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(回答先: 連続的な需要構造変化 投稿者 たにん 日時 2002 年 9 月 18 日 06:39:04)
#この解釈が正しいことを実証できるだろうか?
http://www.geocities.co.jp/WallStreet/8086/letter/letter36.html
1873〜1896年--長いデフレ期、しかしながら長い不況期にはあらず
1873年から1896年にかけて、ヨーロッパ経済は強いデフレ圧力の下にあった。物価は20年以上に渡って低下し続けていた。1873年から1896年にかけて、世界の輸出量は単位価値あたりで36%低下しており、デフレは世界的規模で生じていた。賃金が物価ほどには柔軟に変化しなかったので、利潤は長期に渡り圧縮されていたのだった。非農業部門の所得における利潤シェア--この利潤シェアはその部門において賃金生活者の割合が高まりつつあったことの影響を受けていた--は、イギリスでは1872年の52%から1893年の46%へ、ドイツでは1872年の22%から1876年の15%へ、フランスでは1872年の38%から1895年の20%へと、推移した。農民や一部の企業家たちは、関税の再引き上げを要求し、その要求を実現した。漠然とした社会不安は、ユダヤ人排斥の再燃をもたらした。お互いに矛盾することのない、複数の解釈がデフレに対して提示された。国際輸送コストの低下や新しい競争相手の出現に伴って国際競争は激化した。これらの競争相手は、時としてその成長の基盤を作付面積の急速な拡大においた新興諸国であったり、あるいはまたドイツのような急速に工業化した国々であったりした。通貨システムにおける正貨元金は、金の世界産出量の減少および銀貨の通用停止により、乏しくなっていた。1840年代より需給成長を牽引していた鉄道産業への投資は過剰となり、19世紀末から長い停滞期に入った。
しかしながら、「1873〜1896年の大不況」というものは存在していなかった。なぜなら、この時期を対象として再構築された回顧的な国民会計によれば、1873〜1896年の間ヨーロッパの成長は続いていたからである。近年の経済史研究によれば、イギリス経済は、1899年以降はじめてその成長の急激な低下を経験したのであり、専門家の大半は、相対的な衰退の要因は1870年代に起源を持つと考えている。ドイツでは、1871〜1873年の投機ブームが突然の金融危機によって終わりを迎え、陶酔状態のなかで創設された会社の多くがその危機の最中に消滅した。この設立者たちの危機("Grunderkrise")の後10年間ほどの不況が続いた。フランスにおける、変化は長期的不況という考え方により適合的なものであった。農業は、1865〜1890年の間厳しい状況にあったし、1881年の総同盟の瓦落によって崩壊した建設業は、1905年まで危機の状態にあった。
グラフ1 1870〜1913年の純投資率 英■ 独▲ 仏○
至る所で物価が低下していたにもかかわらず、ヨーロッパの主要三国は、実質的には大いに異なった経験をしていた。このことは、グラフ1に示した総量における純投資率の変化によって説明しうる。イギリスでは、クズネッツ循環に相当するような約10年周期での上昇局面と下降局面が見られる。ドイツでは、1874〜1879年にかけて投資は落ち込み、ついで1899年まで長期的ブームを経験した。この長期的ブームのなかでドイツ工業はイギリス工業に追いついた。フランスでは、1881年まで投機ブームが投資率を押し上げ、その後1905年まで長期的な下降をたどった。
物価下落という国際的な特徴は、固定為替相場と国際輸送費の急速な低下から理解できる。しかしながら、重要なのは各国間の実質的に異なった経験を説明することである。その際、レギュラシオン理論は適切な概念を提供する。なぜなら、投資についての国ごとに多様な軌道は、労働市場や資金調達に関わる制度上の大きな違いから理解できるからである。換言すれば、この軌道は、英仏独の三国が異なる蓄積体制を経験していたという事実から理解できるのである。これら三国が19世紀末にそれぞれの難局のなかで見いだした解決策を検討することは、教訓に満ちている。
イギリス:国際化し「金融化した」蓄積体制
1840年代以降、国際貿易は、生産よりも急速に発展した。イギリスは、最も早くから、そして最も遠隔地にまで至る、国際化という道のりに身を投じた国であり、1840年にはすでに自由貿易を採用していた。1850年代以降、資本輸出が商品輸出の後に続き、それらの飛躍的発展は、ロンドン市場を操る商業銀行に利益をもたらした。1873年に長期デフレと利潤の下落が始まった際、商品と資本の対外貿易の重要度は、既に非常に高かった。
マクロ経済的には、1873年から始まる期間は、一方での国内投資と、他方での対外投資と商品輸出との間のシーソーゲームとして、特徴づけられる(グラフ2)。
グラフ2 イギリス 1870〜1913年 GDPに占める国内投資I 対外投資K 商品輸出Xの割合(単位%)
1877年から1887年にかけて、工業における利潤低下と鉄道投資の減少は資本の超過をもたらし、この超過分は外国へ投資された。そのような対外投資の増加は、商品輸出の増加をもたらし、こうした投資の増加のおかげでイギリスは引き続き成長できた。。1887年からは、苛烈な金融危機が複数の新興国を襲った。資本の潤沢さは、輸送インフラへの過剰投資を招き、銀行は資本輸入からもたらされた流動資金の一部を利用して、不動産投機への融資を行ったのである。1898年まで、資本は新興国から流出し、再びイギリスへ投資された。イギリスにおいて利子率は、大きく下落し、株式相場は高騰した。イギリスの国内投資は、1900年頃まで飛躍的に発展し、それが対外輸出における損失を補っていたのである。イギリスの成長は持続していた。
1900年から、この蓄積体制の悪い側面が顕在化し始めた。新興諸国の情勢は、特に1次産品における国際価格の値上がりのおかげで、安定化した。これらの国々は再び大々的に外債を発行した。イギリスでは、利潤の回復にも関わらず、国内投資が減少したが、その理由は、国内の株式相場の下落に対し、利子率が再上昇したためである。対内的蓄積は、対外的蓄積に駆逐された。加えて、新興国あるいは途上国向けの資本輸出と商品輸出との結びつきが、既に成熟段階に達していた繊維産業、鉄道設備産業へのイギリスの特化を決定的にした。イギリスは、急速に近代化していた、アメリカ、ドイツ工業との競争に徐々に曝されるようになっていた。
ドイツ:国内投資の早期回復と独占的調整の登場
マクロ経済からみた、ドイツの特殊性は、1878〜1879年から、利潤および投資がきわめて急速に回復したことである(グラフ3)。これに対し、他国では、約20年間に渡り、利潤は物価と賃金の動きの間に挟み込まれていた。これらの回復は、1870年代以降ドイツで著しく発達した、多様な企業連合の過程と密接に関わっているだろう。1番目は、公権力に圧力をかけることを目的とした職業連盟の創設である。職業連盟は、1873年以降、関税の引き上げを要求するために創設された。農民たちもこの流れに同調した。従ってドイツは、1860年以来実践されていた自由貿易政策を、1878年に西欧で初めて破棄した国となった。多様性の2つ目は、雇用者組合の創設であり、その設立目的は当初労働者組合の創設に対抗することであった。それらの組合は社会主義的な特徴を帯びた活動を禁じる法律をも支持していた。物価低下に真っ向から対抗すべく、1870年代末以降、カルテルが増加していった。最後に、大企業と一般銀行との連携が強化された。「組織化された資本主義」形態への急速な移行は、企業の独占力を増大させ、賃金-利潤シェアを企業の意のままに変更することを可能にした。
ドイツの金融システムは次のような特殊性を備えていた。すなわち、ドイツでは、株式市場はイギリスほどには金融システムにおいて重要な役割をはたしていなかったのであり、またドイツの預金銀行の役割は短期の信用貸し付けを行うことにとどまらなかった。1880〜1900年の間、投資に融資される銀行の信用貸し付けは大幅に増加していたが、イギリスやフランスでは預金銀行と商業銀行との間にはより明確な境界線が引かれていた。ドイツの銀行が、より成長志向の、またよりリスクが大きい戦略をとったのは、複数の制度的な与件に関わっている。ドイツ連邦銀行の権限を定めていたのは法律であり、法によってドイツ連邦銀行は自らの貨幣発行限度を越えてもよいと明確に認められていたのだった。それに対してリカード理論に着想を得た、イングランド銀行の権限は、きわめて限定的なものであった。ドイツの銀行は確かに、当局という後ろ盾に支えられていた。ドイツの商法は、銀行に対し、それ相当の株式を保有していなくても、その企業の監督会議への参加を認めていたのであり、銀行は自分たちの顧客の投票権を行使することができたのだった。さらに、1873年の金融危機の後、政府は株式市場を規制し、とりわけ有価証券の発行を実施しようとしている企業に対して、新たな有価証券を、市場に売りに出す前に1年間銀行に委ねることを義務づけた。
グラフ3 ドイツ 1870〜1913年 国内純生産に対する国内投資Iと利潤πの割合(%)
ドイツの制度上のもう一つの比較優位は、ドイツが1870年以前に義務づけていた労働力形成についての多大な努力であった。プロシアは、ヨーロッパで最も早く初等教育を義務化した国の一つであった。加えてドイツ国家は、近代的な教育機関や多様な職業教育機関を19世紀を通して設立した。初等教育終了後も教育機関に通っていた学生数は、イギリスやフランスに比べ、ドイツが圧倒的に多い。労働力形成に役立つこうした多大な努力の理由の一つに、相互扶助の実践を強調する独特の宗教的思潮、Mitteleuropa(中欧)(17世紀ドイツ・ルター派教会内の)敬虔主義を挙げることができるであろう。この宗教的思潮は、(1860年代になってようやく完全に廃止された)ギルド、貯金銀行、職業研修を擁護する、社会的キリスト教の一形態であった。高次なレベルで労働者と企業経営者(その多くはエンジニアであるが)の資格を形成することによって、ドイツは、化学と、電化製造業とに特化することができた。これらの産業は、19世紀末において、最も知識集約的な、かつ新たな産業革命を導いた産業であった。
ドイツの重要な特色の最後の点は、1880年代を通して行われていた強制拠出による社会保障システムである。その根拠は経済的なものではなかった。消費による経済振興は、この時代にはまだおよびもつかない方法であり、また労働者世帯の賃金のほとんどが食費と住居費にあてられていたため、そのような政策は効果がなかった。上記のような社会保障システムは、古い特権階級集団に利益をもたらす、伝統的な政治体制を維持するために採られた。つまり、第1の目的は社会保障システムによって、労働者の側からみたその体制の正統性を確保することであった。権力の中枢である大都市に集中して、労働者の数は急速に増大していたのである。加えて、1878年の保護主義への転換によって、複数の大臣が辞任に追い込まれ、中産階級を代表する自由主義政党の一部が野党側へ移った。この転換は、労働者階級への歩み寄りに一役買った。 短期的には、ドイツ経済の調整は依然として、物価と名目賃金の低下を伴う競争的なものであり、ジュグラー循環を描いた(グラフ3にあるように、1873、1883、1890、1899、1907年にピークを迎えた)。しかしながら長期的には、企業集中、銀行経由での投資資金の調達、独占的調整による主要制度によって、資本蓄積は持続した。
フランス:蓄積の長期停滞
フランス経済は、イギリスやドイツのような解決方法を採ることができなかった。対外投資は、国内投資と反対に多様であった。すなわち対外投資は、1882〜1905年に渡って増加したのである。しかしながら、資本輸出が商品輸出の増加にそれほど結びつかなかったので、シーソーゲームはあまり効果がなかった。フランスは、新興国に資本を輸出し、北西ヨーロッパに商品を輸出した。加えて、フランスの輸出率は、イギリスのそれを明らかに下回っていた。
グラフ4 1872-1913年 英RU□ 独ALL▲ 仏FR○ における名目賃金(1872年の水準を1000とする)
フランスの利潤シェアの低下は、ドイツやイギリスのそれよりも大きく、また長期に渡った。その主な要因は、E.H.Phelps Brown、M.Browne(1968)が行った一連の比較研究によれば、デフレ期間の名目賃金が事実上、下落しなかったことに他ならない。パリコミューンの敗北後、フランスの労働者組合が、他のヨーロッパ諸国のそれらに比べて強力であったかもしれないとか、、賃金低下に対してより効果的に立ち向かっていたのかもしれないと主張することはまずできない。しかしながら、フランスの制度的特質がある役割を果たしたことは疑いない。すなわちフランスにおいて重要な役割を果たしたのは小規模自作農である。
実際、フランス革命がもたらしたのは、教会が所有する土地のほとんど全てと特権階級が所有する土地の一部の売却であった。民法が相続権の分割をもたらし、その結果、労働力は依然として領土内に分散したままであった。フランスでは、多くの小さな町に農村風の居住様式が残り、労働者の大部分が依然として農民のままであった。都市部の労働市場は、なおも農業活動と区別されていなかった。従って、工業部門に危機が生じた際、農業が緩衝となって、都市部の失業率の上昇を抑制した。賃金下落の圧力は、極めて小さかった。小規模自作農を通じて、家族的関係が危機のショックを和らげた。フランスの停滞のもう一つの要因は、都市部の建築業の長期的不振だった。その長期的不振は、利潤圧縮と、1850年代〜1870年代の大都市改造政策に伴う不動産投資がもたらした工業投資の不足とに原因があった。
危機における制度上の変化についての不完全ないくつかの結論
19世紀末に生じた制度上の変化は比較的限られたものにとどまっており、調整様式の手続きに深刻な変動をもたらすものではなかった。しかしながら、独占的調整様式の主要な要素が形成され始めていた。
イギリスは特別な例外であるとしても、ヨーロッパ諸国は、1860〜1878年にかけて関税を引き下げた一方、1879年以降は関税を引き上げて不況に対応した。しかしながら、19世紀には保護貿易はごく当たり前に見られた貿易体制であった。財政上の観点からすれば、保護主義は自由主義とみなされるべきであることを強調せねばならない。なぜなら、保護主義によって国家は、経済主体の所得や財産に関する詳細な情報を収集せずとも、す主要な租税収入を引き出すことが可能であるからだ。関税―それは多くの場合、必要不可欠な生産物に対して課されたのだが―からの収入は、とりわけ都市部の労働者に影響を与えたことも指摘せねばならない。保護主義の台頭が、世界貿易の停滞を招くことはなかった。なぜなら、保護主義は非常に選択的で、ごく少数の生産物にしか関わりがなく、その上、特恵的な2ヶ国間協定にとって代わられたからである。
フランスとドイツでは、中央銀行が大衆における紙幣発行と預金の拡大を促進することで、金(兌換)の問題に対処していた。こうした政策は十分に効果的であった。なぜならこの政策によって中央銀行は流通している硬貨の一部分を集めることができたからであるつまりこの政策は、利子率を低下させるための操作に幅をもたせた。しかしながら、明らかに、金本位制というゲームのルールが、ジュグラー循環の継続が証明するように、引き続き必要であった。
危機からの脱出に寄与した制度のいくつかは、1872年以前に既に存在していた。前述の、教育に関するドイツの努力は、ナポレオン戦争の末期に始まっていた。ドイツの(預金銀行と商業銀行との)混成銀行は、Pereire兄弟のCreditMobilierのやり方から学びつつ、1850年代以来発展した。1875年以降、資金調達の大半を有価証券の発行でまかなっていた鉄道建設に陰りが見られたこと、金融市場へほとんどアクセスしなかった企業が属していた産業が発展したこと、そして経済政策のおかげで、そうした混成銀行は飛躍的発展を遂げた。
しかしながら、より明白であった2つの変化が存在している。その一つは、企業集中形態の多様な過程であった。これは主にドイツとアメリカで見られたが、ドイツは特に顕著であった。なぜなら、この多様な過程は、カルテルや産業グループ・金融グループの創設を伴う、経済的なものであったからだ。と同時に、これは、政府や賃労働者に圧力をかけることを目的とした強者の連合伴う、政治的なものでもあった。そして、それは賃金-利潤シェアに、したがってまた投資率にも、重要な影響を与えたのだった。
2番目の重要な変化は、強制的な社会保障システムの創設である。強調すべきは、このシステムが、ドイツを手本に、1890〜1914年にかけて他のヨーロッパ諸国へ、徐々に部分的に普及していったことである。だが、マクロ経済におけるこのシステムの重要性は、依然として取るに足らないものであった。ドイツでさえ、例えば1913年の国家収入に占める社会保障システム関連費の割合は、3%に過ぎなかった。しかしながら、こうした制度は、経済、法律、政治の3部門に関わっており、強制的な社会保障システムは、法的秩序と政治的秩序との間の断絶を意味した。自由主義の枠内では、各々の個人は先見の明(貯蓄)と契約(保険)によって、リスクから自らを守らねばならない。強制課税による資金調達でまかなう医療保険や労災保険の創設は、公権力のおかげで実現した、リスクの「共有化」であった。このシステムの批判者は、その言葉にだまされなかった。彼らはこのシステムを皮肉を込めて「神の国家」と呼び、この言葉によって、国家が神に取って代わろうとしていることを明示したのである。当時自由主義者にとって完全なるものはまさに市場であった。
イギリスやフランスでは、制度上の変化が依然として限られていたので、これらの国の生産システムは再生産されていた。イギリスは、対外的な経済・金融関係に乗じて、不況傾向をある時期克服することができた。これこそまさに支配的強国がもつ比較優位である。この強国は世界金融において最高の地位を占めていたし、また商品と資本の確実なはけ口を供給する、第一級の植民地を所有していたのである。フランスでは、個人所有と保護主義とによって、不況の社会的な影響はごく限られたものであった。このような保護主義的なメカニズムは、1930年代にも作用した。無論、それらが、危機における「上からの」脱出の一つであったわけではない。しかしながら、19世紀末のフランス経済は、停滞からの脱出で幕を閉じた。とりわけ、アメリカの「フロンティア」時代の終焉が、世界的なデフレの進行に終止符を打ったからであった。ドイツでは、生産システムが著しく変容し、経済効率が損なわれることなく、むしろ上昇しながら、独占的調整メカニズムの配置が開始された。ヨーロッパでは、不況に対し国ごとに異なる対応策がとられた。その多様性が、19世紀を通じた国家主義的感情の強化によって促進されたことは間違いない。そして、それら国家主義的感情は20世紀初頭へと引き継がれた。
19世紀末の経験は、今日見られる、急速な変動を望む人々と、穏健な変動を望む人々との間の論争を活発化する可能性がある。そうした過去の経験が両義的であるにも関わらず、1873〜1896年の不況局面から得られる教訓は、非常に穏健的な改革プログラムにとって有利なものであるかもしれない。