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電通の恐ろしい心臓部<本澤二郎の「日本の風景」(3825)
http://jlj0011.livedoor.blog/archives/26008079.html
2020年08月25日 jlj0011のblog
<野党、国民も理解していない大魔神の心臓部公開!>
戦後75年8月を迎えて安倍晋三内閣の真の貢献度を測定してみると、それはほとんどの国民、学者・文化人さえも知らなかった、電通の恐ろしいほどの心臓部を教えてくれたことではないだろうか。
単なる広告代理店のはずが、その実、戦前の満州国・関東軍の特務機関としての侵略統治機能を、現在も継続・存続してきていると極論できるのではないだろうか。
<復活した財閥の心臓部=関東軍の特務機関>
いつのことだったか、朝鮮半島を植民地支配したことについて「日本はいいこともした」という趣旨の発言をして、大臣を首になったものがいた。
最近までパソコンのYOUTUBEを、クラシックを聞ける場所だと思い込んでいたのだが、そこに李香蘭の生涯を物語る映像を見ると、次々と当時のものが登場する。その中には満州国関連の映像も。
中国の東北地方の鉄道や都市の景観、撫順の炭鉱、鞍山の製鉄所など発展する様子も。これぞ侵略・植民地の正当化に他ならない。虐げられているはずの中国人に、焦点の当てた真っ当な映像ではない。
ちなみに、李香蘭の父親は満鉄の職員で、撫順炭鉱は、満鉄の傘下となっていた。中国語の上手な彼女は、植民地政策を正当化するために、関東軍・満鉄が女優として働かせていたのである。そのことで、彼女の苦悩は、戦後も尾を引いていた。生きているころ、国会議員となった李香蘭こと山口淑子に取材しておくべきだったと、いま後悔している。
無政府主義者の大杉栄惨殺人の甘粕という悪党が、映画製作の責任者だった。岸信介側近の福家俊一は、甘粕に拾われて戦後政界に打って出た人物だ、と清和会OBに教えられたばかりだ。
大平後継者となった鈴木善幸内閣を打倒するために、岸は狂奔するが、その様子を福家からよく取材したものである。岸は、満州時代の仲間として、福家を信じ込んでいた。現在の麻生太郎は、鈴木の娘婿になることで、政界での地歩を築く。宏池会入りした河野洋平にぶら下がった。いま洋平のできの悪い息子を、麻生が将棋の駒にして使っている。
<政友会副総裁・小川平吉は息子の満鉄入りを阻止>
思い出すと、宏池会こそが日中友好派の牙城だった。鈴木家とも縁戚になるが、戦前の政友会副総裁を歴任した小川平吉もまた、宇都宮徳馬の実父・太郎が陸軍参謀部時代、孫文と親しかったように、政治家として交流が深かった。
次男の平二が後継者となったが、彼は若いころ、健康を害し、房総半島の小湊あたりで静養した。面倒を見たのが、一代で日本冶金・昭和電工などを築いた森一族。東京帝大法学部を卒業する場面で、平二は、父親の平吉に「満鉄に入りたい」と直訴した。
息子の就職依頼に父親は言下に「許さない」と断った。その理由がまとも過ぎた。「よそ様(中国)に土足で入って暴利をむさぼっている企業に将来はないッ」、とはいえ、満鉄の大連からハルビンまでの特急「アジア号」を映像で初めて目撃したが、当時としては国際的にも一流列車だった。若者があこがれる様子が分かる。息子はやむなく三菱商事に乗り換えた。彼の上海時代を聞きそびれてしまった。三井と大豆利権で争っていたのか?
関東軍の謀略に抵抗した小川平吉に対して財閥・関東軍閥は、彼が鉄道大臣の際に汚職事件で追及した。背後に里見機関が暗躍したのかどうか?もう調べようがない。
清和会の反安倍晋太郎というと、田中義一の息子の龍夫だった。彼の母親が、上州は群馬県出身ということもあって、御大福田赳夫は龍夫をとことん信用し、岸の娘婿と距離を置いた。案外このことは知られていない。晋三のレベルを、福田の息子・康夫はよく知っている。小泉純一郎が重用しなければ、いまの安倍晋三は存在しなかった。
小泉の責任は重大である。
横道に反れてしまったが、以下の貴重な資料を発見したので、よく読んで電通の心臓部を理解してもらいたい。
>「電通」と自民党・公明党・CIA、「電通」を取り巻く、日本でいちばん醜い利権の構図<改訂版> http://www.asyura2.com/09/senkyo69/msg/860.html ・・・・・略 1932年(昭和7) 満州国建国。国策通信社「満州国通信社」初代社長には、里見 甫(さとみはじめ)が就任。里見 甫は、裏社会とつながりがあり、満州国高官だった岸 信介の命によって、アヘンの密売であげた巨額の利益を、関東軍の資金にする犯罪行為の一端を担っていた人物。「満州国通信社」は、当時の軍国主義下の国策通信社であり、その阿片マネーから、児玉誉士夫、笹川良一といった人間に繋がり、阿片を利用し戦争指揮をとった東条英樹、「満州は、私の作品」と豪語する岸 信介、そして、日本の右翼勢力とも元々密接な関係があり、更には、中国の裏社会(マフィア)との繋がりもあった。 1934年(昭和9)後に「電通」第4代社長に就任する吉田秀雄は、上海にて中国進出し、中国市場の媒体の殆どを「電通」扱いとした。 1936年(昭和11)「日本新聞聯合社(聯合)」と「電通」の通信部門合併により、「同盟通信社」を設立。その際、「電通」の広告部門は、「日本新聞聯合社(聯合)」の広告部門を吸収し、広告のみを扱うという現在の姿の原型が完成。同年10月に、岸 信介が、満州国の国務院(満州国における行政機関。満州国は議会を持たなかった為、国政の最高機関であった)の実業部総務司長に就任している。 1945年(昭和20)敗戦に伴い、「同名通信社」は解体され、政治、社会、一般ニュースを扱う「社団法人共同通信社」と、経済報道を扱う「株式会社時事通信社」に分社化。しかし現在では、「共同通信社」、「時事通信社」、「電通」は株式を持ち合い、設立当初の寡占状態を回復している。 1947年(昭和22)吉田秀雄が「電通」第4代社長に就任。この頃から、「日本電報通信社(電通)」は戦前の準特務機関としての性格を生かし、政府・GHQに食い込むことに成功する。吉田秀雄は、戦犯として公職追放された政財界人、満州や上海から引き上げてきた旧軍人、「満鉄(満鉄調査部、満州国通信社)」関係者などを大量採用し、これが、「電通」が“満鉄調査部の後身”と言われる所以である。当時の電通ビルは、“第二満鉄ビル”と呼ばれていた。彼らは、広告のノウハウは無かったものの、実質フィクサーとして活動し、現在の日本支配の礎を築きあげていった。また、吉田秀雄はこの頃から、米国式広告=“プロパガンダ”手法を導入。 ≪終戦直後の「電通」≫http://list.jca.apc.org/public/aml/2005-September/003431.html 1947年(昭和22)5月、前社長の公職追放により、吉田秀雄が社長となった。この経営危機の時期に、吉田秀雄は、何故か旧軍人、軍属、或いは「満州鉄道」関係者をどんどん採用しているのである。 市川 敏(満州国弘報処長)、小沼治夫(陸軍少将)、島崎千里(産業経済新聞)、高橋 渡(満州日報業務局長)、高橋威夫(満鉄文書課長)、塚本 誠(憲兵大佐)、松本豊三(満州日報理事長)、古賀 叶(満鉄錦州鉄道局長)、高田元三郎(毎日新聞社)、森山 喬(大陸新報理事)、森崎 実(満州日報編集局長)、芝田研三(南満州鉄道)、金沢覚太郎(満州電信電話)、古瀬甲子郎(満州日報営業局次長)、峯間信太郎(天津米穀統制会理事長)、白川威海(毎日新聞社)、山名文夫(資生堂意匠部)、蜂谷輝雄(台湾総督府外事部長)、東郷青児(画家)、中西寅雄(東大教授・陸軍嘱託)、宮崎博史(三越宣伝部長)、小滝 彬(外務省情報部長)、新田宇一郎(朝日新聞社取締役)、新保民八(花王石鹸取締役) 広告業界の連中は、誰もが電通ビル(旧電通ビル、中央区銀座七−四)を“第二満鉄ビル”と呼んだ。 あまりに満鉄関係者が多かったからである。吉田秀雄は、経営が危機に瀕していた時期に、何故、広告のことを皆目知らない、言わば使いものにならない連中をこれ程集めたのか、吉田秀雄は、旧軍人、満鉄関係者たちを社員として採用しただけではなく、公職追放となった政治家や財界人、新聞人などの為に、「旧友会」という、言わば“サロン”をつくって、彼らが、月一回集まって食事をしながら、心置きなく談笑出来るように設え、そればかりではなく、彼らの為に「ユニバーサル広告社」という会社までつくっているのである。 戦後、「電通」が大きく躍進出来た原因の一つが民間ラジオ放送で、もう一つが民間テレビ放送だと言われている。テレビに執念を燃やしたのは、吉田秀雄よりも正力松太郎(読売新聞社主)のほうで、ついに「日本テレビ(読売)」開局に漕ぎつける。 NHK編の『放送五十年史』は、正力松太郎のテレビ計画を、「講和、独立を控えた特殊な情勢の下で、米国の極東戦略に深く関連しながら、全国のテレビ網を一挙に手中に収めようとした」と、極めて含みの多い表現で説明している。正力松太郎のテレビ計画の周辺を取材すると、旧軍人たち、それもGHQとの関わりの深い情報プロたちの影が、何人も浮かび上がってくる。 そして、旧情報将校たちが米国に足繁く通う中で、折から、公職追放中だった正力松太郎が、何故か突如追放解除となり、それをきっかけに、テレビ開局計画が急ピッチで具現化するのだが、そのキーマンとして動いたのが、カール・ムントという人物なのである。 カール・ムントは、米上院議員であり、カール・ムントは、1951年4月、米上院で、次のような演説を行っている。「共産主義は、“飢餓”と“恐怖”と“無知”という三大武器を持っている。こうした共産主義に対する闘いにおいて、米国が持っている最大の武器はテレビである。我々は『米国のビジョン』なるテレビ・ネットワークを海外に普及させる必要がある。それを最初に試験的にやるべき地域は、ドイツと日本で、例えば、日本の隅から隅まで行き渡らせる為のテレビ網建設費は460万ドル。これはB29爆撃機を2機つくるのと同じ金額である」 テレビは、共産主義勢力に対する武器としては軍事力などより遥かに強力で、しかも安いというわけだが、このムント構想が打ち出されるや、直ちに正力松太郎の密使が米国に飛び、ムント議員と接触している。その密使が、柴田秀利(後に日本テレビ専務取締役)である。 柴田秀利は、GHQの新聞課長インボデン少佐にも、関係者たちの話では、「かなりどろどろした手段を使って」深く食い込み、正力松太郎を、共産主義殲滅の代理人にさせる、との約束を取りつけたようだ。 「米国が、直接行なうと、情報支配の形があまりに露骨で、日本人の神経を逆なでする。日本人の手でやらせた方が遥かに効果的だ」との柴田秀利の説得が功を奏したものらしい。 「電通」が、戦後、初めて商売として政治と関わりを持ったのは、1952年10月、日本が独立した最初の総選挙の時だった。吉田 茂(麻生太郎の祖父)自由党としては、国民に対して大PR作戦を展開することにし、その大きな柱の一つとして、戦後初めて全国の主要新聞に大々的な広告を打つことになったのだが、そのプロデューサー役を演じたのが「電通」だった。 関わりが深まるにつれて、政治は次第に、吉田秀雄「電通」にとって、商売の対象だけではなくなってきたようだ。それが、一つの頂点に達したのが、1960年の安保騒動だった。革新陣営に「これで新聞は死んだ」と嘆かせた、所謂、「七社共同宣言」のフィクサーも、実は吉田秀雄だったと言われている。 「七社共同宣言」とは、東大生だった樺美智子が殺された直後、1960年6月17日に、全国紙五紙(「朝日」、「毎日」、「読売」、「日経」、「産経」)と「東京新聞」、「東京タイムズ」の七紙が、 「暴力を排し議会主義を守れ」との声明文を掲載したもので、この共同宣言は、反安保の盛り上がりに水を浴びせる役割を果たした。・・・・以下略 |
2020年8月25日記(東京タイムズ元政治部長・政治評論家・日本記者クラブ会員)
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