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(回答先: 日本の教育 投稿者 baka 日時 2002 年 11 月 24 日 17:45:40)
bakaさん、こんばんわ。
カソリック法皇庁が信仰者に聖書を読ませなかったり、高等教育がかつて特定階層の独占物であったり、文字の読み書き能力が知識と支配を独占する源泉であったという“知”の特質は、近代社会でも基本的に受け継がれていると考えています。
その一方で、近代社会では、すべての人が契約主体者になれる読み書き能力を持っていることがその価値観を支える基礎となるものであり、生産手段の高度化や商業・金融活動の複雑化から論理思考能力も求められます。
読み書き能力や論理思考能力は必要だが、自分たちの存立基盤を脅かすようなそれらは認めないというのが支配層の本音でしょう。
論理思考能力は、現在の経済社会の価値観の枠内で発揮して欲しいと思っているはずです。
中教審の動きに見られる公的教育のレベル低下策動と私的教育機関で教育を受ける子弟をエリートと考える教育の2極化状況は、そのような本音をうまく政策に持ち込んだ例だと思っています。
大学の独立行政法人化が少子化が進む状況で実現されれば、“社会の需要”にそぐわない卒業生を送り出す(国公立)大学は存続が危ぶまれることになります。
ことさら“政治的介入”をしなくても、“社会の需要”が大学の教育内容を規定してくれます。(私立大学は、そのような誘導をとっくに受けており、少数の“進歩派”大学との棲み分けが出来上がっているようです)
アカデミズム全体に否定的な考えを持っていますが、学問の自立性を楯に“社会の需要”にそぐわない説明体系を教えることが維持されているほうが、知的情況の危険性を緩和することができると思っています。
今という現実に役に立つ理論だけが必要なのではなく、多数派理論に懐疑を唱えたり、別の枠組みで説明する理論も社会的に必要なことだというコンセンサスが重要です。
(これは、社会科学のみならず自然科学についても言えることです)
レールが敷かれているのは10km先までなのに、無限のレールが敷かれていると思い込んで走っていけば、どのような状況に陥るかは自明です。
無限のレールが敷かれているとしても、レールは有限だと警鐘を鳴らす考え方があるほうが人間の知恵であり、無謀な動きも抑制できます。
大学入学の目的がより良い経済条件や社会的地位を得ることにほぼなっている現状では、絶滅の危機にある種の保存と同じように、“異端の学説”を保護しなければならない段階に入っていると思われます。
民主主義の原理とも言われている「少数意見の尊重」は、多数派の勢いで社会が壊滅する事態を回避する自然の摂理に相当するものかもしれません。
(「国民が一つになって」という言葉が最近多用されていますが、「国民が一つになる」ことの危険性を70年前に遡ってもう一度考えるべきだと思っています。北朝鮮や独裁を批判している勢力が、「国民が一つになって」と主張していることにおかしさを感じています)