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(回答先: Re: 先走りはお控えを 投稿者 あっしら 日時 2002 年 8 月 10 日 15:12:36)
「宇宙が拡大しているというのは、観測論的な説明と
しては了解しますが、宇宙そのものが概念的存在であ
り物理的存在として確定できていないし、同時的観測
もできない(数分前の事象と12億年前に事象を混在
的に認識するしかない)わけですから、あくまでも観
測事象の合理的な説明でしかないと思いますが...
.」
宇宙は謎だらけであり反宇宙・平行宇宙など様々なモデルが考えられています。とりあえず最初の一歩が必要と考えます。
同時観測ができないからというのを1つの根拠に現在の宇宙論の批判をされていると理解しましたが、手探りの中で理解を深めていくというのは建設的な考えと考えます。
土井タカコ氏は主張しても実現可能な代替案を示さないことが多いと私は考え、土井氏を引き合いに出して、ともかく手探りでも宇宙の認識を深めようという試みを賞賛したつもりです。
観測の限界を言われてますが、ではニュートリノにはそうした制約はないのですか?ニュートリノの観測もリアルタイムで行うものではありません。ニュートリノの軌跡やそれが何かにあたることにより変化するかどうかという非常に間接的な手法を取っています。科学の最先端になればそうした「と思われる」思考を採用しないと進歩そのものがなくなります。現在仮説を出してそれを叩き台に200年後に証明されることも十分意味があるはず。
宇宙の空間的形状や空間的範囲があるのかないのか
を含めて未確定のなかで、同時的観測もできない
(数分前の事象と12億年前に事象を混在的に認識
するしかない)条件での観測事象の合理的な説明を
宇宙論と言えるのかという問いです。
何も宇宙論を提示しないよりましだと考えます。次の宇宙論は相対性理論の矛盾をのりこえることで成立すると考えます。そうだとすれば相対性理論は正誤に関係なく宇宙の理解に多大の役割を果たしたことを評価すべきでしょう。「光あれと神がいった」というのもその時代の知識の範囲内で宇宙がどう始まったかの認識を示したわけであり、そうした宗教的教義ですら叩き台として十分有効だったと考えます。
別にそのような知的営為が必要ないとか説明体系
に合理性がないということではなく、直接知がな
いということでの認識の限界を踏まえなければな
らないということを言いたいのです。
これはバートランド・ラッセルの主張した階層理論で説明できると思います。ある論理階層(集合といってもよい)より一段階層が上にある論理は我々には理解できないか矛盾を含んでいるように見えます。論理学で言うクレタ人のパラドックスです。人間には認識の限界があります。コンピュータにはそうした限界をこえる可能性があります。なら結果として人間がコンピュータという道具を利用して認識の限界をこえたと将来言えるかもしれません。今できないから将来もできないということはないと思います。
包括的時空間(全存在でもいいのですが)としての
宇宙に関しては概念的存在だと考えています。
概念的存在というのは観念のみの存在ということで
はなく、人の対象的知的活動力で論理的で体系的な
説明がなされたものということです。
それは愛も同じでしょう。愛というのはさわることも定量化することもできません。つまり観念的存在です。ですが観念のみの存在ではなく論理的説明も試みられています。キリスト教においては愛は人最終的に善に導こうとする神の意志と説明され、動物行動学においては種の保存を中心にして説明されます。そうした試みは最初の一歩として有益であり、逆に宇宙が概念的存在であるか観念のみの存在であるかに私は意義を見出すことができません。
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