高木一臣氏は在ブエノスアイレス生活五十余年。戦後間もない一九五一年に故郷の三重県を飛び出しアルゼンチンに渡って以来、三万人の日系社会を代表する人物の一人として活躍してきた。七十七歳になった現在も邦字紙『らぷらた報知』の編集長と、国営ラジオ局の海外向け日本語放送のキャスターとを掛け持ちする。スペイン語を話す空手の師範、オカマの東洋人役などで有名な俳優でもある。
アルゼンチン社会の表も裏も知り尽くしているその高木氏が、強盗に遭った。さる三月八日金曜日午後八時過ぎ、市内中心部の鉄道ターミナル・コンスティトゥシオン駅前の小さな公園。南緯三十四度の空はまだ明るく、辺りでは大勢の人々が休息していた。子供を遊ばせる家族連れも幾組かいた中で、帰路を急いでいた彼は突然、後ろから羽交い締めにされ、引き倒された。と、どこからか二人の仲間が走び寄ってきて、受け取ったばかりの給料袋を持ち去られてしまった。
「喉にナイフを突きつけられては、下手に抵抗もできません。後で周囲にいた人たちが」見て見ぬふりをして悪かったと言ってくれましたが、近頃の強盗はみんな拳銃を持っているから仕方がない。それにしても町が荒れた。この国で私はクーデターもハイパーインフレも体験しましたが、治安の悪化という点では、今が最悪でしょうな」
高木氏にケガがなかったのは不幸中の幸いとしか言いようがない。警察に届ける気にもなれなかった。「どうせ無駄だから」だ。
ブエノスアイレスではこの前日も、悲惨な事件が発生している。市内と郊外を結ぶイエルバル線のフロレスタ駅でハンドバッグをひったくられかけた三十歳の女性が複数の暴漢と揉み食い、ホームの下に転落。動き出していた列事に轢かれて亡くなった。大手紙『ラ・ナシオン』『クラリン』などの報道によると、周囲の乗客らが暴漢の一人を取り押さえ、リンチを加えようとしたという。
リンチとは穏やかでないが、最近のアルゼンチンではさほど珍しい事態でもないらしい。『ラ・ナシオン』紙社会部のエルネスト・G・カストリリヨン記者が語る。
「犯罪者がまともに処罰されないのを、誰もが知っているからね。すぐに釈放されてしまう。殺人犯でもせいぜい懲役八年だ。未成年だと捕まったその日のうちに自由の身ってなもんです。軍事政権の恐怖政治が長く続いた反動で法律が犯罪者に甘いのと、物理的に刑務所が足りない。警察の怠慢に怒った被害者が警察署に火をつけた事件もありました。とにかく強盗事件が増えています。しかも凶悪化して、特に若い奴が人を簡単に殺すようになった。まるで西部劇だ。個別の事情はいろいろだけれど、総じて言えるのは、失業者だらけの社会になってしまっていることが背景にあり、それが問題なのだということです」
ブエノスアイレスのキオスコ(飲み物や菓子、雑誌などを販売する小売店)が襲撃ざれて、ボリビア人の店主が殺された。犯人は逮捕されたが未成年なので罪を問われない。教会関係者が被害者の葬儀に参列させると、彼は大麻タバコの吸殻を柩に投げ捨てて大笑い。同行の警察官も咎めなかった……。忘れられない事件です、とカストリリヨン記者は言った。
中産階級の鍋叩きデモ
金属製の鍋や釜を激しく打ち鳴らす人々が、五月広場を埋めつくしている。正面にピンク色の要塞、大統領府カサ・ロサーダ。「植民地支配からの解放を」などと書きつけた横断幕や風船の束、アルゼンチン国旗が至るところに広がった。ここぞとばかりに繰り出す清涼飲料水売りの屋台。赤ん坊を抱えた物乞いたち。仕掛けられた爆竹が大音響を轟かせるたびに鳩の大群が怯えて弾け飛び、広場上空を旋回していた。
彼らはブエノスアイレスの隅々から集まってきた。少なく見積もっても数千人はくだらない人々の身なりは崩れておらず、いわゆる過激派とは一線を画している。中産階級の男性や家庭の主婦らが大部分であるらしい。
カセロラッソ、という。鍋や釜など食器類を叩いて音を響かせながら進む抗議デモ。昨年十二月からブエノスアイレス市内のあちこちで日立つようになった。
当初は銀行を取り囲む場面が日立ったが、最近は大統領府や国会周辺に集結することが増えている。私が目撃したのは三月上旬の夕刻だったが、これほど大規模なカセロラッソだけでも、もう何度目になるのか数えきれない。
「鍋などを叩いて政府に抗議するスタイルは、実は数年前から始まっていました。働く者をバカにした政策にも、それでいて自分は汚職ばかり繰り返す政治家たちにも、誰もが怒り狂っていますからね。ただし少し前までは、せいぜいが自宅の中とか周辺での話。それが今、溜まりに溜まっていた怒りが爆発し、組織化されてきたのです」
こう語るのは、セルジオ・ピエ・アンジェリ氏(四十五歳)だ。国立ブエノスアイレス大学の助教授(社会学)である彼は、市内北部の某地区で、カセロラッソのリーダー役を務めている。日本で言えば東京大学に相当する名門国立大学の教官までが。アルゼンチンの中産階級は、それほどまでに追ぃ詰められている。彼らは地域ごとに、ブエノスアイレスだけで二百ほどの小集団を組織しているという。
「九四年をピークに、収入はどんどん下がっていきました。あの頃千五百ペソだった月給が、今では五百ペソです。一方で公共料金は上がり続けてきましたから、本当に苦しい。外食をやめて衣料費を切り詰め、車も売り払いました。電話もフルコースの料金を払えないので、受けるだけで私からかけることはできません。大学教員は社会的地位は低くなくても、金銭的には恵まれていないんです。
でも、社会全体から見れば、これでも相当マシなほう。私の兄弟は地方でビニールパイプの工場を経営していて、九〇年代の前半には三十人ほども雇っていたのですが、今では息子と二人だけ。電気も止められてしまったので、オーダーがある時にだけ、自宅の電気を引っ張ってきて製造しているといいます」
アルゼンチン経済が破綻した。昨年十二月、アドルフォ・ロドリゲス・サア暫定政権が対外債務の支払い停止(モラトリアム)を宣言し、事実上の債務不履行(デフォルト)状態へと陥ったのである。
専門家とそうでない人々の受け止め方に、これほど落差のあった国際ニュースも珍しい。一般人は驚いた。九〇年代のアルゼンチンは、それまでの危機的状況から見事に脱却し高度経済成長を遂げ、国境を流れる大河の名を取って《ラプラタの奇跡》と讃えられていたためである。同国の国債を購入して回収不能に陥った東京都品川区や横浜市、青森県など日本の自治体関係諸団体の認識は、まさに素人そのものだった。
一方、国際金融市場にさほどの動揺は走らなかった。市場では同国の経済危機説は過去一年以上にわたって常識だったし、経済成長率が急激に悪化し始めた九九年の大統領選で当選したフエルナンド・デラルア政権の財政再建策が行き詰まったと判断できた時点から、今回の事態は織り込み済みだそうだ、とされる
問題は国民生活だ。モラトリアム宣言の少し前から首都ブエノスアイレスをはじめ各地で暴動が頻発。商店などへの襲撃や略奪も相次ぎ、二十人以上の死者が出て、デテルア大統領(当時)による国家非常事態宣言、直後の辞職へと発展した。資金の国外流出を防ぐために外国への送金を制限すると同時にコラリートと呼ばれる預金封鎖措置(この時は引き出し上限額を二百五十米ドルとした)が実施されたことなどが暴動の背景にあった。
通貨価値も当然、急落した。アルゼンチンは過去十年間、兌換法という法律に基づいて一米ドル=一ペソの固定相場制を採用してきた。よく似た制度を取ってきた隣国のブラジルが九九年に通貨切り下げを断行したため、相対的に輸出競争力が失われた経緯がある。そこで年明け早々、一米ドル=一・四ペソへの切り下げが図られた。ドル建ての定期預金を預金封鎖の枠内で引き出す際も、この比率で強制的にペソに換えられた。もちろん市場ではペソ売りが止まず、三月下旬の実勢レートは一米ドル=二・九五ペソにまで下げている。
前出・アンジェリ助教授の話は、この現実を承知していないと半分しか理解できない。八年前と現在とを比較して月給がペソベースで三分の一に下がったということは、米ドル換算、つまり実質的には十分の一になってしまったということなのだ。それでも電話をかけなければならない時、仕事などで電子メールを使う必要が生じた場合に、彼らは街のインターネット・カフェを利用する。近頃ではブエノスアイレス中に乱立しているとのことだが、その種の需要が増えてきたためで、格別にITが盛んだということではない。
「五年後は日本だ」
この間、政界も混乱を窮めた。年末の一カ月にも満たない間に、デラルアからラモン・プエルタ代行、ロドリゲス・サア暫定へと大統領強が次々に移り変わり、正月早々、エドゥアルド・ドゥアルデ大統領(六十歳)が上下両院で選出されて、とりあえず収まった。新政権は社会不安の高まりを意識して低所得者層を重視する方針を打ち出したが、この点、支援融資を頼む国際通貨基金(IMF)の意向とはズレが大きい。選挙を経ていない大統領に対する民衆の不満も根強く、アルゼンチン社会の迷走はなおも続きそうだ。
有力なエコノミストであるラウル・C・クェージョ氏(七十一歳)が、ため息をついた。ブエノスアイレス大学や米国コロンビア大学の教授を歴任し、政府の要職も務めてきた彼の専攻は公共経済学である。
「近いうちに銀行もメーカーも、あらゆる大企業が大量解雇に踏み切るでしょう。銀行システムも機能をストップさせたままです。こんな状態では経済の活性化など到底望めるものではないし、人々は生活のためにドル預金を崩してペソを引き出すしかない。次にやって来るのはまたしてもハイパーインフレです。事態は重大な局面に差しかかつています。アルゼンチンはもはや経済危機を通り越して、政治危機、体制危機になってしまっている。国民の政治不信は民主主義への不備に通じ、独裁か、そこまで行かなくとも強烈な権威を求める方向に進む可能性がある」
アルゼンチンとは地球の真裏にあるこの日本もまた、デフレや巨額の債務に喘ぎ、成長率の低迷に苦しんでいる。そこで両国の類似性を指摘する論評が、特にアングロサクソン世界で繰り返された。
英国の中央銀行であるイングランド銀行は国際金融システムのリスクの発信地になりうる国としてアルゼンチンのほかにトルコと日本を挙げている。英国の経済紙『フィナンシャル・タイムス』は「五年後は日本だ」とする旨の社説を、米国の有力週刊誌『ニューズウィーク』は「日本が破綻すれば地球全体に悪影響が及びかねない」とする特集記事を、それぞれ掲載した。
だから構造改革を急ぐべきだとする論理展開。はたしてそうか。彼らの言う《日本のアルゼンチン化》はあり得るのか、アルゼンチンに日本社会は何を学ぶべきなのか。『ラテンアメリカ福祉国家論序説』(編著)などの著作がある専門家の宇佐見耕一・アジア経済研究所主任研究員は、首をかしげた。
「巨額債務といっても、日本の場合はほとんどが円建てで、その六割以上は郵便局と年金が持っているわけです。ドル建ての対外債務が大部分であるアルゼンチンとは、中身がまるで違っている。今回も一番まずかったのはドル・ペソ一対一をやめるタイミングが遅すぎたことですが、日本に兌換法はありません。ただ・・・」
そう、それでも不安は残る。宇佐見氏も言葉を濁した部分があった。私がブエノスアイレスを訪れた理由もそこにある。
国民総背番号の国
エセイサ国際空港からブエノスアイレスのセントロ(中心部)まで車で約三十分。よく整備された高速道路の追い越し車線を、メタリック・ボディを輝かせた「プジョー」や「フィアット」の新車が走り抜けていく。
幾度か「テレペアヘ」を通過した。日本ではまだ試験的運用にとどまっているETC(自動料金収受システム)が、ここでは本格的な稼働を始めている。後日、カセロラッソの内輪の打ち合わせを取材できそうだと会場付近の公園をうろつき、不審がられて警察官に呼び止められた際、一緒にいた関係者と地元コーディネーターがIDカードを提示したのにも驚かされた。カードには指紋と十数桁の個人識別ナンバーが刻印されていた。
日本では八月からの改正住民基本台帳法施行を控えて反対意見が強まっている国民総背番号制度が、聞けば南米各国ではもう何十年も以前から運用されているという。
高速道路を下り、セントロに近づくにつれて、周囲の車は青く、汚くなる。交通量の半分以上が黒と黄色のツートンカラーに塗られたタクシーだ。天井に「ラジオタクシー」の看板を掲げているのはまあまあ安全、そうでないのは時に危険だと、街の事情通が教えてくれた。
私自身が出くわすことはなかったが、やはり昨年あたりから、ブエノスアイレスではピケテーロと呼ばれる集団が幹線道路を封鎖する光景がしばしば見られるようになった。《ツルハシを振るう人》の意で、転じてゼネストに代わる労働争議の戦術を表している。関係者たちの話を総合すると、都会の中産階級が主体のカセロラッソに比べてピケテーロは地方の失業した貧困層が中心で、ただし両者は連帯、合同していく流れにあるという。
ピケテーロたちにも話を聞いた。石油掘削会社で働いていたエクトル・ディアス氏(二十七歳)と、航空会社にいたウーゴ・モラレス氏(三十一歳)。二人とも妻子がある。
なぜ、ピケテーロなのか?
「二人とも数年前に会社をクビになって困っている。仕事がほしいんだ」
退職金はなかったのか?
「そんなもの貰えるはずがないじゃないか」
どうやって生活しているのか。
「親や兄弟の情けにすがっている。みんなそんなふうじゃないかな」
カセロラッソとの違いは?
「あいつらは金持ちじゃないか。銀行に隠した金を押さえられて騒いでいる連中なんか嫌いだよ。俺たちは失業している。仕事がなければ食えないのさ」
ピケテーロは三月七日にも、ブエノスアイレス市内を南北に貫く七月九日大通りを封鎖した。英字紙『ブエノスアイレス・ヘラルド』(三月八日付)によれば、失業者たちを率いるルイス・デリア氏が、こう叫んでいたという。
「人口のわずか一二%の人々が、富の五三%を独占している。富の再分配がなければ、生産の活性化はあり得ない」
どうにも変だ。ピケテーロもカセロラッソも、なるほど昨年十二月の暴動を契機に勢力を拡大している。だが彼ら一人一人の生活苦は最近になって始まったことではなかった。治安の悪化にしても、必ずしもデフォルトの産物ではない。ブエノスアイレス情報が海外からも注目されているから目立つだけで、市民たちの皮膚感覚は、すでに九〇年代半ばから、金目当ての犯罪が年々凶悪化してきていると承知していたらしい。そういえばカセロラッソのピエ・アンジェリ氏も、九四年が収入のピークだったと話していた。
このギャップ、タイム・ラグは重要だ。九〇年代半ばなら、《テプラタの奇跡》が世界中に喧伝された時期である。
実際、アルゼンチンのGDP(国内総生産)の伸び率は九一年から九七年までの間、テキーラ・ショックと呼ばれたメキシコ通貨危機のあおりを食った九五年だけを除いて、五・五〜八・九%の高率で推移していた。だが一方、九一年に六・九%だった完全失業率は、すでに九四年の段階で二桁の水準に達し、九五年には一八・四%に跳ね上がっていた(国家統計・センサス院による)。その後もー桁に戻った局面はない。最近は二○%を超えたと伝えられる。この、間には失業率にはあらわれない非正規雇用や、法律で定められた条件を満たさないインフォーマル雇用の割合も著しく高まった。何のことはない、同じような社会状況が、もう十年近くも続いていたのだった。
とすれば、《フプラタの奇跡》とはいったい何だったのか。企業の業横や国の経済統計は確かに素晴らしいパフォーマンスを示していたが、一般国民はそれで幸福になれたのか?という根源的な疑問が生じる。
専門家たちの研究や各種文献に従って、アルゼンチンの現代史を簡単に振り返っておきたい。《ラブラタの奇跡》以前、八〇年代の同国は、年率五〇〇〇%にも達した凄まじいハイパーインフレに苦しんでいた。引き金になったのはマルビナス(フォークランド)戦争での軍事支出の増大と敗戦だったが、長年の放漫財政のツケが、この時代に回ってきたのだと言われる。
第二次世界大戦後に登場したファン・ドミンゴ・ペロン大統領のいわゆるペロニズムが、それまでのアルゼンチンを規定していた。大戦中のイタリア・ファシズムにも共鳴していた彼と彼の信奉者(ペロニスタ)たちは、米国の強い影響下にある南米にあって、通信や鉄道、さらには電力、石油、製鉄、化学、不動産など基幹産業の国有化を進め、労働者に手厚い福祉国家の建設を急いだ。ソ連とも一線を画したペロニズムはそれなりの成果も収めたが、長続きしなかった。大衆迎合の《ポピュリズム》にすぎなかったのだ、とする評価がすでに定着している。
民営化の果ての企業城下町
ハイパーインフレを終息させたのは、八九年に誕生したカルロス・サウル・メネム政権である。ペロニスタたちが築き上げた正義党(ペロン党)に所属しながら、メネム大統領は経済的・社会的規制を次々に緩和・撤廃し、併せて公共部門の縮小や国営企業の民営化、輸入の自由化などを断行した。米国のレーガン政権や英国のサッチャー政権が先陣を切った、ネオ・リベラリズム(新自由主義)と呼ばれる経済思想に基づく構造改革だった。
隣国チリの《成功》を追いかける格好だった。チリではサルバドール・アジェンデ大統領の左翼政権をクーデターで倒したアウグスト・ピノチェト政権が、ネオ・リベラリズムの牙城である米国シカゴ大学への留学経験を持つ若手経済学者たち《シカゴ・ボーイズ》を重用し、華々しい経済成長を果たしていた。
メネム政権はそれにも倣い、九一年には経済政策全体を束ねる経済大臣にドミンゴ・フェリペ・カバーロ氏を起用した。米国ハーバード大学で経済学を学び、経済研究所を主宰していた彼はかつてない強権を与えられ、ドル・ペソ一対一の兌換法やデノミなど、構造改革のための経済政策を、次々に実現していった。税制改革では課税最低額が引き下げられ、所得税の累進性が大幅に緩和されて、付加価値税(VAT)中心の税体系に改められた。また企業に課せられていた解雇補償金の減額、従来は認められていなかった有期限雇用の公認など、雇用制度や習慣を自由化、柔軟化させるさまざまな方策が採られた。
兌換法は一定期間だったが通貨価値の安定をもたらしたし、民営化は元国営企業の生産性を著しく高めた。「まともに申し込むと二十年は待たされる」とまで言われていた電気通信分野のサービスが改善され、高速道路網が整備されたれ、全国を結ぶ鉄道網の大部分が廃線となった代わりに、長距離バスやトラック輸送が充実した。
企業に雇用インセンティプを与えるのが目的だったはずの自由化も柔軟化も、ただし逆の結果をもたらした。元国営企業の主導権を握った欧米資本の多くもそうでない企業も大胆なリストラを強行し、あるいは余儀なくされて、一時ブエノスアイレスの街にはタクシーとキオスコばかりが溢れるようになった。
「あの頃は退職金を手にした連中が、先を争ってタクシーの権利を買っていたなあ。新参者は困るんだよ。客を拾うためなら強引に割り込むし、ルールも守らないから。だけど見てみな、そんな奴らはいつの間にか消えていっちまった」
プロの運転手を自任するロベール・リビアス氏(四十四歳)が苦笑する。タクシードライバーの溜まり場として有名なガソリンスタンドで片っ端から声をかけてみたが、みんな似たりよったりの返答だった。
キオスコもまた、淘汰は終わっている。残っているのはまだしも《勝ち組》ということなのか。マイプー通りに店を構えるロベルト・E・フェレーロ氏(六十一歳)は語った。
「私は中規模の食品会社に三十年以上も勤めていたのですが、大手に買収されましてね。ものすごい人員削減があって、私は九六年に退職しました。いえ、人事部門のマネジャーとして、私自身が他人を辞めさせてもいたわけで、自分の番が来たからって文句はありませんでしたよ(笑)。四十五歳以上の人間は、もう必要とされてなかったんです。キオスコを始めた理由は、家族だけでできるのと、日銭が入るからですね。メネム政権の構造改革のお陰で、アルゼンチンにはモノが増えました。たとえば自動車。競争がなかった時代は青いフォードしか走っていなかったのに、外国の新車がどんどん入ってきた。窓ガラスが自動で動いたのには驚きましたな。でも、昔はよかったですよ。人々が落ち着いて暮らしていた。私の店が強盗に遭ったのは一度きりですが」
ブエノスアイレスだけの特殊事情ではもちろんない。九〇年代前半から今日に至るまで、構造改革の名の下にアルゼンチンの全土で同様の現象が繰り返されている。会社勤めの人間が次々にクビにされ」わずかな退職金を元手に商売を始めるが」たいがい失敗する。雇ってくれる会社もなくて、そのうち街から姿を消していく。近頃では退職金も出ないのが普通になったとか。
ブエノスアイレスからラプラタ川の上流に向けて、見渡す限りの大草原を車で三時間ほど飛ばすと、人口十四万人弱の中都市にたどり着く。サン・ニコラス市。南半球有数の粗鋼生産量を誇った国営ソミサ一貫製鉄所の《城下町》が、民営化を経てどう変わったかを知りたかった。
市役所に行ってみる。平日の午後四時なのに人の気配がない。受付に残っていた女性に尋ねると、「午後一時にはみんな帰ってしまう」ということだった。アルゼンチンの公務員は働かない、政治家が親戚や支持者をどんどん採用して年金や恩給をばら蒔くから財政赤字が膨らんだのだ、とは聞かされていたが、ネオ・リベラリズム改革の下で、なおこれほど徹底しているとは。
ペドロ・ホセ・ノバウ市長(五十七歳)に何とか会うことができた。地元出身で、州議員、国会議員を経て九九年から現職。
「ソミサの民営化は九一年です。イタリア系国内資本の『ティッチン』に買収されて、『シデルサ』に生まれ変わりましたが、結果は悲劇的です。一万三千人いた従業員が一挙に四千人へと削減されたのです。この町には国営発電所もあったのですが、そこも四百人から九十人に減らされて、多くの人々が失業に追い込まれてしまいました。下請けや関連企業への影響も含めれば大変な被害です。それでもはじめのうちはキオスコやタクシーなど、新しい仕事を始める人が多く、事態はさほどネガティプには受け止められていなかったようです。
でも、長続きした人はいなかった。ばたばたと潰れて、九三年には地元の銀行まで倒産しました。預金の払い戻しもなければ、政府が補助金などで助けてくれることもありません。財産をフィにされた人たちはデモや裁判に訴えましたが、それきりです。アルゼンチンではそんなに珍しい話でもありません。市内の失業率は今二五%くらいかな。強盗?増えましたね」
サン・ニコラス市の中心部は、それでもあまり荒廃した様子はなかった。穀物の積み出し港などでの働き口もあるためだが、郊外は悲惨である。先祖伝来の牛の放牧や野菜の栽培をあえて止め、ソミサで働くようになっていた所帯が多かっただけに、職場を追われた彼らの生活は、難民キャンプのそれに近い。
広大で肥沃な国土はあくまでも豊かで、極貧層でも自給自足が不可能ではない。ただ、植民地時代以来の貧富の格差が、構造改革によって拡大し過ぎた。自らを中流だと信じていた人々までが貧困層へと追いやられ、この国の社会はいつの間にか、封建時代に逆戻りしようとしている……。
そんなことを考えながら、別れの握手を交わした。ノバウ市長が呟いた。
「とにかくアメリカのプレッシャーがものすごい。彼らは世界中を植民地にしようとしているのですね」
「もう我慢できない」
民衆の現在と将来を売り渡す奴ら。
過激なキャッチコピーの下に、八人の政治家たちの顔写真が並んだポスターが、廊下のあちこちに貼り出されている。そうとは書かれていないけれど、「WANTED!」の雰囲気。一人一人についての《罪状》を教えてもらうだけの時間的余裕はなかった。
インデペンデンシア通り、CTA(アルゼンチン労働者センター)本部。幹部のホセ・パラディーノ氏(六十五歳)が声を荒らげた。
「もう我慢できません。メネム政権が始めたネオ・リベラリズムは、それまで少しずつ勝ち取ってきた労働者の権利をことごとく剥奪して、アルゼンチンを資本家だけの天国にしてしまいました。この経済モデルを改めない限り、失業者はさらに増え続け、社会はさらに荒廃していくでしょう。これに比べたら、まだしもハイパーインフレの頃には職があった。現在のドゥアルデ政権も、最初は労働者の味方のようなことを言っていたので期待しましたが、IMFの融資を受けるためにはとアメリカの意向にすり寄っていくばかり。私自身はフォード自動車の労働者でしたが、仕事がどんどんブラジルに流れて、お定まりの結果です。もはやイデオロギーの問題じゃあない。労働者が働いて得た金で社会を建設していく、そんなまともな社会を、早く取り戻さなければなりません」
CTAは労働運動のナショナルセンター・CGT(労働総同盟)から九八年に分裂して結成された全国組織である。ウーゴ・モジャーノ書記長の率いるトラック運転手組合とともに、《造反派》と括られる場合が多いが、そんな単純なものではないという。
「CGTは何かと言うと権力と取引したがる労働貴族でしかありません。時々トラック取合を動かすモジャーノも、コワモテなだけで本質は同じだ。私腹を肥やすために労働運動を利用している。アルゼンチンの労働組合はペロニズムの下で育てられたために、そのペロン党から出たメネム大統領のやることに、きちんと抵抗できなかったんですね。でも、これからは違う。われわれCTAは失業した労働者とも連帯し、個人参加の政党結成までも視野に入れています。事態がここまで酷くなってくると、保身に走りがちだった中産階級も、カセロラッソという形で動き始めた。民衆のこういう力をこそ生かしたい」
働く人間がいなくなる
ところでアルゼンチンで会ったほとんどすべての人々が、きわめて強い政治不信を口にしていた。国営企業を民営化し、大企業にフリーハンドを与えていく構造改革のプロセスで、殊に九九年まで二期十年続いたメネム政権の実力者たちは、そうして動き出した巨額資金の運用を米国の金融資本に委ね、その見返りとして一部を懐に入れていったのだとされる。ここでは前出のクェージョ元ブエノスアイレス大学教授の証言だけを示しておく。
「私はメネム政権の最初の一年間だけ、金融次官を拝命していたのです。ペロニズムに囚われない、彼の現実的な政策に共鳴もした。しかし、民営化で金が大量に入るようになると、彼らは外資系企業や国内の大企業と完全に結託してしまった。こりゃだめだ、と思って私は一年で政権を離れました」
カバーロ元経済相は昨年七月、娘の結婚式パーティーに出向いたブエノスアイレスの一流レストランで、居合わせた客に卵を投げつけられた。かつてハイパーインフレを抑え込んだ実績を買われてデラルア政権での再登板を果たしていた彼は、すでに国民の憎悪の対象になっていた。またメネム元大統領はその一ヶ月前の六月、在任中に一億ドル相当の武器密輸に関与した疑いで逮捕されている。
だけどね、と『ラ・ナシオン』紙のカストリリヨン記者が囁いた。
「アルゼンチンでは品行方正な男より、《間抜けな悪党》が愛されるんです。メネムはそんなレベルでなく中世の絶対権力者のような存在だったし、何度も批判しましたが、実際に失業者だらけになるまで、世論は動きませんでした。一時は支持率が五五%もあったんですよ」
もっとも、メネム元大統領はなお意気軒昂であるらしい。半年足らずの拘禁生活から解放されると、アンデス山脈を望む生地ラリオハの豪邸暮らしを再開し、二〇〇三年の大統領選拳でのカムバックを表明した。傍らには三十歳以上年下の再婚相手、元ミス・ユニバースのセシーラ・ボロッコ嬢が微笑んでいたという。
同じ南米のチリがネオ・リベラリズムの構造改革を成功させた秘訣は、当初の政治体制が民主主義でなかったためだという説がある。(なんとも皮肉なのは、国の役割を最小限にまで締小すべきだとする経済理論に基づく政策を遂行するのに、軍事独裁政権の力を使ったことである)と、米国ケンブリッジ・エネルギー研究所のダニエル・ヤーギン所長らが書いている(『市場対国家』山路洋一訳、日経ビジネス人文庫)。
国家が権力によって民間企業の自由を拡大するネオ・リベラリズムとは、はたして聖人君子でない生身の人間に実行し得る思想だろうか?アルゼンチンでも国民総背番号制度のIDカードをIC化する動きが進んでいる。走行車両の監視システム導入も早かったが、社会そのものが破壊され、人々が絶望してしまえば、そんなものは犯罪防止の役にも立ちはしない。
建設機械商社・イグレッタのラモン・0・イグレッタ社長が、慎重に言葉を選んでいった。従業員数四百五十人の車体メーカーを、三十八人から成る今日の姿に転換させた彼は、ともかくも成功した企業経営者の一人である。
「私は世界中の経済を見てきましたが、こういうことは言えます。民営化やグローバリズムでうまく行く国もあるし、駄目な国もある。国内産業を重視してうまく行く国もあるし、駄目な国もある。それぞれの国の風土や文化に合った道を選ぶことが大事なのではないでしょうか」
多くのアルゼンチン国民が、職を求めて海外に逃げていく。ヨーロッパからの移民二世、三世たちは、ルーツを持つ国に向かうことが多い。メネム政権は金持ち優遇税制を採用して外国資本を招き入れたが、このままではいつか、働く人間がいなくなる。
若者の多くが未来に夢を紡げないでいる中で、希望に瞳を輝かせている若者に出会った。ナタリア・ペトロシーニさん、二十四歳。ブエノスアイレス大学法学部に学んでいる女性である。
「アルゼンチンの大学生はみんな仕事を持っています。私も旅行代理店で働いていますが、給料がどんどん下がっていくので、辞めて英語の教師でもするつもり。三年後に卒業したら、法律的な文書を翻訳する仕事の資格を取ります」
彼女は続けた。
「そして、カナダで働くのよ」
さまざまな条件の違いはあっても、アルゼンチンが強行したネオ・リベラリズムと、現在の日本が進めようとしている構造改革の間には、あまりに多くの共通項を見いだすことができた。竹中平蔵経済財政担当相もカバーロ氏と同じハーバード大学の出身である。日本の社会を取り返しのつかない状態にするつもりがないなら、政府はアルゼンチンの現実を徹底的に研究する必要がある。一刻も早い視察団の派遣を提言したい。