★阿修羅♪ 現在地 HOME > 掲示板
 ★阿修羅♪
次へ 前へ
http://www.asyura.com/2003/dispute5/msg/295.html
「あっしら」考+δ;価値観ではなく、先ずは思惟のありかたであると思います。
投稿者 如往 日時 2002 年 11 月 25 日 20:00:37:

(回答先: 「人は価値観のために死をも厭わず」 投稿者 あっしら 日時 2002 年 11 月 21 日 21:23:31)

 あっしらさん、こんにちは。


 先ずは、あっしら氏が一貫してここで問うているのはある特定の価値観ではなく、実は広い意味での思考方法ではないかと推考しています。必ずしも、氏の思考方法(思惟体系)が十全なものとは、勿論ご自身も考えてはいないでしょう。しかし、私はある種定石として倣うべき視座を具えていることは確かであると捉えています。そして、多分ご本人は相当な苛立ちを覚えつつも、しかし不特定なる他者に対して優しく丁寧に応答されていて、少なからず参考になると感じているのはおそらく私だけではあらぬと思います。
 多くの日本人は相手の思想的背景を知らぬまま、自在に議論ができるほど論理が鍛錬されてはいません。それは戦前・戦後教育に共通した欠落している部分です。歳量のみが吾彼を識別する指標として用いられる慣習が根強く残り、斯様な単なる一つの媒介項に過ぎぬものが、続く思考過程を大きく規定していくと、感性の形相化(構造化=システム化)のプロセスが著しく貧弱なものなることは必定です。互いの多様性を認め合うというよりも、それ以前に各々が自ら多くのFunctionを用いて、多くのParameterを試行してそれらを蓄積する作業が重要です。
 私はこれを理性偏重(一部のNationalistによる批判の対象になります)の近代合理主義に特徴的な思考方法(思惟体系)であるとは考えていません、むしろモノづくりの伝統的な職人の技を形成している真髄と同値の要諦であると思っています。

 ところで、ある時期まで私は天皇(制)を日本の将来を展望するにあたってのFunctionの一つとして捉えていました。無論、ある時点までの歴史を読み解く場合のContextとして重要な結節部になり得たことは確かであると思います。しかし、そもそも現在これほど溶解している日本人の意識状態を、将来像に向けて一つのシナリオに纏めるなど誰にも叶わぬことでしょうし、況してや天皇(制)を本流のContextとするシナリオは時代に逆行するものになっても、最早時代の先取性を求めることは困難であろうと見ています。尤も、すでに時代はある人達が拘泥するContextに随って進むような階梯にはないのかも知れません。
 感性が先か知性が先かと云えば、限りなく感性が先であると思います。しかし、感性も具象化(論理化)されなければ伝達されることはありませんし、自身の感性を正しく伝達せんと企図するならば具象化の技術を鍛錬するのは当然励むべき精進の中です。この点で、天皇(制)擁護論者の言は余りにナイーブに過ぎると感じています。少しばかり頑なであるとCynicismに傾き易く水際で他者を撥ね付けるに及ぶと、まともに議論できない事態にもなりかねず実に痛惜に感じます。仮にもNationalistを標榜される方々にはアジテーションンの語気・語調の強さ・激しさではなく、対論を理性的に粘り強く推進する強靭さを醸成していただきたく期待するものです。

 世界経済支配層ではないもう一つ極に属する私達にとって、限りなく奴隷化・家畜化に到る過程の遅延を図るためにも、あっしら氏が提起されるような新たな時代的解消論は検討もしくは検証に値すると思います。
 氏の[市場=交換状況]の(人智による)制御によって循環のホメオスターシスの創出が可能であるとの展望の基底には、[原則的として、需要が市場を創るのではなく、むしろ供給が市場を創る]との原則が根幹になるとの確信が潜んでいると考えています。それによって、こちら側の極にいて制御する権限も立場にもある人達に対しては、使命感にまで突き抜けるような当事者意識を問おうとされているのだと思います。そして、彼等をバック・アップするのは経営者や消費者として需要側を担う大多数の人達の見識とフィード・バックであることに間違いはないでしょう。

 さて、今の私は、問題解決のためには共産主義的手法も市場主義的手法もどちらも試行すべきであるとの立場をとっています。現代世界ではすでにこれらの手法の複合形が一体となって諸問題の解決にあたっているというのが実状でしょう。
 その中でも、「生産手段の、共有に基づく個人的所有」あるいは「生産手段の個人的領有」は、世界の一極支配化すなわち非対称化の進行に抗うべき、テロルではない極めて根源的で正当な反抗の要衝になると考えています。勿論、過去の共産主義理論の記憶が下敷きになっていることは確かですが、「個人的所有」の概念は資本主義社会の統治理念が齎したものに外なりません。しかし、元々は資本家(経済主体)が自分達のために打ちたてた理念ですから、当然その骨格部分を承継している現行の会社法では、経営政策に波及するまで従業員持ち株比率を引き上げるには到らないのが現実でしょう。また、従業員もまやかしのスットク・オプションの制度に満足しているならば、何時になってもこの新たな生産関係を構築することは難しいと思われます。
 非対称化の進行の方行、つまり桎梏が如何なる情況になるのか、『緑の資本論』の中沢新一はその透徹した眼力に反して楽観的であると思います。他方、『反対称』のロジェ・カイヨワを敷衍するならば、このエントロピーの増大の断続点をまたしても戦争によって清算する愚挙を犯しかねないのが人類の業(カルマ)と言えるかも知れません。
 しかしながらこれを人類の宿命と観じるほど私はまだ往生際がよくありません。「生産手段の個人的領有」をどのように実現したらよいのか、さらに広汎に非対称化に抗うべきあるいは非対称化に伴う軋みを緩和する手立てとしてどんなものが想定されるか、あっしら氏の関心事を中心にお聞かせいただければ幸いに存じます。

 大学時代の頃、家からの送金は殆どが今ではあまり見掛けなくなった現金書留で、銀行通帳で送金を受けているのはほんの一部の学生でした。そのようなことは他所に、講義で教授がこれからの重要課題の一つに貨幣の流通コストの削減があると強調していたのが妙に心に残っています。それから10年ほどでCDシステムが開発され瞬く間にカード時代が到来し、受け付け業務の女子銀行員の姿が急激に少なくなるなど貨幣の流通コストの削減が急進していると見えました。しかし他方で、クレジット経済(?)が大きな利潤を産むという新たな経済領域を形成することにもなりましたが、カード時代以前の様子を知る者としては感慨深いものがあります。 (ちょっとした昔話でした。)


 また寄せさせていただきます。

 次へ  前へ



フォローアップ:



 

 

 

 

  拍手はせず、拍手一覧を見る


★登録無しでコメント可能。今すぐ反映 通常 |動画・ツイッター等 |htmltag可(熟練者向)
タグCheck |タグに'だけを使っている場合のcheck |checkしない)(各説明

←ペンネーム新規登録ならチェック)
↓ペンネーム(2023/11/26から必須)

↓パスワード(ペンネームに必須)

(ペンネームとパスワードは初回使用で記録、次回以降にチェック。パスワードはメモすべし。)
↓画像認証
( 上画像文字を入力)
ルール確認&失敗対策
画像の URL (任意):
投稿コメント全ログ  コメント即時配信  スレ建て依頼  削除コメント確認方法
★阿修羅♪ http://www.asyura2.com/  since 1995
 題名には必ず「阿修羅さんへ」と記述してください。
掲示板,MLを含むこのサイトすべての
一切の引用、転載、リンクを許可いたします。確認メールは不要です。
引用元リンクを表示してください。