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(回答先: 株価統制令 投稿者 hou 日時 2003 年 3 月 15 日 21:29:14)
http://plaza.rakuten.co.jp/magarian/010003
今度のバブル崩壊と同じ現象は
日露戦争の勝利に酔いしれた明治時代にも、あった。
1906年(明治39年)は、株式の暴騰が続き、
日本中が、日露戦争後のバブル景気に酔いしれていた。
そして、多くの相場師に過酷な運命をもたらす、
1907年(明治40年)の正月がついに巡ってくるのであった。
1906年末、実体経済は、すでに不況に突入していた。
しかし、株価は狂ったような上昇して、誰にも止められない。
1月8日、野村徳七の「相場は、狂せり」の警告が新聞に載ったが
皆が無視して、株価の上昇は続いた。
1月18日、あかぢ貯蓄銀行の新東株大量売りをきっかけに、相場の流れは停止する。
1月21日、株式は、全面安ガラの始まりである。
しかし、それは、その後に続く大暴落の序曲にすぎなかったのであった。
1907年(明治40年)、大阪株式取引所株は、年初の775円から、
年末にはたったの92円と暴落した。
その時の年間暴落率は、空前絶後の88%であった。
日露戦争後のバブル崩壊は、最近のの平成のバブル崩壊よりも、
遥かに劇的な落ち込みだった。
多くの相場師たちがこの暴落によって、運命が変った。
売り方の野村徳七や、後に中ノ島公会堂を寄付した岩本栄之助は、巨万の富を築いたし、
福沢桃介 は、早めに全株を売り切り、実業家への転進を図った。
福沢の弟分の松永安左エ門は、買い方にまわり、60万円の全資産を失った。
もう一人全財産を無くした相場師が今紀文(紀伊国屋文左衛門)と言われた、鈴木久五郎であった。
全盛時代の鈴久は、中国の革命家の孫文の夢に共鳴し10万円(今の価値で10億円程度)の革命資金を寄付した。
強気の一辺倒で買い方にまわった鈴木久五郎は、たちまち、資金が枯渇して
6万町歩の山林、州崎の埋め立て予定地、
一度も住めなかった花月花壇などを換金して、買い支えたが、
ただ売り方の餌食となっただけであった。
明石町の本宅、亀島町の二号宅もついに人手に渡り、
本妻・お豊は、愛想をつかせ出て行った。
全財産を失った鈴木久五郎は、妾のお花と
家賃4円50銭の巣鴨のみすぼらしい借家に移った。
それから五年後、辛亥革命を成功させた中華民国前大統領・孫文が来日した。
国賓の孫文は、無一文の恩人・鈴木久五郎をホテルに招き、最高の礼を尽くしてもてなし
「昔、ご恩になった御礼がしたいのですが」と切り出した。
天下の鈴久は、ここで相場師の意地をみせ、
本当は金の無心をしたい気持ちをぐっと抑えて孫文に言い放った。
「もう直ぐ、子供が生まれます。あなたのお名前の一字を賜りたく存じます。」
彼の悲惨な境遇を知る孫文は、深く感銘を受け、孫文の文”の字を与えた。
かくて、偉大な革命家を名付け親に持つ娘、文子が生まれたのであった。
相場の世界では、ひとつ大きな相場があると
そこには必ず勝者と敗者が生れる。
それは、恰も戦国の世の国盗り合戦の武将達の争いに、似ている。
勝たねば、殺された。
今の様な株式会社の社長なら、責任を取って辞表を出し、
退職金などをコッソリ貰って引退すれば、それで済むが
昔はそれを許さなかった。
そごう”の倒産の時だって、そのオーナーの身の処し方は、
私などの貧乏相場師から見ても、醜く見苦しかった。
生きている人だから、あまり書かないけど、
最近の経営者達の「責任をとって、、」という言葉の
何と虚ろで卑怯に響くことか!
事情は違うけど、雪印の時だって、経営者の質がヒドスギル。