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(回答先: Re: 認識と真理 投稿者 ちょっと 日時 2002 年 11 月 09 日 03:46:37)
あっしらさんからレスとは驚いたのう。久しぶりじゃのう。いつも質・量共に心ある膨大な提言をされ、感心させられておるが、こっちの方面にもご登場いただくとは恐れ入ることじゃ。また、ちょとさんとそれぞれにご返答しないかんところじゃが、なにせボケとるもんじゃから、キーボードを叩くのが遅い上に、お二人のように文書力もない、その上、難しい用語にとんと弱くてのう、一緒に返答させて頂くが、勘弁してくれよ。
ワシから見て、お二人とも日本仏教思想の影響が色濃いように思えてならんのう。
そして、言葉の定義と言うか、認識が異なっとるところで話が行き違っとる気がするのう。宗教とは、人が幸せとなり行く道を指し示す教えであり、キリストや仏陀などから発した、いわゆる宗教と呼ばれるものは、宗教的仮説に過ぎんとワシは考えておるわけじゃが、人の存在が物質から成り立っている以上、幸せとは観念だけでなく、物心の両面を兼ね備えることじゃわな。そして、宗教的仮説と言う事は、その道が正しければ皆が幸せとなって行くはずであり、幸せとなって行かんのは、仮説が大した説では無かった。すなわち、合理的じゃなかったということになるはずじゃ。ワシが、ちょっとさんに、「分かる人にしかわからん」とは決してゆうておらんぞ。宗教的仮説を実行・体験し、分析・再び仮説を立てて実行する。まぁ宗教を科学するとでも言うかのう。実際にやってみんと分らんぞとゆうておるのじゃぞ。様々な超常現象や、不可思議な出来事・体験を含めて考えて行くと、学問で知ることや、常識・科学の範囲を越えていく事実に突き当たる。それらの不可思議を錯覚、嘘とするのはた易いが、事実は事実じゃからのう。山に登れば景色が変わる。登らずして山は語れないと言う意味じゃ。(ただし、幸せになってもらっては困る輩もおるでのう、正しく宗教せんと山に登る積もりが、谷に落ちたり、迷ったりするわのう…その羅針盤のようなものが宗教的仮説。どの宗教的仮説が良いかの判断は個人の能力、資質にかかわってくるわな)
じゃから、「宗教は認識対象の説明形態」じゃないぞ。それが、現代社会の病巣の一因ともなっとるでな、しつこくワシが言っとるわけじゃ。それがまた、イシヤの罠とも関連するわな。
また、あっしらさんは以前、「霊界の存在は否定する」と、言っておられたように思っとったが、勘違いじゃったかのう。物理的な真理と精神的な真理の部分は話の構成上分けて用いただけで、実は行き着く先は一つと思うておるぞ。
真理については、あくまでこの次元世界の範囲もしくはその周辺(その範囲を越えると体験の範囲を越えてワシには想像もつかんぞ)上での、生きとし生けるものが調和し弥栄えるための摂理を意味し、確かに真理と言う必要もないが、皆が逆向いとるでな。
また、最近誰かが、カミオカンデでノーベル賞を貰っとるが、あんな子供のおもちゃにもならんものに金かけるなら恵まれない子供の育成基金にでもすればよいもんじゃが、
クオークのさらに細かい物質(トップクオーク?)が魂を構成しており、しかもエネルギーにもなるとある意識体から聞いておったが、昨今同様の意見がちらほら 出ておってな、さすれば、[存在=認識]とい言えるしかも知れんし、我々の細胞一つ一つが意識体と言ってもよいわな。しかし、死ねば体から霊部が分離するところが少々不明点じゃ。さらに、量子力学では、クオークレベルともなると、観測者の意志にも作用されるようじゃから面白いのう。この辺りで、宗教と科学の接点が見出せそうな気がしとるんじゃが。
「たま出版…生き方を創造する生命科学…川田薫 書」を読んで頂くと、ワシの言う宗教の一端がお分かりいただけるような気がするがのう。どうじゃろか。