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歴史を動かしたノモンハン事件 第2次大戦の「起点」に/朝日新聞
編集委員・永井靖二
2020年7月31日 19時00分
https://www.asahi.com/articles/ASN7W3K0HN6RPLZU001.html?iref=comtop_8_08
(一部の段落が、前後している可能性有り)
アジア、モンゴル東部に広がる草原。かつてそこで日本軍が旧ソ連の機械化部隊と衝突し、壊滅的な被害を受けた。その紛争は、日本では地名から“ノモンハン事件”と呼ばれている。
線引きが不明瞭だった国境をめぐるこの戦いが、ユーラシア大陸の東西両端を図らずも連動させ、1939年9月1日の第2次世界大戦の勃発へとつながった――。欧米の歴史家が近年こう評する事件を、いま一度ひもとく。
第1章 隠れた発火点
極東の内陸部で戦われたこの知名度の低い紛争が、アドルフ・ヒトラーによるポーランド侵攻やその後に続いたあらゆる出来事の導火線になりました。
「第2次大戦の起源」という複雑なジグソーパズルで、ノモンハン事件は小さくはあるけれど大切なピースです。そのピースをはめると、全体の図柄が非常にわかりやすく見えてくるという役割を持っています。
スチュアート・ゴールドマン/米歴史研究者
欧州は一触即発の情勢にあった。
ポーランドにダンツィヒ(現グダニスク)の割譲を求めるヒトラーへの対処をめぐり、ファシズム陣営側と、英仏などが対立。ドイツと英仏はともにソ連を味方に付けようと、水面下で外交戦を繰り広げていた。
互いを憎悪していたはずの独ソは、一転して不可侵条約を結ぶ。これにより英仏とソ連からの挟撃、とりわけ当面ソ連に備える必要がなくなったドイツは、条約を結んでから1週間後にポーランドへ侵攻した。
半年前にチェコスロバキアを保護領化した時と同様に、英仏は静観するだろう──。このヒトラーの読みは外れ、両国はドイツに宣戦を布告。欧州は戦火に包まれていく。
独ソが急接近したのはなぜか。背景には、極東で起きた小さな国境紛争があった。
1932年にできた傀儡(かいらい)国家・満州国の軍事を掌握する日本陸軍の関東軍にとって、ソ連は当初から仮想敵国だった。
歴史的経緯もあり、線引き≠ェ不明瞭な部分も多い4800キロもの国境線。これに接したソ連との紛争は、軽微なものから流血が伴うものまで、32〜39年で優に1千件を超す。32年末に第1次5カ年計画を完了して工業力を伸ばしたソ連は、37年末までの5年間で極東の兵力を倍増させていた。
37年6月、北部国境アムール河の中州、乾岔子(カンチャーズ)島をめぐる紛争は外交交渉で終結。だが38年7〜8月にソ連、満州、朝鮮の境界が交わる山、張鼓峰で日ソは砲撃戦に至る。広がりかけた紛争は天皇や陸軍中央の強い意向で停戦に至ったが、関東軍の主戦派には中央への遺恨が残った。
そして翌39年5月11日、導火線≠ノ小さな火花が飛ぶ。
「こんな土地に5ドルだって払うつもりはないね」
日ソ両軍が奪い合った、琵琶湖ほどの広さの荒地が広がるノモンハン一帯。日ソの衝突が拡大するなか、取材のため現地を訪れた外国特派員はそう評したという。発端は満州国軍警備隊とモンゴル騎兵部隊が1939年5月11日に起こした小競り合いだったが、戦闘が激化したのには伏線がある。この前月、国境が侵犯されたと認めた場合、「急襲殲滅(せんめつ)」を指示した「満ソ国境紛争処理要綱」が、満州の各部隊に示されていた。起草者は関東軍作戦参謀の辻政信。
早速、ノモンハン一帯を管轄とする第23師団は装甲車や航空機でモンゴル軍を排除する。これに対しモンゴル駐留ソ連軍は砲兵や装甲車を投入。第23師団の捜索隊と第64連隊が28日、ソ連軍を挟み撃ちにしようとしたが、情報が共有されず、先着した捜索隊は結果的に戦線で孤立。包囲されて29日夕方に壊滅した。
その裏側では、独ソ不可侵条約締結へ向け交渉が進んでいた──。
1939-04-28
ドイツは1934年締結のドイツ・ポーランド不可侵条約を破棄。ポーランド情勢が緊迫
1939-05-22
ヒトラー、ロシアがドイツに対抗する措置をとるなら、(ドイツと)日本との関係がいっそう緊密になる可能性を示唆
その裏側では、独ソ不可侵条約締結へ向け交渉が進んでいた──。
1939-04-28
ドイツは1934年締結のドイツ・ポーランド不可侵条約を破棄。ポーランド情勢が緊迫
1939-05-22
ヒトラー、ロシアがドイツに対抗する措置をとるなら、(ドイツと)日本との関係がいっそう緊密になる可能性を示唆
1939-06-01
ドイツのポーランド侵攻まで92日
スターリン、動く
モンゴル辺境の紛争にソビエト国家の意思が及び始めた。5月下旬、ミンスクの白ロシア軍管区にモスクワから緊急電話が入った。ゲオルギー・ジューコフ将軍が呼び出されたのだ。翌日、急ぎ出頭した彼は、スターリンの意向を受けてノモンハンへ赴くよう、国防相から命じられる。現地司令官に着任したジューコフは、早々に兵力増強を要請。モスクワの首脳はそれを上回る増派を決める。
敵情の精査もなく関東軍は暴走を重ねた。ソ連軍は6月中旬、国境近くの貯蔵庫などを爆撃。報復として辻らは7月初頭の大規模攻勢を立案する。「事態不拡大」を前提の陸軍参謀本部は関東軍が隠していたモンゴル領内の爆撃計画を知って中止を求め、説得のため使者を送り込もうとする。だが、辻らは予定を早め、使者の到着を待たずに6月27日、タムスクとサンベースのモンゴル領内のソ連軍基地を爆撃した。
1939、7.3
ドイツのポーランド侵攻まで60日
補給ないまま攻撃
関東軍は7月3日、1万5千人で攻撃を開始。二手に分かれハルハ河の東岸と西岸を攻略する作戦だったが、西岸へ渡る舟橋は1本のみだった。幅2.5メートル、長さ60メートルの橋を渡った歩兵を中心とした部隊は、ソ連軍の戦車部隊と遭遇。関東軍の兵士は速射砲(対戦車砲)と火炎瓶で立ち向かった。給水や弾薬補給の計画もなく、渡河した部隊は押し戻されて7月5日早朝に撤退。追撃するソ連軍を振り切るため、舟橋は撤退直後に爆破された。
東岸でソ連軍陣地を攻撃した関東軍の戦車部隊は、相手に損害を与えながらも、主力の戦車67台のうち半数を失う。関東軍司令部は残った「虎の子」を温存する方針をとり、戦車部隊は帰還を命じられた。
1939-07-23
ソ連のモロトフ外相、英仏に対独戦争を想定した軍事協定への署名を要求
1939-08-02
独リッベントロップ外相、ソ連在独大使館を通じポーランド分割を極秘提案
物量の劣勢を精神主義で補わせた日本軍。
「必勝の精神」が負のスパイラルを生む
第2章 一兵卒の戦場(近日公開)
1939,8、12 ドイツのポーランド侵攻まで20日
スターリンの決断
次に関東軍は砲撃戦を挑んだ。86門の重砲を集めて7月23日、攻撃を開始。だが、ソ連側は数倍に及ぶ弾薬で応戦。射程もソ連側の方が長く、3日間で砲撃は中止に。長期戦の覚悟を固めた関東軍は、陣地強化と越冬準備を命じた。8月11日、スターリンはドイツとの不可侵条約へとかじを切る。その一方で、同時期に背後≠ノいる関東軍をたたくため、ジューコフに総攻撃の許可を出す。偽電文や様々なカムフラージュの下、物資の集積を進めた。
ノモンハン事件で関東軍に打撃を与えたジューコフは、独ソ戦の分岐点となった攻防戦の指揮官としてその作戦手法を生かし、母国の勝利に貢献した。一方、モンゴル東部では、スターリンの対日進攻に向けた策略が動き始めようとしていた。
第3章 スターリンの策略(近日公開)
8月20日午前5時45分、ソ連軍の総攻撃が始まる。
航空機数百機による爆撃に火砲500門に及ぶ砲撃が続いた。すでにハルハ河周辺の戦車部隊を引き揚げていた日本軍は、包囲を受けながらも頑強に応戦する。スターリンは日本に痛撃を加えつつ、正面の敵<hイツとは当面手を握るべく、独ソ不可侵条約に向けて詰めの交渉を進める。防共協定を結んでいた日独両国を離間させ、挟み撃ちを避ける狙いもあった。
8月23日、独ソはモスクワで不可侵条約に調印。付属する秘密協定は、両国によるポーランド分割を約していた。一方、同じ頃にノモンハンでは関東軍の諸部隊が壊滅の危機にあった。戦域北端のフイ高地と呼ばれた陣地は同日午前4時に無線機も破壊され、周囲は200台に及ぶソ連軍戦車で包囲された。第23師団の捜索隊を率いる井置栄一中佐は、水も食料もない4日間の戦闘を強いられた。自決を図ったが部下に止められ、撤退を試みる。部隊の759人中、269人だけが脱出できた。その後井置は「独断撤退」を責められ、自決を強要された。
そして、9月1日──第2次世界大戦勃発
世界大戦の「スイッチ」
不可侵条約により、当面ソ連と戦う心配がなくなったドイツは9月1日、ポーランドに侵攻した。ヒトラーの予測に反し、英仏はドイツに宣戦布告。この日は「第2次世界大戦」が始まった日となった。
東京に送り込んだスパイ、リヒャルト・ゾルゲの情報で日本がソ連と全面戦争をする意志がないことを承知のスターリンは、9月16日のノモンハン停戦の成立を待って同17日、ドイツとの密約通りポーランドへ兵を進めた。モンゴル東端で暴走の末に戦線を拡大した関東軍は、世界大戦の「スイッチ」を押す役回りを演じたことになる。
日本軍の無責任体質≠ヘ責任を負うべき辻政信らをいったん左遷するも後に軍中央で参謀に昇格させた。そして辻らは太平洋戦争開戦後、ガダルカナルで多数の餓死者を出すことになる──。(編集委員・永井靖二)
***
第2次世界大戦の起点≠ニ評されるノモンハン事件と、終止符≠ニなったソ連の対日侵攻。このシリーズは、くしくも双方の舞台となったモンゴル東部を出発点に、現地調査や最新の知見も交え、当時の日本が直面した戦争の諸相を浮き彫りにします。
幾重にも連なるくぼみが、草原一面に広がる。モンゴルの首都ウランバートルから東へ約1200キロ。悪路の中、車で3日間かけてたどり着いた。「鳥の視点」で見て初めて、くぼみだらけのこの場所が持つ意味が理解できる。
ここで1939年に起きた国境侵犯をめぐる紛争は、日本ではその地名からノモンハン事件と呼ばれる。眼前に広がるのは、その跡だ。日本・旧満州国の連合軍が旧ソ連・モンゴル連合軍と衝突し、日本側が大打撃を受けた。くぼみと思っていたのは、ソ連側が物資の貯蔵に使ったとみられる径約10メートルの円形壕(ごう)だった。碁盤の目状に200基近くが並ぶ。中国との国境に接した一帯は、航空機の接近は今も禁じられている。昨年5月、朝日新聞が同行取材した現地調査団によるドローン撮影で、その異容が明らかになった。
すぐ西を流れるハルハ河沿岸の南北約7キロの区間に、測地衛星の画像では先ほどの200基を含めた約1430基の円形壕が確認できた。多くは段丘の斜面に、日本軍が布陣する東方から見えないように掘られていた。壕の列の南側には、オオカミの足跡のように、一回り大きな4〜5基一組の壕が並んでいた。
「ソ連軍が重砲を据えた跡ではないか」
モンゴル側の関係部局と協力し、2009年から一帯の戦争遺構を調べている現地調査団長の岡崎久弥氏(57)は、こう推測する。岡崎氏らの継続的な調査により、通常は規制される国境付近も、今回は大幅に自由な調査・撮影が認められた。
そこから数十メートル離れた場所に、ソ連軍のM36と呼ばれる鉄かぶとが転がっていた。側面には銃弾によるものか、穴が開いている。80年余りの歳月を物語るかのように、さびて朽ち果てていた。
39年8月、圧倒的な物量を誇るソ連軍の前に、日本軍は壊滅。両軍合わせた戦死者は1万6千人を超えた。この戦いを近年歴史家の一部はこう捉えている。ノモンハン事件こそが、第2次世界大戦の“起点”だったのだと。
いま解き明かす「ノモンハン事件」ノモンハン事件とソ連の対日侵攻。このシリーズは、くしくも双方の舞台となったモンゴル東部を出発点に、現地調査や最新の知見も交え、当時の日本が直面した戦争の諸相を浮き彫りにします。
・ノモンハン 責任なき戦い〜敵を知らず己を知らず先に進んだ/Nスペ
http://www.asyura2.com/13/dispute31/msg/630.html
投稿者 仁王像 日時 2018 年 8 月 17 日 20:10:04: jdZgmZ21Prm8E kG2JpJGc
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