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7年8カ月かけて「政治の私物化」にならされた私たち…内田樹がそれを「野蛮」と呼ぶ理由
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2020.11.5 08:02 AERA dot.
内田樹氏(撮影/水野浩志)
コロナと生きる (朝日新書) 内田 樹,岩田健太郎
長期政権後の菅新政権が幕を開けた。7年8カ月に及ぶ前政権の“置き土産”について、「文明」と「野蛮」の視点から読み解くその正体とは? 「一冊の本」11月号(朝日新聞出版)に掲載された、最新刊『コロナと生きる』(岩田健太郎氏と共著)が好評の思想家・内田樹氏による寄稿を、特別にお届けする。
* * *
■野蛮な時代の正体
政治権力を公共の福利のためではなく、政治家自身が私利私欲のため、あるいは個人的な政治的イデオロギーの実現のために用いることを「私物化」と呼ぶのだとしたら、今の日本では政治過程のほぼすべてが「私物化」されている。けれども、国民たちは別にこれを「決してあってはならないこと」だと思っているようには見えない。権力者というのは「権力を私的な目的のために濫用することができる人」のことだと多くの日本人は思っているからである。
一般市民がなした場合には法律上の罪に問われるようなことでも、権力者やその身内がなした場合には看過される。そういう事例を私たちはこの7年8カ月の間に繰り返し見せられてきた。そして、「世の中というのはそういうものだ」という諦観にしだいになじんできている。
だから、政治家の汚職や不祥事のニュースでも「公人ともあろうものが」と眉根を逆立てるというような感情的なリアクションは、最近のニュースキャスターはしなくなった。そもそも「公人」という言葉が死語になりつつある。「公人」というのは「支持者も反対者も含めて全国民の利害を代表するもの」のことである。そう聞いても多くの人は意味がわからないだろう。何が悲しくて「自分の反対者も含めて」すべての人を代表しなければならないのか? われわれが議席を獲得し、多数派を形成しようとしてきたのは、「反対者を黙らせるため」ではないのか、と。
そういう社会のあり方を「野蛮」と呼ぶ。私が言っているのではない。オルテガ・イ・ガセットがそう言っているのである。
オルテガは『大衆の反逆』(1930)で「文明とは共同生活への意志のことである」と書いた。「敵とともに生き、反対者とともに統治する」ことができるというのが文明の目標である、と。
文明の反対概念が「野蛮」である。野蛮とは「分解への傾向」のことである。人間が分散し、たがいに分離し、敵意をもつ小集団に社会が分断されるのが「野蛮な時代」である。政治的対立と国民の分断を私たちは「ふつうのこと」だと思っているけれども、オルテガはそれこそが「野蛮」だと言うのである。
野蛮な人たちは人を説得しようとしない、自分の思想を情理を尽くして伝えようという努力もしない。ただ多数を制して、力まかせに強要する。説得や正当化を試みないのは、聴き手の知性や判断力に信を置いていないからである。
「野蛮な時代」を条件づけるのは、単にそこでは強力なものが勝つというだけのことではない。人々にことの理非正邪を判定する能力がないということである。
政治家が有権者の知性や判断力に信を置かないとき、政治は野蛮なものになる。人々の見ている前で、実際に反対者を抑え込み、黙らせて、屈辱感を与えて、どちらが「強い」かを誇示してみせないと、人々にはどちらに理があるかわからない、それくらいに人々は愚鈍だと政治家が思っているとき、政治は野蛮になる。
■権力の私物化の実相
私自身は論争ということをしない。絡まれてもやり過ごす。論争には意味がないと思うからである。私があることを述べた。それを「間違いだ」と言う人がいる。私の言明にはそれなりの根拠があり、私を誤りとする人の言明にもそれなりの根拠がある(はずである)。でも、どちらに理ありとするかは他の人たちが判断することである。世間の耳目を集めてから、殴り合ってみせて、勝敗の結果をご披露しないと、どちらに理があるかわからないだろうというのは論争当事者の思い上がりである。
私は「自由な言論の行き交う場」の審判力を信じている。だから、私は私の言明を「言論の自由に行き交う場」に置く。他の人もそれぞれの持論をそこに置く。何年か何十年か経ったあとに、どれかが残る(何も残っていないかも知れない)。でも、それは私が決めることではない。言論の場が決めることである。私がそこに出て行って、他人の言論を叩き出す必要はない。消えるべきものは消えるし、残るべきものは残る。それくらいには私は長期的・集団的な叡智を信じている。
だから、私はオルテガとともに「文明」の側に立つ。「文明の側に立つ」というのは異論異説が共生できる場を守るということである。それが「公共的」にふるまうということのいちばん根本にあることだと私は思う。
政治家がどうして権力を私物化するようになったのか。オルテガ風に言えば、どうして政治家は「野蛮」になったのか。それは「他者と共生する」ということの大切さを忘れたからだ。「理解も共感も絶した他者」とでも私たちは場を共有し、折り合いをつけ、場合によっては協働して、何か価値あるものを創り出すことができる。それが「文明」というものだ。
繰り返すが、「公人」とは「敵とともに生き、反対者とともに統治する」ことができる人間のことである。少なくとも、統治にかかわる人間はそういう理想をめざすべきだと思う。
でも、公人として生きることはむずかしい。一つには倫理的な痩せ我慢を強いられるからである。「李下に冠を正さず 瓜田に履を納れず」という古諺がある。公人はすももの木の下では冠の紐が緩んでもかぶり直してはいけない。瓜の畑では靴が脱げても履き直してはいけない。さぞや不快ではあろうが、公人はその不快に耐えなければならない。というのは、公人においては「正しくふるまうこと」と同じ位に、あるいはそれ以上に「正しくふるまっているように見えること」が重要だからである。「よそ眼には罪を犯しているように見えたかもしれないが、実は犯してない」という言い訳は公人には許されない。公人は「推定有罪」なのである。それが嫌だという人はそもそも公職をめざすべきではない。
もう一つの困難さは、全国民の利害を等しく配慮して政治を行った場合、全国民の不満の程度が均されるようなところが「おとしどころ」になるということである。だから、公共に配慮した場合、「全国民がまったく同じ程度に不満顔であること」が比較的ましな成果だということになる。
だから、支持者の熱狂や喝采を求めて政治家になった人間は公人としてふるまうことを嫌うようになるのである。それよりは自分の支持者の要望を100%満たして、彼らが欣喜雀躍する姿を見ている方が気分がいい。反対派の要望には「ゼロ回答」で応じて、彼らが屈辱感に打ち震えるのを見る方が気分がいい。
国民を敵味方に分断して、敵意をもつもの同士がいがみ合っている状態が実は一番統治し易い。そういう考え方をする政治家が世界中で増えている。統治の効率性だけを考えれば、それで正しいのかも知れない。
けれども、そういう社会では人々は次第に「共同生活への意志」を失い、「他者と共生する」能力も衰える。いずれ人々は自分たちがどうして一つところで、理解も共感もできない人間たちと我慢して暮らさなければならないのか、その理由さえわからなくなるだろう。そのとき文明の命脈も絶える。そして、私たちの社会はいまそちらに向かっている。
内田樹(うちだ・たつる)
1950年東京都生まれ。神戸女学院大学名誉教授。東京大学文学部仏文科卒業。東京都立大学大学院人文科学研究科博士課程中退。著書に『私家版・ユダヤ文化論』『日本辺境論』、街場シリーズなど多数。近刊に『コロナと生きる』(共著)、『日本習合論』がある
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