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ギリシャ・イタリアの歴史と現代史
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/469.html
投稿者 中川隆 日時 2020 年 12 月 28 日 17:40:20: 3bF/xW6Ehzs4I koaQ7Jey
 

(回答先: 中近東の歴史と現代史 投稿者 中川隆 日時 2020 年 12 月 28 日 13:10:05)

ギリシャ・イタリアの歴史と現代史


ギリシア人の起源
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/275.html

アナトリア半島人の起源
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/294.html

古代遺跡ロマン トロイ・伝説の戦い
http://www.asyura2.com/17/ban7/msg/287.html

ミノア文明はヨーロッパ起源だった
http://www.asyura2.com/13/ban6/msg/626.html

1-14. ギリシャはヨーロッパなのか?? 地中海とバルカン半島の遺伝子は?
http://garapagos.hotcom-cafe.com/1-14.htm

ギリシャはヨーロッパなのか?? 地中海とバルカン半島の遺伝子は?
http://www.asyura2.com/13/ban6/msg/623.html

トルコ人とギリシャ人、ブルガリア人は医学的にほとんど同一人種
http://www.asyura2.com/13/ban6/msg/622.html

アーリア人の起源
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/306.html

山賊・海賊によってつくられたギリシャ・ローマ
http://www.asyura2.com/13/ban6/msg/619.html

ローマ人の起源
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/277.html

ローマ帝国はこうして滅びた
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/1017.html

イタリア半島の人口史
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/624.html

▲△▽▼

レオナルド・ダ・ヴィンチの世界
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/355.html

幽玄の世界 _ モナリザは何故書き換えられたのか?
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/199.html

ミケランジェロの世界
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/364.html

ベネツィアの黒い貴族
http://www.asyura2.com/13/ban6/msg/677.html

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独裁者列伝 _ ベニート・ムッソリーニ
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/808.html

イタリア人が「世界で最も健康な国ランキング」1位!! その理由はオリーブ油?
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/972.html

イタリア・ファッションを作っているのは中国人移民
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/599.html

国家破綻の現実: 飢餓で苦しむギリシャの子供たち
http://www.asyura2.com/12/lunchbreak52/msg/791.html
 

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コメント
1. 中川隆[-8863] koaQ7Jey 2020年12月28日 17:42:57 : FfxVCL44z5 : MFdUYzd3bmx1cS4=[23] 報告
ギリシャの音楽

エレニ・カラインドルー _ ギリシャの音楽は哀しい
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/718.html

エレニ・カラインドルー
http://www.asyura2.com/17/ban7/msg/121.html


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イタリアの音楽


音楽史上最高の名作 モンテヴェルディ 歌劇「ポッペアの戴冠」
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/814.html

タルティーニ 『悪魔のトリル』
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/921.html

レモ・ジャゾット 『アルビノーニのアダージョ』
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/919.html

ヴィヴァルディ:ヴァイオリン協奏曲 イ短調 Op. 3, No. 6, RV 356
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/918.html

ヴィオッティ ヴァイオリン協奏曲 第22番 イ短調
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/922.html

パガニーニ 24のカプリース 作品1より 「第24番」
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/940.html

ヴェルディ オペラ 『椿姫』
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/835.html

プッチーニ オペラ 『ラ・ボエーム』
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/907.html

プッチーニ オペラ 『蝶々夫人』
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/908.html

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イタリアのオーディオ


ソナス・ファベール ストラディヴァリ・オマージュ
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/1111.html

伝説の ソナス ファベール ガルネリ・オマージュ
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/684.html

ソナス・ファベール ガルネリ・メメント(2005)
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/1114.html

ソナスファベール 初代エレクタ・アマトール(1988)
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/1112.html

ソナスファベール オリジナル ミニマ(1990)・MINIMA Vintage(2008)
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/1113.html

2. 中川隆[-8862] koaQ7Jey 2020年12月28日 17:43:59 : FfxVCL44z5 : MFdUYzd3bmx1cS4=[24] 報告
ギリシャの映画


ジーン・ネグレスコ 島の女 Boy on a Dolphin (1957年)
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/263.html

テオ・アンゲロプロス (Theo Angelopoulos、1935年4月27日 - 2012年1月24日)
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/216.html

天上の歌声 _ メリー・ホプキン
8. Theo Angelopoulos 1) Ο Θίασος(旅芸人の記録) : 1975
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/488.html
 
テオ・アンゲロプロス 『蜂の旅人』
http://www.asyura2.com/17/ban7/msg/127.html

テオ・アンゲロプロス 『シテール島への船出』
http://www.asyura2.com/17/ban7/msg/128.html

テオ・アンゲロプロス 『こうのとり、たちずさんで』
http://www.asyura2.com/17/ban7/msg/126.html

テオ・アンゲロプロス 『ユリシーズの瞳』
http://www.asyura2.com/17/ban7/msg/145.html

テオ・アンゲロプロス 『永遠と一日』
http://www.asyura2.com/17/ban7/msg/124.html

テオ・アンゲロプロス 『エレニの旅』
http://www.asyura2.com/17/ban7/msg/125.html

3. 中川隆[-8861] koaQ7Jey 2020年12月28日 17:45:49 : FfxVCL44z5 : MFdUYzd3bmx1cS4=[25] 報告
イタリアの映画


ルキノ・ヴィスコンティ (Luchino Visconti, 1906年11月2日 - 1976年3月17日)
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/206.html

ルキノ・ヴィスコンティ『郵便配達は二度ベルを鳴らす』 1943年
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/645.html

ルキノ・ヴィスコンティ『ベリッシマ Bellissima 』 1951年
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/649.html

ルキノ・ヴィスコンティ『異邦人 Lo Straniero 』 1967年
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/646.html

ルキノ・ヴィスコンティ 異邦人 (1967年)
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/259.html

グスタフ・マーラー 『アダージェット』 _ ヴィスコンティ「ヴェニスに死す」 
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/882.html#c1

セザール・フランク 『前奏曲・コラールとフーガ 』 _ ヴィスコンティ 熊座の淡き星影
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/915.html#c1

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フェデリコ・フェリーニ (Federico Fellini, 1920年1月20日 - 1993年10月31日)
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/207.html

フェデリコ・フェリーニ 道 La Strada (1954年)
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/255.html

天上の歌声 _ メリー・ホプキン
6. Federico Fellini La Strada (1954)
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/488.html

フェデリコ・フェリーニ 世にも怪奇な物語 第3話「悪魔の首飾り」 (1968年)
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/256.html


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パオロ・パゾリーニ (Pier Paolo Pasolini, 1922年3月5日 - 1975年11月2日)
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/214.html

パゾリーニ 王女メディア (1969年)
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/257.html

イエスが殺された本当の理由
2. 奇跡の丘 原案・脚本・監督:ピエル・パオロ・パゾリーニ(「マタイの福音書」に基づく)
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/371.html


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ヴィットリオ・デ・シーカ ひまわり I Girasoli (1970年)
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/260.html

4. 中川隆[-8792] koaQ7Jey 2020年12月30日 09:27:35 : wwip1cR3BF : OGYwQ28xSnhaUVk=[1] 報告
イタリアの画家


レオナルド・ダ・ヴィンチの世界
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/355.html

幽玄の世界 _ モナリザは何故書き換えられたのか?
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/199.html

ミケランジェロの世界
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/364.html

モディリアーニの世界
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/359.html

ジョルジョ・デ・キリコの世界
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/358.html

5. 中川隆[-8685] koaQ7Jey 2021年1月02日 19:21:48 : WlRsmkTSXA : dXRtcGJHMUpmMVk=[38] 報告
ギリシャ・イタリアの演奏家


イタリアの指揮者
アルトゥーロ・トスカニーニ(1867年3月25日 - 1957年1月16日)
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/686.html


イタリアのヴァイオリニスト
ジョコンダ・デ・ヴィート (1907年7月26日 - 1994年10月14日)名演集
http://www.asyura2.com/17/ban7/msg/205.html


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イタリアのピアニスト

フェルッチョ・ブゾーニ (1866年4月1日 - 1924年7月27日) 名演集
http://www.asyura2.com/17/ban7/msg/333.html

アルトゥーロ・ベネデッティ・ミケランジェリ (1920年1月5日 – 1995年6月12日 名演集
http://www.asyura2.com/17/ban7/msg/244.html


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イタリアの歌手

エンリコ・カルーソー (1873年2月25日 - 1921年8月2日)名唱集
http://www.asyura2.com/17/ban7/msg/916.html

レナータ・テバルディ (1922年2月1日 - 2004年12月19日)名唱集
http://www.asyura2.com/17/ban7/msg/925.html

チェーザレ・シエピ (1923年2月10日-2010年7月5日)名唱集
http://www.asyura2.com/17/ban7/msg/915.html

ミレッラ・フレーニ (1935年2月27日 - 2020年2月9日)名唱集
http://www.asyura2.com/17/ban7/msg/922.html

ルチアーノ・パヴァロッティ (1935年10月12日 - 2007年9月6日)名唱集
http://www.asyura2.com/17/ban7/msg/943.html


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ギリシャの歌手

マリア・カラス (1923年12月2日 - 1977年9月16日)名唱集
http://www.asyura2.com/17/ban7/msg/924.html

アグネス・バルツァ (1944年11月19日 - )名唱集
http://www.asyura2.com/17/ban7/msg/921.html

6. 中川隆[-8664] koaQ7Jey 2021年1月03日 13:11:27 : FN5ePxnIHg : QTVvd0FDb0FsLms=[16] 報告

イタリアの思想家


独裁者列伝 _ ベニート・ムッソリーニ
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/808.html

グラムシの思想
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/1215.html

7. 中川隆[-8210] koaQ7Jey 2021年1月16日 17:51:01 : rerJEANHFY : aXNjZy9RLkFCLk0=[22] 報告
ポピュラー音楽

ギリシャの歌手


ヴイッキー・レアンドロス 『L’amour est bleu 恋はみずいろ』
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/550.html

8. 中川隆[-7816] koaQ7Jey 2021年1月24日 19:47:46 : kqBY7beTjw : V3J5dllMME5LdEk=[46] 報告
2021年01月23日
本村凌二『独裁の世界史』
https://www.amazon.co.jp/%E7%8B%AC%E8%A3%81%E3%81%AE%E4%B8%96%E7%95%8C%E5%8F%B2-NHK%E5%87%BA%E7%89%88%E6%96%B0%E6%9B%B8-%E6%9C%AC%E6%9D%91-%E5%87%8C%E4%BA%8C/dp/4140886382

 NHK出版新書の一冊として、NHK出版から2020年11月に刊行されました。電子書籍での購入です。本書は、独裁政と共和政と民主政という政治形態に着目し、「政治の失敗」をいかに克服すべきか、歴史的観点から見ていきます。本書が取り上げるのは、古代ギリシア、共和政ローマ、絶対王政からの脱却を図った18世紀以降のヨーロッパで出現した独裁者たち、共和政が千年続いた中世ヴェネツィアです。政治形態の分類はもっと複雑ではないか、ヨーロッパに偏っているのではないか、というような批判もあるでしょうが、現代の政治状況の解明・改善の手がかりを歴史から学ぶという趣旨の一般向け書籍として、興味深く読み進められました。

 まず本書は、古代民主政の本場とされるアテネは、多数のポリスの一つにすぎず、民主政が続いたのは長く見ても百年程度だった、と指摘します。貴族政だったアテネは、平民の台頭もあり、財産に基づく政治参加の道が開かれます。財産は、ポリスのためにどれだけ貢献できるのか、ということを反映していました。しかし、それから民主政へと直結したのではなく、アテネに限らずギリシアでは広く僭主(テュラノス)の出現が見られました。アテネでは僭主ペイシストラトスの時代に国力が拡大しており、経済が堅調で右肩上がりの時代には、現代中国のように、貧富の差など国内の不満は政権を揺るがすような大問題にはなりにくい、と本書は指摘します。

 僭主政は僭主個人の政治的力量に依存するので、不安定です。アテネでも、ペイシストラトスの息子の代に僭主政は終焉します。行政区の再編や陶片追放の導入などクレイステネスの改革により、僭主の出現阻止が図られましたが、陶片追放は政敵の追い落としに利用されるなど、本来の目的で機能したのか、否定的な見解も提示されています。この制度改革を前提として、ペルシア戦争で貧しい民衆が海戦で活躍したことにより、アテネ市民の政治意識は向上し、民主政が開花します。しかし、ペリクレスの時代を挟んで前後50年ほどがアテネの民主政の盛期で、短かった、と本書は指摘します。民主政が不安定だったのは、僭主政・独裁政と同じく、けっきょくは政治指導者の資質次第のところが多分にあったからだ、と本書は指摘します。本書は、民主主義を「ましなポピュリズム」と定義します。民主政はポピュリズムにすぎない、というわけです。また本書は、民主主義におけるエリート教育の重要性を指摘します。

 ローマの政体は、王政終了した後500年間ほど、独裁政と貴族政と民主政が混合したような共和政でした。ローマでは、独裁政による決断の速さという利点も取り入れつつ、独裁の暴走を阻止する仕組みが備わっており、これがギリシア世界とは異なり、ローマが世界帝国に拡大した一因だったようです。また本書は、「個」を重視したギリシア世界と、「公」を重視したローマとの違いも指摘します。ローマの共和政において重要な役割を担ったのが元老院で、独裁だけではなく、ポピュリズムと衆愚政治に陥る危険性の抑止勢力となりました。元老院と平民(民衆)の間には確たる身分差がありましたが、ともに自由人との強い意識を有していました。

 このように独裁を警戒していたローマが帝政へと移行した理由としては、そもそもローマは軍国主義的で、それ故に帝国を築いたことと、拡大の過程で市民たる農民が没落し、無産市民になり、貧富の差が拡大したことにありました。また、拡大したローマの運営で共和政が上手く機能しなかったこともあります。こうした変化の中で、ローマにおいて「公」への意識が低下していきます。こうした流れの中でカエサルが登場します。カエサルは武功により絶大な権威を確立しますが、建前としては共和政を維持しました。しかし、共和政の絶妙な力の均衡は完全に崩壊していました。カエサルは元老院勢力に殺されますが、後継者に指名されたオクタウィアヌスは、事実上の皇帝に就任し、帝政が始まります。しかし、オクタウィアヌスも慎重で、共和政を建前として掲げました。

 五賢帝の時代を経てセウェルス朝になると、軍人に依存して政権を獲得・維持する傾向が強くなり、やがて軍人皇帝の時代に入ります。この頃には、かつて独裁への歯止めだった元老院の権威はすっかり低下していました。混乱の軍人皇帝時代は、ローマの分割統治が始まり、皇帝権が強化され、ようやく収まります。帝政は、これ以前が元首政、これ以降が専制君主政と呼ばれます。ローマは4世紀末に分裂した後、統一されることはなく、西ローマはそれから100年経たずに滅亡します。本書では、東ローマはローマ人の帝国ではなく、西ローマの滅亡がローマの滅亡とされています。

 近代ヨーロッパでは、フランス革命、スターリン、ムッソリーニ、ヒトラーが取り上げられています。フランス革命の独裁としてロベスピエールが挙げられており、カエサル時代のローマをモデルにしていたらしいジャコバン派のロベスピエールに欠けていたのは、カエサルにあった寛容さだった、と本書は指摘します。フランス革命の結果生まれた独裁者がナポレオンで、後世に残した大きな影響は「国民国家」意識でした。その影響を受けてヨーロッパで国民国家の形成が進んでいき、ドイツもそうですが、本書はドイツ統一に大きく貢献したビスマルクを「良識のある独裁者」と評価しています。

 ロシアでは16世紀以降独裁政的傾向が続き、その中でもスターリンは大規模な粛清を行ないました。他に、中華人民共和国の毛沢東政権やカンボジアのポル・ポト政権の事例から、大虐殺は社会主義の産物もしくは共産主義の宿命のように見えるものの、地域的特性も大きく関わっているのではないか、と本書は推測します。古来、ユーラシア東方の国々の方が西方の国々よりも王権は強い傾向にあり、東方の国々の君主は西方と比較して一般大衆の目に触れる機会がずっと少ない、と本書は指摘します。本書は、民主政や共和政の伝統のないロシア革命で共和政的な政体が生まれる可能性は、民衆の教育水準の低さからも、ほとんどなかっただろう、と推測します。

 一方、民主政や共和政の伝統のあるイタリアでも独裁的なムッソリーニ政権が成立します。本書はこれに関して、ムッソリーニが巧みに古代ローマの印象を想起させたことが大きかったのではないか、と推測します。上述のように、ローマ共和政には軍国主義的性格が強く、本書はその本質を「共和政ファシズム」と把握しています。民衆はムッソリーニにローマ帝国の栄光の再現と強力な指導者を夢見た、と本書は指摘します。また本書は、ムッソリーニの独裁をもたらした理由として、イタリアが遅れてきた国民国家で、郷土愛が強く地域間の違いが大きいことも挙げています。一方、ヒトラーに関しては、ムッソリーニには見られない強い残虐性が、ヒトラー個人の劣等感に起因している可能性を、本書は指摘します。

 本書は、古代ギリシアとローマ、近代ヨーロッパの事例から、国家・社会には時として果断な決断を必要とする時があり、独裁者的な指導者が望ましい場合もあることを認めつつ、それを制約する必要性も指摘します。共和政ローマでは、独裁官(ディクタトル)の任期は半年に限定されていましたし、護民官など独裁者の暴走を防ぐシステムが内包されていました。ウイルス禍など疫病は自由主義的・民主主義的な手続きでは制御しづらいものの、古代ローマ史に学べば、非常事態故に半年間指導者に一任すべきといった考えも可能になるかもしれない、と本書は提言します。

 ローマより長く共和政が続いたのはヴェネツィアで、697年に最初のドージェ(執政官)が選出されてヴェネツィア共和国が成立し、1797年にナポレオンに征服されるまで、変容しつつも1000年以上、独自の共和政を維持しました。ヴェネツィアは領土拡大を志向しない通商交易国家で、ビザンツ帝国(東ローマ帝国)など近隣の大国が商業交易活動にさほど熱心ではない中、アジアとヨーロッパをつなぐ交易で富を蓄積しました。ヴェネツィアの人々は、共和政も民主政も一定以上の規模になると破綻すると認識していたのではないか、と本書は推測します。ヴェネツィアを支えたのが、造船技術と外交力でした。ヴェネツィアでは、独裁者の出現を防ぐために、限られた統治階級の人々の共同責任による共和政が導入されていきます。また、ドージェを選出するさいに、抽選と選挙を何度も繰り返す手法が導入されました。またヴェネツィアでは、指導者が世襲されることを警戒する気風もありました。しかし、議員の世襲制度は認められており、貴族の存在を前提と下共和政は、国家運営の「安定装置」として機能した側面もあることを、本書は指摘します。本書は、現代日本がヴェネツィアの共和政に学ぶべきことは多い、と提言します。

 本書は最後に、近い将来訪れるかもしれない「デジタル独裁」の可能性を取り上げています。人類は、AIという新たな神々の声を聴く時代へと突入しつつあるかもしれない、というわけです。本書は、AIによる「デジタル独裁」は、その判断の正しさから、プラトンが哲人皇帝を肯定したように、人々に受け入れられる可能性を指摘します。本書はこの「デジタル独裁」に関して、肯定的な側面がある可能性にも言及します。デジタル化やAI化の進展で人間に充分な時間ができ、新たな共同体が形成される可能性があり、共産主義が理想として語る、生産力の向上による人間の自由が実現されるかもしれない、というわけです。本書はこれと、古代ギリシアやローマの「市民社会」が奴隷を前提として成立していたこととの類似性を指摘します。

https://sicambre.at.webry.info/202101/article_29.html

9. 2021年1月30日 09:36:53 : WsTabVtPIQ : ZW1xLlovZzh6WWM=[19] 報告
2021年01月30日
澤田典子『よみがえる天才4 アレクサンドロス大王 』
https://sicambre.at.webry.info/202101/article_38.html


https://www.amazon.co.jp/%E3%82%88%E3%81%BF%E3%81%8C%E3%81%88%E3%82%8B%E5%A4%A9%E6%89%8D%EF%BC%94-%E3%82%A2%E3%83%AC%E3%82%AF%E3%82%B5%E3%83%B3%E3%83%89%E3%83%AD%E3%82%B9%E5%A4%A7%E7%8E%8B-%E3%81%A1%E3%81%8F%E3%81%BE%E3%83%97%E3%83%AA%E3%83%9E%E3%83%BC%E6%96%B0%E6%9B%B8-%E6%BE%A4%E7%94%B0%E5%85%B8%E5%AD%90-ebook/dp/B08N722ZY4


 ちくまプリマー新書の一冊として、筑摩書房より2020年11月に刊行されました。電子書籍での購入です。本書はアレクサンドロス大王(アレクサンドロス3世)の評伝ですが、アレクサンドロス個人の事績だけではなく、アレクサンドロスの征服活動の基盤となったマケドニア史、さらにはアレクサンドロスが後世どのように語られたのか、ということまで、アレクサンドロスの基本史料の性格を解説しつつ、叙述していきます。本書は日本語で読めるアレクサンドロスの伝記・アレクサンドロス論として、長く読まれていくことになりそうです。

 アレクサンドロスに関する基本史料はほとんどがローマ期のもので、それらには、現代ではほぼ散逸した、アレクサンドロスと同時代の人々が残した文献が引用されています。アレクサンドロスの歴史的評価は英雄から暴君まで振幅が大きく、それはすでに現存するローマ期の史料にも表れています。ポンペイウスやアウグストゥスやトラヤヌスなどローマ期の権力者は、アレクサンドロスを崇拝していました。一方知識層では、アレクサンドロス像は大きく分裂しています。共和政期にはアレクサンドロスを英雄として称賛する傾向にありましたが、共和政末期以降、独裁的性格を強める権力者への警戒もあり、現実の権力者をアレクサンドロスに投影するようになります。帝政初期のカリグラやネロといった暴君が熱狂的にアレクサンドロスを模倣したため、野蛮で残忍な専制君主というアレクサンドロス像が定着していきます。しかし、五賢帝期には、アレクサンドロス賛美の傾向が復活します。つまり、現存するローマ期の史料に見えるアレクサンドロス像は、原典の人物像というよりは、ローマ期の時代風潮を多分に反映していた、というわけです。

 アレクサンドロスの征服活動の基盤となったのは、父親のフィリッポス2世までに築かれたマケドニアの国力でした。本書は、マケドニアがフィリポス2世の代までにいかに台頭してきたのか、という点も取り上げます。紀元前4世紀前半のギリシア世界では、スパルタやテーベやアテネがペルシア(ハカーマニシュ王朝)からの資金提供を背景に勢力争いを展開し、浮沈が繰り返され、紀元前4世紀半ばには、ギリシアは「勢力の真空状態」とも言うべき状況にありました。紀元前7世紀の建国と伝わるマケドニアは、かつてはペルシアに、その後は内乱や外敵の侵入による停滞もあって台頭してきたテーベなどに従属したこともありましたが、こうした混迷したギリシア世界において、フィリポス2世の代に急速に台頭します。マケドニアは紀元前紀338年のカイロネイアの戦いに勝ち、ギリシア世界の覇者となります。

 マケドニアでは、大土地所有者である「ヘタイロイ(朋友)」と呼ばれる貴族が王とともに卓越した地位にあり、強い相互依存関係にある王を補佐しました。マケドニアの王権は、制度が整備されていたというよりも、王個人の資質や力量に全面的に依存するものだったようです。マケドニアには木材などの豊かな天然資源があり、これも台頭の一因となりました。マケドニアがギリシアの史料に見えるのは紀元前6世紀末以降で、紀元前5世紀前半にはオリュンピア祭にも出場し、ギリシア世界へと参入していきます。この過程でマケドニアではギリシア神話も受容され、マケドニア王家はヘラクレスの子孫と自称しました。一方で、マケドニアはペルシアの社会や国制にも大きな影響を受けました。

 兄の戦死後、内憂外患の中で即位したフィリポス2世は、財政基盤の整備や軍事改革を進めて国力を充実させ、領地を拡大していきますが、紀元前336年に暗殺されます。その後継者となった息子のアレクサンドロスは、父の遺産を活用して、ペルシア征服のため軍を率いて東方へと向かいます。アレクサンドロスの母であるオリュンピアスはモロッソイ王家の出身で、トロイ戦争の勇将アキレウスの末裔と自称していました。アレクサンドロスは父方ではヘラクレス、母方ではアキレウスという、ギリシア神話の二大英雄の子孫となります。

 アレクサンドロスが少年時代にアリストテレスの教えを受けたことは有名ですが、アレクサンドロスの政策や思想にアリストテレスの影響は大きくない、との見解が有力なようです。ただ、アレクサンドロスの学問と文化への愛好、とくに自然科学への強い関心は、アリストテレスの感化によるものだったようです。紀元前327年にアリストテレスの親戚となる歴史家のカリステネスがアレクサンドロスに処刑されたことで、アレクサンドロスとアリストテレスとの間には深い溝ができたようです。しかし、後世、とくにイスラム教世界において、両者は賢王と賢者として理想の子弟関係にあった、と語られるようになりました。

 マケドニアでは正妻と側室の区別はなく、長子相続制が確立されていなかったため、王位継承はきわめて流動的でした。アレクサンドロスも少年時代には、「皇太子」のような明確な地位にあったわけではないものの、フィリポス2世の息子は2人だけで、もう1人は知的障害者と伝えられているので、アレクサンドロスは唯一の王位継承者とみられていたようです。しかし、フィリポス2世が晩年にマケドニア貴族の娘クレオパトラと結婚したことで、アレクサンドロスの後継者としての地位が潜在的に脅かされたかどうかはともかく、アレクサンドロスと父との関係は悪化します。その後、フィリポス2世は息子と和解しますが、紀元前336年に暗殺されます。この暗殺事件をめぐっては現在も議論が続いていますが、アレクサンドロスとオリュンピアの親子が黒幕との噂は暗殺事件当時からあったようです。

 フィリポス2世の死後、アレクサンドロスはアンティパトロスとパルメニオンという重臣2人の支持を得て即位します。フィリポス2世の死後、ギリシア各地でマケドニアから離反する動きが起きますが、アレクサンドロスは精鋭部隊を率いて直ちに南下し、平定していきます。アレクサンドロスはコリントス同盟会議を招集し、ペルシアへの遠征を決議させます。即位の翌年(紀元前335年)春、アレクサンドロスはトラキア地方へと進軍し、父のフィリポス2世が達成できなかったドナウ渡河に成功します。その後、背いたテーベに過酷な処分を下したことで、ギリシア世界における盟主としての地位を確立します。

 ギリシア世界を制圧したアレクサンドロスは、紀元前334年春、東方遠征に向かいます。ただ、この東方遠征構想は紀元前4世紀初頭から、ギリシア世界ではよく知られており、アレクサンドロスの独創ではなく、フィリポス2世にも東方遠征構想がありました。ただ、フィリポス2世の東方遠征構想は息子の実際の事績よりもずっと控えめだったのではないか、との見解が有力なようです。アレクサンドロスの東方遠征構想は、まずは既定路線に沿って始まりました。遠征出発時のアレクサンドロス軍の兵力は、先発部隊1万人と合わせて47000人ほどだった、と推測されています。当時のマケドニアは、フィリポス2世時代の戦費や対外工作費のため、国家財政の状態はかなり悪かったようで、財政難の克服は、ペルシアとのイッソスの戦いに勝ち、戦利品を獲得した後からでした。

 東方遠征はペルシアに対する報復戦争だと主張したアレクサンドロスは、ペルシア側のギリシア人傭兵には、裏切り者として過酷な処分を下しますが、それがペルシア側のギリシア人傭兵の抵抗姿勢を加速させることになりました。アレクサンドロスが東方遠征を開始してから短期間で、大帝国のペルシアというかハカーマニシュ王朝は滅亡してしまいましたが、この間アレクサンドロスの征服活動がずっと順調だったわけではなく、海軍では劣勢なため、ペルシアに都市を奪還されることもありました。しかし、陸での勝利によりペルシア海軍に打撃を与えるというアレクサンドロスの戦略が奏功し、アレクサンドロスはエジプトなどペルシアの要地を占領していき、ついには紀元前330年にハカーマニシュ王朝を滅亡に追い込みます。この過程でアレクサンドロスは東方協調路線を強めていきますが、それはマケドニア人が不満を高める要因にもなります。

 ハカーマニシュ王朝の滅亡後、アレクサンドロスはペルシア帝国旧領の東部に軍を勧めますが、険峻な山脈や砂漠地帯に苦戦を強いられ、マケドニア人将兵のアレクサンドロスに対する不満も高まります。この頃から、アレクサンドロスはペルシアの装束や儀礼を積極的に導入し始め、ペルシア人貴族を高官や側近に次々と取り立てていき、これもマケドニア人将兵のアレクサンドロスへの不満を高めました。その後、アレクサンドロスはソグディアナへと進軍しますが、苦戦し、その過程でアレクサンドロス暗殺の陰謀事件が頻発し、側近や重臣がアレクサンドロスに粛清されます。この背景として、上述のように、王権が整備されておらず、王個人の力量に依存する政治体制下で王と貴族が相互依存関係にあり、王の寵を貴族の側近たちが競う構造もあった、と本書は指摘します。本書は、アレクサンドロスは東方協調路線を進める中で暴君化していったのではなく、当初からその行動パターンは変わらなかった、と指摘します。

 バクトリアとソグディアナを苦戦しつつも征服したアレクサンドロスは、インドへと向かいます。ローマ時代の史料によると、肥沃なインドを前に、アレクサンドロスはさらに進軍する意欲を見せますが、長期遠征に疲弊した将兵はさらなる東進を拒絶し、アレクサンドロスも帰還を決意します。しかし本書は、アレクサンドロスがその前に艦隊の建造を命じていたことから、アレクサンドロスは当初からヒュファシス川(現在のベアス川)まで進んで退却するつもりだった、と推測します。アレクサンドロスは、ハカーマニシュ王朝の旧領全てを掌握することで征服を完結させようとしたのではないか、というわけです。また本書は、そもそも将兵による「騒擾」がローマ時代の創作だった可能性も指摘します。

 紀元前324年2月、アレクサンドロスはペルシア帝国の旧都スーサに帰還します。この後もマケドニア人の将兵や重臣とアレクサンドロスとの確執は絶えず、緊迫した情勢の中、アレクサンドロスはバビロンを帝国の首都に定め、アラビア半島への遠征を計画しますが、東方遠征から帰還して1年半も経たない紀元前323年6月10日、アレクサンドロスは発病から10日で死亡します。当時から毒殺の噂が流れており、アリストテレスの名前も挙げられていました。本書はアレクサンドロスの軍事的手腕を評価しつつ、ハカーマニシュ王朝を滅亡に追い込んだ要因として、東方遠征の当初からペルシア貴族を重用するなど、東方協調路線の採用を指摘します。本書はアレクサンドロスの功績を、直接的には武力征服の連続にすぎなかったものの、後にギリシア文化が東方に拡大する契機を作った、と評価します。また本書は、アレクサンドロスの残虐行為を認めつつ、それが当時は傑出したものではなかったことも指摘します。

 アレクサンドロスは死後、神話化・伝説化していきます。そもそもアレクサンドロス自身が、自分をどのように見せるのか、常に意識していたこともあります。アレクサンドロスにまつわる神話・伝説は、その後継者(ディアドコイ)戦争期に加速します。激しい後継者戦争の中で、当事者たちはアレクサンドロスの名声と威信に他より、権力の正統性を主張しました。本書は、後継者戦争の主役はアレクサンドロスだった、と指摘します。ヘーゲルは、「アレクサンドロスはちょうどいいときに死ぬという幸運に恵まれた」と述べ、死後の名声を得るという意味では、それは的確な指摘でした。上述のように、ローマの権力者はアレクサンドロスを崇拝し、それもアレクサンドロスの神話化・伝説化を促進しました。アレクサンドロス伝説はユーラシア西部において広く浸透し、近現代にも影響を及ぼしています。マケドニア(北マケドニア)共和国とギリシャ共和国との間では、マケドニア共和国が1991年に独立して以降、民族の象徴としてのアレクサンドロスの奪い合いが続いています。歴史学のアレクサンドロス評価も、研究者の置かれた立場や時代思潮を反映している、と本書は指摘します。

https://sicambre.at.webry.info/202101/article_38.html

10. 2021年3月20日 10:16:44 : LRGR9xOt0w : SElKY3RQejZJUFE=[17] 報告
雑記帳 2021年03月20日
長谷川岳男『背景からスッキリわかる ローマ史集中講義』
https://sicambre.at.webry.info/202103/article_21.html

 パンダ・パブリッシングより2016年12月に刊行されました。電子書籍での購入です。本書は、おもにローマの始まりから拡大期を経て安定期までを扱い、紀元後3世紀以降は簡略な解説となっています。ローマ史の復習になると思い、読みました。これまで考えてこなかったというか、意識してこなかった本書の指摘は、近代日本において、当初はローマよりもギリシアへの関心の方が高く、それは第二次世界大戦後も変わらなかった、というものです。

 1980年代になると、ローマをアメリカ合衆国、カルタゴを日本になぞらえる風潮が現れ、日本社会においてローマへの関心が高まります。なお第二次世界大戦前には、裕福で物資文化重視のアメリカ合衆国を第二次ポエニ戦争時のカルタゴ、貧しくとも質実剛健な気風の日本をローマになぞらえる見解もあったそうです。1980年代後半のバブル期には、漠然とした先行きへの不安からか、日本社会ではローマ帝国の滅亡への関心が高まりました。日本をカルタゴになぞらえたり、ローマ帝国の滅亡への関心が高まったりした現象は、同時代を過ごした私も印象に残っています。ただ本書は、表面的な事柄だけで日本とローマの共通性を感じたり、ローマから教訓を得たりするのは危険だ、と指摘します。ローマは現代日本とは明らかに異質だ、というわけです。

 本書のローマ史概説は、堅実で分かりやすいものになっており、世界史の授業でローマ史に関心を抱いた高校生はもちろん、中学生でもある程度以上の割合が読み進められるのではないか、と思います。もちろん本書は、平易だからといって内容が薄いわけではなく、時に日本史を比較対象とするなど、あくまでも一般向けであることを意識して分かりやすく解説しよう、という意図が伝わってきます。これまでローマ史関連の本をそれなりに読んできましたが、著者の本は今回が初めてだったので、新鮮に読み進められました。

 初期ローマは一時エトルリアに支配されたと考えられてきましたが、決定的な証拠はなく、考古学ではこの時期におけるギリシアの影響が指摘されているそうです。なお、中石器時代から現代と長期にわたるローマ住民の遺伝的構成の変化に関する研究も公表されており(関連記事)、エトルリア人とラテン人との間にかなりの遺伝的異質性が存在した可能性も示唆されています。今後は歴史学においても古代DNA研究が積極的に取り入れられていくのではないか、と予想されます。

 ローマが拡大を続けた理由に関しては、ローマが高度に軍事的な共同体で、軍事に関することがきわめて高く評価されていたからだ、と指摘されています。指導者として優れた人物として認められるには軍事的資質が要求された、というわけです。ローマ社会では出世に軍功が必要で、それが拡大をもたらしました。本書は、開放性が高く、人口移動が激しいイタリア半島中部では、軍事を重視する社会が成立しやすかったのではないか、と指摘します。また本書は、対外戦争による(勝利の結果としての)経済的利益も、ローマが対外戦争を続けた理由として挙げます。対外戦争は、経済的利益でもとくに 奴隷供給源として重要になり、基本的に奴隷は家庭を持てないため、多数の奴隷が必要な社会経済構造が一旦確立すると、奴隷を獲得し続けるためにも対外戦争が必要になった、と本書は指摘します。

 ローマは拡大に伴い、軍事的負担の増加から中小農民が没落していき、元老院議員のような上層の大土地所有が進展したため、紀元前2世紀半ばには格差が拡大し、自営農民である市民に依拠していたローマの軍事力は低下します。そこで、大土地所有の制限などの改革が試みられましたが、社会的対立が激化し、ローマは内乱の時代に突入します。この間、軍事面では市民の徴兵だけではなく募兵制が次第に採用されるようになり、司令官と兵士との結びつきが強くなります。これも、内乱を激化させた側面がありました。

 この内乱を終息させようとする動向の中からカエサルが登場し、オクタウィアヌスの元首政へとつながっていきますが、平和をもたらしたと言われるオクタウィアヌスも、領土拡大のための軍事行動を続けた、と本書は指摘します。ローマが内乱の世紀を経て帝政前期に安定した理由としては、その開放性が挙げられています。それが、新たな支配地の有力者をローマに協力的にさせた、というわけです。ローマの衰退については、都市の衰退と連動していた、と本書は指摘します。都市の役割が大きかったローマにおいて、軍事費や公共施設建造・維持の負担から、都市が疲弊していき、富裕層は没落したり郊外に拠点を移したりします。また本書は、ローマ帝国西方が崩壊・滅亡しても、ローマ帝国の理念がヨーロッパで長く生き続けたことを指摘します。
https://sicambre.at.webry.info/202103/article_21.html

11. 2021年5月15日 07:16:49 : aAI8B5VOhA : aVNDSnNoSWkydVE=[8] 報告
05‐15 思ったよりも事態は深刻でした
2021/05/15




12. 中川隆[-4755] koaQ7Jey 2021年5月16日 09:23:49 : tW8VAAkK0o : WlZtN0R3YUloTFE=[3] 報告
雑記帳 2021年05月16日
イタリア半島における銅器時代〜青銅器時代の人類集団の遺伝的構造の変化
https://sicambre.at.webry.info/202105/article_17.html


 イタリア半島における銅器時代〜青銅器時代の人類集団の遺伝的構造の変化に関する研究(Saupe et al., 2021)が公表されました。この研究はオンライン版での先行公開となります。イタリアの銅器時代(紀元前3600〜紀元前2200年頃)は新石器時代(紀元前7000〜紀元前3600年頃)と青銅器時代(紀元前2200〜紀元前900年頃)の間となり、さまざまな金属資源の新たな道具の開発により特徴づけられ、集団的から個人的なものへの移行、個人的な威信を示す副葬品といった埋葬慣行など、大きな文化的変化に続きました。

 古代DNA研究は、狩猟採集から農耕など、物質文化の変化と一致する人口集団の遺伝的特性における大きな変化の発生を浮き彫りにしてきました(関連記事1および関連記事2)。銅器時代(CA)から青銅器時代(BA)の移行期の初めとなる5000年前頃、ユーラシア草原地帯の人々がヨーロッパに到来し、在来人口集団とさらに混合しました(関連記事1および関連記事2および関連記事3)。これらの事象はヨーロッパのほとんどで広く研究されてきており(関連記事1および関連記事2)、イタリア半島(関連記事)やサルデーニャ島(関連記事)やシチリア島(関連記事)の古代ゲノムに関しては多くの研究がありますが、イタリア半島における銅器時代と前期青銅器時代の人口動態はまだよく特徴づけられていません。

 以前の研究では、紀元前2300年頃以後にイタリア北部とシチリア島に草原地帯関連祖先系統構成要素が到来した、と示されていますが、紀元前1900〜紀元前900年頃の年代的間隙が存在し、イタリア中央部における草原地帯関連祖先系統の到来についてはほとんど知られていません。さらに、利用可能なデータは、紀元前900年以後のサルデーニャ島で検出されたイラン新石器時代関連構成要素を示しますが(関連記事1および関連記事2)、コーカサス狩猟採集民(CHG)およびイラン新石器時代農耕民との類似性が、イタリア中央部新石器時代個体群(関連記事)と中期青銅器時代シチリア島個体群(関連記事)に存在し、その割合は現代イタリア人より低くいと示されています(関連記事)。

 しかし、シチリア島における青銅器時代個体群のCHGとの類似性はf4統計により裏づけられるものの、新石器時代個体群のCHG流入の証拠はさほど堅牢ではありません。さらに、いくつかの例外を除いて(関連記事1および関連記事2)、以前の調査は、これらの事象と関連する社会動態(たとえば、先史時代社会における親族関係構造の評価)に焦点を当てる問題を犠牲にして、おもに祖先的関係の説明もしくは人口集団の移動と混合の推測に焦点を当ててきました。

 古代DNAは、過去の社会的構造と繁殖行動の推測に役立ちます。ヨーロッパの新石器時代(N)では、いくつかの研究で父系社会組織の広範な文化的つながり(関連記事)が、また青銅器時代への移行期には、大規模で性的に偏った移住(関連記事)や、父方居住と女性族外婚(関連記事1および関連記事2)や、文化拡散と移住の影響が検出されています(関連記事)。これらの変化の社会的影響はまだ議論されていますが、文化的変化は適応に影響を及ぼす可能性があり、たとえば、技術の変化は食性の変化につながり、代謝遺伝子への選択圧につながります。

 これまで、銅器時代から青銅器時代の移行期におけるイタリア中央部の社会的構造や、文化的慣行の変化(親族関係や父方居住や族外婚)の変化が草原地帯関連祖先系統到来と相関しているのかどうか、まだ調べられていません。これは、イタリア銅器時代には多種多様な埋葬慣行が存在するものの、それらが多くの場合、混合された遺骸の集団埋葬により特徴づけられる、という事実に部分的に起因するかもしれません。これにより、埋葬集団の人類学的分析および親族関係と社会的構造に関する解釈が困難になりました。しかし、高処理能力古代DNA配列により、多数の骨格遺骸の遺伝的検査と、関節離断した遺骸からの個体の復元が可能になりました。

 ヨーロッパ大陸部の人口史理解の再形成に加えて、ヨーロッパの古代ゲノムの分析は、ヨーロッパにける表現型形質の選択の時間的深さに関する仮説に疑問を呈しています。たとえば、古代DNA研究では、ヨーロッパの中石器時代狩猟採集民は濃い肌の色と青い目の色を有していた(現在では稀な組み合わせです)可能性があり(関連記事1および関連記事2および関連記事3)、肌の色素沈着の選択が過去5000年に起きた、と明らかにしてきました。他の最近の研究では、脂肪酸代謝およびデンプン消化と関連する遺伝子内の選択は、農耕移行期に起きたのではなく、ヨーロッパへの草原地帯関連祖先系統の到来に続く紀元前2000年頃に始まり、草原地帯関連祖先系統構成要素自体が動因だったかもしれない、と示唆されています。

 もう一つの未解決の問題は、ヒトゲノムの形成における病原体の役割で、古代DNAを用いて調査が始まりつつあります。一つの特定の病原体であるハンセン病は、青銅器時代の地中海で古病理学的証拠が最初に見られ、紀元前300年頃までにイタリア中央部および北東部での症例が指摘されています。ハンセン病は後にローマの軍事行動により拡大し、ヨーロッパでは中世前期に増加した可能性がありますが、紀元後15世紀までには減少し、この減少におけるヒトの遺伝的適応の役割は不明です。最近古代DNA研究で発見されたものも含めて(関連記事)、感染の発現と進行に関連する遺伝子座は多く存在します。本論文は古代DNAを用いて、イタリア北東部および中央部の銅器時代と青銅器時代の移行以前およびその期間を通じての祖先系統構成要素の多様性と、草原地帯関連祖先系統の変化が推定される社会的構造および/もしくは表現型特性の変化と相関しているのかどうか、調査します。


●資料

 新たに得られたイタリアの古代DNAデータは、ネクロポリス(巨大墓地)のガットリーノ(Necropoli di Gattolino)と、3ヶ所の洞窟から得られました。3ヶ所の洞窟とは、北東部のブロイオン洞窟(Grottina dei Covoloni del Broion)、中央部のラサッサ洞窟(Grotta La Sassa)とマルゲリータ洞窟(Grotta Regina Margherita)です(図1A)。合計で22個体の古代DNAデータが得られました。内訳は、ブロイオン洞窟が銅器時代(CA)4個体と前期青銅器時代(EBA)2個体と青銅器時代(BA)5個体の計11個体、ガットリーノ洞窟が銅器時代4個体、マルゲリータ洞窟が青銅器時代3個体、ラサッサ洞窟が銅器時代4個体です。これらの平均網羅率は0.0016〜1.24倍です。

 これら22個体の年代は、ヒト遺骸と共伴した土器破片や金属器などの考古学的証拠と、22個体のうち12個体の直接的な放射性炭素年代に基づいています(図1B)。直接的な放射性炭素年代のない10個体のうち、個体BRC013の年代は、1親等(おそらくは兄弟)の直接的に放射性炭素年代測定された個体(BRC022)に、女性の平均的な繁殖期間(30年)を組み合わせて推測できます。しかし、他の9個体に関しては、考古学的情報と遺伝学的情報の両方を考慮して、最も節約的な区分に割り当てられました。以下は本論文の図1です。
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●新石器時代から鉄器時代のイタリアの遺伝的構造

 イタリアの銅器時代と青銅器時代の個体群を他の古代および現代のヨーロッパ人口集団と比較するため、主成分分析が実行され、古代の標本群がユーラシア現代人1471個体の遺伝的多様性に投影されました(図2A)。新たに生成された標本は、2つの主要なクラスタに分散しています。それは、青い円のヨーロッパ新石器時代(EN)と、赤い円の新石器時代後(PN)です、前者は、ラサッサCA(銅器時代)とガットリーノCAとブロイオンCAを含み、後者はマルゲリータとブロイオンの前期青銅器時代(EBA)および青銅器時代(BA)標本を含みます。

 興味深いことに、文献から利用可能な新石器時代と銅器時代と青銅器時代のイタリアの標本のほとんどはENクラスタ内に収まりますが、PNクラスタはほぼ鉄器時代(IA)標本群が中心で、既知の何点かのBA個体を含みます。これは、現時点で利用可能なイタリアBA標本群のほとんどがサルデーニャ島とシチリア島に由来し、この2島では草原地帯関連祖先系統構成要素の減少が報告されてきた、という事実と一致します(関連記事1および関連記事2)。これはDyStruct分析により確認され(図2B)、銅器時代から青銅器時代のサルデーニャ島とシチリア島の個体群における高いアナトリア半島新石器時代(N)構成要素も示します。

 ENクラスタ内の分離(図2A)は明確に、アナトリア半島およびヨーロッパ東部新石器時代個体群(右側)をヨーロッパ西部新石器時代個体群と区別し、それはドイツ西部の標本群(左側に位置し、ヨーロッパ西部狩猟採集民により近く位置します)として定義されます。類似の分離はすでにこれの標本群におけるヨーロッパ西部狩猟採集民(WHG)の割合の違いとして報告されてきました(関連記事1および関連記事2および関連記事3)。ただ、本論文で新たに提示される銅器時代個体群のほとんどは、両クラスタの右側(アナトリア半島およびヨーロッパ東部)に位置することに注意が必要です。

 f4統計(ムブティ人、イタリア中石器時代、サルデーニャ島新石器時代、X)により、イタリアの銅器時代標本群とWHGとの間の類似性がさらに調べられました。XはイタリアN(新石器時代)、ラサッサCA、がCA、ブロイオンCAのいずれかです。負のZ得点は、イタリア中央部中石器時代標本が、イタリア半島銅器時代標本よりもサルデーニャ島Nとより多く共有することを示唆します。同時に、f4統計(ムブティ人、アナトリアN、サルデーニャ島N、X)では、ガットリーノCAとの比較のみで有意な負の値が得られ、ENクラスタの両方の間もしくはEN構成要素内の構造間のWHGとアナトリアNの構成要素における不均衡が、本論文の結果を説明できるかもしれない、と示唆されます。

 しかし、f3(ムブティ人、イタリアCA、Y)では、イタリアCAは全てイタリア半島の銅器時代標本で、YはENクラスタとなりますが、主成分分析の観察を識別する能力がないかもしれないことに、注意が必要です。いくつかの研究では、新石器時代に始まるジョージア(グルジア)およびイランの狩猟採集民と関連する集団からの影響が検出されてきましたが(関連記事)、f4(ムブティ人、ジョージアKotias、サルデーニャ島N、X)は、青銅器時代前のイタリア集団のどれとも有意ではありません。

 qpWaveとqpAdmの枠組みを用いて、新石器時代・銅器時代と青銅器時代との間の境界における連続性の可能性が評価されました。2つの推定起源集団を用いると、本論文におけるイタリア北部および中央部の全ての対象とされた青銅器時代集団は、銅器時代的個体群が草原地帯関連祖先系統からの遺伝的寄与を受け、それはおそらく、ドイツの鐘状ビーカー(Bell Beaker)文化集団、フランスの中期新石器時代集団、イタリアの銅器時代集団など、北方の後期新石器時代・銅器時代集団を通じてだった、というシナリオが支持されます。選択されたユーラシアの中石器時代から鉄器時代にいたる古代人と現代人のモデルベースクラスタ化分析(DyStruct、図2B)とADMIXTURE分析は、サルデーニャ島およびシチリア島個体群との主要な違いとして、イタリア半島の青銅器時代個体群における草原地帯関連祖先系統構成要素の存在を示し、主成分分析におけるPNとEN間の個体群の分布を説明します(図2A)。以下は本論文の図2です。
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 これがf4(ムブティ人、ヤムナヤKalmykia、X、アナトリアN)で検証されました(図2C)。Xはイタリアの中石器時代後の標本(少なくとも5000ヶ所の一塩基多型が利用可能な標本のみ)で、検証の結果、草原地帯関連祖先系統構成要素の有意な濃縮のある個体群のみが、本論文で新たに生成されたEBAおよびBA個体群内と、既知の鐘状ビーカーもしくはイタリア鉄器時代個体群に含まれます。ヨーロッパにおける他の銅器時代から青銅器時代への移行について以前に報告された研究とは対照的に、外群f3検定(イタリアCA・EBA・BA、古代人、ムブティ人)では、草原地帯関連祖先系統を有する人口集団はイタリアでは男性に偏った兆候を残さず、仮にその偏りがあったとしても、代わりに在来の新石器時代集団の寄与を通じて見られます。

 コピー類似性に基づく2つの直行性手法であるChromopainter/NNLSとSOURCEFINDを使用し、複数のf4の組み合わせの比較に基づいて、新たな状況が要約されました(図3)。新規標本に関しては、両方の手法はDyStruct(図2B)との全体的な一貫性を示し、ヨーロッパ狩猟採集民関連構成要素の新石器時代後の増加と、草原地帯関連祖先系統の到来を浮き彫りにし、例外は前期青銅器時代のサルデーニャ島です。さらに、イタリアN・CAについて報告されたアナトリアNとWHGの割合は、主成分分析で識別されたENクラスタ内の位置に関係なく類似しています。以下は本論文の図3です。
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 新たに生成された全標本でミトコンドリアDNA(mtDNA)ハプログループ(mtHg)が決定され、Y染色体ハプログループ(YHg)は、Y染色体の網羅率が0.01倍以上の男性10個体で決定されました。以前に報告された草原地帯関連祖先系統とYHg-Rの同時拡大と一致して、イタリアBA男性4個体のうち3個体がYHg-R1で、そのうち2個体はYHg-R1bに分類できました。YHg-R1bは銅器時代の標本では見られません。イタリアのYHg-R1bの2個体はヨーロッパ西部現代人と、鐘状ビーカー文化の被葬者で一般的なYHg-R1b1a1b1a1a(L11)で、ロシアの草原地帯の古代人のゲノムで見られるYHg-R1b1a1b1b(Z2105)ではありませんでした。


●銅器時代と青銅器時代における構造と移動性

 本論文で新たに生成された標本が出土した遺跡は、単一埋葬のネクロポリスがガットリーノ洞窟(紀元前2874〜紀元前2704年頃)のみの1ヶ所で、残りのブロイオンとラサッサとマルゲリータは混合埋葬洞窟です。本論文におけるラサッサ洞窟の標本は銅器時代(紀元前2850〜紀元前2499年頃)のみで、マルゲリータ洞窟の標本は青銅器時代(紀元前1609〜紀元前1515年頃)のみです。ブロイオン洞窟は、銅器時代(紀元前3335〜紀元前2936年頃)と青銅器時代(紀元前1609〜紀元前1515年頃)の両方の時代にまたがる唯一の遺跡です。

 遺跡の利用と違いが洞窟と墓地の埋葬の間にあるのかどうか、埋葬行動の変化は遺伝的祖先系統の変化と同時に起きたのかどうか、よりよく理解するために、片親性遺伝標識(母系のミトコンドリアDNAと父系のY染色体で、母系と父系の系統多様性と移動性の情報が得られます)と遺伝的親族関係(家族構造の移動性の情報が得られます)とROH(runs of homozygosity)が分析されました。ROHとは、両親からそれぞれ受け継いだと考えられる同じアレル(対立遺伝子)のそろった状態が連続するゲノム領域(ホモ接合連続領域)で、長いROHを有する個体の両親は近縁関係にある、と推測されます。ROHは人口集団の規模と均一性を示せます。

 合計で銅器時代(12標本)と青銅器時代(10標本)の標本規模はほぼ等しく、男性と女性の総数は予測と異なりません。しかし、銅器時代の洞窟内における男女比は7:1で予測とは異なるものの、ブロイオン遺跡とマルゲリータ遺跡の青銅器時代層もしくはガットリーノ遺跡の銅器時代ネクロポリスにおける男女比は異なりません。これらの結果は、銅器時代の洞窟埋葬における男性へのわずかな偏りを示唆します。

 1親等および/もしくは2親等の遺伝的親族関係がこれら4遺跡内もしくは4遺跡間の個体群、あるいは新たに生成されたゲノムと既知の古代ゲノムデータセットとの間に存在するのかどうか識別するため、2つの手法が用いられました。まず、親族関係度の最初の決定のため、擬似半数体データのペアワイズミスマッチ推定が用いられました(READ)。新たに報告された古代ゲノムの全てを1集団として、遺跡および/もしくは年代(新石器時代および銅器時代と、青銅器時代)ごとに分けて解析すると、まとめ方に関わらず一貫した結果が得られました。

 親族の程度(たとえば1親等では、両親が同じキョウダイと親子関係)の関係タイプを区別するため、遺伝子型についてのPlink-1.959に実装されているIBD解析が用いられました。IBDとは同祖対立遺伝子(identity-by-descent)で、かつて共通祖先を有していた2個体のDNAの一部が同一であることを示し、IBD領域の長さは2個体が共通祖先を有していた期間に依存しており、たとえばキョウダイよりもハトコの方が短くなります。遺伝子型はパイプラインを用いて決定され、親族関係が近い場合(1親等から2親等)には、両方の手法が一貫した結果を提供しました。なお英語圏では、キョウダイが1親等(日本語では2親等)、イトコが3親等(日本語では4親等)となります。

 検証された青銅器時代の7個体では、新たにゲノムが生成された遺跡間、もしくは既知のデータとも、親族関係が見つかりませんでした。しかし、標本規模が小さいので、これらの個体から一般的確実性のパターンを推測するさいには注意が喚起されます。銅器時代の12個体については、密接な親族関係がラサッサとブロイオンの両洞窟遺跡で検出され、全ての親族関係は男性間でした。ラサッサ遺跡では、男性2個体(LSC002/004とLSC011)が同じY染色体ハプロタイプを有しており、LSC011はYHg-J2a(M410)、LSC002/004はJ2a1a1b1(Z2397)に分類されます。一方、mtHgは異なっており、LSC002/004がH1bv1、LSC011がJ1c1です。両者は1親等の関係と推定され、IBD値の割合は親子関係と一致し、父子関係と示唆されます。放射性炭素年代測定の較正曲線の性質により、どちらが父親なのか、正確に推定することはできません。しかし、放射性炭素年代測定は、古代DNAから推測される両者の関連性を却下しません。ひじょうに低い網羅率のLSC007はLSC002/004と1親等の関係にあるようで、両者は同じmtHg-H1bv1を有しています。LSC007は、YHgの分類には網羅率が低すぎました。

 これらの個体と同年代の女性LSC005/013(mtHg-H1e5a)は、検出可能な密接な遺伝的親族関係を有さず、主成分分析では男性と離れてクラスタ化し、ラサッサ遺跡の標本抽出された歯では、他の歯の範囲外に位置するストロンチウム同位体値を示します。LSC005/013が遺伝的に他のラサッサ遺跡個体群よりも別の人口集団の方と類似しているのかどうか検証するため、f4(ムブティ人、LSC005/013、ラサッサCA、他の標本・人口集団)が実行されました。いくつかの同時代人口集団では0ではない正のZ得点がありますが、有意な閾値を超えるものはありません。証拠の要約から、LSC005/013は他のラサッサ遺跡個体群と同じ地域で育ったわけではないかもしれないものの、その遺伝的類似性の確定にはより高い網羅率のゲノムデータとより多くの包括的な標本が必要になる、と示唆されます。

 ブロイオン遺跡では、銅器時代と直接的に年代測定された全個体(BRC001とBRC013とBRC022)および/もしくはヨーロッパ新石器時代(EN)クラスタに分類される(図2A)個体(BRC011)は男性で、直接的に年代測定された3個体は全て1親等および2親等の関係を示します。直接的に年代測定された3個体はYHg-G2a(P15)を共有しており、下位区分もYHg-G2a2b2b1a1(F2291)で同じです。しかし、網羅率の違いのため、末端の分枝の遺伝子標識は3個体全てで得られませんでした。BRC013とBRC022はmtHg-H5a1を共有しており、1親等の関係ですが、mtHg-J2a1a1のBRC001/023はBRC013と2親等の関係にあるものの、BRC022との親族関係はありません。PI_HAT値はBRC013とBRC022の間の全兄弟(両親が同じ兄弟)としての1親等の関係と、BRC013とBRC022とBRC001/023の間の異なる2親等の関係を裏づけます。これらの値を考えると、最も節約的な想定は、BRC013とBRC022が兄弟で、BRC013はBRC001/023の祖父である、というもので、放射性炭素年代はこの想定を却下しません。

 新たにゲノムデータが得られた22個体のうち、N・N1・H・J・Kと多様なmtHgのうち、一致するのは2例のみでした。これは、ミトコンドリア水準での検出可能な構造の欠如を示唆しており、銅器時代と青銅器時代における、より大きな母系人口規模・族外婚および/もしくは父方居住親族構造と一致する可能性があります。この想定をさらに調べるため、古代および現代の人口集団におけるROHが分析されました(図4A〜C)。これは、ハプロタイプ参照パネルを用いて、低網羅率ゲノムでROH断片を検出する方法です。網羅率の違いが統計的に偏らせてないことと(図4D)、帰属や配列のエラーがないことを確認しました。ゲノム断片の数と長さが、1.6 cM(センチモルガン)未満、1.6〜4 cM 、4〜8 cM 、8 cM 超の4区分で計算されました。本論文は1.6 cM以上の区分(4 cMや8 cMの区分も含まれます)に焦点を当てました。それは最近の親族関係に関する情報をもたらし、最も確実に推測できます。

 中石器時代後の古代人標本について1.6 cM超のROHの推定値は、現代イタリア人で得られた値の範囲内にあり、同水準の族内婚を示唆します(図4A・B)。しかし、イタリア新石器時代個体群と本論文で新たに報告されたイタリア青銅器時代個体群の1.6 cM超の断片の長さと1.6 cM超の断片の数との間には有意な違いがあり、青銅器時代のより大きな有効人口規模、もしくは在来の銅器時代人口集団との混合事象に続く追加の多様性の結果と一致します。ラサッサ遺跡内では、個体LSC002/4において1.6 cM超断片の合計の長さが最高となり、唯一8cM超の断片が検出されました。以下は本論文の図4です。
画像


●イタリア古代人の表現型特徴の変化

 経時的な祖先系統構成要素の変化が表現型の変化に対応しているのかどうか確定するため、本論文および以前の研究で提示された古代人標本における、代謝・免疫・色素沈着と関連する115個の表現型と関連する遺伝的標識が分類されました(関連記事1および関連記事2)。本論文で新たに提示された16個体と文献からの316個体の計332個体が分析されました。これらは、イタリア中石器時代3個体、イタリア新石器時代および銅器時代52個体、イタリア青銅器時代60個体、イタリア鉄器時代および現代133個体、近東新石器時代および銅器時代41個体、近東青銅器時代18個体、ヤムナヤ(Yamnaya)文化18個体に分類されます。

 3個体以上の標本規模の集団について、各人口集団におけるそれぞれの表現型多様体の有効アレル(対立遺伝子)の頻度が計算された後、アレル頻度における変化を分析するためANOVA検定が実行されました。異なる期間のイタリアおよび非イタリア集団両方の間と、イタリア内の集団間が比較され、イタリアの個体群は期間と地理的位置に基づいて12コホートに分類されました。両方の検定で、ボンフェローニ補正の適用により有意な閾値が設定され、テューキー検定を用いて有意な組み合わせが決定されました。

 イタリア集団を近東およびヤムナヤ文化人口集団と比較すると11個の多様体が有意で、イタリア内検定では8個が、両方の検定では4個が有意でした。標本規模が小さいため、これらの結果は注意して解釈する必要がありますが、いくつかの潜在的に興味深い結果が出現します。両方の検定で有意な多様体、つまりTLR1(rs5743618)、TNF(rs1800629)、HLA(rs3135388)、SLC45A2(rs16891982)については、兆候はほぼ完全に、ローマ共和政期イタリア中央部集団(Cen_postRep)により駆動されており、ローマ期と古代末期と中世の個体群を含みます。追加の草原地帯関連祖先系統にも関わらず、本論文のイタリア青銅器時代標本群とイタリア新石器時代・銅器時代集団との間に検出可能な違いはありません。

 本論文で浮き彫りになった4多様体のうち3個は、ハンセン病に対する保護と感受性に関連しています。HLA(ヒト白血球型抗原)関連多様体(rs3135388)は、デンマーク中世人口集団においてハンセン病の身体症状に対する感受性が示唆されており、青銅器時代後のイタリア人と新石器時代・銅器時代の近東人と青銅器時代イタリア人とヤムナヤ文化個体との間で有意に異なっていました。この検定におけるrs3135388の統計的有意性は、おそらくは鉄器時代以後のイタリア中央部人における保護的アレルの低頻度に起因します。腫瘍壊死因子関連のTNF遺伝子の多様体(rs1800629)も、保護的アレルの頻度が減少しているようです。両方の結果は、ヨーロッパの歴史的および考古学的記録におけるハンセン病の頻度上昇と一致しています。先天性免疫に関わるToll様受容体であるTLR1の多様体(rs5743618)は、アジア人口集団におけるハンセン病に対する保護と結核への感受性増加の両方と関連しており、他の方向での有意な結果を示し、ローマ共和政期イタリア中央部集団でのみより高頻度で引き起こされます。

 両方の検定で重要な4番目の多様体(SLC45A2遺伝子のrs16891982)は、髪と目の色素沈着に関係しています。身体的外見では、銅器時代および青銅器時代のイタリア集団は、イタリアと近東のより早期の集団よりも、鉄器時代および後のローマ期の集団と類似した表現型を有しています。イタリアの既知の中石器時代3個体は、肌と髪の色が濃く、目は青色と予測されていますが、他の標本のほとんどは、中間的な肌の色と茶色の髪と青い目が予測されています。しかし、濃い色もしくは茶色の髪と青い目の組み合わせの個体群も、イタリア中央部の新石器時代個体群を除く全ての期間で予測されます。より濃い色の目と髪に関連する多様体(rs16891982)は、青銅器時代後のイタリア集団とそれ以前のイタリア集団との間で有意な違いを示し、イタリア中央部における頻度低下は本論文で新たに報告された銅器時代個体群で始まり、同じく本論文で新たに報告された青銅器時代個体群と、ローマ共和政期後のイタリア中央部集団で最低の値が観察されます。この違いは、青銅器時代前の新石器時代イタリア中央部集団およびサルデーニャ島集団と比較してとくに顕著です。


●考察

 本論文で新たに報告されたゲノムは、ヨーロッパにおけるイタリア先史時代後期の人口動態のより詳細な説明を提供します。主成分分析で観察され、以前の研究(関連記事)で報告されている、ヨーロッパ前期新石器時代個体群の2集団への区分は、イタリア本土個体群からサルデーニャ島新石器時代個体群を分離し、サルデーニャ島新石器時代個体群がアナトリア半島新石器時代個体群およびWHGとより高い類似性を示しており、ヨーロッパ新石器時代構成要素内の人口集団構造の可能性を提起しますが、祖先系統における微妙な違いを解明するには、高網羅率の古代ゲノムを含むより詳細な分析が必要です。

 本論文の分析は、イタリア全域における草原地帯関連人口集団からの青銅器時代の頃および青銅器時代後の予測される兆候を示します。草原地帯関連祖先系統は、新石器時代および銅器時代のイタリア個体群には欠けており、イタリア前期青銅器時代の、鐘状ビーカー文化期の個体I2478(紀元前2195〜紀元前1940年頃)と、レメデッロ(Remedello)遺跡の個体RISE486(紀元前2134〜紀元前1773年頃)と、ブロイオン遺跡の個体BRC010(紀元前1952〜紀元前1752年頃)に出現し、ブロイオン遺跡個体からマルゲリータ遺跡個体GCP003(紀元前1626〜紀元前1497年頃)にかけて増加します。これらの標本群は、草原地帯関連祖先系統が、少なくとも紀元前2000年頃までにイタリア北部に到来したことと、その4世紀後までにイタリア中央部に存在したことを確認しますが、この拡大の動態を評価するには、より高密度の標本抽出戦略が必要です。

 本論文のqpAdmの結果から、草原地帯関連祖先系統構成要素はヨーロッパ中央部から後期新石器時代および鐘状ビーカー文化集団を通じてイタリアに到来した、と示唆されますが、標本規模が小さく、時空間的分布が限定的なので、不明な点として、複数の草原地帯人口集団が供給源となったのかどうかと、イタリア半島全域の草原地帯関連祖先系統の正確な年代と拡散が残ります。青銅器時代ブロイオン遺跡個体に見られるYHg-R1bの下位区分は、古代シチリア島標本群およびイタリアの鐘状ビーカー文化個体群で見られます。イタリア北部および中央部青銅器時代集団と後期新石器時代ドイツ集団との常染色体の類似性と合わせて、Y染色体データは、イタリアの草原地帯関連祖先系統の、おそらくは北部とアルプス横断地域と鐘状ビーカー文化関連の起源を示します。

 銅器時代と青銅器時代の境界における男性親族構造の重要性も、本論文の常染色体データを用いて調べられました。銅器時代の混合洞窟埋葬は何らかの親族構造を含む、と長く仮定されてきましたが、古代DNA研究の出現前にそれを直接的に明らかにすることはできませんでした。本論文は、銅器時代において混合洞窟埋葬が密接に関連した男性の埋葬に優先的に用いられた、というパターンを確認しましたが、この事実の社会的重要性は明らかではありません。イタリアの銅器時代人口集団は、より早期の大西洋沿岸で見られる巨石記念碑の建築よりも、自然の埋葬室空間や横穴墓や溝墓を利用していましたが、関連する男性をともに埋葬する重要性は共有される特徴です。

 本論文の遺伝的証拠は、ラサッサ遺跡とブロイオン遺跡両方の人口集団がこれら埋葬儀式について父系子孫と父方居住を強調したことと一致しており、この強調は青銅器時代には消滅するものの、ガットリーノ遺跡の単一埋葬様式銅器時代墓地にも存在しません(おそらくは標本規模が小さいため)。これらの遺跡は在来人口集団の無作為で偏りのない標本抽出ではなく、むしろこれらの社会の一つの特定の儀式的側面の断片を表している、と注意することが重要です。したがって、父方居住と父系が一般的に行なわれていたのかどうか、もしくはこれらのパターンが経時的に変化したのかどうか、推測することはできません。一般的な人口集団構造と共同体間の関係を復元するには、遺伝子と同位体の標本抽出を増やす必要があります。

 草原地帯関連祖先系統の到来は、本論文で評価された表現型のどの頻度パターンにも影響を与えていないようです。むしろ、最大の変化はローマ帝国期もしくはその後に起きたようです。鉄器時代後のハンセン病に対する保護と関連するアレルの減少は、紀元前三千年紀と紀元前四千年紀から紀元後千年紀の頃の衰退までのヨーロッパの生物考古学および歴史的記録におけるハンセン病の症状の増加を考えると、興味深い問題です。これらの多様体がハンセン病および他の病原性マイコバクテリア感染症とどのように相互作用するのか、まだ正確には明らかではありません。したがって、完全な進化史を確定する前に、臨床面でのより多くの研究が必要です。本論文は全ての可能性のある表現型ではなく小規模な部分集合を検証したので、本論文の結果は、表現型の違いだけではない可能性があり、進化のメカニズムとヒトの遺伝子との間の複雑な関係を完全に理解するには、より多くの研究を行なう必要があります。幸いなことに、この研究で生成されたような全ゲノムは、生物学と遺伝学の全領域で進歩の観点から再考できる貴重な情報源を提供します。


参考文献:
Saupe T. et al.(2021): Ancient genomes reveal structural shifts after the arrival of Steppe-related ancestry in the Italian Peninsula. Current Biology.
https://doi.org/10.1016/j.cub.2021.04.022

https://sicambre.at.webry.info/202105/article_17.html

13. 2021年5月24日 16:58:19 : FYvhqrAm1o : bTZac3A2bWJqOFU=[17] 報告
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14. 2021年6月10日 18:10:49 : CD0syXjenk : R2dzTkMyT3VGNWs=[28] 報告
古代ローマは王政が廃止され共和政になっても、さらに元首政から帝政になっても、一貫して軍隊が国家の中心だった。各氏族の首長が集まる元老院は、現役や退役の将校が軍事・外政を議論する枢密院のようなもので、決して軍事に無知な隠居老人の溜まり場ではない。

法務官(praetor)や執政官(consul)だって戦争のプロで、有事となれば司令官になれる資質を備えている。開戦となって二人の執政官が遠方に派遣されると、もう一人の政務官たる法務官がローマを統治する政務官になるだけで、日本人が思うような司法官僚ではない。

さらに、このローマ軍を実質的に支えていたのは、百戦錬磨の百卒隊長(centurio)で、現代風に言えば「鬼軍曹」か「先任上級兵曹長(Master Chief Petty Officer)」といったような存在である。(この「マスター・チーフ」は訳しづらい階級なんだけど、ざっくり言えば、実戦や実務に長けたベテランの下士官で、上官になる少尉や中尉でも彼の意見には敬意を持って耳を傾ける。)

http://kurokiyorikage.doorblog.jp/archives/68859553.html

15. 2021年6月16日 14:22:12 : l1NB19ZI6I : aU9Tckg5akE5Q0E=[16] 報告
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16. 2021年6月26日 11:09:29 : dMxUwB7vqY : aG8yWTdpeGFLeWc=[20] 報告
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「ヨーロッパと呼んでいいのは、ピレネー山脈までだ」
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17. 2021年7月26日 16:16:23 : L74jVt1sps : d1BvM3NxcG10VGM=[34] 報告
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18. 中川隆[-16154] koaQ7Jey 2021年7月31日 10:19:01 : dfoc7jMUiU : My5La1lxb2JvRVU=[30] 報告
雑記帳
2021年07月31日
田中創『ローマ史再考 なぜ「首都」コンスタンティノープルが生まれたのか』
https://sicambre.at.webry.info/202107/article_32.html

https://www.amazon.co.jp/%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%9E%E5%8F%B2%E5%86%8D%E8%80%83-%E3%81%AA%E3%81%9C%E3%80%8C%E9%A6%96%E9%83%BD%E3%80%8D%E3%82%B3%E3%83%B3%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%B3%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%8E%E3%83%BC%E3%83%97%E3%83%AB%E3%81%8C%E7%94%9F%E3%81%BE%E3%82%8C%E3%81%9F%E3%81%AE%E3%81%8B-NHK%E3%83%96%E3%83%83%E3%82%AF%E3%82%B9-1265-%E7%94%B0%E4%B8%AD/dp/4140912650


 NHK出版新書の一冊として、NHK出版から2020年8月に刊行されました。電子書籍での購入です。本書は4〜7世紀のローマ東方(東ローマ帝国)史で、ローマ皇帝の役割を中心に、統治の仕組みを取り上げます。そのさい重要なのがコンスタンティノープルの役割で、統治の仕組みの変容とコンスタンティノープルの発展がどう関連しているのか、そもそも「都」とは何なのか、といった問題を論じます。コンスタンティノープルは324年に建設が始まり、330年に完成します。一般的には、これはローマ帝国の遷都と認識されていますが、本書は、そもそもローマ帝国の都とは何なのか、検証します。ローマ帝国の都は一般的にローマと考えられており、当時の人々もそう考えていましたが、実際には崩れている事例もある、と本書は指摘します。3世紀の歴史書には、皇帝のいる場所こそローマとの認識が見られます。

 こうした認識の前提として、ローマ帝国が広大になり、一人の皇帝で統治することが難しくなったこととともに、帝国辺境の軍事情勢が不安定化し、皇帝が派遣した将軍の台頭を警戒して親征するようになった、という事情がありました。3世紀の軍人皇帝時代には、ローマから遠い地域でも軍隊が勝手に皇帝を擁立するようになり、複数の皇帝が並立するとともに、皇帝位や官職がイタリアから乖離していきます。この状況が後の分割統治につながります。軍人皇帝時代の混乱を収めたディオクレティアヌス帝は、ローマ帝国の四分割統治を実施し、各皇帝が大規模な軍隊を率います。皇帝は大規模な軍隊を維持するため、拠点としての大都市を定めますが、ローマは前線から遠いため、軍事拠点の候補地にはなりませんでした。こうした状況で、皇帝のいる場所こそローマとの理念が顕著になります。

 ディオクレティアヌス帝の退位後に正帝に昇格した父の後継者として台頭したコンスタンティヌスが、コンスタンティノープルを建設します。コンスタンティノープルの建設は、ディオクレティアヌス帝以降の皇帝による大規模な拠点の建設という方針と、自身の名を冠した都市の建設という東地中海世界の伝統が組合わさったものでした。一方、分割統治時代に大発展した近くのニコメディアを拠点としなかったことは、新たな試みではないか、と本書は指摘します。また本書は、コンスタンティヌス帝が複数のローマを築こうとしたことも指摘します。

 コンスタンティヌス帝は息子も含めて複数の親族を副帝としており、血縁による後継を企図していました。しかし、337年のコンスタンティヌス帝の死後に軍隊の暴動により多数のコンスタンティヌス帝の親族が殺害されます。その後も混乱が続いてコンスタンティヌス帝の親族が相次いで死に、ローマ帝国は東部を治めるコンスタンティウス2世と西部を治めるコンスタンス帝の二帝体制が確立し、10年近く政治情勢は安定します。この二帝体制は、複数皇帝体制でもその中で主導権を有する皇帝が明らかだったそれまでとは異なり、明瞭な上下関係がありませんでした。この二帝体制は、350年にコンスタンス帝が部下に殺害されたことで崩壊します。コンスタンティウス2世はこの混乱を収拾して帝国全土を掌握します。コンスタンティウス2世の統治期にコンスタンティノープルは発展していき、元老院も拡大します。コンスタンティウス2世は出自ではなく個人的実力を重視し、元老院議員に低い身分の家柄の者を登用していきました。コンスタンティウス2世が元老院を拡大していったことで、コンスタンティノープルには知識層が集まっていきます。

 コンスタンティウス2世の方針をほとんど覆そうとしたのが、コンスタンティウス2世の後継者となったユリアヌスでした(関連記事)。ユリアヌスは正帝称号の承認をコンスタンティウス2世に認められず、ローマ帝国は内戦に発展しかけますが、コンスタンティウス2世は病に倒れ、ユリアヌスに帝国を委ねて没します。ユリアヌス帝はキリスト教への厚遇を撤回し、伝統重視の政策を打ち出しますが、サーサーン朝との戦いで重傷を負って陣没します。その後の皇帝選出で、後に多くの東ローマ皇帝が帝位を受けることになるコンスタンティノープル近郊のヘブドモンで、初めて皇帝が推戴されます。また、ユリアヌス帝没後の反乱でコンスタンティノープルが拠点とされたこともありました。こうして、コンスタンティノープルはじょじょに政治的中心の位置を確立していきます。

 しかし、コンスタンティノープルの拡大に貢献したコンスタンティウス2世にしても、ユリアヌス帝没後の混乱を一旦は収拾したウァレンス帝にしても、コンスタンティノープルを訪れることは稀でした。これは、軍人皇帝の時代以降の皇帝は軍隊とともに戦線を移動していき、宮廷も皇帝に随行したからです。奴隷も含めると、この移動する宮廷には1万人以上の人々がいました。当時、大都市と言われるアンティオキアやアレクサンドリアでも、人口はせいぜい30万人程度と推測されています。これは、宮廷の移動先の地域に大きな負担を強いることになります。

 このように皇帝および宮廷の移動が常態だったローマ帝国ですが、テオドシウス帝の治世においてコンスタンティノープルにほぼ定住するようになります。本書はその理由として、移動宮廷の弱点を指摘します。地方ごとに慣習や人間関係は大きく異なり、遠隔地の情報に疎い移動宮廷は現地の有力者に主導権を掌握されやすい、というわけです。ローマ皇帝がコンスタンティノープルから動かなくなった決定的な理由は、皇帝が拠点となる都市を定めることで、儀式の主導権を確保することにあったのではないか、と本書は推測します。それがテオドシウス帝によりなされたのは、皇帝が移動宮廷とともに前線に赴く統治方式では戦死する可能性が低くなかったこととに加えて、それまでの皇帝たちと血縁関係がなく、自らの権威を確立するとともに、ローマ帝国西部との対抗も考えねばならず、ローマ帝国東部を自らの支持基盤として、新たな秩序を築く必要があったからでした。帝国西部に対する東部の対抗意識は、キリスト教の教会会議がコンスタンティノープルでも開催されるようになったことに表れています。

 395年のテオドシウス帝の死をもってローマ帝国は東西に分裂した、と一般的には言われますが、当時の人々にとっては以前からの分割統治の継続に見えただろう、と本書は指摘します。後にローマ帝国を単独で掌握する皇帝が出現せず、ローマ帝国西方はゲルマン人の諸勢力に侵食されて476年に「滅亡」したことに基づく、結果論的解釈だろう、というわけです。テオドシウス帝の死後も、儀礼空間の整備などコンスタンティノープルは発展していき、皇帝が基本的には配下の将軍に軍事遠征を任せて常駐したこともあり、コンスタンティノープルはローマ帝国の「都」としての地位を確立していきます。

 こうしてコンスタンティノープルはローマ帝国東方、つまり東ローマ帝国(ビザンツ帝国)の「首都」として発展していき、一方で西ローマ帝国は476年に「滅亡」します。ただ、476年に起きたのは、ローマ帝国西方の有力軍人だったオドアケルが幼帝のロムルスを廃位し、皇帝の標章をローマ帝国東方に変換しただけで、ローマの元老院は健在でした。同時代人には劇的な「滅亡」事件として把握されていなかっただろう、というわけです。コンスタンティノープルは、皇帝の常駐とともに、皇帝即位といった儀式が発展し、皇帝の存立条件として「首都」住民の支持が重要になっていきます。そのさいに大きな役割を果たしたのが宗教で、この時代では具体的にはキリスト教となります。キリスト教は大衆と有力者をつなぐ社会的接点となり、皇帝にとって無視できない存在でした。本書は、皇帝の選出および承認など、社会的合意形成の場としての儀式の整備が政治的安定をもたらし、東ローマ帝国長期存続を可能にした、と指摘します。一方、ローマ帝国西方では、ローマにおいて儀式の発展はあったものの、政治的拠点としてコンスタンティノープルほどには集約されず、イタリア北部のラウェンナが重要な役割を担い、広範な合意形成の場が確立しませんでした。これが、ローマ帝国の東西の運命を分けた一因になった可能性を、本書は指摘します。

 上述のように、ローマ帝国西方における476年の幼帝廃位は、同時代人にとって「滅亡」や「衰退」と結びつける必要のないものでした。しかし、それから半世紀ほど経過した6世紀前半に、ローマ帝国東方ではローマ帝国西方の衰亡言説が流布していました。そうした状況を背景に即位したユスティニアヌスは、積極的にローマ帝国の「再興」に取り組みます。それは、軍事遠征とローマ法典の編纂事業に代表されます。ユスティニアヌス帝はこの過程で、ローマ帝国の過去を意識的に継承していきます。しかし、それは現実を踏まえた選択的なもので、法典編纂において現行の法習慣に敵うものだけを収録しました。これは、時代錯誤の法も収録した以前の法典の編纂方針とは大きく異なります。ユスティニアヌス帝は、過去を尊重する姿勢を示しつつも、現実の要請に応じて過去を加工していき、それは法典編纂でも見られます。また、すでに地中海東部地域ではギリシア語が支配層の共通言語になっていたのに、法典編纂ではほとんどラテン語が採用されており、ローマの伝統を自分のものにするという意志があったのではないか、と本書は推測します。また、法典編纂におけるラテン語の使用は、地中海西部のラテン語圏も視野に入れていたためではないか、と本書は指摘します。ユスティニアヌス帝は法典編纂と並行して軍事活動を進め、イタリア半島を支配下に置きます。

 上述のようにユスティニアヌス帝はローマ帝国の「再興」に取り組み、復古的なところがありましたが、法典編纂で現行の法習慣に敵うものだけを収録するなど、現実的な側面も見られ、それはコンスルの廃止にも表れています。ユスティニアヌス帝は一方で、他の行政分野では官職の名称をローマの伝統的なものに「戻して」いますが、復古を謳いつつ実質的には新たな行政機構・官職を創設しており、復古的ではあるものの現実的であるユスティニアヌス帝の性格がよく示されています。ユスティニアヌス帝はキリスト教の内部抗争を懸念して教会再統合も試み、全面的な教会統一こそ達成できなかったものの、大半の司教はユスティニアヌス帝の主導下にまとまります。

 ユスティニアヌス帝は意欲的にローマの「復興」に取り組みましたが、疫病や戦争の継続により領内が疲弊したことも否定できません。本書は、結果論ではあるものの、ローマを滅ぼしたのはゲルマン人以上に東ローマ帝国だっただろう、と指摘します。ユスティニアヌス帝の相次ぐ遠征により、水道橋などの社会資本は傷つき、ミラノなどイタリア北部の主要都市は何度も略奪され、主要な貴族はコンスタンティノープルなどへ避難しました。旧都ローマの歴史と権威は、新都コンスタンティノープルに奪われました。ローマはもう一つのローマにより「滅ぼされた」、というわけです。

https://sicambre.at.webry.info/202107/article_32.html

19. 中川隆[-17358] koaQ7Jey 2021年8月08日 04:55:33 : nuwvXQTCPk : UGxwQzNyckhmQWc=[2] 報告
【ゆっくり解説】恐怖!〇問の叡智な歴史・3選!


20. 2022年2月26日 21:06:43 : 7284w1h2Yo : ZEVCUFByRTFDb28=[16] 報告
【ゆっくり解説】もしも古代ローマの奴隷になったら【歴史解説】
2022/02/19



【ゆっくり解説】古代ローマの奴隷の世界【歴史解説】
2022/02/26

21. 2023年9月16日 04:16:10 : nEWzWiFf2c : V0djV2lWLjcydlk=[1] 報告
<■248行くらい→右の▽クリックで次のコメントにジャンプ可>
映像作品に描かれたダメダメ家庭
04年11月12日
旅芸人の記録(75年カンヌ映画祭国際批評家賞)
監督 テオ・アンゲロプロス
https://kinoufuzenkazoku.hariko.com/04-11/04-11-12.htm

ギリシャの芸術家の名前って、皆様は、どれくらいご存知ですか?
「エッヘン!ワタシはこれでも世界史は得意だったのよ!」
と、おっしゃりたい方も多いでしょ?
「まあ、彫刻家や音楽家は名前が伝わっていないけど、文学関係なら、有名なホメロス、それに3大悲劇詩人のエウリピデス,ソフォクレス,アイスキュロス、喜劇のアリストファネス。別の方面?でも有名なレスボス島の女流詩人のサッフォーとか・・・」

まあ、出て来る名前って、こんなところでしょ?
逆にこれくらいは出てこないと、世界史を改めて勉強しないとね。

これらの名前は全員古代の人ですよね?それ以降のギリシャの芸術家の名前は?

こうなると途端に出てきませんよね?アレキサンダー大王以降のギリシャの芸術界は一体何やっていたの?2千年以上もサボっていたの?
ギリシャ人も、かつては、すばらしい芸術家を輩出したのに・・・遺伝子的にレヴェルが低いわけではないでしょう?だって、かつては立派だったんだし・・・
それに、16世紀のスペインの画家に、その名も「ギリシャ人」という名前のエル・グレコというギリシャ系の人もいます。ギリシャ人もギリシャ以外の国では活躍しているわけ。

どうして、ギリシャ国内では芸術家を生み出さなくなってしまったのでしょうか?

このように芸術家を産まない国や地域ってありますよね?
日本のお隣の朝鮮半島の芸術家の名前って、ご存知ですか?
中国の芸術家の名前なら、世界史でいやというほど覚えさせられましたよね?詩人だけでも李白、杜甫、白楽天、孟浩然・・・ああ!!思い出したくも無い、勉強ばかりのあの日々!?
しかし、朝鮮半島の芸術家の名前って、出てきませんでしたよね?

あるいは、イスラム圏の芸術家の名前って、出てきますか?
イスラムでは歌舞音曲を禁じているはず。絵画もダメなの?文学だって禁じているのかな?「テメエらは、コーラン読んでりゃ、ええんや!」なの?しかし、ペルシャにはイスラムとは異質なキャラクターの詩人のオマル・ハイヤームという人もいました。別に遺伝子的に芸術とは無縁の人というわけではないんですね。
どうしてイスラムの下では、芸術家が出なくなってしまったのでしょうか?

これらの国や地域の経済的な問題なの?しかし、どのみち、創造的な芸術家がその作品でお金儲けをできるわけもないことは歴史的な現実。芸術家というものは死んでから認められるものでしょ?芸術作品を制作すると言っても、文章を書くのは費用がかかるわけでもないので、「その気」になりさえすれば、できることでしょ?

芸術家の絶対数が少なく、多くの人が芸術家との接触することが少なかったから、芸術作品を作る意欲や発想が起こらなかったの?しかし、例えばギリシャなどは様々な芸術家が訪れていますよね?それにギリシャ人も外国に出てみればいいじゃないの?韓国人だってそう。中国に行けばいいだけ。その気になれば、様々な芸術家との接触は可能なんですね。
では、これらの国や地域が何故に、芸術家を生み出さなかったのでしょうか?

それはそれらの人々がダメダメだからですね。
「悪いのは全部アイツのせいだ!」そのような発想なので、自分自身を厳しく見つめることをしないわけ。自分自身から目をそらしているような人間が、芸術家になれるわけがありませんよ。

職業としての音楽家や物書きや絵描きにはなれるかもしれません。しかし、そんな自分自身から目をそらすような人間は、永遠に届くような作品を生みだす「芸術家」になれないわけです。別の言い方をすると、自分から逃避してしまっているので、仕事にはなっても、使命にはなっていないわけ。

今回の文章で取り上げる映画はギリシャの映画監督テオ・アンゲロプロス監督の75年の作品である「旅芸人の記録」という映画です。
テオ・アンゲロプロス監督は現在における最も厳しい精神の「芸術作品」を作る監督です。まあ、映画の分野において、芸術性では3本指には確実に入るような大芸術家。

しかし、ギリシャという芸術不毛の地で、どうしてアンゲロプロスのような芸術的な映画監督が出現したの?また、彼は、どのようにして、芸術家不毛の地から芸術作品を生み出すような芸術家になったの?

アンゲロプロスは自分自身の「内なるギリシャ」、つまり自分の中の「内なるダメダメ」を厳しく見つめ、それを克服していったわけです。
今回取り上げる「旅芸人の記録」という作品は、ダメダメなギリシャ人の一員であるアンゲロプロスの心の中に巣食う「ダメダメな部分」を白日なところにさらしているわけ。
その過程があったがゆえに、近年のアンゲロプロス監督作品の「人間と人間のコミュニケーション」「人間の再生への希望」を語る豊穣な作品群が生み出されることになったわけです。

では、彼の作品「旅芸人の記録」の導きに従って、ギリシャ人のダメダメな面・・・これは呆れるほど韓国やイスラムにおけるダメダメな面と共通しています・・・を見てみることにいたしましょう。

ちなみに、この「旅芸人の記録」という作品は1939年から1952年のギリシャを舞台に、「羊飼いの少女ゴルフォ」というお芝居を上演している旅芸人の一座を描いた映画です。事件を時系列的に追った映画ではありません。一座がそのお芝居を上演しようとすると、当時のギリシャの様々な情勢によって、途中で上演がストップしてしまう・・・そんな映画です。

つまり「羊飼いの少女ゴルフォ」の上演という「まがりなりにも」芸術活動と言える活動がジャマされていくことについての映画といえるわけです。
「ギリシャにおいて何故に芸術が育たないのか?」そのような問題意識が反映しているわけですね。

この映画について、日本の3文映画ライターが「激動のギリシャ現代史を語る映画」などと解説したりしていますが、現代史ではないんですね。もし、現代史を語るつもりなら、登場人物の名前をもっと現代的にするでしょう。この「旅芸人の記録」という作品での登場人物の名前はエレクトラとかアガメムノンなど、昔のギリシャ人の名前です。そして起こっている事件も、昔から何回も繰り返されているような事件。
つまりそれだけアンゲロプロス監督は「いつまで経っても変わらない」ギリシャを描きたいわけです。それに現代史を描くつもりなら、事件の配置を時系列的にしますよ。歴史を描くつもりが無いから、事件の時系列を無視しているわけです。
まあ、それがわからないからこそ、「映画ライター」なんでしょうが・・・

さて、この映画に従って、ギリシャのダメダメやダメダメ家庭の問題というより、もっと一般的な意味でのダメダメ精神の事例を以下に列挙いたします。

1. 働かない・・・ギリシャ人は働かない。この4時間の映画で、働いている人はレストランのウェイターくらい。労働者が「資本家打倒!」と言うのはいいとして工場で働いているシーンはない。「労動者ならまずは労働しろよ!」と言いたいところ。

また、資本家も工場を経営したり、外国と貿易を行うというそぶりもない。とにかく働かない連中なんですね。さすがに韓国では働いているシーンは出てきますが、イスラム圏でも働いているシーンって出てこないでしょ?商店で働いている人は多少出てきますが・・・イスラム圏の工場って見たことありませんよね?やっぱり働かない連中なんですね。

2. 政治好き・・・経済的な面では意欲がない連中ですが、政治には熱心です。「悪いのは全部政治が悪いせいだ!」などと思っていたりするので、やたら政治には熱心なんですね。この映画でもデモ行進のシーンが多い。あるいは政治議論も活発です。

個々の人間が政治について確かな見解を持つことは必要でしょう。しかし、問題の全部を政治のせいにしてもねぇ・・・しかし、デモのシーンはイスラムでも韓国でもおなじみですよね?そして、この手の人は、政治論議が好きでも、実際に政治に携わって、現状を改善しようとはしないもの。ただ、「ダメな政治のせいで、うまく行かない。」という理屈がほしいだけ。

3. 会話がない・・・登場人物の皆さんは、とにかく人の話を聞かない。4時間にもわたる映画なのに、会話のシーンがない。どちらかが一方的に言っているだけ。人の話を聞くという習慣がなさそう。

4. 被害者意識・・・何かと被害者意識が出て来る。『イギリスには裏切られた!』『国王には裏切られた!』とか・・・「ああ、オレ達って、何てかわいそうなんだ?!」そして相手を恨むわけ。

5. 当事者意識がない・・・被害者意識があるのに、当事者意識がない。「じゃあ、アンタはギリシャという国をどうしたいの?」と言われても答えられない状態。ただ、相手を恨んでいるだけなんですね。イスラムや韓国でもこんな感じですよね?

6. 内部分裂・・・ギリシャ人の内輪もめは、それこそ紀元前のアテネとスパルタの戦争など、いつもやっているようです。「イギリス人はギリシャから出て行け!」と本気で思っているのなら、ギリシャ人が結集して、イギリス人を追い出せばいいじゃないの?ところがこの映画では内輪もめのシーンばかり。ギリシャ正規軍とイギリス軍が戦うシーンなどは全然なくて、いつもギリシャ人同士で戦っているんですね。同じようにイスラムだと宗派対立などが出てきますよね?韓国だと地域対立とか・・・彼らがまとまるのは「○○大嫌い!」それだけなんですね。

7. こびへつらい・・・この映画で出て来るギリシャ人は、強きにこびへつらい、弱い人には威張っている。そのような権威主義なのもダメダメの特色の一つですね。落ちたイヌだけを叩こうとするのがギリシャ人の特色のようです。まあ、これはイスラムや韓国も同じですが・・・

8. ユーモアがない・・・4時間にわたる映画なのに、笑えるシーンがない。まあ、それは監督のアンゲロプロスの個人的キャラクターの面も大きいでしょう。しかし、ダメダメな人間は「自分自身を笑う」心のゆとりって無いものなんですね。「オレってバカだなぁ・・・」なんて自分を笑わないのに、自分以外の人のことは高笑いするわけ。

ユーモアって、いつもとは別の見方で物事を見たりすると、出てきたりするものでしょ?ユーモアがないってことは、それだけ、ものの見方が画一的ということなんですね。

9. ホスピタリティーがない・・・この面は、むしろアンゲロプロス監督の別の作品で強調されています。どうもギリシャ人は外の世界から来た人を歓迎するという発想がない様子。外来者を、ヘタをすれば政治的な人質として利用したりするくらいの扱い。外の世界から来た人と会話して自分の知識を広め、相手に自分のことを知ってもらおうなんてこれっぽちも考えていない。

自分自身が被害者意識に凝り固まっているので、人をもてなす心の余裕がないわけ。このような面は韓国もイスラムの全く同じですよね。スポーツ大会などヒドイものでしょ?これでは味方ができませんよね?

10. 歴史自慢・・・この「旅芸人の記録」という作品では強調されていませんが、ギリシャは偉大な歴史がありますね。それはそれで結構なこと。しかし、ちょっと考えて見てください。「オレは小学校の時は優秀で、学級委員をやっていたんだ!」・・・そんなことを言う人間ってショボイオヤジでしょ?ちゃんとした人間はそんな昔の自慢話などはしないものでしょ?

歴史自慢しかするものがない連中って、それだけ今現在がダメダメということですよね?しかし、ダメダメな人間は歴史しか自慢するものがないので、歴史自慢をしたがる。そして「こんなに偉大な歴史を持つ我々なのに、今うまく行かないのはアイツのせいだ・・・」と被害者意識をますます膨らませるわけ。


このように、「悪いのは全部アイツのせいだ!」と思っていると、自分の気持ちとしてはラクですよね?だって、自分自身では何もしなくてもいいんですからね。ただ相手を恨んでいるだけでいい。
まあ、一般の人はそれでいいのかもしれませんが、そんな貧しい精神では芸術家は育たないでしょ?

真の芸術家になるためには、自分の内面にあるそのようなダメダメな面を自覚していく必要があるわけです。
ギリシャ人のアンゲロプロスは、このような自分に厳しい映画作品を作ることによって、自分自身を一歩前に進めたわけです。まあ、こんなメールマガジンを発行している私が言うんだから間違いありませんよ。

ちなみに、この「旅芸人の記録」という映画はギリシャ映画ですので、セリフはギリシャ語です。ということで字幕担当の人も「とある芥川賞受賞作家さん」がやっています。
その作家さんはギリシャ語が出来るので、アンゲロプロス監督作品の字幕だといつもこの人です。

この作家さんは、ギリシャに住んだり、最近ではイラクに行って「フセイン政権下ではイラク人はすべて幸せだった!アメリカ人は出て行け!」とかおっしゃっておられます。メールマガジンも発行されていて、私も読む時がありますが、実に「お・も・し・ろ・い」わけ。

自分自身の問題から目をそらし、グチばかり言う人間は、やっぱりそんな類の人間が多いところに行きたがるものなんですね。そうして、グチで盛り上がることになる。
「アンタたちは全然悪くないのよ!悪いのは全部アメリカなんだ!」
そう言われれば言われた方もラクでしょ?確かに同情してもらったイラクの人も幸福かもしれません。だって「自分自身は全然悪くない!」と思っていられるわけですからね。「悪くはない」んだから、自分自身では何もしなくてもいいわけ。

そのような精神的に怠惰な状況に、外国からのダメダメ人間が、まるで腐臭にハエやゴキブリが吸い寄せられるように喜んで出かけ、集まり、そしてグチで盛り上がる。

職業としての物書きや絵描きや音楽家は、そこそこのスキルがあればなれるものです。しかし、芸術家になって未来に残る作品を生み出すには「自分自身を厳しく見つめる」ことが必要不可欠なんですね。

ダメダメなギリシャの映画監督のアンゲロプロスが「旅芸人の記録」という、何より自分に厳しい作品を作って、自分自身を見つめ大芸術家になっていったのに対し、グチばかり言っていて、世界中のグチ人間を求めて自分から逃げ回っている人間が、芥川賞という新人賞止まりなのは、芸術的にみて必然なんですね。

この映画で描かれたギリシャの人々は、誰かを犯人認定して、対抗心ばかりを膨らませ、自分では何もする気もなく、しょーもない議論ばかりという、典型的なダメダメ人間の姿といえるでしょう。
これは何もギリシャの問題だけでなく、たとえば、インターネットの掲示板が、まさに絵に描いたようにこんな様相でしょ?

作り手のアンゲロプロスとしては、「激動のギリシャの歴史」を描いているのではなく、バカばかりやっているダメダメ人間の姿を描いているわけ。
彼は歴史学者ではなく、芸術家なんだから、普遍的な人間心理を描きますよ。
ダメダメというのは、時とか場所とかのテンポラリーな問題ではなく、人間の普遍的な心理の問題なんですね。だから、ちょっと見方を変えると、21世紀の日本での様相を理解するのにも役に立つわけ。

ちなみに、ギリシャもイスラム圏も韓国も、独裁政権が多い。
民主的政体は育たない。
それは民主主義というものは、個々の責任という面が要求されるからですね。自分自身が主体的に政治に参加する。そしてみんなの選択に共同責任を持つわけ。
しかし、責任を取りたくないダメダメ人間は、独裁政治の方がラクなんです。だって独裁だったら上手くいかなかったら、その原因の全部を独裁者のせいにできるでしょ?そして「オレたちは独裁政治の被害者だ!」と言うだけ。

だから、これらの国の政権担当者は、政権を降りた後は大変な目にあいますよね?
それは「うまく行かない原因」を一手に引き受けされられるからです。
「自分たちは被害者だ!」と思いたいダメダメ人間は、とにもかくにも加害者というレッテルを何かに貼りたがるわけ。
民主的政体だと、自分自身にも責任を取らないといけないので、精神的にラクができない。だから、このようなダメダメな連中は無意識的に独裁政治を望んでいるわけです。
ダメダメというのは、経済的な問題というより、まずもって心が貧しいわけなんです。

(終了)
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発信後記

この「旅芸人の記録」という映画はDVDが出ています、注文すれば購入できます。
ヴィデオは・・・置いてあるレンタルショップは日本にそれほどないでしょうね。
10月に色々な映画を取り上げたので、11月はやめておこうかなと思っていたのですが、今回配信したのは
1. 現在のイラク情勢を考えるのに参考になる・・・イラク人が純粋に被害者なの?という疑問を持っておられる方も多いと思います。その材料になるのでは?
2. 今年のアテネオリンピックの「体たらく」ぶりについて考えて見たいと思っておられる方に材料になるのでは?
3. 11月20日から東京の渋谷の映画館でアンゲロプロス作品の集中上映があるそうなので、配信のタイミングもそれに合わせた。

そんなところです。

この文章自体は、ちょっと前から準備してあって、文章もほとんど上がっていたのですが、それに合せて?映画館で上映されるなんて・・・神の配剤ということなんでしょうねぇ。
ただこの手の「芸術的?」な映画は東京でしか見ることができないのが問題ですが・・・
R.10/11/16
https://kinoufuzenkazoku.hariko.com/04-11/04-11-12.htm

22. 2023年11月12日 08:38:16 : pus2kU3xBs : RUo4N0tFNnFGZlU=[1] 報告
特番『ヨーロッパ中心史観を排すべきとき(上)ー日本とヨーロッパ、どちらが先に文明社会になったのか?ー』ゲスト:大阪市立大学名誉教授・経済学博士 山下英次氏
2022/10/12
https://www.youtube.com/watch?v=S_S48963ulc


特番『ヨーロッパ中心史観を排すべきとき(下)ー日本とヨーロッパ、どちらが先に文明社会になったのか?ー』ゲスト:大阪市立大学名誉教授・経済学博士 山下英次氏
2022/11/28
https://www.youtube.com/watch?v=hDjCLik9bII&t=19s

23. 中川隆[-11919] koaQ7Jey 2023年12月28日 00:59:44 : byGBLs0o8A : b0JsOEh4R1UwQ2c=[1] 報告
<■51行くらい→右の▽クリックで次のコメントにジャンプ可>
コロナ後絶好調のギリシャ株、政府債務を削減しながら株高を実現
2023年12月27日 GLOBALMACRORESEARCH
https://www.globalmacroresearch.org/jp/archives/42920

2023年の株式市場を語るにあたって外せない国が1つある。それは絶好調のギリシャ経済である。

コロナ以前のギリシャ経済

ここの古参の読者は覚えているかもしれないが、ギリシャ経済はユーロ圏の中で長年酷い目にあってきた。

共通通貨ユーロの抱える経済問題において、ギリシャは常に中心に居た。ユーロ圏最大の経済大国ドイツを基準に決まるユーロのレートは、他の国を通貨圏に取り込んだドイツにとっては安く、ドイツの輸出産業は潤ったが、ユーロ圏の小国であるギリシャにとっては高過ぎ、ギリシャの輸出産業や観光業は破壊されていった。

2010年からの欧州債務危機ではギリシャはデフォルトの瀬戸際まで行った。以下の記事では、ギリシャの貿易収支がドイツの貿易黒字に吸い取られてゆく様子をチャートで説明している。

ユーロ圏がドイツの植民地だと一目で分かる各加盟国の貿易収支比較 (2017/1/29)
ギリシャ経済の復活

だがコロナ以後、ギリシャ経済が復活しているのを知っているだろうか。例えば実質GDPをドイツと比べてみると次のようになる。


ドイツの実質GDPが辛うじてコロナ前と同じような水準で推移する中、ギリシャはコロナ前の水準を大きく上回っている。

ギリシャ経済が奇跡の復活を遂げたのは、2019年に就任したミツォタキス首相の経済政策が原因である。

ミツォタキス氏は例えば法人減税を行なった。ギリシャの法人税率は28%から22%まで引き下げられている。

だがミツォタキス氏の法人減税は、日本のように経団連のために法人税を消費税に転嫁し、消費税の輸出免税で輸出企業に還付金を与えるための法人減税ではない。

何故ならば、ミツォタキス氏は他の税に転嫁することで法人減税を実現したのではなく、無駄な支出を減らすことで減税を実現したからである。

実際、ギリシャのGDP比政府債務は、コロナ初年の2020年は流石に上昇したものの、その後のミツォタキス氏の支出削減努力によってコロナ前の水準以下にまで減少している。


それでいながらドイツ以上の経済成長を達成しているのである。以下の東京五輪用の公共トイレのような何の役にも立たない公共事業と汚職を積み上げる自民党の政策がなければ経済成長が達成できないという完全に間違った幻想を抱いている日本人に経済データという現実をお届けしたい。


出典:産経新聞
絶好調のギリシャ株

結果として、GDPだけでなく株式市場も絶好調である。主要な株価指数であるアテネ総合指数のチャートは次のように推移している。


ギリシャ株は2023年の世界の株式市場の中でも非常に調子が良い部類に入る。それが日本やアメリカのようなばら撒きではなく減税と債務削減によって実現されているというのは興味深いことではないか。

ハイエク: インフレ主義は非科学的迷信
思い出されるのは、債務膨張と緩和のやり過ぎで自国通貨が死んだアルゼンチンの改革に挑んでいる新大統領のミレイ氏である。アルゼンチンもギリシャの成功に続くことができるだろうか。

アルゼンチン、緩和のやり過ぎで自国通貨を廃止する破目に
新アルゼンチン大統領のミレイ氏、経費削減のため閣僚の半分を削減する

https://www.globalmacroresearch.org/jp/archives/42920

24. 中川隆[-11899] koaQ7Jey 2023年12月29日 22:05:23 : xOWjT1BJOc : aEZmb08zSTBnbWc=[16] 報告
<■65行くらい→右の▽クリックで次のコメントにジャンプ可>
ポールソン氏、政府債務の削減を実現したギリシャ経済を絶賛
2023年12月28日 GLOBALMACRORESEARCH
https://www.globalmacroresearch.org/jp/archives/42955

リーマンショックを予想的中させたことで有名なPaulson & Coのジョン・ポールソン氏が、話題のギリシャ経済についてCapital Linkの会合で語っている。

絶好調のギリシャ経済

コロナ禍とその後のインフレによって多くの国の経済が減速しつつある中、ギリシャ経済は絶好調であると言える。

2010年からの欧州債務危機ではデフォルトの瀬戸際まで行ったギリシャ経済がここまで立ち直ったのは、2019年に選出されたミツォタキス首相の経済政策が奏功しているからである。ここまでの話は前回の記事で説明している。

コロナ後絶好調のギリシャ株、政府債務を削減しながら株高を実現
ギリシャでは株価も絶好調なのだが、そのギリシャ経済に注目しているヘッジファンドマネージャーがいる。リーマンショックにおいて原因となったサブプライムローンを空売りしたことで有名なポールソン氏である。

ジョン・ポールソン氏、サブプライムローンの空売りで大儲けした時のことを語る
ミツォタキス首相の経済改革

ポールソン氏は次のように述べている。

ミツォタキス首相のリーダーシップのもとで行われているギリシャ経済の変革は素晴らしい。

ミツォタキス氏が何をしたかと言えば、政府債務を減らし減税を行なったのである。そして規制緩和によって海外からの投資を受けやすいようにした。ヨーロッパと中東の間に位置するギリシャに興味を持つ国は多い。政府の行なう無駄な規制を取り除くことで、そうした国から資金を流入しやすいようにしたのである。

ポールソン氏は次のように言う。

かつてギリシャ経済は酷い状態で、皆も知っているように失業率は上昇し、世界経済から切り離されてばらばらになるリスクがあった。

だが負債に依存していたギリシャ経済は、ミツォタキス氏の時代から生まれ変わっている。ポールソン氏はこう続ける。

大きく変わったのは政府だ。

大きな政府と小さな政府

ミツォタキス首相の目指しているのは、税金も政府支出も少ないいわゆる「小さな政府」である。それは例えば自民党やEUが目指しているような、政治家の裁量で扱える税収を増やす「大きな政府」とは真逆のものである。

そしてどちらの方が国民の利益になるかは明らかである。ポールソン氏は次のように言う。

過剰な規制、税の厳しい取り立て、大きな所得の再配分などを行なういわゆる「大きな政府」にこだわり、生産ではなくいくら受け取りいくら支出するかに焦点を置くような政府が失敗することは分かりきったことだ。

日本人に聞かせてやりたい言葉ではないか。そしてポールソン氏は次のように続ける。

経済成長、効率の良い規制、公平で軽い税制、ビジネスやイノベーションへの支援などに集中し、国民から受け取るのではなく国民の仕事が報われるようにする政府こそが、成功する政府だ。そして今のギリシャ政府にはそれがある。

ギリシャ経済はどう変わったのか。ポールソン氏は具体的な政策の話もしているが、それについても新たな記事で取り上げたい。

だが筆者がギリシャの話を取り上げて言いたいのは、これは単にギリシャだけの話ではないということである。例えばアルゼンチンも、オーストリア学派の経済学者であるミレイ大統領のもとで政府債務を削減する政策を行おうとしている。

アルゼンチン、緩和のやり過ぎで自国通貨を廃止する破目に
新アルゼンチン大統領のミレイ氏、経費削減のため閣僚の半分を削減する
政府支出を良しとするジョン・メイナード・ケインズ氏の経済学ではなく、政府の汚職を抑えることに主眼を置いたフリードリヒ・フォン・ハイエク氏の経済学に近い経済政策を行なう国が現れ始めていることは偶然ではない。

ハイエク氏: 現金給付や補助金はそれを受けない人に対する窃盗である
だがその国々がギリシャとアルゼンチンであることは、主要国の国民にとって悲劇的な事実かもしれない。それらの国はともにインフレ政策のやり過ぎで経済が潰れた国であり、インフレ政策はインフレを導いて終わるという簡単な事実に気付くために、国の経済は一度落ちるところまで落ちなければならないということを意味しているからである。

世界最大のヘッジファンド: 無節操に支出し続けるメンタリティのお陰でスタグフレーションへ

https://www.globalmacroresearch.org/jp/archives/42955

25. 中川隆[-11898] koaQ7Jey 2023年12月29日 22:10:36 : xOWjT1BJOc : aEZmb08zSTBnbWc=[17] 報告
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ポールソン氏: 奇跡の復活を遂げたギリシャ株はまだまだ上がり続ける
2023年12月29日 GLOBALMACRORESEARCH
https://www.globalmacroresearch.org/jp/archives/42986

引き続き、リーマンショックを予想したことで有名なPaulson & Coのジョン・ポールソン氏のCapital Link主催の会議における講演である。

ギリシャ推しのポールソン氏

ポールソン氏はギリシャ推しであり、講演ではギリシャ経済をべた褒めしている。この講演がギリシャで行われているということもあるが、実際にポールソン氏はギリシャに対して大きな投資を行なっている。

その理由は2019年に就任しコロナ後の経済政策を担ったミツォタキス首相の経済政策である。ミツォタキス氏はコロナ後に政府債務を減らしながら株高とドイツ以上の経済成長を実現している。

コロナ後絶好調のギリシャ株、政府債務を削減しながら株高を実現
借金漬けのギリシャ経済が政府の無駄な支出の削減によって息を吹き返したというわけである。ポールソン氏は次のように述べている。

ミツォタキス政権のこれまでの功績は大きく、しかも多岐にわたっている。問題は将来がどうなるかだ。

これまでの記事でも取り上げているが、ギリシャ株はもうかなり上がっている。今回は個別株のチャートを取り上げるが、例えばポールソン氏が2021年に投資し、約18%を所有している大手銀行のPiraeus Bankの株価チャートは次のようになっている。


ギリシャ市場はまだ上がるのか?

投資家として気になるのは、このギリシャの株式市場の上昇が乗り遅れた船なのか、あるいはこれからも上がり続けるのかということである。

その問いについてポールソン氏は次のように答えている。

わたしには、このギリシャの転換と変革は始まったばかりのように見える。

この好ましいトレンドはミツォタキス首相の2期目が続く今後4年は継続するだろうし、より重要なのは、ギリシャがもしその後の政権でも投資を呼び込む現在の経済政策を継続するならば、ギリシャの繁栄は今後何十年にわたって続くかもしれない。

その背景にあるのは、ギリシャ経済が何処を目指しているのかについての見方である。

ポールソン氏はギリシャがアイルランドのように海外からの投資を引き込んで豊かになるシナリオを思い描いている。彼は次のように言う。

ギリシャの1人当たりGDPはドイツのおよそ半分だが、ギリシャがその差を縮め続け、いつかドイツを追い越すことが出来ないと考える理由はない。

アイルランドは経済成長を過激なほど重視した政策を取り続けることで世界有数の1人当たりGDPを誇っている。ドイツよりも80%多い。

そしてギリシャは今、その方向を目指している。それがわたしが現在の長期的な投資の好循環が始まったばかりだと考える理由だ。

アイルランドもかつてギリシャのように欧州債務危機に苦しんだ国の1つである。だが今では大胆な規制緩和と低い法人税によって多くのグローバル企業が本社を置く国となっている。

結論

ポールソン氏は次のように言っている。

わたしの考えでは、ギリシャ市場から撤退するのはまだまだ早すぎる。この上昇相場は続く余地がまだまだある。

Piraeus Bankを例に取れば、株価は既にかなり上がっているにもかかわらず、株価収益率はたったの4.4倍だ。

彼が見ているのは、ギリシャの1人当たりGDPがしかるべき水準にまで戻ってくる未来である。

筆者の経験では、GDPそのものは人口に大きな関係があるが、1人当たりGDPは国民のまともさに比例しているように感じる。

例えばアイルランドは世界2位の1人当たりGDPを誇っているが、比較的治安の良い先進国で税率が低くインフラが安定しているところをグローバル企業は本社の立地に選ぶ傾向がある。

要するに税制も含めて人がまともかどうかということである。グローバル企業はそういうところに本社を置きたがる。他の例としてはスイスが挙げられるだろう。スイスフランの買いは筆者の成功している長期ポジションの1つである。

対ロシア制裁で死にゆくヨーロッパ経済と上昇するスイスフラン
では日本の1人当たりGDPは何故低いのか? 自民党を何十年も当選させ続けているという点で国民がまともではないからである。自分がずっと奴隷をやっているから他人も奴隷をやるべきだという根性の人々と長く一緒にやっていきたいかどうかという問題である。

だから日本は建設的な投資が受けられない。ギリシャでは政府の無駄を減らすために民営化も大胆にやったが、日本ではせいぜいが郵政民営化でGoldman Sachsに金が流れてゆく程度のことである。

ギリシャでは法人減税で政府の無駄が削減され、日本では経団連に金が流れてゆく。何故同じことをやってもこれほどに違うのだろうか。
https://www.globalmacroresearch.org/jp/archives/42986

26. 中川隆[-11472] koaQ7Jey 2024年2月26日 15:10:51 : pbgdrviH3o : YTJtc21vWjc5cm8=[3] 報告
桜井万里子『歴史学の始まり ヘロドトスとトゥキュディデス』
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=16841339
27. 中川隆[-11016] koaQ7Jey 2024年4月03日 17:52:35 : JZjevIjDyM : QzcwTW1UMUxLbGs=[6] 報告
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イタリアの衰退、ユーロ発行からじり貧で欧州最下位水準
2024.04.03
https://www.thutmosev.com/archives/34345.html

イタリアの衰退ぶり

2009年から2011年にイタリアが債務危機に陥った時ドイツがお金を貸して助けたのだが、その時メルケル首相は「イタリア人は怠け者だから貧しくなったがドイツ人は勤勉で優秀だから豊かになった」と露骨にイタリアを蔑む発言をした

ところが気になって調べてみたら債務危機に陥っていたイタリアやギリシャの年間労働時間は欧州でもかなり多い方で、圧倒的に「怠け者」だったのはドイツ人でした

こんな風に人々の印象とは当てにならないものですが、イタリアは長い衰退期間の最中であり欧州の先進国と呼ばれる国の中で1人当たりGDPが最下位レベルになっています

イタリアの経済成長率は2000年代で最も高かったのが2000年の3.79%でこれが2020年までの最高記録で、21年は6,99%だったが前年はコロナでマイナス8.98%だったので実質マイナス2%に過ぎない

2000年から23年までにマイナス成長が6回、成長率1%以下が8回なので24年間で14回は成長せず全体として低調な20年間だった

その前の1980年からの20年間はマイナス成長は1回だけで1%以下も4回、20年間で15回は1%以上成長していて最高は1988年の4.03%だった

つまり1999年に欧州統一通貨ユーロが発行してからイタリアの経済衰退が始まっていて、それまでイタリア経済はうまくいっていてむしろドイツが問題を抱えていた

1990年代のドイツは西ドイツが東ドイツというお荷物を抱え込んで停滞していたがユーロ開始の2000年頃を境に回復し始めた

ユーロによって加盟各国の通貨が廃止され独自の経済政策や金融政策ができなくなり、利上げや利下げは事実上独仏英の3か国の都合で決められた

実際はドイツの経済規模が最大だったのでEUの金融政策はドイツの都合で決定され、イタリアが不況で金融緩和したくてもドイツは経済好調で引き締めるといった具合でした

イタリアは欧州統一市場にうまく対応できず、日本に近い旧態依然とした制度が多かったが、日本のように独自の経済政策や金融政策を実行できない

国債発行して公共事業をしたり給付金を出すのにドイツの許可が必要な有様で、独立性の無さはEU加盟した小国を大いに苦しめている

不器用なイタリアはユーロ成立で衰退した
だが隣のポルトガルやスペイン、オランダ、ベルギーなどイタリアより規模が小さい小国は欧州統一にうまく対応し、イタリアより1人当たりGDPや給与が多いし失業率は低い

イタリアの旧態依然の例として良く挙げられるのは移民の制限で、人口に占める移民割合はイギリスやドイツやフランスと大きく変わらないのだが社会的地位はまったく違う

イギリスでは首相やロンドン市長にイスラム系やインド、パキスタン系が次々に当選したり大手企業のCEOになっているがイタリアはそうでは無い

イタリアでは移民の労働はレストランの皿洗いや清掃などに限定されていて、例えインド最高の大学を首席で卒業しても単純労働しか認められなかった

なので他の欧州諸国と比べて優秀な外国人材を獲得する能力が極端に低く、人材獲得競争や国家間の競争で破れたと言われている

イタリアと言えばスーパーカーが有名でフェラーリやランボルギーニの工場があるが、ああいう会社はすべて同族経営で、工場の従業員はその町の出身者で占められているほど保守的です

イタリアの制度はガリレオガリレイの頃から「1人の天才」を育ててその人が社会をリードするもので、日本のように最底辺を底上げして全体のレベルを上げるのとは正反対といえる

なのでどんな分野でもイタリアは英才教育で天才と言える人がいるのだが、1人の天才以外は使い物にならない水準だったりもします

ドイツは見てわかるように全体主義的に全員一致で行動するのが得意で、2000年以降の欧州は投資国家的な手法が大成功している

スイスや北欧やアイスランドなど本業が貧しい漁村なのに富裕層の投資を集めてうまくやってイタリアの2倍の1人当たりGDPになったりしているが、そういう事をイタリアは得意ではない

ITやAIや半導体やEVや宇宙技術とかもイタリアは苦手でコンピューターやプログラミングも苦手で、得意なのはファッションやスーパーカーやイタリア料理などです

だがVWですらスーパーカーを作れるしアディダスはドイツだしイタリアが得意な事は他の国々でもできるようになったので優位ではなくなった

イタリアは若者がビジネスを始めるには規制が多かったり冷淡なので、才能ある若者は他のEUやイギリスで起業していてイタリアから出ていっている

ユーロ成立からイタリアが停滞したのは意外に古臭い制度が多く排他的なので、他のEU諸国にはあったような恩恵のほとんどを取り逃がしてしまった

排他的なのに独立志向は少なく「他の大国にくっついた方が得だ」という考えでEUに入っているのだが、オランダやポルトガルやスイスや北欧のように器用に立ち回れない

加えて出生率や出生数も欧州最下位レベルで人口減少が始まっているので、ますます衰退ぶりが際立っている
https://www.thutmosev.com/archives/34345.html

28. 中川隆[-11015] koaQ7Jey 2024年4月03日 18:58:36 : JZjevIjDyM : QzcwTW1UMUxLbGs=[7] 報告
世界の旅 _ イタリア
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=16830106

ギリシャ・イタリアの歴史と現代史
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/469.html

山下英次 _ ヨーロッパ文明の源流はイタリア・ルネッサンス
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=16824968

イタリア人が「世界で最も健康な国ランキング」1位!! その理由はオリーブ油?
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/972.html

イタリアでは高学歴移民も単純労働しかさせてもらえない
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14111201

29. 中川隆[-10808] koaQ7Jey 2024年4月26日 09:41:29 : JptZAinZdg : YTc2Uzhob2xSQ1U=[5] 報告
<■57行くらい→右の▽クリックで次のコメントにジャンプ可>
【アメリカ】ローマ帝国と現代アメリカの意外な関係!ローマ滅亡の本当の原因からアメリカの未来を考える
世界史解体新書
2024/04/25
https://www.youtube.com/watch?v=C-xB7QmTjGA

本日のテーマは「古代ローマ帝国の滅亡」でした!


ローマの歴史を一本にまとめたぜ! 人の全てがここにある
俺の世界史ch
2023/03/04
https://www.youtube.com/watch?v=amNQaM-Xoh0&t=0s

00:00 王政ローマ(前編)
10:53 王政ローマ(後編)
19:06 カミルス
23:44 サムニウム戦争
31:13 ピュロス戦争
41:26 第一次ポエニ戦争
56:03 ハンニバル戦争
1:15:46 スキピオVSハンニバル
1:38:02 第三次ポエニ戦争
1:52:38 グラックス兄弟の改革
2:17:08 マリウスとスッラ
2:44:28 第一次三頭政治
3:15:26 共和政ローマの終焉
3:31:16 元首政ローマ
3:43:20 ユリウス・クラウディウス朝の成立
3:58:20 ユリウスクラウディウス朝の破滅
4:27:33 四皇帝時代
4:41:14 フラウィウス朝
5:05:46 ネルウァ&トラヤヌス(五賢帝時代の始まり)
5:33:17 ハドリアヌス
5:58:41 二人のアントニヌス
6:28:46 コンモドゥス
6:54:05 五皇帝時代
7:08:05 カラカラ帝
7:34:12 ヘリオガバルス
8:00:06 ユリア・メサ
8:22:11 軍人皇帝時代
8:39:24 テトラルキア
8:55:07 コンスタンティヌス帝
9:11:43 背教者ユリアヌス
9:28:11 ローマの東西分裂
9:39:14 ホノリウス
10:16:56 西ローマ帝国の滅亡

王政ローマ前編が公開されたのが2020年の2月15日、この時はまだチャンネル登録者数1000人に到達していなかったんだぜ

*オクタヴィアヌスは2023年現在の教科書でオクタウィアヌスとなっているなど、ラテン語は濁音を表記しないのが2023年現在の主流となっています。動画ではネルヴァなど濁音を表記していますが、試験などの際には教科書の表記通りに書きましょう。

小学生でもわかる古代ローマの歴史【西洋史第2弾】
2020/02/26
https://www.youtube.com/watch?v=2fB67WNYB-M&t=64s

古代ローマの歴史です。超古代文明って感じです。裕福な人が貧乏人から搾取するのを国が干渉して抑えるぞ的な、近現代の資本主義っぽい具合の感じにもなってます。中国の国共内戦とかにも似てます。もう少し条件が揃っていればもうこの時代から軍事革命や産業革命が起きてたかもしれません。まさに文字通りロマンです。古代ローマはあらゆる点において完璧すぎるのでツッコミどころがほとんどなく、ネタっぽい風味を出す隙を与えてくれなかったのが少し残念でしたが、それでこそ古代ローマ文明だとも思いました。

・その他用語
帝国になる前の古代ローマ・・・共和制ローマ
偉い人たちが集まった中央政府・・・元老院
アフリカ側の国の名前・・・カルタゴ
ポエニ戦争後に土地を占有して裕福になった人たち・・・ラティフンディア
貧困層助けようぜグループの名前・・・ポプラレス
貧困層助けねえよグループの名前・・・オプティマテス
アウグストゥスの皇帝になる前の名前・・・オクタウィアヌス
アウグストゥス(オクタウィアヌス)のライバル・・・アントニウス
一回目の時の中東のデカイ王国・・・パルティア
二回目目の時の中東のデカイ王国・・・ササン朝
北方の謎の異民族・・・ゲルマン人
ヤバイ皇帝・・・コンモドゥス帝
ダメな皇帝・・・カラカラ帝
ローマ帝国を半分に分けた皇帝・・・ディオクレティアヌス

【2ch歴史】ローマ帝国が滅んだ理由がヤバすぎるwww
2chで世界史学ぶ民
2023/06/09
https://www.youtube.com/watch?v=GGA0IAkM5I4&t=6s

30. 中川隆[-10570] koaQ7Jey 2024年5月19日 09:28:04 : Jph8KZqLro : d0RON2Fyc2czaVU=[10] 報告
<■206行くらい→右の▽クリックで次のコメントにジャンプ可>
雑記帳
2024年05月18日
宮嵜麻子『ローマ帝国の誕生』
https://sicambre.seesaa.net/article/202405article_18.html

https://www.amazon.co.jp/%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%9E%E5%B8%9D%E5%9B%BD%E3%81%AE%E8%AA%95%E7%94%9F-%E8%AC%9B%E8%AB%87%E7%A4%BE%E7%8F%BE%E4%BB%A3%E6%96%B0%E6%9B%B8-%E5%AE%AE%E5%B5%9C-%E9%BA%BB%E5%AD%90/dp/4065350220


 講談社現代新書の一冊として、講談社より2024年2月に刊行されました。電子書籍での購入です。本書はローマが帝国となっていく過程を検証し、おもにローマが大国化していく紀元前3世紀末からアウグストゥスの頃までを対象としていますが、それ以前の地中海地域の一都市国家だった時代も取り上げられています。確かに、ローマ帝国の成立において、規模や勢力の点で地中海に多数存在した都市国家と変わらなかった頃の歴史は、ローマの覇権を可能としたのが何だったのか、解明するうえで重要になると思います。

 都市国家ローマの起源は曖昧としていますが、紀元前8世紀頃に現在のローマ市の中心部にラテン人と呼ばれる人々の一部が集まり、都市の原型が建設されたのだろう、と推測されています。本書は、都市国家だった頃のローマ人にとって、精霊により守護され、神々の特別の恩寵を受けた都市こそが国の本質で、周囲の土地はそれに付随するものにすぎなかった、と指摘します。初期のローマの特徴は王が存在したことで、10人の王のうち最後の3人はラテン人とは異なるエトルリア人だった、とされています。ローマで王が追放されたのは紀元前509年と言われており、共和政が始まります。共和政の当初は、全市民が平等だったわけでも、国政に携わったわけでもなく、王政期以来の少数の貴族(パトリキ)がいました。共和政当初の貴族は、元老院の議席と政務官を独占していました。政務官の権限は行政のみならず軍事と司法と宗教行為にまで及び、とくに執政官(コンスル)と法務官(プラエトル)は戦地で軍の命令権など、絶大な権限を有していました。平民は政治決定機関の民会には出席できましたが、民会も貴族が議決を左右できました。しかし、エトルリアなど周辺勢力との戦いが相次ぎ、度々危機に陥る中で、戦力として重要な役割を果たしていた庶民が権利拡大を訴え、紀元前494年には平民の利益を代表する護民官が設置され、平民のみが参加し、護民官が主宰する平民会も設立されます。紀元前367年には、リキニウス=セクスティウス法により、二人いる執政官のうち一人は平民が就任することになります。紀元前287年のホルテンシウス法では、平民会の議決には貴族も従わねばならない、と定められました。

 こうして政治および社会的には、貴族と平民との間の格差は解消されていきましたが、経済的格差の解消はさほど進まなかったようです。本書は、都市国家時代のローマが元老院と政務官と民会の三機関の相互補完と牽制で成り立っていたことを指摘します。ただ、平民から執政官に一人選出されるとはいっても、一部の富裕な家系が独占するようになり、元老院の政務官への「助言」が実質的に「命令」になるなど、共和政とはいっても現実には寡頭政だった、と指摘されています。身分闘争後に権力を有した貴族は、旧来の貴族(パトリキ)と区別して、ノビレス(貴顕貴族)と呼ばれます。しかし、平民がこうした寡頭政に本格的に抵抗するようになるのは紀元前2世紀半ば以降でした。当時のローマ人にとって市民は全員自由で平等ではあるものの、それは能力や立場に応じて権力や権威を備えている状態と考えられていた、と本書は指摘します。これは、富裕市民が祭りや娯楽を主催したり、食料を市民に施したりといった、富裕者の義務という強い観念につながっていきます。相対的な関係において、有力者(パトロヌス)が弱者(クリエンス)を庇護するわけで、この関係はパトロネジと呼ばれ、通常は特定の二者間で結ばれ、世代を超えて継承されたようです。

 上述のように地中海の一都市国家だった共和政ローマは当初から周辺勢力と戦い、他の都市国家の併合などで領域を拡大していき、紀元前3世紀半ば頃までにはイタリア半島のほぼ全土を支配化に起いて、紀元前3世紀後半にはイタリア半島外にも支配領域を広げます。ただ本書は、この時点でのローマを帝国とは評価しておらず、ローマによる「支配」の実情を検証します。ローマに敗北した都市国家の市民が、それまでの市民としての権利を奪われた代わりに、ローマ市民権を与えられたり、戦後にローマ市民の一部が移住した都市もあったり(コロニア)、ローマに敗れるか従属した後でも、自立した国や共同体であり続けたりしました。ローマは支配化の各国と条約を締結し、同盟関係となりました。そうした国々がローマに逆らうことは難しく、その意味ではローマの支配下にあったものの、法的な意味では自立していた、というわけです。ローマが支配域を拡大していく過程で奴隷も増えたようで、そうした奴隷が解放されると、ローマ市民となり、解放奴隷には制約があったものの、その子供の世代以降にはそうした制約がありませんでした。こうした奴隷出自の人々は、実際にはさまざまな面で差別を受けやすく、比較的差別を受けにくい大都市に集まる傾向があったので、ローマでも一定の影響力を有するようになっていきます。

 こうして、ローマは支配域の拡大とともに、社会が膨張して複雑化していきました。こうした状況で、紀元前3世紀半ばに起きたのが第一次ポエニ戦争(紀元前264〜紀元前241年)です。第一次ポエニ戦争は長引き、ローマもカルタゴも疲弊したものの、ローマに有利な和平条件だったことから、ローマの勝利と評価されています。ローマは第一次ポエニ戦争でシチリア島を獲得し、その後の混乱の中でコルシカ島とサルデーニャ島をカルタゴから奪い、海外支配が始まります。この海外支配は、イタリア半島の支配とは明らかに異なっており、属州とされました。属州民はローマの構成員ではあるものの、国政に参与できなかったり、ローマの裁判を受けられなかったりと、ローマ市民と同じ権利を有していないにも関わらず、納税や軍役などの義務が課せられ、税負担はローマ市民より重く、軍役では危険な任務を課せられました。属州を統治した総督はローマ市から派遣され、行政権と司法権のみならず軍権も掌握し、属州法に基づいて統治したものの、実質的に総督の裁量権はほぼ無制限でした。ただ、シチリア島のローマによる統治は当初、まだ属州法がなく、執政官も法務官もシチリア島で任務に就いていたわけではなく、後の属州の在り方とは大きく異なっていたようです。また、この時点では国内の政治体制が大きく変わったわけでもなく、本書は、ローマが本格的な帝国となっていくのは、紀元前2世紀初頭にイベリア半島に二つの属州が設置されて以降と評価しています。

 ローマの帝国化が本格的になっていく重要な契機が、第二次ポエニ戦争(紀元前218〜紀元前202年)でした。紀元前216年のカンナエの戦いでローマは大敗し、当初はカルタゴの呼びかけに応じなかったローマの同盟都市の中で、カルタゴへの寝返りも見られるようになります。しかし、カルタゴ側への寝返りはイタリア半島南部以外の地域にまで広がらず、イベリア半島のカルタゴ勢力が紀元前206年に駆逐されたこともあり、カルタゴは劣勢となり、紀元前202年にザマの戦いでローマに敗れ、アフリカ外での戦争放棄およびアフリカ内でのローマの承認なしの戦争放棄や高額な賠償金など、過酷な和平条件を受け入れることになります。ただ、カルタゴは政治的にも経済的にも文化的にも自立を維持できました。第二次ポエニ戦争の結果、ローマのイベリア半島支配は確たるものになり、二つの属州が設置されますが、その直後から、先住民集団とローマとの戦いが激化します。イベリア半島の先住民は、カルタゴがイベリア半島から駆逐され、自立できると思っていたところに、ローマの強い支配下に置かれることになったので、放棄したようです。イベリア半島でのローマの属州支配は、ローマから派遣される統治官(総督)の人気がないなど、柔軟なものでしたが、それが共和政の権力構造の基盤となっていたさまざまな原則や縛りからの解放になっていたことを、本書は重視します。こうした例外的措置が常態化していくことで、共和政の骨幹が揺らいでいった、というわけです。イベリア半島での先住民とローマ側との戦いは断続的に続き、大カトのように明らかに先住民に対して優越的態度を示し、「奴隷状態に置く」ことを考えた有力者もいましたが、紀元前171年の「条約」により、「ローマ人の友」としての立場が確立します。しかし、属州総督による搾取はより体系化して強化され、こうしたイベリア半島における属州の在り様は、拡大していった帝国としてのローマの属州を先取りするものでもあったようです。

 一旦は安定したかに見えたローマのイベリア半島支配は、紀元前150年代以降、再び動揺し、先住民とローマとの間で激しい戦いが続きます。ローマは先住民側に度々敗れながらも、最終的にはイベリア半島の属州統治を確立しますが、イベリア半島には多様な先住民集団が存在し、その一部はすでにローマとの間に安定した関係を築いて、属州民としての立場を受け入れており、ローマとイベリア半島先住民との間の関係は多様だったようです。イタリア半島を境に地中海は東西に区分でき、いわゆるヘレニズム時代以降の東側はギリシア語世界圏になっていった、と言えそうですが、帝国化していくローマは、地中海東部でも勢力を拡大し、ヘレニズム諸国の君主の中にも、ローマの権威により自分たちの立場を守ろう、との動きが見られるようになります。ただ、ローマがヘレニズム世界に属州を設置したのは起源2世紀中頃以降で、イベリア半島よりかなり遅れました。本書はローマ史における転機として紀元前2世紀中頃を重視しますが、その背景として属州での経験を挙げます。属州とされたイベリア半島がローマに莫大な富をもたらしたことなどにより、ローマの対外姿勢は変化し、「国益」のため他者と戦うことを躊躇わなくなった、と本書は推測します。本書はこうした観点から、ローマ帝国の形成を紀元前2世紀中頃と評価します。

 ローマにとって明確な被支配者である属州の拡大は、ローマ社会の変容とも関わっています。ローマの社会は肥大化し、その構造は複雑化して、さまざまな立場の人々が関わるようになります。帝国となったローマを牽引する元老院は、ローマ市民だけではなく、属州の有力者などさまざまな立場の人々の利害に配慮せねばならなくなり、さらには中小農民の没落もあり、ローマ市民のさまざまな要請にも対処する必要が出てきました。さらに、戦争とその結果として設置される属州の富が膨大なものとなったため、元老院内でも権力闘争が激化していきます。これが、「内乱の一世紀」と呼ばれるローマの危機的状況の出現の前提となりました。中小農民の没落などローマ社会の変容に対して、復古を訴えるだけではなく、現実的な改革を求める政治が登場し、グラックス兄弟はとくに有名です。ただ本書は、困窮したローマ市民の救済という点では共通しつつも、兄のティベリウスとは異なり、弟のガイウスは元老院統治体制の弱体化を意図していた、と指摘します。この「内乱の一世紀」の中で、同盟市戦争の結果としてイタリア半島の全自由人がローマ市民権を獲得し、これによりローマの都市国家としての性格は焼失した、と本書は評価します。

 ローマ共和政の根幹だった元老院統治体制はこの「内乱の一世紀」の中で紀元前1世紀中頃までに揺らいでいき、単独で権力を掌握した有力者による統治へとつながり、ついには皇帝と呼ばれる単独の権力者が出現します。この過程での重要人物は、当然カエサルとオクタウィアヌスで、まずカエサルは任期が半年の独裁官をいったん辞任した後で再任し、その後はずっと在職しました。さらに、カエサルは紀元前48年以降、紀元前47年を除いて執政官にも就任し、民会と護民官の権限を縮小しました。帝国に変質したローマではもはや共和政は機能せず、ローマ市民のみならず属州と帝国周辺の広大な地域の人々の支持が帝国の統治に必要となる、とカエサルは理解していたようです。そのカエサルが殺害されたのは、それでも共和政の存続を求める人々がローマ社会の上層に少なからずいたことを示唆しているようです。

 カエサルの没後の権力闘争を勝ち抜き、「内乱の一世紀」を終結に導いたのは、カエサルから後継者に指名されたオクタウィアヌスでした。ただ、紀元前31年にオクタウィアヌスがアントニウスを破り、実質的に単独政権を樹立しても、帝政の開始はもう少し先だった、と本書は指摘します。この時点でオクタウィアヌスの権力は、公式に帝国を統治できると認められる性格のものではなかったからです。本書は、紀元前27年に、オクタウィアヌスが内戦以降に保持していた全権と軍を元老院と市民団に返上する、と宣言し、元老院と民会によりオクタウィアヌスにアウグストゥスの添え名が贈られたことを、本書は重視します。アウグストゥスは紀元前27年に全権と軍を返上すると宣言したさいに、元老院から属州統治を要請され、とくに情勢が不安定な属州の統治を引き受け、10年間の執政官格命令権を得て、後には繰り返し延長され、最終的に無期限とされました。この過程で、不安定な属州の統治との名目でローマ軍の大半を掌握し、その後、護民官職権や上級執政官格権限や大神官職を得るなどして、紀元前2年には元老院と市民団から「国父」の称号が贈られました。この結果、政治と軍事と宗教も含めてローマ帝国全域での全権をアウグストゥスは掌握することになりました。これらの権限には、新たに創設されたものはなく、全て共和政期から存在しました。オクタウィアヌスはローマ市民と最も権威ある者として「第一人者(プリンケプス)」と呼ばれ、オクタウィアヌスを「元首(プリンケプス)」、オクタウィアヌスにより始まった政治体制を元首政と言う人もいます。本書は、こうしてオクタウィアヌスにより始まった政治体制を共和政の再建とは評価していません。それは、これらの官職の条件だった任期などの制約がもはや失われていたからです。こうした帝政もしくは元首政の成立は、ローマ帝国の誕生の結果であり、その逆ではない、と本書は指摘します。
https://sicambre.seesaa.net/article/202405article_18.html

31. 中川隆[-8966] koaQ7Jey 2024年10月01日 12:48:40 : xsS8IbBpKA : VHZwcFdDdmRQUmM=[9] 報告
【ギリシア】なぜ衰退した?日本人が知らない問題だらけの歴史!栄光の時代は古代だけ
世界史解体新書 2024/09/30
https://www.youtube.com/watch?v=2lQ4RIbS05Q
32. 中川隆[-8470] koaQ7Jey 2024年11月16日 06:53:46 : q66vsXJZt6 : cWYuVlBXZS52WWc=[6] 報告
【イタリア】南北対立の真実!経済格差が激しすぎるワケ
世界史解体新書 2024/11/15
https://www.youtube.com/watch?v=5eBSqiVU7Q8

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