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(回答先: Ddogさんへのレス:世界経済に対する長期的な見通し 投稿者 あっしら 日時 2002 年 8 月 08 日 16:32:21)
管理通貨および通貨について個人的な考えを述べてみたいと思います。
結論からいえば、我々の社会の枠組みが根本より変革されない限り、管理通貨制度は保たれる。また、それにとって変うるシステムが発明されていないし、通貨の本質から逃れられる通貨に代わる道具は存在しないだろう。
管理通貨および通貨について、個人的意見を述べる前にまず、株式について述べたい。
というのは、私は、株式を通しての世界観が身に染みついてしまっているので、証券サイドからの見方ということで理解していただきたい。
株の値段とは不思議なもので、皆がその真の価値を測ろうと努力して、PER、PBR、ROE、ROAetcいろんな物差しを駆使し、市場価格と比較して、割安割高だ、買いだ売りだと判断するのです。しかし、市場を通して売買が成立した値段こそ正当な価格とされます。実際のところ売買が成立する値段は、多くの場合、直前の約定値を参考にした需給関係で決まることが常です。その値段は売り手と買い手の共同で抱く幻想にすぎないと感じています。
PERが1000倍を越えて、私はついていけなかったソフトバンクの株価は2000年2/15に198000円を付けました。1株198000円は、その値段で売買した人達の共同幻想でもあり、市場参加者もその幻想を信じていたことになる。 分割したにせよ、8/8引け値は1117円 わずか2年で約200分の1、この落差はマーケットを通すことにより、多くの人間に株価を適性と認知させる株価形成システムが、共同幻想で成り立つか典型的な事例とお思います。
蛇足ですが、当時ソフトバンクの目標株価を確か27万円(資料紛失、記憶です)と業界一高く掲げていたリーマンブラザーズ証券は、8/6のレポートで、目標株価975円と業界一低く設定しています。
そもそも証券市場の成立する土台は、長期で大きな資本を必要とする企業と、短期で小口の資金しか提供できない投資家の調整市場が証券市場です。公開するときの売り出し公募価格も類似業種比準方式、純資産価格方式、配当還元方式を駆使しても適正価格はあってないようなものかもしれません。幹事証券と公開企業が設定した価格が最終的に適正かどうかは、市場が判断することになります。多くの場合、公開時に急騰したり、下落するケースが多い原因と思います。人間の恣意よりマーケットの方が適正価格の形成は、共同性が高いわけですから当然正当性が高い結果となります。
同じ富士山を同時に見ていても、観測地点や視点によってまるで違って見えますが、多くの人が多くの地点で眺め見て、実際に山に登る人もいて実際の富士山はこんなものだと認知したような気がするだけです。いわゆる唯識思想ですかね。
哲学的形而上の思考と実学を結びつけるには多少無理があるが、証券市場の本質は、その幻想を持続させる一つのシステムだと考えています。
実際自分が売る時にその値段で買い取ってくれる保証もないのに、その株にはこれだけの価値があると共同で幻想を抱かせるシステムです。幻想を共有することにより、蓄積された労働成果の何倍何十倍も、幻想が途切れるまでは、信用(幻想的価値)を創造生産拡大することが可能と、なるある種魔法のシステムではないでしょうか。先物オプション、デリバティブも、延長線上にあり、その共同幻想システムの梃子の部分を強化した幻惑システムと考えても当たらずとも遠からず。LTCM危機の時には怖いほど思い知ったはずですが。
すいません話が回りくどくなりました、ようやく通貨についてです。交換手段 価値計測 価値貯蔵 そのシステムの根幹を成すのが通貨ですが、管理通貨制度も証券と同質の共同幻想システムの一部にすぎないと思います。所詮紙切れと言ってしまっては本末転倒で、通貨とは共同幻想システムの一部を構成している道具です。皆さんも、みずほBKのトラブルの時痛切に感じたと思いますが、紙切れならまだ十分ましな方で、電子で処理された今日では、電気的に消失しかねない現実を目の当たりにして、通貨システムもその危うさは十分過ぎるほど感じたと思います。
これは、自分なりの仮説ですが、通貨の起源は、物々交換の人気商品であった。誰でもほしがり、すぐに欲しいものと交換することが可能なものであったはずです。それがやがて、通貨らしきものになった時点で、価値尺度として共同幻想が始まり、貯蔵する手段となった時には本質的価値から独り歩きしはじめたのではないでしょうか。通貨の共同幻想性は通貨の起源から表裏一体となって持続していると思います。このことは、通貨の本質と考えて差し支えないと思います。
通貨の本質において、共同幻想性を有しているならば、金本位制も、管理通貨制度も、本質的にはなんら変わらないのではないでしょうか。そして今後も電子マネーの時代になろうとも、なんら本質は変わらない。
紙幣の起源は、モンゴル帝国が発行した塩の兌換証券だったとも言われています。広大なモンゴル帝国の通貨システムとして機能したそうです、通貨為替の機能を社会システムで保証されて、初めて価値を成すことも重要な要素です。当時その信用の裏つけは、元の強大な軍事力でした。ただしここが重要、国家が通貨として押し付けたのでなく、商人同士での融通が起源という点です。結局元の崩壊とともに紙切れになってしまいました。江戸時代の藩札も旧日本軍の軍票も、本質的にはなんら変らない。極端なことをいえば、人生ゲームのお金も、そのゲーム上ではなんら変らないかもしれない。(ちょっと極論すぎました。)通貨制度が維持できるかどうかは、あっしらしの指摘するように、その社会の持続性が保てるか保てないかと同じことです。
通貨を健全に正しく管理することにより、インフレを起こさず通貨の共同幻想を維持することは、為政者の責務であると思います。その責任を負えない場合は、為政者は退場していただく以外方法がない。(どうやって?)
あっしら氏の労働価値説へ多少批判になります。何度も疑問に感じるのは、ご説での労働価値は、計量化できないと思うからです。目に見えた尺度は存在しない概念ですよネ。ですから通貨は労働価値と比例する考え方にはわからずでもないが釈然としない部分です。
また、労働価値を高める条件として、外部国民経済から得る利益とされています。所謂貿易黒字ですが、戦後日本の日米間の関係で考えましょう。日本が得た貿易黒字は、蓄積労働価値の上昇分もありますが、(数字的資料は探しますが)何割かは資本として、米国に還流し、その分円高となった。円高になった分投資を行なった経済主体は円ベースでの損失となり、国民経済も損失したことにはならないのでしょうか。
資本が還流しない限り貿易黒字を伸ばすことはグローバル社会では許されず、米国へ資金還流していった事実を踏まえると、磐石に見える労働価値上昇説の弱点ではなかろうか。もっとも、1ドル360円から120円へ3分の1にドルが下落したが、5%の複利計算でも、23年で307%になるからそれで調整されるのですかネ。
また止め処もなく、まとまりがない文章になってしまいましたが、通貨および管理通貨制度について、あっしらさんへのレスというか個人的雑感です。ご批評ご批判は甘受いたします。