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株価統制令
http://www.asyura.com/2003/bd24/msg/1036.html
投稿者 hou 日時 2003 年 3 月 15 日 21:29:14:

http://www.geocities.co.jp/WallStreet-Euro/1818/c/soro23.htm
忍び寄る戦争の影

  相場では「戦争は買い」というのが定説みたいになっていたが、大東亜戦争、いや太平洋戦争の時ばかりは
大ちがいだった。日本全体が元も子もなくしてしまう結果になった。買いも売りもない。
これより前、昭和十二年に日支事変が勃発した際にも相場は暴落し、一時は半恐慌のような状態が出た。
そこで、大日本証券投資会社や生保証券といった買い支え機関が出て、やっと株価が落ちついた、
という先例もある。元来、自らが戦争に参加、勝つことに全力を注ぐとなれば、
あらゆるものは犠牲にされるのだから、相場どころではない。

  それでも南京が陥落した時には、提灯行列までくり出してのお祭りさわぎ、相場も沸いた。
これを世間では興亜相場と呼んだ。とはいえ、これも一刻のこと、再び買い支えのために日本証券投資、
さらに日本協同証券がどうしても登場せざるをえなくなった。その上、「株価統制令」なる法律も出来て、
相場は何と統制下で動くことになってしまった。そして、太平洋戦争がはじまるや、さらに統制の色はこくなり
自由主義経済なればこその株価が上下ともに抑えられる有様。
もはや、相場もおしまいである。新聞やラジオで流れるニュースはどれもこれも大きな戦果、
わが方の損害軽微なりといった景気のよいものだったが、実際の戦況は日本にとって次第に不利になっていった。
実態をうらづけるかのように、市場では売りものがちになるばかりであった。
よく相場が先見性を発揮するというが、きびしい言論統制のもと、おそろしいものである。

  そして、昭和十八年の三月、短期清算取り引きで新東の取り引きが停止された。新東は戦前の代表的指標株、
人気株中の人気株であった。兜町の灯が消えた。急騰、急落するたびに勝利と敗北の人生模様を描き出した、
そのあまりにも華やかな、波乱にみちた新東の姿はついに二度とみられなくなってしまったのである。
そして、この年の夏には、明治十一年六月以来、六十五年にわたる歴史をもった東京株式取引所は解散し、
日本証券取引所となった。短期取り引きは全面的に廃止、長期取り引きは清算取り引きとして残された。
この清算取り引きも戦後、取引所再開の時GHQによって否定され、
以後何回となく業者からの要求があったにもかかわらず、復活するにいたらずに終わった。
この結果、戦前、一夜成金、一夜乞食とまでいわれた投機色の強い兜町(しま)の性格は変わった。

  それはともかく、株式市場ではとめどなく流れ出てくる売りものを、戦時金融公庫がさらいはじめた。
銘柄別に買い注文をはわしてどんどん買った。開店休業状態の業者はこの買い注文をもらい、
一息ついていたのである。
一人また一人、兜町から若い人達が戦争に出ていく。私はもうお役に立つ年齢でもない。
さりとて、何も出来ないと言ってすましている気にもなれなかった。
相場の上ではそれこそ血を流す戦いを何度となくくり返してきたが、もはや敵、味方なしである。
出征されて行く方、一人一人に心ばかりの餞別を差し上げることにした。
たしか金額は十円ほどだったと思うが、数は多くかなりの金額になった。しかし最後までつづけた。

  商売の方は米はもちろんのこと、株の方も先細りでサッパリである。
戦争のあともそうだったが、本職以外にあれこれ手を出してみた。
そのうちの一つに、タクシー会社があった。当時うちの営業担当の責任者だった上西康之君
(現日栄証券会長)と相談して、東京自動車の株を買い集め、自動車も集めた。
しかし、運転手は戦争にとられていなくなるし、ガソリンも配給ではままならず、
結局、波多野元治さんに譲ってしまった。これが、今の国際自動車の前身である。
ちょうど、上西君が体を悪くして、仙台に転地療養に行っていたので黙って売ったが、
あとでもったいないとむくれられたのを覚えている。

  それと、軍からの意向もあって、海南拓殖と東亜飛行機という会社も手がけた。
海南拓殖は占領した海南島を軍の食料補給基地にしようと、開拓事業をやるために作ったものだった。
これには家内の長兄、萩原弥六さんに責任者になってもらい、九万町歩ほどの土地を開発、米づくりをやった。
この時、私は行かなかったが、時沢郁哉、山崎孝志の両君は海南島に何べんも出かけてくれた。
東亜飛行機の方はもともと清水建設がやっていたものを引きうけたもの。立川で飛行機の尾翼作りをした。
とにかく、学徒動員による工員さんを七百名ほど預かり、見よう見まねで、
一生懸命国策に協力したのである。機体修理も引き受けた。
こんなわけで、私は満員電車で午前中は東亜飛行機に午後からは兜町で仕事をするようなことになった。

  この頃になるといよいよ、私も区切りをつけなくてはと思い、相場の方は売るものは売り、手仕舞いする、
また店のものには一応退職金を払った。たしか、二度に分けて出征していたものにも全員払ったように思う。
そして、銀行から借りていた金もすべて返済した。
もはや、明日はどうなるかわからぬ時である。きちんとしておくにこしたことはない。
連日連夜、東京はB29の空襲を受けるようになった。もはやウチがやられるのも時間の問題であった。

  そして昭和二十年の三月十日の午前二時ごろ焼夷弾の雨が降ってきた。一発、二発、つづいて火を吹いた。
もうダメである。だが、息子の富治も、誠三も防空壕から出て、池の水を一生けんめいに家へかけている。
もう無駄だ、隣からも火が移ってきた。やめろというのになかなか聞きいれない。
私は冷蔵庫の中に入っていた食べものを全部持ち出し、たいてあった御飯をもって、防空壕にもぐりこんだ。
火勢がつのってくる。煙もひどい。やっとのことで息子達は防空壕へ戻ってきた。
ああ、焼けちゃう、焼けちゃう、靖国神社に逃げよう、危い、と息子達はさわぐ。
しかし、私はいつしか関東大震災のことを考えていた。防空壕の中でじっとがまんして、
火のおさまるのを待つのが第一である。

  ふと辺りを見回したところ緒方運転手の姿がみえない。きっと恐怖感におそわれて逃げ出したに
ちがいなかった。これはいかん、と思ったが、どうしようもない。煙にまかれなければいいと念じた。
後日、無事に戻ってきたが、あの時社長のいうとおりにすればよかったと述懐して言った。
「どうして、あんな時に落ちついていられたんですか」と。「それは関東大震災の経験だよ」と答えた。
体験の強味である。身体にしみこんだ経験である。

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