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(回答先: 第120回「負け組の生きる力・勝ち組の奈落」 投稿者 dando 日時 2002 年 6 月 25 日 13:08:50)
詳しいご返答、ありがとうございました。
今回のdandoさんのコラムの内容は文部省官僚の無策ぶりを批判する内容になっています。このことには私も同じように文部省官僚の思慮の浅い施策・責任回避志向に怒りを感じます。責任を最もうまく回避するのは教育をしないことでしょう。責任回避(すなわち仕事をしたくないという意志)を反射神経のように作動させる役人の集合意識が今の文部省の「ゆとり教育」やなんともバカにしたコンセプトである「生きる力」、大学院重点化やポスドク一万人計画に反映されているのでしょう。仕事中心性を最も喪失しているのは彼らかもしれません。
しかしながら、今回の応答に対して、いくつかコメントをしてみたいと思います。この応答は私の問い:
「評価自体を否定するグループに対して、評価システム導入だけではしのげない問題があるのではないか。『降りた』子供たち・大人たちは評価システムそのものをから降りているわけだから新しい評価システムを示しても降りつづけるでしょう。したがって適正な評価システムは『勝組』を生かすことにしかならない」
という意見に対する答えにはなっていないように思います。そしてdandoさんの新しい文章を読んでも、負け組みが降りたという事実が示されているように思います。一方勝ち組みが降りたいう事実はみられない。dandoさんの引用したデータは、勝ち組も降りた、という考えをサポートするものではありません。そして勝ち組は政府の無策に翻弄されている、この点についてはdandoさんのおっしゃることに同意します。
説明のために、dandoさんが引用された「仕事中心性(Work Centrality)」のデータについて私の意見を述べます。91年の調査では特に10代の仕事中心性のポイントが極端に低下していることは確かです。このことに対するdandoさん解釈について私が疑問に思う点がいくつかあります。
まず第一点は、10代の調査対象が特殊になのではないか、ということです。この調査は週に16時間以上働く人に対して為された調査です。10代で16時間以上働いている人間を想定すると、たとえば高卒で就職した人間や、高校で勉強をせずにアルバイトにのみ精をだしている人間です。1991年の状況から一般的に考えてこの調査対象は「負け組」グループであり、降りてしまった人達だと考えるのは妥当ではないでしょうか。勝ち組はこの調査の対象になっていないのです。したがって、負け組が降りた、ということははっきりしたが、10代の「勝ち組」の人間が仕事中心性を失ったかどうかはわからない。次の調査の結果がぜひとも知りたいものです(*1 )。
第二点は、これらの仕事中心性の低下を、彼らが団塊世代ジュニアであることを結び付けている点です。苅谷氏がしめした階層分離論に従えば、勝ち組団塊世代の子供はやはり勝ち組に入りやすい。すなわち、学習意欲を極端に無くした子供たちと、「異議申し立てしたにもかかわらず前例踏襲主義の管理職になり高収入を得てきた」団塊世代の子供たちでは、その構成グループにずれがあるように考えられます。したがって、団塊世代のヘタレぶりに学習意欲の低下を結びつけるのは間違っているのではないか。
第三点は仕事中心性を学ぶ意欲としてみることができるかどうか、ということです。私が「降りてしまった子供たち」というグループは仕事を中心として考える人生観からおりたのではなく、学ぶことを止め、キャリアデベロップメントから降りた、と考えるのが適正だと思います。仕事中心性と学習意欲を同じ次元で扱うことに私は違和感を感じます。
以上の点から懸念されるのはやはり、勝ち組は降りずに残り、負け組みは降りてしまったのではないか、ということです。全体的な地盤沈下を懸念されるdandoさんとは違い、私は勝ち組と負け組の間に生じ、その深みを増してゆく断層に懸念を感じるのです。そしてその断層を埋めるべく対処するべき文部省は、dandoさん自身が指摘されたように私立高校と公立高校の教育のレベルの差を積極的に認めたり(*2)、地方自治体による塾の活用を唱え始めたりしている(*3)。負け組は、政府に捨てられた、といってもいい。私はそのことに一番の怒りを感じるのです。日本に公教育は実質的に存在しなくなる、という怒りです。だったらなんのための文部省なのか。
「全体的な地盤沈下」と、「勝ち組と負け組の分離」という違った現状認識から導かれるのは、問題の解決方法の指針の違いです。私はdandoさんが主張する「適正な評価システムの導入」(*4)を否定するものではありません。むしろ大賛成です。例えばdandoさんがおっしゃるように、創造的であることが適正に評価される大学のシステムがあれば(*5)、日本の大学が豊かに知的になることを想像して胸が躍ります。しかしそれだけでは、システム自体を否定し政府からは見捨てられた負け組の子供達を救うことにはならないのです。
以上、現状認識の違いを指摘したことになります。
文部省批判という大きな点では全く賛同します。
*1 この国際的な社会調査を行った研究者グループMOWによれば、同じような調査の計画はないようです.。http://allserv.rug.ac.be/~rclaes/MOW/
*2
団藤保晴氏
「80年代、ジャパン・アズ・ナンバーワンの雰囲気と、もうひとつの要因が可能にした錯誤ではなかったか。都市部では子どもの中核部分は私学に去る状況にあり、90年には東大入学者で私学が公立を上回ったことに象徴されるように、成績上位グループは実質的に文部省の管轄から離れた。失敗したら国家的に取り返しがつかなくならないか――その恐れ、歯止めはなくなっていた。むしろ学力面でも校内活動面でも中核を失った公立校対策が急がれたのだろう。 」
http://dandoweb.com/backno/20020625.htm
*3
朝日新聞対談 文部省政策課長 寺脇研氏の発言
「ここで、死語になりかかっていた社会教育の復権を考えていかなきゃいけない。地域間格差をなくすのは社会教育が果たすべき役割ですね。「東京には塾があるけど、うちはない」なら、塾を誘致する自治体も出てきていい。」
http://www.asahi.com/paper/edu/drop/drop02.html
この寺脇氏に子供がいるならば、やはり私立に通わせているのだろうなあと思ってしまう。
*4
第97回「再論・学力低下問題の最深層」
「民主主義の名の下に『評価』を避け、社会の側も最終学歴だけで受け入れて、企業内ですら個人の能力について評価が出来ていない。この国に一番欠けてるのは、きちんとした評価システムの確立です。」
http://dandoweb.com/backno/20010125.htm
*5
第74回「大学の混迷は深まるばかり」
http://dandoweb.com/backno/990826.htm