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(回答先: 別の視点で見ないと堂々巡りに 投稿者 dando 日時 2002 年 6 月 04 日 00:24:26)
dandoさんが引用された本論(第95回「学力低下問題の最深層をえぐる」 )と再論(http://dandoweb.com/backno/20010125.htm)でなんとなく言いたいことがずれているように思えているので、ちょっとわかりにくいと思いました。本論のほうでは、学力低下をその親世代に原因があると読めます。一方で再論の方では
「この国に一番欠けてるのは、きちんとした評価システムの確立です。」
といっています。後者の方がたぶん一番いいたいことなのだろうと思いますがどうなんでしょう。
ゆとりか知識重視か、という問題の立て方は私も確かに不毛だと思います。ゆとり教育という言葉が出現する以前から繰り返されてきた議論と同じ枠組みに見える。サイボーグ004さんの議論もこの枠に入っていると思います。
私が思うのは、ただゆるゆると子供を放っておいたら野獣を飼育しているみたいなものだし、だからといって机の前にむりやり座らせて知識を詰め込めばいいというものでもない。どちらも違う手段による放任といえます。
私は知識に対してどうやって向かい合えばいいのか、という教育がないのが問題だと思うのです。知識を教え込むことは重要です。知識を取得すること、それは人間が無人島に一人でいてはできないたくさんの経験を書物を通してシュミレーションすることであって、経験の促成栽培ともいえます。ただ、こうした知識は個人の実体験と結びつけて膨ませないと総合的な知恵にはならない。この知識(シュミレーション)と実体験を結ばせる過程、言い換えると知恵の産出方法を教えなくてはいけないのです。そしてこのことを教える方法は確立されていない。どちらを向いてもこの過程は個人任せです。一種のテクノロジーなので体系的に教えることは可能なはずです。
dandoさん主張する評価システムの導入は早期解決に一番近いかもしれないと私も思います。しかしそれは本質的ではないのではないか。解決方法を示すわけではありませんが、以下にその理由を述べます。
dandoさん自身が分析したように
「学習内容を軽減して十分に理解させる「ゆとり」教育がうまくいった例であり、同時に失敗した例にもなっている。全体として正答率の低下は下位グループほど激しく、出来る子と出来ない子の二極分解が進んでいる。」
のですし、
ちょっと引用がながくなりますが稲葉さんが次のように言っています。
「かつて竹内が描いた日本の学歴社会の中では、人々は競争に負けても「降りない」ことによって競争のシステムを支える。そして競争のシステム自体に反逆することはない。システムが不平等であるとわかっているにもかかわらず、そこから「降りない」ということ、これが「中」意識の具体的な現れの一例である。そしてこのように見るならば「中」意識とはある種の「公平」感と密接に結びついているらしいとわかる。つまり人々は「降りない」ことによって学歴競争のシステムに対して支持を与えている――何らかの意味で「正しい」ものとして、たとえ熱烈にではないにせよ、渋々ながらとしてもその「公的」な存在意義をプラスのものとして認め、受け入れている、と推測できるのである。つまり竹内の描く学歴競争は、あちこちきしみ、ゆがみを見せながらもながらもそれでもなおひとつの「公共性」の装置、人と人とをつなぐ「連帯」の仕掛けでありえていたのだ。
これに対して今回苅谷が描いた日本の学歴競争において、「負けた」人々は競争から「降りる」。しかし「降りた」先どこに行くかと言えば、やっぱり反逆はしないで、競争の外側に自分たちなりの幸せを見つけて自足していく。そうやって結局、競争のシステム自体は存続していく。しかしこうなってしまえば競争システムはもはや「公共性」「連帯」の装置ではない。「降りた」人々はもはやシステムに「承認」を与えてはいない、関心を失ってただ「放任」しているだけだ。
それではこれら低意欲の人々、学歴競争に見切りをつけた人々は、学歴社会の拘束から自由である、と言ってよいのだろうか? 彼らは本当に「降りる」ことができているのだろうか? そもそも「降りる」ためには一度は「乗る」ことが必要なのであり、その限りで彼らは学歴競争にいったんは巻き込まれたのである。そして「降りる」ことによって学歴社会の外、別の世界に脱出できたわけでもない。現実の生活の場面で彼らは、「降りなかった」人々とも付き合わざるをえない。そしてこのような場合、往々にして「降りなかった」人々は「降りた」人々よりももともと社会的に優位に立っていた、そして今後も優位に立ち続ける人々だろう。」(稲葉さんの「地図と磁石 ──不完全教養マニュアル 第1回 ニッポン社会の不平等化を考える ──「勝ち逃げ」目指すヘタレ「中流」の行方は・・」
http://www.hotwired.co.jp/altbiz/inaba/020122/textonly.html)
dandoさんの出来る子・出来ない子は、勝組と「降りた」組に対応するように思います。こうした評価自体を否定するグループに対して、評価システム導入だけではしのげない問題があるのではないか。「降りた」子供たち・大人たちは評価システムそのものをから降りているわけだから新しい評価システムを示しても降りつづけるでしょう。したがって適正な評価システムは「勝組」を生かすことにしかならない。
データが示せるわけではないのですが、「降りてしまう子供」の意欲低下は日本に限った問題ではありません。少なくとも知る限り、アメリカ・ドイツ・インドネシア・フランス・ブラジルでも教育者を悩ませている問題です。(ちなみにそれぞれの国がそれぞれ自分の国だけの問題だと思っているところがまた興味深いです。そういえば「キレル子供たち」も世界中で増加しているのに日本固有の問題と捉えがちです)。勝組の評価システムに関してアメリカやヨーロッパのシステムのほうが日本よりも優れているのは明白ですが、しかし評価システムの杜撰さと降りてしまう子供たちが発生してくる原因は違うところにあるのではないでしょうか。