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(回答先: 認識と真理 投稿者 あっしら 日時 2002 年 11 月 08 日 16:44:11)
変な言い方になりますが、私は多分ボケ仙人さんを羨ましく思っているのだと思います。例えば、科学の場合、その基礎となるのは観察と論理です。正確な観察が破綻のない論理で説明され、何度検証しても同じ結果が出る時、人は「合点」がゆきます。勿論、そこで提示された理論はさらに大きな理論に包含されてゆく可能性はありますが、方法が厳密に科学的であれば出てくる結論は首肯せざるをえないのです。宗教はこれとは異なると思います。にもかかわらず、「観念」に頼らず、「これが真理だ」と体感できる世界があるのだという。それを幻想ではないと断言でき、真理への道をひたすら歩んでいると実感できる人生というのは素晴らしいものだと皮肉ではなく思います。
しかし、一方で、「分かる人にしか分からない」と突き放され、分かる人には真理であって、分からない人にはそうでないということになると、宗教というのはイデオロギーとどこが違うのか、と疑問に思ってしまう面もあります。神とか霊とかが一切分からない又は信じない層とそうでない層を架橋する道筋ができないものかと考えます。それが、ボケ仙人さんの言う、「神とか霊の存在を前提とした科学」なのでしょうが、科学の方法論の大前提からしてそれは不可能であるように感じます。
>理論や観念は、ある目的を実現するために有効でより効率的なものかどうかが問題であり、真理性を問う必要はないということです。
>科学や宗教は認識対象の説明体系であり、どれだけ実証的であろうとも、どれだけ信仰されるものであろうとも、真理性とは無関係です。
上述のあっしらさんによる二つの文章は、私の認識にかなり近いものと感じます。私も科学万能を言っているのではなく、いつまでたっても科学は真理には到達できないと思っています。同時に宗教も、「認識対象の説明体系」であり、「物語」か「方便」だと思っています。
しかし、この立場は良く言って不可知論、効用論どまりであり、悪くすればニヒリズムでありマテリアリズムであることも事実です。「真理性を問う必要はない」などと断言されても、なぜ宇宙は生まれたのか、なぜ秩序だった(ように見える)進化を生物は遂げ、人類が誕生したのか、という疑問は否応なく湧き上がってしまうのです。できましたら、あっしらさんには、あなたほどの方がなぜ「真理性を問う必要はない」として自らの内にフラストレーションを抱えずやり過ごせる境地に至られたのか、ご説明を戴けると有り難いです。