端にではありませんが−、紛争当事者の一方は、親密な関係にある国家と私企業という、集中化された権力の中枢です。もう一方は、世界中の、普通の人々です。この紛争は、流行遅れの言葉で「階級戦争」と言われていたであろうものです。

集中化された権力の側は、この戦争を、無慈悲に、そして極めて自覚的に進めています。政府文書やビジネス界の出版物などを見ると、こうした人々は、おおむね、野卑なマルクス主義者のようであることがわかります。むろん、価値付けはマルクス主義者と逆ですが。そして、これらの人々は恐れてもいます。実際、この恐れは、17世紀のイングランドでも見られたものです。これらの人々は、支配体制が脆弱なものであり、その体制が、何らかの手段で人々を調教することに依存していることを知っています。そして、調教の手段を懸命に探し求めているのです。最近では、共産主義や犯罪、麻薬、テロリズムといったものが使われてきました。口実は色々変わりますが、政策はかなりの程度安定しています。ときに、同じ政策が続いているのに、それに使われる口実の変化があまりに極端なので、それを見逃すためには多大な努力が必要となることがあります。たとえば、ソ連崩壊直後です。

当然、権力中枢にいる人々は、自分たちの計画を進めるためにあらゆる機会を利用しようとします。2001年9月11日[米国世界貿易センタービル等に航空機が突入した事件]はその典型です。こうした危機を利用して、恐怖と心配をかき立て、反対派が命令に従い、従順にふるまい、発言をやめ、注目されなくなるように仕立てる一方、権力を握っている人々は、いっそう熱心に、自分たちの計画を実現するために、この機会を利用するのです。用いられるやり方は様々で、社会によって違ったかたちをとります。より残虐な国々では、弾圧とテロの強化、人々がより大きな自由を手にしている社会では、人々を調教する手段を強化しつつ、よりいっそうの富や権力を自分たちの手に握ろうとします。過去数ヶ月の間に世界中で起きたこうした出来事の例をあげるのは簡単です。

その犠牲となる人々は、むろん、危機がこのように利用されることを予想して、対抗しなくてはなりません。そして油断することなく注意を集中し、以前と変わらずに続く基本的問題に対処しなくてはなりません。問題のいくつかをあげるならば、軍事化の推進、環境破壊、民主主義と自由に対する全面的な攻撃など、すなわち、「新自由主義」計画の中心的部分です。

今ここで開催されている世界社会フォーラムと、ニューヨークでの世界経済フォーラム(WEF)とは、この対立を象徴しています。米国の新聞の言葉を借りるならば、世界経済フォーラムは、「推進者や変革者」、「裕福で著名な人々」、「世界の賢者たち」、「政府指導者と企業の重役、各国の大臣と神の使節、政治家と有識者たち」の集まりで、こうした人々が「深い考えを巡らせ」、「人類が直面する大問題」を検討するものです。大問題の例もいくつかあげられています。たとえば、「我々の行動にどうやって道徳的価値を注入するか?」とか、「ニューヨーク食産業を支配する貴公子」が中心となった「皆さんは何を食べていますか」というパネルなどです。この「貴公子」が経営する優雅なレストランには、「フォーラム参加者が押し寄せた」といいます。5万人の参加が予想されるブラジルの「アンチ・フォーラム」[ポルトアレグレで2002年1月31日から2月5日まで開催された世界社会フォーラムのこと。合計8万人が参加した]についても言及されていました。こちらの参加者たちは、「世界貿易機関(WTO)の集会に抗議するために集まった変人たち」とされています。こうした変人についてさらに知るために、みすぼらしいなりをし顔を隠した男が「世界の人殺し」と壁に書いている写真も添えられています。

こちらの「カーニバル」と言われているところでは、変人たちが、石を投げ、壁にグラフィティを書き付け、踊ったり歌ったりしており、そこで扱われている色々な問題は退屈で、少なくとも米国では、言及することすらおぞましいとされています。投資や貿易、金融構造、人権、民主主義、持続可能な開発、ブラジルとアフリカの関係、サービス貿易一般協定(GATS)などをはじめとする、とるに足らない問題です。これらの人々は、ニューヨークに集ったダボスの賢者たちとは違い、「大問題」に対して「深い考えを巡らせ」るわけでもないのです。

こうした幼稚なレトリックは、不安の兆候と思われます。そして、その不安は、故無きものではありません。

ここ「アンチ・フォーラム」に集った変人たちは、「グローバリゼーション」に反対していると決めつけられます。こうしたプロパガンダ戦略は、笑い飛ばし却下しなくてはなりません。正常な人なら、誰も、「アンチ・グローバリゼーション」ではないでしょう。特にこれは、労働運動や左派にとっては明らかです。「インターナショナル」という言葉が、こうした運動の歴史上、全く知られていなかったというわけでもないのですから。実際、世界社会フォーラムは、近代の左派と大衆運動の中から生まれた真のインターナショナルを求める希望を、刺激的で将来性をもったかたちで現実化するものであり、不当な権力中枢のではなく、人々の必要と利益を考慮したグローバリゼーションのプログラムを追求するものなのです。権力を握った人々は、むろん、「グローバリゼーション」という用語を簒奪し、自分たちが推し進める、自分たちの利益を考慮し人々の利益は省みない世界統合の特殊な一形態に限ってのみこの言葉を使おうと欲しています。こうした馬鹿げた用語法がまかり通ると、冷静で公平なかたちのグローバリゼーションを求める人々は、「アンチ・グローバリゼーション」というレッテルを貼られることになります。そして、石器時代に戻りたがっている原始的なものたちとか、貧しい人々を害するとか、そういった聞き慣れた批判の言葉であざけりの対象となってしまいます。

ダボスの賢者たちは、自分たちのことを、控えめに「国際社会」と呼びますが、私は、個人的には、世界的に著名なビジネス紙フィナンシャル・タイムズが使った、「宇宙の主人」という言葉が好きです。この主人たちは、アダム・スミスを尊敬するといっていますから、こうした人々が、アダム・スミスの規程に従うことは予想できます。アダム・スミスは「人類の主人」という言葉しか使っていませんが、それは、宇宙時代が到来する前のことでした。

アダム・スミスがここで言っていたのは、彼の時代の「基本政策設計者たち」、つまり、イングランドの商人と製造業者たちのことです。これらの人々は、自らの利益が「特別に重視される」ことを確保するためには、イングランドの人々も含め、他人に対する影響がどんなに「痛ましく」てもかまいませんでした。国内でも国外でも、これらの人々は、「我々にはすべてを、他のものたちには無を」という「人類の主人たちの野卑な格言」を追求したのです。今日の主人たちが同じ「野卑な格言」を尊重することは驚くに値しません。これらの人々は、ときに変人たちに邪魔されながらも、これを追求しつづけているのです。ちなみに、米国民主主義建国の父たちは、こうした変人たちのことを、「ひどい野蛮人」と呼んでいます。これは、アメリカ合衆国憲法の枠組みを決めるのに主導的役割を果たしたある政治家が、米国の憲法制定会議[1787年フィラデルフィアで開催]における議論で、政府の第一の目的は「裕福な少数者を大衆から保護すること」にあるという点を理解しない、手に負えない大衆を指すのに使った言葉です。

こうした問題については、後ほど再び述べることにしますが、まず、そのまえに、このセッションの議題に直接関係することについて少し述べましょう。それは、「戦争のない世界」と密接に関係しています。人間に関することがらの中に、確信を持って言えることはあまりないのですが、それが可能なときもあります。たとえば、戦争のない世界を実現しなければ、世界は無くなるだろう−ここでの世界とは、バクテリアと昆虫以外の生き物も、多少のちらばりをもって暮らしている世界のことですが−ということは、ある程度の確信をもって言えるでしょう。理由はよく知られています。人類は、自らとそして他の多くの生き物とを破壊する手段を発達させ、そして、この半世紀というもの、それを使う状況に危険なまでに近づいてきたということです。さらに、文明世界の指導者たちは、今や、生存に対するこうした危機を高めることに邁進しており、そして自分たちが何をしているかはっきりと知っているのです。少なくとも、指導者たちが、自分たちの諜報組織や著名な戦略分析家の報告−その中には、破壊競争を強く推奨するものもあります−を読んでいるならば、知っているはずです。さらに不吉なことに、生存よりも「覇権」を優先するという支配的なイデオロギーと価値のフレームワークのもとでは合理的であるような計画が、立案され、実行に移されています。こうしたプログラムの提唱者は、「覇権」こそが自分たちの推進する目標であると率直に述べています。

今後、水やエネルギーをはじめとする資源を巡る戦争が起きかねません。その結果は破滅的なものになりかねません。けれども、ほとんどの場合、戦争は、典型的には、暴力によって創出しなくてはならない不自然な社会構成である国民国家体制を強制することを巡るものでした。何世紀にもわたって、ヨーロッパが最も野蛮で残忍な地域であり、同時に世界のほとんどを征服した第一の理由はここにあります。公式の植民地主義が崩壊してから、ヨーロッパが、被征服地域に国家体制を強制しようとしてきたことが、現在起きている多くの紛争の起源となっています。ヨーロッパが最も好む相互殺戮というスポーツは、第二次世界大戦後中止しなくてはなりませんでした。次の試合が最後となることがわかったからです。

もう一つ、ある程度の確信をもって予想できることがあります。それは、大国間の戦争は起こらないだろうというものです。というのも、もしこの予測が間違っていたりしたら、そのとき、それを告げてくれるものすら誰もいなくなるだろうからです。

さらに、裕福で強力な社会内部の大衆運動が、文明化の効果をもたらしました。「推進者や変革者」たちは、以前ならば可能であったような長期にわたる攻撃をもはや実行できません。40年前だったら、米国が南ベトナムを攻撃したように、人々の抗議行動が高まる前に、相手をばらばらに破壊することができたでしょう。けれども、1960年代の政治的動揺から生まれた文明化の結果、大規模な攻撃や虐殺に対しては広範にわたる反対の声があがるようになりました。イデオロギー・システムも変容し、軍の犠牲者を避けるようになりました(「ベトナム症候群」と呼ばれるものです)。レーガン政権が、中米で、解放の神学を破壊するために、ケネディ=ジョンソンのモデルに倣って中米を直接侵略するかわりに、国際テロリズムという手段を採用したのはこのためです。この成功については、スクール・オブ・ジ・アメリカズが自慢しています。この変化が、1989年に登場したブッシュ一世政権の諜報レビューにも現れています。そこでは、「はるかに弱い敵」との紛争では−むろん紛争を起こすに適切な相手はこうした相手だけですが−米国は「相手を決定的かつ迅速にうち負かさなくてはならない」、さもなくば、作戦は「政治的支持」−もともと薄っぺらなものだと知っているのです−を失うだろうと述べられています。それ以降の戦争はこのパターンに従っていますが、それでも、抗議や反対の規模は着実に大きくなってきました。ですから、複合的な諸変化が起きているのです。

口実が無くなったら、これまでの政策を新たな環境に合わせて進めるために、「ひどい野蛮人」を統制するための新しい口実を調合しなくてはなりません。これは20年前に既に明らかでした。当時、ソ連という敵が国内問題を抱え、もっともらしく脅威として使えるのもそう長いことではないだろうと認識しないことは困難でした。20年前、レーガン政権が、米国外交政策の重点は「テロに対する戦争」であると宣言した理由の一つはここにあります。レーガン政権の穏健派ジョージ・シュルツが述べたように、当時は、「この現代に、野蛮へと後戻りする」ような、「文明そのものに対する邪悪な敵対者」が広める災いの主要な源泉である中米と中東の「テロ」を特に標的としていました。シュルツはまた、解決手段は暴力によるものであり、「外部の仲介や国連、世界法廷といったユートピア的、法的手段」を避けるべきであるとも述べていたのです。雇われ国家と傭兵たちの驚嘆すべきネットワーク−最近の言葉を借りると「悪の枢軸」と言うべきものですが−が、この戦争を、中米と中東、そして他の地域で、どのように進てきたかについて時間をとって説明する必要はないでしょう。

[2001年]9月11日のあと、数ヶ月のうちに、レーガン時代とほとんど同じレトリックを使って、テロリズムに対する戦争が再宣言されたとき、こうしたことすべてが完全に抹殺されていたという点は興味を引きます。米国が、国際司法裁判所と国連安保理(こちらは拒否権が発動されてしまいましたが)により、その国際テロリズムを非難され、それに対して、やめるよう命ぜられたテロ攻撃を急激に増加させることで応えたことさえ、黙殺されたのです。また、今回再布告されたテロリズムに対する戦争を担う軍事・外交部門の指導者たちが、レーガン政権下で第一次対テロ戦争を実行し、中米と中東でテロリズムを実行し残虐行為を進めていたまさにその人々であるという事実も消去されています。こうした問題に対して沈黙が守られていることは、自由で民主的な社会に住む知識階級の規律と服従に対する真の賞賛と言えるでしょう。

「テロに対する戦争」が、今後、介入と残虐行為の口実に使われると考えるのはもっともなことでしょう。それは、米国に限ったことではありません。チェチェンは他の一例です。ラテンアメリカでは、これが予言することについて、ぐずぐず述べる必要はないでしょう。特に、ケネディ政権が、ラテンアメリカの軍を、「西半球防衛」から「国内治安」防衛という婉曲表現のもとで国内の人々に対する国家テロに従事させると決定して以来、ラテンアメリカ中を席巻した弾圧の波の、その最初の標的となったここブラジルでは。これは、今も、大規模に続けられています。とりわけ、1990年代西半球最悪の人権記録を持つと同時に米国の武器と軍事訓練を最も多く受け取っているコロンビアで。このパターンは、主流の学会でも指摘されているほど一貫したものです。

「テロに対する戦争」は、1980年代の第一段階のときも、それが再布告されたこの数ヶ月のあいだも、たくさんの文献が焦点をあてているテーマです。当時も今もそうですが、おもしろいことに、これを巡る評論やコメントは、私たちに、「テロ」とは何かを教えてくれません。私たちが耳にするのは、それは煩わしい複雑な質問だということだけです。これは奇妙です。というのも、米国の公式文書に率直な定義があるからです。テロの単純な定義は、「脅迫や強制、恐怖を植え付けることにより・・・政治的、宗教的あるいはイデオロギー的な性格の目的を達成するために、計算して暴力あるいは暴力による威嚇を用いること」[米軍対テロ概念ガイド]です。テロの定義として十分妥当なものに見えますが、二つの理由で、この定義は採用されません。第一に、この定義はまた、「対ゲリラ戦略」とか「低強度紛争」といった公式政策の定義でもあることです。第二に、そうすると、あらゆる悪しき答えを導いてしまうことです。改めて検討する必要もないほど明らかな事実ですが、驚くほど効果的に黙殺されている点です。

最も際だったテロの事例を除外するように「テロ」を定義するという問題は、確かに煩わしく複雑なものでしょう。けれども、幸いにして、簡単な解決法があります。「テロ」を、<彼ら>が<我々>に対して行うテロと定義するのです。テロに関する学術文献やメディア、知的な雑誌を見ると、ほとんど例外なしにこの定義が通用していることがわかります。そこからはみ出すと、大きな怒りを引き起こします。さらに言うと、この定義は恐らく普遍的なものです。南米の将軍たちは「外部の指示を受けたテロ」から人々を守っているのでしょう。ちょうど、日本が満州で、そしてナチが占領下ヨーロッパで、テロから人々を守っていたというのと同様です。例外があるとしても、私は目にたことがありません。

「グローバリゼーション」、そして、グローバリゼーションと戦争の脅威−おそらくは最終戦争の脅威−との関係に話を戻すことにしましょう。

宇宙の主人たちがデザインした「グローバリゼーション」の一バージョンは、当然ですが、エリート層の広い支持を受けています。いわゆる「自由貿易協定」−ウォール・ストリート・ジャーナル紙はより正直に「自由投資協定」と言っていますが−も同様です。これらについてはほとんど報道されず、決定的な情報は伏せられたままです。たとえば、10年たったあとのNAFTAに対する米国労働運動の立場や、それと同様の、米国議会自身の調査部門(OTA:The Office of Technology Assessment[技術評価局])の結論は、いまもって、反対派の情報源以外のところでは公表されていません。また、これらの問題が選挙戦で話題にのせられることもありません。これにはもっともな理由があります。人々は、情報が入手できたら反対するだろうことを、主人たちはよく知っているのです。一方、お互いのあいだで話をするときには、主人たちは率直です。ですから、数年前、議論なしにそして人々に伝えずに議会が「可」(理論的には「否」も)の投票を行うことが議会に許されるだけで、大統領に国際経済体制を発効する権限を与えるという提案は、膨大な人々の圧力により、米国議会で否決されました。エリートのほかの部門と同様、ウォール・ストリート・ジャーナル紙は、民主主義を抑圧するのに失敗したことに狼狽しました。けれども、この出来事は、問題の所在を示しています。こうしたスターリニスト風のやり方に反対する人々は、一般の人々という「究極の武器」を手にしているので、人々に物事を知らせてはならないというわけです。これは、反対派を投獄したり暗殺したりするだけですますことができない、より民主的な社会では、特に重要です。米国の軍事援助を最も多く受けている国々−エルサルバドルやトルコ、コロンビアが最近そして現時点での筆頭国ですが−とは、その点が異なります(軍事援助額としてイスラエルとエジプトは例外とします)。

この何年も、どうして人々が「グローバリゼーション」にこんなに強く反対するのか不思議に思う人がいるかも知れません。私たちが常日頃から知らされているように、前例のない繁栄を謳歌しているこの時代に、こうした反対の声は奇妙に見えます。特に、「夢物語のような経済」を享受している米国では。ニューヨーク・タイムズのアンソニー・ルイスは、1年前に、1990年代、米国は「アメリカ史上、いや、世界史上、最大の経済ブーム」を謳歌してきたと述べています。尊敬される議論の範囲で最も左の見解を繰り返したものです。むろん、問題があることも認められます。経済の奇跡から取り残された人々がいて、善良な我々は、それについて何かしなくてはならないというのです。こうした問題は、深淵で煩わしいジレンマを反映しているとされます。「グローバリゼーション」がもたらした急速な成長と繁栄は、それに伴って、不平等の増大ももたらしているということです。それというのも、すばらしいギフトとチャンスを利用する技術のない人々がいるからです。

こうした説明があまりにあたり前に繰り返されるので、これが現実と似ても似つかないことは見落とされてしまうかも知れません。事実は、「奇跡」のあいだじゅう広く知られていたのですが。1990年代後半の短い経済ブームまで(このブームは、ほとんどの人にとってその前の停滞と沈下を相殺するものではありませんでしたが)、「咆吼する90年代」の米国一人当たり成長は、他の産業諸国とほぼ同じで、いわゆる「グローバリゼーション」以前の第二次世界大戦後25年間よりも、そして、戦時中の、半統制経済のもとでの米国最大の経済ブームよりも、はるかに低いものでした。それでは、どうして、繰り返しなされる説明が、論争の余地なき事実と、こんなに大きく異なっているのでしょうか。その答えは、単純さそのものにあります。社会のごく小さな一部門にとっては、1990年代は実際に大きな経済ブームだったのです。そして、その部門には、たまたま、他の人々に楽しいニュースを知らせる人々も含まれていました。ですから、こうした人々を不誠実と非難するわけにはいきません。これらの人々には、自分たちが言っていることを疑う理由はないのです。自分たちが寄稿する雑誌を常日頃から読んでいるこうした人々にとって、そこに書かれていることは自分たちの経験と合致しているのです。編集室やファカルティ・クラブ、そして今賢者たちが出席しているくだんの会議のようなエリートが集う会議、あるいはこうした人々が夕食をとる優雅なレストランで出会う人々も同様です。違っているのは、世界のほうであるに過ぎないというわけです。

もう少し長い歴史の記録に目を向けてみましょう。国際的な経済統合は−中立的な意味での「グローバリゼーション」の一局面に過ぎないものですが−、第一次世界大戦前に急速に進み、両大戦間の時期に停滞するかあるいは後退するかし、第二次世界大戦後に再開しました。全体として、現在は、一世紀前のレベルに達しようとしているところです。構造はいっそう複雑ですが。いくつかの点では、第一次世界大戦前のほうがグローバル化は進んでいました。一つの証拠は、「労働の自由な移動」です。これは、アダム・スミスにとって自由貿易の基礎でした。今、彼を崇拝している人々にとってはそうではありませんが。別の点では、グローバル化は現在のほうがはるかに進んでいます。一つの非常に顕著な例は−これが唯一というわけではありませんが−短期投機資本の流通です。これは、過去のいかなる時代をもはるかに凌いでいます。この違いは、宇宙の主人たちが好むグローバリゼーションのバージョンにおける中心的性格を反映したものです。主人たちの基準をも越えるほどに、資本が優先され、人々が付随的なものと見なされています。

メキシコと米国の国境は、その興味深い例です。ほとんどの国境と同じように、この国境は、征服の結果作られた人工的なもので、様々な社会経済的理由から、双方向に透過的なものでした。この国境は、NAFTA発足後、「労働の自由な移動」を阻止するために、クリントンによって軍事化されたのです。NAFTAがメキシコにもたらすだろう影響を考えると、これは必要なことでした。つまり、ほとんどの人々に破滅をもたらす「経済の奇跡」から、人々は逃げ出そうとするからです。同じ時期に、既に非常に自由だった資本の流通はさらに加速され、それと同時に「貿易」と呼ばれるものも促進されました。この、「貿易」と呼ばれるものの3分の2は、専制的な私企業が中央集権的に管理しており、この比率はNAFTA以前の2分の1からさらに増えたのです。これを「貿易」と呼ぶのは教条的な決めつけです。私が知る限り、実際の貿易に対するNAFTAの影響は検討されていません。

グローバル化を測定するよりいっそう技術的な尺度として、同一価格と賃金を保持する国際市場への一元化があります。これは、いささかも実現していません。少なくとも収入については、逆のことが起こっているというのが真実に近いでしょう。どのように測定するかに依存しますが、不平等が国内的にも国家間でも増大したと信じるに足る十分な理由があります。こうした事態は今後も続くと予想されます。米国の諜報機関は、最近、大学と私企業から専門家の参加を得て、2015年を予測する報告書を発表しました。そこでは「グローバリゼーション」が予定通り進むと予測し、「その発展は、継続的な財政不安と経済的分断の拡大を伴う多難なものとなろう」と述べています。これは、安定がさらに失われ、技術的な意味でのグローバリゼーションが退行するということです。むろん、教条的な意味でのグローバリゼーションは進むということですが。

宇宙の主人たちが言う意味での「グローバリゼーション」と戦争が起きる可能性の増大とが明瞭に結びつくのはこの点においてです。軍事政策立案者たちも同様のことを予期しており、率直に、大規模な軍事力拡大を進めているのにはそのような予測が背景にあると説明しています。2001年9月11日以前でさえ、米国の軍事支出は、同盟国と対立国のすべてをあわせたよりも大きかったのです。9月11日のテロ攻撃は軍事支出を急激に増加させるために利用され、これは私企業経済部門の中核を喜ばせました。最も不吉な作戦は、「テロと戦う」という口実で推進されている、宇宙の軍事化でしょう。

こうした計画を進める理由は、クリントン時代の文書に説明されています。第一の理由は、「持てるもの」と「持たざるもの」との間の分断が増大することです。これは、経済理論には反しますが、現実とは合致しています。「持たざるもの」、すなわちこの世界の「ひどい野蛮人」は、破壊的になるかもしれないので、統制しなくてはならないのです。技術的な用語で「安定」と呼ばれるものを保つため、つまり、主人の命令に従わせるためです。このためには暴力の手段が必要となり、そして、米国は、「自己利益から、世界資本主義体制の安寧に対する責任を自らに負っている」ので、それをはるか先頭に立って牽引しなくてはならないのです。私がここで引用したのは、外交歴史家でCIAの上級歴史家でもあったジェラルド・ヘインズによる、1940年代の米国政策立案に関する専門的研究です。通常兵力と大量破壊兵器の圧倒的優勢だけでは十分ではありません。新たなフロンティアへと進み、これまでは守られていた1967年の宇宙条約を軽視し、宇宙の軍事化を進めなくてはならないのです。米国の意図を見てとった国連総会は、宇宙条約を何度か再確認しましたが、ほとんど米国一国のみが、参加を拒否しました。さらに、昨2001年の国連軍縮会議で、米国政府は、この問題の交渉を妨害しました。いつもと同じ理由で、米国では、これらすべてはほとんど報道されませんでした。「高等知性」に関する生物学唯一の実験結果たる人類の生存に終止符を打つかも知れない計画を市民に知らせてはまずいのです。

よく知られているように、こうした計画により利益を得るのは軍事産業です。けれども、この言葉は誤解を招きやすいことに注意する必要があります。近現代史を通して、ことに第二次世界大戦後に顕著ですが、軍事体制は、コストとリスクとを社会に負担させる一方で利益を私企業に与えるメカニズムなのです。いわゆる「ニューエコノミー」は、かなりの程度、米国経済のダイナミックで革新的な国営部門から産み落とされたものです。生物科学に対する公共投資が急速に増大した第一の理由は、めざとい右派が、経済の先端はそうした公的イニシアチブに依存していると理解したことにあります。「バイオテロ」という口実のもとで、大規模な増大が計画されています。これは、ロシア人がやってくるという口実のもとで、そしてそれが通用しなくなってからは、説明もないままにすぐさま採用された、第三世界諸国が「技術的に洗練している」という1990年代の公式見解の口実のもとで、人々がニューエコノミーへの投資をするようだまされたのと同様です。国際経済合意の一部に国家安全保障上の例外が組み込まれなくてはならない理由もここにあります。それはハイチにとっては助けとなりませんが、貧者に過酷な市場原理を押しつける一方で富者には看護国家をという伝統的な原則のもとで米国経済が発展するためには有益です。この原則が「新自由主義」と呼ばれるものですが、あまりよい言葉ではありません。というのも、これは何世紀も前から続く古い主義であり、また、古典的な自由主義者にとってはスキャンダラスなものだろうからです。

こうした公共支出が有益であることもよくあると言う人がいるかも知れません。そうかも知れないし、そうでないかも知れません。はっきりしているのは、主人たちが、民主的選択を恐れているという点です。これらすべては、一般の人々からは隠蔽されており、その一方で、計画に参加するものたちは、非常によくこれを理解しているのです。

宇宙を軍事化することにより暴力の最後のフロンティアへ進もうとする計画は、「ミサイル防衛」という偽りの言葉で表現されています。けれども、歴史に注意を払う人ならば誰でも、「防衛」という言葉を耳にするときには「攻撃」について考えなくてはならないことを知っています。今回も例外ではありません。目的は率直に公にされています。「世界的支配」、「覇権」を維持することです。様々な公式文書は、はっきりと、目的は「米国の利益と投資を守り」、「持たざるもの」を統制することであると強調しています。今日、そのためには宇宙の支配が必要なのです。ちょうど、過去に、最も強力な国家が、「自らの商業利益を守り促進する」ために、陸軍と海軍を創設したのと同様に。米国が他をはるかに引き離しているこうした新たなイニシアチブが、生存への深刻な脅威となっていることは理解されています。そしてまた、国際条約によってこれを阻止できることも。けれども、既に述べたように、覇権は生存よりも上位の価値であるという価値計算は、歴史を通じて、権力を握る人々の間に広く受け入れられていたものなのです。変わったことはと言えば、今日賭けられているものは、はるかに重大なことだという点です。恐ろしいまでに重大なのです。

ここで大切なのは、教条主義的な意味での「グローバリゼーション」を成功させることが、瞬間的大量破壊を可能にする攻撃兵器のために宇宙を利用するプログラムを進めることの、主要な理由となっているという点です。

「グローバル化」と、1990年代の「アメリカ史上、いや、世界史上、最大の経済ブーム」に話を戻すことにしましょう。

第二次世界大戦以来、国際経済は2つの局面を経てきました。1970年代前半までのブレトン・ウッズ体制と、それ以降の、ブレトン・ウッズ体制における為替レートの調整と資本移動の統制の廃止を伴う時期です。「グローバリゼーション」と言われるのは、この第二期で、これは「ワシントン合意」の政治的な新自由主義と関係しています。この二局面は大きく異なっています。第一期は、しばしば、(国家)資本主義の「黄金期」と呼ばれます。第二期は、標準的なマクロ経済的指標の顕著な失速を伴っていました。すなわち、経済成長率、生産性、資本投資、さらには世界貿易などです。さらに、非常に高い金利(これは経済に打撃を与えます)、通貨保護のための大量の非生産的な金融備蓄、金融不安定化の増大をはじめとする、様々な好ましくない結果を生みました。これには、東アジア諸国のように規則に従わなかったことによる例外もありました。これらの国々は、ジョセフ・スティグリッツが世銀の研究報告に書いたような、「市場が最もよく知っている」という「宗教」を崇拝しませんでした。ちなみに、スティグリッツは、その直後に世銀の主任経済研究員に任命されましたが、その後解任されました(そしてノーベル賞を受賞しました)。東アジアと対照的に、最悪の結果は、規則が厳密に適用された地域に見ることができます。ラテン・アメリカがその一つです。この事実は、広く認められています。たとえば、ラテン・アメリカとカリブ地域のための経済委員会(ECLAC)の委員長ジョセ・アントニオ・オカンポも、1年前のアメリカ経済協会の講演でこれを指摘しています。「約束の地は蜃気楼である」と彼は述べました。1990年代の経済成長は、第一期の30年間になされた「国家主導発展」をはるかに下回っていました。彼もまた、世界中で、規則に従うことと経済的結末との間に相関があることを指摘しています。

そこで、深淵かつ深刻なジレンマについて考えてみましょう。つまり、グローバル化がもたらした急速な成長と大きな繁栄は不平等をもたらした、それというのも、それを活用する技術のない人々がいるからだ、というジレンマのことです。実際には、これはジレンマではありません。急速な成長と繁栄が神話に過ぎないのですから。

多くの国際経済学者が、第二期における経済不振の大きな原因は資本の自由化にあると考えています。とはいえ、経済は複雑なもので、あまりよくわかっていませんから、因果関係の認定には慎重にならなくてはなりません。それにしても、資本自由化の帰結の一つは比較的明確です。民主主義を切り捨てるということです。ブレトン・ウッズ体制の設計者はこれを理解していました。ブレトン・ウッズ合意が資本の規制の上に成り立っていた理由の一つは、それにより、政府が、社会民主的政策を遂行できたからです。社会民主的政策は人々から大きな支持を得ていたのです。一方、資本の自由な移動は、政府の決定に対して「拒否権」を有する、いわゆる「実質的な上院」を創生し、それにより政府の政策オプションはひどく制限されます。政府は、これにより、「二重有権者」に直面することになります。すなわち、投票をする人々と、そして、政府の政策に対して「その時々に投票」(これは金融体制に関する技術的研究の言葉を引用したものです)を行う投機家です。裕福な国々においてさえ、私的有権者の力が拡大しています。

投資家の権利の「グローバリゼーション」を構成する他の要素もまた、同様の結果を導きます。社会経済的な諸決定は、ますます、説明責任を負わない集中した権力の手に移っていっています。これは、新自由主義的「改革」(プロパガンダ用語であり記述用語ではありません)の基本的な特徴です。民主主義に対する攻撃の拡大は、おそらく、おおやけには議論されないまま、サービス貿易一般協定(GATS)の交渉で計画されたと思われます。「サービス」という用語は、ご存じのように、民主的選択の領域にある、ほとんどあらゆることを指します。保健や教育、福祉、郵便をはじめとする色々な通信、水やその他の資源などなどです。これらのサービスを私企業の手に手渡すことを意味するような「貿易」という言葉にまともな意味を認めることはできませんが、この語は意味をひどく剥奪されているので、この茶番にあうように意味を拡張するのも可能なのでしょう。

昨年4月にケベックで開催された米州諸国サミットにおける人々の大規模な反対行動−これは一年前にポルトアレグレの変人たちにより始められたものです−の一部は、計画されている米州自由貿易地域(FTAA)において秘密裡にGATS原則を強制しようとすることに向けられていました。これらの抗議は北も南も含む広範な有権者によって提起されたもので、みんな、貿易相たちと企業の重役たちが密室で計画していたようなことに強く反対していたのです。

こうした抗議行動はメディアでいつも通りの扱いを受けました。変人たちが石を投げて、大きな問題について思案を巡らせている賢者たちの邪魔をしているというものです。人々が実際に問題として憂慮していることが全く扱われていない点は驚嘆に値します。たとえば、ニューヨーク・タイムズ紙の経済担当特派員アンソニー・デパルマは、GATS合意は、「(WTOによる)商業貿易促進の試みのまわりを渦巻いた公共の論争を全く引き起こさなかった」と述べています。シアトルのあとでさえこうなのです。実際には、数年にわたって、この問題は、主な関心の対象でした。他の場合と同様、この記事も偽りというわけではなさそうです。「奇人たち」に関するデパルマの知識は、メディアのフィルターを通ったものに限られており、そして、活動家が真剣に憂慮している事柄については厳密に禁止しなくてはならないということが、ジャーナリズムの鉄則なのです。そのかわりに、誰かが石を投げている光景が好まれます。この誰かは、警察側の挑発要員かもしれません。

人々を情報から守ることの重要性は、4月サミットのときに劇的なかたちで明らかにされました。米国メディアのすべての編集室には、サミット直前に発表された2つの重要な研究が届けられました。一つはヒューマンライツ・ウォッチのもので、二つめは、ワシントンの経済政策研究所のものです。いずれの組織も不透明なものではありません。研究は両方とも、サミットで大勝利と賞賛されFTAA(米州自由貿易地域)のモデルとされたNAFTAがもたらした結果を、綿密に調査しています。このとき、新聞の見出しには、ジョージ・ブッシュをはじめとする指導者たちが叫んだNAFTAへの賞賛が現れました。これらは、聖書に述べられた真実ででもあるかのように受け入れられたのです。この二つの研究は、どちらもほとんど完全に無視されました。理由は簡単にわかります。ヒューマンライツ・ウォッチは、NAFTAが労働権に及ぼした影響を分析し、参加三国すべてで、労働者の権利が打撃を受けたことを明かしています。経済政策研究所の報告はさらに包括的なもので、3カ国の専門家が執筆した、労働者に対するNAFTAの影響に関する詳細な分析からなっています。その結論は、NAFTAが、参加国すべてで大多数の人々に打撃を与えるまれな合意の一つであるというものでした。

メキシコへの影響は特に過酷で、特に南部で重大でした。1980年代に新自由主義政策が適用されて以来、賃金は低下しました。NAFTA発足以降、この傾向は続き、給与労働者の収入は24%減少し、自営業者の収入は40%減少しました。この傾向は、さらに、給与を得ない労働者の増大により増幅されます。海外投資は増えましたが、総投資は減少しました。というのも、経済が、海外の多国籍企業の手に手渡されたからです。最低賃金における購買力は半減しました。製造業は衰退し、発達は停滞したか、あるいは後退したかも知れません。小さな一つのセクタだけが極めて裕福になり、同時に海外投資家が繁栄を極めました。

これらの研究は、ビジネス紙や専門的研究で報告されていたことを確認しています。たとえば、ウォールストリートジャーナル紙は、NAFTA直後の急落ののち、メキシコ経済は1990年代後半になって急速に発展したにもかかわらず、消費者の購買力は40%低下し、極貧状態で生活する人々は人口増加の二倍の速度で増大し、海外資本の組立工場で働く人々さえ購買力を失っていると述べています。同様の結論は、ウッドロー・ウィルソン・センターのラテン・アメリカ部門が行った研究でも示されています。この研究では、メキシコ企業が融資を受けられず、伝統的農業部門は労働者を切り捨て、労働集約部門(農業や軽工業)は教条システムで「自由企業」と呼ばれているものと国際的に競争できないでいるため、経済権力が大規模に集中化されたと結論しています。農業が打撃を受けるのはいつも通りの理由からです。自営農家は大規模な補助金を受けた米国のアグリビジネスと競争できないからです。この結末は、世界中でよく知られています。

これらのほとんどは、NAFTAを批判する人々により予測されていたものです。その中には、抹殺されたOTA(米国議会技術評価局)の研究も労働運動による研究も含まれています。けれども、批判者たちは、一点について誤っていました。ほとんどの人々は、都市=地方比率の急増を予想していました。何十万人もの農民が土地を追われたからです。けれども、そうはなりませんでした。その理由は、都市部でも状況があまりに悪化したため、都市部からも米国への大規模な人口流出が起きたからのように思われます。越境時に生き残った人々−多くの人々は生き残れませんでした−は、非常な低賃金で、何の保護もなく、過酷な状況で働いています。その結果、メキシコの生活とコミュニティは破壊され、同時に、米国経済は改善されました。ウッドロー・ウィルソン・センターの研究が指摘するように、米国では、「都市中流階級の消費が、米国およびメキシコ双方の困窮した農業労働者から補助を受け続けている」のです。

NAFTA、そして新自由主義的グローバリゼーション一般がもたらしたコストのいくつかはこうしたものですが、経済学者は一般にこれを測定しようとしません。けれども、非常に教条的な標準的評価基準からしても、コストは極めて深刻なのです。

サミットにおけるNAFTAとFTAAへの祝福をこれらによって汚すことは許されませんでした。活動家の組織と関係を持っていない人々は、多くの場合、こうした問題について、自分自身の生活を通して知ることができるだけです。そして、「自由報道」により注意深く現実から守られているため、多くの人々は、歴史上最大の経済ブームに対する祝福に参加できない以上、自分たちは何らかの失敗を犯したのだろうと考えてしまいます。

世界で最も裕福な国のデータはさらなる教訓となりますが、詳細は省きます。この図式は一般性をもつものです。むろん、多少の変異はあり、また、既に述べたような例外もありますが。そして、標準的な経済指標から離れると、状況はさらに悪いことがわかります。コストの一つは、既に述べましたが、軍事政策立案者たちの理屈に含意されている、生存への脅威です。ほかにも沢山あります。一つだけあげるなら、ILO(国際労働機構)は、深刻な心理的健康障害が「世界中で流行」していると報告しています。これはしばしば職場でのストレスと関連しており、工業諸国にとって大きな財政負担となっています。大きな要因は、「グローバリゼーション」により「職業の安定がなくなり」、労働者への圧迫が増大し、労働負荷が増大していることにあります。これは、特に米国で顕著です。これは、「グローバル化」のコストなのでしょうか。一つの観点から見ると、これは、むしろグローバル化の最も魅力的な一面です。アラン・グリーンスパンは、米国の経済実績を「途方もない」と述べたとき、特に、職業不安定化の感覚が増大したことを強調していました。これによって、雇用者はコストを削減できます。世銀も同意しています。世銀は、「労働市場の流動化」が「賃金低下と解雇の婉曲話法として・・・悪名を馳せた」ことを認めながらも、それにもかかわらず、「世界のあらゆる地域でそれは必須である・・・社会サービスと労働契約の関係を廃止することと同時に、労働者の流動性と賃金自由化に対する制約を取り除くことが、最も重要な改革の中に含まれる」と述べています。

つまり、労働者を解雇し、賃金を引き下げ、労働者の利益を損ねることはすべて、現在流布しているイデオロギーによると、経済の健康にとって決定的に大切な貢献なのです。

規制のない貿易は企業にさらなる利益をもたらします。多くの−おそらくはほとんどの−「貿易」は、様々なメカニズムを通して中央集権的に管理されています。企業内移転、戦略的同盟、アウトソーシングなどです。貿易地域が広くなれば、企業は、地域あるいは国の共同体に対して責任をとる必要が少なくなるので有利です。これは、収入における労働者の取り分を減らす新自由主義政策の効果をさらに増進します。米国では、1990年代に、第二次世界大戦後初めて、収入の分配が、労働者ではなく、資本に多く与えられることになりました。貿易には、測定されないたくさんの費用が伴います。エネルギーの社会的補助、資源の劣化といった外部性は考慮されないのです。これも企業に利益をもたらしますが、ここでもまた注意が必要です。最も声高に賞賛されているのは、貿易が産業特化を促すということですが、これは選択肢を狭めます。「発展」とも言われる、相対的に有利なところへ移行する選択肢も狭められるのです。選択と発展はそれ自体が価値ですから、それを妨害することは、大きなコストとなります。アメリカ植民地が200年前にWTO体制を受け入れるよう強要されていたなら、ニューイングランドは相対的に有利だった魚の輸出を行っていたでしょう。当然、織物は製造していなかったでしょう。米国の織物産業は、英国製品の流入を防止するための法外な関税で守られていたのですから(これは英国自身がインドに対処するために用いたやり方です)。鉄鋼をはじめとする様々な産業についても同様です。それは現在まで続いており、レーガン時代の強力な保護政策はとりわけ顕著でした。経済の国有部門を考慮しないとしてもそうなのです。これについて言うべきことは沢山あります。このお話の大部分は、経済指標の選択的適用により仮面の裏に隠されていますが、経済史家や技術史家にはよく知られていることです。

ここにいる全員がご存じのように、ゲームの規則は、貧しい人々に対して有害な影響を与えがちです。WTOの規則は、裕福な国すべてが現在の発達段階に到達するために用いてきた手段をすべて禁じながら、同時に、裕福なものたちに対しては、前例のないほどの保護手段を提供しているのです。たとえば特許体制です。これは新たな方式でのイノベーションや開発の道を閉ざし、しばしば膨大な人々の貢献により開発された製品に対する独占的な価格付けを企業に許すことで、大規模な利益を企業が得ることを可能にするものです。

伝統的メカニズムの現代版のもとで、世界の半数の人々は、実質的な受け手の立場にあり、その経済政策は、ワシントンの専門家により運営されています。けれども、裕福な国々においてさえ、人々に応えなくてはならないかも知れない政府から、そんな欠点をもたない私的専制体制へと意思決定の権力を移行することにより、民主主義は攻撃にさらされています。「人々を信じよう」とか「国家を最小に」といった冷笑的なスローガンは、現状では、人々の手によるコントロールを増大させることを求めているのではありません。それは意思決定を政府から別の手に手渡すものですが、その手は「人々」のものではなく、集合的法的主体たる経営陣のものです。こうした経営陣は人々に対する責任を負わず、内部構造としては実質的に全体主義的であり、これは1世紀前に保守派が「アメリカの企業化」に反対したときとあまり変わっていないのです。

ラテン・アメリカの専門家と世論調査組織は、ここ数年にわたり、ラテン・アメリカで公式の民主主義が広まるにつれ、民主主義に対する幻滅も増大していることい気付いています。この「警戒を要する傾向」は続いており、分析家は、そこに、「経済的状況の悪化」と民主的機構に対する「信頼の欠如」のあいだの連関を見て取っています(フィナイシャル・タイムズ紙)。アティリオ・ボロンが数年前に指摘したように、ラテン・アメリカにおける民主化の新たな潮流は、新自由主義的な経済「改革」と機を一にしており、後者が効果的な民主主義を妨げているのです。これは、世界中に色々なかたちで広がっている現象です。

米国でも同様です。2000年11月の「盗まれた選挙」に関してどよめきの声があがりましたが、同時に、人々は気にしていないのではという驚きもありました。この理由らしきものは世論調査研究が示唆しています。それによると、選挙前夜において、人々の4分の3が、選挙はおおむね茶番であると見なしてたのです。財政的な支援を提供している人々と政党の指導者、そしてPR業界がやっているゲームに過ぎないというのです。PR業界は、「選挙に勝つためにほとんどあらゆること」を候補に言わせるため、仮に言っている内容が理解可能なものだったとしても、ほとんどそれについては信じられないのです。ほとんどの問題を巡って、有権者は、候補の立場を理解できていません。これは、有権者が馬鹿だったり理解しようとしていなかったからではなく、PR業界が意図的にそのように仕組んだからです。ハーバード大学が行った、政治的態度をモニターするある研究は、「無力感は危険なまでに高まっている」ことを発見しました。人々の半数以上が、自分たちのようなものは、政府がすることについてほとんどあるいは全く影響を与えないと述べており、この態度は、新自由主義の時期に急増したのです。

一般の人々が(経済的・政治的・知的)エリートたちと違う意見を持つような事柄のほとんどは、議題からはずされます。特に、経済政策を巡る問題です。あたり前のことですが、ビジネス界は企業主導の「グローバル化」を圧倒的に支持しています。「自由貿易協定」と呼ばれる「自由投資協定」やNAFTA、FTAA、GATSをはじめとする、富と権力とを人々の手の届かないところに集中させるようなメカニズムです。同様にあたり前のことですが、「ひどい野蛮人」は、一般に、巧妙に隠されている重大な事実を知らなくても、ほとんど本能的に、これらに反対します。そのため、こうした事柄は政治キャンペーンには適切でないということになり、したがって、2000年11月の選挙では持ち出されなかったのです。たとえば、予定されていた米州サミットやFTAAなどの、人々にとっての大きな関心事についての議論を見つけるのは非常に困難です。有権者は「政策問題」ではなく、PR業界が「個人的資質」と呼ぶものに関心を向けさせられていました。投票を行った人口の半分の人々−裕福な層に大きく偏っていたのですが−のうち、自分の階級的利害がかかっていると認めた人はそれに投票しました。圧倒的多数は、二つのビジネス政党のうちの、より反動的な方に投票したのです。一方、一般の人々は逆のかたちに二分しました。そのため、非常な接戦となったのです。労働者の間では、銃の所持や「宗教性」といった経済以外の問題が主な選択の要因となりました。それで、人々は、自分の主な関心に反する投票をおこなったりしたのです。むろん、いずれにせよ、ほとんど選択の余地はないと考えてのことでしょうが。

民主主義に残されたものは商品のどれかを選ぶ権利であると説明されることになるでしょう。ビジネス界の指導者たちはこれまでずっと、「むなしさの哲学」と「人生における目的の欠如」を人々に植え付ける必要性を説いてきました。「人々の注意を流行の消費というより浅薄な事柄に向ける」必要性です。幼少のころからそうしたプロパガンダの洪水にさらされた人々は、自分たちの人生が無意味で従属的なものであることを受け入れ、自分たち問題を自分たち自身で管理するという馬鹿げた考えを忘れてしまうかも知れません。自分たちの運命を賢者たちにまかせ、そして、政治的領野では、運命を、権力に仕え権力を運営する自称「知的少数派」に任せてしまうかも知れません。

特に20世紀を通してエリートの見解に普通に見られたこうした観点からものを見るならば、2000年11月の米国大統領選挙は、米国民主主義の欠陥を露呈したものではなく、むしろその大勝利と言えそうです。さらに一般化するならば、西半球、そしてその他の地域における民主主義の勝利を讃えるのがフェアなことなのかも知れません。たとえ人々がどのような理由からか、そのような見方をしていないとしても。

こうした体制を強制しようとする闘いは多くの姿を取りますが、決して終わることはありません。そして、実質的な意思決定権の高度な集中が存在する限り、今後も終わらないでしょう。主人たちはあらゆる機会を利用するだろうと予測するのが理にかなっています。現在のところ、その機会とは、テロ攻撃に直面した人々の恐怖と苦痛です。これは、新たな技術が広まり、西洋が暴力の占有を失い、ただ圧倒的な優勢を保っているに過ぎなくなった現在、深刻な問題です。

けれどもこうした規則を受け入れる必要はどこにもありません。そして、世界の命運に関心を持つ人々は必ずや別の道を選ぶでしょう。特に南における投資家の権利の「グローバル化」に反対する人々の闘争は、心配し防衛的になっている宇宙の主人たちが用いるレトリックに影響を与え、そしてある程度まではその実践にも影響を与えています。人々の運動は、規模においても、その構成の広がりにおいても、そして国際的な連帯という点でも、かつてないほどのものになっています。ここでの会議はそれを決定的に重要なかたちで示しています。かなりの部分、未来はこうした人々の手にかかっています。何が問題になっているのか、どんなに深刻に見積もっても見積もりすぎることはないでしょう。

もし関連情報にご関心がありましたら、 アメリカが本当に望んでいること、 アメリカの人道的軍事主義 も併せてお読みいただけると幸いです。

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  益岡賢 2002年7月2日/2002年7月23日改訳

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