日本の中の朝鮮をゆく 飛鳥・奈良編――飛鳥の原に百済の花が咲きました 2015/2/27 兪 弘濬 (著), 橋本 繁 (翻訳) https://www.amazon.co.jp/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E4%B8%AD%E3%81%AE%E6%9C%9D%E9%AE%AE%E3%82%92%E3%82%86%E3%81%8F-%E9%A3%9B%E9%B3%A5%E3%83%BB%E5%A5%88%E8%89%AF%E7%B7%A8%E2%80%95%E2%80%95%E9%A3%9B%E9%B3%A5%E3%81%AE%E5%8E%9F%E3%81%AB%E7%99%BE%E6%B8%88%E3%81%AE%E8%8A%B1%E3%81%8C%E5%92%B2%E3%81%8D%E3%81%BE%E3%81%97%E3%81%9F-%E5%85%AA-%E5%BC%98%E6%BF%AC/dp/4000610244 @ 渡来人の故郷、飛鳥
飛鳥と奈良は、日本の中の朝鮮文化を探す旅の核心であり、日本古代文化のハイライトだ。 日本が古代国家に発展する全過程が飛鳥に残っており、彼らがあれほどまでに望んだ古代国家をついに誕生させた場所が奈良である。 飛鳥に行けば韓国の扶余〔百済の都〕が思い浮かび、奈良の古寺を見れば慶州〔新羅の都〕を連想する。 五世紀に加耶から渡った渡来人が日本に鉄と馬そして加耶の土器文化を伝えたことは、「近つ飛鳥」に確かに残っており、 六世紀の百済から渡っていった渡来人の足跡は、飛鳥ではっきりと見ることができる。 百済王室との交流を通じて仏教と文字を受け入れてついに律令国家となる過程を、石舞台、橘寺、飛鳥寺で見ることになる。 韓国人にもよく知られる高松塚古墳壁画を見ると、高句麗文化の影響力がどれほど長く残っていたのかを痛感する。 日本の古代社会に朝鮮半島からの渡来人が残した文化的結実は、飛鳥の北面にある法隆寺に集約的に見られる。 法隆寺は、日本古代文化の精華であると同時に、朝鮮半島では見ることのできない百済の建築と彫刻の姿を見せてくれる。 七一〇年、平城京に遷都すると同時に始まった奈良時代は、日本古代文化の頂点であった。 薬師寺の東塔、興福寺の仏像彫刻、東大寺の大仏、唐招提寺の彫像彫刻は、日本古代国家の爛熟と栄光を誇る。 この頃になると日本は、朝鮮半島の影響から離れて唐文化に直接接するとともに、より国際的な文化となっていく。 それは、統一新羅の文化と似ていながら異なる、日本文化独自の姿であった。 我々韓国人は、東アジアの一員として、隣国日本のこうした文化的成功を評価することにためらう理由はない。 ▲△▽▼ 日本の中の朝鮮をゆく 飛鳥・奈良編――飛鳥の原に百済の花が咲きました レビュー 赤尖晶石 5つ星のうち4.0 筆者の専門分野での記述は素晴らしかったが・・・ 2015年5月11日 『筆者の専門分野での記述は素晴らしかったが・・・』
仏教美術を中心に日本古来の芸術の特徴や日本人の考え方と、朝鮮の文化や韓国人の考え方とを対比させて論説する文体は、谷崎潤一郎の随筆『陰翳礼讃』を連想させる。特に筆者が専門とする美術史に関する部分は文章が生きており、人を引き付ける力がある。 この筆勢が全編貫かれていれば★5つでしょう。しかし他の部分があまりにも内容が乏しく正確さに欠けるので、本来★3つですが、九州編に比べ日韓の主張を両論併記しようと心掛けている部分も増え、良くなっている部分もあり、おまけして★4つにしました。 (韓国人が読めば全編に渡り『自尊心』を刺激されて、きっと★5つでしょう) 筆のすべりが過ぎて、史料の確認が出来ていないところもある。例えば同行した金教授の説明と、ことわりが入れてあるが「東大寺転害門(大門)の一方の空いた空間に瑪瑙で作った臼があったからと、『七大寺巡礼私記』という古記録を資料名だけ引用して、内容も無く長々と、しかも勘違いして記述しているようだ・・・これは勘弁してほしい。 この部分は七大寺日記(1106年頃)及び七大寺巡礼私記(1140年頃)そのままに、西面大垣三門、北端門碾磑御門(七大寺日記)・・・碾磑亭一宇、七間瓦屋、置碾磑、件亭在於講堂東食堂之北、其亭内置石唐臼、是云碾磑、以馬瑙造之、其色白(七大寺巡礼私記)「西面の大垣に三門あり、北端の門を輾磑御門と云う・・・碾磑亭という七間、瓦葺き一棟があり、碾磑が置かれている。この建物は講堂(大仏殿の北に位置し、1180年に「平重衡の兵火」で焼失)の東にある食堂の北(講堂の北東、碾磑門のはるか東)にあり、中に石の唐臼が置かれているが、これを碾磑といい、瑪瑙で出来ていて、白色である」と巡礼私記等の具体的で正確な内容をそのまま書いてほしかった。私の考えすぎでしょうか、原文の内容を書かなかったのは・・・唐臼とあったから高句麗の臼ではないのではと、この教授は考えてしまったのではないかと・・・日本語の『唐臼』は、目を刻った石臼のことだのに? 碾磑亭は現在の龍蔵院付近である。この部分は、後段に筆者が記述している日本書紀610年の記録『高句麗の僧曇徴』を説明する為の導入部分であるが、日本書紀の現代語訳も間違いがあるし、日本人の読む書物に専門外のことには手を出さない方が良いと私は思った。転害門(碾磑御門)の近所で、瑪瑙の碾磑の設置場所の写真なんか撮れないでしょう・・・漢文が読めてないのでしょう。 それと、3年程前に『食堂』跡の遺跡の井戸から巨大な唐臼の破片が出土していますよ・・転害門から相当離れた東側ですが。 また東大寺正倉院の建築様式が高句麗の桴京だと強弁しているが、徳興里壁画古墳の玄室の絵画でも、井桁組と分かる麻線溝一号墳壁画でも、八清里古墳でも、高床式で屋根が付いていて横木組であるということは分かるが、それ以上の情報は無い。その程度のものなら、時代の古い弥生時代遺跡の穀物倉庫(登呂遺跡。平板を井籠組)にある。正倉院は井籠組の一種の校倉組で、大きな三角形の長尺材を使う甲倉であり、建築が困難な一棟三倉構造をしており、創意と工夫にあふれた巨大な建造物だ。甲倉造りは丸太造りに比べ強度に優れ、丸太では、正倉院の大きさの米倉は建造出来ない。丸木の校倉造は世界各地にあるが、甲倉は日本にしかない日本人の発明であり、稲穀を蓄える巨大な米櫃である。 正倉の名称、倉庫令、倉の位置の名称は、唐の律令制を手本にしていることから、大和朝廷は唐の正倉に匹敵する堂々たる倉の建築を決めて採用したのが甲倉造りだったのであろう。校倉造りの甲倉の米の収容能力は、校倉造り丸木倉の実に3倍から4倍(斛の記録ではなく正倉の実測値)に達している。 では桴京とは何か?・・・三国志『高句麗伝』無大倉庫、家家自有小倉、名之為桴京。私流に訳すと「大きな倉庫は無く、家には自家用の小さな倉があり、これを名付けて『桴京』という」・・・根拠は壁画とこれだけ。私は話にならないと思った。高床式建物は確かに北方系建築様式でもあり、北方系のアムール川流域の古アジア系民族の夏小屋(冬小屋はアイヌの寒冷地の穴式住居に似る)で校倉式木組みを伴なっている。高句麗の桴京は、北方少数民族と共通で、古アジア系建築様式をルーツにしている小規模な穀物倉で、収容物は米穀より軽い粟等の雑穀や干肉であろう。 一方南方系の記録は漢時代の貴州と雲南省で、高床式で丸木と推定される校倉造りである。また日本の神社の建築様式には、南方系の高床式と少数民族の屋根組みがみられることから日本には北からも南からも高床式で校倉造りの建築様式は流入する可能性があり、私は、即断は避けるべきであると考える。 そもそも日本人男性のDNA・Y染色体分布をみると、一番多いのは縄文系のD2遺伝子で、僅差で2番目に多い遺伝子は弥生系のO2b1で、シェアは日本が最大、中国江南が出自の遺伝子とされている。 また日本人の半数が江南出身である証拠は、アルデヒド分解遺伝子の欠如でも証明されている。(日本の場合、残る半数は縄文系でお酒に強い、その代表は日本美人の産地秋田県と南国鹿児島県) この遺伝子は、突然変異で発生したが、その場所は中国江南であり、世界で一番この酒に弱い遺伝子を持っているのは、日本人で、その日本で弱い遺伝子を持つ人は、近畿・中部・瀬戸内に多い(一番弱いのは三重県、次は愛知県)。余談だが、韓国人はアジア人の中でも酒に強いグループで、『酒に弱い弥生先祖人』とは大きく異なって北方系と華北系が主流であり、飛鳥や奈良の原住民とは関係が薄いということが分かる。筆者ご自慢の青銅器の流入も北から、朝鮮を支配し当時から世界一の製鉄技術を持っていた漢も北から、百済と新羅を圧迫した高句麗も北から・・朝鮮半島の皆さんは、ことごとく酒に強い北方系の人達だ。 この日本の酒に弱い人達は、縄文時代末期から弥生初期に、大陸から直接、稲と、鉄器と、四眠蚕と、潜水漁法(あわび起し)を日本に持ち込んだことが、学術的に分かっている。日本最古の鉄器は中国製だし、日本の史跡出土の、主要なジャポニカ米の遺伝子は朝鮮の遺跡の炭化米には無い。飛鳥・奈良を中心とする大和王権の地に住む人々は、五七五の和歌の旋律を天皇から庶民まで楽しみ、鵜飼の行事とともに歌会始(歌御会)は、現代まで続く宮中行事となっている。漢語がベースの時調のようなものは宮廷行事には当然無い。 当然高床式の穀物倉庫も江南から直接持ち込まれた可能性が強く残る。ちなみに農具の馬鍬も江南の水田稲作民が持ち込んだと推測されている。弥生祖先人は半農半漁民で稲作と鍛冶技術を呉越の地から持って来たようだ。 朝鮮半島からの帰化人=今来の渡来民を受け入れたのは、心優しい縄文人と江南からの渡来民(弥生祖先人)が平和裏に混交し人口を増やした弥生人の末裔であり、日本は韓国人が作ったという筆者の強く熱い思いを踏みにじるようで申し訳ないが、朝鮮系は少数派ですね。当然、ASUKA(飛鳥、明日香)も韓国語ではなく、大和言葉で十分説明出来ます。藤村由加氏と同じレベルのエピソードを長々と書かれても、多くの日本人は馬鹿馬鹿しく思い、ついていけないだろう。 筆者は、三国志魏志東夷伝の記述を次のように書いている「金海で製造された鉄が楽浪、ワイ(さんずいに歳)、倭に輸出された」と、続けて次のように解説している「当時、倭は鉄を生産する技術がなかった。そのため、加那と倭は、同盟以上の親密な関係だった」これは、漢文を読めていないか、読めているとしたら悪意の誤訳である可能性がある。 では『三国志魏書』弁辰伝・・國出鐵、韓、ワイ、倭皆從取之。諸巿買皆用鐵、如中國用錢、又以供給二郡。・・『三国志』魏志弁辰(弁韓辰韓)伝にも、国は鉄を産出し、韓人、ワイ人、倭人など皆、これを(辰韓の)許可を得て取りに来る。諸貨の売買には皆、鉄を用いる。中国で金銭を用いるがごとくであり、また(楽浪、帯方の)二郡に供給する。 少し解説すると、古代加那の製鉄遺跡は出土していないが、製鉄法は「たたら製鉄」で原料は砂鉄だとされている。日本人技術者の分析によると、この地域の砂鉄は日本の砂鉄に比べ不純物が大変少なく良質である。私は、この「たたら製鉄」は、『野たたら』だとすると矛盾は無いと考える。 朝鮮半島にも近代まで野タタラ製鉄の技術が残っていたが、記録によると・・・明治42年、朝鮮咸鏡北道富寧の南東にある抄河洞の輪域川の河原で、極めて原始的な製鉄現場が確認された。その方法は、河原に乾いた砂鉄を60p積み、その上に大量の薪を乗せ、一夜燃やし続けて翌日に鉄塊を拾い集める方法だった(京城の加藤灌覚氏の実見談)。最も原始的な製鉄法である。弁韓・辰韓・新羅で製鉄の伝統を持つ国の話である・・・と、まとめられている。スピネル構造の鉄酸化物である磁鉄鉱が主成分の砂鉄を還元する木炭の記述が無く、時間も短いのも不思議だが、面白い実見談である。 筆者は、日本人の考え方「朝鮮半島はストローのように技術や文物を日本に伝えただけ」を痛烈に批判しているが、同じたたら製鉄でも日本では技術が大いに発達し、朝鮮半島ではそのまま技術が発達しない原始的野たたらが残る、私はこのような実例によってストロー論が実証されているのだと思った。 何れにせよ、この原始的製鉄法ならば、製鉄遺跡は残らないし、『皆、許可を得て取りに来る』という表現にも納得出来る。このような倭人の原始的製鉄法に繋がる技術的内容が読み取れる記述を、どうすれば単に輸出と表現出来るのか、私は筆者の見識を疑いたい。 また『金海で製造された・・』と原文にない箇所をわざわざ挿入した訳は、近年、金海の遺跡から渡海可能な比較的大型の船が出土し『金海人が船で・・』というストーリーを考えたのだろうが、その後の分析で船体素材が杉と楠と分かって日本製の船であったことが分かっているのだが。船の他にも任那加羅の遺跡から出土したのは、古くは大量の弥生式土器、倭国の巴型青銅器、ヒスイ勾玉等遺物が多数、前方後円墳が14基ある。『輸出』の一語では片付けることは出来ない『加那と倭は、同盟以上の親密な関係だった』というのは、倭国の半島進出と支配を認めた言葉だったのかな??? 筆者は韓国の歴史学者の論を採用して、日本の教科書会社が『帰化人(渡来人)』と記載しているのを極右翼と非難しているが、単なる渡来民では、中国系や韓国系の人達は氏姓を称することも出来ないことを理解していない。投化(帰化)していないと戸籍に載らないし、租庸調の義務も生じないし、民を束ねる称号も得ることは無い。そもそも戸籍制度で最初に『王化の民』として戸籍に登録されたのは、帰化した秦氏、漢氏等で『秦人(はたひと)・漢人(あやひと)等、諸蕃(しょばん)より投化せる者を招集して、国群に安置し、戸籍に編貫す。秦人の戸数七千五十三戸、大蔵掾(おおくらのじょう)を以て、秦伴造(はたのとものみやつこ)となす」。』(日本書紀)とある。つまり弥生人の末裔より先に帰化民を優先登録したのだ。 その後、これらは制度化され、『化外人(帰化する前)』⇒『化内人(帰化人)』・・10年の据え置き期間・・⇒『調庸人(公民・平民)』⇒『天皇の民(王民)』となった。(賦役令)・・・後の時代には調庸人(海外の名)から王民(著名な氏姓)を得る為に活動する記録もある。 また筆者など韓国人は、統一王朝になる以前は帰化人ではないと詭弁を弄するが、そもそも中国で夷狄の帰化を含む中華思想が形成されたのは、周辺民族にまで「戦国の七雄」の支配が及び始めた戦国時代のことで、当然のこと統一国家ではない。 単なる渡来人では、大和朝廷支配の日本では物乞いか夜盗になるしか無いのである。渡来なら日本に渡っただけで、朝鮮人・中国人のままなので、強制送還された渡来人の実例もあったが、帰化だと『申請手続き』が必須で、申請完了の場合、日本人になってしまう。帰化には特典も様々にあり、戸令四十四化外奴婢条には、『凡化外奴婢。自来投国者。悉放為良。即附籍貫。本主雖先来投国。亦不得認。・・・』つまり、朝鮮とか中国で、奴隷身分であっても、日本に帰化したら、良民(公民・平民)の身分で登録しますよ、渡来民のままなら奴婢のままですよ、帰化しなさいという勧誘制度ですね。実際、主従の渡来者のうち、最初に帰化した主人に従う奴婢も、帰化の申請を行って賎民から良民となっている。 その結果、日本に来た様々な階層の渡来民は、帰化して身分差別の少ない日本人になって共に頑張って、日本という国を作った訳で、帰化人は渡来民と同義ではない。その後、韓国では奴婢身分は、『国家管理の性奴隷』を含め、人口の70%にも達したが、日本では、5%程度と元々少なかった奴婢だったが、非合理な奴隷制度は平安時代には廃止された。日本の国の品格は、日本型帰化制度の採用によって確立されたのですかね。日本の江戸後期の頃まで奴隷制度を1000年も長く維持していた国が経済発展する訳は無い。帰化を渡来と言い換えて、自尊心を満足して、『日本人を教化した』(韓国国定教科書)と満足しているようでは、あまりにも寂しいではないだろうか。 長々と書きましたが、韓国的で独特な歴史観を除けば良書の部類でしょう。 https://www.amazon.co.jp/gp/customer-reviews/R2KTXNSNYIU3TF/ref=cm_cr_dp_d_rvw_ttl?ie=UTF8&ASIN=4000610244
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