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サンデー毎日 2020年11月22日号 紙面クリック拡大
熱烈な反共主義者「令和の蓑田胸喜」が官邸を支配している!
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サンデー毎日 2020年11月22日号
牧太郎の青い空白い雲/791
「蓑田胸喜(むねき)」さんのことをご存じだろうか?
明治27(1894)年、熊本県八代郡に生まれた憲法・論理学者。大正14年、雑誌『原理日本』を創刊。自由主義的な学者を攻撃した人物である。
東京帝国大在学中に国粋主義の学生団体に参加。慶應義塾大の教授になってからは教壇でマルクス主義を徹底批判。試験では、受講生が「明治天皇御製(ぎょせい)の三首」を書いて出せば及第点を与えた!という逸話が残っている。熱烈な皇室中心主義者だった。
彼が日本の「戦前戦中」を決定づけたのが昭和10(1935)年の「天皇機関説」事件である。当時、大日本帝国憲法下で、多くの憲法学者が「天皇は法人としての国家の最高機関である」と考えていた。東京帝国大名誉教授で貴族院議員だった美濃部達吉氏が唱えた「天皇機関説」が通説だった。
ところが「天皇は現人神(あらひとがみ)」と主張する軍部は反発した。1935年、貴族院本会議では元陸軍中将の議員が「国体を破壊する思想だ!」と攻撃。時の政府は「天皇機関説」を否定して「国体明徴(こくたいめいちょう)声明」を出した。
天皇機関説が「天皇を統治機構の一機関」としているのに対し、国体明徴声明は「天皇が統治権の主体である」と明示し、日本は天皇の統治する国家である!と宣言した。この「国体明徴運動」の理論的リーダーが蓑田さんだった。
美濃部教授は不敬罪で告発され(不起訴)、公職を追われ、著書は発禁にされた。
この事件をきっかけに、蓑田さんは大学粛正運動を指導した。日独防共協定が締結されると、近衛文麿らが顧問を務める反共・国粋主義の「国際反共連盟」を結成した。やがて日本は「蓑田胸喜」流で戦争に突入した(彼は終戦後、首を吊(つ)って自殺している)。
歴史の中で忘れられた「蓑田胸喜」さんのことをあえて書かせてもらったのは、例の「日本学術会議の新会員任命拒否」騒動が当時と似ているからだ。
東大の宇野重規教授(政治思想史)、東大大学院の加藤陽子教授(日本近現代史)ら6人の任命を拒否した理由に関して、菅義偉首相は「会員の45%が、いわゆる旧帝国大学に所属するなど偏りが見られる」と答弁したが、どうやら「任命拒否」の狙いは「共産党寄りの大学」を粛正する運動の始まりなのか。
誰とは言わないが、官邸に間違いなく「令和の蓑田胸喜」がいる。
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