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昭和5年頃の櫻田本郷町付近
私が戦前・戦後をめぐる歴史問題をとりあげるようになった
直接の原因は8月18日のサンデー・プロジェクトで田原総一
郎が「大東亜戦争は自存自衛のための戦いだった」とする歴史
認識を述べる高市早苗を理不尽な理屈と暴言によって罵倒攻撃
するさまに反感を覚えたからだったのです。
田原“暴言”、高市議員に「無知、下品」
http://www.zakzak.co.jp/top/t-2002_08/2t2002082001.html
過去の断罪と現在の危機 投稿者 書記長 日時 2002 年 8 月
18 日 20:53:45:
http://www.asyura.com/2002/dispute2/msg/228.html
田原は「ワシントン条約で植民地を作るのはやめようという
ことになった。満州事変、日中戦争はこの後のことなんです」
などと言っていたがそのような事実はありませんでした。おか
しいとは思っていましたが公共の電波を使って堂々と偽りの情
報によって人を面と向かって罵倒するのは信じられません。大
東亜戦争や大日本帝国を非難しようする人々の情念の中には偏
執的なものがある場合も多いようです。
田原総一朗さんへの反論 高市早苗
http://rep.sanae.gr.jp/diary/6000_0827.htm
私は近代史や国家論に関する議論を聞いたり自分でしたりす
る時にいつも思うことがあります。
議論の前提が異なっていれば有意義かつ生産的な対話はなか
なか成立しません。ある意見に対する攻撃のための別の事実解
釈による攻撃とか、そういう攻撃に対するさらに別の事実解釈
による弁明とかが延々と続くことになってしまいがちです。そ
れでは、一体どこで前提が異なっているのでしょうか。
私は自分の属する国家が独立した主権と文明をもっているこ
とを望みます。
他国や他国の人間の都合に自分の属する社会や自分が言動を
強制されたり、生活を左右されたり、財産を吸い取られたり、
文化的に相手に合わせたりするのが嫌です。
自国や自分が他国の都合・利害のために戦争や政治な事柄に
関して外国から何かを強制されたり、言動を管理・監視された
りするのは嫌です。
自分の属する社会の歴史・伝統に繋がり、それによって権威
づけられた文化活動とか精神的なありかたを望みます。そうで
なければ他国・他文明に人格として従属することになるからで
す。
社会システムも自国の歴史・伝統から自生しそれに連なるも
のを望みます。他国から押し付けられたシステムは、その国の
都合によって作られているし、どうしても自国の歴史・伝統か
ら断絶しています。
それに、そのシステムを受け入れつづけていることは自分た
ちの人格と社会的身分を他国・他文明の影響(支配)下に置き
つづけることを認めることになってしまいます。
その社会システムの正当性の根拠とか権威の源泉が他国の過
去の政治的判断やその文明の価値観にあるのだからそういうこ
とになってしまうのです。各個人がそのシステムを好むと好ま
ざるとに関わりなく、その社会的意識とも関わりなく、歴史的
現実としてはそれは外国の軍事占領とか圧倒的武力による市民
支配によって成立したまま同じ占領と武力によって現在も支え
られているのです。
独立国が従属国より国家としては質的にはるかに上であるこ
とはあたり前なのです。奴隷・家畜の国民よりも自由人・主人
の国民のほうが良いといのは私の意見の前提なのです。もちろ
ん個人としては奴隷や召使の方が気持ちよくても一向にかまい
ません。各人の趣味の問題であり各人の自由です。ただ私とし
ては、日本国が国民・国家として下僕とか家畜の役を引き受け
るのは困るのです。
精神性や価値観・文明においても、他国のものを押し付けら
れたり、それに参加させられるのは嫌なのです。人間として他
国・他文明に編入させらることになり、それは自己と祖先の固
有の存在様式と人格・尊厳を他者から否定されたあげく自分で
もそれを認めることになるからです。人類文明の多様性が失わ
れるので人類史的な損失でもあります。
それにもともと私は日本の古来からの文明・伝統を高く評価
しているのでそれが失われていくのは残念であり、それに連な
ることのほうに価値を見出しているのです。これも私の意見の
前提なのです。
だから、大日本帝国がいかに多くの問題点を抱えていたとし
ても、多くの失敗があったとしても、また他国と同様に悪いこ
とをしたことがあっても、本物の自生日本であり独立国である
ので、戦後のアメリカ製従属日本よりも比較にならないぐらい
に国家としてはずっと上等なのです。
だから日本の独立を否定するアメリカニストや伝統と近代国
家システムを敵視する左翼とは議論の前提が異なるのです。私
も近代国家システムには大いに疑問をもっていますが、そのた
めに自国の近代を否定することには反感と危険を感じるのです
。
それは結局のところ、「日本近代」と一緒に戦前日本の国家
・文明が有していた伝統と権威上の正当性における歴史的継承
性を否定すると同時に、その時点でのその歴史的価値まで否定
することになるからです。
いかなる難点失敗罪悪が戦前の日本にあろうとも、それをそ
の社会自体もしくはその独立の否定に結び付けるべきではない
と思うのです。よその国民はともかく我々がそうするのはよく
ないのです。アメリカニストや各種左翼は別ですが。
要するに戦前の「大日本帝国」は日本社会で自生した独立国
家・文明であるから、そのことだけで現在の「偽日本犬国」よ
りもずっと「我々にとって上等な・価値のある」社会なのです
。
我々はとりあえずそこに精神的に回帰してのち、新たな発展
をとげるべきだと私は思うのです。なぜ回帰するのかというと
、日本の社会・文明の歴史的な継承性と正当性の流れが全体と
してそこで止まっているからです。価値観の体系も権威の体系
も自律的な変化・発展はそこで止まっているからです。
我々は天皇制を真に昇華させねばなりません。私の見るとこ
ろ皇室にかかる人権侵害も甚だしい職務と責任の重圧は戦後さ
らにひどくなっています。皇室をひどい監視と束縛から開放し
てあげなくはなりません。
それは日本国民の真の皇室からの自立でもあります。実権の
ない名目上の立憲君主制の王室の立場になってもらって、宗教
的行事は今まで通りきちんと行ってもらうということでよいの
ではないでしょうか。その後どうなっていくかは日本社会と皇
室が話し合って決めていくべきことです。
軍事占領下での独立性を欠いた状況で成立した「日本国憲法
」は法的に無効であり、正当性の根拠がアメリカの力と支配に
あるものです。日本の歴史・伝統・社会に正当性と権威の根拠
をもたないニセものです。
現実的には帝国憲法の一時的復活も無理だろうから、とりあ
えず現行の憲法を停止して一時的にイギリス流の慣例の集積と
しての不文憲法体制にもっていくことが望ましいと思います。
そうすれば現行の憲法のいいところも、帝国憲法もそれ以前の
大宝律令等も生かせるはずです。
新たに憲法をつくり直そうとするならば文字通りの「神学論
争」からはじめなければならないのですが、今のほとんどの日
本人にその必要性の意味はわからないでしょう。たぶん最大限
に市民の安全財産自由を高める機能を果たす規定集を作るため
の「技術論」から優先的に始めるので駄目です。
またそうして出来上がるものはアメリカニズムの上澄みと最
近流行のいくつかのきれいごとのフレーズを根拠不明の「人権
」で無理やり不整合に合体させた程度の安っぽいものである可
能性が大です。
本当は「人権」という言葉の意味とか妥当性すら日本の歴史
と伝統を考慮した上で十分に哲学・神学論争して定めなければ
ならないのです。
戦後の民主主義的日本人とイヌ 投稿者 書記長 日時 2002 年
10 月 14 日 19:17:45:
http://www.asyura.com/2002/dispute3/msg/356.html