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(回答先: Re: どういう理念と武器で戦うべきなのか 投稿者 ビルダーバーグ 日時 2002 年 11 月 15 日 13:46:53)
ビルダーバーグさんどうもです。
アメリカは今、虚飾の仮面を脱ぎ捨て、開放感とともに
思うさま真の自分を生きているといったところではない
でしょうか?
国内や同盟国からここでいうオモチャを取り上げて、
どれだけの間もつかは分かりませんが。
正直なのは誰にとってもあまり悪いことではないかも知れません。
レビューを見ただけで実物は見てないんですが・・・
イージーライダーという70年代の映画の中でヒッピーがバイクで
旅するんですが、その中で、ヒッピーバイカーがこう言ってます。
「アメリカ人は真の自由と、それを実践する奴を見るのを恐れている。
そういう彼らの恐れは、深刻な脅威なんだ。
なぜなら、本当は、アメリカ人は自由なんてものを全く許さないからだ。」
とか言ってるそうです。(んで、その見解通りに彼らは殺されてしまい、終わる話です。)
アメリカが正直者になった現在に至って初めて、そういう言い回しの
意味が納得行ったような気がします。
要するに奴らにとって自由というのは目的などではなく手段にしか
過ぎないんだと思います。結局、譲り合い分かち合う自由ではなく、
奪う自由、殺る自由ってとこじゃないですかね。
そしてその事実を良く分かっており、悩んでおり、ひょっとしたら
その過酷な運命に絶望すらしているかもしれないと思います。
そして彼らが自らに求められる救いは、「世界最強でありうる」という事実
その一点のみだと言っても過言ではないでしょう。そしてそれに呪縛されています。
彼らは戦闘ヘリコプター(アタックチョッパーですな)にアパッチとか
コマンチとかカイオワウォリアーとか、北米先住民由来の名前を付けたりしますし、
大戦時の悪逆非道とは裏腹に、軍人の著作などが日本文化を非常に高く評価していたりします。
本当に彼らを救いうるのは、彼らが滅ぼしてしまったものたちの価値観だと
いう事に気付いている節があります。
(釈迦に説法になってしまいすみません。)
さてムスリムとの激突はどういう結末を迎えるのか分かりませんが、
私はムスリムはここでいうオモチャを完全に否定しうる数少ない戦闘民族だと思います。
日独、ソビエトなどはオモチャ欲しさに戦ったようなものなので
ちょろい物だったわけです。資本主義の申し子であるところの共産主義も、
歯ごたえはありましたがオモチャのご利益で勝ちました。しょせん共産主義は資本主義の
バカ息子でしかなかったって感じです。
しかし今回の、オモチャになびかない戦闘民族との激突はアメリカにとっても
かなりの賭けでしょう。昨今の国内外からのオモチャの回収とは無関係では
ないような気がします。相手国破壊のための戦略兵器として使えないオモチャを
諸国に賄うのは意味が無く、負担でしかないですし、
だいたいオモチャが実際にただのオモチャだとバレてしまってはそれこそおしまいです。
だけども、もうかなりバレてますよね。みんな目を覚まし始めています。
だからこの戦いはどう転んでもアメリカの最期を飾るものになるのではと考えています。
今度ばかりはアメリカが持たざる者(オモチャしか持ってない)で、
相手側は(本物を)持つ者だからです。
オモチャをかなぐり捨て、アメリカの本当の理念である戦闘能力崇拝・殺人能力崇拝を
前面に出してそれを何か特殊な理念で束ねて武装しない限り勝利が見込めません。
しかしそれでは、誰がオモチャに変わってそういう物を受け入れるのかと言う問題に
直面します。オモチャの代わりとしては、そんな馬鹿らしいものより
誰だって本物を選びたいはずです。ある意味、戦う前に負けてます。
アフガニスタンの米兵も、なんでもありで慰めてもらわねば戦えないほどに
負けてるんだと思います。裏ではすでに相当の事をしているでしょう。
もうB兵器や中性子爆弾とかを使いたい誘惑に耐えかねているんじゃないですかねえ?
それ以前に泣いて帰って行ったりして(笑)
結局、アメリカはそういう不利さに気付いているのでオモチャの時代を
終わらせようとしているのだと推測できます。
オモチャでは勝てないので古代・中世風の選民社会を導入して
目障りな奴を消滅させるのか、あるいはムスリムを滅ぼし、そこから本物を略奪して
改造し自分たちの理念に据えようとしているのか。多分そのどちらかだと思いますが、
いずれにせよ、かつての姿は微塵も無く消え去り変貌する事になるでしょうし、
それ以前に今度書いたであろう絵図が成功する見込みも相当低いと思います。
宗教の勝利が近付いていると言ったところでしょうか。
だからたとえば日本にとっては、来るべき情勢はいい機会になるでしょう。
日本は後戻りできないところまで来てしまった国ではありません。むしろ
大戦時に戦い倒れた同胞の献身がいま実り、向きを変えるべきときに一番自由な
ところにいる国だと言った方がいいでしょう。
手段を選ばず心中を迫る、終わった「さるお国」を丁重に、しかし断固として
拒絶し、それに伴う半端ではないだろう打撃を耐えしのげば、
日本は来るべき新しい世界に親和し国民の安寧を得ることが出来ると思います。