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(回答先: 私と朝鮮 投稿者 チェチェ研 日時 2002 年 10 月 02 日 21:08:28)
私と朝鮮
「主体思想」が今あまねく人びとのあいだに行きわたりつつあることは、さっきから述べて来たことだが、それがあまねく行きわたることは「自主的平和統一」の考えを原理的に強化するとともに「南侵」の可能性を否定して行くことにもなる。一口に言ってしまえば、それは「南」の主体性を原理的に確認することになるのだが、もうひとつ、この思想にはかんどころがあって、それは同じ原理が他国への依存を原理としてきびしくしりぞけることだ。第三世界が大国の支配(この大国のなかには「社会主義大国」も入っていたことはあきらかだ)に屈するのは、食糧と武器の供給を通じてだというのが金日成さんの基本の考え方だが、食糧の援助によって首根っ子をしめつけられるのは、今、アメリカ合州国と第三世界の関係にもっともよくあてはまるにちがいない。
もうひとつの武器の供給による支配も今日世界にあまねく見られる現象だが、私にはこうした金日成さんのきわめて現実的な考え方に朝鮮戦争のときの彼の体験が投影しているような気がしてならない。いくさのときに援助を受けることで、よほどハラにすえかねることがあったのではないだろうかと思う。戦争後の「北朝鮮」の政治、外交、あるいは経済の行き方(つづめて言えば、それは、すべて「自立」の一語につきる)も、そこから考えれば十分に理解できるのではないかと思う。朝鮮戦争での中国義勇軍の参加をことさらに歴史から消し去ろうとしたことも、そこから判ることかも知れないし(最近、ようやくまた、それを正当に認めようとする態度が復活したようだ。私が滞在しているあいだに、あちこちで義勇軍の参加を記念する式典があって、新聞にも出ていた。ただ、革命博物館でも戦勝博物館でも、案内係の女性たちは一切中国の援助に言及しない)、また「北朝鮮」が他の第三世界に対する援助──武器をふくめて──にきわめて熱心であることも理解できる。
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早い話、私はシリアのダマスカスで何度も「朝鮮人」とまちがえられたが、そのまちがいの仕方はシリアの人びとがいかに「北朝鮮」の人間に親近感をもっているかを示すようたもので、逆に言えば、このことはどれほど「北朝鮮」が、イスラエルとのたたかいでシリアに心からの援助をしたかを示していることだ。「PFLP」(パレスチナの解放を求める人びとの戦線)のハパシュ議長が「北朝鮮」がいかに自分たちを助けてくれたかを語ったこともあったし、実際、彼らのイスラエルと対時する最前線で「北朝鮮」製の武器を私は見たことがある。
もちろん、援助は武器だけではない。そして、世界の情勢の変化は、「北朝鮮」の援助を武器援助から食糧という、人間のくらしにとってもっと本質的なものについての援助に変えつつあるように見える。といって、食糧を直接どこかの国に送り込むというよりは(それをやっていたいというのではない。そちらのほうの援助もかなり無理してまでやっているふうにうかがえた)、食糧をその国が自分の手で十分につくり出す、自給自足できるようになるまでに助けることが、この場合の援助のかんどころのようだった。
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