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Re: 『近代パレスチナ問題』と「文明諸国」の対応 投稿者 あっしら 日時 2002 年 4 月 03 日 17:57:16:

(回答先: Re: 先生質問! 投稿者 13代目 日時 2002 年 4 月 03 日 07:38:24)

「13代目」さん、こんにちわ。

全体的な説明は、後ろに添付します。

>第二次世界大戦、ユダヤ財閥の資金援助が欲しかった連合国側が
>資金援助を引き出す為に「”あの地”にユダヤ国家を建国する」
>との密約説は・・・如何関連するのでしょうか?

巷間言われているこのあたりの話は第一次世界大戦中のことだと思いますが、国際金融家は、絶好の金儲けの機会である大戦争には喜んで資金を融通します。
日露戦争に備える日本に融資したのも国際金融家ですし、第二次世界大戦前でも、ナチスドイツの軍部増強に資金を融通したのも国際金融家です。
貸した相手がナチス政府でも、返済する相手はナチス政府でなくても構いませんから、“負ける相手”でも、喜んで貸し付けます。
貸し付けしない相手は、国際金融家を敵と見なし、借りた金を返さない政府ができそうな場合だけです。

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一大イスラム帝国としてバルカン半島の大半まで支配していたオスマン帝国(1290〜1918年)の存在から見ていく必要があると思う。
カソリック及びプロテスタントの西欧世界にとって、オスマン帝国は、経済的・文明的・軍事的にインド・中国のあいだにどっかりと横たわるグレートウォールのような大国だった。
ヨーロッパ世界との境界地域では勝つことがあっても、オスマン帝国の中枢を攻撃したり、オスマン帝国そのものを脅かすことはできなかった。

オスマン帝国には石油資源(ムハンマドの時代以前から石油は利用されていた)はあったが、綿織物・絹織物・香辛料・陶磁器・宝石など奢侈品のほとんどはその“向こう”にあるもので、その商業権益はオスマン帝国が握っていた。

このような認識が、西回りでインドを目指す「大航海時代」を誘導したのである。

南北アメリカやインドに対する略奪・支配によって進んだ近代化は、産業と軍事の両面で石油資源の価値を飛躍的に高めるとともに、商業権益を失っていったオスマン帝国の衰退を招いた。

オスマン帝国は、第一次世界大戦で、英国(1883年エジプト支配)・フランス(ナポレオンは1798年にエジプトを支配した)・ロシア(露土戦争で戦った)に対抗するドイツ・オーストラリアに与した。

オスマン帝国に代わって本格的な中東支配をめざす英国やフランスの画策は、第一次世界大戦中に大々的に行われた。
19世紀末にシオニズム運動が起こってシオニストのパレスチナ移住が始まり、1909年にはテルアビブが建設されていた。

1915年には、パレスチナでのアラブ国家の独立を約束した「フセイン=マクマホン協定」(マクマホン書簡)が出された。
アラブ側のフセイン・ブン・アリーはメッカ太守をつとめていた王族である。マクアホンは、英国のカイロ高等弁務官で、ロスチャイルド家の番頭として石油・ダイヤ貴金属採掘の世界的指導者である。
「フセイン=マクマホン協定」、“アラビアのロレンス”と同じように、対オスマン帝国戦争を有利に進めるための駆け引きである。

1916年には、英国代表マーク・サイクスとフランス代表ジョルジュ・ピコとのあいだで、オスマン帝国領のアラビア人民族地域の分割を決めた秘密協定「サイクス・ピコ条約」が結ばれる。
フランスはシリアとレバノンを、イギリスはイラクとヨルダンを勢力範囲とし、ロシアにトルコ東部地方を与え、パレスチナは共同管理とするものである。
英国代表のサイクスは英国ロスチャイルド家、フランス代表のピコはフランスロスチャイルド家の出身でスエズ運河会社の重役である。
この秘密条約は、ロシア革命後、レーニンによって暴露された。
これは、第一次世界大戦後に英仏が支配した中東の現実に対応するもので、本音といえるものである。

1917年には、シオニストが拠り所とする「バルフォア宣言」(バルフォア書簡)が出される。
英国ロスチャルド家の血脈である英国外相バルフォアが、「パレスチナにユダヤ人のナショナルホームを建設することに賛成する」由の手紙をロスチャイルド家当主に送った手紙である。
これは、ユダヤ金融家の支援を受けるためというより、戦後、支配する予定のパレスチナにシオニストを移住させる名目をつくったものである。
国際金融家は、戦争の帰趨と“担保”次第で、ボロ儲けの絶好機である戦争には積極的に融資するものである。
英国ロスチャルド家の血脈であるバルフォアは前述のサイクスと親交があり、バルフォア外相の伯父は、第二次ボーア戦争を引き起こし、南アのダイヤ確保に務めた人物である。

戦後のパレスチナは、英国軍政下に置かれ、1920年には英国の委任統治領になった。英国の委任統治領になったパレスチナにはユダヤ人の移民が急増する。そして、同じ1920年には、イスラエル建国をめざすシオニスト軍事組織「ハガナー」が設立され、英国からも数多くの情報部員が送り込まれた。
シオニストの移民は、第二次世界大戦直前には40万人にまで達した。

第二次世界大戦後の英国は、中東地域全体の権益と「パレスチナ問題」を比較考量し、シオニスト(国家建設を求め反英・反アラブの戦い)とアラブ人(生存権をかけた反シオニスト・反英の戦い)の両方に煮え切らない態度を示し、「パレスチナ問題」をアラブ人とシオニストのあいだの抗争にしてしまうため委任統治を放棄し、1947年にU.N.(国連)に移管した。

1947年11月のU.N.総会で、パレスチナにアラブとシオニストの別々の国家を建設し、エルサレムを国際管理下に置くという「パレスチナ分割案」が採択された。
U.N.は、アラブ人の半数で6%の土地しか所有していないシオニストに、パレスチナの56%の土地を与えるという分割案を決議した。当然のように、シオニストはそれを受け入れ、土地を奪われるアラブ人側は拒絶した。このため、国家樹立をめざし武力行使にでるシオニシトと生存権を守ろうとするアラブ人とのあいだで戦いが激化した。

そして、1948年5月14日に英国軍がパレスチナからの撤退を完了すると同時に、ユダヤ国家建国委員会議長ベン・グリオンがテルアビブでイスラエル建国を宣言した。
米国のトルーマン政権は、イスラエル建国宣言を受け、その午後には即座に「イスラエル」を承認した。
そして、「イスラエル建国」を認めないアラブ側との間に第1次中東戦争が起こり、シオニスト優勢のなかで1949年に停戦を迎えた。
その結果、シオニシトは1947年U.N.決議の1.5倍の「領土」を手に入れ、アラブ人は、130万人強のうち70万とも100万人とも言われる難民を生み出すことになった。


政治的シオニストの傲慢や暴虐は強く非難するが、弾の飛んでこない別天地で自己の利益拡大を追求するために、政治的シオニストやアラブ人をいいようにたぶらかしている国際金融家とその手先(「文明諸国」の統治者)の方をより激しく非難する。

ロスチャイルドやロックフェラーも国際金融家の一員だが、表立って言及されることがまったくない国際金融家が本当の力を持っていることを忘れてはならない。
ヨーロッパで“憎悪”の歴史的な経緯があるとともに相対的に力が弱い「ユダヤ国際金融家」が、陰謀論に代表されるかたちで人身御供にされているとも言える。
本当の力を持っている国際金融家が、ユダヤ国際金融家を防御壁として利用しているのである。

たかだか500年や300年の歴史しかない国際金融家の力は、2000年以上の歴史を誇る国際金融家の力とは較べられるものではない。

年利10%として複利計算したとき、元金1円が、2000年でいくらになり、500年だといくらになるかを考えるとわかる。
(2千年経てば仮数部6.1+指数部82というとんでもない値になり、5百年でも仮数部5.0+指数部20となる。5百年でも、1円が千京円の1桁上の6ガイ円になる)


ユダヤ人が表立って“矢面”に立たされている問題については、『「ユダヤ人問題」は慎重に』( http://www.asyura.com/sora/dispute1/msg/211.html )を参照してください。


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