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(回答先: 天皇家は2世紀に伊都国から日向・大和・丹後に天孫降臨した 投稿者 中川隆 日時 2020 年 7 月 24 日 05:14:09)
行事に出ない、職務は放棄…息を吸うようにサボる「天皇に仕えた官僚」の日常
虎尾 達哉
https://bunshun.jp/articles/-/45049
人事院は、2021年度の国家公務員採用総合職試験の申込者数について、2020年度と比べ2420人(14.5%)減となる1万4310人だったと4月16日に発表した。5年連続の減少で、総合職試験を導入した12年度以降で最大の減少幅。背景にはいわゆる “キャリア官僚”たちの長時間労働問題があると指摘されている。
一方で、その昔はどうだったのか。最新の研究によれば、その実態は必ずしも「勤勉」とはいえないものだったという。
『古代日本の官僚――天皇に仕えた怠惰な面々』
https://www.amazon.co.jp/dp/4121026365?tag=bunshun_online-22
から、かつての日本における「官僚」たちの知られざる日常について、一部を抜粋して引用する。
サボる官僚と「ひたすら待つ」政府
古代史研究者はよく、専制君主国家の儀式は「君臣関係を確認する場」などと言う。何を隠そう、筆者もそう書いたことがある。なんとなくわかったような気になるから不思議だ。イメージとしては、専制君主の威容を仰望しながら、その忠良なる臣下たちが自分の立ち位置を確認させられるといったところか。おそらく機能主義的な説明としては間違ってはいない。
しかし、現実には君臣関係を確認するどころではない。当の官人たちが出てこないのだ。出席は臣下としての職務だから、これは立派なサボタージュ(職務放棄)である。ところが、政府の方も、首に縄をつけてでも引っ張ってこようという気はさらさらない。ひたすら待つのみだ。とても君臣関係を確認させようと本気で考えていたとは思えない。
現代に置き換えてみよう。たとえば、正月の一般参賀。多くの人々が日の丸の小旗を手に皇居に参集する。誰に強要されたわけでもない。天皇陛下や皇族がたの姿を一目仰いで晴れがましく新年を祝賀したい。多くはそんな崇敬の念からだ。
一方、元日朝賀儀(天皇への賀正の儀式)をサボタージュした官人たちはどうか。現代日本の多くの人々が抱く素朴な崇敬の念すらない。かといって、サボっても罰せられるわけではないから、天皇への畏怖もない。天皇を崇敬も畏怖もせず、儀式を平然とサボる官人たち。その官人たちを甲斐なくひたすら待ち続けるだけの、まことに寛容な政府。現実の朝賀儀は「君臣関係確認の場」などといえるような代物ではなかったのである。
大量のサボタージュに耐える天皇たち
それにしても、拝礼を受ける側の天皇の気持ちは、いかばかりであったか。早朝より大極殿に出御するも、参集しているのは五位以上の貴族だけだ。六位以下の官人たちは数えるほど。本来は五位以上の何倍もの数で、朝庭後方を埋め尽くすほどいるはずなのに。
大勢の官人たちが堂々とサボタージュ。結果、歴代天皇は「行事でも人がガラガラ」の光景を見慣れていた(画像はイメージ) ©iStock.com
元旦、夜が明けるとともに、いやでも目に飛び込んでくるその白々とした空虚な風景。古代日本の「専制君主」たちは、こんな大量のサボタージュに耐えねばならなかった。そう思うと、私は心底同情する。だが、実は歴代天皇にとって、それは程度の差こそあれ、いつに変わらぬ見慣れた風景だったのではないか。
給与カットでしぶしぶ出席
それはさておき、弘仁7年(816)、政府は重い腰を上げ、六位以下の無断欠席にも制裁を科すことにした。儀式そのものが危ぶまれる深刻な事態に立ち至ったのだろう。さすがに、そのまま放置というわけにはいくまい。無断欠席には季禄(春夏分)の没収で報いる。六位以下官人(長上官)にとって季禄は唯一の給与。だから、半年分とはいえ、没収はたしかに痛い。
これで五位以上は三節の出席禁止(節禄不受給)、六位以下は季禄の没収と無断欠席者には残らず経済的制裁を科すことになった。どうやら、一応の効果もあったようだ。これまで普通にもらえたものがもらえなくなる。背に腹は代えられぬということか。
しかし、今度は別の困った問題が浮上してくるのである。どうも当時の官人たちは、晴れがましくも厳粛な朝賀儀を支え、天皇の忠良なる臣下として粛々と務めを果たそうとなどという殊勝な人々ではなかったようだ。
朝賀儀に出席を求められたのは、中央にいる五位以上官人と同じく六位以下の長上官である。律令官人のまさに中核部分だ。その彼らが堂々と無断欠席し、経済的制裁を科されてしぶしぶ儀式に出るようになる。しかも、出てからも政府を困らせる。にわかに信じられないという読者もいるだろう。だが、これが現実なのだ。
組織の経年劣化? それとも…
しかし、読者の中にはこう考える人もいるだろう。それは平安時代に入り、律令体制が弛緩することによって初めて生じてきた問題だろう。当初はきちんとやっていたのではないか――。何事も経年劣化ということはある。この朝賀儀も無断欠席の状況が年々悪化してきたという面はむろんあるだろう。
だが、それでは、律令国家の草創期には、官人たちがみな一人残らずきちんと出席し、儀式が滞りなく行われていたのだろうか。研究者も含めて、私たちは漠然とそう考えがちだ。しかし、一歩踏み込んで考えてみると、これは根拠に欠けた希望的観測である。最初はうまくいっていたはずだ、という思い込みにすぎない。官人たちがみな怠けることなくこぞって出席し、整然と一糸乱れぬ拝礼と拝舞を行う。そのようにさせる文化や社会規範は、七世紀末から八世紀初めの律令国家草創期にはまだ存在していない。そんな時代に完璧な朝賀儀が行われたと期待する方が無理であろう。
サボタージュは歴代天皇の「見慣れた光景」
朝賀儀は平安時代に入っていきなり官人たちの無断欠席が始まったのではない。鍵を握るのは六位以下官人だ。延暦21年(802)、政府は五位以上の無断欠席だけに制裁を科すことにして、六位以下についてはまったく咎めなかった。不可思議な措置である。しかし、これは六位以下については、すでに無断欠席が常態となっていて、政府もこの儀式への全員出席までは求めていなかった。そう考えれば合点がいく。
朝賀儀が挙行される朝庭は本来、五位以上のための空間だった。だから、朝賀儀は五位以上が全員出席し、六位以下は儀式の威儀が損なわれない程度に出席していればよい。それが慣例ではなかったか。
ところが、六位以下だけではなく、肝心の五位以上の無断欠席も目立つようになった。そこで彼らに制裁を科して出席を強要しはじめる。ただし、六位以下の方はまだ咎めるには及ばなかったので、そのまま放置を続けた。しかし、その後、六位以下の無断欠席が無視できないほどに増加。儀式の威儀を損なうどころか、儀式そのものが危うい状況となった。そこで、ようやく六位以下への制裁に踏み切ったのである。
この間の経緯は以上のように読み解くべきだ。だから、歴代天皇にとって、儀式の場での官人たちのサボタージュは、程度の差こそあれ、実は見慣れた風景だったのではないか。筆者はそう想像するのである。
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