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(回答先: しつこくて申し訳ないですが 投稿者 楽観派 日時 2002 年 8 月 11 日 22:02:05)
楽観派さん、こんにちわ。
>物理的対象に対する観測的説明で十分なのかという問いに関しては直感的理解もある
>と答えます。人間の認識に限界があると固執されておられるようですが直感により真
>理にいたることも可能です。人間の認識能力に限界があるというのはどういう根拠に
>もとづいているのでしょう?それは論理的に証明されたのでしょうか?その場合そも
>そも人間の定義とは?さらに認識するとはどういう行為なのか?さらに知とは何なの
>か?空間とは何か?時間とは何か?意識とは何かという無限の疑問があらわれます。
>パスカル的な自分があると思うから自分があるを信じておられるのか?
感覚的直感であれ、思惟的直感であれ、思考活動にとって直感はきわめて重要なもので、思考の質的飛躍は直感によってもたらされると考えています。
(科学的仮説や新しいパラダイムは、従来的論理の延長線で生まれるというより、従来的論理を踏まえながらも、その枠組みを超える直感を端緒として、その直感の正当性を論理的に追求することで体系化されていくものだと思っています)
「人間の認識能力に限界があるというのはどういう根拠にもとづいているのでしょう?」については、媒介的手段を不要とする直接知が不能だという現実につきます。(対象についての非同時的認識も、媒介的認識であることに拠るものです)
「それは論理的に証明されたのでしょうか?」については、自然的対象認識が光(電磁波)を中心とした媒介的観測(認識)に依存していることで十分だと思いますが...
「その場合そもそも人間の定義とは?」については、生物学的定義と社会科学的定義で異なりますが、認識との関わりで言えば、相互が他者(人)であると認識し、言語(概念)的交通と協働的活動が成立することだと思っています。
「さらに認識するとはどういう行為なのか?」については、他者との相互関係性を持つ人が目的を実現するために行う思考活動と考えています。
「空間とは何か?時間とは何か?」については、不即不離の概念だと思っているので、時空間というかたちでまとめます。
他者との相互関係性を持つ人が、対象(人を含む自然)に働きかけることにより目的を実現するために思考を含む活動を行う“場”だと考えています。
>私は仏陀はこうした宇宙の特性を直感(人間の論理をこえるメタ論理)で理解したの
>だと思います。そうであれば修行を積むことでその理解を自分の物とすることができ
>れば煩悩になやむ理由がありません。それが悟りと考えます。つまり私の意見では悟
>りとは論理学の最終形態です。
俗物なので、煩悩に悩むことを悩む必要もないと考えています。
悟りが論理学の最終形態ということについては、直感的には同意できます。
>これから56億7千万年後に、弥勒菩薩が現れて末法の世に苦しむ人々を救うとされ
>ていますが、仏陀はその時点で宇宙の拡大が終わり縮小がはじまると考えたのではな
>いでしょうか?
量的な拡大と縮小については、私の理解の範囲を超えているのでなんとも言えません。
存在(宇宙)の時空間的無限性と時空間的有限性は、等しい概念だと考えています。
色即是空、空即是色です。
全存在が無限=有限であれば、個としての存在も、有限=無限と思惟することもできます。
有と無は等価であるとも言えます。
>菩薩自体は、仏より下の存在とされていますが、少なくとも悟りを開いているといわ
>れています。弥勒菩薩とは実は宇宙の意志ないしは宇宙の物理特性を「人格化」して
>表現したのではないかと考えます。宇宙にはたして意志があるのかないのか、これも
>重要なテーマだと思います。
“意志”というものを、時間軸的未来における法則連続性=運動継続性を含むものと拡張すれば、宇宙(全存在の関係性)について、“意志”があるとも言えると考えています。
人の意志とは別のものですが、宇宙の“意志”に逆らう意志を実現することはできない、実現できる意志は宇宙の“意志”に則ったものであるという見方は出来ると思っています。
実現できない意志=目的内容を思惟することができるのは、思考のおもしろさだと思っていますし、そのような思考をすることも宇宙の“意志”の範囲内だと思っています。