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(回答先: あっしら君、価値を語り給え。 投稿者 さる人 日時 2002 年 11 月 21 日 16:04:03)
「さる人」さん、初めまして。
『Re:「恐慌論」』も拝読させてもらいました。
過大な評価と重要な助言(叱咤激励)をいただきありがたいと思っています。
そして、「さる人」さんは、私が拠り所にしている価値観を認識されているのだろうとも勝手に察しています。(もちろん、私が私の価値観と認識している内容と同じという意味ではありません)
正直に言って、バッサリと斬られた投稿に対して、何を切り口にレスを行えばいいものかと呻吟しています。
まず、論理は否応なく価値観を基礎として紡がれるものです。
その意味で、体系的な価値観の表明ではないとしても、書き込みを読まれた方々は、書かれた論理の後ろ(基盤)にある価値観を読みとられていると考えています。
(論理は納得できても、その後ろに隠れている価値観が気に入らないと思われている方もいるのではと推察しています)
次に、けっこう昔から、論理になっていない論理で自説や政策を正当化している人たちが多いことに唖然としていました。
「ためにする論」や「世過ぎ、身過ぎ」ということもあるのだから、本当はまっとうな論理を知っていながら“ウソ”を語っているのだろうとか、“拡声器”(TVや出版などのメディア)を使える人は「都合がいい人」に限られているのだからそんなものだろうと受け止めていました。
(こちらも違った手段での「世過ぎ、身過ぎ」に追われる日々ですから、危険水域でもないし放置しておけばいいかという判断でした)
9・11以降の流れで危機意識を持ちこのサイトで書き込みを始めてから早1年になりますが、「ためにする論」や「世過ぎ、身過ぎ」ではないと思われるのに、そのような論理が提示されているのを散見します。
9・11以降の世界情勢や日本経済の動向を“ヤバイ”状況に陥っていると受け止めています。そして、そのような動きが、論理を中心に推し進められていると考えています。
(イスラムという価値観ではなくテロの危険性を叫び、金儲けできる人が金儲けしてもが悪いことはない価値観をぶつけるのではなくそのような条件の実現こそが国民みんなの生活が良くなる道だといったことです)
そうであるならば、価値観を直接的にぶつけるのではなく、それでは建前として言われることが実現できないという論理を示さなければ、有効なカウンターにならないと考えています。
最後に、「人は価値観のために死をも厭わず」という志向を持った生き物だと考えていることや、価値観への信仰は現実を必ずしも好ましいものに変容できるわけではないという思いがあります。
「人は価値のために死を厭わず」という志向は、ある目的を実現したい人には魅惑的な人々の性向です。
革命家や預言者(宗教家)であれば、自らが語りかける価値観や世界観を多くの人に信じてもらうことで、とてつもない力を獲得することができます。
そして、何人かの革命家や預言者は、獲得した力によって現実を変えることもできました。
しかし、キリスト教・イスラム・プロテスタント宗教改革・フランス革命・ロシア革命・中国革命のどれも、掲げた価値観から乖離した現実を短い期間のうちに生み出したというのが歴史です。
そうなってしまった要因として、現実論理から浮き上がった抽象的理念(価値観)がそれらの運動を支えていたことを指摘できると思っています。
さらに言えば、抽象的な価値観や抽象的な論理は、誰もがすぐに理解できるわけではないので、価値観を信じているつもりが、価値観を語っている人への信仰に転化してしまいがちです。
(個人崇拝や偶像崇拝がはびこる根っこはこのような意識情況だと考えています)
価値観はナマの抽象的なかたちではなく、現実論理に即したかたちで提示すべきだというのが私の価値観でもあります。
例えば、ブランドの洋服を手に入れるとか、いい女と寝ることを至上の価値としている分には、自分の命まで厭わないということはありません。
(そのためにひとの命を奪うことはあるでしょうが、身体がなければ感覚的価値観を充足できないことがわかっているから自分の命は守るでしょう。そこそこの価値意識であれば、対抗倫理や刑罰で防止することができます)
しかし、イスラムを守るとか、共産主義社会を築くことは人類にとって崇高な目的であるといった思念的価値観になると、自他の命を顧みない行動が素晴らしいものになり、それに対抗するための価値観はなかなか提示できません。
(宗教であれば死後の楽園が用意されていますし、唯物論であり無神論である共産主義には革命的ヒロイズムがサポートしています。近代国家も、愛国心的ヒロイズムを用意しています)
現実論理を問いかける行為を通じて自分の価値観が感覚的価値観として広く受け入れられるようになればいいと思いながら、論理に依拠した書き込みを続けています。
それでも、人を思い切った当為に向けさせる動機は、抽象的な価値観だと思っています。
価値観をぎりぎりのところまで感覚的なものや現実論理とし、最後に残ったものを価値観として提示できればとは思っています。