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(回答先: Re: 昭和史は明治より社会としてははるかに劣っている 投稿者 hou 日時 2002 年 10 月 17 日 21:27:24)
件名: 歴史に学ぶー日米中関係
日英同盟と日米安保
平間 洋一 防衛大学校 教授
はじめに
ソ連が崩壊し日米の共通の脅威が消滅すると、 日本国内には安全保障をめぐりさまざ
まな議論が起こり、 日米両国に日米安保解消論さえ唱えられるに至った。 しかし、
欧州に比べアジア太平洋地域における冷戦後の安全保障環境は極めて不安定であり、
その複雑性と流動性が問題であるが、 このアジアの安定を左右する国は当分は日米中
の3国であると言えよう。 日米はこの東アジアの安全を確保するために社会体制の異な
る中国と、 今後いかにかかわるべきであろうか。 日本が太平洋戦争に至った理由には
多くの要素があるが、 日米中の三国関係から見れば、 その第1はアメリカによる日英
同盟の破棄であり、 第2は日米の中国市場をめぐる対立であり日米のミスコンセプトで
もあった。 「歴史は未来へのベクトル」といわれるが、 歴史は未来を予察するうえに
極めて有効な尺度を提供するものである。 現在の状況はドイツが敗北して武装を解除
され、 ロシアは革命で混乱状態にあり、 日英共通の脅威が消え日英同盟が解消された
第1次大戦後に極めて類似しているように思われるので、 本論では日英同盟の解消が、
その後の日本や世界にどのような影響を与えたかを回想し、 日米安保が解消された場
合の日本の動向とアジアの平和について、 第1次世界大戦の歴史的遺訓を求め日米安保
の重要性と日米の中国とのかかわりにつて考察を加えてみたい。
1 日英同盟解消の誤算
第1次世界大戦が終わると大戦中の日本の勢力伸張によって、 極東における列強間の力
の均衡が大きく崩れ、 中国市場を押さえられたアメリカの巻き返しが始まった。 日米
はパリ講和会議では山東問題をめぐって激突し、 さらにシベリヤ出兵やヤップ問題、
移民制限問題などをめぐり緊張を高めていた。 大戦後のアメリカの対日外交政策は国
際世論の非難を日本に向け日本を外交的に孤立させ、 日本に政策転換を促すことを狙
い、 伝統的な門戸解放政策を旗印に、 戦時中に日本が確立した中国大陸の既成事実を
覆えそうとした。
一方、 日英同盟は共通の敵であるロシア、ドイツが消滅し、 その存在意義を薄め、
さらにイギリスがアメリカに対して同盟条約の義務を発動する意志のないことを明言し
ており、日英の同盟関係は空洞化していた。 しかし、 日本は国際的孤立を回避するた
め同盟の継続を希望し、 現行の日英同盟にアメリカを加えた協調体制の構想を練って
いた。 また、 イギリスも日英同盟を廃止した場合には、 日本がオーストラリアやニ
ュージーランドなどのイギリス自治領への脅威となることを恐れ、 また、 中国におけ
る利害の対立を調整する外交チャンネルとして日英同盟を評価し、 その継続を望んで
いた。 そして、 1921年7月1日にカーゾン(Curzon Lord)外相から日米英華による太平
洋会議の開催を提案するなど、 イギリスも日英同盟と英米協調を両立させることを希
望していた。 しかし、 アメリカは世界第1位のイギリス海軍と第3位の日本海軍に大西
洋と太平洋から挟撃される幻想に脅え、 イギリスに日英同盟は相互の特殊利益を認め
合う排他的条約であり、 日本の侵略的政策にイギリスが加担せざるをえない立場に追
い込まれ、 英米の共同歩調が不可能になると日英同盟の継続に反対し日英の分断を策
したのであった。
そして、 イギリスに会議の主導権を取られることを恐れ、 1921年7月11日にハーディ
ング(Harding, Warren)大統領からワシントン会議の開催が呼びかけられ、 この会議で
日英の密着を阻止するためにフランスを加え、 「太平洋に関する四カ国条約(Four
Power Treaty)」を締結し、 日英同盟を解消した。 しかし、 この「四カ国条約」は太
平洋における島嶼や領地に関し調印した日英米仏の四カ国の権利の相互尊重と、 紛争
が生起し外交手段で解決されない場合は、 会議を開いて協議するという形式的な一般
協定であった。 日英同盟の推進者であった加藤高明外務大臣によれば、 「日英同盟と
いうウイスキーに水が入ったのであった。 ワシントン会議では、 さらに、 中国の権
利利益を擁護し、 中国市場の門戸開放・機会均等を定めた「中国に関する九カ国条約
(Nine Power Treaty)」が締結され、 アメリカは日本の中国における特権を容認した石
井ランシング協定を解消した。 このようにアメリカはワシントン会議により日英同盟
の破棄に成功したばかりでなく、 フィリピンの安全を確保し、 ジョヘイ(John Hay)以
来の伝統的な門戸解放政策を国際的に認知させたのであった。 さらに、 この会議では
日本が対米6割の不利な比率を容認した「五カ国海軍軍縮条約」にも応じたため、 これ
ら3つの条約によりいわゆるワシントン体制(Washington Treaty System)と呼ばれる多
国間による国際協調体制(Multilateral System)が確立された。 しかし、日英同盟とい
う強力な2カ国体制(Bilateral System)を4カ国に拡大し、 普遍的条約としたため「四
カ国条約」は太平洋戦争を防止することができなかった。
14年間にわたり在米大使館の顧問をしていたアメリカ人フレドリック・ムーブ
(FredrickMoore)は、 日英同盟の解消が太平洋戦争に連なってしまった、 「この同盟
が廃止されたことは米国の国民と政府の責任である」と次のように述べている(1)。
「米国が英国を強要して日本との同盟を廃止させたのは、 米国外交の失策だった。 ...
日本側は同盟廃止によって大衝撃を受けた。 英国が大した議論もせずに、 さっさと米国
の望み通りにやってしまったので、 この米国に対する日本側の考えが、 それで変わった。
これが始まりで、 この日本という国家は起こり得ることのある戦争のために備える独自
の行動へと方向を転換した。 ドイツが軍事力を回復した時、 それと協力しようとする路
が、 そのために気持ちのうえで開けたのである。 日本の海軍軍人はこの時まで国民の間
に強い勢力を持っていたが、 そのために弱くなってしまって、 陸軍軍人に支配的な威信
を譲り渡してしまった。 もしも、 この日英同盟がずっと存在していたならば、 日本で
は文官と海軍との勢力によって陸軍に十分な抑止力を加え続けて、 陸軍が中国へ進出す
ることを防止しただろうということさえあり得たかもしれないと私は考える。.....この
同盟が廃止されたことは、 米国の国民と政府の失策であったと確信する」。
2 日英同盟破棄後の日本の対応
(1)日本の孤立化と自主防衛の強化とドイツへの接近
日英同盟が解消された1920年代と現在とでは国際環境なども大きく異なるが、 世界第1
の強国との同盟である日米安保条約が解消された場合に、 日本がどのような対応を示
すかを日英同盟解消後に示した日本の対応を明らかにし考えてみたい。 開国以来、 日
本外交の機軸であった日英同盟を解消させられた日本は、 その後、 どのような道を歩
んだのであろうか。 日英同盟を破棄され孤立した日本は、 自主軍備の道を歩まなけれ
ばならなかった。 1908年に発行された『帝国国防論抄』で、 佐藤鉄太郎中将はわが国
が追求すべき「外交目的ハ太平洋ノ平和デナケレバナラナイ」。 しかも太平洋の平和
は北太平洋に位置する日米の双肩にかかっているので、 日米両国はいかなることがあ
っても未来永遠に敵視すべきでなく、 日米が提携して平和を維持しなければならない。
この日米提携に重要なのは相互に「敬友」することが大切であると書いていた(2)。
しかし、 日英同盟が破棄されると佐藤中将の主張は変化し、 1934年に発行された『国
防新論』では「同盟と言い協商と言うものは皆是れ自己の利益に基づく協商を本とする
もので、 決して純な精神的結合ではない。 従って利害関係に異同を生ずるに至れば、
殆ど何の会釈もなく手の掌を反する如く昨日の友を捨て」と書き、 「自ら実力を備え
ざるものは孤立と自立の力なく同盟に処る時は単に同盟国に利用せられて自ら之を利用
すること能はざるべし」と自主独立した軍備の必要性を主張した(3)。 そして、 自主
独立の軍備が軍事力を増大させ、 軍人の発言力を増し日本を軍部指導の国家へと導い
たのであった。
また、 ベルサイユ講和会議時の人種差別撤廃問題が、 同盟国であるイギリス自治領の
オーストラリアの反対により否決されたこと、 さらに日英同盟破棄直後にシンガポー
ルの築城が始められたことなどにより、 「忘恩の国イギリス」とのイメージを国民に
植え付け(4)、共同作戦に参加した部隊の隊員の間には、 共同作戦中に受けた屈辱的な
思い出や不満が表面化し、 親英的であった海軍部内にも反英感情が高まっていったが、
その理由を日本海軍の部内資料は次のように説明している(5)。
「対英感情ハ何故ニ悪化シタカ世界大戦迄ハ英国ハ遺憾ナク日本ヲ利用シタ、 帝政露
国ノ支那侵略ニ対シテモ、 印度 ノ独立抑制ニモ、 支那ノ排外行動阻止ニモ、 将タ又
英国艦隊ノ北海集中後ニ於ケル自治 領ノ警備ニモ凡有ル機会ニ日本ノ兵力ト好意トヲ
駆使シタ、 然ルニ一度講和トナルヤ其 ノ態度ハ一変シテ、 所謂卓子ヨリ零レ落チル
『パン』屑サエモ日本ノ手ニ落チルヲ拒ンダ、夫ハ巴里会議ニ於ケル日本ノ孤立無援ト
ナリ、 華府会議ニ於ケル五・五・三海軍比率ノ強 要トナリ、 山東ノ還付トナリ、 日
英同盟ノ破棄トナリ、 九カ国条約トナリ、 遂ニハ近年 ニ於ケル日本貿易ニ対スル全
面的悪性迫害トナッテ顕ハレタノデアル」。
とはいえ、 日本海軍はその後もイギリスから戦術や武器を導入しようとしていたし、
ワシント会議の全権の加藤友三郎海軍大臣も会議中に、 今後は文官大臣制度が出現す
るであろうが、 「之ニ応スル準備ヲ為シ置クヘシ。 英国流ニ近キモノニスヘシ(6)」
とワシントンから伝言を発したことが示すとおり、 日本海軍はドイツよりもイギリス
により親近感を示していた。 しかし、 日英同盟の解消がこの流れを変えてしまった。
日英同盟が破棄されて留学先をイギリスから閉ざされると、 日本海軍は留学先や技術
導入先を徐々にドイツへと変えて行った。 1867年(明治元年)から日英同盟が破棄され
る1923年まで、 日本からドイツに派遣された海軍士官は53名(大将に昇任した者は6名)
であったが、 イギリスに派遣された士官は186名(大将は19名)に達していた。 しかし、
日英同盟破棄後は比率が逆転しドイツへの派遣者は59名に達したが、 イギリスへの派
遣者は45名に減少した(7)。 この結果、 海軍部内には徐々にドイツ留学帰りが増加し、
反英米感情や警戒心が高まっていった。 そして、 ワシントン条約が失効する1935年
の次期軍縮会議をめぐって「一九三五年の危機」意識が高まると、 1934年にはドイツ
に留学者の山下知彦大佐・藁谷英彦少佐から、 次期軍縮会議では軍備平等の日本の主
張を支持する国はドイツのみであり、 日本は列国に先んじてドイツからの賠償金放棄
を宣言し、 ドイツの親日感を醸成しドイツと提携して次期軍縮会議を有利に導き軍備
不平等を打破すべきであるとの日独提携論が提出された(8)。 このようにベルサイユ講
和会議時の人種差別撤廃条項の非採用、 ワシントン会議やロンドン会議における米英
の結託と思われる一方的な日本に対する劣勢な軍備の比率が、 米英主導のワシントン
体制に不満を高めている日本海軍をドイツに近づけて行った。 そして、 日本の命運を
決する分岐点ともなった1939年から40年には、 軍令部総長の伏見宮博恭王元帥をはじ
め、 軍令部次長の近藤信竹少将、 山本英輔大佐、 小島英雄大佐、 山本善雄大佐、
横井忠雄大佐、 藤井茂中佐、 柴勝雄中佐などのドイツ留学者や、 ドイツ訪問後に親
独派になった石川信吾大佐などに代表される親独勢力が、 海軍中枢に大きな比重を占
め、 日本海軍の開戦意志決定にこれら親独派が大きくかかわることになってしまった
のであった。
(2)アジア主義の勃興
第1次大戦が始まるとドイツはインドに騒乱を起こそうと、 インドの民族独立運動を利
用した。 ドイツは宣伝文書や武器をインドに送り込んでいたが、 このドイツの陰謀に
日本はベトナム戦争中にアメリカの脱走兵を「ベ平連」が匿い脱走を援助したように、
ある者は意義を感じ、 ある者は利益のために協力した。 インド総督ハーディング
(Baron Charles Hardinge)暗殺容疑者のインド人ダス(Taraknath Das,A.M.)やシン
(Bhagwan Sing)、 ボース(Rash Bihari Bose)などが亡命してくると、 イギリスの引き
渡し要求に志士とよばれる国家主義者や国民党の犬養毅、 政友会の床次竹二郎などが
日英同盟条約には犯罪人引き渡しの条項はない。 「かくのごとく名実伴はざる理由を
以て外人の遂放をするがごときは国威、 国権の失墜」であると政府を非難し、 野党の
政友会も国民党と提携し、 これらインド人は人道的政治亡命者であり、 イギリスの要
求に応ずるのは「我カ国威を失墜セシム」と政府攻撃の材料として利用した(9)。
そして、 第1次大戦が終わり日本が国際的に孤立すると、 大戦中に生じたこの亡命イ
ンド人問題などを通じて高まったイギリスのインド強圧統治政策に触発された反英感情
が、 またダスの日本と中国、 それにインドが提携して東洋民族連合を作り、 欧米諸
国の植民地支配や「将ニ起ラントスル人種的競争ニ対シ備フル必要アリ(10)」との主張
や、 上海のセント・ジョン大学教授の舫春宗(Soong Tsung Faug)の日本はヨーロッパ
の白色人種の国と同盟を結んでいるが、 戦後も同盟を継続できるであろうか。 日本が
イギリスと同盟しているのは誤りであり、 日本はアジアのために行動すべきであると
の主張が(11)、 日本にアジアとともにとのアジア主義を高めた。 そして、 このよう
な風潮を受け大川周明は『印度に於ける国民的運動の現状及び其由来』を書き、 イン
ド人がいかにイギリスの圧政に苦しみ、 インド人がいかに独立を念願し日本に期待し
ているか。 「新日本の国民は厳然として、 此の森厳雄渾なる職責を負わねばならぬ」。
アジアの指導者である日本は「大義を四海に布くの実力を獲得」しなければならない。
日本一国で欧州列強と対抗するのは不可能であるが、「さればとて日本は真に味方を
欧州に得ることが出来ぬ。 然りとすれば日本が其の味方を亜細亜に求むるは当然であ
る(12)」と論じた。 そして、 このような「アジアとともに」との思想や大戦中に生じ
たイギリスのインド人への圧政とインド人への同情が、 そして国際的孤立が、 またブ
ロック経済による経済的圧迫が、 日本に大アジア主義的思想を生み、 それが明治以来
の南進思考とも重なり - 後の「新秩序外交」となり、 「大東亜共栄圏」となり、
「大東亜戦争」へと日本を導いたのであった。
3 日米安保と日米中関係
(1)中国市場と日米中関係
ペリー(Matthew C.Perry)提督の日本遠征の目的が中国との通商にあったことが示すと
おり、 多数の人口をかかえる中国との通商拡大が終始変わらぬアメリカのナショナル
・インタレストであり、 また、 通商上の夢でもあった。 そして、 遅れて中国市場に
参入したアメリカは、 列強に門戸解放・機会均等を主張した。 一方、 中国に最大の
利権を持つ日本はこれを守ろうと抵抗した。 つまり日米はペルー以来中国市場を求め
て争ったのであった。 日本は第1次大戦中にヨーロッパ列国が戦乱で中国にかかわれな
い好機を利用して優位な地位を確保しようと、 中国に6億7600万円(地方政府や民間事
業に対する借款3億7600万円、 直接事業費3億円)の資金を投入する大正の「円外交」を
展開した(13)。 そして、 開戦時に955社に過ぎなかった商社を、 大戦が終わった1918
年には4483社に増加させるなど中国における地位を築いていた(14)。 しかし、 この急
激性急な日本の中国市場への進出が中国との対立を深め、 経済的対立が日英を分断す
る一つの因子となり、 さらに日米の対立を高める一つの因子ともなったのであった。
戦争が終わり日英共通の敵が消えると、 日本が中国における「共通ノ利益ヲ維持スル」
という日英同盟に違反していると、 イギリス産業界に日英同盟解消論が高まり、 また、
大戦中に日本の対英協力に不満をもっていた軍人や外交官からは日英同盟を破棄すべ
きであるとの議論が、 議会では日本が日英同盟を悪用し中国への進出を企てていると、
日英同盟を破棄すべきであるとの主張が高まっていった(15)。
一方、 アメリカは大戦で得た多額のドルを中国市場の将来性に賭けて投資し、 次に
示すとおり、 1930年から1940年には常に日本の投資を越え、 その投資額は日本の3倍
を越えるに至った。
アメリカの対日・対中投資額の推移(16)
(単位:1000ドル) 国名 1930年 1936年 1940年
中国 129,768 90,593 46,136
日本 61,450 46,694 37,671
一方、 好調を続けた日本経済も第1次大戦が終結し、 関東大震災の痛手と引き続いた
世界恐怖に悩まされ、 大戦中に蓄えた外貨を瞬く間に流失してしまっていた。 さらに
中国に与えた借款や借款にともなう日本の諸権益も、 中国のナショナリズムの高まり
による国権回復運動と民族資本の勃興によって危機に直面した。 そして、 日中はこの
権益をめぐって対立と紛糾が続き、 その流れが日本に満州事変を起こさせたのでもあ
った。 このように中国市場への期待は大きいが、 歴史は中国市場が幻想の市場であり
中国への投資が何らの利益をもたらさず、 日英同盟という日本外交の機軸を消滅さ、
さらに日米の対立を高める一因隣ったことを教えている。
(2) 中国の政治力と日米中関係
アジアの安定の柱である日米中の3国関係をいかにすべきであろうら。 また、 日米は
どのような点に留意すべきであろうか。 アメリカの太平洋戦争に至るまでの歴史をた
どると、アメリカ人が中国文化やパールバックの『大地(The Good Earth)』に代表され
るジャーナリズム、 中国に派遣された宣教師や華僑と呼ばれる中国系アメリカ人の影
響を受け、 さらに日本の侵略に抵抗する“Under Dog"の感情なども加わり中国への親
近感や同情を深め強硬なドグマ的反日政策を続けたことにも一因があった。 特に、 宣
教師を父として中国山東省に生まれ、 “Times"“Fortune"や“Life"誌などを創刊し、
1930年代のアメリカの進路に大きな影響を与えた親中家ルース(Henry R. Luce)の意図
的反日報道、 さらには中国の巧みな外交(口舌力)に動かされてアメリカがアジアにお
ける安定勢力であった日本を過度に敵視したことにもあった。 中国外交の歴史を見れ
ば、 中国は「兵は詭道なり、 故に.........利して誘い、 乱して之を取り(17)」と、
冷戦時代には日米安保の解消を図り、 最近の台湾問題では「人民開放群は毎日通常弾
道のミサイル1発ずつを台湾へ発射する攻撃を30日間継続する計画を準備した」、 「米
国指導部にとって台湾よりロサンゼルスの方が大切であろう」とフリーマン前国防次官
補に語るなど「孫子の兵法」を応用し米台接近を牽制した(18)。 また、 台湾に対して
は昨年6月の李登輝台湾総統の訪米、 11月の総選挙、 そして本年3月の総統選挙では台
湾近海でミサイル発射や上陸演習を行うなどの威嚇的軍事演習を実施する一方、 メデ
ィアなどを動員して激しい李登輝や台湾独立派批判を展開した。 この非難は李総統の
再選を妨害するものであり、 台湾の総選挙まで続いたが、 その非難は「李登輝は千古
の罪人である」。 「李登輝を歴史のゴミために掃き捨てることが海峡両岸中国人の歴
史的責任である」などと口汚くののしるなど、 極めて巧妙であり、 また強烈あった
(19)。
一方、 日本に対しては常に戦争責任問題を突き付けて、 外交上のカードとして日本の
大国化の阻止とアジアにおける反日世論を高め日本のアジアにおける影響力の低下に努
め、 さらに日米の分断を図っている。 中国が最も恐れているシナリオは日米が強固な
同盟を維持し、 中国のアジアに対する覇権が阻止されることである。 世論によって国
策が大きく影響される民主主義体制国家の日米が留意すべきことは、 中国の「孫子の
兵法」を利用した政治力(口舌力)であり、 短期思考型の政治目標しか設定できない日
米両国は、 この中国の巧みな世論誘導により相互に誤解し反感を深め、 相い戦うこと
になってしまった歴史を共有していることである。 このように中国は常に「戦うこと
なく敵を屈する(不戦而屈人之兵)(20)」という暴力と陰謀を強調する「孫子の兵法」を
外交に応用し、 自国の意志を具現化してきた。 冷戦構造が崩壊し軍事以外の外交・政
治・経済などの総合的施策が重要となった今日、日米両国は「孫子の兵法」が永遠の新
兵器として大きくクローズ・アップされているていることを改めて認識し、 今一度新
しい視点で「孫子の兵法」を再読する必要があろう。
(3)留意すべき中国の領土的野心
中国の歴史上に示された最大の問題点は18世紀まではアジアの大国として君臨してきた
大国意識であり、 大陸国家の常として常に領土を拡大してきた覇権主義者であること
である。 現在は陸上の国境線が確定しているため、 チベットを支配下に置いているに
過ぎないが、 国境線が不明確な海洋については、 1974年にはパラセル群島(中国名・
西沙群島)を、1988年にはスプラトリー諸島(南沙群島)を、 さらにアメリカがフィリピ
ンから撤退するとフィリピンが領有を主張していた南沙群島のミスチーフ(中国名美済)
環礁に漁船待避所を建設するなど、 海洋への進出を強めてきた。 そして、 さらに
1992年2月には「中華人民共和国領海・接続水域法」を定め、 第2条で「中国大陸及び
沿岸諸島、 台湾及び魚釣島を含む付属島嶼、 膨湖列島、 東沙群島、 西沙群島、南汰
群島、 その台湾の中国に属する島嶼が含まれる」と一方的にこれら海域の領有及び船
舶の通過に関する規定を宣言するなど、 海洋資源へのあくなき獲得欲を見せている(21)
。
特に、 中国海軍の戦略で留意すべきことは、 中国の海洋戦略に大陸民族的発想が加味
され、 かつてヒットラー(Adolf Hitler)がポーランドやオーストリアの併合を正当化
した根拠となった「国家は生きた組織体であり、 必要なエネルギーを与え続けなけれ
ば死滅する。国家が生存発展に必要な資源を支配下に入れるのは成長する国家の正当な
権利である(22)」というハウスフォハー(Karl Haushofer)のレベンスラウム
(Lebensraum)と呼ばれる生存圏思想に極めて類似した理論を展開し、 それに従って海
軍力を整備し運用していることである。 すなわち、 1987年4月3日の『解放軍報』に徐
光裕という人物の「合理的な三次元的戦略国境を追求する(23)」という論文が掲載され
たが、その趣旨は次のようなものであった。 「戦略国境は国家と民族の生存空間であ
り、 戦略国境を追求することは国家の安全と発展を保証する上で極めて重要である。
また、 国境は総合的国力の変化にともない戦略的国境線の範囲は変動するものであり、
過去、 ソ連やアメリカは軍事力を中核として地理的国境をはるかに越えた勢力圏を拡
大してきた。 陸地、 海洋、 宇宙空間から深海に至るこれら三次元的空間は安全空間、
生存空間、 科学技術空間、 経済活動空間として中国の安全と順調な発展を保証する
戦略的国境の広がりを示すもので、 国益はその拡張された勢力圏の前線まで拡大され
ており、 戦略的には国境線の拡大を意味する」。
現在の中国海軍は兵力的・経済的に、また技術的に多くの問題を抱え、 さらに、 中国
は現在の経済的成長を維持するため、 外国からの投資を必要としているため、 武力を
用いて直ちに行動を起こすことはないであろうと考えられる。 しかし、 杏林大学の平
松茂雄教授は1952年に発行された中学校の教科書『近代中国小史』に、 「旧民主主義
時代(1840-1919年)に帝国主義によって奪われた中国の領土」として上に示した地図が
掲載されており、 この地図が「中国の最盛期の版図を復活させるという中国古来の考
え方」を反映しているのではないかと述べていることに留意すべきであろう(24)。
おわりに
現在、 アジアの安全保障体制をめぐりアジア太平洋経済協力会議(APEC)やASEAN地域フ
ォーラム(ARF), さらには中国の脅威の増大に中国との交渉を通じて信頼性を醸成しよ
うと一九九〇年一月から毎年、 インドネシアの主催で「南シナ海の潜在的紛争の制御
に関するワークショップ」が開催され、 同年のASEAN閣僚会議(AMM)ではフィリピンの
マングラプス(Raul Manglapus)外相から在比米軍撤退後の地域安全保障のための戦略確
立の必要性が喚起され、 同年のASEAN拡大外相会議(PCM)ではカナダ・オーストラリア
外相から南シナ海問題だけでなく、 朝鮮半島問題等も含めたポスト冷戦後のアジア太
平洋の新しい戦略環境に対応しようと、 ヨーロッパの欧州安全保障会議(CSCE)的な安
全保障協力フォーラムの提案がなされるなど、 アジア諸国間の信頼性を高め多国間で
安全保障を確立しようとの多国間安全保障主義(Multilateralism)が高まりを見せてい
る。 確かに、 宗教、 文化や政治体制がヨーロッパとは大きく異なり、 相互に国境問
題を抱えるアジアには、 このような多重的多角的安全保障体制も必要であろう。 しか
し、 歴史は強固な2国間同盟であった日英同盟を解消し、 太平洋に関する「四カ国条
約」、 中国に関する「九カ国条約」、 さらには「五カ国海軍軍縮条約」という多重的
多国間体制が機能しなかったことを教えている。 本論を終わるに際し、 チャーチルの
『第二次大戦回想録』の次の節をもつて終わりの言葉としたい(25)。
アメリカが「日本がきちんと守っていた日英同盟の継続が英米関係の障害になるという
ことをイギリスに明らかにした。 その結果、 この同盟は消滅せざるを得なかった。
同盟破棄は日本に深刻な印象を植えつけ、 西洋のアジア国排除と見做された。 多くの
結び付きがばらばらになったが、 それは後になって平和に対する決定的価値を発揮す
るはずのものであった」。 「かくてヨーロッパでもアジアでも、 平和の名において戦
争再発の道を切り開く条件が、 戦勝の連合国によって急速に作られた」のであった。