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(回答先: 「地域通貨」などについて 投稿者 あっしら 日時 2002 年 10 月 01 日 15:27:06)
あっしら様、こんにちは。
>まさちゃんに柄谷行人氏のNAMとの差異性や類似性をご指摘いただき、発展的な議論に資することができればと願っています。
NAMのことを話題に上げましたが、私自身参加しているわけではありませんので活動内容に特段詳しいわけでもなく、また「NAMを宣伝しよう!」という意図があってのことではないことを、まずお断りしておきます。
が、以下思いつくままに問題点を。
NAM (New Associationist Movement)の問題点としてまず挙げられるのは、この運動が“Movement”と呼べるほどまだ大衆性を獲得していないことでしょう。柄谷行人ほどのビッグネーム(<-いろいろ毀誉褒貶はあるでしょうし好き嫌いもあるでしょうが、現代日本の思想界に限ればこう呼んでも差し支えありますまい)の力をもってしても、NAM参加者は数百人のオーダーにとどまっているという話を聞いています。
これはNAM(そして柄谷思想)固有の問題なのか、それとも地域通貨に共通する問題なのでしょうか?おそらく、あっしら様のおっしゃるように「(柄谷氏に)「近代経済システム」が「利潤なき経済社会」に陥るという認識がない」ことや「(地域通貨が)そのままでは世界通貨たり得ない」側面を有することも大きいのだとい思いますが・・・。
地域通貨の問題点として次にあげられるのは、地域通貨が本質的に資本に転化しえず、したがって資本市場も存在し得ない以上、資本制経済において大資本によって担われている機能を代替し得ないのではないか?ということも指摘されています。
例えば、医療を考えてみましょう、
現在の医療現場では、MRIなどを始めとした医療機器にしろ、遺伝子治療や遺伝子創薬にしろ、それぞれ、医療機器メーカー、製薬会社といった大資本によって担われています。また、医療スタッフを社会に供給する医学教育機関にしても、高度の医療技術教育を望むなら、それら大資本の存在抜きに存在するとは考えられないでしょう。
とすると、地域通貨が流通する(それも現在の資本制通貨を圧倒する程度に)ようになった場合、これら高度な医療を社会として保持するのはきわめて難しいと想像されます。
もちろん、「高度な医療を諦める」という選択肢はありますが、それを「資本制を揚棄した社会を実現する代償」と考えるにはあまりに損失が大きいように思うのは私だけではないでしょう。
(自給自足から離れた人々が相互に豊かになるためには)交換はなくてはならない ひるがえって、あっしら様の説く「利潤なき経済社会」や「開かれた地域共同体」においても、交換方法そして通貨は大きな変容被るはずでしたね。 >活動成果として受け取った「活動証書」(通貨)をソーイングマシンや工具と交換することはでき、それらを使って生産した財を「活動証書」と交換することは制限されません。 あっしら様の想定する「開かれた地域共同体」において、現在の資本制社会において大資本によって担われている社会機能はどのような変容を被るのでしょうか(あるいは被らないのでしょうか)? では、また。
というアンチノミー(柄谷氏によれば、これは取りも直さず、
通貨はなくてはならない
さらに
市場はなくてはならない
というアンチノミーでもあります)を解決するために、柄谷氏は地域通貨という手段を選択しました。
>しかし、それは個別相対取引に限定され、いわゆる無人格的な市場取引に参入することはできません。