ドラマは、銀行への取り付けから始まった。二〇〇二年の暮れ、クリスマスの直前のことである。
延命策に延命策を重ねてきた流通大手のQ社がついに民事再生法の適用を申請。Q社の有利子負債は二兆円を越す。同社に貸し込んできた銀行は、この倒産によって膨大な特別損失を計上せざるをえなくなった。
そこへマグニチュード8クラスの衝撃が加わった。米系の債券格付け機関が国債の格付けをそれまでのAAからさらにAに引き下げたのである。理由は「デフレの深刻化」。
その年の春、底を打ったかに見えた景気は、再び悪化していた。景気動向指数は九か月連続して五〇%を下回り、失業率は六・五%に達していたのである。一時的に持ち直した株価を見て、デフレ対策を怠った小泉内閣の責任は大きい。
銀行は七十兆円近くの国債を抱えている。格付けの引き下げによる国債相場の下落のため、膨大な評価損が発生した。銀行の株価は軒並み下落。とりわけQ社と取引のある銀行への不安が高まり、預金者は預金引き出しに走った。
銀行の現金準備は見る見る減って、コール市場に駆け込むが、疑心暗鬼となったコールの出し手は「ラインオーバー」を叫び、ローンを拒む。ついに日銀は財務省の要請を受けて日銀法第三十八条による特融を実施。政府は総理大臣を議長とする「金融危機対応会議」を開き、取り付けに遭った数行の国有化を宣言。預金を全額保護する方針を明らかにした。
しかし、取り付けの嵐は当初ターゲットになった銀行以外にも押し寄せたのである。インターネットの掲示板などを通じて風評が流れていた。「政府はデノミ実施と合わせて預金の新旧分離を検討している。一定金額以上の預金はやがて引き出せなくなるだろう」
銀行の店舗で行員と預金者との間に衝突が起き、預金者が暴徒と化すにはさして時間はかからなかった。中には預金者とは無関係の者が器物を叩き割り、店舗の前にガソリンを撒いて火をつけたりしていたことも指摘しておかなければならない。
警察現場の強い要請を受けた村井国家公安委員長は、閣議で柳沢金融担当大臣に対して銀行閉鎖を求めた。治安の維持上、止むを得ない措置として迫ったのである。だが、柳沢金融担当大臣と塩川財務大臣は反対した。銀行を閉鎖したら、給与・ボーナスや公共料金の支払いも、手形を含む一切の決済もストップする。銀行のサドンデスは政策当局の失敗を意味する。
内閣支持率は不況の深刻化や与党議員の相次ぐスキャンダル事件に嫌気し、三〇%を割ろうとしている。政権のドロ舟から脱出する機会をねらっていた公明党の坂口厚生労働、保守党の扇国土交通の両大臣は、かねて小泉首相の「緊縮財政路線」に不満を抱いていたこともあり、村井委員長に賛成した。閣議は紛糾。みなは息を呑んで小泉首相の決断を待った。
首相は腹心の塩川大臣の意に反し、「銀行閉鎖」の決断を下した。期間は二週間。塩川財務大臣に対して、財務官をただちにワシントンに派遣してホワイトハウスに事情を説明させるよう指示した。自身はプッシュ大統領が目覚める時刻をにらんで、ホットラインを使って事情を説明した。「このままでは追い詰められた日本の銀行が米国国債を売りに走るおそれがある」
日本は世界最大の債権国である。いわば世界の銀行が業務を突然停止したら、どうなるか。信用の鎖が途中で絶たれ、大混乱が起きる。グリーンスパンFRB議長の強い進言があり、プッシュ大統領もあっさりとウォールストリートの閉鎖を宣言した。突然の「バンク・ホリデー」である。のちにこの日のことを人々はホワイトクリスマスならぬ「ブラッククリスマス」と呼ぶようになる。
銀行閉鎖期間中、政府はデノミの実施と預金勘定の新旧分離策を発表した。風評は風評ではなく、現実だったのか。それとも現実が風評を模倣したのか。
新旧勘定の分離とは、借金を棒引きにするときに政府が行う常套手段である。
一九四六年二月、終戦半年後、政府は金融緊急措置を含む「経済危機緊急対策」を発表した。その中に含まれていたのが預金封鎖で、企業と銀行の資産・資本・負債を新勘定と旧勘定に分離した。新勘定で今後の業務を実施させ、旧勘定は凍結。
政府が大量に発行した国債も旧勘定になり、凍結される。この方式は旧国鉄の債務処理や昭和四十年の山一証券再建のときに採用されている。
デノミによって新しく制定された貨幣単位は「両」。その下が「文」。一ドル=一・四二両の新通貨制度が発足した。
小泉内閣の崩壊
以上がこのドラマの第一幕である。第二幕は年末の抜き打ち解散から始まる。
預金勘定の新旧分離は混乱を収拾する最後の手段だったが、世論は強く反発。小泉首相は追い詰められた形で解散に打って出た。
霞が関では予算編成がクライマックスを迎えようとしていたが、政治日程は経済のそれに優先する。年末解散の例は戦後三回。昭和二十三年の吉田内閣、同四十一、四十四年の佐藤内閣のときだ。
二〇〇三年一月、総選挙の結果、自民党は三十六議席を失い、二百四。大敗である。公明も三議席を失い、二十八。保守党は五議席減ってたった二。反対に共産党が躍進して二十議席増の四十。民主党十二議席、自由党二十議席のそれぞれ増加となった。自民、公明、保守の連立は成立困難となる。
小沢自由党党首は民主、自由、社民、共産各党による大連立政権を働きかけたが、民主党は共産党との連立に二の足を踏み、自民党と組むことにした。首班指名は「積極財政」を唱える麻生太郎が勝ち取り、亀井財務、鳩山外務、菅法務、田中(真紀子)行革担当などの顔ぶれによる第一次麻生内閣が発足。瀕死の日本経済立て直しに取り組むことになった。
麻生内閣は日銀による国債無制限買い切りオペによって景気刺激型の超大型予算を編成したが、このときすでに不気味な地鳴りが始まっていた。それは経常収支黒字幅の急速な減少である。輸出は産業の空洞化のため低迷して久しい。景気刺激はただ輸入を急増させるだけだったのだ。
資本収支も赤字に転じていた。企業も個人も資産を海外に移す。預金の引き出し額は制限されているが、個人は一定額を引き出すと直ちにドルに換える。輸出企業は両による受け取りを減らし、ドル建ての資産を増やす。兜町で有価証券を売り、ウォールストリートで買う。株価は下落、日経平均株価はついに六十両を割った。麻生内閣の超大型予算は、体力が衰弱して消化能力を失った患者にビーフステーキを無理やり食べさせるようなものだった。
日本経済の一大バーゲンセールが始まっていた。国有化された銀行を誰が買ったか。日本の銀行に買収の体力が残されているわけがない。欧米の銀行は「隠された不良債権がある場合は整理回収機構が引き取る」という「瑕疵条項」と引き換えに、二束三文で銀行を買い取っていった。欧米だけではない。首都圏を基盤とする有力地方銀行を買った香港系の金融資本があったことも付け加えておこう。中南海に第四世代の新指導部を迎えた中国は、意気軒昂。対外進出に積極姿勢を打ち出していたのである。
外資が支配したのは金融だけではない。たとえば、日本が最も輸出競争力を持つとされる自動車産業を見ればいい。
上位五社のうち三社はすでに外資が入り、青い目の経営者をいただいているではないか。外資のダイナミックな進出が目立ったのは、流通、不動産、建設などのサービス産業である。とりわけ世界最大の流通企業「ウォルマート」は、西友の株式の過半数を握ると、次々に巨大スーパーと資本提携し、日本市場を席巻しようとしていた。
日本経済効率化のためには外資は大いに歓迎されるところだが、彼らの雇用政策はドライで、大幅なリストラにより失業者が街に溢れた。倒産件数は月間二千五百件に跳ね上がり、ホームレスの青いテントは上野公園、隅田川河岸などだけではなく、住宅街の中にある小さな公園をも占拠した。治安は悪化し、刑法犯の検挙数は年間三百二十万人を突破。中高年の自殺者は年間三万二千人を越えた。
カネだけではなく、人の海外流出も盛んになっていた。若い労働力はインド、マレーシア、シンガポールなどのアジアを目指す。年金生活者はオーストラリア、カナダ、南太平洋諸国などの各国に終の棲家を求め、三、四十代の働き盛りは二重国籍を認めるブラジル、メキシコなどに移り住んだ。定住に失敗すれば、また日本に戻ってこようという算段である。
「完全なる同盟」の結成
二〇〇四年十二月、日本の国際収支はついに赤字になった。そのことの意味はきわめて重大である。
世界には二つの巨大な経済大国がある。ひとつは米国。この国は国民が一年間に働いて作り出したモノとサービスの合計よりも多くを消費する。勢い経常収支は慢性的な赤字になる。言い換えるなら、この国の赤字(輸入)によって世界は潤っている。
一方は日本。米国と逆で、国民が生み出すモノとサービスの合計よりも少なくしか消費しないという構造を長い間続けてきた。当然のことながら、余剰が出る。これを資本として米国に輸出し、その赤字をファイナンスしてきたのである。極論すれば、日本の資本輸出によって米国は過大な消費を続け、世界経済を支えてきたとも言える。
日本の国際収支赤字転落は、この構造が根本から変わることを意味している。日本は米国の赤字をファイナンスできないだけではなく、やがて過去の黒字の集積である対米資産を取り崩すだろう。恐怖に怯えたのは米国だけではない。米国が生産に見合った消費しかしなくなれば、世界経済はたちまち縮小する。世界恐慌の発生である。
問題児、日本は一体どこに行くのか。
国際収支は赤字。国内産業の競争力は停滞し、円安(両安)政策を展開しても輪出力はなし。輸入インフレが加速するばかり。まぎれもなく日本は「アルゼンチン化」へ一の道を歩んでいる。さりとて、強力な引き締めを実施したら、企業環境はますます厳しくなり、外資は嫌気がさして逃げ出してしまう。
二〇〇五年三月、経済失政の責任を負って麻生内閣は総辞職。鳩山民主党代表が首班として指名された。鳩山氏に票を投じたのは民主党のほか、自民党の半数、社民党、自由党、共産党である。
しかし、自由党の小沢氏はなぜか閣外協力にとどまった。小沢氏は、この内閣が何事も決めることができずに終わると見越していたのだろう。
事実、日本を日本自身が救うのは最早困難だった。崩壊寸前の日本経済は世界経済の時限爆弾であり、国際的な枠組みを根本から変えぬことには、日本に光明を与えることなどできはしない。
二〇〇六年一月、国内外で大きな話題を呼んだ論文がある。英国の歴史家であるリチャード・トービン教授の書いたもので、国内では有力月刊総合誌に、米国ではニューヨーク・タイムズ紙に同時掲載された。
教授はかつて七つの海を支配した英国がどのようにしてその栄光を捨て、EUの一員となって溶け込んでいったかを詳細に記述したうえで、こう結論付けた。
モノ、カネ、人、情報のグローバリズムを押しとどめることはもうできない。しかし、国家という器はこのグローバリズムの大波を収めるには小さすぎる。ヨーロッパ各国はEUという、より大きな器を創り上げることによって、グローバリズムに対応した。通貨を統一しただけではなく、近い将来、政治も統合しようとしている。同じことがどうして世界第一位と第二位の米国=日本間で始まらないのか。モノ、カネ、人、情報の実体経済面ではすでに一体化が始まっているにもかかわらず、新しい器を創り上げることができない理由は、ただひとつ、指導者に歴史的な認識が欠如しているからではないか・・・・。
こうして、トービン教授は日米に「完全なる同盟」の結成を掟案したのだ。完全なる同盟とは、国と国の合併である。
EUが複数の国々の対等合併なら、こちらは米国によか日本の吸収合併になる。平たく言うなら、日本が米国の五十一番目の州になるということである。
この論文を読んで、日本国内の識者の多くは目の覚める思いがしたと後に回顧している。というのは、気が付いてみれば、半分とは言わないまでも、三分の一程度は事実上吸収合併されているとしか言いようのない現象があちこちで見受けられたからだ。
日本の企業や個人が資産をドルで持つようになったことや、国内産業を外資が抑えたことなどはすでに明らかだが、インターネットの普及で英語は基礎的教養となり、小学校三年生から英語を学ぶ方針を文部科学省は決定した。全国の英語塾は不況をよそに大繁盛。日本人は意外に柔軟性に富み、米系資本下の自動車メーカーであるマツダでは、英語が社内公用語になっているというではないか。マツダのみならず、識者の一部には、英語を国内公用語にしようという意見すら根強い。Jポップと呼ばれる流行歌を聴いてみればいい。英語の氾濫である。おまけに若者たちは茶髪。家庭の主婦まで髪を赤く染めている。
野球選手はみな大リーグを目指し、日本のプロ野球はマイナーリーグ化しているし、ディズニーランドやUSJなど米国製のレジャーランドがそっくりそのまま流行する。共通の話題となる映画のスーパースターはアメリカ人。それよりも何よりも、カネを持つ人間こそが勝利者という、米国式金銭至上主義に日本人はすっかり染まっていた。
米国の五十一番目の州になることによって、いかに多くの問題が一気に解決することか。日銀ならぬTOKYO連銀は、為替相場に頭を悩ませる必要はない。都合の良いことにドルと両とは一対一に近いからドルへの移行は簡単である。
問題多き外務省は不要になる。財務省、農水省、経済産業省などの役所はワシントンのただの出先機関に格下げ。なんとダイナミックな行政改革ができることか。ソーシャルセキュリティ(社会保険)ナンバーの導入で懸案の国民総背番号制度が実現、所得がガラス張りになり、「トー・ゴー・サン」などという税の不公平は消える。
医療保険の赤字は長い間、政府の悩みだったが、これからはメディケア(高齢者向け)、メディケイド(低所得層向け)に限った医療補助があるだけ。自分で自分の面倒を見るという医療制度の実施で「医療抜本改革」が瞬時にして実現する。医師会が反対する?知るものか。嫌なら、医者だけで国を作ればいい。
食糧・エネルギーの自給率は飛躍的に上昇。沖縄の基地問題も一夜にして消える。最早、アジアに対して戦争責任で頭を下げ続けることもない。
「脱亜入米」。そのメリットの大きさに人々は改めて感じ入ったのである。
ドラマの第二幕はここまでだ。第三幕は東シナ海で起きた衝撃的な事件から始まる。
合併か、自主独立か
二〇〇七年の二月、厳寒の尖閣諸島周辺に突如出現した中国北海艦隊は、魚釣島に兵力を上陸させ、この水域を支配下に収めた。急を知った航空自衛隊F15六機が出動。イージス艦「こんごう」が現場に赴き、警告を発した。
しかし、中国側はこれを一切無視。威嚇射撃を行ったこんごうに対して、ミサイルを撃ち込んできた。その結果、海上自衛隊員七人が死傷したが、日本側はさしたる反撃を試みることなく撤退の止むなきにいたった。
戦力において劣っていたわけではない。むしろ、日本側の方が勝っていた。違いは戦う意志の固さである。艦船上の隊員たちはすぐさまにでも応戦する気概に燃えていたが、官邸の意を受けた本部からの指示が、「慎重に対処せよ」だったのだ。
外務省は北京駐在大便を通じて中国側に抗議したが、中国外務省の答えは「当該水域は中国の固有の領海である」とにべもなかった。かくて、尖閣諸島水域は中国海軍の占拠するところとなり、日本側には大きな挫折感が広がった。
このとき、新党を結成して立ち上がったのが石原慎太郎氏である。二〇〇三年、都知事選出馬を見送った石原氏は、政界復帰をにらんで政策研究グループを発足させていた。石原氏、七十四歳。しかし、肉体は若く、十分に国政担当可能だった。新党の名は「自主独立党」。
中国に対する弱腰外交への囂々たる批判を浴びた鳩山首相は、小沢自由党党首の強い進言を受けて、解散に踏み切った。このとき、狼狽気味の鳩山氏に小沢氏は「心配するな、後は任せろ」と囁いたと言われている。
小沢氏は自由党、民主党、自民党の有志を軸にして「自由民主同盟党」を結成した。打ち出した政策が「米国との完璧なる同盟」である。
これに対して、石原氏の自主独立党の用意した政策綱領は、@軍備を強化し、核武装に踏み切るA食糧・エネルギーの自給率を高めるB国内産業を保護し、WTO(世界貿易機関)からの脱退も辞さないC貧しくとも、美しく品位ある国家を目指す・・・というものである。この綱領作成に昼夜を分かたぬ努力を傾けたのが石原氏の愛息、伸晃氏である。文字通りの父子鷹だった。
米国との合併を選ぶか、それとも自主独立の孤独な道を歩むか。このときの選拳は国家の命運を決するものとなった。
どちらにせよ、憲法の改正は必至だったが、あとに予定される国民投票は手続きに過ぎない。この選挙が事実上の国民投票となった。ときに二〇〇七年十二月のことである。
皇室は「千代田公国」に
ここで目をホワイトハウスに移してみよう。二期目の最終年を迎えようとしていたブッシュ大統領は、激務の間を縫って回顧録の執筆作業に入っていた。スタッフたちはブッシュ大統領の時代を飾る最後のイベントについて徹底した議論をしていた。日本を吸収合併するメリット・デメリットはいかなるものか。議論を重ねるにつれ、結論はひとつに収斂していった。この合併は、米国にとって予想以上の利益をもたらす・・・。
まず日本に対する膨大な債務が消える。債務は一州政府への債務となり、その州がいくら債権を回収して使ってもドル建ての支出であり、やがてFRBに還流する。そうなれば日本がいつ米国債を売るかという悪夢から解放される。
日本は腐っても鯛。人材はまだいるし、治安も良く、清潔である。おまけに十兆ドルの貯蓄を持つ。過小貯蓄の米国にとり、このうえない持参金と言うべきではないか。
魅力は歴史である。日本書紀成立から数えても約千三百年の歴史を持つ州が、わずか建国二百三十年の米国に加わる。アメリカ人は歴史のないことによるコンプレックスをたちまち克服できる。
それよりも何よりも、石原首相に率いられる「貧しくとも品位ある核武装国家」は、米国にとり最低のシナリオである。機嫌の悪い孤独な国家・日本ほど扱いにくいものはない。二十一世紀、米国にとって最大のテーマは、軍事的にも経済的にも強大なプレゼンスとなる中国をのさばらせないためにはどうすればいいかだ。このとき、キーストーンとなるのが沖縄、横須賀の両基地。これが余計な神経を使わずに自由勝手に使えるようになるのである。
米国は欧州各国とも語らって、小沢政権の発足を期待するとのメッセージをそれとなく日本に送った。一方、中国は日米の「完璧なる同盟」化を警戒はしたが、それとても石原政権よりましである。消極的ではあるが、小沢氏支持を匂わせた。
さて、日本の国論は真っ二つに割れたかと思いきや、さにあらず。投票率は八九・二%と未曾有の高さを記録したが、有効投票総数の七一・三%が小沢氏の「自由民主同盟党」に投じたのだ。石原氏の「自主独立党」の得票率はわずか一四・五%。残るはその他である。
考えてみれば、当たり前のことだ。いまさら「貧しくても品位ある国家」のもとで、ろくに旨いものも食えぬ配給生活などしたくもない。自由の女神が待つアメリカに、国ぐるみで引っ越そうではないかと日本中が浮き立った。
かくて日米大合併は実現した。米国人になることを潔しとしない人々は世界に散っていく。小沢氏は初代日本州知事に。県は都(カウンティ)となり、県知事たちはただの郡長に降格された。
米国と合併するに当たり、日本政府は三菱地所から丸の内の一郭を買い上げ、皇室に提供した。皇室は「千代田公国」となる。この賃貸収入で宮廷予算を賄い、全世界に住む日本人の精神的統合のシンボルとして存続することになった。その存在はカソリック教徒の精神的よりどころであるバチカンに似ている。
合併の効果は、対外関係でたちどころに現れた。ワシントンは不法に「米国人」を拉致した北朝鮮に強く抗議、ただちに身柄を引き渡すよう要求した。要求に応じない場合はピョンヤン空爆も辞さぬ構えで、朝鮮半島沿岸に第七艦隊を配置した。北朝鮮は米国の意志の固いことを察し、ほどなくして数人の「米国人」を引き渡した。
米国は尖閣諸島水域にも第七艦隊を派遣、中国との外交交渉の結果、この水域を米中による共同管理にすることで合意した。
しかし、合併により、良いことばかりが起きたわけではない。旧日本国人がとまどったのは、左から右に変わった交通で、合併が実現してから数年は事故が多発した。
もうひとつは、銃器の所持が届け出で可能になったことだ。組織暴力団はマフィアと手を握り、凶悪犯罪が増加したし、コロンビア⇔メキシコ⇔米本土を経由して日本州にいたる麻薬の環太平洋ルートが出現した。競争原理を重視する経済政策の結果、あちこちにスラムも発生した。とりわけ建築三十年以上を越す団地のスラム化が著しく、夜は安心して歩けぬようになる。
日本州知事の最大の悩みは、旧日本国の復活をねらう分離独立運動が地下組織となって活動を始めたことだ。米国人になることを拒んだ石原一族は、ブラジルで亡命政権を確立、日本州の分離独立派に支援の手を差し伸べていた。
ドラマはここで終わるが、是非紹介しておきたい後日談がある。ときは十七年後の二〇二四年秋、初の有色人大統領がホワイトハウス入りしたのである。その名は黒淳一朗、四十八歳。世界のクロサワと同姓、二十一世紀の初め大リーグで首位打者を取り続けたイチローと同名である。父親は一九八〇年代にカリフォルニア大学バークレー校教授となり、永住権を獲得。クロサワ自身はハーバード大学卒業後、修士課程を経て弁護士となり、その後、ワシントン州選出の上院議員となった。日系人の大統領はペルーのフジモリ大統領以来二人目である。
人口一億二千万人の日本州は、大統領選挙人七百四十名中二百二人を擁している。大統領を送り込むにはなお百六十九名を必要とするが、全米のヒスパニック系、それにアジア系の票と連携することに成功したのである。
CBSの人気キャスターであるダン・ローランドは、意気揚々とホワイトハウス入りするクロサワを見やりながら、日系人から教えられた喩えを用いて、肩をすくめてみせたものだ。
「庇を貸して母屋を取られるとは、このことです」