みずほのシステムトラブルはあってはならないことで、その責任は非常に重い。だが政府のみずほバッシングには何か違和感はないだろうか?行政側にも問題はあったのでは!?
大手銀行の合併については、以前にもこのコラムで様々な観点から考え、先週もみずほ銀行のシステムトラブルから浮き彫りになったいくつかの問題を考えた。確かに今回のシステムトラブルはあってはならないことであり、混乱を引き起こした銀行の責任は非常に重いと言わざるを得ない。しかしその後連日のように報じられた政府・当局の“みずほバッシング”には、やや違和感を覚えてしまう。行政によるシステムリスクの監督責任というのもそうだが、法整備などを通じて暗に銀行を合併という形での再編に導いたのも、そもそも行政であったからだ。その政策判断の是非もさることながら、それに伴う様々なリスクを現場の視点に立って本当に考えていたのか、大きな疑問が残る。
みずほ問題が起こる前の3月に、このコラムで論じた大手銀行の合併に対する私なりの見解は、以下のような理由で否定的なものであった。まず合併という大作業に不可欠な、強いリーダーシップをもった経営者が今の日本の金融界にいないこと。現状を打破して新しいビジネスモデルを生み出せる、革新的で行動力のある経営者もいないこと。そして旧来の日本式カルチャーが根強く残る金融界に、欧米式の合併はそぐわないことである。特に最後の点は日本人の仕事に対する意識にも関連する問題であり、一筋縄ではいかない。机上で考えられた論理と、実際に現場で起こる事の違いが最も大きく表れる点でもある。みずほ問題に関しても行政をはじめ様々な“お偉方”が、『旧銀行間の主導権争いがその背景にあった』などと語っている。確かにその通りだが、今の日本の社会環境で、それまでライバルだった会社と合併することになって、平静でいられる人がどれほどいるだろうか。想像してみてほしい。今まで敵と思っていた会社の人と隣に座って一緒に仕事をすることを、あるいは自分の上司になることを。変わりつつあるとはいえ、まだまだ日本の労働者には“生涯一会社”の意識が根強く、人材市場も欧米ほどは発達しておらず社会的認知度も低い。そこへきてリーダーシップをとる者がいないとすれば、自身の権限を守ろうとする主導権争いなどが起こることも避けられず、ひどい場合には誹謗中傷や“いじめ”すら起こる。残念ながらそれが私の見てきた多くの場合の合併現場だ。合併を暗に推進した行政やそのレールに疑いもなく乗った経営は、この種の現場の問題をどこまで理解した上で合併という政策を推進したのだろうか。こういった経営や行政と現場との大きい隔たりこそ、日本経済がなかなか活性化しない根本の要因と言っても過言ではないだろう。
そんな折、私の元に小学校の同窓会の案内が届いた。私の卒業した小学校は、元々別々の3つの学校から一部校区ずつが統合されてできた“合併校”であった。統合時私は五年生だったが、六年生の人を含め卒業まで間もないということで、元の学校の制服で過ごすことが許されていた。校歌や校章ができたのも、統合後しばらくたってからだったと記憶している。当時の先生や学校関係者がそうした“外見のメンツ”にこだわるよりも、“現場”の生徒間の融合が先決と考えていてくれたおかげもあって、我々は数日とたたないうちに“1つの学校”になることができた。“誰々はどこの小学校出身...”などと考えたこともなかった。それから25年近くたった今でもこうして同窓会が開かれるし、私自身それまでいた学校より最後の2年間を過ごしたその学校の方が思い出深い。
上に立つ者、管理をする者が現場を忘れたとき、それまで築き上げた“帝国”は音を立てて崩れていく。それは歴史的にも明らかだ。
外資系金融コンサルタント 円城寺真哉
提供:株式会社FP総研