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(回答先: 『中央公論』7月号掲載の榊原論文を評す [現状認識編] 〈「匿名希望」氏のレス期待〉 投稿者 あっしら 日時 2002 年 8 月 10 日 20:46:32)
日を改めてしっかりした投稿を行おうと思ったが、いつ投稿できるか分からないため、書きこみすることにする。限られた時間でのやっつけ仕事で恐縮だが、
あっしら氏の榊原論文に対する反論につき、簡潔な検討を試みつつその先を展望したい。
書きなぐりで、まとまりのない内容になるかも知れないが、予め御容赦願いたい。
榊原氏が、デフレの主要な要因をグローバリゼーションと技術革新を基にした構造的なものである可能性があるとする立場を取る一方、あっしら氏は資本化されない余剰通貨の存在が構造的デフレの主要因だとみなす。
この論点については、どちらにも一理もニ理もある。私の考えはこうである。そもそもなぜあっしら氏の言うように、消費にも投資にも向かわない余剰通貨が増加するのか。さしあたり貯蓄を減らしてまで消費せねばならぬほど(富裕層の)日本国民が切羽詰っていないからである(消費を拡大したくなる明るい将来の見通しがない、と言っても良い)。投資は最終的には消費を当てこんでなされるものゆえ、消費が伸びないと期待されれば投資も増えない。90年代から一貫して供給過剰にある中、デフレギャップを埋める本格的な契機はついに掴めなかった。冷戦終結後のメガ・コンペティション状況はこの流れを拡大・増強するものとして理解されるべきだろう。
あっしら氏の主張する「処方箋は、国家の政策で余剰通貨を資本化すること以外にないのである。」という点については、全面的に賛同する。歴史的な視野に立ち概観しつつも、歴史のアナロジーにとらわれる榊原氏をあっしら氏がある面で凌駕していることも認めて良い。19世紀末と現代の違いを明確にした点など、鮮やかな指摘である。しかし、あっしら氏の立論にも難点があることは否めない(私のあっしら理論の咀嚼不足から来る誤解かも知れぬが)。
まず、あっしら氏はセイの法則に基づき、供給が需要を生む(供給=需要)という考えを提示する。従って、余剰通貨が資本化され、供給(力)になれば需要は生まれると考えておられる(ように見える)。しかし、言うまでもなくセイの法則には価格メカニズムの暴力的調整機能がその基盤にあることを見落とせない(つまり、供給されたものが売れなければ、売れるまで無限に値段が下がって行くというもの)。
次にあっしら氏の言う「労働価値」は労働生産性と概念的に近似のものと思われるが、この概念のみで国際競争力についての説明を行うのは厳しい。卑近な例で言えば、ドイツ車や日本車が米国市場において米国車と同じ値段で売られると前者が圧倒的に売れるのだ。つまり、「生産効率」に還元されない競争力があるということだ。それゆえ、為替レートを人為的に動かしても収支不均衡はおいそれとは縮小しないということでもある。
そして、あっしら氏によれば、貿易黒字は増加基調を維持すべし、主要民間企業は賃上げを行い、海外への生産移転を自粛せよ、ということになる。勿論、そうなってもらえれば万々歳だが、そう唱えているだけで実現するほど現実は甘くあるまい。
ただ、以前にも言ったかも知れないが、批判するだけならたやすい。有効な政策がないからこそ、大の大人がシンギンしているわけである。それではお前に妙案でもあるというのか、と言われそうだ。
こういうグランド・デザインを描く時には、今の延長線上で物事を考えてはうまく行かないと個人的には考えている。そこへ至るプロセスは後から考えるとして、将来の理想的かつ持続可能な経済像を予見しうる与件を基にして組みたててしまった方が良い。
ごく簡単に言うと、既に日本人はGDPを拡大再生産してゆく金の使い方をできない(知らない)国民になってしまったということだ。だが、金を使わないと経済は直ちに縮小過程に入る。では誰が金を使うのか。政府である。ただ、これまでの歯止め無しの赤字垂流しとはワケが違う。然るべき増税により、消費意欲を全体として大きく減退させることなく、国が吸い上げ、国民に成り代って使ってやるのだ。公共目的に適う金の使い方は実は無限にある。
ただ、現状とそのような理想像には大きな段差があり、「血を見ながら」そこに至ることになる可能性が極めて高い、ということだ。
だいぶ、取り止めのない内容になってきたので、この辺で終わりにしたい。