鑑定書を見た検察から「その記述は消すように」との指示が…“解剖医”が証言する旭川地検の恣意的な“死因究明姿勢” 『死体格差―異状死17万人の衝撃―』より #1 山田 敏弘2021/10/18 https://bunshun.jp/articles/-/48676 病院の外で死を迎えた“異状死体”は現場に臨場した警察が扱い、そこで犯罪性が疑われた場合には、死因を突き止めるプロフェッショナルである法医学者が解剖を行う。これは日本における死体の取り扱われ方の基本だ。しかしながら、ときに検察から「法医学者による記述を削除するように」との働きかけが行われることもあるという。
ここでは、国際ジャーナリストとして活躍する山田敏弘氏が、“異状死”として死体を取り扱う現場の実態に迫った著書『死体格差―異状死17万人の衝撃―』(新潮社)の一部を抜粋。旭川医科大学教授で日本法医学会の庶務委員会理事を務める医師、清水恵子氏が経験した“忘れられない事件”を紹介する。(全2回の1回目/後編を読む) ◆◆◆ 忘れられない事件 清水の場合、解剖は前日までに連絡が入り、午前中には執刀、解剖後は鑑定書を作成する。解剖が複数なら、すべての遺体の執刀が終わるまで解剖室で作業し、それから鑑定書を書く。大学に属しているため、それらと並行して教育や研究も行っている。
大学の授業や委員会などがあれば、夜中まで作業が続く。教科書改訂作業、雑誌の執筆作業などもある。 土日や祝日は、北海道で司法解剖ができる3大学(北海道大学、札幌医科大学、旭川医科大学)が、交代で勤務をする。当番制で解剖を担当するのだ。 この制度について話をしている際に、清水は冗談っぽく笑いながらこう漏らした。 「1年の土日祝日の3分の1が待機も含めて当番で拘束されることになります。それが定年まで続きます。定年後は何をしようかな、と今から少し楽しみにしています」 旭川医大の法医学講座は、年間250体ほどの解剖を行う。
北海道では、異状死体(編集部注:病死・自然死以外の死亡死体)に対する解剖率は10.3%で、これは全国平均である11.5%と比べても遜色はない。清水がこれまで執刀した遺体の数は2000体以上、助手として関わった数は1300体程度にもなる。 裁判に出廷する仕事もある。法医解剖を担当している清水の場合、9割ほどは検察側証人となるが、1割くらいは弁護側の鑑定や証人も依頼される。 警察や検察の捜査や裁判などに話が及ぶと、清水はぽろっとこんな本音を吐露した。 「被疑者が女性で、捜査機関や司法、マスコミという公権力から『いじめ』にあっているように思える案件は、何を敵にまわしても、正義を主張したいと思っている」 そう言った清水は、すぐにこう言い添えた。 「まあ、そんな事ができるのも、国立大学の教員だからだと感謝していますよ」 内縁の夫の首を自宅にあった包丁で刺す そんな清水の「人間らしさ」を垣間見ることができるエピソードがある。2009年に起きた事件にまつわるものだ。 同年2月、北海道紋別郡興部町(おこっぺちょう)で、パート店員だった女性(39)が、殺人未遂の疑いで逮捕された。当時の警察の発表によれば、女性は朝の6時ごろ、同居中だった内縁の夫の首を自宅にあった包丁で刺した疑いを持たれた。内縁の夫は、搬送先の病院で死亡した。 事件は、朝の些細な喧嘩から始まった。早朝に、内縁の夫が設定していた携帯電話の目覚まし時計の音をめぐって、両者は口論となった。その音があまりにもうるさかったからだという。 女性は前夫からドメスティック・バイオレンス(家庭内暴力)を受けていた経験があったため、夫婦喧嘩になると刃物を手にとって自己防衛する癖がついていたという。その朝も、興奮して、洗い場にあった前夜に使い始めたばかりの刃渡り12センチの果物ナイフのようなものを掴んで夫を威嚇した。 また妻は、極度の近眼だった。そんなことから、夫が「危ないからやめろ」と近づいてきたことで、「近づかないで」と果物ナイフを持った右手を反射的に真っ直ぐ前に突き出した。するとそのナイフが、夫の左の肩口の鎖骨付近に刺さった。夫は「痛い!」と言い、前につんのめる形となり、その瞬間に刃物が深く入ってしまった。ごくわずかだが左肺にも達した。果物ナイフはすぐに抜き取られたが、血が噴き出すようなことはなかった。 車で30分ほど離れたすこし規模の大きい公立病院に 我に返った妻は痛がる夫を連れて、軽自動車を運転して近所の病院に向かった。この時、傷口は小さく、2人は怪我をしたくらいにしか思っていなかった。事実、町立病院についても駐車場から2人で歩いて診察に向かっている。 診察室で夫は横になり、酸素を吸入した。朝の6時ごろだったこともあり、ちょうど医師が入れ替わるタイミングだった。夫は、その状態のまま2時間ほど診察室で待つことになった。 8時ごろに出勤してきた医師が診察を行ったが、傷が深そうなので、この町立病院では治療できないと判断。病院側は状況を鑑みて、妻の同意を元に警察に通報し、傷などの写真を撮影し、そこから車で30分ほど離れたすこし規模の大きい公立病院に夫婦を送った。
公立病院に着くと、すぐにCTを撮影。すると左胸腔血気胸(左胸腔に血が溜まり、左肺が潰れた状態)が判明した。夫は意識もはっきりとしており、看護師たちの会話に割って入って、「朝食は、まだ食べていない」と話すほどだった。 ©iStock.com ©iStock.com 「その時の夫の状態を見れば、出血元は左の胸腔内であることは明らかだった」と清水は言う。 にもかかわらず、公立病院側は出血源が頸部(首)にあると判断し、緊急手術をする判断をした。夫はその時点でも意識状態は良く元気で、看護師と日常会話をしていた。 致命的だったのは、手術のために行った人工呼吸 担当医師たちは、手術を始めると、鎖骨付近の小さな傷の周辺を何十センチも切り開き、出血している血管を探そうとした。この措置について、事件にかかわった医療関係者は、「もともと頸部周辺に出血の元はないわけだから、無駄なことをしていたのではないかと後に議論になった」と言う。 「解剖学の知識があれば、出血元は胸腔内であることは明らかです。なぜなら、もし首に出血源があるとすれば、それは動脈か静脈のどちらかの血管が原因ということになりますが、もし動脈からの出血なら、勢いよく血液が噴き出すので、最初の町立病院に行く前に死亡している。静脈の損傷が原因なら、最初の病院で待たされていた2時間ほどの間に、皮下出血で首や左の鎖骨周辺が盛り上がって腫れて、皮膚は紫色になって膨らんでくる。ところがそれはなかった。しかも、この時点で胸腔内から胸腔ドレナージによって血液を抜けば、死ぬようなこともなく、数日の治療で歩いて退院した可能性が極めて高かったと考えられます」 その判断ミス以上に致命的だったのは、手術のために行った人工呼吸だった。 夫は全身麻酔を行うため、人工呼吸管理で気管支にチューブを入れられ、酸素と麻酔薬のガスが強制的に肺に送り込まれた。だが肺の表面に傷のある状態で肺の中に空気やガスを注入したことで、空気もガスもすべて、血が溜まっている胸腔内に漏れ、胸腔内をどんどん圧迫していくことになった。そして心臓や静脈も圧迫されて動きが阻害された。その状態を医療用語では「緊張性気胸」と言うが、それが手術中に起きた可能性があり、脈拍や心拍数が見る見る落ちていった。
その様子を見た病院側は自分たちでは手に負えないと結論付け、胸部外科がある別の市立病院に搬送する手続きをとった。搬送先の病院は90kmほど離れており、搬送途中に夫の心臓は停止した。 捜査資料によれば、夫は、市立病院に到着時には心臓が停止してから30分以上経過して死亡していたが、病院で傷口のガーゼを外すと、心臓が動いていないにもかかわらず、300mlほどの血液が噴き出したという。左の胸腔内の圧力がいかに上昇していたのかがわかる。 作られた「殺人罪」 こうした経緯があったために、遺体は司法解剖に付されることになった。そして、旭川医大の清水が執刀した。
清水は解剖を始めると、遺体に残された異常に気がついた。治療が不適切だった可能性が清水の目には明らかだった。 例えば、遺体の左胸壁に胸腔ドレナージを挿入した痕跡は見当たらなかった。つまり、胸腔内から血液を抜く措置をした形跡が遺体にはなかった。 清水は医学部大学院在学中に学位論文の作成と並行して麻酔科研修を行っていたこともあって、麻酔科標榜医の資格を取得していた。麻酔科でも修練や経験を積んできたため、不適切な措置にすぐさま気がついた。 そして最初に搬送された町立病院の医師が撮影した受傷間もない小さな傷の写真から、遺体の手術痕など死亡するまでの経緯などを踏まえ、遺体が最後に残した死の真相を示す客観的事実を丁寧に拾いながら司法解剖を行った。 検察からの記述削除の要請を断固として拒否 鑑定書に、夫には受けた傷に対して標準的治療を受けた痕跡が見あたらなかったこと、標準的医療がなされていれば死ななくて済んだ可能性があることを明記した。 だが、清水は鑑定書を見た検察側から「その記述は消すように」との指示を受ける。 検察の見立てでは、妻は口論になって刃物を持ち出し、上から刃物を振り下ろして首に刺したとなっていたからだ。首に向けて振り下ろしたために、そこには妻の殺意があったというロジックである。 だが司法解剖の所見では、傷は果物ナイフを上から振り下ろして首を刺してできたものではなかった。実際の傷ともマッチしないのである。創角(傷口)を見ると、刃物は体に向かって下から外側方向に刺さったことを物語っていた。 清水は、検察からの記述削除の要請を断固として拒否した。 一審で検察側は、病院側の主張する「出血性ショック」と「左肺血気胸」が死因だったと主張し、清水の法医解剖の鑑定を証拠として採用しなかった。司法解剖による医学的.専門的な死因調査を無視するという暴挙に出たのである。 検察側から、鑑定書の「不都合な部分」の記述を消すように言われた経緯からも、検察側がこの妻を殺人罪で有罪にしたかった意図が見え隠れする。
結局一審では、検察の主張通り、刃物を「上から振り下ろした」と旭川地裁が殺意を認定し、妻に殺人罪が適用された。検察は懲役13年を求刑したが、地裁は懲役9年を言い渡している。 公権力からの『いじめ』に近いもの この判決を受け、被疑者側は控訴。控訴審では弁護士も代わり、たまりかねた清水も法廷で証言することになった。当時の北海道新聞では、こう報じられている。 「男性の司法解剖を担当した旭川医大の清水恵子教授の証人尋問が行われ、清水教授は鑑定書に記載した死因について、一審旭川地裁の初公判前に旭川地検から削除を求められたことを明らかにした。
清水教授は22日の公判で、男性の死因は一審判決が認定した出血性ショックなどでなく、『搬送先の病院が適切な処置をしなかったことによる緊張性血気胸だった』と述べた。弁護側はこの証言を基に、男性にけがをさせたことと死亡の因果関係は証明されていないとし、殺人罪でなく傷害罪に止まり、執行猶予が相当と主張した」 記事は続く。 「証人尋問で弁護側証人として出廷した清水教授は、『男性は(病院で)輸血を受けており、(その後)出血性ショックになるはずがなかった』と指摘した。(中略)清水教授は、搬送先の病院で適切な処置が行われなかったことが直接の死因とする司法解剖の鑑定書を旭川地検に提出したが、地検は死因について記載の一部削除を求め、拒否したと述べた」 ここまで清水が強く自らの主張を貫いた背景には、彼女の人生観があったと考えていい。検察による恣意的な見立てを前に、被告となっていた妻に対する「捜査機関や司法、マスコミという公権力から『いじめ』」に近いものを感じていたのだろう。 司法解剖の鑑定は一審でも証拠として調べられるべきだったが、それが行われなかった。遺体から得られる事件の重要な手掛かりが聞き入れられず、遺体の「尊厳」が踏みにじられた格好になった。清水は、黙っているわけにいかなかった。 ネット上で巻き起こる批判 清水が「搬送先の病院が適切な治療をしていれば、助かった可能性があった」と証言した二審では、札幌高裁が、懲役9年とした一審・旭川地裁の判決を棄却。妻の殺意を認めずに、傷害致死罪を適応して2011年に懲役4年6カ月を言い渡した。ただ高裁は、治療にあたった「医師らの判断、措置が根本的に誤っているとは言えない」との発言も残している。 公判での清水の証言が報じられると、ネット上で批判が巻き起こった。 清水の裁判での言動について、「自分の専門の範囲を超えた無責任な発言であることは自明」といった意見が今もネット上に残されている。 清水に水を向けると、断言した。 「まったく気にしていません。私はインターネット世代ではないので、ネットは自分が見なければ、無いのと同じという感覚です。法医学は、とにかく、公平公正であるように努めなければいけません。被疑者でも被害者でも、それは関係ありません」 自分の証言が、死者の尊厳を守るのであればいい、と。そして笑いながらこう続けた。 「私が死んだ時に、これまで司法解剖してきた人たちから『お前、周りの意見聞いて、忖度して、死因変えたべ!』って怒られないようにしないと」 誤解ないように言うが、清水は、このケースのようにいつも警察や検察といがみ合っているわけではない。むしろ、日本の他の地域と比べると、北海道は死因究明で頑張っているほうだと、北海道警を評価している。 死者の尊厳を真摯に守ろうとする法医学者 言うまでもなく、北海道は面積が広い。九州と四国を足したより広く、東北6県より広い。そのためにどうしても死体の搬送時間がかかるという問題がある。移動だけで200qを超えてしまうこともあるという。また冬は雪深いため、遺体を搬送する際に、車が動けなくなったりすることもある。警察官は、命がけで死因究明をしている。そんな苦労もよくわかっている。
「他のいろんな県警の様子を聞くと、北海道警察は非常に真面目に取り組んでいると思う。人口の割に犯罪数は多くないですし、警察網もきちんと張り巡らされているので、一つ一つのケースに、誠実に取り組んでいると思います」 少なくとも、死者の尊厳を真摯に守ろうとする法医学者がいるという点で、道民は恵まれているのかも知れない。 清水に聞いてみた。 「これまで心を揺さぶられた解剖はありましたか?」 「いえ、解剖の時は仕事モードなので、感情が動く余裕はありません。学生時代は、まだ素人だったし、自分に解剖の責任が無かったので、児童虐待死の解剖に感情を揺さぶられたこともあった。でも今は、どの案件も『ご遺体』です。ご冥福をお祈りするばかりです。人はいつか必ず死ぬので」 よく聞かれる質問なのか、予想通りの法医学者らしい答えだと感じたが、実は、先に触れた北海道紋別郡興部町で内縁の夫を刺してしまった女性の事件には、続きがある。 事件に翻弄され、混乱する被害者の子供 亡くなった内縁の夫には、女子高校生の連れ子がいた。裁判が終わったあと、清水は弁護士からの要請で、彼女の“両親”にいったい何が起きたのかを事件を担当した法医学者として彼女に説明することになった。家庭内で起きた、非常に複雑な事件だったことから、心のケアのつもりでもあった。 「この女子高校生から見れば、実の父親が被害者で、内縁ではあっても母親が加害者ということになった。そして私は、法医学に基づいて、二審で母親のほうを助けたことになったわけです。子どもの立場としては複雑な状況だったために、事件について説明するために、娘さんに会いに行ったのです」 その際、事件によって家庭が崩壊状態になってしまったことで、専門学校を目指していたこの女子高生は、勉強どころではなくなってしまったことがわかった。 「これまでも親に満足に育ててもらえなかったから、保育士になりたいんです」と、娘は言った。 事件に翻弄され、混乱している様子を目の当たりにした清水は、「それならば私が家庭教師をしますよ」と申し出て、「もう大丈夫です」と言うまで、勉強を見続けたという。
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