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「政治の師」の反対押し切って横浜市議選に立候補した過去 菅義偉 隠された経歴と裏の顔
https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/news/279718
2020/10/09 日刊ゲンダイ
菅首相は「通産大臣秘書時代の体験がその後の政治人生において重要だった」というが…(C)共同通信社
菅義偉が初めて国政の現場を垣間見たのは、1984年5月からのおよそ半年間だった。有力後援者からの推薦により通産大臣秘書官になった菅は、小此木のスキャンダルに見舞われる。小此木家の三男として衆院議員となった小此木八郎に聞くと、笑えるエピソードを教えてくれた。
「たしか親父が通産大臣だったときだった。『週刊新潮』が夕ぐれ族という売春組織の特集記事を書いて、その顧客名簿にうちの親父が載ったんです。で、菅さんは横浜駅のキオスクとか、そこらじゅう駆けずり回って『週刊新潮』を買い占めた。それがどう奏功したか、わからないけど、菅さんはそういう泥くさいことまでしていたようです」
菅自身、「通産大臣秘書官時代の体験がその後の政治人生において重要だった」と高校時代の同級生に漏らしている。むろん大臣秘書官としての仕事は、スキャンダル隠しだけではない。じかに霞が関の官僚と接し、官僚支配を政治信条とする今日の菅にとっての原点といえるかもしれない。菅本人に小此木のことを尋ねてみると、こう話した。
「小此木さんは国会対策に実力を発揮していました。人間関係のねじれた糸を解きほぐすのがうまい。気配りが絶妙で、国対委員長としては最高だった。たとえば国鉄改革のとき、行革担当の役職をやっていた橋本龍太郎さんと(元運輸大臣の)三塚博さんが大げんかしてね。赤坂の料亭で大論争を始めて収拾がつかない。そこで、私たちはいったん横浜に帰っていたのですが、小此木さんが仲裁に呼ばれた。『これから赤坂に戻るから、おまえもついて来い』と一緒に引き返したことまでありました。私は(運転手として)車の中で待機しているだけでしたけど、そういう人でした」
小此木は中曽根康弘の行革で力を発揮した。霞が関の官僚と民間企業とのあいだを取り持ちながら、国鉄改革をはじめ運輸行政の構造改革を進めていった運輸族議員だ。菅はその師から鉄道会社との付き合い方を学んだ。半面、行革では官から民への規制緩和で新たな利権も生じる。それを肌で感じ取っていったように思える。
菅は横浜市議会議員出身の小此木と同じように、市会議員を目指した。
もっとも、小此木はそれに反対した。1987年4月の統一地方選で横浜市議選に立候補したときの様子について、元市議会議長の藤代耕一はこう解説してくれた。
「菅さんは小此木事務所の秘書時代、横浜市内の神奈川区と西区を担当していました。たまたま神奈川区で自民党市議候補の空きが出たので、そこならどうか、という話はあった。けど、本人がどうしても西区から出ると言い出したんです。しかし西区はすでに自民党の鈴木喜一が公認されている。それもあって大揉めに揉めたんです」
だが、小此木の反対理由は、党の公認問題だけではない。小此木にとって菅の出馬はある意味、裏切り行為に映ったのである。 =敬称略、つづく
森功 ノンフィクション作家
1961年、福岡県生まれ。出版社勤務などを経て、2003年からノンフィクション作家として活動を開始。「ヤメ検 司法エリートが私欲に転ぶとき」「同和と銀行」「腐った翼 JAL消滅への60年」「悪だくみ 『加計学園』の悲願を叶えた総理の欺瞞」「官邸官僚 安倍一強を支えた側近政治の罪」など著書多数。最新刊は最新刊は「ならずもの井上雅博伝 ヤフーを作った男」(講談社)。
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