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明治維新と太平洋戦争の真相
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/390.html
投稿者 中川隆 日時 2020 年 12 月 12 日 12:29:10: 3bF/xW6Ehzs4I koaQ7Jey
 

(回答先: 天皇一族の正体 投稿者 中川隆 日時 2020 年 12 月 11 日 18:23:41)

明治維新と太平洋戦争の真相


鬼塚英昭 戦争はすべて八百長 『日本の真相』



熊毛郡田布施町 (00:00:21)
大室寅之佑 (00:03:48)
明治天皇の秘密 (00:03:55)
殊にユダヤを中心とする国際金融マフィアが知り、天皇一族を操っている。(00:13:26)
秦郁彦(いくひこ)(00:13:40)
仕組まれた戦争 (00:15:35)
皇室スキャンダル (00:18:21)
大正天皇には、子種がない(00:18:39)
西園寺八郎 (00:19:26)
昭和天皇の秘密 (00:21:34)
昭和天皇の父親は、西園寺八郎 (00:22:01)
死ぬまで侍従として息子(昭和天皇)のそばにいた (00:22:23)
住友と天皇家は、血族 (00:23:04)
秩父宮は、東久邇 稔彦(ひがしくに なるひこ)の子供 (00:23:29)
天皇のための戦争(00:25:02)
戦争というものは、必ずどこかで企みがあるものなんです (00:25:04)
昭和天皇だけが、日本のストーリを全部知っていた (0:26:01)
真珠湾攻撃も大事なところで手をぬく (00:26:28)
海軍は、2年分しか石油をもってない(00:27:24)
パナマ国籍の船ならば、攻撃できない (00:28:34)
天皇が内通していた(00:31:38)
スターリンに発したい情報をつたえる (00:32:45)
天皇一族は、ゾルゲを野放しにする (00:33:15)
終戦工作と白州次郎 (00:33:39)
ヨハンセングループ (00:34:17)
日本の最高機密が、翌日には電報で全部流れていく (00:35:16)
日本は戦争をするように仕組まれていたと考えると全て矛盾がなく納得ができるんです。 (00:35:30)
弟の公一に機密情報を流してソビエトに渡せと、ソビエトを安心させて南方政策を取る訳です。 (00:35:45)
火事場泥棒なんです。(00:36:15)
こじつけ無罪論(00:36:19)
明治天皇作とされる歌の真意 (00:37:05)
第二次世界大戦の総括をやっている(00:38:21)
戦争はすべて八百長(00:38:51)
戦争は継続しなければいけない (00:40:48)
天皇が被爆に加担した(00:42:23)
白洲次郎の秘密(00:44:17)
吉田茂の秘密(00:46:20)
こころの痛みを感じない者が日本のリーダーになる これを正さなければ未来はない(00:49:21)
キッシンジャーと中曽根(00:57:00)
使い捨て人形(コンプラドール)からの反乱(01:08:35)  


▲△▽▼


鬼塚氏を中傷するコメントをネット上で見かけるが、


一、あなたが鬼塚氏の何の本を読み
二、どこの箇所を指して事実を捻じ曲げて妄想で書いていると確信を持てたのか
三、その根拠たる文献資料を示されたい。


鬼塚氏ほどあらゆる文献資料を網羅し、
かつ眼光紙背に徹するが如く読み込んでいる人を私は寡聞にして知らない。
プロパガンダをまんま信じて洗脳されている歴史作家があまたある中で、
まさに掃き溜めの鶴、恩寵、僥倖のような存在である。


鬼塚氏を中傷するコメントは、
秦郁彦がバーガミニの『天皇の陰謀』を偽書と決め付けた手法と同じ。
”バーガミニの主張に該当する資料は、杉山元メモのどこにも見つからなかった”
などとと事実無根の主張をしている。


秦は防衛庁に職員として潜入していた草である。
秦のような田布施村王朝の関係者が、国家規模の資料改竄をしていると私は思う。
日中戦争拡大の現場証言も同様である。
池田純久が近衛文麿に責任転嫁する有名な証言は、その代表例である。


田布施村王朝は実に真摯な態度で、一貫して偽史を捏造してきた。
秦や白洲次郎や松本重治などの確信犯がプロパガンダを流布し、
それに御用作家やマスコミが追随してきたが、


鬼塚氏が膨大な資料を微分積分して導いた結論は、『仮説』ではなく真実である
http://www.asyura2.com/11/cult8/msg/701.html
 

  拍手はせず、拍手一覧を見る

コメント
1. 中川隆[-9344] koaQ7Jey 2020年12月12日 12:33:23 : eIoE9QZswE : VkQxbW1yT1RGa0U=[13] 報告
鬼塚英昭とディビット・バーガミニの学説は既に定説になっています:

鬼塚 英昭とディビット・バーガミニの二人は昭和天皇の研究者として有名ですね。タブーに触れるので他の研究者はその分野は全く研究していないから、現在では二人の学説が定説になっています、既に関係者が全員死んでしまって、当時の話を聞けないので新しい調査・研究はもう不可能なんですね:


鬼塚 英昭の著書
https://www.amazon.co.jp/%E6%9C%AC-%E9%AC%BC%E5%A1%9A-%E8%8B%B1%E6%98%AD/s?rh=n%3A465392%2Cp_27%3A%E9%AC%BC%E5%A1%9A+%E8%8B%B1%E6%98%AD


天皇の陰謀 天皇裕仁はかく日本を対西洋戦争に導いた
ディビット・バーガミニ著 松崎元訳
https://retirementaustralia.net/old/rk_tr_emperor_02_contents.ht


▲△▽▼


明治維新は朝鮮系の人たちの日本乗っ取り
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/358.html

表に出始めた明治維新の真実
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/742.html

イギリスが薩摩や長州を支援して徳川体制を倒した理由は日本人を使って中国内陸部を支配するためだった
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/743.html

日本列島は欧米の侵略の拠点で日本人は手先。イギリスもアメリカも日本がアジアの国々と友好的な関係を結ぶことを許さない
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/136.html

戦前、日本の代表的輸出品は生糸ではない。アヘンだった。(メディアが絶対に書かない裏話)
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/361.html

麻薬王 岸信介
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/1170.html

昭和天皇が戦争狂になった訳
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/321.html

こんな女に誰がした (天皇陛下を恨んでね)
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/332.html

この人を見よ _ 人間の屑 福沢諭吉のした事
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/485.html

からゆきさん
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/315.html

昭和天皇はウォール街のエージェントだったので、共産主義者のルーズベルト大統領と対立して対米戦争を起こした
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/614.html

山本五十六の真実
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/1050.html

ヨハンセンと呼ばれた男 戦後最大の裏切り者 吉田茂と白洲次郎
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/1049.html

寺島英弥 引き裂かれた時を越えて――「二・二六事件」に殉じた兄よ
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/1128.html

餓死した英霊たち
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/975.html

関東軍の中枢は共産主義者の巣窟であった。
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/1055.html

近衛上奏文
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/1126.html

天皇一族は反日売国奴でアメリカ金融資本のエージェントだった
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/105.html

鬼塚英昭 日本の真相 天皇のための戦争・天皇は内通していた
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/761.html

鬼塚英昭著『原爆の秘密〔国内編〕〜昭和天皇は知っていた』
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/1051.html

原爆投下が日本を救った_ ユダヤ人とトルーマンと昭和天皇に感謝
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/327.html

ディビット・バーガミニ _ 天皇の陰謀 天皇裕仁はかく日本を対西洋戦争に導いた
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/760.html

天皇の戦争責任を暴いたバーガミニをアメリカが抹殺した理由は?
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/751.html

関東大震災とJPモルガン
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/278.html

独裁者列伝 _ 昭和天皇
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/799.html

ウォール街やシティと戦った共産主義者のフランクリン・ルーズベルト
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/1037.html

君はアジアを解放する為に立ち上がった昭和天皇のあの雄姿を知っているか?
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/312.html

2. 中川隆[-9259] koaQ7Jey 2020年12月17日 12:14:42 : SMYbfqjacQ : QnBSVDdBVUxacTI=[14] 報告
731部隊と医療被曝 _ 無事に内地に帰還した731部隊員は何をやったのか?
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/471.html
3. 中川隆[-7989] koaQ7Jey 2021年1月21日 11:20:27 : jbp26dqTF6 : dUN0QjhOZ1ZiNWc=[15] 報告


2021.01.21
COVID-19のパンデミック騒動を作り出した米英の長期戦略
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202101210000/


 COVID-19(2019年-コロナウイルス感染症)と呼ばれる悪霊が世界の仕組みを変えつつある。人びとは集まることができなくなり、生産活動は麻痺、交易は停滞、少なからぬ企業の経営が悪化して倒産に追い込まれ、失業者、ホームレス、そして自殺者を増加させている。働き、集まり、公的な情報を知る権利、あるいは表現する自由などが奪われつつあるのだ。

 ロックフェラー財団とGBN(グローバル・ビジネス・ネットワーク)は2010年5月、​「技術の未来と国際的発展のためのシナリオ」​という報告書を発表した。

 そこに書かれたシナリオによると、2012年に新型インフルエンザのパンデミック(感染爆発)が起こり、人や物資の国際的な移動が停止。その対策としてマスクの着用、公共施設やマーケットの入り口における体温の測定が強制されるとし、さらに全ての人の強制的な隔離が推奨されている。

 パンデミックに対する恐怖は人びとに基本的な人権を放棄させることになり、対策として打ち出される管理、監視体制はパンデミックが去った後も続くと報告書は見通す。そうした体制は支配者が望み、築いてきたが、パンデミックはそうしたことを促進するだけでなく、被支配者である大多数の人びとに主権やプライバシーを自発的に放棄させることになるとしている。かつて正常とされた状態には戻らないとする分析はMIT(マサチューセッツ工科大学)の​「MITテクノロジー・レビュー」の2020年3月11日号​にも掲載された。

 欧米の支配者は今回のパンデミックでルビコン側を渡った、つまり回帰不能点を超えたと言えるだろう。社会の収容所化を進め、ライバルであるロシアや中国を殲滅するしかないということだ。

 これまでアメリカはさまざまな手段で戦争を遂行してきた。2003年3月に始まったイラクへの軍事侵略は自国の正規軍が使われたが、2011年春にリビアやシリアを侵略する際にはムスリム同胞団やサラフィ主義者(ワッハーブ派、タクフィール主義者)を中心とする傭兵を前面に出している。

 しかし、南オセチアやシリアにおける戦争でアメリカやイスラエルは戦術だけでなく武器/兵器の能力でも後れを取っていることが明らかになった。アメリカが勝っていると言えそうなのは軍隊の規模くらいだ。

 アメリカは貿易や金融を使った戦争も展開、自然環境への働きかけも視野に入っていると言われているが、1990年代から急速に重要な役割を果たすようになったのはプロパガンダだろう。宣伝会社がシナリオを描き、そのシナリオに基づく幻影を有力マスコミが人びとの頭に刷り込む、洗脳するということである。

 これまでインターネットの世界では彼らの情報統制が徹底していなかったが、ここにきてツイッター、フェイスブック、ユーチューブ、グーグルといったシリコンバレーの巨大企業が検閲を強めている。それだけ私的権力の力が強くなり、ファシズム化が進んでいるということだ。

 こうした戦術は戦略に基づいて実行される。アメリカは2018年5月に太平洋軍をインド・太平洋軍へ変更、インド洋から太平洋にかけての海域を一体として扱うことを示している。太平洋の拠点は日本、インド洋の拠点はインド、ふたつをつなぐ役割をインドネシアが担うという構図を描いているようだ。日本は完全なアメリカの属国、インドも現政権はアメリカやイスラエルに従っている。問題はインドネシアだろう。

 NATOの事務総長を務めるイェンス・ストルテンベルグは2020年6月8日、NATO2030なるプロジェクトを始めると宣言した。NATOの活動範囲を太平洋へ広げ、オーストラリア、ニュージーランド、韓国、そして日本をメンバーにするというのだ。オーストラリアとニュージーランドはアメリカやイギリスの影響下にあり、日本は属国。問題は韓国だ。

 こうしたアメリカ軍やNATOの方針は19世紀にイギリスの支配者が描いた長期戦略に従っている。この戦略をまとめ、1904年に発表したのが地理学者で地政学の父と呼ばれているハルフォード・マッキンダーである。ユーラシア大陸の沿岸を支配し、内陸部を締め上げていくというものだ。

 締め上げていく三日月帯の西端はイギリス。この国が1822年から支配するようになったエジプト、1757年のプラッシーの戦いで制圧したインド、1886年から全土を占領することになったビルマを経て東端が日本だ。その三日月帯にイギリスはイスラエルを1948年に、サウジアラビアを1932年に建国させている。明治維新でイギリスが金融や技術面で日本を支援した理由は言うまでもないだろう。

 日本は1923年9月1日に起こった関東大震災の復興資金調達をJPモルガンに頼り、それ以降、その強い影響下に入った。

 この金融機関の創設者と言われているジョン・ピアポント・モルガンだが、その父親、ジュニアスはロンドンでジョージ・ピーボディと銀行を経営していた。その銀行の経営状況が悪化した際、助けたのがネイサン・ロスチャイルド。このロスチャイルドに評価され、アメリカでのビジネスを任されたのがジョン・ピアポント・モルガン。関東大震災当時は息子のジョン・ピアポント・モルガン・ジュニアの時代になっていた。

 このジョン・ピアポント・モルガン・ジュニアと結婚した相手のいとこが1932年から駐日アメリカ大使に就任したジョセフ・グルー。日本で彼が最も親しくしていた人物は松岡洋右と言われている。そのほか松平恒雄、徳川家達、秩父宮雍仁、近衛文麿、樺山愛輔、吉田茂、牧野伸顕、幣原喜重郎らとも親しく、真珠湾攻撃の後、1942年8月に離日する直前、岸信介とゴルフをしたと言われている。

 グルーが来日した1932年にアメリカでは大統領選挙があり、ニューディール派を率いるフランクリン・ルーズベルトが勝利した。その政権を倒すため、JPモルガンを中心とするウォール街の住人たちが1933年から34年にかけてクーデターを計画、ファシズム体制を樹立させようとしていたことは本ブログでも繰り返し書いてきた。このクーデターを阻止、計画の内容を議会で詳細に証言したのがスメドリー・バトラー退役少将だ。第2次世界大戦で日本は敗北するが、戦後日本のあり方を決めたジャパン・ロビーの中枢にはグルーがいた。戦後レジームと戦前レジームは基本的に同じだ。

 アメリカでグルーの仲間たちが完全に復活したのは1963年11月22日にジョン・F・ケネディ大統領が暗殺されてからだろう。リチャード・ニクソンがウォーターゲート事件で失脚した後に副大統領から大統領へ昇格したジェラルド・フォードの時代にシオニストの一派であるネオコンが台頭した。

 1991年12月のソ連が消滅するとネオコンたちはアメリカが唯一の超大国になったと考え、世界制覇を仕上げるために戦争を始める計画をたてる。これがウォルフォウィッツ・ドクトリンだ。日本もアメリカの戦争マシーンに組み込まれていく。

 ネオンコンは2001年9月11日の世界貿易センターや国防総省本部庁舎への攻撃、いわゆる9/11を利用して支配層の内部で主導権を握り、中東や北アフリカで破壊、殺戮、略奪をはじめ、ウクライナではネオ・ナチを利用してクーデターを成功させた。

 9/11でアメリカの憲法は機能不全になり、国内のファシズム化と国外での侵略戦争が本格化したのだが、ロシアで想定外のことが起こる。ウラジミル・プーチンがロシアを曲がりなりにも再独立させ、アメリカのライバルとして再登場してきたのだ。2014年にネオコン政権はウクライナでクーデター、香港で反中国運動を実行するが、これにが切っ掛けになってロシアと中国が戦略的な同盟関係に入ってしまった。

 COVID-19で始まったパンデミックで欧米の支配者は「資本主義のリセット」をするというが、これはファシズム化。そのためにはロシアと中国を殲滅しなければならない。そうした戦争を彼らは始めたのである。ジョー・バイデン政権の陣容を見ると、まずロシアとの戦争に力を入れそうだ。

https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202101210000/

4. 中川隆[-7757] koaQ7Jey 2021年2月03日 10:47:38 : HOrFCQMYeE : QzVQOWd1WExGdnM=[7] 報告

2021.02.03
米国が東アジア侵略の拠点と考える日本、大陸の橋頭堡と考える韓国の不協和音
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202102030000/


日本は明治維新以来、アングロ・サクソンの影響下にある。地政学の父と呼ばれている地理学者のハルフォード・マッキンダーは1904年に発表した論文の中で、ユーラシア大陸の沿岸を支配し、内陸部を締め上げて最終的にはロシアを制圧するというプランを示していた。彼はイギリスの支配グループの所属、そのグループのプランをまとめと考えられる。

 イギリスが薩摩や長州を中心とする勢力に肩入れして「明治維新」と呼ばれるクーデターを成功させ、明治政府に対して技術や資金を提供したのは、侵略の手先を育てることが目的だったのだろう。薩長政権は1872年に琉球を併合、74年に台湾に派兵、75年には江華島事件で朝鮮王朝に揺さぶりをかけ、94年から95年にかけては清(中国)と戦争、マッキンダーが論文を発表した1904年にはロシアと戦争を始めた。

 明治維新以降、日本を支配してきた勢力の背後にはアングロ・サクソンが存在、日本人を大陸侵略の手先に提供することで彼らの地位と富は保障されてきた。侵略を受け入れさせるため、日本では東アジアを貶める「反アジア教育」が徹底され、その影響は現在も残っている。

 日露戦争後、1917年11月にロシアで十月革命を経て社会主義の看板を掲げるソ連が誕生すると、日本はイギリス、アメリカ、フランスと共同で軍事介入した。1922年に日本軍は略奪物資を携えて帰国するが、1941年7月の関東軍特種演習までソ連侵略の意思は持ち続けている。

 その後、日本軍は石油を求めて東南アジアへ向かい、ハワイの真珠湾を1941年12月7日午前8時(UTC7日18時)に、またマレーシア北端の港町コタバルを12月8日午前1時(UTC7日17時)にそれぞれ奇襲攻撃してイギリスやアメリカと戦争を始めた。それでも日本の一部支配層はアメリカの金融資本や石油資本と関係を維持している。

 日本とウォール街との関係を象徴する人物がジョセフ・グルーだということは繰り返し書いてきた。1932年から駐日アメリカ大使に就任、松岡洋右、松平恒雄、徳川家達、秩父宮雍仁、近衛文麿、樺山愛輔、吉田茂、牧野伸顕、幣原喜重郎、岸信介らと親しく、皇室にも太いパイプを持っていた。1945年に日本は降伏するが、戦後日本のあり方を決めたジャパン・ロビーの中枢にはグルーがいた。

 日本列島、南西諸島、台湾をつなぐ弧で大陸を封鎖、朝鮮半島に橋頭堡を築くという戦略をアングロ・サクソンは明治時代から現在に至るまで維持している。アメリカは韓国が自立することを阻止するつもりだろう。

 アメリカは2018年5月に太平洋軍をインド・太平洋軍へ名称を変更、この海域を統括して支配しようとしている。太平洋側の拠点を日本、インド洋側の拠点をインド、そしてインドネシアで両海域をつなごうという構想。イギリスの植民地だったインドにはそれなりの支配システムをアングロ・サクソンは持っているだろう。問題はインドネシア。ここでは数十年にわたり、イスラム教徒をワッハーブ派へ改宗させる工作が続けられている。アメリカはワッハーブ派をミャンマーのヤカイン州、フィリピンのミンダナオ島、中国西部の新疆ウイグル自治区へも送り込んできた。

 ロシアや中国との関係を強めてきたタイでアメリカの手先になっているのはチナワット家を中心とする勢力。2014年にクーデターで倒されたインラック・チナワットやその兄のタクシン・チナワットはその一族だ。この一族はブッシュ一族と深く結びつき、ジョージ・H・W・ブッシュが幹部のひとりだった巨大ファンドのカーライル・グループとも関係が深いとされている。アメリカ軍が属国の軍隊を引き連れて2003年3月にイラクを先制攻撃した際、タクシンは軍部や国民の意思に背いてイラクへ派兵している。

https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202102030000/

5. 中川隆[-6969] koaQ7Jey 2021年3月02日 10:34:06 : FnXfRqdhm6 : NHdEMUozR20zbHc=[15] 報告
昭和恐慌と子殺し 2021年03月01日
http://tokaiama.blog69.fc2.com/blog-entry-1419.html

 大恐慌といえば1929年のニューデール恐慌だが、これが日本に波及した「昭和大恐慌」について語り継がれたものは少ない。我々の世代ですら、何が起きたのか知らない者が多い。

 昭和恐慌とは何か?
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%AD%E5%92%8C%E6%81%90%E6%85%8C

 1930年〜1932年くらいまで続いた昭和最大の不況だが、満州事変による中国侵攻の軍事特需が生まれて事実上収束した。
 しかし、この不況の本質は、台湾・朝鮮を領土化した日本政府が、1930年(昭和5年)の大豊作時に、植民地である台湾・朝鮮から米を大量に輸入したことにより、日本本土の農業が壊滅状態に陥り、農村地方の民衆生活を激しく崩壊させたことにある。

 いったい、何が起きたのか?

syouwakyoukou01.jpg
 


 ニューデール大恐慌は、生糸市場を直撃したので、日本の農村で生糸に依存した生活を行っていた土地では、ほとんど収入が失われ、維新以来最悪の貧苦に見舞われた。

 語り継ぐ戦争 貧しい漁村、子殺しの悲劇 エッセイストの川口祐二さん 2018/08/16
 https://www.youtube.com/watch?v=cH5SMjcYqLo&ab_channel=%E6%9C%9D%E6%97%A5%E6%96%B0%E8%81%9E%E7%A4%BE 

 「三重県の漁村の女房たちは、亭主との間に出来た子供を間引した廉(かど)で、1小隊ほども法廷に立たされた」
 この村のことと違うかな。ピンときました。

 尋常小学生のころ、母に尋ねたんです。学校で学年別に整列すると、僕らは90人いるのに、1年上の31(昭和6)年生まれだけが、半分くらいしかいない。「なんでかな」。すると、母が「実はな……」と教えてくれた。

 貧しい母親たちは、産んだばかりの赤ん坊を殺して油紙に包んで海に流した。それが波で押し返され、見つかった。産婆も関係しており、姉の同級生の母親も摘発された、と姉からも聴いた。

 その前からあったが、31年が不景気のどん底でひどかったらしい。満州事変の年ですね。当時、今と違って魚はとれたが、値段が安く、輸送手段が乏しかった。人力で荷車を引き、半日がかりで伊勢まで運んだそうだ。

 僕は何とも言えない気持ちになった。事件のころ、僕も母のおなかに入っていたわけで、もう半年早く宿っていたら、同じ運命をたどったんだろうか。何しろ僕は7人きょうだいの一番下でしたから。

 農地もわずかしかなく、都会へ働きにいくほか、海外への出稼ぎも多かった。志摩郡に仕事を紹介する会社があり、うちも姉2人と兄の3人がフィリピンへ渡った。看護師になったり、ビール会社で働いたりした。

 一番上の姉は開戦直前、2人の子どもを連れて帰国した。現地では「アメリカと戦争になるらしい」といううわさが流れていたそうだ。大戦末期、残ったその夫や兄は現地召集、2番目の姉も米軍に追われて逃げ惑った。タガログ語ができたので、イモを分けてもらい、生き延びた。

 《嬰児(えいじ)殺し事件》 1933(昭和8)年10月24日付の伊勢新聞などによると、三重県南勢地方の村で摘発され、後に18人に執行猶予付きの有罪判決があった。
 三重県警察史(66年)も「生活上の苦悩から惨忍(ざんにん)な犯行を犯す者も増加した」としてこの事件に触れ、「被疑者三十余名、三十数件の嬰児殺事件を検挙」とある。
*******************************************************************
私が、昭和恐慌における娘の身売りや嬰児殺しの事実を知ったのは、もう半世紀以上前に夢中になって読んだ民俗学者、宮本常一のルポであった。
 宮本は全国の貧しい農漁村を歩いて、直接取材した膨大な民俗学ルポルタージュを遺した。未来社から全集が出ているが、高価なので買えず、私は図書館に通って貪り読んだ。

 今は、その内容を具体的に示すことができないが、鮮明に記憶しているのは、東北地方の農家では、戦後、1960年代くらいまで、子供を育てる見通しが立たないとき、母親が産んだ後の嬰児を川に沈めて死なせるというルポがあったことだ。
 上に挙げた伊勢地方では、戦前の1933年に30余名の嬰児殺しが摘発されているが、東北地方の奥地では、昭和30年代でも、育てられないための子殺しは普通に起きていた。

 昭和恐慌では、生糸だけが唯一の現金手段という地方の村が無数にあって、それが大恐慌で突然ゼロになり、多くの人々が途方に暮れ、子殺しをするしかなかった。
 だから1931年(昭和6年)生まれは、特別に人数が少ないということになった。

 上の説明を補完する出生数推移情報を探したが、昭和恐慌による「子殺し」を示す統計データで分かりやすいものは見つからなかった。全国の大数データに埋もれて、極度に貧しい農村の特異性を示すデータが出てこない。
 しかし、昭和恐慌を題材にした人間ドラマは少なくない。「おしん」は、とりわけ説得力をもって当時の凄惨な現実を教えてくれた。

 現在、「子殺し」は、殺人と同等の扱いとして、事情があっても情け容赦なく犯罪として扱うようになっている。
 
  https://news.yahoo.co.jp/articles/7f4707e3443e4428041c17003ea6837c4a22c775

  https://gendai.ismedia.jp/articles/-/50695

 私は、これもおかしな話だと思う。子殺しをするには、必ず生活が追い詰められたという事情を前提にしている。好き好んで趣味で子殺しをする者は滅多にいないだろう。
 日本政府は、生活に追い詰められた彼らを一切支援せず、新自由主義の「自助努力」だけを押しつけて、子殺しや一家心中に向かう人々に対して、非人情で冷酷極まりない対応を行い、処罰だけ熱心だ。
 こういう思想の連中には、いつか天罰が下ることを望む。

 昭和恐慌で、冷害凶作も重なって、もっとも残酷な被害を受けたのは東北地方だが、秋田県・岩手県などで、その凄惨な状況が記録されている。
 http://www.pref.akita.jp/fpd/rekishi/rekishi-index.htm

 昭和恐慌とあいつぐ凶作で被害を受けた村の実態を「凶作地帯をゆく」(昭和9(1934)年10月26日付け秋田魁新聞)と題する現地レポートには次のように記されている。

 「秋晴れの鳥海は清らかな山姿を、紺碧の空にクッキリ浮かせている。
 しかし、山裾にある町村は、未曾有の凶作に悩み、木の実・草の根、人間の食べられるものは全部刈り取り掘り尽くし、米の一粒だに咽喉を通すことのできぬ飢餓地獄にのたうつ惨状、秋田県由利郡直根村百宅部落のごときは、空飛ぶ鳥類さえ斃死したかと思われ、400名の部落民からは生色がほとんど奪われ、天に号泣し地に哀訴の術も空しく飢え迫る日を待つのみの状態である。(アマ註・由利本荘市直根を調べたが見つからないので集落が消えたようだ)

 同部落は戸数100戸、作付け反別80町歩、これは冷害のためほとんど全滅だ。同分教場には90名の児童を収容しているが、欠食児童は3割に当たる30名、欠席者は非常に多く、1日平均20名、また早引きするものもかなり多い。

 これは家人の働きに出た後の留守居や、でなければ山に入って栗・トチ・山ぶどうなどの木の実、山ゆり・山ごぼう・フキなどの草の根・木の葉を集めるために欠席する。糧食なくして何の教育ぞやの感を深くさせられる。

 垢に汚れたヨレヨレのボロ着にまとった赤児をおんぶして、授業を受ける児童の多いこと、一人泣き出せば又一人、背の赤児はまだしも自分でもママ末に負えなくなって泣き叫ぶ子守りもいる。

 こうした名目ばかりの義務教育を終えて、やっと15,6になると、雀の涙ほどの前借金で丁稚とか酌婦に売り出される。
 生まれ落ちて布団もろくろくないワラの中に育ち、食うや食わずにやっと6年を終えたら、知らぬ他国に涙の生活、彼ら山間奥地の住民は、永劫に光を持たぬ運命を約束されてきた。」

売られゆく娘たち
 凶作が決定的となった昭和9年、県保安課がまとめた娘の身売りの実態によると「父母を兄弟を飢餓線より救うべく、悲しい犠牲となって他国に嫁ぐ悲しき彼女たち」の数は、1万1,182人、前年の4,417人に比べて実に2.7倍にも増加している。
 身売り娘が多かったのは、秋田の米どころと言われる雄勝・平鹿・仙北三郡であった。
 娘の身売りは人道上のこととして、大きな社会的関心を呼び、これを防止しようと身売り防止のポスターを作って広く呼びかけた。
 しかし、小作農民の貧しさの根本的解決がない限り、娘の身売りの根絶は困難であった。
**********************************************************
 引用以上

 私は、この記事を見て憤った。当時、満州事変を境にして、日本軍部は軍備増強に突き進み、太平洋戦争敗戦までの間、現在価値にして、実に4000兆円を超える資金を投じた。その多くが、アヘンやヘロインを諸外国に売りさばいた密売資金だったが。
 東北の悲惨な子殺しや身売りは、そのうち、わずか0.1%でも救援に回せば、瞬時に解決したものだ。

 だが、日本政府・軍部は、日本国民の窮状に背を向けて、戦争への道を突っ走っていた。だから、すでに、この段階で、第二次世界大戦の敗北は必至だったのだ。

 今、コロナ禍で、昨年1月当時の予想からすれば、ちょっと信じられないほど深刻な事態に突き進んでいる。みんな、まだ事態の深刻さを見ていても、それがどれほど恐ろしい、残酷・苛酷な事態を招くのか、ピンときている人が、ほとんどいないのに驚かされる。
 もう、数ヶ月先にも、ワクチンが普及し、事態が収まって元通りに社会が動き始めると勘違いしている人が大半なのだ。

 事実は違う。コロナ禍は、まだ始まったばかりだ。多重感染者が増えれば、ウイルスの突然変異による毒性、感染力が上がり、これまでとは桁違いの被害が出る。
 百年前のスペイン風邪のときがそうだ。
 1918年から始まったといわれるが、最初はたいした症状ではなかったが、二年目の多重感染者が著しい毒性の変異株を生み出し、集落を絨毯爆撃するほどの死者が出始めた。
 当時20億人だった地球人口の全員が感染し、うち一割が死亡した。

 RNAウイルスは、もの凄い変異を繰り返すうちに、毒性を弱めて、一種の「自家中毒」を起こして軽い病気に変わってゆくが、スペイン風邪は4年目にそうなった。
 もっとも激しい毒性の暴風は2〜3年目だ。そのときは健全な免疫を持った屈強な若者や、地の果てのエスキモーまで感染死亡させられた。
 新型コロナ禍は、まだその段階に至っておらず、これから、それがやってくる可能性が大いにある。
 日本政府・厚労省の対応が、あまりに非科学的で、愚かすぎるからだ。

 このままでは、私は昭和恐慌なみの、恐ろしい経済崩壊が避けられないと思う。金が動くには人が動かなければならない。その人が動けないのだから、金が回るはずがない。
 もう、新自由主義などという馬鹿げた迷妄思想の出番ではない。金儲けだけが人間最高の価値と決めつけたフリードマンは、もはや法王とともに地獄に墜ちている。

 変わって、この社会に登場してくる思想は、「共同体」だとくり返し書いている。「金儲け」という利己主義などに何の価値も見いださず、「人の笑顔を食べて生きる」利他主義の価値観の人々が社会の中核を占めるようになる。
 そうでなければ、日本社会は滅亡するしかない。共同体思想だけが、日本の未来を拓いてゆく。

 もしも、人が「共同」を失ったなら、昭和恐慌と同じことが起きると私は思う。もう子供たちを育ててゆけない。かといって新自由主義の政府は、自助だけを要求して、絶対に民衆を助けない。
 すると最期に犠牲になるのは、生まれてくる子供であり、「未来」そのものなのだ。
 昭和恐慌が何をもたらしたのか?
 それは太平洋戦争なのだ。日本人450万人が死亡させられたといわれる、あの戦争だ。
 
 もしも、今のまま未来への適切なビジョンが示せなければ、再び世界戦争に翻弄されるだけだろう。

http://tokaiama.blog69.fc2.com/blog-entry-1419.html

6. 中川隆[-6890] koaQ7Jey 2021年3月06日 15:40:21 : aEPWmwZz6g : ZGV2Z1VubE9GcFE=[11] 報告

戦前の”経済格差”エリート会社員は高収入でモテモテだった
http://www.thutmosev.com/archives/73769851.html


戦前のサラリーマンはこんな恰好で銀座を闊歩していたが、10年後に防空壕で逃げ回る破目になった

引用:http://nakaco.sakura.ne.jp/sblo_files/nakaco/image/kankan5_04.jpg

戦前のサラリーマン社会

戦前というと何もかも暗く陰気で、閉鎖的で人々は困窮していた、と「知識人」たちは言いたがります。

そうしておいた方が自分たちが立派に見えるからそう言うのだが、事実ではないし戦前の人を貶めている。

昭和6年(1931年)頃までの日本では、消費経済や自由主義や平和主義が盛んで、大正デモクラシーと呼ばれています。


昭和5年ごろの世帯平均収入は年800円程で、日本郵船や一流企業の課長クラスは1万円を超えていました。

現在の世帯平均所得は540万円なので、当時の大企業の課長は現在の価値で6,750万円の高所得者でした。

一流企業の中でも三井や三菱はさらに別格で、ある重役の年収は100万円以上、現在の価値で70億円以上だったと記録されています。


するとこうした財閥企業の創業者一族ともなると、一族の収入は年間数百億円にも達していたと推測されます。

当時のアンケートでは女性にもっとも人気がある職業は一流企業のサラリーマンで、次が公務員、医師や弁護士はそれより下でした。

戦前には「サラリーマン」はホワイトカラーの事務職、手が汚れない仕事をしている人を指し、工場作業員は正社員でもサラリーマンではなかった。


油まみれ、泥まみれの作業員に対して、事務職のサラリーマンは女性から見てカッコ良く、おしゃれに映っていたようです。

労働者が日の丸弁当を食べていた時代に、東京のサラリーマンはランチは外で、女子社員を誘って洋食を食べていました。

丸の内のビル街には寿司屋、洋食屋、和食に定食など外食店が所狭しと並び、大変賑わっていたそうです。

儚かった戦前の自由経済

当時のメニューは寿司、カレーライス、丼物、パスタ、パンとコーヒーなどが、現在の価値で1,000円以下でした。

コーヒーと軽食のモーニングのようなのも既に有り、食事の半額の、現在の500円以下程度の値段でした。

都会ではこうした欧米風の暮らしをしていた一方で、9割以上の農村では江戸時代とあまり変わらず、人力と牛馬が日の出から日没後まで重労働していました。


この格差が戦前の日本経済を破綻させた原因であり、東京のおしゃれなサラリーマンはバブルの浮き草のような存在でした。

戦前は凄まじい格差社会で、人件費は安かったがそれ故に経済は脆弱で、米大恐慌が起きると一たまりもありませんでした。

1929年(昭和4年)にNYで大恐慌が起き、1931年(昭和6年)に満州事変が起きてから、日本人の生活は急速に悪化した。


兵士の家族が借金のカタに売られたりしたため動揺し、1936年(昭和11年)には軍部がクーデターを起こし(226事件)日本は軍事独裁に移行しました。

おおまかに言って昭和10年(1935年)から軍事態勢に移行したが、昭和一桁は戦争と無縁の、平和な時代でした。

大正時代から昭和1桁までは自由競争や自由経済、平和主義や共産主義がブームで、現代と似た時代でした。


父親がサラリーマンの家庭は裕福で、子女らもおしゃれな恰好をしていた
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引用:https://stat.ameba.jp/user_images/20140715/18/biz-suitstyle/d1/67/j/o0500050013004042213.jpg

軍事経済はなぜ失敗したか

好景気の時には自由主義はうまく行っていたのだが、米大恐慌で不況になると、軍人の姉妹が人買いに売られる状況になりました。

行き過ぎた自由主義経済の負の部分が表面化し、日本陸軍の若手将校らが決起してクーデターを起こし、民主主義時代は終了しました。

昭和の軍国主義の原点は、大正時代の行き過ぎた自由主義にあり、破綻した経済を軍部が主導して再建しようとしました。


軍部主導の経済は最初はうまく行っていたのだが、大陸への領土拡大と入植によって成長するプランは、上手く行きませんでした。

例えば朝鮮では急速に人口が増えたため、食料や予算が不足して日本から送る有様で、利益どころか日本の負担になりました。

満州国も同様で開発に膨大な投資をしたが、終戦まで何の利益も上げませんでした。


日本軍は「領土さえ増やせば経済は発展する」と考えていたが、現実には増えた領土の人を養うために、国力を浪費しました。

満州を開拓すれば日本の食糧危機は解決すると言っていましたが、逆に満州を開拓し維持するために、日本の資産が使われました。

これが軍人が考えた経済の限界で、最初は上手く行っていたとしても、早期に軍事体制を終わらせるべきでした。

http://www.thutmosev.com/archives/73769851.html

7. 中川隆[-6507] koaQ7Jey 2021年3月18日 15:02:50 : dzHoUYWlyY : RjZTcGp4cTNLSms=[10] 報告
日本が、世界の暗雲のなかに翻弄されはじめた1930年代、それまで大きな希望の光だった生糸産業がニューデール恐慌によって壊滅し、娘たちは身売りを強いられ、東北の田舎では餓死者も続出した「昭和恐慌」が始まった。
 http://tokaiama.blog69.fc2.com/blog-entry-1419.html

 1898年、後藤新平が台湾総督府総務長官に就任すると、アヘンを専売化し、濫用防止の名の下に、大規模なアヘンの密売を主宰することで日本軍資金を調達しようとした。

 二つの事象には30年余の時差があるが、実は、これらが人類最悪の太平洋戦争を示唆する前兆だった。

 後藤新平は国家が麻薬によって大儲けを企てる先駆者となり、その莫大な利益が戦前の巨大な軍備資金となった。

 そして昭和恐慌は、底辺の民衆を極限まで貧しくし、あたかも戦争遂行が貧しさから解放される道筋であるかのように、人々を洗脳していった。

 だから、昭和恐慌と後藤新平・里見甫・岸信介らの麻薬密売こそが太平洋戦争を突き動かした原動力となった。

 後藤は、死の直前に、正力松太郎の大スポンサーとなって、読売新聞を買収させ、彼を大政翼賛会会長に就任させ、岸や笹川、児玉らとともに、戦争を下支えする世論誘導の機関として機能させた。

 正力の狙いは、戦前のヘロインから、戦後は「核開発」へと変化した。
http://tokaiama.blog69.fc2.com/blog-entry-1436.html

8. 2021年3月18日 15:04:53 : dzHoUYWlyY : RjZTcGp4cTNLSms=[11] 報告
“大風呂敷”こと侵略の鼓吹者、後藤新平の阿片商売
http://www.jca.apc.org/~altmedka/ahen-gotou.html

帝国主義政策のイデオローグだった
元台湾総督府民政長官
 後藤新平(一八五七〜一九二九)は、水沢藩出身で、有名な幕末の蘭学者、高野長英の親族である。そのような血筋の縁もあってか比較的に国際的視野がひろく、日本の帝国主義確立時代の代表的政治家として位置づけられている。

 あだなは「大風呂敷」だった。大仕事にかかわった実績もあるが、ハッタリを利かせる面も強かったのであろう。政治的な最高位は、ともに副首相格の外務大臣、内務大臣である。晩年には伯爵の位をえた。本書では数ある評伝のなかから、後藤の政治的業績の特徴とメディアの関係を中心にして、ごく一部のみを要約紹介する。[中略]

 後藤は、須賀川医学校を卒業して医師となり、愛知県立病院長を経て内務省に入る。一八九二年には、現在ならば厚生省の事務次官に当たる衛生局長になった。その間、三〇代前半にはドイツで医学を学ぶが、当時のドイツは、その中心をなすプロイセンがナポレオン三世のフランスをやぶって、こともあろうに、敵地のパリの王宮で念願の統一ドイツ帝国の建国を宣言したばかりである。いかにも侵略的な、武力を誇る風潮の国柄であった。

 伝記の『後藤新平』(1)〜(4)は、死後に、後藤新平伯伝記編纂会が各界有志によってつくられ、女婿の鶴見祐輔(一八八五〜一九七三)が編著者となって作成したものである。その(1)によると、ドイツでの経験が後藤の政治家としての後半生を定めるものであった。ドイツ留学中のエピソードの紹介によると、後藤は、医学上の研究よりもむしろ、おりから進行中だった統一ドイツ帝国におけるビスマルクの国家建設に影響を受けるところが大だったようである。しかも、本人の弁によるとビスマルクから直接、つぎのようにいわれたというのである。

「君は医者というよりも、どうも政治に携わるべき人物に見える」

 なにしろあだ名が「大風呂敷」だから、いちいち本人のいうことを鵜呑みにするわけにもいかないが、帰国後の後藤は事実、近代政治家としての道を歩む。

 後藤は、明治型の閥族政治を改革する実務主義的な近代政治家となった。しかし、それは同時に、おりからの大日本帝国の海外侵略を効率的に推進する役回りを担うことでもあった。

 以下、今後の研究のために、主要な資料を紹介しつつ、後藤の正体に迫ってみたい。

 数多い評伝のなかには、著者などの詳細は不明だが、『新領土開拓と後藤新平』という題名の本もあったようである。本人の講演録には『日本植民政策一斑』とか『日本膨脹論』といった物騒な題名のものもある。この二つの講演録については、その合本が国会図書館にあった。『日本膨脹論』だけの初版は講談社から出ていたようだが、同じ講談社から出た後藤の別の著作『政治の倫理化』の背表紙の広告欄に、「たちまち九版、徳富蘇峰激賞」などと書き立てられている。内容は、なんと、年齢的にも時代的にも後輩のヒトラーが顔負けするほどの、バリバリの日本民族優秀説である。[中略]

 これまでに流布されている説によると、一八九五年に終わった日清戦争後、陸軍の帰還兵士約二三万人の検疫事務を、内務省衛生局長として担当した際、後藤が時の陸軍次官、児玉源太郎から、その行政的手腕を見込まれたということになっている。しかし、のちほど示すように後藤自身が同時に、別ルートで台湾問題の「意見書」売りこみを図っている。それはともかく、台湾総督になった児玉は一八九八年、弱冠四二歳の後藤を台湾総督府民政局長に抜擢した。のち改制で同長官となる[中略]民政長官の職制に関するかぎりでは、途中で改制されたため、名実ともに後藤が初代である。[中略]

 後藤は、台湾総督府初代民政長官を皮切りに、以後、満鉄初代総裁、外務大臣、内務大臣などを歴任した。植民地政策の総合参謀本部、満鉄調査部をも創設した。『台湾統治救急案』における「調査研究」の重視については、『岩波講座/近代日本と植民地』(3)の注釈にも、つぎのような経過が記されている。

「後藤新平は岡松参太郎(京都帝国大学教授)を招き、大規模な台湾旧慣調査を実施した。その一連の調査研究成果は日本の近代中国研究、植民政策、法制史、文化人類学の発展の基礎をつくることになる」

 このような調査研究重視の姿勢は、のちに記す満鉄調査部や「大調査機関設立の議」の建白へとつながる。『満鉄に生きて』の中で伊藤武雄は、つぎのように回想している。

「旧慣調査については、後藤新平の文化センスと一般に理解されていますが、そもそもの発案者は大内丑之助という人の創案でした。この人物は日清戦争のはじまるすこし前、ドイツに留学。ドイツの植民政策について勉強し、その奥義を究めるため、植民の実務機関にはいり、実際的事務に携わってみたこともあるという経歴の持主で、帰国後、明治三一年、台湾の民政長官に赴任しようとしていた後藤新平に面会を求め、植民政策のあるべき姿について説き及ぶこと数時間。後藤はかれを台湾に随行することになった人だそうです。その船中『植民行政意見』として脱稿。後藤に提案した意見書中に、植民地統治に、その土地の旧慣調査の欠くべからざるゆえんが委曲をつくし、その具体的方法にまで及んで書きつらねてあったとのこと。後藤はこれにしたがい台湾に着くと、京都大学教授岡松参太郎をよんで、土地調査事業にさきだって旧慣制度の調査を委嘱することにしました」

 後藤はのちに、この大内丑之助と岡松参太郎を満鉄に呼びよせている。後藤の場合、「生物学の原理」の提唱とか「旧慣」調査研究の重視とかは、決して現地住民の生命や意志の尊重を意味するものではなかった。要するに、「彼[敵]を知り」という孫子の兵法にもとづく、戦いの勝利への原則にしかすぎなかったのである。

「阿片漸禁」による「専売」で「百六十万円の収入増」立案
 さらに重大な問題が、巧みに隠蔽または偽装されたまま、最近まで事実上、アカデミズムに無視されてきた。後藤らは台湾の産業開発に先んじて阿片専売による巨利を企み、成功していたのである。

 阿片の吸飲は日本国内では厳禁だった。中国本土でも禁止運動が広がっていた。それを知りながら、後藤は、台湾では阿片を禁止せずに「漸禁」の専売政策を実施し、「医療用」に専売したのである。「漸禁」の名による阿片許可の政策は、財政目的だけではなくて、現地人を阿片漬けにし、反抗を押さえる目的をも合わせ持っていた。イギリスと中国の阿片戦争の例を引くまでもなく、阿片は歴史的に、植民地支配の根幹としての役割を果たしてきたのである。

 しかも後藤は、実は、一般に流布されている経歴の説明とは違って、いきなり「民政局長」に任命されたのではなかった。その二年前の一九八六年に「台湾総督府衛生顧問」になっていたのである。そうなった理由は、そのさらに前年の一九八五年、内務省衛生局時代に、内務大臣と首相兼台湾事務局総裁という立場の伊藤博文に対して、大変な長文の「台湾島阿片制度施行に関する意見書」を提出していたからであった。

 後藤がまとめた阿片「漸禁」政策は、実は、かれの創意になるものではなかった。すでに台湾総督府の前任者から、阿片を厳禁すると、現地の反抗を押さえられないという意見が上がっていた。

 現地の中国人社会の実情は、本来の台湾人に阿片を売り付けることで成り立っているような、一種の植民地型の経済支配であった。さきに記したように、「地主などの上流層を宴会政治で籠絡した」と表される警察型の支配政策は、現在も日本国内で続いている警察と暴力団の馴れ合いのようなものである。「上流層」には、阿片窟のボスや、暗黒街の帝王などが含まれていたに違いない。/p>

 後藤の上にいた伊藤博文は、権力政治家としても帝国主義者としても、さらに筋金入りの先輩だった。『後藤新平』(1)には、なぜか記されていないのだが、発見できた限りでもっとも古い評伝、『後藤新平論』によると、一九八六年に後藤は、伊藤博文や台湾の二代目の総督、桂太郎らに随行して台湾に渡っている。同年に「台湾総督府衛生顧問」となり、その二年後に、台湾総督府民政局長に任命されるという順序である。

 もう一つ、やはり鶴見の『後藤新平』より古い評伝、『後藤新平一代記』によると、後藤は、台湾の阿片問題以前に児玉の紹介で伊藤と会い、『日本新王道論』と題する政策を提言している。台湾の阿片政策については、大蔵大臣や文部大臣らの有力閣僚の猛反対があった。そこで伊藤が、旧知の内務省衛生局長の後藤の、実務家としての献策を入れるという陣立てで、閣内の反対意見を押さえ込んだというのが、ことの真相なのではないだろうか。

 伊藤博文(一八四一〜一九〇九)は、長州閥の長老であるが、一八八二年にドイツ帝国統一以前のプロイセンで憲法や諸制度の調査に当たっている。その点でも後藤の先輩である。伊藤は、首相として日清戦争を推進し、元老として日露戦争をバックアップした。韓国統監府の初代統監として保護国化、併合を強行し、ハルビン駅頭で韓国の独立運動家、安重根に撃たれて死んだ。安重根は、現在の南北朝鮮で最高の英雄として尊敬されている。拡張主義者の伊藤が後藤の献策を入れる形で、台湾の阿片「漸禁」政策を強引に決定したという経過の裏には、日露戦争の戦費をユダヤ財閥のロスチャイルド家に仰いだような、日本帝国主義の戦争経済の懐勘定が潜んでいたという疑いが濃厚である。

 阿片問題は、台湾支配のための政策、および財源として決定的な重要性を持っていた。『後藤新平』(1)には、ご都合主義の持ち上げであるが、非常に詳しい記述がある。「台湾の阿片問題」の項は、二四頁にもおよんでいる。当人側の基本資料にさえ、それだけの材料があるのに、なぜか類書には阿片問題が記されていないことが多いので、その点を、ここで厳しく指摘しておく。

 たとえば『岩波講座/近代日本と植民地』(3)では、後藤が台湾に渡る以前に『台湾統治救急案』をまとめていた経過を記している。さらには、後藤の植民地経営の根本に「社会資本整備」があったことを、その後の満鉄経営、東京市長としての都市計画などとの関連で考察している。だが、そこには、「阿片」問題ばかりではなく、「文装的武備」論の指摘も皆無である。これでは到底、批判的研究とはいいがたい。非常にアカデミックに見える岩波書店編集の「講座」にも、江藤総務庁長官流の「いいこともした」放言を許す「官学」の限界が、典型的に見られるのである。

 短い記述にもかかわらず、後藤と阿片専売の関係を明確に指摘しているのは、在野の研究者、木元茂夫がまとめた『アジア侵略の一〇〇年/日清戦争からPKO派兵まで』(社会評論社)である。同書では、さきに記した長文の「台湾島阿片制度施行に関する意見書」を、つぎのように要約紹介している。

「阿片輸入税は、八十万円にものぼるもので、その需要の巨額なことがわかる。これを政府の専売とし、禁止税の意味で、この輸入税額に三倍の価格を加え、阿片特許薬舗で、政府より発行の通帳持参の者に、喫烟用として売渡すことにすれば、漸次その需要者を減らし、青年子弟をして、その悪習に陥ることを防ぐことに効果があり、国庫はさらに百六十万円の収入を増加することができる」

 当時の台湾で消費されていた阿片は、ほとんどが輸入品であった。そこで「阿片輸入税」によるピンハネ増大の案を練ったわけである。後藤の案では、この収益は、すべて医療関係に役立てるべきであって、他の行政費に回せば「弊害を生ずる」となっていた。だが、その原則が守られたかどうかは保障の限りではない。

 最近の例を引けば、湾岸戦争への拠出金の場合にも、日本が出した分は軍事目的ではないという趣旨の国会答弁があった。国力と釣り合わない軍事費を支出する独裁国への「平和産業向けODA」供与についての疑問もある。元来、貨幣とは、あらゆる商品と交換できるからこそ貨幣なのである。実際の行財政の財布は、どの国でも、どの植民地でも、一つである。子供だましの答弁が押し通せるのは、議会と称する議論なしで時代遅れの芝居小屋の中だけにしてほしいものである

 しかも後藤は、その後、日本国内でも阿片の原料が採れるケシの栽培を試みている。『戦争と日本阿片小史』(すばる書房)は、「阿片王」と呼ばれた二反長音蔵の息子で、児童文学者の二反長半が執筆し、「いまわの際」に校正までを終えたという痛恨のドキュメントである。そこには、「後藤の後援で、日本では殆ど栽培不可能とされたケシ栽培阿片製造に成功」した経過が描かれている。

 後藤らが創始した日本の「阿片漸禁政策」は、台湾から満州、蒙疆(内蒙古)、中国本土、東南アジアへと広がった。そこでの阿片収入は、医療関係どころか、ほぼ公然と軍の機密費、占領地の行政費にまで充当された。「専売」の制限も無視された。蘆溝橋事件の際の現地軍参謀、池田純久が書いた『陸軍葬儀委員長』には、「阿片の商標日の丸」という項がある。日本人の「一旗組」が「治外法権を楯に日の丸の国旗を掲げて公然と阿片を売って」いたので、現地の中国人が「阿片の商標」だと思い込み、憎くつき阿片屋の旗を焼き捨てたっつもりで、国際紛争が頻発したというのである。この間の事情および原資料は、『日中アヘン戦争』(江口圭一、岩波新書)に詳しい。

 一〇年間の台湾統治で評価を高めた後藤は、八年後の一九〇六年、南満州鉄道株式会社(満鉄)の初代総裁に就任した。こちらも日本の植民地経営の事業としては、当時最大の規模のものであった。後藤は、台湾、満州と、相次ぐ難関の植民地経営で実績を挙げたことになる。[後略]
http://www.jca.apc.org/~altmedka/ahen-gotou.html

9. 2021年3月18日 15:12:14 : dzHoUYWlyY : RjZTcGp4cTNLSms=[12] 報告
勅令「阿片謀略」
http://www.jca.apc.org/~altmedka/ahen.html

初出:昭和が終って 『噂の真相』(1989.5)
戦後秘史/伏せられ続けた日本帝国軍の中国「阿片戦略」の詳報
レポーター・木村愛二(フリージャーナリスト)

その1:「極秘」資料出現
 「幻の阿片帝国」蒙疆(もうきょう)傀儡政権(1937年〜1945年)の全8年史
 日本が、国家政策として中国で阿片の増産を督励し、軍事機密に重用し、輸出さえしていたとは……
 筆者の思い出は敗戦直前の北京に遡る。当時は国民学校(いまの小学校)3年生だから、かなりの記憶がある。
 北京の冬は寒い。公園の池がそのままスケート場になる。だから冬の思い出が多いのだが、そのなかでも特に不気味で強烈な映像をとどめているのが、路上に放置されたままの「凍死体」である。学校へ通う道に、ゴロゴロという印象なのである。
 頭の中には映像と一緒に、その当時の日本人の大人の説明が植え付けられていた。
「支那人は昼間から阿片吸って怠けとる」⇒全文を読む

その2:「抹殺」「カット」「偽りの映像」
 いまの日本は、極度に大衆社会化が進み、支配層から一方的に流される情報が氾濫している。教科書と新聞、テレビ、大手の雑誌・週刊誌が取上げなければ、それは社会的な「抹殺」といって差支えない。
 「阿片戦略」は、この典型である。
 映画『ラストエンペラー』の日本上映版の試写会で、国際映画祭で写っていた「南京大虐殺」「生体実験」「阿片工場」の三シーンのカットが判明し、騒ぎになった。⇒全文を読む

その3:湮滅を免れた『極秘』文書の奇跡
 『皇軍“阿片”謀略』(千田夏光著、汐文社、1980年)の宣伝用横帯が目に入った。
 「支那事変はアヘン戦争だった?!/蒙疆銀行元行員が語る東条チャハル兵団と金融工作員のアヘン謀略の実態!/興亜院・蒙疆連絡部“経済第一課”の張家口進出から“大東亜薬品(=阿片)会議”の密計に至る、アヘンにからまる戦争の裏面史を抉る!」
 さらには、「大平首相と閣僚たちの黒い結合のルーツは?」とある。
 謎の「興亜院」が出てきただけでなく、「阿片」というドギツイしろものが突如現れたのである。ビックリしないわけがない。⇒全文を読む

その4:阿片「原産地」を直轄支配した日
 東京裁判では、検察側が北京市政府の文書を証拠として提出した。それは、「蒙疆」が北京への「阿片来源」だと指摘していた。
 だが当時は、それを立証する日本側の当局資料は乏しかった。「南京大虐殺」でも「731部隊」でもそうだったが、日本では、のっぴきならぬ証拠が突き付けられるまで、「中国側のデッチ上げ」という逃げ文句が世間的に通用してきた。⇒全文を読む

その5:大東亜共栄圏の阿片需給計画
 ところで、蒙疆の阿片は日本の阿片政策の中で、どのような位置を占めていたのであろうか。
 「大東亜共栄圏各地域を通ずる阿片政策確立に関する件」というタイプ印刷で12ページの報告書がある。「蒙古連合自治政府駐日代表部」の用箋を使用。執筆者は、「興亜院華中連絡部次長」の陸軍小将落合甚九郎。宛先は「興亜院政務部長」である。⇒全文を読む

その6:幻の国際商社「陸軍昭和通商」
 販売ルートには、お馴染みの「児玉機関」も登場する。阿片を機密費として、戦略上不可欠なタングステンなどの資源を求めたのだが、児玉らは、その手先となった。戦争の相手の重慶側の物資まで、横流しで手に入れていたという。
 末端の販売店には、日の丸が掲げられていた。日本人か日本国籍の朝鮮人を一人雇えば、「日章旗の掲揚」が許可され、「治外法権」が成立した。そのため、「日本の国旗凌辱事件が起り、外交問題に発展することがあったが、よく調べると中国人はそれを国旗とは知らず、アヘンの商標だと思っていたという、まったく笑い話のような滑稽談さえあった」(『陸軍葬儀委員長』)そうである。⇒全文を読む

その7:天皇の勅令「朕……之ヲ公布セシム」
 さて、「事実は小説より奇なり」というが、里見は、A級戦犯として巣鴨プリズンに入りながら、無罪で釈放された。そして言葉すくなに、こう語っているという。
 「米国の関係者が、利用価値があるとみて釈放してくれたのではないか」「法廷に提出されたのは供述調書の1部で、阿片取引の収益金の具体的な用途、とくに軍の情報謀略工作関係については、大部分が隠蔽された」
 ベトナムで里見機関のやり方を真似た米軍は、麻薬組織をはびこらせ、前線の自軍だけでなく本国にまで、大量の中毒患者を抱込む結果を招いている。

http://www.jca.apc.org/~altmedka/ahen.html

10. 2021年3月18日 15:18:03 : dzHoUYWlyY : RjZTcGp4cTNLSms=[13] 報告
台湾での阿片政策
http://www.oshietegensan.com/war-history/war-history_a/4872/

日清戦争で勝利した日本は台湾を領土として

内地並みに阿片を禁止しようとする議論が起きました。

しかし後藤新平の主張によって、

阿片漸禁政策(徐々に禁止する)と専売制度がとられました。

●漸禁政策の主張

 阿片を厳禁すると、阿片中毒者に苦痛を与え、その結果反抗を招き、

 これを鎮圧する為の兵力と犠牲を必要とするのに対して、

 漸禁政策は中毒者に対して人道的配慮を与えるものでさらに

 軍事的負担を逃れるうえ、巨額の専売収入を確保できる

1897年10月、台湾阿片令が公布され、

阿片はすべて政府の専売とし、

中毒者と認定された者だけ阿片吸引が許可されました。

しかしながら実際には中毒者でなくても、

20歳以上にはすべて許可が与えられました。

その上中毒者の救済や矯正処置はとられませんでした。

その為中毒患者は増加し、1900年には17万人に達しました。

一方阿片収入は1900年には400万円となり、

台湾財政収入の3割を占めるほどに伸びています。

後藤新平はこの功績で1902年勲二等旭日章を授与されています。

その後阿片の許可料や代金があまりに高くなったことと、

死亡者が増えたことで、

1930年には中毒患者は2万3000人まで減りました。

さらに内外の批判が高まったため

太平洋戦争を境に阿片政策は終わりをつげました。
http://www.oshietegensan.com/war-history/war-history_a/4872/

11. 中川隆[-6408] koaQ7Jey 2021年3月23日 22:51:41 : t9J5UnSZJw : Z3pWc3NXMkZ0NDY=[40] 報告
1945年にソ連軍が満州に侵攻した日、日本軍は「ソ連と決戦に行く」と言って新京を脱出し、市民らは感動して涙を流して見送りました。

だがソ連と決戦するというのは大嘘で、実際には日本軍と軍人の家族だけが朝鮮半島の38度線まで脱出しました。

戦後に判明した事実は日本政府と日本軍は最初から満州の日本人全員を捨てて帰国することが決まっていて、足手まといだから騙して放置しました。


政府とか役人の正体はこんなものであり、信じたら騙されてバカを見るのは自分です。

マスコミも同類で、1945年8月15日までは「進め1億火の玉だ」「1億玉砕本土決戦だ」と煽っていたのが、翌日には「私たちは最初から戦争に反対でした」と言い出しました。

言論人や正義面する連中の中身もこの程度なので、何が本当か情報を見極める必要があります。

http://www.thutmosev.com/archives/84853979.html

12. 中川隆[-6157] koaQ7Jey 2021年4月01日 12:27:58 : ioAjLYoQAE : YUlsd0dYaE9mS0U=[31] 報告

2020年12月14日
樺太の敗戦と引揚げ ソ連の略奪で数万人がなくなった
http://www.thutmosev.com/archives/72487962.html


南樺太を占領したソ連軍は、食料・衣類・貴重品など全て日本人から略奪した

引用:http://ironna.jp/file/5a5942a00b98bf04335b9aa2da72bc03.jpg

敗戦後の外地からの帰国

1945年8月15日に日本は戦争停止を宣言したが、敗戦はすべての日本人が一様だった訳ではなかった。

最も幸運だったのは本土の日本人で、日本に帰国する必要もなく、敵から逃げる必要もなかった。

敗戦国になった時に重要なのは「敵」との交渉力で、これが無いと大変な目に遭います。

交渉力は数が多いか力が強いか、敵と取引できる何かを持っているのが重要になります。

最も不幸で悲惨だったのは満州国の辺境地帯で開拓していた満蒙開拓団で、ソ連軍の奇襲と中国人の略奪を受けた。

ソ連は8月8日に対日宣戦布告し翌9日から空爆と地上戦を始めたが、日本軍はこの事を日本人居住者に一切知らせなかった。


なぜかというと戦力を維持するためにまず関東軍が朝鮮南部まで脱出しなくてはならず、住民が居たのでは足手まといになる。

それにこの時日本本土から満州の関東軍には、「敗戦時に在外日本人は帰国させず、現地に永住させろ」という命令が来ていました。

日本本土はじゅうたん爆撃で都市が廃墟になり、食べ物もないので大陸の日本人が帰国したら、食料が不足するからでした。


こうした種々の理由で満州在住日本人全員を置き去りにする事が決定されていたので、何も知らせず軍だけが満州から脱出しました。

ただ当時は家族や子供を満州に呼び寄せて住んでいた軍人が多かったので、動揺を防ぐため軍人の家族だけは脱出させました。

満州に残された日本人は100万人以上だったが、数が非常に多かった事が、この人達の命を救った。

南樺太に残された日本人達

数千人や数万人しか居なかったら、おそらく満州の日本人はソ連と中国に粛清されていた筈だが、100万人では秘密に出来ず、国際問題になった。

米ソ間の取引によって満州の日本人は帰国するのだが、帰国者は4分の3ほどで、4分の1つまり25万人ほどが、戦後にソ連と中国によって粛清や略奪でなくなった。

女性はほぼ全員がソ連兵や中国人の略奪対象になり、これを隠すために戦後「日本軍による従軍慰安婦狩り」を創作した。


朝鮮半島南側、後に韓国になる地域に残った日本人は、アメリカ軍の管理下で帰国できたが、北朝鮮地域に残された人達は、ソ連収容所に入れられて、やはり略奪と暴行を受けた。

満州は当時アメリカが支援する中華民国(台湾)に占領されたので、アメリカの口利きで帰国できたが、ソ連とは米ソ冷戦が始まっていた。

ソ連は日本人に略奪行為を働いたのを隠したがり、このため日本人の帰国を妨害し収容所に隔離した。


10万人ほどの日本兵が流刑地であるシベリアに輸送されて、なくなったとも言われている。

北朝鮮に居た日本人も、戦後数年間を生き延びる事ができたら、追放のような形で歩いて38度線を越え、韓国側にたどり着く事ができた。

ソ連は対面を保つため、衰弱した日本人を返すつもりはなかったので、自力で歩けない人は極寒の収容所でなくなるか、途中で倒れてなくなった。


終戦時に樺太(サハリン)の南半分は日本の領土だったので、ここにも45万人もの日本人(と朝鮮人)が住んでいたとされている。

樺太でもソ連軍は8月9日に攻撃開始したが、2万人の日本軍守備隊に対してソ連軍(1万人程度?)は苦戦し、8月25日にやっと南樺太を占領した。

この日付は重要で、8月15日以降も大本営の命令を無視して守備隊は戦い続け、破れたが約15日間の時間を稼いだ。


ソ連との戦闘が始まってから本土への避難が始まったが、多くの日本人居住者が逃げ遅れてソ連軍に捕捉されました。

終戦前後に大半の朝鮮人は日本に避難したが、終戦後に集計したら4000人ほどの朝鮮人が残っていた。

なお戦後に北朝鮮から労働者として4万人ほどが、樺太に強制移住させられていて、多くの情報で「日本軍が強制連行した」と間違って記録されている。


戦前の樺太は真岡、豊原など賑わっていた
RIMG0159
引用:稚内商工会議所写真展http://hit-u.ac/excursion/06Karafuto/0820/RIMG0159.JPG

置き去りになった朝鮮人達

この15日の苦戦でソ連は北海道上陸作戦が不可能になり、アメリカ軍が先に北海道に上陸する事になった。

戦後北海道が日本のままだったのは、樺太守備隊の命令違反(軍規では極刑)と、ただの偶然の結果に過ぎなかった。

樺太を占領したソ連軍は例によって略奪を働き、日本人の家に銃を乱射しながら押し入って「女出せ!」とロシア語で叫んで暴れまわった。


この時のソ連軍兵士の格好は「日本の浮浪者より貧しい身なり」だったとは、満州や樺太引揚げ者が共通して証言している。

ソ連軍は食料も支給していなかったから、やはり日本人の家を襲撃しては食べ物を奪い「日本人はこんな豪華な物を食べているのか」と目を見張ったという。

終戦末期の樺太の食卓が豪華だった筈が無いが、ソ連軍はそもそも兵士に食料を配給せず、住民から奪えと命令していた。


1945年8月22日には日本人避難民を乗せた帰国船3隻をソ連潜水艦が攻撃し、婦女子ら1700人がなくなっている。

潜水艦攻撃は北海道上陸作戦のための海上封鎖と思われるが、今日に至るまでソ連=ロシアは戦争犯罪を認めていない。

こんな樺太の終戦後だったが、40万人以上と人数が多かったのでソ連も全員を粛清できず、日本人は翌年以降に帰国して行った。


取り残されたのが朝鮮人たちだが、強制連行などではなく、全員が自ら希望して樺太に労働や移住に来ていた。

徴用というのも高額報酬で応募が押し寄せたほどで、全員が自ら希望して志願したものです。

樺太は寒いので日本帝国は労働者に高額報酬を支給し、報酬に釣られた朝鮮人が自主的に樺太で働いていた。


ここで問題になったのが北朝鮮で、ソ連は北朝鮮の宗主国なので北朝鮮に帰国させようとしました。

北朝鮮行きに応じた人も居たが、「樺太に戻りたい」といって脱出する人が続出し、悲惨な暮らしぶりを手紙で書いてよこしたという。

戦前の樺太と比べてすら北朝鮮は最悪であり、以降北朝鮮への帰国を希望する者はいなくなった。


日本人妻や日本人夫と結婚した朝鮮人は「日本に」続々と帰国していったが、朝鮮人の韓国への帰国は、結局ソ連崩壊まで認められなかった。

ソ連と日本の交渉では帰国が何度も決まりかけたものの、必ず北朝鮮が抗議してソ連が態度を豹変させた。

「朝鮮人の祖国は北なのに、なんで傀儡国家(韓国の事)に出国させるのか」という言い分でした。


これが樺太の韓国人問題で、戦後数千人居たと推測されるが、ほとんどは帰国を果たさずになくなりました。

http://www.thutmosev.com/archives/72487962.html

13. 中川隆[-6147] koaQ7Jey 2021年4月01日 17:04:50 : ioAjLYoQAE : YUlsd0dYaE9mS0U=[46] 報告

終戦時満州に取り残された日本人 ソ連兵と中国人は何をしたか
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/265.html
14. 2021年4月01日 17:44:05 : ioAjLYoQAE : YUlsd0dYaE9mS0U=[52] 報告
「大地の子」は終わっていない 置き去りにされた日本人たち、問題は2世に
全国新聞ネット 2021/04/01

 中国残留孤児が訪日調査に参加し、初めて故郷の地を踏んで今年で40年になる。故山崎豊子さんの小説「大地の子」でも描かれ、その壮絶な人生は1980〜90年代にかけて社会的関心を集めた。帰国者への支援法などで孤児たちを巡る環境は整備されつつあるが、問題は今、子ども世代にも広がっている。(共同通信=山上高弘)

2世への支援拡充を訴える中国残留邦人ら=2019年10月、福岡市(日中友好協会福岡県連合会提供)© 全国新聞ネット 2世への支援拡充を訴える中国残留邦人ら=2019年10月、福岡市(日中友好協会福岡県連合会提供)
 中国残留孤児は戦前・戦中に国策で中国東北部(旧満州)に渡り置き去りにされた人々で、戦後しばらくして、その多くが帰国を果たした。1981年3月に初めて訪日調査が行われ、国に認定されて永住帰国したのはこれまでに2557人。孤児は終戦時おおむね13歳未満だったとされ、それ以上だった「婦人等」を合わせた永住帰国者は6724人に上る。残留孤児をテーマにした山崎さんの代表作の一つ「大地の子」は91年に 単行本が刊行された。その後、NHKドラマにもなり、俳優の上川隆也さん が孤児の役を熱演したことで知られる。


 ▽ママと呼べなかった

 「1993年11月、57歳の私は飛行機から降り、深呼吸しました。夢にまで見た自分の祖国に立ち、うれしさでいっぱいでした」。残留孤児の川添緋砂子さん(85)=福岡市=は帰国の瞬間をこう振り返る。

 ソ連が満州に侵攻した45年8月9日、川添さんは父の仕事で現在の黒竜江省にいた。家族と共に原始林の中を必死に逃げ回り、何日も歩き続け、草や木の葉を食べてしのいだ。20日、ソ連軍に遭遇し、同省牡丹江の収容所に送られた。身重だった母は出産後に亡くなり、生まれたばかりの赤ちゃんは中国人に引き取られた。生死は分からないままだ。

 その後、父や妹とハルビンの収容所に移された。10月の満州の雨はいてつくほど冷たく、寝具や食料もない中、コンクリートの床で眠り、ただ死ぬのを待った。ソ連兵は毎日、死んだ人を乱暴にトラックに載せていった。

家族との写真を前に、思いを語る中国残留孤児となった川添緋砂子さん=2020年2月、福岡市  © 全国新聞ネット 家族との写真を前に、思いを語る中国残留孤児となった川添緋砂子さん=2020年2月、福岡市  
 ある朝、父が息を引き取った。飢えと寒さで起き上がる力もなく「父が運ばれていく姿をただ目で追うことしかできなかった」。その夜、もうろうとしていると足音が聞こえた。父の知人の中国人たちに川添さん姉妹はそれぞれ引き取られた。

 出稼ぎでハルビンにいた養父に男手一つで育てられた。小学生になり、同級生に日本人だと知られると石を投げられるなどのいじめが続いた。「誰も知らない場所に行こう」と、養父の故郷、山東省青島に移った。初めて養母に会った時は「身長は低く、顔が黒くて美人じゃない」と思ったという。養父に促されても、どうしても「ママ」と呼べなかった。

 春節(旧正月)前のある日、半年ぶりに中学の寄宿舎から片道35キロの道を歩いて帰省すると、養母は外で雪まみれになって待ち続けていた。「私は初めて大きな声で『ママ、ママ…』と叫びました」。養父母の愛情に応えようと一生懸命勉強し、小学校の教師になった。

 93年に帰国を果たしたが、日本語は話せず外出できない日々が続いた。「小学生の孫の宿題も分からず、恥ずかしかった」。60歳を過ぎて日本語学校に通った。「同じ境遇の孤児の力になりたい」と、帰国者の会での活動も続けてきた。

2世への支援拡充を訴える川添緋砂子さん=福岡市(日中友好協会福岡県連合会提供)© 全国新聞ネット 2世への支援拡充を訴える川添緋砂子さん=福岡市(日中友好協会福岡県連合会提供)
 2007年の帰国者支援法改正を受け、川添さんら1世の暮らしは改善されつつあるが、最も懸念するのは大人になってから親と共に日本へ渡った高齢の2世の苦境だ。「今は1世よりも2世が大変。残留孤児の問題は終わっていない」

 ▽老後の不安募る2世

 「年金、もらえるのは月1万9千円。将来が心配。助けてほしい」。「九州地区中国帰国者二世連絡会」会長の小島北天さん(73)=福岡県志免町=は、たどたどしい日本語で打ち明ける。

 終戦後の47年、遼寧省奉天(現瀋陽)で中国人の父と残留婦人の母との間に生まれた。母の帰国に伴い97年から日本で暮らすが、「日本語ができない50歳に仕事なかった」

記者会見で中国残留邦人2世への支援拡充を訴える小島北天さん=3月、福岡県庁© 全国新聞ネット 記者会見で中国残留邦人2世への支援拡充を訴える小島北天さん=3月、福岡県庁
 平成不況で雇用を切られるなど、転職は6回を重ねた。今は週3日、パートで働きながら妻や娘らと暮らす。年金を合わせても世帯収入は月に十数万円。「もし大きな病気にかかったら大変」

 2世は中国語が母語として身についた30代以降での帰国が多い。小島 さんのように残留婦人の子の中には、残留孤児とほとんど変わらない年齢で帰国した人もいる。日本語がうまく話せないため正規雇用を得られなかったり、年金加入期間が短く老後の生活にも不安を抱えたりしている。国は支援法改正で1世への老齢基礎年金の満額支給を認めたが、2世への経済的支援は含まれなかった。17年に同連絡会が福岡、佐賀、長崎、熊本4県で2世を対象に行った調査では、210人のうち6割が生活保護を受けていた。

 中国残留邦人の問題に詳しい神戸大の浅野慎一教授(社会学)は「2世は学歴や帰国時の年齢が多様なために共通の課題が見えづらく、苦境の要因が個人の問題として捉えられている。帰国が遅れた責任は国にあり、経済的に困っている2世に必要に応じて支援をするべきだ」と指摘する。

2世への支援拡充を求め、街頭署名を呼び掛ける小島北天さん(左)ら=2019年10月、福岡市(日中友好協会福岡県連合会提供)© 全国新聞ネット 2世への支援拡充を求め、街頭署名を呼び掛ける小島北天さん(左)ら=2019年10月、福岡市(日中友好協会福岡県連合会提供)
 現在、九州や関西の帰国者らが中心となり、2世への支援法適用を求める署名活動を続けている。全国で計10万筆を集め、6月の国会請願を目指す。交通費などの資金を捻出するためのクラウドファンディングも始めた。(

 ▽未認定の「孤児」

 国はこれまでに2818人を残留孤児と認めたが、2012年を最後に新たな認定はない。一方で「日本人として認めてほしい」と、国に訴え続ける人もいる。

 「生活難のため子育てができず、5歳の娘を引き渡します」。ハルビン出身の郜鳳琴(こう・ほうきん)さん(77)=熊本県菊陽町=は色あせたぼろぼろの便箋を取り出した。1949年6月、長野県の開拓団出身の生母と、中国人養父が交わした証明書だ。

中国人養父から手渡された証明書を手にする郜鳳琴さん(右)。左は夫の庄山紘宇さん=2020年10月、熊本県菊陽町© 全国新聞ネット 中国人養父から手渡された証明書を手にする郜鳳琴さん(右)。左は夫の庄山紘宇さん=2020年10月、熊本県菊陽町
 小さい頃は「日本鬼子」と周囲の子どもたちにいじめられた。18歳で結婚したが、日本人の子どもと知ると夫の態度が一変した。「国に帰れ」と突き放され、ほどなくして離婚した。養父から証明書を手渡されたのは日中国交正常化の72年のこと。身上がはっきりし「日本に帰りたい」との思いが芽生えた。地元公安局に相談して肉親捜しが始まった。

 82年、訪中調査団に参加していた生母とハルビンで再会でき、2人で涙した。ただ、生母は父親については口をつぐんだ。その後、手紙を送るなどしても返事はなく、音信不通になった。

 孤児の認定を受けるには両親が日本人との証明が必要だ。郜さんは厚生労働省に申請したが却下された。未婚の子だったのか戸籍になく、父親の証明が不十分だったとみられる。支援団体の協力で証言を集めるなどしたが状況は変わらず、今から10年ほど前に生母が死去したと、人づてに聞いた。

 郜さんは2年半前、87年に帰国した孤児で支援者の庄山紘宇さん(83)と再婚し、配偶者として「帰国」が実現した。日本語は話せないが、夫婦で仲むつまじく暮らす。「故郷に帰れてうれしい。ただ自分のような境遇の人は中国にまだ数百人はいる」とも話し、国に柔軟な対応を求める。

 満蒙開拓平和記念館(長野県阿智村)の寺沢秀文館長は、十数人の認定支援を個人的に続けてきたが、「時間がたち、新たな証拠を探し出すのは難しい」と話す。

 浅野教授は「残留孤児になったのは戦前・戦後の国の政策が不十分だったことに原因があり、自己責任ではない」と指摘した上で、「国はどのような証明が足りず、なぜ認定できないのか情報を開示し、手助けを図るべきだ」と訴えている。

  ×  ×  ×

 中国残留孤児 太平洋戦争末期の1945年8月9日のソ連軍による満州侵攻に伴う混乱で、肉親と生き別れたり、死別したりし、現地に取り残された日本人の子どもたち。満州には当時、国策によって日本からの開拓移民が多数居住していた。国の不十分な引き揚げ政策によって帰国が遅れ、公的年金にも加入できなかったため、2007年に帰国者支援法が改正され、特例で老齢基礎年金の満額支給が受けられるようになった。一方で親と共に帰国した子ども世代への経済的支援は盛り込まれなかった。

https://www.msn.com/ja-jp/news/national/%E5%A4%A7%E5%9C%B0%E3%81%AE%E5%AD%90-%E3%81%AF%E7%B5%82%E3%82%8F%E3%81%A3%E3%81%A6%E3%81%84%E3%81%AA%E3%81%84-%E7%BD%AE%E3%81%8D%E5%8E%BB%E3%82%8A%E3%81%AB%E3%81%95%E3%82%8C%E3%81%9F%E6%97%A5%E6%9C%AC%E4%BA%BA%E3%81%9F%E3%81%A1-%E5%95%8F%E9%A1%8C%E3%81%AF%EF%BC%92%E4%B8%96%E3%81%AB/ar-BB1fbyfm?ocid=msedgntp

15. 中川隆[-5693] koaQ7Jey 2021年4月15日 12:52:57 : 2WCnPZKA5U : aFYyNHFXQVpEVEk=[16] 報告


2021.04.15
隠された経済苦境の先に見える「新たな関東大震災」による惨状
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202104150000/


 COVID-19(2019年-コロナウイルス感染症)のパンデミック騒動によって欧米を中心に社会が収容所化され、「デジタル・ワクチン・パスポート」の導入によって人びとの行動を監視する体制が整いつつある。

 その一方、生産活動や商業活動は麻痺、個人経営の店や中小企業を中心にして経営状態が悪化している。こうした事態になることは昨年1月13日に菅義偉首相が特別措置法に基づく緊急事態宣言を出した時点で見通されていただろう。

 そこで、​金融庁と日本銀行は4月16日に手形・小切手の不渡り処分を当面の間、猶予する特別措置を全国銀行協会に要請​、これを受けて同協会は翌日、新型コロナの影響を受けて資金不足で不渡りとなった手形・小切手について、不渡報告への掲載や取引停止処分を猶予するよう全国の手形交換所に通知した。

 手形や小切手の不渡りを同一手形交換所管内で6カ月以内に2回起こすと「取引停止処分」となり、その手形交換所の加盟金融機関から2年間にわたり当座取引や貸出取引ができなくなる。このルールが適用されなくなったわけだ。「不渡報告」への掲載も猶予される。

 しかし、手形や小切手の所持人に対する支払が猶予されるわけではなく、その所持人の手元に受け取れるはずの資金が入らない事実は変わらない。ルールや定義を変えても誤魔化しにすぎず、問題の解決にはならない。それでもそうした手法はとられてきた。福島第一原発の時ににも、COVID-19でも行われている。

 少なくとも一部の裁判所では申し立てを受理しても、緊急性のあるもの以外は事務処理の停止しているという。法的な手続きも含め、実態を隠すための方策であり、状況は改善されない。不渡りに関するルールは傷が全体に広がることを防ぐ方策でもあるわけで、今回の措置は副反応を伴う。アパレル大手のレナウンは先送りにすると傷口を広げると判断したのだろう。

 1923年9月1日に関東地方を襲った巨大地震によって10万5000人以上が死亡、あるいは行方不明になり、その損害総額は55億円から100億円に及んだと言われている。

 そこで政府は被災地関係の手形で震災以前に銀行割引したものを1億円限度の政府補償を条件として日本銀行が再割引した。これを利用して銀行は地震に関係のない不良貸付、不良手形をも再割引し、手形の総額は4億3000万円を上回る額に上る。その結果、1926年末でも2億円を上回る額の震災手形が残り、銀行の貸出総額の4割から7割が回収不能の状態だった。

 復興にも資金が必要な日本政府は外債の発行を決断し、責任者に選ばれた森賢吾財務官はJPモルガンと交渉を始める。このJPモルガンと最も緊密な関係にあったと言われている人物が地震直後の9月2日に大蔵大臣となった井上準之助。1920年の対中国借款交渉を通じ、JPモルガンと深く結びついていた。

 JPモルガンを指揮していたトーマス・ラモントは3億円の外債発行を引き受け、1924年に調印する。その後、JPモルガンは電力を中心に日本へ多額の融資を行い、震災から1931年までの間に融資額は累計10億円を超えている。

 日本に対する大きな影響力を手にしたラモントは日本に対して緊縮財政と金本位制への復帰を求め、その要求を浜口雄幸内閣は1930年1月に実行した。

 金解禁だが、その結果、1932年1月までに総額4億4500万円の金が日本から流出、景気は悪化して失業者が急増、農村では娘が売られるなど一般民衆には耐え難い痛みをもたらすことになる。

 そうした政策の責任者である井上は「適者生存」、強者総取り、弱者は駆逐されるべき対象だという考え方をする人物だった。現在の表現を使うならば、新自由主義の信奉者だった。失業対策には消極的で、労働争議を激化させることになる。

 JPモルガンの総帥はジョン・ピアポント・モルガン・ジュニアだったが、その妻のいとこ、ジョセフ・グルーが駐日アメリカ大使として来日する。

 グルーの人脈には松平恒雄宮内大臣、徳川家達公爵、秩父宮雍仁親王、近衛文麿公爵、樺山愛輔伯爵、吉田茂、牧野伸顕伯爵、幣原喜重郎男爵らが含まれていたが、グルーが個人的に最も親しかったひとりは松岡洋右だと言われている。松岡の妹が結婚した佐藤松介は岸信介や佐藤栄作の叔父にあたる。しかもグルーの妻、アリス・グルーは貞明皇后と親しかったと言われている。

 グルーが来日した1932年にはアメリカで大統領選挙があり、ニューディール派のフランクリン・ルーズベルトがウォール街を後ろ盾とするハーバート・フーバーを選挙で破って当選している。ウォール街にとって受け入れられない結果だった。

 大統領就任式の17日前、つまり1933年2月15日にルーズベルトはフロリダ州マイアミの演説会場で銃撃事件に巻き込まれている。銃撃犯はジュゼッペ・ザンガラ。彼が銃を構えたことに気づいた女性が腕にしがみつきながらハンドバッグで銃をはたいている。弾丸はルーズベルトの隣にいたシカゴ市長に命中、市長は死亡した。

 1934年夏、海兵隊のスメドリー・バトラー退役少将の下へ「コミュニズムの脅威」を訴える人物が訪ねてきた。その訪問者はJPモルガンと関係が深い人物で、ドイツのナチスやイタリアのファシスト党、中でもフランスのクロワ・ド・フ(火の十字軍)の戦術を参考にしてルーズベルト政権を倒そうと持ちかけた。

 彼らのシナリオによると、新聞を利用して大統領をプロパガンダで攻撃し、在郷軍人会を利用して50万名規模の組織を作って恫喝、大統領をすげ替えることにしていたという。

 指揮官になって欲しいと持ちかけられたバトラーは受諾する風を装って計画内容を聞き出し、それを信頼しているジャーナリストへ知らせ、そのジャーナリストは部下のポール・フレンチに調べさせる。フレンチはクーデター派から「コミュニズムから国家を守るため、ファシスト政府が必要だ」という発言を引き出している。

 こうした事実をバトラーとフレンチはアメリカ下院の「非米活動特別委員会」で証言し、モルガン財閥につながる人物がファシズム体制の樹立を目指すクーデターを計画していることを明らかにした。ウォール街の手先は民主党の内部にもいて、「アメリカ自由連盟」なる組織を設立している。

 ウォール街のクーデター派がバトラーに声をかけたのは、彼が名誉勲章を2度授与された伝説的な人物で軍隊内で信望が厚く、クーデターを成功させるためには引き込む必要があったからだが、この人選に反対する人もいた。憲法を遵守するべきだという考え方をする人物だったからだ。反対派が推していたのはダグラス・マッカーサーである。

 アメリカにファシズム体制を樹立しようとした巨大金融資本が関東大震災以降の日本を支配していたということにもなる。明治時代に日本へ戦費を用立てたクーン・ローブと同様、JPモルガンの背後にはロスチャイルドが存在している。

 COVID-19騒動を利用してWEF(世界経済フォーラム)のクラウス・シュワブは資本主義を大々的に「リセット」すると宣言した。西側の強大な私的権力が支配する新しい支配体制を築くということだろうが、その中核になると見られている団体が「包括的資本主義会議」。ローマ教皇庁と連携している。その中心的な存在であるリン・フォレスター・ド・ロスチャイルドはエベリン・ド・ロスチャイルドの3番目の妻だ。エベリンはロンドンを拠点とするNMロスチャイルド銀行の取り仕切ってきた人物である。

 COVID-19対策で日本経済は疲弊、今後、財政負担は国民の上にのしかかり、ウォール街やシティの金融資本に呑み込まれることになる可能性がある。日本にとってCOVID-19騒動は「新たな関東大震災」なのかもしれない。
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202104150000/

16. 2021年5月05日 05:46:35 : FAehPifVaM : MEpOMk4wblpPNEU=[1] 報告
戦後ゼロ年 東京ブラックホール 1945−1946 NHKスペシャル 2017.08.21




東京ブラックホール @1945東京ゼロ年敗戦の直後の東京  A1964年敗戦から19年後の東京





NHKスペシャル 『戦後ゼロ年 東京ブラックホール』が映しだした世界
書評・テレビ評2017年8月29日
https://www.chosyu-journal.jp/review/4561


 NHKスペシャル20日夜放映の「戦後ゼロ年 東京ブラックホール 1945―1946」は、敗戦直後の占領下の東京の庶民生活と政商らの動きを追ったドラマ形式のドキュメンタリーである。米軍空襲で廃虚と化した東京を撮影したアメリカのフィルムやCIA機密文書から、これまで覆われていた「ヤミの世界」を映し出し、現在につながる戦後社会の原点を照射するというふれ込みである。



 今年の8・15終戦記念日にリストラにあい失業したタケシ(山田孝之)が、やけ酒をあおり意識を失うなかで、復員兵であった祖父の手招きで、焼け跡の東京にタイムスリップし、占領直後の1年間を追体験するという手法で描いている。



 100回をこえる空襲で25万人を焼き殺され、市街地の半分を失った東京は焼け野原となり、市街地の五割を失った。GHQは攻撃を避けた皇居周辺の丸の内ビル、帝国ホテルなどを接収し、第一生命ビルに司令部を置いた。また、水洗トイレのある資産家の邸宅を真っ先に接収し将校の住宅にした。東京宝塚劇場を米兵専用のミュージカル劇場「アーニー・パイル劇場」にとって替えた。






廃墟と化した東京の街を見つめるタケシと祖父(番組の一場面)

 米軍のカラー・フィルムは、米兵専用の売春施設(RAA)の様子もとらえていた。これは、警視総監に陣頭指揮をさせ、大蔵省に3300万円を出させて設置したものである。ちなみに、占領経費はすべて日本の経費で396億円、当時の国家予算の3分の1を占めた。



 フィルムは、東京の庶民が防空壕やガード下、土管をねぐらにし、バラック生活で飢えをしのぎ、子どもたちが靴磨きで稼ぐ姿、「浮浪児の刈り込み」で檻(おり)に入れる様子もとらえていた。その一方で、占領米軍とその家族の贅沢三昧な生活を映し出す。空腹の都民が群がる闇市の名物「残飯シチュー」は、占領軍が食べ残し捨てたものをゴッタ煮にしたもので、タバコの吸い殻も混じっている。都民が毎月100人餓死するなかで、占領軍とその家族は食堂付き専用列車で熱海や箱根を往き来する。



 当時、日本軍の隠匿物資が各地で発見されたことをセンセーショナルに報じられた。しかし、闇市では米軍のヤミ物資とともに、それらが大量に横流しされた。そして、それに手を染めて財を成す者が培養された。六本木や銀座には、無法者が跋扈(ばっこ)し支配する「東京租界」が生まれた。



 アメリカの歴史学者ジョン・ダワーがインタビューに登場し、「500万人の復員兵の多くが病気で苦しんでいる時期に、政府役人、警察、資産家たちが軍需物資を横領した。国家ぐるみの悪質な犯罪だ」と語った。それは、占領下の「国家ぐるみ」の犯罪であった。それは、GHQが東京都の都市計画による復興を妨害し、闇市を野放しにしたことにはっきり暴露されている。そうして、そこでマフィアや右翼、後の政商たちを暗躍させ、新しい植民地的なビジネスの源泉にしたことも浮かび上がった。



 また、CIAの機密文書から、「占領軍の諜報機関がソビエトや中国の情報を入手するために一部の戦犯容疑者を利用する秘密工作を行っていた」ことも明らかとなった。旧大本営参謀や右翼要人らが変わり身早くCIAの手先となり、スパイ活動や密輸に手を染めていたことも浮き彫りにされた。その第1号が、マッカーサーを厚木で出迎えた有末精三陸軍中将であり、「有末の働きかけで大本営の参謀が次次にスカウトされた」ことも。



 日本軍の特務機関に雇われていた児玉誉士夫もCIAに日本軍の情報を提供してそのエージェントとなった。児玉は戦時中に中国で手に入れた金やダイヤモンドなどを政治家や右翼団体にばらまき、フィクサーとしての地位を築いていった。



 番組はこれと関連して、後の総理大臣田中角栄が土木建設業者として、東京の米軍家族の住宅「ワシントンハイツ」(当時180億円)の建設で莫大な財を成したことにふれ、「政府土建業界は潤ったが、財政は逼迫した」と結んだ。それは、その後今日にいたる利権がらみの「大型ハコモノ」事業に巨額の資金を投じる一方で、福祉や社会保障には「財源がない」と冷酷に切り捨てる政治の出発でもあった。同時に、児玉誉士夫や政商、丸紅などがからんだロッキード疑獄事件の源流が、占領期に形成されていたことをはっきり示すものとなった。



 占領下のプレスコード(新聞統制)では米兵と女性との関係についての報道を禁じる一方で、アメリカ本国では『ライフ』誌が、「皇居前には田舎から出てきた娘がたくさんいる。英語を教えチョコレートをやれば、どうにでもなる」と記事を書く状況であった。



 ドラマではタケシが、占領軍にくっつけば「サンドイッチが食べられ、ビールやコーヒーが飲める」との誘いで、占領軍専用ダンスホールのバンド演奏に加わるなかで、腐敗したモラルなき世界を肌身に焼き付けていく。番組は、高度成長期にテレビの娯楽番組を支えた渡辺プロなどのエンターテインメント産業が、こうした「占領軍を慰安するショービジネス」に起源を持つことを明らかにした。そして、江利チエミや幸村いづみ、クレージーキャッツなどをあげて、そこから「戦後の大衆文化を担う人材が生まれた」とした。テレビを媒介にした戦後の退廃文化は、まさに占領期の植民地的文化が増幅されてきたものである。



 ドラマは「東京ゼロ年のブラックホール」から現在に帰り着いたタケシが、賑やかな東京の街角をながめ、「あの頃、なりふり構わずがむしゃらに生き抜いた人がいたから東京の今がある」ことに思いをいたすなか、「東京ブギウギ」の切ない歌声が生気を削ぐような響きで流れて、幕を閉じる。それは、職を失い将来の展望を見出せないタケシの心情と重なるものである。



 アメリカが東京空襲で幾十万の人人を虫けらのように殺して首都を制圧し、大多数の人人が衣食住に苦しむのをよそ目に、日本の冨を収奪して享楽生活を楽しんでいた事実はかき消すことなどできない。当時「がむしゃらに生き抜いた人」たちのほとんどがそれを憎悪し、胸底の深い怒りを束ねて、占領軍に媚びを売り国民を犠牲にしておこぼれに与ろうとする為政者らの乞食根性を暴露してたたかった。



 そのことは番組でも、やむにやまれぬ思いで食料メーデーに参加する人人の素朴な思いと表情にあらわれていた。それは今、全国で渦巻く売国と腐敗、貧困と戦争の政治からの脱却を求める世論に直接つながっている。「東京租界」の実態をあばく真の意味は、その「ブラックホール」にたじろぐことではなく、戦後七二年の対米隷属の屈辱をはらすことにある。そうしてこそタケシのような境遇に置かれてきた広範な人人が結束し、力強く前進する糧とすることができるだろう。 (一)

https://www.chosyu-journal.jp/review/4561
17. 2021年6月10日 17:42:46 : CD0syXjenk : R2dzTkMyT3VGNWs=[26] 報告
2021.06.10
脅しが通じず、米政府は中露と対決せざるをえない状況に陥った
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202106100000/


 アメリカのジョー・バイデン大統領は6月9日、イギリスへ向かって飛び立った。6月11日から13日かけて開催されるG7首脳会談へ出席するためだ。コロナウイルス、環境、そして「素晴らしい新世界」について議論するようだ。

 G7のメンバーはアメリカ、イギリス、カナダ、フランス、ドイツ、イタリア、日本の7カ国とEUだが、今回はオーストリラリア、インド、韓国、南アフリカが招待されている。

 インドと南アフリカがメンバーに含まれているBRICSはロシアや中国が中心の集まり。アメリカ、日本、インド、オーストラリアの4カ国はインド洋から太平洋にかけての海域における軍事同盟「クワッド」を攻勢している。

 アメリカ軍は2018年5月に「太平洋軍」を「インド・太平洋軍」へ変更、太平洋からインド洋にかけてを一括担当させることにした。太平洋の拠点は日本、インド洋の拠点はインド、ふたつをつなぐ役割をインドネシアが担うとされている。この海域において、日本、インド、オーストラリアはアメリカの手先として重要な役割を担わされるわけだ。

 おそらくスエズ運河を押さえて以来、イギリスはユーラシア大陸の周辺部を支配し、「三日月帯」で内陸部を締め上げて最終的にはロシアを制圧するという長期戦略をたてた。その三日月帯の東端が日本であり、大陸を侵略するための橋頭堡が朝鮮半島だ。イギリスが長州や薩摩を支援してクーデターを成功させ、明治政府に技術を提供、資金を供給したのはそのためである。

 また、テディ・ルーズベルトを含むアメリカの勢力が日本に台湾へ派兵し、朝鮮半島を制圧するように焚きつけたのも理由は同じ。イギリスの長期戦略をアメリカは引き継いだ。ジョージ・ケナンの「封じ込め政策」やズビグネフ・ブレジンスキーの「グランド・チェスボード」もその長期戦略に基づいている。

 イギリスやアメリカの私的権力が望んでいたことは、日本が彼らの傭兵として中国を侵略し、さらにロシアへ攻め込むことだ。1941年7月の「関東軍特種演習」までは、アングロ・サクソンの思惑から外れていない。ちなみに、ヨーロッパ側ではナチスに支配されたドイツが1941年6月にソ連侵略を開始する。「バルバロッサ作戦」だ。

 しかし、1941年8月に日本は関特演を取りやめ、12月には真珠湾とマレー半島を奇襲攻撃する。ヨーロッパではドイツ軍がその年の9月にモスクワまで80キロメートルの地点まで到達、ドイツやイギリスはモスクワ陥落は近いと予想していたが、年明け直後にドイツ軍はモスクワで敗北してしまう。1942年にドイツ軍はスターリングラード市内へ突入するが、そこでもソ連軍に敗れ、1943年1月に降伏する。この段階でドイツと日本の敗北は決定的になった。

 詳しい話は割愛するが、この段階でウォール街やシティ、つまりアメリカとイギリスの金融資本はソ連との新たな戦争を始めているが、アメリカのフランク・ルーズベルト大統領は「蚊帳の外」だった。

 そのフランク・ルーズベルトは1945年4月に急死、その翌月にドイツは降伏、その直後にイギリスのウィンストン・チャーチル首相はソ連に対する奇襲攻撃を目論み。JPS(合同作戦本部)に対してソ連を奇襲攻撃するための作戦を立てるように命令した。そしてできあがったのが「アンシンカブル作戦」だ。アメリカ、イギリス、ポーランド、ドイツの連合軍で7月1日にソ連を奇襲攻撃するという内容だった。

 この作戦は参謀本部の反対で中止になったようだが、7月16日にはアメリカのニューメキシコ州にあったトリニティ(三位一体)実験場でプルトニウム原爆の爆発実験が行われ、成功している。この日程はポツダム会談が始まる前日に行いたいというハリー・トルーマンの求めで決められていた。これ以降、対ソ連戦の中心は核兵器になる。広島と長崎に原爆を投下した理由のひとつは「生体実験」だろうが、もうひとつは新たなソ連との戦争が始まったことを知らせるものだった。

 大戦後、アメリカがソ連や中国に対する先制核攻撃を計画、準備を進めていたことは本ブログでも繰り返し書いてきた。そのソ連が1991年12月に消滅、ターゲットの中心は中国へ移るが、中国はソ連より簡単に始末できるとアメリカは考えていただろう。

 この思惑を崩したのがウラジミル・プーチンだ。彼を中心とする勢力が曲がりなりにもロシアの再独立を成功させ、ネオコンの傲慢な作戦で中国とロシアを戦略的な同盟関係に入らせてしまった。ジョー・バイデン政権は中国とロシアを潰すために四苦八苦している。

 そのロシアでは6月2日から5日にかけて「サンクトペテルブルク国際経済フォーラム(SPIEF)」が開かれ、170カ国以上が参加している。過去の遺物と化して久しいG7とは違い、新たな経済活動がここにはある。このタイミングでロシア財務省は保有するドルをさらに減らし、金やユーロへシフトすると宣言している。

 プーチン露大統領とバイデン米大統領は6月16日にスイスのジュネーブで会談する予定だが、アメリカはロシアから愉快でないシグナルを会談で受け取るという前提で準備してくるべきだとロシアのセルゲイ・リャブコフ外務副大臣は語っている。

https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202106100000/

18. 2021年6月27日 06:37:07 : 09g8CAKyOE : dExIekMuL1J3cVk=[9] 報告
日露戦争で最も儲けた男〜国際金融資本による闇賭博の裏側「林千勝」
2021/06/26





【今、世界はどうなっている?】林千勝×水島総 第3回「ロスチャイルド家の手練、コロナとチャップリンのプロパガンダ戦略」[桜R3/6/19]
2021/06/19






19. 中川隆[-15909] koaQ7Jey 2021年7月19日 05:00:27 : bR9n29WOoU : dFQxNEJaQTJMTE0=[8] 報告

人類における近親交配で何が起きているか?
2021年07月18日
http://tokaiama.blog69.fc2.com/blog-entry-1559.html

 近親交配とは?
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E8%A6%AA%E4%BA%A4%E9%85%8D

 近親婚
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E8%A6%AA%E5%A9%9A

 上のリンクにもあるように、近親婚が起きる最大の理由は、特権階級が自分たちの血筋集団への社会的・歴史的な幻想としての畏怖を守ろうとしたことだ。
 だから王族・皇族の特権社会で、近親婚による遺伝的弊害が多発してきた。

 【ヨーロッパの王族、貴族は同ランクの者との婚姻を繰り返したため、近親婚を避けることは事実上不可能になり、気付かなかったことにしたり教会に特別免除をもらうことによって、有名無実なものとなった。
 事実上容認された近親婚の範囲は地域によって異なるが、スペイン・ポルトガルの王族やドイツ諸侯の間では叔姪婚がしばしば行われた。顕著な例としてスペイン・オーストリアのハプスブルク家が挙げられる】

 【歴史的に近親婚は、地位や財産の一族外への散逸を防ぐため、東洋・西洋とも王族・貴族間では慣例的に広まっていた。有名な例では、スペイン・ハプスブルク朝では、血族同士の結婚を繰り返し、17世紀末には虚弱な人物ばかりが誕生するようになり断絶するに至った。
 その典型例である最後の王カルロス2世は、伯父と姪の婚姻の結果であるとみられている。ベラスケスの肖像画で知られる同母姉マルガリータ王女は、父方の従兄・母方の叔父にあたるレオポルト1世と結婚し、夫妻の間に生まれた4人中3人の子が1歳未満で夭折(死去)した。

 日本でも近親婚の風習は戦前までよく見られた。戦後に制定された民法により、三親等内の婚姻は禁止されている(民法734条)が、近親婚の風習が残る地域もある。
 世界的にみて、いとこ婚のような比較的血縁の近い者どうしの婚姻の頻度が高い地域特に中近東、ロシア系ユダヤ教徒内にあるが、遺伝的背景による精神的または体格的障害児が頻繁に生まれやすくなることが報告されている。現在のロシア、ユダヤ教ではこの風習を完全に控える事が一般的である】

 ネット上からは、ほとんど削除されているが、生物学者でもある昭和天皇、裕仁氏が皇族内の近親婚習慣による遺伝的劣化、人間力劣化を怖れて、長男、明仁氏の配偶者について、反対を押し切って皇族外から美智子氏が選ばれたのは有名である。
 なぜ裕仁氏が皇族内の濃密な血縁での婚姻を嫌ったかという理由は、父? である大正天皇(嘉仁)の、近親婚による遺伝的劣化がもたらした異常行動を見ていたからだ。

 大正帝を知る者は、「暗愚」とか甚だしきは「白痴」という見下し表現を使っている。
 大正天皇が、どんな人物だったかを克明に記録した天皇付女官、久世(山川)三千子(1892〜1965)による手記がある。
  
 知られざる天皇家の「闇」をあぶり出した、ある女官の手記 明治大正期の貴重な証言
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/49332?imp=0

 【臣下の言上が長くなると、退屈のあまり椅子から立ち上がってしまうこと(188頁)輿のなかでも落ち着きがなく、ひょこひょこ動くこと(194頁)女性の写真を集める性癖があったこと(313〜314頁)
 本書に描かれた大正天皇像は、明らかに三千子に好意をもち、天皇としての節度を越える振る舞いに及ぶことも一度や二度ではなかった】

 と生々しく描かれているが、ずいぶん手心が加えられた表現であるのは当然で、おそらく大正帝嘉仁は三千子に対して性的DVを加え続けていたのだろう。でなければ、本文にあるような極端な拒絶が起きるはずがない。
 大正帝に受精能力がなかったとの報告もある。

 大正帝の実父は明治帝ということになっているが、真実は違う。明治帝の正妻は美子のはずだが、史書には、ほとんど出てこない。
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%8E%E6%B2%BB%E5%A4%A9%E7%9A%87

 美子には子が産まれず、女官の柳原愛子から大正帝が生まれたことになっている。
 実は、明治帝睦仁は、歴史的事実からニセモノであることが明らかになっている。彼の本名は、大室寅之佑、長州藩奇兵隊力士隊の兵士だった。維新前に、井上馨と伊藤博文が孝明天皇を厠で暗殺したとき、ホンモノの睦仁も殺されたといわれている。

 ホンモノ睦仁は5尺あまりしかないが、敏捷で蹴鞠の達人だったと実母慶子の父、中山忠能の日記が残っている。だが明治天皇は身長6尺筋骨隆々の立派な体躯、山岡鉄舟と年中、相撲をとっていた。
 明治帝就任後、事情を知る中山家は、永久に遠ざけられた。
 寅之佑は、橋本龍太郎の4代前の宗家、大室家が南朝天皇の正統末裔だったとの触れ込みで、西郷隆盛によって睦仁にすり替えられたのだ。

 だが、維新政府がその後調べて、南朝天皇血統という事実がはっきりせず、天皇になってはみたものの、自分の子種を残すことを許されなかった。
 女官、柳原愛子との間に生まれた大正帝の実父も、おそらく孝明天皇に近い皇族の誰かだったと噂されている。
 だから皇族間近親交配による遺伝的劣化が起きていたのだ。

 大正帝の実子であるはずの昭和帝裕仁は、いったい誰の子供なのか?
 これについては鬼塚英昭氏が「西園寺八郎」と名指ししている。つまりその子の西園寺公望は裕仁の実の兄弟であり、確かに二人は似ていて、公望は最期まで裕仁を守り抜こうとしていた。
 母親が貞明皇后=九条節子であるかについては、はっきりしない。
http://tokaiama.blog69.fc2.com/?m2=form&no=333

 そんなわけで、昭和帝裕仁は、生物学者としての知識からも血族の親密度に危機意識を抱いていただろう。だから、血族外の優れた未婚女性を探して、数百万人に一人しかいないほど傑出した女性である美智子を発見したのだ。
 話は何もかもトントン拍子にうまくゆき、名皇后が誕生し、現在は息子、浩宮が天皇に就任している。

 さて、日本の皇族血統は、美智子氏の登場によって、大きな希望の光を得たともいえるが、民衆レベルでは、まだまだ血族結婚の弊害が消えていない。
 豪農の出身であった渋沢栄一は、自身の最初の妻と妹の夫がいずれもいとこ婚、庶出の娘のうち2人がまたいとこ婚、前述の妻との長女の娘が妹の息子と結婚(いとこ違い婚)している。また、磯田道史の著書『武士の家計簿 「加賀藩御算用者」の幕末維新』で分析対象とされている加賀藩士の猪山家では、2代続けていとこ婚が行われている。

 1983年の報告で福江市(五島)では全体の7.9%と近親婚の比率が高く、旭川市では0.78%と低かった。離島での近親婚は、宿命的な地域特性であり、全国で同じ問題が起きている。
 https://matomake.com/I0003365

 https://note.com/makito1renai/n/nc6ec939aa631

 しかし、「いとこ婚」による遺伝的障害の出現率は、一般婚の13倍に達する。
 私の姉の夫の親がいとこ婚だが、他の兄弟姉妹が全員聾唖者になっている。また、私の知るいとこ婚子弟は、総じて切れやすい傾向がある。

 日本国憲法第24条では『婚姻は、両性の合意のみに基いて成立』とあり、近親者間の性交自体を法律上禁止しておらず、また近親者間の事実婚認定も阻害されない。
 しかし、日本国憲法第24条に基づき制定される民法により、近親者間の結婚に係る婚姻届は受理されず、誤って受理されても後に取り消しされる。

法的束縛により婚姻届が受理されない近親婚は、以下の通り。
 直系血族 三親等内の傍系血族(兄と妹、姉と弟、おじと姪、おばと甥)(養子と養方の傍系血族を除く)
 直系姻族(婚姻関係終了後も継続)
 養親とその直系尊属及び養子とその直系卑属(離縁後も適用)
 この他にも、特別養子と実方との親族関係が終了した場合にも、婚姻における近親婚制限が適用される。

 近親者である事実を知らず婚姻関係が成立し、その後で認知等で近親者である事実が判明した場合、婚姻の取消し原因となる。取消し請求をすることができる者は、各当事者・その親族・検察官である。
******************************************************************

 近親婚の多い民族と言えば、アシュケナージユダヤ人以外に、朝鮮・韓国人が知られている。
 【米人類学者Cavalii−Sforzaの遺伝子勾配データによれば、朝鮮人は世界でも類を見ないほど均一なDNA塩基配列の持ち主であり、これは過去において大きなGenetic Drift(少数の人間が近親相姦を重ねて今の人口動態を形成)か、あるいは近親相姦を日常的に繰り返す文化の持ち主だった事を表します。】

 という言説が出回っているが、これをデマとして否定することに躍起になっている人がいるようだ。しかし、朝鮮民族の一つの特徴として、「火病」と名付けられたヒステリーが存在することは世界的に知られている。
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%81%AB%E7%97%85#:~:text=%E7%81%AB%E7%97%85%EF%BC%88%E3%81%B2%E3%81%B3%E3%82%87%E3%81%86%E3%80%81%E3%81%8B,%E8%A8%BA%E6%96%AD%E5%90%8D%E3%81%A7%E3%81%82%E3%82%8B%E3%81%A8%E3%81%84%E3%81%86%E3%80%82

 私も、過去半世紀以上にわたる韓国人の性格に関する情報を総合して、恐ろしく切れやすい「火病」が存在することは事実だと思うし、私自身もツイッターやタクシー乗務で何回か被害に遭った。何せ、日本の武闘派暴力団の9割が在日朝鮮・韓国人だといわれている。タクシー運転手を困らせる連中の大半が、その筋なのだ。
 「火病」患者は、暴力団にとって有能な人材である。

 「切れやすい」性格は、「思い込みの激しい」性格でもある。客観的科学的分析と判断を待たずに、たちまち暴走するタイプであることを意味する。
 日本を批判する韓国人の多くが、論理的根拠とは縁の遠い安易な決めつけによって先走る傾向があるが、これは、おそらく近親婚による遺伝的問題と無関係ではない。

 具体的なイメージとしては、有名な「ナッツ姫」や、その母親などの報道を見れば一目で理解できる。

 http://omura-highschool.net/2017/06/24/32029/

 https://ameblo.jp/great-purple-emperor/entry-12447457722.html

 朝鮮人は、有史以来、近親婚を繰り返してきた歴史的事実があり、さらに「試し腹」という習慣があった。これもデマと否定されているが、事実として存在していた。
 http://omura-highschool.net/2019/03/28/45383/

 そもそも、日本による植民地統治までは、朝鮮には奴隷制度があり、激しい差別体制があった。女性は、男性にとって「子を産む道具」でしかなかった。
 朝鮮半島では、ホンネや真実を話せない。すべてが儒教の長幼序列価値観の下で抑圧されるから、忍耐を重ねても、ときどき火病を演じて爆発させ、ストレスを発散するしかなかった。

 韓国から長幼序列制度・儒教の影響が消える日まで、火病が消える日も来ないだろう。
 だが、朝鮮と同じように、頑強な差別体制が続いたイギリスでも、近親相姦が存在していることは重要だ。

 タブーを超えて調査......英国での「極端な近親交配」の実態が明らかに 2019年9月10日
 https://www.newsweekjapan.jp/stories/world/2019/09/post-12962.php

 <豪クイーンズランド大学の研究チームは、英国人およそ50万人の遺伝子情報のデータベースを用い、「極端な近親交配」について分析した......>

 近親交配は、両親の血縁が近いため、両者が有する共通の劣性遺伝子が子に伝わって発現する可能性が高く、先天性疾患などが起きやすくなると考えられてきた。しかし、長年の文化的なタブーであり、違法と定める国もあることなどから、その調査は難しく、近親交配の実態や健康に及ぼす影響について、まだ十分に明らかにされていない面がある。

 約0.03%(3652人あたり1人)が「極端な近親交配」によって生まれた
 豪クイーンズランド大学の研究チームは、英国人およそ50万人の遺伝子情報が登録されている「バイオバンク(UKB)」のデータベースを用い、1938年から1967年に生まれたヨーロッパ系の45万6426人を対象に、第一度近親者(親子、きょうだい)間もしくは第二度近親者(祖父母、孫、おじ、おば、おい、めい)間の「極端な近親交配(EI)」について分析した。

 2019年9月3日にオープンアクセス誌「ネイチャーコミュニケーションズ」で発表した研究論文によると、対象者のうち、男性65名、女性60名の合わせて125名が、第一度近親者もしくは第二度近親者の間に生まれた子であることを示す遺伝子情報を有していた。

 この分析結果をふまえ、研究チームは、「1938年から1967年に英国で生まれたヨーロッパ系のうち、約0.03%(3652人あたり1人)が『極端な近親交配』によって生まれた子であると推定される」と述べている。

 健康に与える影響は......
 研究チームでは、「極端な近親交配」が健康に与える影響についても分析した。その結果、「極端な近親交配」と肺機能、視力、認知機能などの低下との間に関連が認められた。また、「極端な近親交配」によって生まれた子は、あらゆる種類の疾病にかかるリスクが高まることもわかった。

 「バイオバンク(UKB)」に登録されている人は、概ね、他の英国人に比べて健康で、教育水準の高い人であることから、研究チームは、この研究で示した推定値について「実際よりも低く偏っている可能性がある」との見方を示し、「『極端な近親交配』をより正確に定量化するためには、大規模な研究が必要だ」と指摘している。
****************************************************************

 これらの記事に関して、私の印象を直截にいえば、差別体制が頑強で、社会の風通しの悪い閉塞的な土地(朝鮮・韓国・英国・ユダヤ人社会)では、開かれた自由な人間関係よりも、人の拘束を前提とした荒んだ異常な関係が多くなるのではないかということだ。

 もしも、人間関係がオープンで、たくさんの人と自由に交際できる環境があるなら、閉塞のなかにある近親相姦など起きる理由がない。
 だから、日本にあっても、近親婚の弊害が出ているのは、離島や未解放部落などの差別地域なのだ。

 天皇家など皇族に近親婚の弊害が出たのも、それが閉鎖社会だからである。解放された社会では、近親婚など何の必然性もない。我々と、子供たちの未来にとって必要な社会は、閉ざされた人間関係ではなく、オープンで自由闊達、毎日が楽しい社会である。

http://tokaiama.blog69.fc2.com/blog-entry-1559.html

20. 中川隆[-17338] koaQ7Jey 2021年8月09日 06:55:39 : Dzasa0Gixw : MExBYVlRR2FTb00=[4] 報告

2021.08.08
自分たちから離れていくかつての属国を引き戻そうと必死のバイデン政権
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202108080000/


 アメリカのジョー・バイデン政権はユーラシア大陸の東側で盛んに動いている。同政権は「対アジア政策」、事実上の対中国政策の責任者としてカート・キャンベルを選んだが、この人物の働きで「東アジア戦略報告(ナイ・レポート)」が1995年2月に作成されている。このレポートによって日本はアメリカの戦争マシーンに組み込まれていく。

 7月25日にウェンディ・シャーマン国務副長官が天津を訪問し、翌日には謝鋒外務次官や王毅国務委員兼外相と会談したが、中国の外交分野におけるトップである中央外事活動委員会弁公室の楊潔篪主任には会えなかった。

 その直後にロイド・オースチン国防長官がフィリピンとベトナムを、またジョン・ブリンケン国務長官はインドをそれぞれ訪れたが、いずれも中国へ軍事的な圧力を加えるための拠点作りだと言えるだろう。

 アメリカは1898年にスペインと戦争を行って勝利、中央アメリカから南アメリカにかけての地域を植民地化、さらにフィリピンも侵略して住民を虐殺している。フィリピンは大陸を侵略する重要な拠点と認識されていた。

 その前にアメリカやイギリスは日本でクーデターを成功させ、新体制を侵略戦争へと誘導する。イギリスはアーネスト・サトーらが暗躍していたが、アメリカでは厦門の領事だったチャールズ・ルジャンドルや駐日公使だったチャールズ・デロング。ふたりは明治政権に対し、台湾へ派兵するよう煽っていた。台湾へ派兵するために琉球を併合することになる。

 そこから江華島事件、日清戦争、日露戦争、シベリア派兵、「満州国」の建国、ノモンハン事件、そして1941年の関東軍特種演習。ここまでは中国からロシア/ソ連を支配するというアメリカやイギリスの戦略に合致している。

 現在、アメリカは日本を「巨大空母」化させ、自衛隊の傭兵化を進めている。沖縄での軍事力を増強、台湾の現政権はアメリカの言いなり。次にフィリピンを制圧しようとするのは必然だろう。韓国の現政権を屈服させて橋頭堡にしようとしている。明治時代と同じようなことを行っているのだ。長期戦略に変化はないとも言える。

 19世紀にイギリスが立てた長期戦略はユーラシア大陸の周辺部を制圧し、内陸部を締め上げるというもの。その戦略をまとめたのが地政学の父とも言われるハルフォード・マッキンダーで、ジョージ・ケナンの「封じ込め政策」やズビグネフ・ブレジンスキーの「グランド・チェスボード」もその戦略に基づいている。

 アメリカは2018年5月に「太平洋軍」を「インド・太平洋軍」へ作り替えたが、これもマッキンダーの理論に合致している。日本を太平洋側の拠点、インドを太平洋側の拠点にし、インドネシアが領海域をつなぐとされた。そこでアメリカやその手下である日本がインドへ働きかけているのだが、働きかけなければならない状況だとも言える。インドはアメリカとの距離を置き始めたのだ。インドネシアもアメリカの思惑通りには動いていない。

 アメリカはインドと中国の対立を煽ってきた。昨年5月にもインド北部のラダックと中国のチベット自治区にはさまれた場所にあるパンゴン湖でインドと中国が衝突、緊張が高まっていたが、今年8月6日に両国軍の撤退が発表された。緊張緩和の流れを阻止することがブリンケン国務長官の与えられた使命だろう。国防長官や国務長官が走り回らなければならないほど、ユーラシア大陸東部の国々はアメリカから距離を置こうとしている。

 そうしたこともあり、NATOがユーラシア大陸の反対側までやってこようとしている。例えば事務総長を務めるイェンス・ストルテンベルグは「NATO2030」なるプロジェクトを始めると2020年6月8日に宣言したが、イギリス軍やフランス軍が東アジアへ現れるようになった理由はその辺にあるのだろう。

 アメリカのインド・太平洋軍司令部は8月3日から16日の日程で、40年ぶりの大艦隊演習だという「LSGE21(2021年大規模演習)」を実施している。アメリカの海軍と海兵隊が演習の主体だが、アメリカの陸軍、空軍、海軍、海兵隊、そしてイギリス軍、オーストラリア軍、自衛隊も合流しているという。

 周辺国を威嚇しているつもりかもしれないが、すでに空母を中心とする艦隊の時代は過ぎ去った。1982年4月にアルゼンチン軍とイギリス軍がフォークランド(マルビナス)諸島の沖で軍事衝突、5月にアルゼンチン軍の対艦ミサイル、エグゾセがイギリスの軍艦、HMSシェフィールドなどを撃沈、他の感染にもダメージを与えている。

 あわてたイギリスのマーガレット・サッチャーはパリでフランスのフランソワ・ミッテランと会談し、ミサイルを無効化するコードを教えるように要求、それでイギリスは勝利することができたと言われている。この戦争で艦隊の時代は終わったと言えるだろう。

 現在、ロシアや中国が保有している対艦ミサイルはエグゾセとは比較にならないほど性能が向上している。海上を航行する艦船はすぐに撃沈される可能性が高く、アメリカの空母艦隊はかつての「戦艦大和」と似た状況に置かれている。

 アメリカは脅しながら交渉する。例えば大統領に就任した直後、ドワイト・アイゼンハワーは泥沼化した朝鮮戦争から抜け出すため、中国に対して休戦に応じなければ核兵器を使うと脅したとされている。それを副大統領として見ていたリチャード・ニクソンはベトナム戦争の際に同じ手法を使ったともいう。(Daniel Ellsberg, “The Doomsday Machine,” Bloomsbury, 2017)

 現在、アメリカは台湾を利用し、中国に対して軍事的な圧力を強めているが、1958年8月から9月にかけての時期にも台湾海峡で軍事的な緊張が高まっていた。エルズバーグによると、1958年の危機当時、ジョン・フォスター・ダレス国務長官は金門島と馬祖に核兵器を投下する準備をしていた。そして現在、​バイデン政権は同じことが国防総省で議論されている​という。脅しても相手が屈するとは限らないと言うことをアメリカが学べないなら、世界は非常に危険な状態になる。

https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202108080000/

21. 中川隆[-17326] koaQ7Jey 2021年8月09日 18:15:37 : m9K9ux4HhQ : NjVDV3VXWUpZN2s=[6] 報告

22. 2021年8月10日 05:46:46 : vQyPMzu3FY : NVZsaVNGQzJVQkE=[10] 報告

23. 中川隆[-17230] koaQ7Jey 2021年8月14日 18:35:22 : gzyd9RRqFI : Z3R2dlZPSEFCOUE=[31] 報告

10万人死亡「東京大空襲」の翌朝、政府が何と言ったかご存じですか
国民を守ろうとはしなかった…
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/54614?imp=0


頻発する空襲を経てもなお「空襲は怖くない。逃げずに火を消せ」と言い続けた日本政府(前回記事を参照)。この方針は、一挙に大規模となった東京大空襲の被害を目の当たりにしても、変更されなかった。

一度始まった政府方針は、簡単には修正されない。それでも、当時の政府方針に立ち向かおうとした議員がいた。その渾身の言葉に耳を傾けて、いま私たちはどう生きるべきか考える糧にしたい。

10万人が死亡しても「空襲を恐れるな」
1945年(昭和20年)3月10日の深夜0時08分、約300機のB29爆撃機が東京上空に飛来し、約2時間で33万発以上の焼夷弾を投下した。「東京大空襲」である。

現在の江東区・墨田区・台東区を中心に、千代田区や江戸川区も含む広範囲が焼け野原となった。一夜で10万人が死亡し、罹災家屋は27万戸にのぼった。

この大惨事を受けて、さすがの日本政府も「逃げずに火を消せ」の方針を変更するかと思いきや、そうならなかった。空襲の直後、西尾壽造・東京都長官(現在の知事にあたる)と坂信弥・警視総監も、都民にむけた告諭で次のように呼びかけた。

【東京都長官と警視総監の連名による告諭】
・罹災者の救護には万全を期している。
・都民は空襲を恐れることなく、ますます一致団結して奮って皇都庇護の大任を全うせよ。
「恐れるな」など無理な話だ。しかし、空襲による悲惨な被害実態はラジオや新聞で報道されず、「被害は僅少」という大本営発表が報じられたので、それを信じる国民も多かったはずである。


さらに、この日の午後7時20分、小磯國昭首相はラジオ演説で次のように国民へ呼びかけた。

【小磯首相のラジオ演説】
・敵は、今後ますます空襲を激化してくると考えます。敢然として空襲に耐えることこそ勝利の近道であります。
・断じて一時の不幸に屈することなく、国民が聖戦目的の達成に邁進することを切望する。
家族と自宅を失って慟哭する国民に対し、「空襲に耐えろ」「一時の不幸に屈するな」と呼びかけている。これ以上どうやって耐えればよいのか、その方策は示されていない。

2日後には名古屋、その翌日には大阪が大空襲の被害を受けた。いずれも約280機の爆撃機が襲来して猛烈な被害を生じた。

3月15日付の読売報知には、陸軍当局が示した大空襲の教訓として「やはり初期防火の徹底である」という勇ましい呼びかけを掲載。同日の朝日新聞は、「初期防火と延焼防止 最後まで頑張れ 焼夷攻撃に怯まず敢闘」と一面に掲載した。

夜間大空襲の明朝に、内務省が発した命令は
空襲の夜が明けて、東京に広大な焼け野原が広がった。この光景をみて直ちに、防空対策を担当する内務省が発した命令がある。

残念ながら、「避難せよ、身を守れ」という布告ではなく、科学的見地から「このように消火せよ」という指示でもない。空襲予告ビラを所持するなという命令であった。

空襲予告ビラとは、全国各地で上空から米軍機が散布したものである。時期により内容が異なり、1945年7月に散布されたものは、このように攻撃対象都市を列挙していた。

米軍機が1945年7月に各地で散布した空襲予告ビラ (国立公文書館所蔵)
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なお、ここに書かれた12都市は、1945年7月から8月にかけて予告通りに空襲を受けている(高岡市の空襲被災地域は現在は射水市内となっている)。

予告ビラが初めて散布されたのは、東京大空襲の1ヵ月前、1945年2月17日であった。関東から東海地方までの広範囲で、落ちたビラを恐る恐る拾ったという体験談が多く残っている。

この空襲予告を国民が真に受けると、不安や動揺が広がり、都市から大勢が逃げ出す事態が起きたり、政府批判・戦争批判の世論が高まりかねない。

そこで、憲兵司令部は火消しに走った。

「(ビラは)荒唐無稽だ」「敵の宣伝を流布してはならない」「発見したら直ちに憲兵隊や警察に届け出よ。一枚たりとも国土に存在させぬように」と発表し、それが新聞各紙にも掲載された。

ところが1ヵ月後の東京大空襲では、空襲予告ビラに書かれたとおり甚大な被害が出た。今後も空襲予告ビラの散布は繰り返されるだろう。政府としては「次はこの街が攻撃される」という動揺が広がるのを何としても避けたい。

そこで、東京大空襲の日に、「敵のビラを届け出ずに所持した者は最大で懲役2ヵ月に処する」という命令を定めてしまった(内務省令「敵の文書、図書等の届出等に関する件」)。

左から、朝日新聞1945年2月18日付、読売報知同年5月22日付、同年3月10日の内務省令
拡大画像表示
避難施設や消火機材の整備は遅々として進まないのに、こうした国民統制は迅速に進むのである。

本来は、空襲予告ビラが撒かれたら、それを隠すのではなく、むしろ周知して「この街から逃げてください」と知らせるべきではないか。そうすれば多数の生命が助けられたのではないか。悔やまれてならない。


たとえ自衛戦争だったとしても
それから敗戦までの5ヵ月間、全国の地方都市も空襲を受けていくが、政府は「逃げずに火を消せ」という防空法による方針を変更しなかった。

広島・長崎の惨事をみた後には「原子爆弾には初期消火をせよ」という指示まで発していた(過去記事を参照)。

日本が「我が国の権益を守るための自衛戦争だ」という名目で始めた戦争だったが、最終的には、国民が命を捨てて国を守るよう命じられた。

たとえ自衛戦争だったとしても、国民を守るのではなく、国民が犠牲となって国家を守るという意味での「自衛」だったように思う。

こうした過去の事実は、現代の私たちにも示唆を与える。

憲法改正や自衛権行使のあり方が問い直されているが、もし将来、国家の自衛のために国民が愛国心をもって「国を守る義務」を負わされるとすれば、それは過去の歴史の繰り返しになってしまう。

自民党が2012年4月に発表した憲法改正案は、国民は誇りと気概をもって自ら国を守るものだと明記している。それが道徳となり空気となることが恐ろしい。

かつて日本政府は「戦争には必ず勝てる」「空襲の被害は軽微だ」という嘘を重ねた。それが国民総動員の原動力となった。

今の政府は、同じような過ちを繰り返さないだろうか。

ニュースをみれば、資料の廃棄(南スーダン自衛隊派遣、加計学園問題)や、不適切な比較資料(裁量労働問題)など、不都合な事実を隠蔽しているのではないかと疑わしい事態が繰り返されている。

こうした体質の政府が「非常事態だから自衛のため武力行使をする」というとき、国民に向けて正しい情報と判断材料を提供するだろうか。もし疑問をもっても、特定秘密保護法が壁となって事実を知ったり知らせたりすることは困難なのではないか。

あらためて、戦争は国民に何をもたらすのか。政府は国民を守るのか。過去の事実から学ぶべきことは多いように思える。

前回記事はこちら:焼夷弾は手掴み、空襲は大丈夫…国民は「東京大空襲」をどう迎えたか http://gendai.ismedia.jp/articles/-/54545
拙著『逃げるな、火を消せ!―― 戦時下 トンデモ 防空法』には、戦時中の写真・ポスター・図版を200点以上掲載している。本稿で触れた帝国議会での審理や、当時の新聞記事も豊富に掲載している。敗戦へ向かう社会の空気を感じ取っていただければ幸いである。

焦土に立つ議事堂で「逃げろと言っていただきたい」
東京大空襲の翌日(3月11日)、午前10時9分から貴族院本会議、午後3時9分からは衆議院本会議が始まった。議事堂の周囲は、1月27日の銀座空襲と前日の東京大空襲により焦土と化していた。


貴族院では小磯首相が演説した。空襲で傷ついた国民にムチを打つように、「職場に、防衛に、輸送に、国民ことごとく戦列につき、断じて我が国体と我が国土とを護り抜かんこと」を要望した。

各議員からの質問は、国際情勢や本土決戦をめぐり政府を礼賛する内容が多かったが、最後に登壇した大河内輝耕(おおこうち・きこう)の質問は様相が違った。次のように政府の空襲対策を批判したのである。

政府のやることが全て後手に回っている。例えば防空の問題。疎開の必要性を我々は主張していたが政府は一向に聞かない。それどころか「疎開する者は非国民だ」とまで言いだした。ぐずぐずしているうちに、昨日の被害、死傷者が出た。


学童以外の疎開を制限してきた政府方針を真っ向から批判する。空襲の翌日、焼け跡の異臭が漂うなかで、1人の人間として政府の方針を批判せずにはいられなかったのであろう。

大河内議員は、3月14日にも貴族院本会議で登壇した。大達茂雄内務大臣が3月10日の東京大空襲の被害状況を淡々と報告したのに対し、「簡単に質問をいたします」と立ち上がり、次のように迫った。

私の質問は、「人貴きか、物貴きか」と、こういう質問なんであります。
防空施設を整えるという話もあるが、私はこうなっては間に合わないと思う。大都会が焦土化するのは時間の問題だと思います。次は東京が全部やられるかも知れない。その場合に、人を助けるか物を助けるか、どっちを助けるかを伺いたい。
私は、人を助ける方がよいと思う。
消防などは二の次でよいから、身をもって逃げるということが一番よいと思う。
内務大臣から隣組長などに、「火は消さなくてもよいから逃げろ」と言っていただきたい。
避難を禁止して消火義務を負わせる防空体制を根本から否定している。この大河内議員は、東条英機首相による選挙干渉を議会で批判するなど、時流に流されない立ち位置を維持してきた稀有な議員であった。

これに対し、内務大臣は「焼夷弾に対して市民が果敢に健闘いたしております」「初めから逃げてしまうということは、これはどうかと思うのであります」と答弁。

東京大空襲の惨状をみても、国民を守るための軌道修正をしようという姿勢は皆無であった。


24. 中川隆[-17228] koaQ7Jey 2021年8月14日 18:41:12 : gzyd9RRqFI : Z3R2dlZPSEFCOUE=[33] 報告
東京大空襲の前、政府は金持ちだけを疎開させ、金を用意できない物は空襲にそなえて労働をさせた。
国に従っているとこういう目に遭う

画像引用:https://gendai.ismedia.jp/articles/-/54614?page=3 10万人死亡「東京大空襲」の翌朝、政府が何と言ったかご存じですか(大前 治) _ 現代ビジネス _ 講談社(3_4)

国民に自粛させ、上級国民は贅沢を楽しむ

日本政府は何度目かの緊急事態を宣言し、帰省や外出の自粛を呼び掛けているが、従う人は減っている。

1回目、2回目、3回目と回を重ねるごとに人々は自粛しなくなり、堂々と出歩いて会食している。

飲食店の営業自粛も裏道が考案され、営業していないように装って営業している店もある。


自粛を要請している政府関係者が会食し、後でばれて言い訳したり謝罪するのも恒例になっています。

緊急事態宣言が出される度に前の流行の感染者数を上回り、最近は一日1万人以上が新規感染している。

政府はさまざまな給付金を配ったが、はっきり言って困っている人には金を出さず、金が余っている人に配った。


売上がコロナ前と比較し50%減、使い道はコロナ対策に限るなど様々な条件を付けて給付や融資を絞っている。

実際に政府が金を出して個人事業者に融資する制度に申し込んでみると、「アンタなんで申し込んだの?」のような対応を受けるという。

告知には誰でも融資を受けれるように書いてあるが、政府系金融機関の担当者によると「優良企業で使い道はコロナ対策のみ」だそうです。


こんな風に総理大臣や政府当局が説明している事と実際にやっていることは大きく食い違っている。

コロナで多くの人が収入が減ったり解雇された筈だが、今までに国民全員対象の支援は10万円の1回だけです。

その後の給付金や融資には必ず条件をつけ、国民のほとんどが該当しないように仕組んであります。


それでいて優良企業や大手企業には大盤振る舞いで、無利子無審査でいくらでも貸し付けている。

そのおかげでコロナにも拘わらず倒産件数は少なく、政府は「景気は回復しているので何も対策しない」と言っている。

大企業優先で小企業は後回し、個人は「豊かな人優先」で困窮者には絶対に支援しない


これらへの国民の答えは「国の命令なんかばからしくて聞けるか」という事です。

国を信用するな

東京五輪が開催されたが国民には自粛を強要しておいて、五輪村では自由になんでもやり放題でした。

さらにIOCの五輪関係者は事実上の治外法権扱いで、自粛と関係なく遊び歩いていました。

こんな姿を見ても政府に従い自粛している人は、筋金入りの愛国者だと思います。


話は変わるが第二次大戦のとき、徴兵、学徒出陣、疎開、防空壕つくりなどがあった。

これらは国民全員平等だったのではなく、金持ちの息子は徴兵を免除され、優先して田舎に疎開していた。

疎開にはお金が必要で、政府は子供1人当たりいくらと決め、金を用意できない家の子供は疎開できなかった。


集団疎開は子供がするものだったが、大人でも金さえあれば富裕層の人たちは家族ぐるみで安全な田舎に避難しました。

学徒出陣は悲劇としてマスコミが好む題材ですが、大学生は徴兵を免除されるなど優遇されていた。

少年達が戦場で戦っている時に大学生は徴兵を免除されていたのが、末期にやっと出兵したのが学徒出陣で、悲劇だったのは大学に通っていない少年兵たちでした。


出陣した大学生は最初から少尉なので命令する側、自分は安全な場所にいて多くの人は生きて帰国した。

さてお金がなくて疎開できなかった大人たちは東京などで防空壕つくりや空襲に備えた作業をやらされた。

金持ちは田舎で疎開ライフをエンジョイしているのに、お金がない人達は東京で労働をさせられ、ほとんどの人がなくなった。


満州から日本軍が引き上げた時は、「ソ連軍と最終決戦に行く」と嘘をついて列車で38度線まで逃げ、足手まといになるので数百万人の日本人を置き去りにした。

国なんかを信用して従っていると、最後にこういう目に遭います。

http://www.thutmosev.com/archives/86505307.html  

25. 2021年8月15日 14:40:47 : 70oYF1QPwo : TFRDT1E0QXFmWFE=[27] 報告
これだけあった特攻隊員に覚醒剤♀O道の証拠 「チョコ包むの見た」証言から元教員が追跡
8/15
https://news.yahoo.co.jp/articles/ec2358d65039c2cabb217440f3db353ff6a15628

太平洋で、米軍艦艇に突入を試みる日本軍の特攻機=1945年5月

 太平洋戦争末期、米艦に零戦機などで突っ込み、時に軍神≠ニあがめられたり、時に「無駄死にだった」と切り捨てられたりもした特攻作戦の悲劇。出撃前の特攻隊員には覚醒剤「ヒロポン」が与えられていた。この問題は真正面から研究された様子がないが、大阪の元中学教員の相可文代さん(71)は、勤労奉仕で覚醒剤入りのチョコレートを包む作業に従事した女学生の実体験を知ったことをきっかけに独自に調べ、このほど冊子にまとめた。

 覚醒剤と知らされず服用し命を散らした若者らの悲哀と、上官や国家体制の無責任さ。志願制とは名ばかりの死への強制の中で、最後には薬物も使った特攻作戦はまさに「統率の外道」(大西滝治郎海軍中将)だ。「祖国に命をささげた美談のように語られるが、実際には覚醒剤による高揚感に満ちないと敵艦には突入できなかった」と相可さん。「実証」にこだわった研究を、冊子の記述と相可さんの言葉からたどる。引用は原文のままとした。(共同通信=真下周)

 ▽「一口食べてカッと体が熱くなった」

 2016年9月、相可さんは平和学習会で戦争体験者から思いがけない話を聞いた。「兵隊さんに送るチョコを包む仕事と言われ、プレハブ工場に連れて行かれました」「チョコを一口食べ、カッと体が熱くなったのを覚えています」

 大阪府高槻市在住の梅田和子さん(90)は、1945年の春、茨木高等女学校(現在の府立春日丘高校)の学生だった。父は弁護士で、大阪市内の裕福な家に生まれ育った。空襲がひどくなり、祖母と高槻に疎開していた。

 隣の同府茨木市にあったゴルフ場は陸軍の食糧補給機関になっていた。備蓄用の食料品が保管され、ここから戦地に運ばれていった。市内の山間部に海軍関連の倉庫として建設された地下トンネルにも、特攻隊が出撃前に食べるための覚醒剤入りのチョコ(チューブ型)が保管されていたようだ。

 茨木高女には、食糧補給機関の支所が置かれ、校舎も軍需工場として稼働していた。運動場の片隅に小さなプレハブ小屋が建てられ、梅田さんは包装作業をしながら勤労奉仕の女学生らを監督する任務に就かされた。


女学生らは15センチほどの棒状のチョコバーをクラフト紙で包んでいた。チョコバーには菊の御紋が付いていた。初日、梅田さんは上級生らに校舎の屋上に呼び出され、「これを食べろ」と迫られた。戦時中は裕福な家庭でもめったに食べられなかったチョコ。一口食べるとカッと体が熱くなったことを今でも鮮明に覚えている。上級生らは「特攻隊が最後に食べるもので、何か入っているみたい。食べたからにはおまえも同罪。先生にはゼッタイに言うな」と口止めした。

 ▽恐ろしい「機能性食品」

 教員として生徒を送り出してきた身近な高校で、過去にこのような出来事があったことに相可さんは衝撃を受けた。背景や実態を調べようと思い立ち、最初に参考にした本が「50年前日本空軍が創った機能性食品」。陸軍航空技術研究所(東京・立川市)の研究員として戦時中、空軍の携行食開発に従事していた岩垂荘二氏が93年にまとめた著書。ヒロポン入りのチョコの話が記されていた。

 43年ごろ、ナチス・ドイツ空軍がヒロポン(覚醒剤)入りのチョコを製造し、飛行士に食べさせ効果が上がっているとの報告があり、上官である川島四郎大佐から「すぐにつくって補給したい」と命令され、棒状のヒロポン入りチョコをつくり、特別に補給したという。「今考えると、とんでもない、おそろしい機能性食品である。(中略)これも戦争という残酷な状況のなせるわざであろう」と岩垂氏は回想している。

 ヒロポンは大日本住友製薬の前身の大日本製薬が開発した覚醒剤の商品名だ。戦争中、兵士や夜間勤務者らの間で「ヒロウ(疲労)がポンと回復する」との効果で知られていた。戦後民間に出回り、大量の中毒者が若年層にも出たことで51年に制定された覚醒剤取締法により厳格に規制された。

 ▽注射で「勇躍機上の人に」

 相可さんは「『名将』『愚将』大逆転の太平洋戦史」(新井喜美夫著)に「かつて筆者は某製菓会社の重役から聞いたことがある。そこではヒロポンが大量に供給され、回りをチョコレートでくるみ、菊の紋章を刻印したものを、定期的に軍に納めていたという」というくだりを見つけた。梅田さんの経験と一致した。


チョコ以外にも覚醒剤はいろいろな形で提供されていたようだ。ミュージシャン大貫妙子の父親大貫健一郎少尉は、鹿児島・知覧基地から沖縄特攻に出撃した時の話を記している。「菊の御紋が入ったタバコ、沢の鶴の二合瓶…(中略)…。長距離飛行の途中で眠くならないようにとヒロポン入りの酒まで用意されており、『元気酒』と名づけられていました」(共著書「特攻隊振武寮 証言・帰還兵は地獄を見た」より)という。

 「(チョコやタバコの)菊の紋章を見た特攻兵たちは、自分たちへの天皇の期待を感じ取っただろうし、覚醒剤効果で恐怖心はかなり軽減されていたのでは」と相可さんは推測する。

 「突撃錠」と呼ばれていた丸薬を飲み「腰の軍刀を振り回しながら、離陸していく士官もいた」との証言を記したノンフィクション作品(日高恒太朗作「不時着」)もあった。「特攻とは」(沓名坂男著)に収められた元白菊特攻隊の一等飛行兵曹の手記には「定刻になって出撃隊整列、(中略)腕をまくり注射、今まで酒でふらついていた身体がみるみる立ち直ってくる。その内にシャキーッと酔などどこへやら、神経は昂り身内から闘志が湧いてくるのを感じる。そして水盃をいっきに呑み干し、その盃を地面に叩きつけ、勇躍機上の人となる」と記されている。

 出撃前に整列して杯を飲み干し、杯を地面にたたきつけるシーンは、2013年12月に公開された映画「永遠の0(ゼロ)」でも、印象的な場面として描かれている。

 ▽後遺症に悩まされた元操縦士

 「重い飛行機雲 太平洋戦争日本空軍秘話」(渡辺洋二著)には、戦後、覚醒剤の後遺症に悩む戦闘機の元操縦士が取り上げられていた。首都圏を夜間に空襲する米軍のB29爆撃機を打ち落とす任務のたびに“暗視ホルモン注射”を軍医官に打たれた。「眠気もよおさず、妙に頭が冴えわたり、帰投後は強い睡眠薬を定量よりも多く服薬して無理に横になるときもあった。また、食欲の減退もはっきり現れてきた」

 戦後、通勤の満員電車で奇妙な感覚にとらわれた。「押し合いながら乗っている周りの人々の手や鼻が、自分の目に飛び込んでくる感じ」。40年ほども症状に悩まされ続けた。症状がよくなってから数年後、かつての軍医官が現れ、暗視ホルモンの正体はヒロポンだったと告げ、謝罪したという。覚醒剤は人体をむしばみ、生き残った人にも、取り返しの付かない影を落としていた。

軍国主義教育で染め上げられた社会の中で、徹底的に粗末に扱われた若者の命と対照的に、上官や軍部の無責任さも浮かび上がる。「最後の一機で必ずおまえたちの後を追う」と部下を鼓舞しながら、敗戦となると「後始末も大事だ」と言葉を翻し、戦後を長く生きた上官らもいた。

 ▽「永遠の0」の危うさ

 特攻隊を考える時、相可さんの頭にはいつも映画「永遠の0」の存在がある。「映画館には若い人がいっぱいで、終了後には感動のため息が漏れていた。私は非常に複雑な気持ちだった」と述懐する。優秀なパイロットを死なせる特攻作戦のまずさ、軍司令部の愚かさは表現されていたが、「死」を受け入れる心情の美しさ、自ら犠牲になる気高さが強調されることで戦争責任をあいまいにし、日本がやった戦争への反省から目を背けている、と厳しく批判する。

 相可さんは1950年、三重県生まれ。大阪府摂津市の小学校教員となり、84年から定年退職の2010年まで中学校で社会科を教えてきた。

 忘れられない体験がある。ロールプレイを見て「日中戦争は是か非か」を生徒たちが判断する授業を見学した。最初は「非」の立場の生徒が圧倒的に多かった。だが「戦争はやむを得なかった」論が展開されると、オセロのように意見がひっくり返っていく。立場を変えた生徒らは「納得できた」と生き生きした表情を見せ、最後まで「非」を表明した少数の生徒たちはしょんぼりしていた。

 「是」の理屈が「非」を上回る“説得力”を持っていると痛感した。「戦争はダメ、平和は尊い」と情緒に訴えるやり方では不十分で、「非」を表明した子どもたちを支える論理が必要だと悟った。相可さんがリアリズムに徹する原点はここだ。戦争の実相を伝え、なぜこうなったのか事実から論証することを肝に銘じてきた。

 「いつの時代も右側の人もいるし、左側の人もいる。しかしほとんどは真ん中にいる人たち。その人たちがどちらの側につくかで世の中は変わる」。退職後、教科書問題に取り組み、戦争を美化しようとする言説に徹底的に目を光らせてきた。国内外の情勢や時代状況で、雪崩を打つように中間層が「戦争やむなし」の言説に傾斜し、好戦論者を生んでしまわぬよう引き留めるのが役目と自任する。

 調査を終えた今、こう語る。「戦争で命の奪い合いを兵士にさせる時、国家権力は残酷なことをする。隊員たちは死を前に苦しんでいた。面目もあった。(果たさぬことで)家族に累が及ぶことも考えた。彼らの心情にウソはなかった。普通、命は惜しいもの。異様な興奮状態にならなければ自らの命を絶つことはできない。美談がいかに危険な論理か。特に若い人には、きちんとした歴史認識に結びつけて考えてもらいたい」

 相可さんが著した冊子「『ヒロポン』と『特攻』 女学生が包んだ『覚醒剤入りチョコレート』 梅田和子さんの戦争体験からの考察」は、1冊500円。連絡はo−fumiyo@kdt.biglobe.ne.jp

26. 2021年8月16日 16:51:52 : Zuf7i5dxxo : MFFxVTlPQ00xLjI=[28] 報告

2021.08.16
天皇が「臣民」に対し、ポツダム宣言を受諾したと発表して76年
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202108150000/


 昭和天皇(裕仁)は1945年8月15日、日本人に対して声明を発表した。「玉音放送」、あるいは「終戦勅語」と呼ばれているもので、「ポツダム宣言」の受諾をアメリカ、イギリス、中国、ソ連の4カ国に伝えたと「臣民」に発表したのである。宣言の受諾は8月9日の「御前会議」で決まり、翌日には連合国側へ打電したという。日本が正式に降伏したのは1945年9月2日。その日、東京湾内に停泊していたアメリカの戦艦ミズーリで政府全権の重光葵と大本営(日本軍)全権の梅津美治郎が降伏文書に調印したのである。

 日本が降伏した後、1945年9月26日に哲学者の三木清が獄死した。疥癬という皮膚病の患者が使っていた毛布を三木にあてがい、意識的に病気を感染させて不眠と栄養失調で死に至らしめた可能性が高い。

 その前日、ソ連のバチェスラフ・モロトフ外相は憲兵や警官など戦前の治安体制が存続していることを批判していた。三木の死について調べていたロイターのR・リュベンは10月3日に山崎巌内相と会い、話を聞いている。その際に内相は特高警察の健在ぶりを強調し、天皇制に反対する人間は逮捕すると言い切っている。同じ日に岩田宙造法相は中央通訊社の宋徳和記者に対し、政治犯を釈放する意志はないと明言した。

 ロイターのインタビュー記事が報じられるとSCAP(連合軍最高司令官)のダグラス・マッカーサーは「政治、信教ならびに民権の自由に対する制限の撤廃、政治犯の釈放」を指令し、6日後の10月10日に政治犯は釈放された。

 日本側は天皇制が維持されると認識、政治犯を釈放しないと考えていたわけだが、この判断を間違いだと言うことはできない。

 戦後日本の進む方向を決めたジャパンロビーの中心にはジョセフ・グルーがいた。1932年から41年にかけて駐日アメリカ大使を務めた人物で、彼のいとこにあたるジェーンはジョン・ピアポント・モルガン・ジュニア、つまりJPモルガンの総帥の妻である。そのJPモルガンはフランクリン・ルーズベルトを中心とするニューディール派を倒してファシズム体制を樹立するため、1932年から33年にかけての時期にクーデターを計画している。

 ジョージ・ケナンやダレス兄弟と同じように、グルーはコミュニストを敵視していた。アメリカの外交官にはそうした人が多く、フランクリン・ルーズベルトは大統領時代、ファシストの巣窟と言われていた国務省を信じず、外交は個人的に信頼していたハリー・ホプキンスに頼っていた。

 グルーは日本の支配層に太いパイプがあり、秩父宮、近衛文麿、松平恒雄、徳川家達、幣原喜重郎、樺山愛輔、牧野伸顕、吉田茂、岸信介、松岡洋右らと親密な関係にあった。JPモルガンと最も深くつながっていたとされているのは井上準之助だ。

 「戦前レジーム」と「戦後レジーム」はいずれも「天皇制官僚体制」で、本質な違いはない。その象徴がグルーだ。そしてアメリカの手先になる日本軍の幹部は温存され、思想弾圧の中心になった思想検察や特高警察の人脈が戦後も生き残り、要職に就いた。

https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202108150000/

27. 中川隆[-16490] koaQ7Jey 2021年9月09日 07:33:43 : RIeGMRjDA2 : WWJhdXU0aU1Kdms=[21] 報告
731部隊と医療被曝 _ 無事に内地に帰還した731部隊員は何をやったのか?
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/471.html
28. 2021年10月07日 10:43:02 : eAnA8vXCag : a3JobkR2NS41a00=[23] 報告
日本では「防衛」を前提にした議論が続けられてきたが、実態は「侵略」である。「親米リベラル」を自称する人びとは否定したいようだが、19世紀から続くアングロ・サクソンの長期戦略はまだ生きている。

アメリカ、イギリス、オーストラリアのアングロ・サクソン系の国と日本やインドはユーラシア大陸の周辺部を支配し、内陸国を締め上げるというイギリスの長期戦略に組み込まれてきた。大陸を締め上げる「三日月帯」の西端がイギリス、東端が日本だ。

 日本は中国やロシアを封じ込めるために重要な位置にあるだけでなく、戦闘員の供給源でもある。アヘン戦争でも明らかなように、中国を制圧するだけの戦力をイギリスもアメリカも持っていない。アメリカ国防総省のシンクタンク、RANDコーポレーションは2016年に中国との戦争を想定した文書を作成したが、そこでも地上での戦闘は考えられていなかった。地上戦を行うなら日本人を使うしかない。

 かつて中国侵略を狙うイギリスとアメリカが日本列島と日本人に目をつけ、「明治維新」を支援、新体制になってからイギリスの外交官アーネスト・サトー、アメリカの厦門駐在領事だったチャールズ・ルジャンドルや駐日公使だったチャールズ・デロングは台湾や大陸を侵略するように焚きつけていた。そして明治政府は琉球併合、台湾派兵、江華島事件、日清戦争、日露戦争へと突き進む。

 この当時と基本的に同じことを現在の日本も求められている。沖縄はアメリカの軍事基地になっているが、沖縄諸島から先島諸島へと自衛隊は活動範囲を拡大させている。その先にある台湾は2016年から総統を務めている蔡英文がアメリカにすり寄り、中国を揺さぶる拠点になっている。
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202110070000/

29. 中川隆[-15641] koaQ7Jey 2021年11月01日 19:28:14 : iqAOGccErg : SEp1OTlwWGlHaWs=[32] 報告
衆院選後の世界〜ますます進む「仮想現実」の源流をたどる




【講座の目次】
〇資本主義200年の歴史から日本を捉える(00:00~)

黒船来航で動いたビッグマネー(03:06~)
 ・ペリー来航とは何だったのか
 ・米国政府に提出された「日本開国計画」(07:23~)
 ・ロスチャイルドの代理人「アーロン パーマー」「オーガスト ベルモント」
 ・なぜ日本に注目したのか

日本は世界システムを知っていた(14:00~)
 ・朝日新聞広告 武藤貞一著「ユダヤ人の対日攻勢」
・毎日新聞主催「国際思想戦とユダヤ問題」講演会

世界はマトリックス (30:30~)
 ・脱炭素社会の実現
   石油とガスを使わない世界が本当に来るのか?
   脱炭素社会の次に来るのは?
・中国共産党の役割
   ユニバーサルスタジオ北京がオープン!?
 ・世界規模の軍事ビジネスが展開する
30. 中川隆[-15322] koaQ7Jey 2021年11月12日 17:11:33 : JZhKWZY5ss : emliVkpFYTd6RU0=[31] 報告
日本のゴールド「天皇の金塊」をジェームズ斉藤が徹底解説! 知られざる日本の財宝、驚愕の金額…米デフォルトと関連
2021.11.12
https://tocana.jp/2021/11/post_225242_entry.html


【連載:某国諜報機関関係者で一切の情報が国家機密扱いのジェームズ斉藤(@JamesSaito33)が斬る! 国際ニュース裏情報】

※本記事は、公開するにあたって非常にリスクの高い危険な内容を含む記事となっておりますので、後半部分は有料化します。本記事の内容を拡散・コピペ・引用することは固く禁じます。

ジェームズ 今日はアメリカのデフォルトにからんだ日本のゴールドの話をしましょう。

──アメリカのデフォルトと日本のゴールドが何か関係しているんですか? 

ジェームズ 密接な関係です。まず、アメリカのデフォルトの説明からしていくと、今年の9月28日にイエレン米財務長官が「このままではアメリカは10月18日にデフォルトする。議会は連邦債務の上限を引き上げるか、上限を停止しないといけない」と訴えていました。実は今年の夏頃からデフォルトの話は出ていたんですが、9月28日に米議会が債務の上限の引き上げを拒否したんで改めて財務長官が訴えたわけです。その後、米議会は一旦、否決していた連邦債務の法定上限を引き上げることにし、デフォルトの期限は12月3日まで延びたんですが、根本的な問題は解決していません。

──それはわかるんですけど、デフォルトはアメリカの国内問題じゃないですか?

ジェームズ もちろん、アメリカの問題です。ただし、アメリカは10月の間、何度も「ゴールドを送れ」と日本に言ってきているのです。それは日本のゴールドの担当の一人から聞いています。

──すいません、それはどういうことですか? なぜ、日本がアメリカの借金返済にゴールドを送らないといけないんですか? というか、日本のゴールドって何ですか? ゴールドの担当って何ですか?

ジェームズ 日本のゴールドについてはきちんと話したものってそれほどないのでわからない人も多いのですが、昔、高橋五郎さんという人が書いた『天皇の金塊』が最も詳しいでしょう。

──あっ、それは読みました。でも、あれって本当なんですか? 超スパイのベラスコとか。

ジェームズ 基本的に間違っていません。超スパイのベラスコはイエズス会の神父でバチカンの使者です。彼は第二次大戦中、天皇のスパイとして、つまり、天皇の手足として働いていました。彼はマンハッタン計画にもエージェントを送り込んでいました。


Leonhard NiederwimmerによるPixabayからの画像
──えっ、あの原爆計画ですか!?

ジェームズ はい。天皇は計画の初期の頃からかなり正確な情報を掴んでいたはずです。それもベラスコがバチカン経由で、エージェントを送り込んでいたからです。そのベラスコが天皇に近づいた理由は天皇のゴールドです。

──なんか凄い話になりそうですけど、そもそも天皇のゴールドって第二次大戦中に東南アジア各地で集めた金塊で山下財宝とかそういう話ですよね。

ジェームズ そうです。それが日本のゴールドの一部です。

──でも、山下財宝とかってフィリピンのマルコスが盗んだとか、マッカーサーが掘り起こしてしまってもうないって話じゃないんですか?

ジェームズ 『天皇の金塊』にはそうは書いてないですよね? 日本のゴールドはいまでもあるのです。だいたい、ちょっと考えてみればわかるじゃないですか? なぜ、敗戦国の日本が急激に復興できたんですか? 1960年代にはGDPで世界ナンバー2になっていますよ。あれは全部、天皇のゴールドを使ったからですよ。

──そうなんですか? 朝鮮動乱による戦争経済で発展したというのは。

ジェームズ それもありますが、大元である工場とかはどうしたんですか? 日本の都市という都市は焼け野原だったんですよ。単純な話、その復興の資金はどこから出ているんですか? あと極めつけは日米安保条約です。日本は米国に一方的に守ってもらうという条約ですよね。普通に考えたら、米国にとって不平等条約ですよ、あれは。なぜ、そんな条約を戦勝国が結んでいるんですか? 現に米韓同盟を見てください。韓国は軍隊を持ち、徴兵制まで敷いて米国の極東戦略に貢献しようとしています。なのに日本は軍隊を持ちたくないと言って拒否してますよ。そんなことは国際条約では普通は有りえません。常にギブ&テイクが国際関係です。

──つまり、日本のギブは天皇のゴールドだったと。

ジェームズ その通りです。そもそも日本のゴールドは米国に日本の防衛をしてもらうために昭和天皇とマッカーサーが合意し、吉田茂首相が米国と協力して1951年の日米安保条約調印の時に秘密条項として制度化したものです。ちなみに、国際条約には必ず秘密協定があります。これは世界の常識で、知らないのは国際法の学者ぐらいです。しかも国際条約の秘密条項にはほぼ必ずバチカン関連のゴールドが運用されます。

 つまり、条約締結国家が違反をすると経済的な締め上げをくらうということです。このようなことができるのは超国家勢力でしかも「神」の力をバックにしたバチカンくらいでしょう。やはりGHQも日米安保条約締結前には、イエズス会の大物であった、エドマンド・ワルシュ神父を来日させて、様々な調整をさせていました。日米安保条約では、米国は日本を守り、日本は米国にゴールドを貢ぐという役割分担です。これによって世界史でも唯一と言っていい、「片一方が軍隊を持たない軍事同盟」という奇妙な体制ができあがったわけです。ですから、日本はその密約によって、米国が困った時にはゴールドを供出する義務があるのです。

──そんな密約がまだ有効なんですか?

ジェームズ 当然です。日米安保が有効である以上、有効です。ですから、日本にゴールドがある限り、尖閣は大丈夫とも言えます。

──う〜ん、なんだか、半信半疑ですが。だって、日本のゴールドはGHQが既に隠退蔵物資として接収しまくっていたという話もあります。

ジェームズ いえいえ、あれは銀行等に預けてあった貴金属やダイヤなんかを持っていっただけです。実際にGHQは日銀の金庫の一部に捜査に入っています。一方、退蔵物資は日本中に隠していました。天皇のゴールドはいまでも日本国内にありますし、フィリピンにもあります。また、スイスの銀行にも天皇の名義で保管されています。もちろん、かなりの量、アメリカに取られていますが、それでもまだ大量に残っていると聞いています。

──実際いくらぐらいなんですか?

https://tocana.jp/2021/11/post_225242_entry.html  

31. 中川隆[-14780] koaQ7Jey 2021年12月07日 08:38:15 : 2zSsj4hxA6 : M1FvMG5mVWxiOGc=[48] 報告

昭和天皇は戦争に前のめりになっていた?元侍従長の日記
2021-12-05  

80年目の12月8日(太平洋戦争が始まった日)を迎えようとする中、12月5日の朝日新聞に「昭和天皇が10月の段階で既に開戦に前のめりになり、気持ちが先行しているので側近がお引きとめ申し上げている。先ごろから陛下の表情が明るいので不思議に思った」などと書かれた元侍従長の日記の記述が報じられ、注目されていま(朝日新聞記事から抜粋)太平洋戦争開戦前の1941(昭和16)年10〜11月、昭和天皇が開戦について「覚悟」した様子を側近に示したととれる記述が、当時侍従長だった百武三郎(ひゃくたけさぶろう)(1872〜1963)の日記から見つかった。

戦後の連合国による極東国際軍事裁判(東京裁判)では、昭和天皇は開戦に慎重で平和を望んだが「政府や軍部の進言でしぶしぶ同意に至った」として不起訴とされた。しかし近年の歴史研究により、開戦直前に開戦を前提に戦争終結策を思案したり、開戦後は戦果に満足し積極的な作戦を求めたりするなど、戦争に前向きな姿勢を示した時期もあったとする史料も見つかっている。百武の日記の記述から、開戦に対する天皇の姿勢の変化についての研究が深まりそうだ。 


▲△▽▼

※朝日新聞、紙面一部文字起こし

昭和天皇 開戦「覚悟」の秋

侍従長日記に記述 内大臣「ご先行お引きとめ」

 太平洋戦争開戦前の1941(昭和16)年10〜11月、昭和天皇が開戦について「覚悟」した様子を側近に示したととれる記述が、侍従長だった百武三郎(ひゃくたけさぶろう)(1872〜1963)の日記から見つかった。開戦の是非をめぐって悩み、揺れ動く天皇の日々が記された中に「すでに覚悟あらせられる様子」「ご先行をお引きとめ申し上げる」などの側近の言葉が書かれていた。▼2面=にじむ苦悩

 日記は8日で開戦80年となる今年、遺族から東京大学に寄託された。

 戦後の連合国による極東国際軍事裁判(東京裁判)では、昭和天皇は開戦に慎重で平和を望んだが「政府や軍部の進言でしぶしぶ同意に至った」として不起訴とされた。しかし近年の歴史研究により、開戦直前に開戦を前提に戦争終結策を思案したり、開戦後は戦果に満足し積極的な作戦を求めたりするなど、戦争に前向きな姿勢を示した時期もあったとする史料も見つかっている。百武の日記の記述から、開戦に対する天皇の姿勢の変化についての研究が深まりそうだ。

 開戦をめぐる姿勢についての記述があったのは、百武の41年10月13日の日記。昭和天皇に拝謁(はいえつ)(面会)した松平恒雄(まつだいらつねお)宮内大臣から「切迫した時機に対し、すでに覚悟あらせられるようなご様子だ」と聞いたと記載。天皇の気持ちが先行する様子を懸念したとみられる木戸幸一(きどこういち)内大臣の「ときどき先行するのをお引きとめ申し上げている」との発言も記した。

 日中戦争や日独伊三国軍事同盟について日本を非難する米国との戦争を避けようと41年春に始まった日米交渉が進展せず、事態打開のため近衛文麿(このえふみまろ)首相が8月に提案したルーズベルト米大統領との首脳会談も米国側は拒否。近衛内閣が行き詰まり、10月16日に総辞職する直前のことだ。

 百武は11月20日にも、木戸が「陛下の決意は行き過ぎのように見える」と語ったと記し、「(東郷茂徳〈とうごうしげのり〉)外相の前ではあくまで平和の道を尽くすべきだと印象づける発言をするようお願いした」との木戸の発言を書き取っている。

 百武は日清と日露の戦争に従軍した海軍軍人。36年の二・二六事件で襲撃され負傷した鈴木貫太郎の後任として同年に侍従長に着任し、終戦直前の44年まで8年近く務めた。

 在任中に書き留めた日記などの記述は、宮内庁書陵部が編纂(へんさん)し2014年に公開された「昭和天皇実録」に多数引用され、初めて存在が明らかにされた。遺族から東大大学院法学政治学研究科の近代日本法政史料センター原資料部に日記や手帳計25冊やメモ類が寄託され、今年9月から閲覧可能となった。

 これまで百武については政治に関与せず、侍従長として「天皇の身の回りの世話役」に徹したとする見方が強かった。日記に天皇をめぐる政治や軍事に関する記述が多く残されていたことに、歴史研究者からは驚きの声も出ている。

 戦前や戦中の昭和天皇の動向に詳しい茶谷(ちゃだに)誠一・志學館大教授(日本近現代史)は「昭和天皇の姿勢が開戦に向けて傾斜しつつあることに側近から懸念が示されたとの詳しい記述は、昭和天皇実録を含む従来の史料にはなかった。日本の指導者がどのような過程で開戦に至ったかを天皇側近の目から記した重要な記録だ」と話している。(編集委員・北野隆一)

http://www.asyura2.com/21/senkyo284/msg/501.html

32. 2021年12月08日 10:03:51 : SJtHPiXsUc : Sm45S0QzRkFPMFE=[44] 報告

2021.12.08
琉球併合から真珠湾攻撃への道を先導した米英の金融資本は今も日本を操る
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202112080000/


 日本軍がハワイの真珠湾を奇襲攻撃したのは今から80年前、1941年の12月7日(現地時間)のことだった。真珠湾に対する攻撃によって日本はアメリカと戦争を始めることになるが、その直前に日本軍はマレーシア北端の港町コタバルを奇襲攻撃している。UTC(協定世界時)に直すとハワイを攻撃したのは7日の18時、コタバルは7日の17時だ。

 当時の日本にとってもエネルギー資源、つまり石油の確保は重要な問題だった。戦争を始めるとなればなおさら。アメリカと戦争を始めると3年目から石油が不足すると見通されていた。

 対日石油禁輸は「日本をインドシナに駆り立てる」とアメリカのフランクリン・ルーズベルト大統領も考え、1941年8月の段階では石油禁輸に賛成していなかったという。1937年より前の日本に対する石油輸出量は維持するとしていたようだ。そうした中、アメリカの財務省は石油代金の支払い方法で日本に圧力を加えた。(岩間敏、戦争と石油(1)、石油・天然ガスレビュー、2006年3月)

 言うまでもなく、アメリカとの戦争を始める背景には中国における戦争が泥沼化していたことにある。

 日本の大陸侵略は1894年に勃発した日清戦争から始まったと言えるだろうが、そこへ到達する道を作ったのはイギリスとアメリカだった。イギリスの外交官として日本にいたアーネスト・サトウ、あるいはアメリカの駐日公使だったチャールズ・デロングや厦門の領事だったチャールズ・ルジャンドルたちは日本政府に対して大陸を侵略するようにけしかけている。

 ルジャンドルは1872年12月にアメリカ領事を辞任して帰国する途中、日本に立ち寄ったが、そのルジャンドルをデロングは日本の外務省に対し、顧問として雇うように推薦する。そして外務卿だった副島種臣の顧問になり、台湾への派兵を勧めた。その口実を作るため、日本政府は琉球を急遽、併合したわけである。

 1874年に日本は台湾へ派兵、続いて75年には李氏朝鮮の首都を守る要衝の江華島へ軍艦を派遣して挑発、「日朝修好条規」を結ばせて清国の宗主権を否定させることに成功した。さらに無関税特権を認めさせ、釜山、仁川、元山を開港させている。

 1894年に甲午農民戦争(東学党の乱)が起こり、体制が揺らぐ。それを見た日本政府は「邦人保護」を名目にして軍隊を派遣、その一方で朝鮮政府の依頼で清も出兵して日清戦争につながった。この戦争で日本は勝利し、大陸侵略を始めたわけである。

 朝鮮では高宗の父にあたる興宣大院君と高宗の妻だった閔妃と対立、主導権は閔妃の一族が握っていた。閔妃がロシアとつながることを恐れた日本政府は1895年に日本の官憲と「大陸浪人」を使って宮廷を襲撃し、閔妃を含む女性3名を殺害した。その際、性的な陵辱を加えたとされている。その中心にいた三浦梧楼公使はその後、枢密院顧問や宮中顧問官という要職についた。

 閔妃惨殺の4年後、中国では義和団を中心とする反帝国主義運動が広がり、この運動を口実にして帝政ロシアは1900年に中国東北部へ15万の兵を派遣する。その翌年には事件を処理するために北京議定書が結ばれ、列強は北京郊外に軍隊を駐留させることができるようになった。

 イギリスはロシアに対抗するため、1902年に日本と同盟協約を締結し、その日本は04年2月に仁川沖と旅順港を奇襲攻撃、日露戦争が始まる。日本に戦費を用立てたのはロスチャイルド系のクーン・ローブを経営していたジェイコブ・シッフだ。詳細は割愛するが、1905年5月にロシアのバルチック艦隊は「日本海海戦」で日本海軍に敗北する。

 そこで登場してくるのが「棍棒外交」のセオドア・ルーズベルト米大統領。講和勧告を出したのだ。9月に講和条約が調印され、日本の大陸における基盤ができた。講和条約が結ばれた2カ月後、桂太郎首相はアメリカで「鉄道王」と呼ばれていたエドワード・ハリマンと満鉄の共同経営に合意したのだが、ポーツマス会議で日本全権を務めた小村寿太郎はこの合意に反対し、覚書は破棄されている。

 一連の動きの中で金子堅太郎の果たした役割は大きい。金子は小村と同じようにハーバード大学で法律を学んでいるが、彼らの2年後輩がセオドア・ルーズベルトだ。1890年に金子とルーズベルトはルーズベルトの自宅で合い、親しくなった。なお、金子の親友だった団琢磨は同じ時期にマサチューセッツ工科大学で学び、三井財閥の大番頭と呼ばれるようになる。

 日本政府の使節としてアメリカにいた金子は1904年にハーバード大学でアングロ・サクソンの価値観を支持するために日本はロシアと戦っていると演説し、同じことをシカゴやニューヨークでも語っていた。日露戦争の後、ルーズベルトは日本が自分たちのために戦ったと書いている。こうした関係が韓国併合に結びつくわけだ。(James Bradley, “The China Mirage,” Little, Brown and Company, 2015)

 当然のことながら、朝鮮側では独立運動が起こる。その拠点になったのが中国吉林省の間島地方だった。そうした事情もあり、日本では中国東北部への支配願望が強まり、1932年の「満州国」樹立につながる。この傀儡国家の矛先はソ連にも向けられていただろうが、それはイギリスやアメリカの金融資本の思惑とも合致していた。

 ところが、その金融資本を震撼させる出来事が1932年にアメリカであった。彼らが担いでいた現職のハーバート・フーバーがニューディール派のフランクリン・ルーズベルトに敗れたのだ。

 フーバーはスタンフォード大学を卒業した後、鉱山技師としてアリゾナにあるロスチャイルドの鉱山で働いていた人物で、利益のためなら安全を軽視するタイプだったことから経営者に好かれたと言われている。大統領として大企業/富裕層を優遇する政策を続け、庶民の怒りを買っていた。その怒りが選挙結果に表れたわけだ。そのフーバーが大統領の任期を終える直前に駐日大使として日本へ送り込んだのがジョセフ・グルー。

 この人物は皇族を含む日本の支配層に強力なネットワークを持っていたが、特に親しかったとされている人物が松岡洋右。松岡の妹が結婚した佐藤松介は岸信介や佐藤栄作の叔父にあたり、岸もグルーと親しい関係にあった。秩父宮雍仁もグルーの友人として知られている。

 グルーのいとこであるジェーンはジョン・ピアポント・モルガン・ジュニア、つまりJPモルガンの総帥の妻。しかもグルーが結婚していたアリスの曾祖父オリバー・ペリーはアメリカ海軍の伝説的な軍人で、その弟は「黒船」で有名なマシュー・ペリーだ。

 大統領就任式は1933年3月に予定されていたが、その直前、2月15日にフロリダ州マイアミで開かれた集会でルーズベルトは銃撃事件に巻き込まれる。イタリア系のレンガ職人、ジュゼッペ・ザンガラが32口径のリボルバーから5発の弾丸を発射したのだ。誰を狙ったか不明だが、当時の状況から次期大統領を狙っていた可能性が高い。

 フランクリン・ルーズベルトを中心とするニューディール派の政権が誕生した後、ウォール街の巨大金融資本はニューディール派を排除し、ファシズム体制を樹立する目的でクーデターを計画した。この事実を明らかにしたのは名誉勲章を2度授与されたアメリカ海兵隊の伝説的な軍人、スメドリー・バトラー少将だ。

 バトラー少将によると、1933年7月に在郷軍人会の幹部ふたりが少将の自宅を訪問したところから話は始まる。在郷軍人会の改革に協力して欲しいということだったが、訪問の目的を図りかねたバトラーは明確に答えず、口を濁している。

 そのふたりは1カ月後に再びバトラーの家を訪れ、シカゴで開かれる在郷軍人会の大会へ数百人の退役兵士を引き連れて参加し、演説して欲しいと要請する。必要な経費を負担するということだった。ふたりは演説の原稿を置いて帰ったが、その原稿に金本位制への復帰を求める文言が含まれていたという。

 後にふたりはバトラーから急かされる形でスポンサーのひとりがグレイソン・マレット-プレボスト・マーフィだということを明かす。マーフィは在郷軍人会を創設したメンバーのひとりで、ウォール街で証券会社を経営するほか、モルガン系のギャランティー・トラストの重役でもあった。(Jules Archer, “The Plot to Seize the White House,” Skyhorse Publishing, 2007)

 ウォール街からの訪問者は、ドイツのナチスやイタリアのファシスト党、中でもフランスの「クロワ・ド・フ(火の十字軍)」の戦術を参考にしていた。50万名規模の組織を編成して政府を威圧し、「スーパー長官」のようなポストを新たに設置して大統領の重責を引き継ぐとしていた。

 クーデターの計画を聞き出した上でバトラーはカウンター・クーデターを宣言、50万人の兵士を利用してファシズム体制の樹立を目指すつもりなら、自分は50万人以上を動かして対抗すると宣言する。内戦を覚悟するようにバトラーは警告したのだ。(Public Hearings before the Speecial Committee on Un-American Activities, House of Representatives, 73rd Congress, 2nd Session, Testimony of Major General Smedley D. Butler, December 29, 1934)

 計画が発覚すると、名指しされた人びとは誤解だと弁解したが、非米活動特別委員会はクーデター計画の存在を否定することはできなかった。それにもかかわらず、何ら法的な処分は勿論、これ以上の調査は行われず、メディアもこの事件を追及していない。

 この問題でウォール街を追い詰めても内戦になる可能性があったからだろうが、第2次世界大戦が終わった後ならウォール街とファシストとの関係が追及される可能性があった。そうならなかったのはルーズベルトが1945年4月に急死、ホワイトハウスでニューディール派が主導権を奪われ、大戦後にレッド・パージで反ファシスト勢力が弾圧されたからだろう。

 この問題でバトラーは信頼していたフィラデルフィア・レコードの編集者トム・オニールに相談、オニールはポール・コムリー・フレンチを確認のために派遣している。フレンチは1934年9月にウォール街のメンバーを取材、コミュニストから国を守るためにファシスト政権をアメリカに樹立させる必要があるという話を引き出した。この話をフレンチは議会で証言している。

 大戦後、アメリカ政府はナチスの幹部や協力者を保護、南アメリカなどへ逃亡させ、雇い入れた人物も少なくない。アメリカの情報機関が戦後に行った秘密工作にファシストの幹部だった人物が参加している。

 日本でもアメリカのハリー・トルーマン政権は民主主義勢力を弾圧している。そうした政策の最前線に立っていたのが「ジャパン・ロビー」と呼ばれるグループ。その中心だったACJ(アメリカ対日協議会)が創設されたのは1948年6月のことだった。その中心にいたのはジョセフ・グルーで、背後にはウォール街の大物がいた。

 アメリカ政府が慌てて作った憲法では天皇制の維持が宣言され、思想や言論を統制するシステムの中核だった思想検察や特別高等警察の人脈は戦後も生き残った。軍の一部幹部はアメリカの手先として活動することになる。中でも「KATO(H)機関」は有名だ。その後、警察や自衛隊をアメリカの軍や情報機関が教育するシステムが作られた。

https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202112080000/

33. 2021年12月18日 19:06:41 : 1VLhHFsx4M : N2dIa1FJRVNkVm8=[1] 報告
財政政策検討本部 第2弾!インフレ懸念は本当か?戦後インフレの原因を検証!【西田昌司ビデオレター令和3年12月17日】

34. 2021年12月30日 09:58:56 : QGbWav8upI : alV4ODBaczIyVTI=[12] 報告
【Ch桜大学】ペリー来航と日本開国計画〜日本に押し寄せたグローバリズム
2021/12/30

35. 2022年1月02日 11:42:37 : rkFdnDoh5I : cC4wM08zbU5MNDI=[1] 報告
2022.01.02
アメリカとの軍事同盟を強化しようとしている蔡英文政権の悲喜劇(3/3)
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202201020000/

 アメリカやイギリスの私的権力は明治維新以来、日本に大きな影響を及ぼしてきた。イギリスの外交官として日本にいたアーネスト・サトウやアメリカの駐日公使だったチャールズ・デロングや厦門の領事だったチャールズ・ルジャンドルたちはいずれも日本に大陸を攻撃させたがっていた。

 ルジャンドルはアメリカへ戻る途中に日本へ立ち寄り、デロングと大陸侵略について話し合う。デロングは日本の外務省に対してルジャンドルを顧問として雇うように推薦、ルジャンドルは1872年12月にアメリカ領事を辞任して外務卿だった副島種臣の顧問になり、台湾への派兵を勧めた。その直前、1872年9月に明治政府は「琉球藩」をでっちあげて琉球を併合、74年5月に台湾へ軍事侵攻した。

 1875年9月に明治政府は李氏朝鮮の首都を守る要衝の江華島へ軍艦を派遣して挑発、「日朝修好条規」を結ばせて清国の宗主権を否定させることに成功、さらに無関税特権を認めさせ、釜山、仁川、元山を開港させている。

 朝鮮では1894年に甲午農民戦争(東学党の乱)が起こり、体制が揺らぐ。それを見た日本政府は「邦人保護」を名目にして軍隊を派遣、その一方で朝鮮政府の依頼で清も軍隊を出して日清戦争につながる。

 当時、朝鮮では高宗の父にあたる興宣大院君と高宗の妻だった閔妃と対立、主導権は閔妃の一族が握っていた。閔妃がロシアとつながることを恐れた日本政府は1895年に日本の官憲と「大陸浪人」を使って宮廷を襲撃して閔妃を含む女性3名を殺害、その際に性的な陵辱を加えたとされている。その中心にいた三浦梧楼公使はその後、枢密院顧問や宮中顧問官という要職についた。

 閔妃惨殺の4年後、中国では義和団を中心とする反帝国主義運動が広がり、この運動を口実にして帝政ロシアは1900年に中国東北部へ15万の兵を派遣する。その翌年には事件を処理するために北京議定書が結ばれ、列強は北京郊外に軍隊を駐留させることができるようになった。

 イギリスはロシアに対抗するため、1902年に日本と同盟協約を締結し、その日本は04年2月に仁川沖と旅順港を奇襲攻撃、日露戦争が始まる。日本に戦費を用立てたのはロスチャイルド系のクーン・ローブを経営していたジェイコブ・シッフだ。

 1905年5月にロシアのバルチック艦隊は「日本海海戦」で日本海軍に敗北するが、そこで登場してくるのが「棍棒外交」のセオドア・ルーズベルト米大統領。講和勧告を出したのだ。9月に講和条約が調印され、日本の大陸における基盤ができた。

 講和条約が結ばれた2カ月後、桂太郎首相はアメリカで「鉄道王」と呼ばれていたエドワード・ハリマンと満鉄の共同経営に合意したのだが、ポーツマス会議で日本全権を務めた小村寿太郎はこの合意に反対し、覚書は破棄されている。アメリカの私的権力は中国への侵略を本格化させるつもりだったのだろうが、小村によって阻止された形だ。

 それに対し、アメリカ側の意向に従って動いていたのが金子堅太郎。金子は小村と同じようにハーバード大学で法律を学んでいるが、彼らの2年後輩がセオドア・ルーズベルトだ。1890年に金子とルーズベルトはルーズベルトの自宅で合い、親しくなる。

 日本政府の使節としてアメリカにいた金子は1904年にハーバード大学でアングロ・サクソンの価値観を支持するために日本はロシアと戦っていると演説し、同じことをシカゴやニューヨークでも語っていた。日露戦争の後、ルーズベルトは日本が自分たちのために戦ったと書いている。こうした関係が韓国併合に結びつくわけだ。(James Bradley, “The China Mirage,” Little, Brown and Company, 2015)

 当然のことながら、朝鮮側では独立運動が起こる。その拠点になったのが中国吉林省の間島地方だった。そうした事情もあり、日本では中国東北部への支配願望が強まり、1932年の「満州国」樹立につながる。この傀儡国家の矛先はソ連にも向けられていただろうが、それはイギリスやアメリカの金融資本の思惑とも合致していた。

 その後、日本は米英と戦争状態に入るが、大戦後、ウォール街に天皇制官僚システムが従属するという関係が復活する。GHQ/SCAPに保護された旧日本軍の将校は少なくないが、そのひとり、岡村寧次大将の下へ蒋介石のグループは接近する。1949年4月に岡村の下へ曹士徴を密使として派遣する。当時、岡村はGHQ/SCAPの保護下に入っていた。岡本たちの行動の背後にアメリカがいたのだろう。

 曹は岡村や富田直亮少将と東京の高輪で会談して台湾義勇軍を編成することで合意、富田少将が「白鴻亮」の名前で義勇軍を指揮することになった。そこで義勇軍は「白(パイ)団」と呼ばれている。

 白団は1950年の正月頃に台湾へ渡り、日本軍の戦術や軍事情報を台湾軍に教育して国家総動員体制を伝授しはじめたが、その工作には陸軍士官学校34期の服部卓四郎、西浦進、堀場一雄、あるいは海軍の及川古四郎、大前敏一らが協力していた。翌年の夏までに83名の旧日本軍参謀が台湾へ渡り、1969年のことまで顧問団として活動を続けたが、途中で工作の主導権はアメリカが握る。

 その一方、CIAの顧問団に率いられた約2000名の国民党軍は1951年4月に中国領内へ軍事侵攻、一時は片馬を占領したが、反撃にあって追い出された。翌年の8月にも国民党軍は中国へ侵攻しているが、この時も人民解放軍の反撃で失敗に終わっている。

 そしてアメリカ大統領は1953年にハリー・トルーマンからドワイト・アイゼンハワーへ交代。新大統領は泥沼化した朝鮮戦争から抜け出そうと考え、中国に対して休戦に応じなければ核兵器を使うと脅したとされている。そして同年7月に休戦は実現した。(Daniel Ellsberg, “The Doomsday Machine,” Bloomsbury, 2017)

 その後、1958年8月から9月にかけて台湾海峡で軍事的な緊張が高まる。ダニエル・エルズバーグによると、​1958年の危機当時、ジョン・フォスター・ダレス国務長官は金門島と馬祖に核兵器を投下する準備をしていた​。そして現在、バイデン政権は同じことが国防総省で議論されているという。

 現在、​アメリカの特殊部隊と海兵隊の隊員約20名が2020年から台湾で兵士を訓練している​という。19世紀から続くアングロ・サクソンの長期戦略はまだ生きているが、その戦略の手先が少なくなっている。アメリカが「AUKUS」を作らなければならなくなったのはそのためだろう。アメリカのほかオーストラリアとイギリス。日本はあまり頼りになりそうもなく、台湾の蔡英文は「中国憎し」が先走っている。蔡英文の場合、中国と戦う覚悟があるわけでなく、アメリカの威を借りれば独立の夢が叶うと考えただけだろう。(了)
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202201020000/

36. 中川隆[-14294] koaQ7Jey 2022年1月07日 08:47:03 : Mn2VeO2Opg : UE9lTzVVT0NYclU=[6] 報告

2022.01.07ML
米国や英国とAUKUSという軍事同盟を結んだ豪州と日本は軍事的な関係を強めた
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202201070000/

 日本の岸田文雄首相とオーストラリアのスコット・モリソン首相は1月6日、「円滑化協定」に署名したという。これによって、自衛隊とオーストラリア軍は相手の国へ事前に話し合うことなく入国して軍事演習を行えるようになった。

 「COVID-19(2019年-コロナウイルス感染症)騒動」を利用して国全体を刑務所化したと言われいるオーストラリアは昨年9月、アメリカやイギリスと軍事同盟AUKUSを創設したと発表した。それと同時にアメリカとイギリスはオーストラリアに原子力潜水艦の艦隊を建造させるために必要な技術を提供するとも伝えられている。事実上、アメリカの核攻撃力を高めることになるだろう。

 一方、6月28日に防衛副大臣だった中山泰秀はネオコン系シンクタンクのハドソン研究所で講演、中国とロシアの脅威を強調、7月には2021年版の​防衛白書​が閣議で報告されたが、その中で「台湾をめぐる情勢の安定」が日本の「安全保障にとってはもとより、国際社会の安定にとっても重要」だと主張されている。

 アメリカが中国やロシアとの軍事的な緊張を高めている中、安倍晋三元首相は台湾のシンクタンク「国策研究院」が主催したフォーラムに参加、​台湾有事は日本有事であり、日米同盟の有事でもある​と12月に発言している。「ひとつの中国」という建前を否定したわけだ。

 この安倍は総理大臣だった2015年6月、赤坂にある赤坂飯店で開かれた懇親会で「​安保法制は、南シナ海の中国が相手なの​」と口にしたと伝えられている。

 日本とオーストラリアが軍事的なつながりを強めたということは、日本がAUKUSにつながることを意味する。そのAUKUSをロシア国家安全保障会議のニコライ・パトロシェフ議長は中国やロシアを仮想敵とする「アジアのNATO」だと指摘している。少なくともロシアや中国はそう見ている。そのAUKUSと日本は結びついたのだ。

 19世紀以来、日本はアメリカやイギリスの手先となってきた。日本列島は大陸を侵略するための拠点であり、日本人は事実上の傭兵だ。この構図は今も続いている。

 イギリスは1840年から42年にかけて中国(清)に戦争を仕掛けた。アヘン戦争だ。1856年から60年にかけても同じ構図の戦争、第2次アヘン戦争(アロー戦争)が行われている。イギリスはインド産のアヘンを中国へ売りつけようとしたのだが、この時、アメリカはトルコ産のアヘンを中国へ売りつけて大儲けしている。つまり、イギリスとアメリカは麻薬取引のライバルだった。

 アヘン戦争で勝ったイギリスだが、内陸部を占領するだけの戦力がない。そこで彼らは日本に目をつけた。

 アメリカやイギリスの私的権力は明治維新以来、日本に大きな影響を及ぼしてきた。イギリスの外交官として日本にいたアーネスト・サトウやアメリカの駐日公使だったチャールズ・デロングや厦門の領事だったチャールズ・ルジャンドルたちはいずれも日本に大陸を攻撃させたがっていた。

 ルジャンドルはアメリカへ戻る途中に日本へ立ち寄り、デロングと大陸侵略について話し合う。デロングは日本の外務省に対してルジャンドルを顧問として雇うように推薦、ルジャンドルは1872年12月にアメリカ領事を辞任して外務卿だった副島種臣の顧問になり、台湾への派兵を勧めた。その直前、1872年9月に明治政府は「琉球藩」をでっちあげて琉球を併合、74年5月に台湾へ軍事侵攻した。

 1875年9月に明治政府は李氏朝鮮の首都を守る要衝の江華島へ軍艦を派遣して挑発、「日朝修好条規」を結ばせて清国の宗主権を否定させることに成功、さらに無関税特権を認めさせ、釜山、仁川、元山を開港させている。

 朝鮮では1894年に甲午農民戦争(東学党の乱)が起こり、体制が揺らぐ。それを見た日本政府は「邦人保護」を名目にして軍隊を派遣、その一方で朝鮮政府の依頼で清も軍隊を出して日清戦争につながる。

 当時、朝鮮では高宗の父にあたる興宣大院君と高宗の妻だった閔妃と対立、主導権は閔妃の一族が握っていた。閔妃がロシアとつながることを恐れた日本政府は1895年に日本の官憲と「大陸浪人」を使って宮廷を襲撃して閔妃を含む女性3名を殺害、その際に性的な陵辱を加えたとされている。その中心にいた三浦梧楼公使はその後、枢密院顧問や宮中顧問官という要職についた。

 日本は1902年にイギリスと同盟協約を締結、04年2月に仁川沖と旅順港を奇襲攻撃して日露戦争が始まる。その際、日本に戦費を用立てたのはロスチャイルド系のクーン・ローブを経営していたジェイコブ・シッフだ。

 1905年5月にロシアのバルチック艦隊は「日本海海戦」で日本海軍に敗北するが、戦争が長引くと日本は持たない。そこで登場してくるのが「棍棒外交」のセオドア・ルーズベルト米大統領。講和勧告を出したのだ。9月に講和条約が調印され、日本の大陸における基盤ができた。

 講和条約が結ばれた2カ月後、桂太郎首相はアメリカで「鉄道王」と呼ばれていたエドワード・ハリマンと満鉄の共同経営に合意したのだが、ポーツマス会議で日本全権を務めた小村寿太郎はこの合意に反対し、覚書は破棄されている。アメリカの私的権力は中国への侵略を本格化させるつもりだったのだろうが、小村によって阻止された形だ。

 それに対し、アメリカ側の意向に従って動いていたのが金子堅太郎。金子は小村と同じようにハーバード大学で法律を学んでいるが、彼らの2年後輩がセオドア・ルーズベルトだ。1890年に金子とルーズベルトはルーズベルトの自宅で合い、親しくなる。

 日本政府の使節としてアメリカにいた金子は1904年にハーバード大学でアングロ・サクソンの価値観を支持するために日本はロシアと戦っていると演説し、同じことをシカゴやニューヨークでも語っていた。日露戦争の後、ルーズベルトは日本が自分たちのために戦ったと書いている。こうした関係が韓国併合に結びつくわけだ。(James Bradley, “The China Mirage,” Little, Brown and Company, 2015)

 アメリカやイギリスの手先として日本は琉球と台湾を含む封鎖線を作り上げた。その南にあるフィリピンをアメリカは1898年に植民地化、その際に住民を虐殺している。アメリカにとって、このフィリピンも大陸を侵略する拠点であり、独立を容認しない。

 アメリカは中国やロシアを経済や軍事で恫喝、屈服させようとしているが、中国もロシアも屈服しない。恫喝をエスカレートさせれば軍事的な緊張は高まり、どこかの時点で戦争が勃発する可能性がある。そうなれば、日本は戦争の最前線になり、廃墟と化すことは避けられない。原発が無傷でいられるとも思えない。

https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202201070000/

37. 中川隆[-12012] koaQ7Jey 2023年12月11日 07:23:43 : SXBKRMUMis : LjFQbWIuUVJXekk=[1] 報告
<▽31行くらい>
「神風特攻の美談」の真実は
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=16829504

零戦・神風特別攻撃隊【永遠の0】宮部久蔵のモデル、富安俊助の見事な最期!
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14006157

テレビドラマ 零戦・神風特別攻撃隊【永遠の0】(テレビ東京 2015年)
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14010669

【神風特攻隊】悲惨な作戦はなぜ決行されたのか?真実に迫る!
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14149832

神風特攻隊〜青年たち永遠の飛行
http://www.asyura2.com/13/warb11/msg/421.html

特攻隊員は「志願して死んでいった」のか
http://www.asyura2.com/17/ban7/msg/309.html

「私たちがいま生きているのは特攻隊のおかげ」とかいう妄想
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/799.html

神風特攻は太平洋戦争が八百長だと見破られない為に昭和天皇が命令してやらせた
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/564.html

故鬼塚英昭 氏 戦争はすべて八百長 『日本の真相』 - YouTube動画
https://www.youtube.com/watch?v=eUIhcvcSmrA

明治維新と太平洋戦争の真相
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/390.html

38. 中川隆[-10930] koaQ7Jey 2024年4月13日 01:56:24 : kmMjUwx9vE : YkJGUkkvZWRkQlE=[3] 報告
<■102行くらい→右の▽クリックで次のコメントにジャンプ可>
2024.04.13XML
日米首脳会談の背後に明治維新から続くアングロ・サクソンの野望
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202404130000/

 岸田文雄首相は4月10日にジョー・バイデン米大統領と会談、軍事、バイオ、教育を含む「国家改造計画」的な取り決めを打ち出した。アメリカの支配層による日本支配のシステムを強化する内容で、軍事面では1960年代以来の大幅な増強だと世界的に評価されている。かつてなら大規模な抗議活動があったような出来事だ。これまで日本はアメリカの意向に従って戦争の準備をしてきたが、その総括とも言えるだろう。

 日本に対するアメリカからの命令は「日米合同委員会」で伝えられてきたと言われている。1960年に締結された日米地位協定に基づいて設置されたもので、協議(伝達)内容は秘密だ。日本側の代表は外務省北米局長、アメリカ側の代表は在日米軍司令部副司令官だという。日本は現在に至るまでアメリカ軍の占領下にあると言える。

 日本は1951年9月8日、サンフランシスコのオペラハウスで「対日平和条約」に、また同じ日にプレシディオで日米安保条約に調印、アメリカ軍だけが日本を占領し続けられることになった。その1週間前、同じプレシディオでアメリカ、オーストラリア、ニュージーランドの3カ国はANZUS条約に調印している。安全保障条約は1960年に改定され、地位協定も設置された。岸田とバイデンはそれ以来の大改訂を実施したというわけだ。

 しかし、戦後日本の在り方はその前から定めれていた。その道筋を定めたのは「ACJ(アメリカ対日協議会)」を中心とする「ジャパン・ロビー」で、その背後にはウォール街の巨大資本が存在していた。その中心人物であるジョセフ・グルーはJPモルガンの総帥、ジョン・ピアポント・モルガン・ジュニアと結婚した女性のいとこにあたり、1932年から駐日大使を務めている。グルーの妻、アリス・ペリーも日本と関係が深い。彼女の曽祖父は幕末に「黒船」で日本にやって来たマシュー・ペリー提督の兄。こうしたことから、ジョセフ・グルーは日本の皇族や華族に人脈があった。

 こうした人脈が日本に大きな影響力を持つようになる切っ掛けは1923年9月1日の関東大震災である。被災者は340万人以上、死者と行方不明者を合わせると10万5000名を上回り、損害総額は55億から100億円に達していたという。

 復興資金を調達するために外債発行を日本政府は決断、ウォール街を拠点とする巨大金融機関のJPモルガンと交渉する。この巨大金融機関と最も深く結びついていた日本人が井上準之助だ。井上がJPモルガンと親しくなったのは1920年に対中国借款交渉を行った時だという。(NHK取材班編『日本の選択〈6〉金融小国ニッポンの悲劇』角川書店、1995年)

 日本は1904年2月に仁川沖と旅順港を奇襲攻撃して日露戦争を始めたが、日本に戦費を用立てたのはジェイコブ・シッフ。ロスチャイルド系のクーン・ローブを経営していた人物だ。日本に対して約2億ドルを融資している。

 アメリカやイギリスの私的権力は明治維新の前後、日本で暗躍していた。その手先として1859年に来日したのがジャーディン・マセソンのエージェントだったトーマス・グラバーとウィリアム・ケズウィック。横浜を拠点にしたケズウィックの祖母は同社を創設したひとり、ウィリアム・ジャーディンの姉である。

 ジャーディン・マセソンは中国の茶や絹をイギリスへ運び、インドで仕入れたアヘンを中国へ持ち込んむという商売を行っていたが、儲けの大半はアヘンの取り引きによるもので、事実上、麻薬業者だった。

 グラバーとケズウィックが来日した1859年にイギリスのラザフォード・オールコック駐日総領事は長州から5名の若者をイギリスへ留学させることを決める。選ばれたのは井上聞多(馨)、遠藤謹助、山尾庸三、伊藤俊輔(博文)、野村弥吉(井上勝)。5名は1863年にロンドンへ向かうが、この時に船の手配をしたのがジャーディン・マセソンにほかならない。

 明治政府に対し、イギリスのアーネスト・サトウやアメリカのチャールズ・デロングやチャールズ・ルジャンドルといった外交官はアジアを侵略するようにけしかける。

 1871年7月に新政府は廃藩置県を実施するが、その年の10月に宮古島の漁民が台湾に漂着、その一部が殺されたとして日本政府は清に抗議するのだが、この時点で琉球は独立国であり、日本が抗議するのは奇妙な話だ。

 それに気づいたのか、明治政府は1872年に琉球国を潰し、琉球国王に琉球藩王というタグをつける。もし明治政府が琉球国を日本領である、あるいは日本領にしたいと考えていたなら、琉球藩の設置、廃藩置県という順番になるはずだ。廃止したはずの藩を作り、琉球は日本領だという形を作ろうとしたのだろう。そして1874年、明治政府は軍隊を台湾へ送り込んだ。

 琉球国が潰された1872年、フランス系アメリカ人で厦門の領事だったチャールズ・ルジャンドルが来日している。この外交官は台湾から帰国する途中に日本へ立ち寄り、そこでアメリカ公使を務めていたチャールズ・デロングと会っているが、その際、デロングはルジャンドルに対し、日本政府に対して台湾を侵略するようにけしかけていると説明している。(James Bradley, “The Imperial Cruise,” Little, Brown and Company, 2009)

 デロングは日本の外務省に対してルジャンドルを顧問として雇うように推薦、受け入れられたが、ルジャンドルは1872年12月にアメリカ領事を辞任、顧問になった彼は外務卿の副島種臣に台湾への派兵を勧めたのだ。派兵の際、アメリカの軍事顧問が同行したという。(前掲書)

 ルジャンドルは外務省の顧問を辞めた後も日本に滞在、離日したのは1890年。その年から99年まで李氏朝鮮の王、高宗の顧問を務めたという。その当時、朝鮮では興宣大院君(高宗の父)と閔妃(みんぴ)が対立していた。

 そうした中、1894年に朝鮮半島で甲午農民戦争(東学党の乱)が起こり、閔氏の体制が揺らぐ。それを見た日本政府は「邦人保護」を名目にして軍隊を派遣、その一方で朝鮮政府の依頼で清も出兵して日清戦争につながった。この戦争に勝利した日本は1895年4月、「下関条約」に調印して大陸侵略の第一歩を記すことになる。

 清の敗北でロシアへ接近することが予想された閔妃をこの年、日本の三浦梧楼公使たちが暗殺している。日本の官憲と「大陸浪人」が閔妃を含む女性3名を惨殺したのだ。暗殺に加わった三浦公使たちは「証拠不十分」で無罪になっているが、この判決は暗殺に日本政府が関与している印象を世界に広めることになる。その後、三浦は枢密院顧問や宮中顧問官という要職についた。

 明治維新以降、日本にはアングロ・サクソンの手先となり、権力と財力を握った人たちがいる。そうした人びとによって天皇制官僚体制は築かれたのである。その頃から日本列島はアングロ・サクソンが大陸を侵略する拠点になり、日本人は傭兵になった。岸田とバイデンによる会談の背景には中国侵略の野望があるのだろうが、アメリカにそれだけの力があるようには思えない。
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202404130000/

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