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(回答先: 宇宙人は25年以内に見つかる? 米科学者ら(CNN) 投稿者 FP親衛隊国家保安本部 日時 2002 年 7 月 30 日 16:59:37)
UFOの真実
1990年に米国のノースカロライナ州にある病院の救急病棟の医師、スティーブ・グレアによって創設されたCSETI(Center for the Study of Extraterrestrial Intelligence)はスターライト・プロジェクト(UFOを取り巻く秘密の公開を米国議会の公開聴聞会で行わせようとするプロジェクト)と第5種接近遭遇(我々人類の方からETを呼び寄せる活動)を2つの柱として活動してきた。(何故、私がCSETIに興味を持ったかは こちらで見ることができます。)その活動の経過としてローズウェル事件の50周年にあたる1997年4月には米国首都 ワシントンのウェスティン・ホテルで米国議会の議員とその秘書を集めて、UFO、ETに関する公開聴聞会を米国議会で開くよう呼びかけた。この時には数人のUFO、ET事件に直接かかわったことのある証人が出席し、体験談を出席した議員やその秘書の前で話した。有力な数人の議員が出席し、CSETIの活動目標と体験談に感銘を受けた様子だったことから、この計画が予定通りに展開して行くかに見えたが、どの議員もそれ以後、自ら進んで行動を起こそうとはしなかった。そのことについて出席した議員は、我々が行動を起こすためには米国民とメディアの声が必要だと主張した。当初の計画通りには進まなかった議員説明会ではあったが、これにより多くのUFO、ETに関して直接体験をもった証人が、以降CSETIに投降して来た。1999年の時点で、その数は200人に達した。米国政府と議会にたいする直接の働きかけがうまくいかなかったことを受け、CSETIは方針を大きく転換し、米国政府や議会を直接相手にするのではなく、メディアを通して米国民と世界に訴え、やがてその米国民と世界の声が米国議会議員に公開聴聞会を開かせる力になるだろうと考えた。その準備として2000年の8月から100人におよぶUFO、ETに関する直接体験をしたことのある証人の証言をディジタル・ビデオ・テープに記録するディスクロージャー・プロジェクトを開始した。(CSETIのこれまでの活動の詳しい経過はこちらで見ることができます。)
これらの証人には多くの、米国政府の資金で運用されているET技術のリバース・エンジニアリング・プロジェクトにかかわっている技術者も含まれている。これらの技術者の証言は反重力推進装置の開発から、それを搭載した人類の作ったUFO、そして真空から無限にエネルギーを取り出す技術を開発するプロジェクト等におよんでいる。これらの技術は人類が未来に向けて限りなく発展して行くためにはなくてはならないものであり、これ無くしてはエネルギー枯渇か環境破壊のどちらかでこの文明は22世紀を待つことなく終焉を迎える可能性が高い。このプロジェクトは予定よりやや遅れて今年、2001年の3月に完了した。120時間に及ぶオリジナル・テープは永久保存され、それをもとに編集された18時間のダイジェスト版と証言の内容を書き取った1200ページの文書が作成され、計画されていたプレス・コンファレンスの準備が完了した。
2001年5月9日、米国の首都、ワシントンにあるナショナル・プレス・クラブで20余人のUFO、ETに関する直接体験をした証人の出席のもと、政界人や世界の著名なメディアを集め「秘密公開」に向けて記者会見を行った。この記者会見の模様はCNNにより数回にわたって全世界に報道された。(この記者会見のエクゼクティブ・サマリーは こちらで見ることができます。)
このナションナル・プレス・クラブでの「UFO秘密公開」記者会見と時を同じくして、CSETIディレクター、スティーブ・グレアの著作「ディスクロージャー」がリリースされた。「ディスクロージャー」はディスクロージャー・プロジェクトで製作されたスティーブ・グレアによる証人へのインタビューをディジタル・ビデオ・テープで収録した証言の一部を書き取ったものである。
以下の記述は「ディスクロージャー」の証言内容をもとに私が分析、再現した証人の体験である。この本以外では同じくスティーブ・グレアの著した「エキストラテレストリアル・コンタクト」も参考にしている。同じ事件についての複数の証言、あるいは公開された政府の公文書から分析、推測、判断された事件の再現である。ここでは数ある証言の中から直接体験をもとにした証言だけを取り上げた。取り上げた順序はそれぞれのテーマごとにまとめなおした。各章の題はUFOに関する質問の形をとっている。各章の内容はその質問に答えるような課題を取り上げている。
UFOは本当に地球に飛来しているか
この質問に明確に答えることのできる、疑うことのできない証言は数多くある。その中でも簡潔で分かり易いのは退役海軍パイロット、グラハム・バスーンの証言である。グラハム・バスーンはトップ・シークレットのクリアランスを保持していた退役VIPプレインパイロットであり、1997年4月9日に米国の首都ワシントンで行われた議員説明会とロスアンゼルスの TV放送局の番組 UPN NEWS 13 、そして今回の5月9日のディスクロージャー記者会見で自らの体験を証言している。その体験は次のようなものである。
1951年2月9日、 グラハム・バスーンの操縦する海軍のC-54は31人の乗客と2人のVIPを乗せてアイスランドのケフラビック(Keflavik)を離陸、IFRで飛行し、10日の0055Zにはカナダ領ニュー・ファウンドランドのアバロン半島にあるアジェンティアの北東250マイル(北緯50度、西経50度)を高度1万フィートで225度に進路を取りながら、アジェンティアに向けて飛行していた。当時の視界は60マイルで極めて良く、はるか先まで見通すことが出来た。グラハム・バスーンが最初に見つけたものは水平線の彼方40マイル先にある、ぼやっとした明かりで、大きな都市にグラハム・バスーンの操縦する飛行機がだんだん近付いて行くような情景であった。時間は01:00Z(現地時間では夜の9:30)で、しばらくこの光を見ていた。そして右側操縦席に座っているフレッド・キンデンに声をかけたが、キンデンもそれが何だか分からなかった。コースから外れてカナダのニュー・ファウンドランド州ラブラドールかグリーンランドの一部を見ている可能性がないか管制官にチェックを要請し、我々が間違いなく予定のコースを飛行していることを確認した。オーロラは発生していなかった。やがてその明かりが25マイルか30マイルに近付くとその光がはっきりとパターンを作っていることがわかってきた。海軍が秘密で海から何かを回収しているのかもしれないと思った。そのパターンは非常に大きな円形をしていた。この時点でナビゲーターのコジャーを呼んで詳しく観察してもらうことにした、コジャーは客席で乗客の世話をしていた機長のアル・ジョーンズを呼んだ。数人が操縦室に入って来た時には、その光は見えなくなり、光のあった15マイル先は真っ暗になっていた。今や操縦室は私の後ろに立っているナビゲイター、通信士、この飛行機の機長で満員となった。突然、15マイル先の水面に非常に小さな黄色い光の輪が見え、数分の1秒もかからずに高度10000フィートに上昇して来た。こちらに向かって来るようなので、オートパイロットの動作を切り、その飛行体の下に行こうとして、機首を下げた。次の瞬間には、操縦室の窓からはこの飛行体以外のものは見えないほど、この飛行体が操縦室の窓を覆った。突然、わめき声がしたので、あれは何だとフレッドに言った。フレッドはあたりを見回し、みんなが我々の後ろに身をかわそうとして、ぶつかり合い、床に重なり合ってころがっていると答えた。私が機の後ろを見た時にはその飛行体はそこにはいなかった。フレッドはそれは右側にいると言った。それは1マイル程あるいは5マイル程、離れて漂っているかのようだった。その状態がかなりの時間続いた。その飛行体の横が見え、ドームや周りを取り巻いている色が見えた。その飛行体には敵対行為が全くなかった。我々はしばらく眺めていた。機長のアル・ジョーンズは操縦席に座り、追いかけようとしたが、その飛行体はあっという間に水平線のかなたに飛んでいった。
直径60−90mのUFOは急速に接近し急激なUターンをし、飛び去っていった。そのスピードはグラハム・バスーンとアル・ジョーンズによって時速1000−1500マイルと推定されている。
この件に関する海軍の報告書には目撃した全員がオーロラを見間違えたと結論している。ロスアンゼルスのテレビ番組 UPN NEWS 13 でインタビューアーはグラハム・バスーンにこのことを問いただしている。グラハム・バスーンは明快にオーロラではあり得ないと答えている。当時、第2次世界大戦前後のパイロットは航法の補助として星座も使っていたことと、グラハム・バスーンが13年間も世界中を飛行していたことを考えると、オーロラや金星などを見間違えるということは考えられない。
ETとの間近の接近
英国のロンドンから北東に約100キロのところにイプスウィッチ(Ipswich)と言う町がある。この事件はその町から12キロ東にある核兵器が貯蔵されているRAFベントウオーターズNATO空軍基地で起こった。1980年12月27日の夜半、当時その基地に警備兵として赴任した直後のラリー・ワレンはとてつもない、事件に巻き込まれることになった。ベントウオーターズ基地から6マイル離れた所にウッドブリッジ基地がある。その間にはレンドレサム・フォレストと言う松林がある。この事件はウッドブリッジ基地に近いその松林で起こった。UFOはクリスマスの翌日の12月26日早朝に現れ、ウッドブリッジ基地の滑走路の端に数色を発光する飛行体として警備兵に目撃された。このUFO現象は同じ日の夜から翌27日の早朝まで続き多くの警備兵に目撃されることになる。それらの多くの目撃者の一人、当時第81警備隊のロリ・リフェルドは夜半2時か3時頃、大きな明かりが滑走路に向けて,飛んで来て、空中で停止したかと思うと、上下左右に動き、突然3つに分かれ、滑走路を横切りものすごいスピードで西の方角へ飛び去ったのを目撃している。米国の Citizen Against UFO Secrecy と言うグループの努力でFOIAにより1983年公開されたチャールズ・ホート中佐の報告書にも同様な現象が記載されている。底の長さが2、3メートルで高さが2メートルの三角形をした金属性の発光体が、松林全体を白い光で照らし、その頂点に赤い光を点滅させ、その下の周りに青い光を放ち、浮遊しているか、足を着地させているかのようであった。警備兵が近づくとその物体は松林の中を飛行し消えた。そして翌日、その飛行体が着地していた、深さ1.5インチ、直径7インチのあとが発見された。
12月27日の夜、ラリ−・ワレンは囲い地点18と呼ばれる、RAFフライトラインの端の離れた場所の見張りをしていた。1時間半が何もなく過ぎた。そして最初に気が付いたのは動物の騒がしさであった。鹿の群れが基地の塀の低いところを飛び越えてラリ−・ワレンがちょっと前に立っていた滑走路に入って来たのである。突然、トランシーバーに会話が飛び込んできた。その会話は松林の上をウッドブリッジ基地に向けて飛んでいる光について話していた。「あの光がまたもどってきた」、ラリー・ワレンは周りをみまわした。突然、交代勤務の司令官であるブルース・イングランドの声がトランシーバーから聞こえてきた、「ワレン、その場所をはなれろ、車をそちらに向ける」。バスティンザの運転する車がやってきた。イングランドは運転席の隣の席に座っていた。後ろの席にはラリー・ワレンと同じような新兵が座っていた。ラリー・ワレンは車に乗るように言われた。ラリー・ワレンを乗せたその車は直ちにベントウオーターズ基地の駐車場に向かった。トランシーバーからは基地の司令官とコンタクトしようとしている呼び出しが流れている。ラリー・ワレンを乗せた車は林道を0・5マイル走り、装甲車の駐車している所に出た。この時の松林の感じは奇妙だった。動きもおかしく、知覚もおかしかった。何かがおかしかった。バスティンザは車を寄せた。そこには他の車がいて、ラリー・ワレンと3人は武器を渡すように言われた。そこで4人一組に編成し直し、さらに松林の奥へと林道を進んだ。
チャールズ・ホートは小人数の高級将校のグループの中にいた。イングランドも一時そのグループにいた。無線による多くの交信が行き交っていたが、下級兵は送信しないように命令されていたが、交信は聞くことが出来た。「今来たものはそのホットスポットをよけてくれ、その上を歩きまわってもらいたくないからな」、彼らは飛行体がもどってくることを予期していると、ラリー・ワレンは思った。バロースは最初の夜からその飛行体が戻ってくると知っていて、非番なのに私服を着て近くにやって来ていた。トランシーバーからはチャールズ・ホートを呼んで、「バロースと他の2人が、そちらに行きたいと言っています。」と言う声が聞こえ、これに対してチャールズ・ホートは、「今はだめだ、こちらにこられるようになったら知らせると言ってくれ。今は誰もここに来てもらいたくない。」と答えている。更に松林を進んで行くと、コーシカン松の端にあるキャペル・グリーンと言う開けた所に着いた。そこが現場だった。地面には霧か霞がかかっているようだった。映写機が設置され、大きなビデオカメラも準備されていた。これらはベント・ウオーターズ基地の広報部から持ちこまれた。飛行体がもどって来ると予期されていた。映画を見ているようだった。霧が地面にただよっている。緊急事態への対応もできている。左には農家があり、人が住んでいるらしく、明かりがついてた。犬が吠えていた事をラリー・ワレンはっきりと覚えている。赤いバスケット・ボールのような形をした飛行体が林を超えて北海の方角から現れた。飛行機のテール・ライトかと思ったが、すごく早く動いて来た。地面にただよっていた霧は幅が15メートルある、なにか形のあるものに見えてきた。このバスケット・ボールの大きさの橙色の物体は物質のようにはみえなかったが、霧の中の物体の6メートル上で止まった。ラリー・ワレン等がその物体を注視すると同時に、フィルムとビデオの撮影が一斉に開始された。その時、爆発が起こった。このバスケット・ボールの大きさの橙色の物体がいくつもの、ものすごく明るい光に分かれた。ラリー・ワレンも、他の者も目の網膜にやけどを負った。アーク・ウェルダーを10分間見ていたのと同等の焼けどである。この時点ですべてが奇怪に見えた。この光の爆発は静かだった。そしてその光の爆発があったところに、底が9メートルあるピラミッドのような形をした、固形の構造物が現れた。それを見ようとすると、虹の効果のように像が歪んでしまった。それでも外側の形ははっきり見ることが出来た。その晩、パーティーに出ているはずの、我々のウイングコマンダー、ゴードン・ウィリアムズも他の高級将校と一緒に現場に到着した。彼等はこのような出来事にどう対処していいか知っているようだった。ラリー・ワレンはどのような音がその物体からしていたか思い出せない。まるで蜃気楼のようであったが、固体の物質である、なぜなら、それは地面に跡をのこしているからである。とにかくラリー・ワレンはそのようなものを見たことがない。ラリー・ワレンの正面のその物体は、ある時点ではたった9メートルしか離れていなかった。この物体のそばには生きものがいた。子供達がこんなところで何をしてるのだろうかとその時考えた事をラリー・ワレンは思い出している。気が動転してきた。明るい光が輝き、動きがあった。明かに上半身が見えた。そして腕が動くのを見たときは、別の世界にいるように感じた。ウイングコマンダーと高級将校はその直近くに居た。ラリー・ワレンの見たのは奇妙な機械の右側にあるものである。明るい光が動き、青っぽい金色の光となり地面から数十センチのところへ動いた。その明るい光りが3つに分かれ、地面から1.2m位いの高さの3つの長方形の光の繭が出来た。その1つ1つには人のようなものが入っていた。光が少し暗くなったので、はっきりと見えた。彼らは髪の毛がなかったが服を着ていた。よく説明出来ないが、何か暗い色の生命維持装置のようなものをつけていた。光の加減で足のほうは見えなかったが、かれらは地面を歩いてはいなかった。ラリー・ワレンは見たくなかったが、大きな目の回りには皮膜があり、我々の目が光の強さに合わせるように、その白い皮膜が動いていた。司令官はそこにいた。このような場合のためのに決められた手順が絶対にあるにちがいないと思った。司令官はその人のような生きものに向かって一歩前進した。
この時点で、ラリー・ワレンはその場から退去をするよう命令を受けた。実際、数多くの下級兵が動員されていた。ラリー・ワレン等は皆、車に向かった。その途中でも、数多くの奇妙なことがその松林で起こっていた。あの光の中の人のような生きものを警護するように、林の中にも上にも、ほかの発光体が浮いていた。バロースは駐車場にいた。結局バロースは現場に行けなかった。
この事件の後ラリー・ワレンはこの基地の中で私服を来た米軍の関係者から驚くべきフィルムを見せられることになる。それについては別の章「どうやってUFOの真実をもみ消すか」で述べる。
ラリー・ワレンは後にこの経験をもとに「Left at East Gate」という本を書いている。
http://www.nectar.com.au/~tateno/