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メソポタミア人の起源
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/369.html
投稿者 中川隆 日時 2020 年 11 月 16 日 09:31:38: 3bF/xW6Ehzs4I koaQ7Jey
 

(回答先: エジプト人の起源 投稿者 中川隆 日時 2020 年 8 月 30 日 10:52:24)

メソポタミア人の起源


2020年11月16日
Y染色体に基づくイラク人集団の遺伝的多様性と移住
https://sicambre.at.webry.info/202011/article_21.html

 Y染色体に基づくイラク人集団の遺伝的多様性と移住に関する研究(Lazim et al., 2020)が公表されました。現在のイラクは、古代にはメソポタミアとして知られる地域でした。この地域の古代の狩猟採集民は紀元前1万年頃に定住し、農耕を始めて、やがて交易が発展しました。イスラム教勢力の拡大に伴い、イラクにはアラブ人が拡散してきます。アラブ人は、イスラム教よりも前のアラブ人は、アッシリアやバビロニアなど多くの帝国の保護下で、アラビア半島中央部に存在した部族でした。現代のイラクの人口は4000万人ほどで、南はアラビア湾(ペルシア湾)とクウェートとサウジアラビア、西はヨルダンとシリア、北はトルコ、東はイランと接しています。イラクには5つの主要な民族集団が存在しますが、イラクの人口の多様性について、刊行されたデータはほとんどありません。本論文のデータは、イラクで最大の民族集団であるアラブ人を表します。

 一塩基多型標識は変異率が低いため安定しており、多様性がほとんどないので個人識別には適していません。そこで、一塩基多型の組み合わせを使用してハプログループが決定され、個人識別や現生人類(Homo sapiens)の移動および進化のパターンの研究に役立てられています。一方、父系で継承されるY染色体の縦列型反復配列(Y-STR)は1世代あたり平均して0.2%と高い変異率を有するので、個体識別や集団構造の理解や血族問題に役立ちます。Y-STRのアレル(対立遺伝子)はハプロタイプの生成に用いられ、それに基づいてハプログループと起源となる集団を予測できます。この手法を用いると、Y-STRに基づいて集団内の多様性を推測できます。イラクの人口とその民族集団における遺伝的多様性についての刊行されたデータはほとんどありません。本論文は、Y-STRを用いて、イラク人集団の遺伝的構成や近隣との関係や移住の歴史を検証します。

 イラクのアラブ人254人のY染色体ハプログループ(YHg)で最も多いのはJ1(36.6%)で、以下、E1b1b(13.8%)、J2a1b(9.4%)などが続きます。イラクのアラブ人集団とアラブ・アジア・アフリカ・ヨーロッパの他集団との遺伝的距離では、最も近いのはイラクのクルド人で、その次がイエメン人およびクウェート人でした。一方、最も遠いのはジブチ人とエチオピア人でした。中東集団でイラクのアラブ人集団と遺伝的に最も遠いのはレバノン人でした。遺伝的違いが最も大きいのはジブチ人とイラクのクルド人で、最も小さいのはモロッコ人とエリトリア人でした。

 遺伝子流動は3段階の水準で検証されました。水準1ではアラビア半島を経由してイラクへの出アフリカ移住経路が調べられました。これは、モロッコ→エジプト→イラク、アフリカ東部→エジプト→イラク、アフリカ東部→イエメン→イラクの3経路が検証され、Y染色体に基づく移動パターン分析から、アフリカ東部→エジプト→イラクのパターンである可能性が最も高い、と推測されました。逆に最も可能性が低い経路は、アフリカ東部→イエメン→イラクです。

 水準2ではアラビア半島内の集団移動経路が4通り検証されました。それは、イエメン→サウジアラビア→イラクおよびその逆の2通りと、イエメン→アラブ首長国連邦(UAE)→イラクおよびその逆の2通りです。最も可能性が高い経路はイエメン→UAE→イラクで、最も可能性が低いのはイエメン→サウジアラビア→イラクおよびその逆です。水準1と水準2を組み合わせると、最も可能性が高い移住経路は、アフリカ東部→エジプト→イエメン→UAE→イラクです。アフリカ東部からエジプトへと北上した後、アラビア半島西岸を南下し、そこから東進した後にアラビア半島東岸を北上したことになります。水準3では、クウェートへのイラクとサウジアラビアの影響が調べられました。最も可能性が高いのは、サウジアラビア人集団がイラク人集団よりもクウェートに対してわずかに多くの影響を有している、というものです。

 本論文は、イラクのアラブ人集団に特有のY-STRの特徴を示します。Y-STRの2つの遺伝子座(DYS389IおよびDYS392)では、イラクのアラブ人集団は他集団よりも変異が少ない、と明らかになりました。また、最も高い遺伝的多様性が見られるのは、イラクのアラブ人集団ではDYS385aおよびDYS385bとDYS458なのに対して、他集団ではDYS385aおよびDYS385bとDYS481になります。DYS458の多様体を有するYHgの98.8%はJ1内にあります。この多様体はM267マーカーと重複し、遺伝的浮動と創始者効果との組み合わせの結果と推測されます。その後、アフリカ北部と中東において、集団は急速に拡大しました。

 現生人類(Homo sapiens)の出アフリカと中東への移住に関しては広く研究され、さまざまな移住経路が提案されています。本論文はY-STRに基づいて、アフリカからシナイ半島を経由してアラビア半島沿岸の移住経路を、最も可能性が高いと推測します。つまり、レヴァントは乾燥していたため、アフリカ東部からバブ・エル・マンデブ海峡を渡ってアラビア半島南西岸へと達した、と想定する見解が妥当である可能性は低そうだ、というわけです。

 本論文は、現代イラク人のY染色体の遺伝的構造を示した点で注目されます。本論文が推定する現生人類の拡散経路は現代人のY-STR に基づいており、現代人の核ゲノムデータや古代DNAデータと組み合わせることで、より正確で詳細な現生人類集団の移住および混合史を解明できるでしょう。完新世の中東の現生人類集団の遺伝的構成の推移に関する大規模な研究もあり、複雑な移動と混合が想定されていますが、まだイラクの古代DNAデータは含まれておらず(関連記事)、今後の研究の進展が期待されます。


参考文献:
Lazim H. et al.(2020): Population genetic diversity in an Iraqi population and gene flow across the Arabian Peninsula. Scientific Reports, 10, 15289.
https://doi.org/10.1038/s41598-020-72283-1

https://sicambre.at.webry.info/202011/article_21.html  

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コメント
1. 中川隆[-9907] koaQ7Jey 2020年11月16日 11:55:06 : BLz0NHzvgM : YkJpTDl1aDM1Uy4=[15] 報告
雑記帳 2020年09月24日
新石器時代から青銅器時代の近東人類集団の遺伝的構成
https://sicambre.at.webry.info/202009/article_30.html


 取り上げるのが遅れてしまいましたが、新石器時代から青銅器時代の近東人類集団の遺伝的構成に関する研究(Skourtanioti et al., 2020)が報道されました。農耕開始以降、近東は複雑で初期国家水準の社会の形成において影響力のある地域で、19世紀以来大きな考古学的関心を集めてきました。過去10年の古代DNA研究の発展により、近東における新石器時代開始の過程に関する問題も明らかになってきました。アナトリア半島南部・中央部やレヴァント南部やイラン北西部の近東農耕民は在来の狩猟採集民の子孫で、この地域における狩猟採集から農耕への移行は、地域間のわずかな遺伝子流動を伴う生物学的に継続的な過程だった、と示されました(関連記事1および関連記事2および関連記事3)。

 約2000年後、この状況は変わりました。これら前期完新世集団とは対照的に、アナトリア半島西部・中央部とレヴァント南部とイラン(ザグロス地域)とコーカサスの銅器時代および青銅器時代の集団は、相互に遺伝的差異がより少なくなっており、この期間は、より大きな地域にまたがる遺伝子流動の広範な過程により特徴づけられる、と示唆されます(関連記事)。しかし、この過程の時空間的範囲は、この広範な地域の中継地となり得るアナトリア半島中央部・東部の古代人ゲノムが不足しており、より高密度の標本抽出が必要となるため、よく理解されていません。現在まで、アナトリア半島全域にまたがる「新石器時代一式」の特徴の空間的分布からは、より広範な地域と相関する異質な複数回の事象の過程だった、と示唆されます。しかし、集団移動がアナトリア半島内のこれらの地域の形成に重要な役割を果たしたのかどうか、未解明です。

 アジア西部全域で、人々および物質および/あるいはアイデアの移動の考古学的証拠がよく記録されています。コーカサス南部では、考古学的研究から、後期新石器時代のメソポタミア北部との関係が示唆されており、アナトリア半島東部では、メソポタミア世界とほぼ関連している、いくつかの広範な事象により特徴づけられる文化的つながりのネットワークが証明されています。これらは、紀元前五千年紀における、メソポタミア南部のウバイド文化のトロス山脈まで達する、メソポタミア上流部への浸透を含みます。

 コーカサス南部では、紀元前五千年紀後半〜紀元前四千年紀半ばに、メソポタミア上流部からの強い影響により、この浸透が続きました。紀元前四千年紀半ば〜末にかけて、「中期および後期ウルク拡大」と呼ばれる別のメソポタミア南部の影響が、メソポタミア上流部とアナトリア半島東部のユーフラテス川とティグリス川の上流部に到達しました。同時に、一般的にはコーカサス南部起源と考えられているクラ・アラクセス(Kura-Araxes)文化が、紀元前3000〜紀元前2900年頃にアナトリア半島東部およびレヴァント北部・南部へと拡大しました。これらの事象の証拠は多くの発掘から得られており、とくに、アナトリア半島東部のマラティヤ平野のアルスラーンテペ(Arslantepe)遺跡の長期にわたる広範な発掘により明らかです。レヴァント北部では、メソポタミア北部との物質的つながりが紀元前四千年に出現し始め、広範な文化的接触もしくは集団移動の結果と考えられてきました。

 したがって、主要な問題は、人類集団・物質文化・アイデア・それらの組み合わせのうち、何が移動していたのか、ということです。これらの初期の発展は、中期青銅器時代(MBA)からの地中海東部における「グローバル化」の増加につながり、それは海陸の経路を通じての資源利用と管理の強化により特徴づけられます。しかし、中期および後期青銅器時代(LBA)の人類遺骸が不足しているため、人類の移動性の役割は不明確で、困難な問題になっています。この点で、トルコのアムク川流域のアララハ遺跡は、この時期の300人以上の被葬者が発見されているため、古代DNA研究の適用にとって例外的な格好の事例となります。

 この移動の性質の理解が、本論文の主題となります。本論文では、先史時代のアナトリア半島とレヴァント北部とコーカサス南部低地の主要な遺跡の人類遺骸のゲノム規模データの、大規模な分析が提示されます。本論文の目標は、近東のこの地域のゲノム史を、新石器時代から中期および後期青銅器時代の相互につながった社会への移行にまたがって、体系的な標本抽出により復元することです。新たな古代のゲノム規模データセットは110人から構成され、アナトリア半島中央部・北部とアナトリア半島東部とコーカサス南部低地とレヴァント北部の4地域を含み、それぞれ期間は先史時代の2000〜4000年にまたがっています。

 紀元前六千年紀半ばのアナトリア半島北部・中央部およびコーカサス南部低地集団は密接につながっている、と明らかになりました。これらの集団は、アナトリア半島北部から現代のイラン北部となるコーカサス南部およびザグロス地域にかけて、遺伝的勾配を形成します。この勾配は、紀元前6500年頃の両地域を生物学的に接続する混合事象の後に形成されました。アナトリア半島全域の銅器時代および青銅器時代集団も、ほぼこの遺伝的勾配の子孫です。対照的にレヴァント北部では、銅器時代と青銅器時代の間の大きな遺伝的変化が特定されました。この移行期にレヴァント北部集団では、ザグロス・コーカサス地域およびレヴァント南部の両方と関連する系統を有する、新たな集団からの遺伝子流動がありました。これは、社会的志向、おそらくはメソポタミアの都市中心部の台頭に対応における変化を示唆していますが、まだ遺伝的に標本抽出されていません。


●標本分析

 124万ヶ所の系統特定に有益な一塩基多型を対象として、アナトリア半島とレヴァント北部とコーカサス南部の4000年にわたる先史時代の110人のゲノム規模データが得られました。このうち9人の年代は紀元前六千年紀となる後期新石器時代から前期銅器時代(LN/EC)で、アナトリア半島中央部・北部のボアズキョイ・ビュユッカヤ(Boğazköy-Büyükkaya)と、アナトリア半島南部・レヴァント北部のテルクルドゥ(Tell Kurdu)と、コーカサス南部低地のアムク川流域のメンテシュテペ(Mentesh Tepe)およびポルテペ(Polutepe)で発見されました。残りの101人の年代は、紀元前四千年紀〜紀元前二千年紀となる後期銅器時代から後期青銅器時代(LC-LBA)で、アナトリア半島南部・レヴァント北部では現代のテルアッチャナ(Tell Atchana)となるアララハ(Alalakh)と現代のテル・マルディフ(Tell Mardikh)となるエブラ(Ebla)、アナトリア半島中央部・北部ではキャムリベルタルラシ(Çamlıbel Tarlası)とイクジテペ(Ikiztepe)、アナトリア半島東部ではアルスランテペ(Arslantepe)とティトリスヘユク(Titriş Höyük)、コーカサス南部低地ではアルハンテペ(Alkhantepe)です。

 詳細な集団遺伝分析では、網羅率や汚染など品質要件を満たしていない16人が除外され、合計94人のゲノム規模データが分析されました。このうち77人は加速器質量分析法(AMS法)による放射性炭素年代が得られました。これらは遺跡もしくは地域と年代により集団化されました。それは、ビュユッカヤEC(銅器時代)が1個体、キャムリベルタルラシLC(後期銅器時代)が12個体(近親者を除くと9個体、以下同様です)、アルスランテペEBA(前期青銅器時代)が4個体、アルスランテペLCが18個体(17個体)、ティトリスヘユクEBAが1個体、イクジテペLCが11個体、アララハ中期〜後期青銅器時代(MLBA)が26個体(25個体)、アララハ中期〜後期青銅器時代(MLBA)外れ値が1個体、エブラ前期〜中後期青銅器時代(EMBA)が11個体、テルクルドゥ前期銅器時代(EC)が5個体、テルクルドゥ中期銅器時代(MC)が1個体、コーカサス低地LCが1個体、コーカサス低地後期新石器時代(LN)が2個体です。

 これらのデータは、約800人の既知の古代人の遺伝的データと組み合わされました。その中で、アナトリア半島の17個体が本論文のアナトリア半島集団とともに分析されました。それは、テペシク・シフトリク(Tepecik-Çiftlik)遺跡のテペシクN(新石器時代)、バルシン(Barcın)遺跡のバルシンC(銅器時代)、ゴンドリュレ・ヘユク(Gondürle-Höyük)遺跡のゴンドリュレヘユクEBA、トパヘユク(Topakhöyük)遺跡のトパヘユクEBA、カマン・カレヒユク(Kaman-KaleHöyük)遺跡のK.カレヒユクMLBAです。


●アナトリア半島とレヴァント北部とコーカサス低地におけるLN/ECの遺伝的構造

 これまで、新石器時代アナトリア半島の遺伝子プールに関する知識は、西部のバルシンおよびメンテシェ(Menteşe)遺跡(本論文ではバルシンNとされます)と、中央部コンヤ平原のボンクル(Boncuklu)遺跡と、南部のテペシク・シフトリク遺跡からしか得得られていませんでした。これらの個体群の年代は紀元前九千年紀〜紀元前七千年紀で、本論文のLN/EC個体群へと継承されます。新石器時代から青銅器時代の近東の遺伝的構造を概観するため、まず現代人と古代人を対象に主成分分析が行なわれました。全体的に、バルシンN とイラン・コーカサス古代個体群との間で、LN/EC個体群はPC2軸に沿って散在しています。テルクルドゥECはPC1軸に沿って新石器時代および銅器時代レヴァント個体群へと僅かに移動します。ビュユッカヤECは、現在までに報告されているあらゆるアナトリア半島新石器時代個体からさらに離れて位置し、新石器時代および銅器時代イラン個体群へと移動します。コーカサス低地LN(ポルテペおよびメンテシュテペ遺跡)の2個体はPC2軸に沿って、ビュユッカヤECと銅器時代イラン個体群との間で上方に位置します。

 主成分分析で観察された質的差異を検証するため、f4統計によりユーラシア西部のより早期の集団と、LN/EC集団の遺伝的類似性が比較されました。ビュユッカヤECおよびコーカサス低地LNはバルシンNと、コーカサス狩猟採集民(CHG)およびイランNとのアレル(対立遺伝子)をより多く共有している点で異なりますが、ヨーロッパ西部狩猟採集民(WHG)やヨーロッパ東部狩猟採集民(EEF)やアナトリア半島の続旧石器時代個体やレヴァントの続旧石器時代・新石器時代個体群とは共有アレルが少なくなっています。qpAdm を用いてf4統計を要約することにより、ビュユッカヤECとコーカサス低地LNの両方を、バルシンN とイランN(24〜31%)の2者混合としてモデル化できます。主成分分析でバルシンN とビュユッカヤECの間の中間に位置するテペシクNも、同じモデルに適合します(イランNが22%)。イランNをCHGと置換することにより、ビュユッカヤECは適切なモデル(CHGが24%)が得られますが、コーカサス低地LNではこのモデルは適合しません。

 主成分分析と一致して、テルクルドゥECはバルシンN とイランNの混合の勾配には収まりませんが、古代レヴァント集団とのさらなる類似性を示します。f4統計では、テルクルドゥECは、同じ地域のほぼ1000年後の個体(テルクルドゥMC)を含む他のあらゆる新石器時代〜前期銅器時代のアナトリア半島集団よりも、先土器新石器時代レヴァント個体群(レヴァントN)とより多くの類似性を有します。バルシンNと比較すると、テルクルドゥECはヨーロッパ西部・東部・南東部の中石器時代狩猟採集民との類似性が有意に低くなっています。上述のバルシンN とイランN/CHGの混合モデルは、テルクルドゥECでは支持されません。代わりに、テルクルドゥECは、バルシンN とイランN(15.5±3.7%)もしくはCHGとレヴァントN(36.6±7.1%)の3者混合としてよくモデル化できます。


●新石器時代の混合と銅器時代および青銅器時代集団の共通の遺伝的構成

 LN/EC個体群とは対照的に、LC-LBA個体群はユーラシア西部人の主成分分析では密集し、イランとコーカサスとレヴァントとアナトリア半島西部の古代人集団により区分されるLN-EC勾配にほぼ収まります。本論文の仮説は、アナトリア半島中央部・北部および東部のLC-LBA集団がこのより古い遺伝的構造の子孫で、同じ系統構成を共有しているかもしれない、というものです。

 主成分分析と一致して、外群f3およびf4統計では、LN-EC勾配と類似しているLC-LBA集団の共通の遺伝的構成が示唆されます。まず、外群f3統計(ムブティ、LC-LBA、検証集団)では、共通の外群であるムブティからのLC-LBAと検証集団との間の平均的な共有された遺伝的浮動が測定され、検証集団がバルシンNやテルクルドゥECやビュユッカヤECのようなヨーロッパとアナトリア半島とレヴァント北部の新石器時代および銅器時代集団の時に、最高値に達しました。次に、バルシンNとテルクルドゥECを追加すると、f4統計(ムブティ、検証集団、バルシンN/テルクルドゥEC 、X)では、ユーラシア西部の一連の古代検証集団に関して、バルシンNもしくはテルクルドゥECとLC-LBA集団(X)との間の違いが特徴づけられます。イランNおよび/もしくはCHGは一貫して、テルクルドゥEC およびバルシンNと比較すると、LC-LBAとの過剰な類似性を示します。イランおよびコーカサスの銅器時代および青銅器時代集団は、年代的にLC-LBAにより近く、主成分分析ではイランN/CHGとLC-LBAの間に位置しますが、バルシンと比較すると、一部のLC-LBA集団とのみより多くのアレルを共有します。

 LC-LBA集団の共有された混合構成の時間的側面をさらに調べるため、最近開発された手法であるDATESを用いて混合年代が推定されました。上述のように、LN-EC勾配はバルシンNとイランN/CHGの割合の変化であり、両方が起源集団として選択されました。しかし、イランNおよびCHG両方の標本規模は小さく、イランNでは多くの一塩基多型が欠けているため、第二起源集団の代理としてコーカサス現代人(アルメニア、ジョージア、アゼルバイジャン、アブハズ、イングーシ)が用いられました。

 標本規模がじゅうぶんに大きく、LC-LBA集団で年代の古いLC(後期銅器時代)3集団(キャムリベルタルラシLCが9個体、イクジテペLCが11個体、アルスランテペLCが17個体)に焦点が当てられました。これら全個体の推定をまとめると、バルシンNとコーカサス現代人を遺伝子プールの代理として用いたさいに、105±19世代前という堅牢な混合年代が得られました。1世代28年と仮定すると、この推定はLC-LBA個体群の年代の3000年前頃の混合事象と等しく、紀元前6500年頃に相当します。ブレはあるものの類似の推定年代は、キャムリベルタルラシLCとイクジテペLCとアルスランテペLCという個々の銅器時代集団で観察されます。混合年代は別の2手法(ALDERおよびrolloffp)でも推定されましたが、全体的にはDATESと一致しました。

 さらに、コーカサス低地LN とビュユッカヤEC、コーカサスの既知のEBA個体群、イランC(銅器時代) を含む、EC(前期銅器時代)勾配上の他の古代集団にも分析が拡大されました。紀元前3100年頃のコーカサスEBA個体群はアナトリア半島LC個体群と類似しており、121±35世代前という類似の混合年代が得られました。重要なことに、より古いコーカサス低地LN2個体とビュユッカヤEC1個体(紀元前5600年頃)は、34±15世代前というもっと最近の混合年代が推定されました。これは暦年代で紀元前6500年頃となり、LC個体群から推定される混合事象の年代と一致します。


●銅器時代と青銅器時代集団の混合モデル化

 LC-LBA集団の系統構成を説明するには、バルシンNおよびイランNの両関連系統が必要だと示されましたが、時空間的にLC-LBA集団により近い古代集団の代替的組み合わせも、同様に適合モデルを提供できるかもしれません。真の人口史をより反映している可能性が高い妥当な混合モデルを得るには、密接に関連した候補起源集団間を正確に区別することが重要です。qpAdmを用いて、全LC-LBA集団が、一方は新石器時代アナトリア半島系統、もう一方はイランおよびコーカサス集団関連系統という2起源集団の混合として、モデル化されました。新石器時代アナトリア半島系統では、新石器時代もしくは前期青銅器時代の3集団(バルシンN、テルクルドゥEC、ビュユッカヤEC)が用いられました。イランおよびコーカサス集団関連系統では、イランNおよびCHGと、同じ地域のより新しい銅器時代および青銅器時代集団が用いられました。LC-LBA集団の混合兆候は、イランおよびコーカサス集団よりも古いものの、代理として用いられました。それはLC-LBA集団が、LC-LBA個体群に寄与したまだ標本抽出されていない遺伝子プールを表しているかもしれないからです。

 バルシンNとイランNの混合は多くのLC-LBA集団を適切に説明しますが、アララハMLBAとエブラEMBAとアルスランテペLCとバルシンCとコーカサス低地LCでは失敗しました。イランN関連系統の寄与は、21±9%〜38±6%です。バルシンNとCHGの代替モデルでは、CHG関連系統の推定寄与がわずかに高く、27±13%〜41±7%ですが、12集団のうち8集団はCHGとモデル化できません。銅器時代および青銅器時代集団では、イランCがイランNと類似の結果を示しますが、推定寄与の割合はより高くなります(34〜53%)。イランC自体は、イランNとバルシンN(37±3%)の混合としてモデル化でき、LC-LBAのモデル化の結果とよく一致します。対照的に、コーカサス集団、とくに銅器時代から青銅器時代(En/BA)集団は、ほとんどLC-LBに適合しません。

 バルシンNをテルクルドゥECと置換して、混合モデル化が繰り返されました。一般的にテルクルドゥECとのモデルは、LC-LBA集団とよく適合しますが、それはバルシンN(22個体)と比較してテルクルドゥEC(5個体)の標本規模がずっと小さいことに起因する、モデルと実際の対象集団との間の不一致を検出する統計的能力の低下の不自然な結果かもしれないので、注意が必要です。古代イラン集団とのモデルが複数のLC-LBA集団で適合しない一方で、テルクルドゥECとCHGの混合は、CHGの割合が13±19%から40±9%まで多様ではあるものの、バルシンCを除く全LC-LBA集団でモデル化できます。

 CHGを後のコーカサス集団と置換すると、同じくバルシンCを除いて、より高いコーカサス関連系統の寄与(40〜67%)を有する同じパターンが示されます。バルシンNを外群セットに追加後に分析を繰り返しても、ほとんどの結果は同じままでした。しかし、テルクルドゥECを有する同じ地域のLC-LBA2集団、つまりエブラEMBAとアララハMLBAはこのモデルから逸脱し、テルクルドゥECは単純な2者混合モデルでは適切な代理ではないかもしれない、と示唆されます。したがって、古代イラン集団は全体的に、コーカサス集団よりも代理として敵辣に機能するようですが、さらに比較するにはより高解像度のデータが必要です。

 ビュユッカヤECは、本論文のデータセットにおいては、アナトリア半島内でLC-LBA集団と類似の遺伝的構成を有する最初の個体です。したがって、後のLC-LBA集団がさらなる外部からの寄与なしに同じ遺伝子プールから派生した、という想定も検証されました。F4(ムブティ、X、ビュユッカヤEC、LC-LBA)統計からは、ビュユッカヤECがLC-LBA集団よりも、バルシンNのようなヨーロッパ・アナトリア半島農耕民とより多くのアレルを共有している、と示唆されます。同様に、バルシンNが外群に含まれる場合、ほとんどのLC-LBA集団はqpAdmでビュユッカヤECと姉妹集団としてモデル化できません。ほとんどのLC-LBA集団は、古代イラン/コーカサス集団の第二系統への追加により適切にモデル化されますが、アララハMLBAとエブラEMBAは、古代レヴァント南部集団からのかなりの寄与を必要とします。

 全体的に、qpAdm分析と組み合わせた、後期新石器時代および後期銅器時代集団の両方から得られた同じ混合年代の推定に基づくと、LC-LBA集団も新石器時代の遺伝的勾配から派生したものの、先行集団よりもかなり均質化していた、と示唆されます。イランの古代集団はコーカサス集団よりも東方の起源のより適切な代理となりますが、メソポタミア内からのまだ標本抽出されていない代理が、このイラン/コーカサス関連系統の真の歴史的起源集団を表しているかもしれないので、本論文の結果の字面通りの解釈は要注意です。


●青銅器時代レヴァント北部の遺伝的置換

 テルクルドゥとエブラとアララハの各遺跡により代表されるレヴァント北部は、4区分で最も顕著な遺伝的置換を示します。最後となる中期銅器時代テルクルドゥ1個体(テルクルドゥMC)の後の2000年以内に、アムク川流域内および周辺の集団(アララハMLBAとエブラEMBA)の遺伝的構成は、同時代のアナトリア半島人とほぼ同じに変化しました。しかし、ビュユッカヤEC とのqpAdmモデル化では、アララハMLBAとエブラEMBAは依然として、古代レヴァント南部集団とのつながりに関して、他のアナトリア半島集団と異なっている、と示唆されます。それらの違いはまた、エブラEMBA とアララハMLBA が、バルシンNやコーカサス集団のようなより古い集団との関係について他のLC-LBA集団とは異なっている、と示されるf4統計でも確認されます。

 さらに、バルシンN/テルクルドゥECおよび/もしくは古代コーカサス集団は、qpAdmではエブラEMBAおよびアララハMLBAを充分にモデル化できず、その仮定起源集団は真の祖先の適切な代理を表していない、と示唆されます。基底系統としてより古いテルクルドゥECと、地理的に近いアルスランテペLCとで、潜在的な代理起源集団として代替的なモデルを用いると、どちらも適合は改善されませんでした。しかし、混合モデルは、第三の起源集団としてレヴァント南部集団の追加により適切になり、この場合の各系統の割合は、テルクルドゥECが27〜34%、後のコーカサス集団が36〜38%、レヴァントEBAが28〜38%となります。

 テルクルドゥECの後の追加の遺伝子流動と一致して、アナトリア半島集団もしくはコーカサス集団の遺伝子プールを起源集団として用いると、アララハMLBAで他のLC-LBA集団よりも新しい推定混合年代が得られ、アナトリア半島LCとは78±27世代前(紀元前3880±746年前)、コーカサスEBAとは44±8世代前(紀元前3060±224年前)です。アナトリア半島LCもしくはコーカサスEBAのどちらかを一方、レヴァントCをもう一方の起源集団として用いると、指数関数的減衰は適合できませんでした。


●アララハにおける個体の移動性の証拠

 レヴァント北部のアララハMLBA全員の遺伝的分析は、主成分分析における外れ値のため、女性1個体(ALA019)を除いて行なわれました。ALA019は井戸の底で発見され、考古学的および人類学では、放射性炭素年代が紀元前1568〜紀元前1511年で、いくつかの治癒した外傷の証拠がある異常な埋葬を表している、と指摘されています。ユーラシア人の主成分分析では、ALA019は遺伝的に、古代イランおよびトゥーラン(現在のイランとトルクメニスタンとウズベキスタンとアフガニスタン)の銅器時代および青銅器時代個体群とより密接でした。これらの集団は西から東の遺伝的勾配を表しており、バルシンNおよびイランNおよびシベリア西部狩猟採集民(WSHG)と関連する系統のさまざまな割合を有しています。

 主成分分析で観察されたALA019の遺伝的類似性は、外群f3統計で確認されました。コーカサスおよび西方草原地帯の他の古代集団も高い類似性を示しますが、f4統計(ムブティ、X、トゥーラン、ALA019)からは、ALA019が他のトゥーラン個体群とは、多かれ少なかれイランNもしくはWSHGと時としてアレルを共有することにより区別されると示唆され、この地域における遺伝的勾配の存在と一致します。メソポタミア南部のような近隣地域からの古代ゲノムの欠如を前提にすると、ALA019の起源として最も他可能性が高いのは、イラン東部もしくはアジア中央部のどこかです。


●青銅器時代前のアナトリア半島とコーカサス南部全域の遺伝的均質化

 本論文は、年代では紀元前六千年紀以降を対象とし、シリア(レヴァント北部)とアナトリア半島は4000年、コーカサス南部は2000年に及びます。さらに、混合年代の推定により、新石器時代へと1000年さかのぼることが可能となりました。アナトリア半島西部(マルマラ海周辺地域)とコーカサス南部低地への後期新石器時代/前期銅器時代(紀元前六千年紀)の遺伝的勾配が明らかになり、この遺伝的勾配は後期新石器時代の開始(紀元前6500年頃)以降の混合過程により形成されました。この勾配の東端はアナトリア半島(西部の)系統をわずかに伴うザグロス山脈を超えて、銅器時代と青銅器時代のアジア中央部にまで達しました(関連記事)。南方では、アナトリア半島系統はレヴァント南部の新石器時代集団に存在し、北方でコーカサス(のおもに山岳地帯)の銅器時代および青銅器時代集団に存在し、これは後期新石器時代の混合の結果である可能性が最も高そうです。

 広範な地域の遺伝的均質化の証拠は、父系でのみ継承されるY染色体系統からも得られます。この地域の全ての時空間的集団では、Y染色体ハプログループ(YHg)はほぼ共通してJ1a・J2a・J2b・G2aです。低頻度のYHg-H2・T1aも加えて、これらは新石器時代までさかのぼるか、すでに上部旧石器時代に存在していた(関連記事)遺伝的遺産の一部を形成します。いくつかの注目すべき例外は裏づけに乏しいものの、それにも関わらず、長距離移動と拡張されたYHg多様性の重要な証拠を提供します。たとえば、YHg-R1b1a2(V1636)・R1b1a1b1b(Z2103)は17000年以上前に分岐したと推定されているので、アルスランテペ遺跡の主要な期間にポントス・カスピ海草原(中央ユーラシア西北部から東ヨーロッパ南部までの草原地帯)からの早期の侵入の直接的証拠はありません。アララハ遺跡のALA084個体で見つかったYHg-L2(L595)は、以前には銅器時代イラン北部の1個体と、コーカサス北部のマイコープ(Maykop)文化後期の3人で報告されていました。このYHg-L2の3人は、本論文で示された共通のアナトリア半島/イラン関連系統の勾配に由来する系統を有しており、コーカサス山脈北側の草原地帯の南端にも達する、広範な分布を示唆します。

 紀元前七千年紀の西から東への遺伝的勾配の形成の年代推定により、常染色体と父系・母系の単系統という両方の指標で観察されたこれらの遺伝的標識の文脈化が、人類の移動性と社会経済的慣行の変化という考古学的証拠を伴って可能となりました。紀元前6500〜紀元前6400年頃は、アナトリア半島新石器時代の重要な分岐点でした。なぜならば、以前には食糧生産共同体が皆無かほとんどなかった地域に、定住共同体の突然で大量の拡大が見られたからです。その後、コーカサス南部では、新石器時代生活様式が突如出現し、紀元前6000年頃となる外来の家畜動物と栽培種の導入は、近隣地域の新石器時代集団とのある種の相互作用と、最終的には侵入を示唆しており、その中でザグロス地域とカスピ海地域に沿ったアナトリア半島南西部は、新石器時代文化導入の最も適した候補地の一つでした。

 これらの事象に関連して、近東内の家畜化されたヤギ集団の遺伝的構造が崩壊し始め、銅器時代までには近東全域のヤギの群が、新石器時代東西両集団からの系統を有する、と明らかになりました。この混合の正確な年代は不明ですが、人類と家畜との間の類似から、家畜は交易ネットワークを通じてのみ移動したのではなく、人々と共にも移動し、それは物質文化やアイデアや慣行も同様だった、と示唆されます。これは、たとえばコーカサス南部の円形新石器時代建造物により示唆されており、メソポタミア北部でとティグリス川およびユーフラテス川流域のアナトリア半島側で紀元前六千年紀に発展しつつあった、ハラフ伝統を想起させます。

 後期青銅器時代までの続く数千年に、遺伝的連続性はアナトリア半島北部・中央部と東部で持続し、これは後の集団との遺伝的類似性と、新石器時代後の新たな系統の欠如により支持されます。これは、この時期の激しい文化的相互作用の考古学的証拠に基づく集団変化に関する、以前の仮説とは矛盾します。たとえば、トルコの黒海沿岸のイクジテペ遺跡には、強いバルカンとの類似性を有する物質文化が含まれており、これは黒海全域の集団との直接的接触を示す、と議論されてきましたが、これらの接触は遺伝子流動を伴わないようです。

 アルスランテペ遺跡は別の代表的事例を提供します。前期銅器時代の始まりにおいて、アルスランテペ遺跡の考古学的証拠は、コーカサスとのつながりを有する牧畜民集団によるアルスランテペの占拠につながった、破壊的な社会政治的紛争の存在を強く示唆します。主成分分析とf4統計では、この期間の2個体は、コーカサスとポントス・カスピ海草原からの集団との過剰な類似性を示しますが、後のアルスランテペEBA個体群は、このコーカサスとの類似性を共有していません。これは、仮定された人口の相互作用が一時的で小規模だったに違いないものの、アルスランテペEBAの小さな標本規模(4個体)が検出に充分ではなかったかもしれない、と示唆します。微妙な遺伝子流動はアルスランテペ遺跡の最近の知見と一致しており、アルスランテペ遺跡を占拠したEBA牧畜民は、コーカサスからの侵入集団というよりはむしろ、ザグロス山脈周辺を移動するよく確立された在来集団だった可能性の方が高い、と示唆されます。

 アルスランテペ遺跡の遺伝的景観は、メソポタミア世界との相互作用に関して重要な示唆も有します。考古学的証拠では、紀元前四千年紀にメソポタミア集団はアナトリア半島南東部とシリア北部に植民地を確立し、これはウルク拡大と呼ばれる期間です。しかし、ウルクの拡大は、在来エリート層の経済・政治・文化的関心をメソポタミア南部へと新たに向ける、社会文化的変化の複雑で深い過程でもありました。アルスランテペ遺跡の人工物はこの複雑さを反映しており、本論文で示された遺伝的継続性は、遺伝子伝達なしに、在来集団がこれらより広範なウルクの特徴とアイデアを採用した、という考えを支持します。


●レヴァント北部における集団と領域国家の動態

 アナトリア半島の他地域とは対照的に、レヴァント北部は遺伝的構造で新石器時代後の変化を追跡できる近東の地域として際立っています。エブラ遺跡とアララハ遺跡の人類の遺伝子プールは、コーカサスとレヴァント南部の両方からの追加の遺伝的寄与を必要とするより複雑なモデルによってのみ説明できる、と明らかになりました。本論文で提案されたモデルにおいてコーカサスと関連する起源集団の包含は、この置換がレヴァントへのコーカサス南部のクラ・アラクセス文化の拡大と関連しているのかどうか、という問題を提起します。この拡大はレヴァントで紀元前2800年頃に記録されており、アナトリア半島東部およびコーカサス南部高地からの移動/移住と関連しているかもしれません。しかし、本論文の結果はいくつかの理由でこの想定を支持しません。まず、アナトリア半島東部のようなクラ・アラクセス文化のおもな拡大地域において、コーカサス関連系統の実質的な増加は見つかりません。次に、コーカサス南部高地からの集団は、クラ・アラクセス文化関連個体群も含めて、第二起源集団としても適合しませんでした。最後に、コーカサス南部からレヴァント北部への提案されている拡大経路の中間に位置する集団である、アナトリア半島東部のアルスランテペ遺跡個体群とのモデルも同様です。

 その結果、これらの解釈上の警告は、テルクルドゥ集団と青銅器時代エブラおよびアララハ集団との間の2000年に起きたかもしれない、複数の遺伝子流動事象を含む、代替的な歴史的想定の検討を必要とします。しかし、文字記録や考古学的および古気候学的証拠からは、より短い期間、つまり前期銅器時代の終わりが、政治的緊張と集団移動に関してひじょうに重要だった、と示唆されます。たとえば、この期間には、中期青銅器時代の始まりにエブラ遺跡は2回破壊され、再建されました。前期銅器時代の終わりから後期青銅器時代まで、アムク川流域へと侵入する人類集団に言及する文字記録は広範に存在します。これらの集団はアモリ人やフルリ人などと呼ばれましたが、その(文化的)自己認識の形成背景や地理的起源に関しては、まだ議論が続いています。最近の仮説では、これらの集団の到来が4200年前頃の大旱魃における気候変動による集団移動と関連づけられており、この大旱魃はメソポタミア北部のハブール川前流域の放棄と、近隣の居住可能地域の探索へとつながった、と指摘されています。

 これを考慮すると、アララハとエブラで推定された系統は、まだ標本抽出されていないメソポタミア北部のEBA集団遺伝的構成を最もよく表しているかもしれない、と示唆されます。次の中期〜後期青銅器時代には、王国/帝国間の領土支配の動態の変化がエブラおよびアララハの社会文化的発展に影響を及ぼしたとしても、遺伝的混乱の証拠は見つかりません。それにも関わらず、アジア中央部起源の可能性があるアララハ遺跡の1個体の事例は、中期および後期青銅器時代の地中海東部社会の「国際主義」の文脈内で解釈できるかもしれない知見です(関連記事)。この現象のさまざまな社会的特徴と、これらが個人の生活史にどのように反映されているのか、ということに関して、今後の研究が必要です。


●まとめ

 全体的に、本論文の大規模なゲノム分析は、2つの主要な遺伝的事象を明らかにします。まず、後期新石器時代に、アナトリア半島とコーカサス南部にまたがる遺伝子プールが混ざり、混合勾配が生じました。次に、前期銅器時代に、レヴァント北部集団が、メソポタミアからのまだ標本抽出されていない近隣集団を含む可能性が高い過程で、遺伝子流動を受けました。アルスランテペ遺跡において微妙で一時的な遺伝子流動を検出できるとしても、均質な銅器時代および青銅器時代のアナトリア半島集団の遺伝子プール内の地域規模の集団動態と関連する問題の解明は、現在の分析手法では解決できないかもしれない、と本論文は認識しています。

 さらに、本論文の標本抽出は数と地理的範囲において以前の研究との比較で拡大していますが、メソポタミアの人類遺骸の重要な地域ではまだ標本抽出されていません。したがって、本論文で提示された近東の遺伝的景観は示唆的ですが、まだ不完全です。それにも関わらず、前期〜後期青銅器時代間のアナトリア半島とコーカサス南部とレヴァント北部の累積的な遺伝的データセットからは、後期新石器時代と前期青銅器時代の遺伝的事象に続いて、この地域では遺伝的に異なる集団の侵入はなかった、と示唆されます。この結論は、複雑な青銅器時代の社会政治的実体の形成についての我々の理解に関して、ひじょうに重要です。


参考文献:
Skourtanioti E. et al.(2020): Genomic History of Neolithic to Bronze Age Anatolia, Northern Levant, and Southern Caucasus. Cell, 181, 5, 1158–1175.E28.
https://doi.org/10.1016/j.cell.2020.04.044


https://sicambre.at.webry.info/202009/article_30.html

2. 2021年8月07日 19:11:26 : oruFDODoH6 : Y1lMd2NVTDB1MjI=[30] 報告
雑記帳 2021年08月07日
小林登志子『古代メソポタミア全史 シュメル、バビロニアからサーサーン朝ペルシアまで』
https://sicambre.at.webry.info/202108/article_7.html


https://www.amazon.co.jp/%E5%8F%A4%E4%BB%A3%E3%83%A1%E3%82%BD%E3%83%9D%E3%82%BF%E3%83%9F%E3%82%A2%E5%85%A8%E5%8F%B2-%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%83%A1%E3%83%AB%E3%80%81%E3%83%90%E3%83%93%E3%83%AD%E3%83%8B%E3%82%A2%E3%81%8B%E3%82%89%E3%82%B5%E3%83%BC%E3%82%B5%E3%83%BC%E3%83%B3%E6%9C%9D%E3%83%9A%E3%83%AB%E3%82%B7%E3%82%A2%E3%81%BE%E3%81%A7-%E4%B8%AD%E5%85%AC%E6%96%B0%E6%9B%B8-%E5%B0%8F%E6%9E%97%E7%99%BB%E5%BF%97%E5%AD%90-ebook/dp/B08SWG2M56


 中公新書の一冊として、中央公論新社より2020年10月に刊行されました。電子書籍での購入です。本書が対象とするのはメソポタミアで、年代では都市文化が始まる紀元前3500年頃からおもに紀元前539年の新バビロニア王国の滅亡までで、その後もアラブ人勢力による支配の始まりとなる紀元後651年のサーサーン王朝の滅亡までが扱われています。メソポタミアは地理的に大きくは、南部のバビロニアと北部のアッシリアの2地域に区分されます。メソポタミアは現在の国境線ではおおむねイラク共和国に相当しますが、この南北の違いは、現在のスンニ派(北部)とシーア派(南部)の対立にも続いている、と本書は指摘します(妥当な見解なのか、疑問は残りますが)。

 世界最古の都市文化は、紀元前四千年紀後半にユーフラテス河畔で勃興しました。ユーフラテス河はアジア南西部における交易の大動脈で、それが都市の発展を促したのでしょう。ユーフラテス河の東方を流れるティグリス河は、ユーフラテス河と比較する短く、支流が山地から直接本流に流れ込むため水位が急増し、大洪水が頻繁に起きました。そのため、メソポタミアの災害といえば洪水で、「大洪水伝説」が語り継がれ、それは『聖書』にも取り入れられました。ユーフラテス河とティグリス河という「(両)河の間の地」を意味するギリシア語がメソポタミアです。メソポタミア南部のバビロニアは地理的に、北部のアッカドと南部のシュメルに二分されます。ただ、シュメル人は自らをシュメルではなく「キエンギ(ル)」と呼んでおり、シュメルは後代のアッカド語となります。

 メソポタミア南部に人々が最初に定住したのはウバイド文化期(紀元前5500〜紀元前3500年頃)で、歴史時代は都市文化が成立したウルク文化期(紀元前3500〜紀元前3100年頃)に始まります。その担い手は、「民族」系統不詳のシュメル人です。広い沖積平野が続くメソポタミア南部では高度な灌漑農業が営まれの下が、鉱物や石材や木材には恵まれず、オオムギなど農産物を対価としてそれらの物資を入手しました。都市文化の当初より、内向きでは生き残れず、外部との関係が不可欠だった、というわけです。そのため、メソポタミア南部全体が共通の経済観念を有していたようで、その証拠が文字の祖型とされるトークン(小型粘土製品)です。紀元前三千年紀後半には、メソポタミアやシリアなどで次々と都市が形成されていきますが、都市の周辺には、都市と関わる遊牧社会も存在しました。

 紀元前3100〜紀元前2900年頃となるジェムデット・ナスル期にはバビロニア全域に都市文化が広まり、初期王朝時代が続きます。シュメルでは複数の都市国家が交易路や領土問題で争いました。初期王朝時代には第I期(紀元前2900〜紀元前2750年頃)に都市を囲む城壁が出現し、第IIIB期(紀元前2500〜紀元前2335年頃)に覇権をめぐる都市間の合従連衡が活発になり、ついにはウルクがシュメルを統一します。ウルクはアッカド語の呼称で、シュメル語ではウヌグです。ウルクにはすでにウバイド文化期に定住が始まり、紀元後634年のアラブ人によるメソポタミアへの侵攻の前後に放棄されたようです。ウルクで発明された文字が完全な文字体系(楔形文字)に整備されたのは紀元前2500年頃でした。メソポタミアの都市国家の王は、都市全域を支配して全住民に人頭税や地租を課すのではなく、広大な耕地と所属員から構成される家産的な独立自営の組織に依存していたようです。

 メソポタミア南部のバビロニアを統一したのは、ウルクではなくバビロニア北部のアッカドのサルゴン王(在位は紀元前2334〜紀元前2279年)でした。シュメルとアッカドでは、言語により呼称は違うものの、ほぼ同じ神々が祀られていました。たとえば大地母神は、シュメル語ではイナンナ、アッカド語ではイシュタルです。余談ですが、これが高橋克彦『竜の柩』の設定にも取り入れられていたことを思い出しました。アッカドはバビロニアを統一しましたが、その後もシュメル人がたびたび反乱を起こしました。こともあり、支配が安定したのは第3代のマニシュトゥシュ王の時代だったようです。アッカドの衰退後、シュメル人による最後の統一王朝を築いたのがウル第三王朝でした。ウル第三王朝時代には、現存最古の法典となるシュメル語の『ウルナンム法典』が作成されました。『ウルナンム法典』では、傷害罪は銀で償うと規定されており、『ハンムラビ法典』などに見られる後の同害復讐法とは異なります。ウル第三王朝の滅亡とともに、シュメル人は政治的・「民族的」独立を失い、日常語はアッカド語となりますが、その後も学校ではシュメル語が教えられ、シュメル語の文学作品が作られました。

 ウル第三王朝滅亡後のメソポタミア南部は古バビロニア時代と呼ばれ、前半は群雄割拠の混乱期だったイシン・ラルサ時代、後半はハンムラビ王(在位は紀元前1792〜紀元前1750年)以降のバビロン第一王朝時代と区分されます。紀元前二千年紀前半のメソポタミアで大きな役割を果たしたのは、シリア砂漠からメソポタミアへ侵入してきた、西方セム語族のアムル(アモリ)人でした。メソポタミア北部のアッシリアの歴史は、紀元前2000年頃以降にようやく明確になってきて、アッシリア時代(紀元前2000〜紀元前1600年頃)と呼ばれます。アッシリアはアナトリア半島やシリアとメソポタミアとの間の遠距離交易活動を優位に展開した商業国家で、紀元前三千年紀にはアッカド王朝やウル第三王朝に従属していました。バビロン第一王朝は、ヒッタイト王国に攻められて紀元前1595年に滅亡しましたが、都市としてのバビロンの優位は失われず、バビロンを首都とする王朝が新バビロニアまで1000年以上にわたって断続的に続きました。

 紀元前二千年紀後半のメソポタミアでは、同じくアッカド語を使い、同じ神々を祀るなど同一文化を担う二大勢力として、バビロニアとアッシリアによる覇権争いが展開します。この間、バビロニアを長期にわたって支配したのが、「民族」系統不詳のカッシート王朝(紀元前1500〜紀元前1155年)でした。一方、アッシリアは不明な点が多くいミタンニ(ミッタニ)王国(紀元前16〜紀元前14世紀)に制圧されていましたが、紀元前14世紀後半にミタンニの支配から脱し、メソポタミア北部で勢力を回復します。ただ、アッシリアがバビロニアに軍事的に勝利しても、バビロニア文化に圧倒されることは珍しくなかったようです。この時期のメソポタミアには、このミタンニやアナトリア半島中央部のヒッタイト王国が関わり、さらにはエジプトもアジアへと侵出してきます。こうしてメソポタミアも含めてアジア南西部で諸勢力が並存し、「世界最古」の「国際社会」が形成されます。ミタンニはフリ(フルリ)人の国で、その言語は膠着語であり、紀元前千年紀前半にアナトリア半島東部およびアルメニアを支配したウラルトゥ王国(紀元前9世紀中期〜紀元前6世紀初頭)の言語と類縁関係にあります。こうして諸勢力が興亡を繰り返しつつ政治・文化・経済的に交流を続けた「国際社会」は、「紀元前12世紀の危機」で大打撃を受けます(関連記事)。

 「紀元前12世紀の危機」を経た後、紀元前千年紀前半のメソポタミアでは「世界帝国」の興亡が繰り広げられます。この時代の「世界帝国」としてまず台頭したのは、「紀元前12世紀の危機」で中期アッシリアが衰退した後に復興した新アッシリア(紀元前1000〜紀元前609年)で、その武力により版図を拡大しました。その背景には鉄器時代の到来があり、鉄製の農具や工具の普及により人類の居住世界が大きく広がるとともに、鉄製武器と騎兵の本格的出現により軍事力が向上しました。この間、アラム語がアジア南西部で広く用いられるようになります。

 紀元前8世紀後半のティグラト・ピレセル3世(在位は紀元前744〜紀元前727年)の代にアッシリアは大きく拡大し、「帝国」としての実態を有するようになっていきます。その後、紀元前8世紀末から紀元前7世紀前半にかけて、アッシリア帝国全盛期を迎え、ついにはメソポタミアのみならずエジプト全土も支配しますが、この支配は長続きしませんでした。新アッシリアは複雑な官僚組織で広大な帝国を運営し、多くの属国が存在しました。しかし、アッシュル・バニパル王が紀元前627年に死ぬと、新アッシリア帝国は急速に崩壊していき、紀元前609年に滅亡します。

 新アッシリア帝国を単独では滅ぼせなかったものの、新バビロニアは新アッシリア帝国の滅亡後にメソポタミアで大きな勢力を有し、とくに有名な王は「バビロニア捕囚」を行なったネブカドネザル2世です。新バビロニアの都市住民は自由人と奴隷と「半自由人(王室や宮殿または個人に属している人や小作人)」に分かれ、商人の経済活動が活発だったようです。しかし、新バビロニアはペルシアに勃興したハカーマニシュ王朝により紀元前539年に滅ぼされ、本書はこれを古代メソポタミア史の終わりと指摘します。もはやメソポタミアは歴史を動かす主役たり得ず、以後はもっぱら東西の強国に蹂躙されていった、というわけです。紀元後7世紀のアラブ人勢力の支配により、メソポタミア地域の言語がアラビア語へと変わったのは、それを象徴しています。

https://sicambre.at.webry.info/202108/article_7.html

3. 2021年8月10日 13:16:41 : vQyPMzu3FY : NVZsaVNGQzJVQkE=[34] 報告
2021年08月09日 中東の人口史
https://sicambre.at.webry.info/202108/article_9.html


 中東の人口史に関する研究(Almarri et al., 2021)が公表されました。この研究はオンライン版での先行公開となります。世界的な全ゲノム配列計画は、ヒトの多様性と拡散と過去の混合事象への洞察を提供してきました(関連記事1および関連記事2)。しかし、多くの人口集団はまだ研究されておらず、そのため、遺伝的多様性と人口史の理解を制約し、健康の不平等性を悪化させるかもしれません。大規模な配列計画によりとくに研究対象とされている地域は中東です。中東はアフリカとヨーロッパとアジア南部の間に位置しており、ヒトの進化と歴史と移住を理解するうえで重要地域となります。中東ではアフリカ外の現生人類(Homo sapiens)の最初の証拠のいくつかが得られており、177000年前頃のレヴァント(関連記事)や85000年前頃のアラビア半島北西部(関連記事)で年代測定された化石が発見されています。さらに、現生人類のものとされる12万年前頃の道具と足跡も、アラビア半島で特定されました(関連記事1および関連記事2)。

 現在、アラビア半島の大半は超乾燥砂漠ですが、過去には「緑のアラビア」をもたらしたいくつかの湿潤期があり、その時期にはヒトの拡散が促進され、現在の砂漠気候の始まりは6000年前頃に始まった、と考えられています。後期更新世と完新世における湿潤期から乾燥期への移行は、気候に適応した人口集団の移動をもたらした、と提案されてきました。アラビア半島内の新石器時代の移行は、地域内で独立して発展したか、あるいはレヴァントの新石器時代農耕民の南方への拡大によるものでした。こうした問題に取り組むため、アラビア半島とレヴァントとイラクの人口集団からの高網羅率の物理的に位相の揃ったデータセットが生成され、分析されました。将来の医学研究に役立つだろうあまり研究されていない地域における遺伝的多様性の目録の作成に加えて、人口構造、人口統計学および選択の歴史、現生人類および絶滅ホモ属(古代型ホモ属)との混合事象が調べられました。


●データセット

 短い読み取りから長い情報を保存する手法を用いて中東の8人口集団(図1A)の137個体の全ゲノムが配列され、その平均網羅率は32倍です。この「連鎖読み取り(linked-read)」技術を用いる利点は、短い読み取りの整列を区別しない反復領域における、物理的に位相のそろったハプロタイプの再構築と、改善された整列です。調査対象の全人口集団はアフロ・アジア語族のセム語派であるアラブ語を話しますが、例外はイラクのクルド人集団で、インド・ヨーロッパ語族のイラン語群であるクルド語を話します。

 品質管理の後、2310万ヶ所の一塩基多様体(SNV)が特定されました。このデータセットが、ヒトゲノム多様性計画(HGDP)で特定された多様体(関連記事)と比較されました。本論文のデータセットでは、HGDPでは見つかっていない480万ヶ所のSNVが見つかりました。予測されたように、これらの多様体のほとんどは稀で、その93%は1%未満の頻度ですが、37万ヶ所は一般的(頻度1%以上)です。興味深いことに、これらの一般的な多様体のほとんどは、以前の研究(関連記事)により定義された利用可能性被覆外となります(246000ヶ所の多様体)。これは、中東人など遺伝的にあまり知られていない人口集団の配列決定と、将来の医学研究における地域固有の多様体の包摂の重要性を示します。これは、標準的な短い読み取りを利用しにくい領域に、かなりの量の未知の変異が存在することも示します。以下は本論文の図1です。
画像


●人口構造と混合

 人口構造と過去の混合事象を明らかにすることは、人口史の理解と医学研究の設計および解釈に重要です。単一の多様体およびハプロタイプの両方に基づく手法を用いて、本論文のデータセットの構造と多様性が調べられました。本論文のデータセットを世界規模の人口集団と統合した後、fineSTRUCTUREで、地理と合致した遺伝的クラスタが識別され、自己標識された人口集団は一般的に異なるクラスタを形成する、と示されました(図1C)。レヴァントとイラク(レバノン人、シリア人、ヨルダン人、ドゥルーズ派、ベドウィンA、イラクのアラブ人)が一まとまりになったのに対して、イラクのクルド人はイラン中央部人口集団とまとまりました。アラビア半島の人口集団(エミラティA、サウジ人、イエメン人、オマーン人)はHGDPのベドウィンBとまとまりました。エミラティ人口集団(アラブ首長国連邦集団)内では、過剰なイランおよびアジア南部祖先系統(祖先系譜、ancestry)を有する下位人口集団(エミラティBおよびエミラティC)が特定されました(図1B)。また、比較的高いアフリカ祖先系統を有する下位人口集団(サウジBおよびエミラティD)も見つかりました。

 次に古代の地域的および世界的人口集団の文脈で本論文の標本が分析されました。主成分分析(図1D)では、現代の中東人は古代レヴァントの狩猟採集民であるナトゥーフィアン人(Natufian)と新石器時代レヴァント人(レヴァントN)と青銅器時代ヨーロッパ人と古代イラン人との間に位置する、と示されます。アラブ人とベドウィンは古代レヴァント人の近くに位置しますが、現代のレヴァント人は青銅器時代ヨーロッパ人の方に引き寄せられています。イラクのアラブ人およびクルド人とアッシリア人は古代イラン人に比較的近いようです。

 ほとんどの中東現代人は、4古代人口集団の祖先系統からの派生としてモデル化できる、と明らかになりました。それは、レヴァントN、新石器時代イラン人であるガンジュダレー(GanjDareh)N、ヨーロッパ東部狩猟採集民(EHG)、4500年前頃のアフリカ東部人であるモタ(Mota)個体です。レヴァントとアラビア半島の人口集団間での差異が観察されました。レヴァント人は過剰なEHG祖先系統を有しており(図1E)、これは以前の研究(関連記事)で示された、青銅器時代後に古代ヨーロッパ南東部およびアナトリア半島祖先系統を有する人々とともに到来した祖先系統です。本論文の結果は、この祖先系統がアラビア半島と比較してレヴァントでずっと高い、と示します。

 レヴァントとアラビア半島との間の別の差異は、アラビア半島の人口集団におけるアフリカ祖先系統の過剰です。本論文のデータセットにおけるほとんどの人口集団にとってのアフリカ祖先系統の密接な供給源は、エチオピアのナイル・サハラ語族話者に加えて、ケニアのバンツー語族話者である、と明らかになりました。中東におけるアフリカ人との混合は過去2000年以内に起きたと推定され、ほとんどの人口集団は1000〜500年前頃の混合の兆候を示しており、以前の研究と一致します。

 4方向混合の選択は、レヴァントNおよびガンジュダレーNが古代近東人にかなりの祖先系統をもたらしたこと(関連記事)、EHG/草原地帯祖先系統が青銅器時代後に中東に浸透したこと(関連記事)、ほとんどのレヴァント人とアラブ人でアフリカ祖先系統が現在見られることといった、中東に関する以前の知識に基づきます。本論文では検証において7つの外群が用いられ、それは、45000年前頃となるシベリア西部のウスチイシム(Ust’-Ishim)近郊のイルティシ川(Irtysh River)の土手で発見された個体と、ヨーロッパロシアにあるコステンキ−ボルシェヴォ(Kostenki-Borshchevo)遺跡群の一つであるコステンキ14(Kostenki 14)遺跡で発見された38000年前頃の若い男性1個体と、ヨーロッパ西部狩猟採集民(WHG)と、コーカサス狩猟採集民(CHG)と、ナトゥーフィアン人もしくはレヴァントNと、パプア人と、ムブティ人です。

 EHGとアフリカの祖先系統における違いに加えて、レヴァントと比較してアラビア半島ではナトゥーフィアン祖先系統の過剰が観察されました(図1BおよびE)。中東における祖先系統の供給源としてレヴァントNをナトゥーフィアン人と置換すると、アラブ人はモデル化に成功できますが、レヴァントの現代人はどれもそのようにモデル化できませんでした。モデル準拠クラスタ化でも、アラビア半島の人口集団はレヴァント現代人と比較してかなり低いアナトリア半島新石器時代(アナトリアN)祖先系統を有する、と示されました(図1Bの紫色の構成要素)。古代アナトリア半島祖先系統におけるこの違いは、アラビア半島への限定的なレヴァントNの拡大に由来するかもしれません。なぜならば、レヴァントNはアナトリアNとかなりの祖先系統を共有しているものの(関連記事)、レヴァントへのアナトリアN祖先系統を有する人口集団の拡大とともに青銅器時代後の事象にも由来するからです(関連記事)。

 続旧石器時代/新石器時代の人々からの在来の祖先系統に加えて、古代イラン人と関連する祖先系統が見つかり、それは現在すべての中東人に遍在します(図1Bの橙色の構成要素)。以前の研究では、この祖先系統は新石器時代のレヴァントには存在しなかったものの、青銅器時代には見られ、在来の祖先系統の最大50%が古代イラン人関連祖先系統を有する人口集団に置換された、と示されました。この祖先系統がレヴァントとアラビア半島の両方に同時に浸透したのかどうか調べられ、混合年代は北方から南方への勾配にほぼ従っており、最古の混合はレヴァントで5900〜3300年前頃に置き、その後アラビア半島で3500〜2000年前頃に、アフリカ東部で3300〜2100年前頃に混合が起きた、と明らかになりました。

 これらの年代は、語彙データから推定された中東およびアフリカ東部におけるセム語派の青銅器時代起源および拡大の年代と重なります(図2)。この人口集団は、レヴァントとアラビア半島にY染色体ハプログループ(YHg)J1をもたらした可能性があります。本論文のデータセットにおけるYHg-J1の大半は5600年前頃に合着(合祖)し、青銅器時代の拡大の可能性と一致しますが、17000年前頃に分岐した稀なより早期の系統も見つかりました。そのYHgはナトゥーフィアン人で一般的なE1b1bで、本論文のデータセットでもよく見られ、ほとんどの系統は8300年前頃に合着しますが、39000年前頃に合着する稀なより深く分岐したYHgも見つかりました。以下は本論文の図2です。
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 次に、標本抽出された地域的な青銅器時代人口集団の一つからの祖先系統の派生として人口集団がモデル化できるのかどうか検証され、レバノンのシドン(Sidon)遺跡の中東青銅器時代人口集団(シドンBA)が一部の現代のレヴァントおよびアラビア半島の人口集団の祖先系統の供給源であり得る、と明らかになりました。本論文の系統発生モデル化では、レヴァント現代人はシドンBA関連人口集団に直接的に由来する祖先系統を有しているかもしれない、と示唆されます。しかし、アラブ人はナトゥーフィアン関連人口集団からの追加の祖先系統が必要です(図3)。以下は本論文の図3です。
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●有効人口規模と分離の歴史

 歴史的な有効人口規模は、母集団から標本抽出された染色体間の合着年代の分布から推測できます。しかし、単一のヒトゲノムを用いた場合、最近の期間では解像度が限定されますが、複数のゲノムを用いると、ハプロタイプ位相のエラーにより不自然な結果が作成されます。位相のないゲノムからアレル(対立遺伝子)頻度範囲を組み込むことによりこれらの範囲を拡張する手法が開発されましたが、最近では、たとえば金属器時代を通じて解像度がありません。

 ゲノム規模系統生成における最近の発展と、本論文の多数の物理的位相標本を活用することで、本論文のデータセットにおける各人口集団のごく最近(1000年前頃)までの有効人口規模を推定できます(図4A)。全中東人の祖先は、7万〜5万年前頃の出アフリカ事象の頃に人口規模の顕著な減少を示す、と明らかになりました。このボトルネック(瓶首効果)からの回復は、レヴァントとアラビア半島の間の差異が出現し始める20000〜15000年前頃まで、同様のパターンをたどります。レヴァントとイラクの全人口集団はかなりの人口拡大を示し続けますが、アラブ人は類似の人口規模を維持しました。この差異は注目に値します。それは、この差異が最終氷期極大期(Last Glacial Maximum、略してLGM)の終了後に始まり、新石器時代に顕著になるからで、新石器時代には肥沃な三日月地帯で農耕が発達し、より大きな人口集団を支える定住社会へとつながりました。

 新石器時代に続いて、6000年前頃となるアラビア半島の乾燥化の始まりとともに、アラビア半島の人口集団はボトルネックを経ましたが、レヴァント人は人口規模が増加し続けました。その後、レヴァント人の拡大は停滞期に入り、4200年前頃の乾燥化事象で人口規模は減少します。エミラティ人(アラブ首長国連邦人)の減少はとくに顕著で、有効人口規模は5000人となり、同時期のレヴァント人およびイラク人の1/20程度でした。人口回復は過去2000年で観察されます。本論文の結果は、以前の人口規模推定に影響を及ぼした可能性のある、中東で一般的な最近の近親結婚に対しても堅牢で、それは、分析において標本ごとに単一のハプロタイプを含めたからです。

 次に、中東の人口集団の、中東人口集団内および世界の人口集団との人口分離の歴史が調べられました。この分析における正確な位相調整の重要性は、統計的に位相データに基づいて、現代パプア人がアフリカからの現生人類(Homo sapiens)の初期の拡大の祖先系統を有している、と提案した以前の知見(関連記事)により示されます。しかし、その以前の知見は、物理的に位相化されたゲノムデータを用いて複製されなかったので、統計的に不自然な結果が原因だった、と示唆されました(関連記事)。

 逆に、最近の人口分離の歴史を調べるさいには、稀な多様体がより多くの情報をもたらすものの、統計的手法により正確に位相化されておらず、参照パネルに存在する可能性は低くなります。本論文ではまず、中東の現代人が出アフリカ現生人類の初期拡大からの祖先系統を有しているのかどうか、HGDPからの物理的に位相化された標本と本論文の人口集団との分岐年代の比較により検証されました(図4B)。分岐年代の発見的推定値として相対的な交差合着率(rCCR)を0.5とすると、レヴァント人とアラブ人とサルデーニャ島人と漢人は同じ分岐年代と、さらに12万年前頃以降のムブティ人からの同じ漸進的な分離パターンを共有している、と明らかになりました。次に、本論文のデータセットの人口集団とサルデーニャ島人が比較され、両者は2万年前頃に分岐し、レヴァント人はアラブ人よりもわずかに最近の分岐を示す、と明らかになりました。

 ムブティ人との漸進的な分離パターンとは対照的に、サルデーニャ島人は中東の全人口集団とのより明確な分岐を示します。注目すべきことに、レヴァントおよびアラビア半島内の全系統と、さらに全ての中東人口集団およびサルデーニャ島人の内部の系統は、過去4万年以内で合着します。これらの結果をまとめると、現代の中東人口集団は、出アフリカ現生人類のより早期の拡大からの顕著な痕跡を有しておらず、全ての人口集団は6万〜5万年前頃にアフリカから拡大した同じ人口集団の子孫だった、と示唆されます。

 次に、中東内の人口集団の分離年代が比較され、最古の分離年代はアラビア半島とレヴァント/イラクとの間だった、と明らかになりました(図4C)。エミラティ人はイラクのクルド人と1万年前頃に、ヨルダン人およびシリア人およびイラクのアラブ人とはもっと新しく7000年前頃に分岐しました。同じ人口集団からのサウジ人の分岐年代はもっと最近のようで7000〜5000年前頃ですが、イエメン人の分離曲線はエミラティ人とサウジ人の曲線間の中間です。アラビア半島とレヴァントの人口集団間の分岐年代は青銅器時代に先行し、本論文の系統発生モデル化と一致しますが、青銅器時代にアラビア半島への拡大が起きたならば、祖先系統の完全な置換は起きませんでした。以下は本論文の図4です。
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 レヴァントとイラクの内部では、全ての分岐は過去3000〜4000年間に起きました。アラビア半島内では、イエメン人がエミラティ人と4000年前頃に分岐し、サウジ人はエミラティ人およびイエメン人の両方と最も分岐度の低い人口集団として現れ、過去2000年以内となる最近の分岐です。注意すべきは、この地域内の分離曲線が漸進的なように見えることで、明確な分岐よりもむしろ、分離後の継続的な遺伝子流動が示唆されます。また、この分離曲線にはこれらの人口集団の混合史が反映されていることにも要注意です。


●中東における古代の遺伝子移入と深い祖先系統

 ほとんどの非アフリカ人口集団における類似のネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)祖先系統量と、遺伝子移入されたハプロタイプの低い多様性から、現生人類はアフリカ外に拡大したさいにネアンデルタール人との単一の混合の波を経た可能性が高い、と示唆されています(関連記事)。中東の人口集団は以前に、ヨーロッパおよびアジア東部の人口集団よりもネアンデルタール人祖先系統が少ない、と示されましたが、この知見の解釈は、ネアンデルタール人祖先系統を「希釈する」最近のアフリカ人との混合により複雑になっています。

 さらに、一部の分析では外群の使用が必要ですが、外群にネアンデルタール人祖先系統が含まれる場合、推定を偏らせる可能性があります(関連記事)。本論文のデータセットにおけるネアンデルタール人からの遺伝子移入を調べるため、標本の正確な位相調整を利用し、高網羅率となるクロアチアのヴィンディヤ洞窟(Vindija Cave)のネアンデルタール人のゲノム(関連記事)と、交差合着率が比較されました。全ての中東人は、他のユーラシア人と同様の時期に古代型混合の兆候を示しました(図5A)。

 次に、同祖対立遺伝子(identity-by-descent、略してIBD。かつて共通祖先を有していた2個体のDNAの一部が同一であることを示し、IBD領域の長さは2個体が共通祖先を有していた期間に依存し、たとえばキョウダイよりもハトコの方が短くなります)に基づく手法であるIBDmixが用いられました。IBDmixは、標的集団とネアンデルタール人のゲノムを直接的に比較し、ネアンデルタール人起源のハプロタイプを検出します(関連記事)。

 本論文の標本とHGDPデータセットでIBDmixが実行され、ネアンデルタール人起源の可能性が高そうな合計12億7000万塩基対の区域が回収されました。本論文のデータセットに固有ではあるものの、他の非中東地域ユーラシア人には存在しないネアンデルタール人のハプロタイプの量を比較すると、合計で2500万塩基対しか見つからず、中東人におけるネアンデルタール人のハプロタイプの大半が他の人口集団と共有されている、と示されます。しかし、世界では比較的稀であるものの、アラビア半島では高頻度に達する、比較的大きな遺伝子移入されたハプロタイプ(最大50万塩基対程度)が見つかりました。

 次に、人口集団あたりの合計のネアンデルタール人由来の塩基対の平均数が比較され、レヴァント人を含む他のユーラシア人口集団と比較してアラビア半島ではより低い値が見つかりました。たとえば、ドゥルーズ派とサルデーニャ島人は類似の量(1個体平均5640万塩基対)のネアンデルタール人祖先系統を有しています(図5B)。対照的にアラビア半島では、エミラティAとサウジAのネアンデルタール人祖先系統は平均してそれぞれ5270万塩基対と5210万塩基対で、ドゥルーズ派やサルデーニャ島人よりも8%、漢人よりも20%少なくなっています。

 エミラティAとサウジAのアフリカ祖先系統は3%未満なので、アラビア半島におけるネアンデルタール人祖先系統の希釈はアフリカ祖先系統だけでは説明できません。以前の研究では、ネアンデルタール人祖先系統の割合が低いか皆無の基底部ユーラシア人集団が、古代および現代のユーラシア人にさまざまな割合で寄与し、新石器時代イラン人とナトゥーフィアン人では50%に達する、と提案されました(関連記事)。アラブ人は中東の他地域集団と比較してナトゥーフィアン的祖先系統を過剰に有しているので、アラブ人はネアンデルタール人祖先系統を減少させるだろう基底部ユーラシア人祖先系統も過剰に有している、と明らかになりました。

 さらに、ほとんどの中東現代人は最近の混合からアフリカ祖先系統を有しており、それも主要なユーラシア祖先系統を有する時期と比較して、中東現代人の深い祖先系統に寄与しています。中東現代人では、深い祖先系統の増加とネアンデルタール人祖先系統量との間で負の相関関係が見つかりました。全ての古代人口集団を検証すると、ネアンデルタール人祖先系統の希釈を説明する2つの勾配(図5C)が明らかになりました。一方はアフリカ祖先系統により、もう一方は基底部ユーラシア人祖先系統により形成されます。中東人は、両方の祖先系統を有するので、両方の勾配に影響を受けたようです。以下は本論文の図5です。
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●選択

 現在の超乾燥気候は、アラビア半島の人口集団における適応に選択圧を及ぼした可能性があります。これを調べるため、控えめなゲノム規模閾値でひじょうに急速に拡大した変異を有する系統のゲノム規模系図が調べられました。以前の研究では、アラビア半島におけるラクターゼ(乳糖分解酵素)活性持続(LP)と関連する、ヨーロッパの既知の多様体(rs4988235)とは異なる2つの相関する多様体(rs41380347とrs55660827)が特定されました。アラブ人の多様体rs41380347について、本論文では強い選択の証拠が明らかになりました(図6A)。同様ではあるものの、やや弱く、ヨーロッパ人ではrs4988235における強い選択が報告されています。

 rs41380347はアラビア半島人口集団において最高頻度で存在し、サウジ人とエミラティ人では50%となりますが、レヴァントとイラクでは4%とずっと低頻度になります。注目すべきことに、この多様体は1000人ゲノム計画(1KG)ではユーラシアもしくはアフリカの人口集団に存在しませんが、一部のアフリカ東部集団には低頻度で見られます。この多様体は、レヴァントとイランの古代人を含む既知の古代ユーラシア人157個体でも見つからず、中東内のハプロタイプの最近の起源および選択によるその後の頻度増加と一致します。この多様体は9000年前頃から現代の間に頻度が急速に増加した、と明らかになりました(図6A)。注目すべきことに、この期間はアラビア半島における狩猟採集民から牧畜採集民への生活様式移行と重なります。

 最近の頻度増加を示す追加の多様体も特定されました。多くの遺伝子には発現量的形質遺伝子座(eQTL)でもある、LMTK2遺伝子内の多様体rs11762534は、推定上の選択の証拠を示します(図6B)。LMTK2遺伝子は、アポトーシスや成長因子シグナリングを含む多様な細胞過程に関わり、マウスでは精子形成に不可欠と思われる、セリン/セロトニンキナーゼをコードします。中東以外では、この多様体はひじょうに層序化されており、ヨーロッパ人で最高頻度(1KGで45%)となりますが、アフリカ人とアジア東部人では1%未満と稀です。

 この多様体の頻度は、アラビア半島人口集団では66%、ベドウィンBでは81%ですが、ドゥルーズ派とパレスチナ人ではともに55%とやや頻度か低いようです。rs35241117における強い推定上の選択の兆候も見つかりました(図6C)。この多様体は、サウジ人とイエメン人で最高の世界規模の頻度(最大で60%)を示し、糸球体濾過や利尿や高血圧やBMIなど、多くの代謝や骨格や免疫特性と関連しています。rs35241117はクウェート人サウジ人で選択下にあると最近示唆された40万塩基対外に位置しますが、それとは中程度の連鎖不平衡(LD)です。

 さらに、アラビア半島とレヴァント/イラクとの間の強く違う多様体が探されました。エミラティ人とサウジ人の両方では、7番染色体の97000塩基対で分化の強い兆候が見つかりました。このハプロタイプ(rs1734235)の多様体はアラブ人ではほぼ固定しており、培養線維芽細胞におけるlincRNA AC003088.1の発現増加と関連しています。イエメンで最も極端な人口集団分枝統計はrs2814778で、rs2814778では派生的アレルがダッフィー・ヌル(Duffy null)表現型をもたらし、1KGではアフリカの人口集団においてほぼ排他的に見られます。

 しかし、この多様体はイエメン人ではひじょうに一般的で(74%)、アラビア半島を北上するにつれて頻度が減少します(サウジ人では59%ですが、イラクのアラブ人では6%です)。ゲノム全体でこの領域は中東においてアフリカ祖先系統が最も濃縮されており、以前の研究と一致する、と明らかになりました。イエメン人とサウジ人におけるアフリカ祖先系統の平均量はそれぞれ9%と3%なので、この多様体の高頻度はアフリカ人との混合後の正の選択と一致しているようです。この派生的なアレルは、アラビア半島において歴史的に存在してきた三日熱マラリア原虫感染を防ぐ、と考えられてきました。

 ゲノム規模の系統を用いる利点は、比較的弱い選択を検出する力があることです。そこで、とくに過去2000年間の、20の多遺伝子性特徴全体のアラビア半島人口集団における多遺伝子適応の証拠が探されました。ほとんどの特徴では、身長や肌の色やBMIなど、最近の方向選択の証拠は見つからないか、決定的ではありませんでした(図6D)。しかし、いくつかの特徴は証拠を示しており、最も強い選択兆候は、現代西洋社会の教育年数と関連する遺伝子多様体に現れ、全アラビア半島人口集団で一貫しています。これはイギリスの人口集団でも報告されていますが、その兆候は他の特徴で条件付けした後には減少すると示されており、相関する特性を介した間接的選択が示唆されます。

 イギリスの人口集団の知見とは対照的に、日焼けや髪の色などの特徴に作用する推定上の選択の証拠は見つかりませんでした。アラビア半島内では、ほとんどの特徴の推定上の選択の方向性は、おそらく共有された祖先系統の結果として、人口集団全体で類似しています。しかし注意すべきは、アラビア半島全体の現在の変化している環境は、さまざまな最近の選択圧を起こす可能性がある、ということです。エミラティ人では、2型糖尿病を増加させる多様体の推定上の選択の証拠が見つかりました。エミラティ人における2型糖尿病の発症率は世界で最も高く、それは部分的に定住性生活様式への強い最近の変化に起因すると考えられているので、興味深い結果です。同じ人口集団で、低密度リポ蛋白質の水準を向上させ、アポリプロテインBの水準を減少させる推定上の選択のわずかな証拠も見つかりましたが、多重検定を調整すると、これらの証拠は示唆的になりました。以下は本論文の図6です。
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●考察

 本論文は、遺伝的に充分に研究されていなかった中東地域の高網羅率のゲノム配列の生成を報告しました。研究された全ての標本は、連鎖読み取り配列を用いて実験的に位相化され、大規模で正確なハプロタイプの再構築を可能とします。以前の世界規模の配列計画では分類されていなかった何百万もの多様体が見つかり、そのかなりの割合が中東では一般的です。これら一般的な多様体の大半は短い読み取りの利用可能な被覆外にあり、標準的な短い読み取りの配列に基づく研究の限界を浮き彫りにします。

 多数の物理的に位相化されたハプロタイプにより、比較的古い期間(10万年以上前)からごく最近(1000年前頃)までの人口史の研究が可能になりました。アフリカからのヒトの初期拡大が、中東の現代の人口集団に遺伝的に寄与した証拠は見つかりませんでした。この知見は、全ての非アフリカ系現代人はアフリカからの単一の拡大の子孫で、その後すぐにネアンデルタール人と混合し、それは世界の他地域に移住する前だった、という支持を集めつつする合意に追加されます(関連記事)。

 中東の人口集団は地域固有のネアンデルタール人由来のDNAをほとんど有しておらず、その大半が他のユーラシア人と共有されている、と明らかになりました。アラビア半島の人口集団は、レヴァントやヨーロッパやアジア東部の人口集団よりもネアンデルタール人祖先系統の割合が低く、これは、ネアンデルタール人と混合しなかった基底部ユーラシア人からの祖先系統の増加と、ネアンデルタール人の遺伝的影響をユーラシア西部現生人類から間接的にしか受けなかったアフリカ人との最近の混合に起因する、と示されます。

 古代人のゲノムを用いて現代の人口集団をモデル化することにより、レヴァントとアラビア半島の人口集団間の違いが識別されました。レヴァントの人口集団はヨーロッパ/アナトリア半島関連祖先系統の割合がより高い一方で、アラビア半島人口集団はアフリカおよびナトゥーフィアン的祖先系統の割合がより高くなっています。レヴァントとアラビア半島との間の差異は、人口規模の歴史によっても示されます。両者は新石器時代前の20000〜15000年前頃に分岐し、定住農耕生活様式への移行はレヴァントで人口増加を可能にしたものの、アラビア半島では並行していなかったことを示唆します。

 アラビア半島では後期更新世と前期完新世の間で人口集団の不連続性が起き、アラビア半島は肥沃な三日月地帯からの新石器時代農耕民により再移住された、と示唆されています。本論文の結果は、レヴァントの農耕民によるアラビア半島人口集団の完全な置換を支持しません。さらに、本論文のモデルでは、アラビア半島の人々は、レヴァントの農耕民ではなく、ナトゥーフィアン的な在来狩猟採集民人口集団に祖先系統が由来する、と示唆されます。アラビア半島北部石器群は、その一部がレヴァントの農耕民により製作された石器群と類似しているように見えると識別されており、さらにレヴァントとアラビア半島との間の家畜動物の移動から、人口集団の移動もしくは文化的拡散のどちらかによるものだった、と提案されてきました。本論文の結果は、文化的拡散および/もしくはレヴァントからの限定的な移住を示唆します。

 中東現代人のモデル化に必要な系統の追加の供給源は、古代イラン人と関連しています。本論文の混合検証では、古代イラン人祖先系統がまずレヴァントに到達し、その後でアラビア半島とアフリカ東部に到達した、と示されます。これらの事象の年代は、興味深いことにセム語派の起源および拡大と重なっており、この祖先系統を有する(おそらくはレヴァントもしくはメソポタミアのまだ標本抽出されていない)人口集団がセム語派を拡大させた、と示唆されます。乾燥化事象と関連する気候変化が人口集団のボトルネックと関連していることも明らかになり、アラビア半島では6000年前頃に砂漠気候の始まりとともに人口規模が減少しましたが、レヴァントでは、4200年前頃の乾燥化事象で人口が減少しました。この深刻な旱魃は、中東とアジア南部の王国および帝国の崩壊の原因になった、と示唆されており、本論文で特定された兆候に遺伝的に反映されている可能性があります。

 多様体の進化史の再構築への祖先的組換え図の適用は、自然選択研究に強力な手法を提供します。本論文は、アラビア半島の人口集団において、選択の兆候を洗練して特定しました。過去数千年に50%にまで頻度が達し、アラビア半島外ではほぼ存在しない多様体と関連するラクターゼ活性持続の事例は、ヒトの歴史と適応の理解において、あまり研究されていない人口集団の研究が重要だと示します。

 本論文の結果から、多遺伝子性選択は、過去に有益だった可能性があるものの、現在では2型糖尿病などの疾患と関連している多様体の頻度増加に役割を果たしたかもしれない、と示唆されます。本論文では、他の人口集団と比較して、アラビア半島人口集団では多遺伝子性選択の兆候がほとんど見つからず、これは理論的に選択の強度を低下させるだろう長期の小さな有効人口規模の結果かもしれません。長期の小さな有効人口規模は、とくに最近の近親結婚の習慣(関連記事)と相まって、メンデル型や複雑な特徴の研究に利用できます。なぜならば、個体群はホモ接合型の機能喪失変異を有し、自然な「ヒトノックアウト」として機能するからです。本論文と中東地域における最近の国立バイオバンク設立は、健康格差是正への第一歩であり、将来、中東における複雑で疾患性の特徴を調べるための、刺激的な機会を提供します。以下は本論文の要約図です。
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 本論文は最後に限界も指摘しています。アラビア半島人口集団の形成を洗練し、レヴァントとアラビア半島との間の先史時代のつながりをさらに明らかにするには、アラビア半島からの将来の古代DNA研究が必要です。中東の人口集団はゲノム規模関連解析では最も注目されていない集団の一つなので、選択兆候の理解や多遺伝子性特徴の分析には限界があります。中東集団に関する将来のゲノム規模関連解析は、これらの人口集団における多遺伝子性選択の影響を理解するのに必要です。


参考文献:
Almarri MA. et al.(2021): The genomic history of the Middle East. Cell.
https://doi.org/10.1016/j.cell.2021.07.013
古人類学
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2021年08月08日

Y染色体の詳細な分析に基づく新石器時代のヨーロッパ西部への農耕民の拡大経路
古人類学
 Y染色体の詳細な分析に基づく新石器時代のヨーロッパ西部への拡大経路に関する研究(Rohrlach et al., 2021)が公表されました。ミトコンドリアDNA(mtDNA)やY染色体の非組換え領域(NRY)のような片親性遺伝標識は、その歴史を単純な進化系統樹により表せるという事実のため、集団の人口史についての魅力的な情報源です。1980年代の先駆的研究以来、ゲノム研究以前には、人類の遺伝的歴史と世界への移住のほとんどは、片親性遺伝標識のmtDNAとNRYから推測されていました。細胞内のコピー数が多く、ゲノムが短くて(17000塩基対未満)、比較的高い置換率のため、mtDNAはとくによく研究されてきており、人口集団の遺伝的変異性についての安価ではあるものの信頼できる情報源を産出してきました。

 逆に、NRYのマッピング可能な部分(古代DNA研究などで短い読み取りが確実にマッピングされている領域)はmtDNAよりもずっと長く(10445000塩基対)、男性個体の細胞で単一コピーとしてのみ表れます。進化的置換率(年間の部位あたりの置換数)は、NRYではmtDNAよりも最大で2桁低い、と推定されました。たとえば、7.77×10⁻¹⁰〜8.93×10⁻¹⁰で、ミトコンドリアゲノムでは1.36×10⁻⁸〜1.95×10⁻⁸となりますが、置換率の推定に関しては多くの議論があります。しかし、mtDNAと比較してNRYのゲノムがより長いことは、これらの置換率から、および単一系統の場合に、ミトコンドリアゲノムでは約3094〜4440年に起きる点変異と比較して、NRYでは約108〜123年ごとに点変異が起きることを意味します。その結果、NRYは集団の父方の人口史についてより多くの情報を含み、男性主導の移住もしくは父方居住など、男性に偏った集団の人口統計学的変化について多くの情報を提供できるので、人口集団の父方の歴史を調べることは、ひじょうに重要かもしれません。

 人口史の研究では、古代DNAはかけがえのない情報源として示されてきました。古代DNA研究は、ユーラシア西部における大規模な人口集団の移動と遺伝的交替事象を明らかにしてきており(関連記事1および関連記事2および関連記事3)、これらの事象は現代の人口集団の遺伝的データからの復元は不可能でした。古代人の片親性遺伝標識の研究も、現代人のみの研究では検出できない結果をもたらしてきました。たとえば、最終氷期極大期(Last Glacial Maximum、略してLGM)後のヨーロッパの再移住に続くmtDNAの多様性喪失、もしくは新石器時代拡大に続くヨーロッパ東部および中央部における狩猟採集民Y染色体系統多様性の減少と部分的な置換(関連記事)や、紀元前三千年紀初めにおける草原地帯的祖先系統(祖先系譜、ancestry)の到来に伴う、その後の新石器時代Y染色体系統の多様性喪失です(関連記事1および関連記事2)。

 古代DNAデータを用いる研究者たちは、通常、標本の品質に関連する問題、とくに死後のDNA崩壊と環境汚染による内在性DNAの減少に直面します。Y染色体は男性細胞の全DNAの2%未満程度を占めており、これが意味するのは、研究者たちが単一コピーのNRYで充分な情報価値のある部位を適切に網羅するためにショットガン(SG)配列の使用を望むならば、良好なDNA保存状態の標本でさえ、かなりの配列作業が必要になる、ということです。

 標的捕捉分析評価の開発により、古代DNA研究者たちは配列においてゲノムの特定の部位と領域を濃縮できるようになり、古代標本からのヒト内在性DNAの収量は大きく改善しました。そうした一般的な分析評価の一つが1240kアッセイ(分析評価)で、ヒトゲノムにおける124万ヶ所の祖先系統の情報価値のある部位を標的とし、そのうち32000ヶ所はY染色体上の既知の多様体の選択を表します。これは、情報価値のあるY染色体の一塩基多型の遺伝子系譜学国際協会(ISOGG)の一覧に基づきます。注目すべきことに、市販の利用可能版(myBaits Expert Human AffinitiesやDaicel Arbor Biosciences)では、ISOGGにより特定された追加の46000ヶ所のY染色体一塩基多型が含まれており、現代人男性で変異が見られます。

 現在知られている情報価値のあるY染色体の一塩基多型の数(ISOGGでは73163ヶ所、Yfullでは173801ヶ所)と比較して、標的Y染色体一塩基多型の数は比較的少なく、基本的なY染色体ハプログループ(YHg)の分類は可能ですが、現代の多様性と特定地域に大きく偏っています。結果として、1240kアッセイにおける特定のY染色体一塩基多型の表示に応じて、得られるYHgの分類は低く不均一な解像度になる可能性がありますが、標的を絞る手法は、ヒトの過去における隠れたおよび/もしくは消滅した可能性のある系統の検出ができません。

 人口集団の男性の歴史をよりよく研究して理解するために、すでによく知られている一塩基多型だけを標的にするのではなく、NRYの部位の配列データをとくに濃縮する標的分析評価の必要性が認識されました。そのため、YMCA(Y染色体マッピング可能捕獲分析評価)が設計され、実装されました。これは造語で、古代DNAに典型的な短いリードをヒトゲノムに確実にマッピングできるNRYの領域を標的とします。類似の手法はすでに以前の研究で調べられました(関連記事)。しかし本論文では、その研究で提示された精査セットとの詳細な比較は避けられます。その研究では、種区分未定のホモ属であるデニソワ人(Denisovan)やネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)といったずっと古い標本のために設計され、690万塩基対を標的としているので、「マッピング可能」の定義が本論文よりもずっと控えめで制約されています。一方、別の研究では890万塩基対領域が報告され、本論文の標的領域をほぼ完全に(99.97%)含んでいます。本論文は、標的領域の残りの150万塩基対で確実にマッピングされた部位を得られる、と示します。

 本論文は、YMCA がショットガン配列と比較してNRY部位の相対的な網羅率を大きく改善し、同じ配列作業でNRY部位を濃縮できる、と示します。また本論文は、YMCAが2つの点で1240k一塩基多型アッセイ配列よりもずっと性能が優れていることを示します。本論文は実験的に、YMCAが網羅されているNRY部位の数を改善する、と示します。また本論文は、関連するbedファイル(標的領域を記述したタブ区切りのテキストファイル)により定義された標的NRY部位の考慮により、および抽出への高い複雑性を有する標本を配列する場合、YMCAが1240kアッセイ配列と比較して、YHg分類と新たな診断に役立つ一塩基多型の発見に対して、解像度改善の可能性を有することも示します。

 本論文は、YHg-H2(P96)の分析によりYMCA経由で得られた性能改善を強調します。YHg-H2は、ユーラシア西部の新石器時代移行期の初期農耕民と関連した低頻度のハプログループです。本論文は、既知の46個体(古代人45個体と現代人1個体)と、新たにYMCAで配列された49個体(全員古代人)のデータセットを精選しました。おもに現代人20個体の標本に基づくYHg-H2の現在の理解は、本論文のYHg-H2の個体群の古代の多様性と一致しない、と本論文は示します。この古代のYHgの解決において、アナトリア半島からヨーロッパ西部への新石器時代集団にとっての、地中海とドナウ川に沿った異なる2経路を示せます。地中海由来の集団は、最終的にブリテン島とアイルランド島にも到達しました。


●YMCAの性能の検証

 YMCAの性能を評価するため、さまざまな保存状態水準の標本について、内在性ヒトDNAの実験上の倍増が計算されました。ショットガンと1240kとYMCAの配列データについての、多すぎる環境変数の影響を避けるため、同じ遺跡から標本が選択されました。それはドイツのレウビンゲン(Leubingen)遺跡です。次に、網羅されたNRY部位の数と、少なくとも一度各ライブラリタイプで網羅されたISOGGの数を調べることにより、同じライブラリでの標準的なショットガン配列と1240kキャプチャに対するYMCAの実験上の性能が比較されました。ヒト内在性リードのみを選別し、次に500万の内在性リードごとに網羅された部位・一塩基多型の数を正規化することにより、同じ品質と入力配列労力が説明されます。ショットガン配列をYMCAと比較すると、内在性ヒトDNAの量で顕著な増加が観察され、以下ではこれが「濃縮」と呼ばれます。標本の保存状態が増加するにつれて濃縮が減少する、と明らかになりました。つまり、より高い開始内在性DNAの割合が高い標本では、濃縮効果が減少するものの、それでも有意でした。

 ショットガン配列と比較すると、YMCA捕捉ライブラリにより網羅されたNRY部位の数では、15.2倍の顕著な平均増加が観察され、1240k配列と比較した場合は1.84倍となり、YMCAは平均してショットガン配列および1240k配列の両方よりも多くのNRY部位を網羅する、と示されます(図1)。またこれは、ショットガン配列の500万リードあたり平均15.2倍のISOGG一塩基多型を網羅しているので、YMCAのわずか500万リードと比較して、ショットガン配列では同じ数のNRY部位を網羅するのに7600万のリードを配列する必要がある、と示唆します。以下は本論文の図1です。
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 興味深いことに、1240k配列と比較すると、YMCA捕捉ライブラリで少なくとも1回網羅されたISOGG一塩基多型の数では、平均4.36倍増加していることも明らかになりました。これは、同じ配列作業でYMCAがより多くの情報価値のある一塩基多型を網羅していることも示唆します。網羅されたNRY部位の数と、ショットガン配列および1240k配列の内在性DNAの割合は相関していないことと、網羅されたISOGG一塩基多型の数と1240k配列の内在性DNAの割合は相関していないことが明らかになり、これらの結果が標本における回収可能なヒトDNAの相対的量に依存しないことを示唆します。したがって、Y染色体で網羅される一塩基多型は1240kアッセイを用いると追加のボーナスですが、それはおもに男性と女性の常染色体ゲノムの分析で使用されるので、研究者が効率的かつ徹底的にY染色体の非組換え部分を調べたいならば、YMCAは明らか顕著な改善である、と明らかになります。

 次に、各bedファイルにしたがって、1240kアッセイとYMCAにも含まれる、ISOGG一塩基多型一覧14.8版におけるハプログループの情報をもたらす一塩基多型の割合が比較されました。YMCAと1240kアッセイは同じ技術に基づき、同じ実験室の手順で捕捉されているので、この比較はとくに強力です。1240kアッセイは現在掲載されているISOGG一塩基多型の24.44%を標的としますが、YMCAは90.01%を標的とします(図2)。注意すべきは、ISOGG一塩基多型の残り9.99%はNRY領域に存在し、古代DNAで一般的な短いリードでは「マッピングできない」と考えられることです。

 1240kアッセイの各部位は2つの精査(アレルと代替アレル)および多様体のそれぞれの側の5200塩基対により標的とされるので、追加の隣接する「標的」部位もマッピングされたリードから回収可能です。したがって、1240kアッセイの各一塩基多型の120塩基対(それぞれの側で60塩基対)の解析単位(window)も許可され、これは古代DNAの妥当な平均リード長です。この1240k+120塩基対の部位の一覧では、標的とされるISOGG一塩基多型の割合が45.34%にまで増加しますが、これは、1240k一塩基多型アッセイが、情報価値のあるY染色体一塩基多型が含まれる総数により基本的に制約されることも示します。ISOGG標的一塩基多型におけるこの顕著な増加は、同じ配列作業でYMCAがより多くISOGG一塩基多型を網羅する理由も説明します。以下は本論文の図2です。
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 さらに、NRYをできるだけ多く回収することは、とくに研究者がY染色体の新たな多様体を探すか、もはや存在しないかもしれない過去の多様性の解明に関心を持っている場合に、たいへん重要です。1240kアッセイにより標的とされた部位の数をYMCAと比較すると、1240k捕捉アッセイは合計で32670ヶ所の部位を標的とする可能性があり、これはYMCAにより標的とされた部位の数の約0.31%になる、と観察されます。しかし、各一塩基多型の周囲の120塩基対の解析単位を含めると、1240kアッセイは3953000ヶ所の部位、もしくはYMCAを用いての分析できる可能性のある部位の数の37.82%を、標的とする可能性があります。したがって、YMCAは新たな祖先系統の情報をもたらす一塩基多型のNRYを探すための手法としてより優れている、と予測されます。

 この研究では、YMCAと1240kにより標的とされた利用可能なISOGG一塩基多型を考えて、YHg分類の可能な潜在的解像度の比較にも関心がもたれました。各bedファイルのISOGG一塩基多型によると、32000ヶ所のY染色体の周囲の120塩基対を含めた時でさえ、一塩基多型YHgの解像度は改善できないことも明らかになりました。これは、現在優勢なYHgと、とくに、既知の過去の人口集団と関連するものの、現代の人口集団では顕著に頻度が低下しており、1240kアッセイの診断一塩基多型では充分に網羅されないYHgの両方で当てはまります。

 初期狩猟採集民のYHg-C1a2(V20)や、新石器時代の拡大と関連するYHg-G(Z38202)やYHg-H2(P96)などのハプログループでは低解像度がよく観察されます。これらのYHgに関して、1240kアッセイのY染色体一塩基多型は、それぞれ関連するISOGG一塩基多型の0.8%と0%と13%を標的とします。120塩基対の解析単位を含めると、これらの割合はそれぞれ32.5%と31.2%と36.2%に増加しますが、依然としてYMCAにより標的とされた一塩基多型の場合の、89.6%と90.6%と95.2%よりもずっと低くなります(図2)。さらに、初期ヒト集団の移動において存在すると考えられているものの、現代人集団では比較的多く見られるYHgの理論的網羅率が低いことも、1240kアッセイの部位に関して問題となる可能性があります。たとえば、アメリカ大陸への人類最初の移住と関連する、YHg-Q1b1a1a(M3)は、1240kアッセイでは関連する診断上の一塩基多型の11.9%(120塩基対の解析単位を含めると33.5%)しか網羅されていないのに対して、YMCAでは92%となります。

 まとめると、ショットガン配列および1240kアッセイと比較して、YMCAはNRYへのマッピングリードの相対的割合を高めます。またYMCAは、1240kアッセイよりもNRYの部位を2.5倍以上標的としており、新たな診断一塩基多型の検出を可能とします。しかし重要なことは、YMCAが、すでに情報価値があると知られているものの、1240kアッセイでは標的とできない一塩基多型を標的とすることです。


●事例研究としてのYHg-H2へのYMCAの適用

 標本選別のショットガン配列の手順適用と、実験室での適切な標本へのその後の1240kキャプチャを通じて、古代の男性個体におけるさまざまなYHgについて新たなYMCAの性能を調べられました。本論文は、YHg-H2(P96)の事例を紹介します。データ不足と現代の人口集団では低頻度であるため、YHg-H2では進化系統樹の解像度が依然として不明です。現在の古代DNA記録から判断すると、YHg-Hは過去には、とくに新石器時代化の時期のユーラシア西部全域で農耕拡大と関連する男性の間でもっと一般的だったようです。本論文は結果として、古代DNA研究、とくにYHgの高解像度型は、過去と現在のY染色体の進化関係の解明に役立つ、と示せます。

 YHg-H(L901)はアジア南部で48000年前頃に形成された、と考えられています。その下位区分のYHg-H1a(M69)とH2(P96)とH3(Z5857)は、その後4000年で急速に形成されたようです。YHg-H1およびH3は44300年前頃に形成されたと推定されていますが、YHg-H2はわずかに早く45600年前頃に形成された、と推定されています(yfull)。

 YHg-H1およびH3はアジア南部ではまだ20%の頻度で見られますが、ヨーロッパではひじょうに頻度が低く、YHg-H1はロマ人の900年前頃の拡大との関連のみで見られます。逆に、YHg-H2は少なくとも1万年前以来ユーラシア西部に存在してきており、農耕拡大と強く関連していますが、現代のヨーロッパ西部人口集団では0.2%以下の頻度です。対照的に、YHg-H2は新石器時代集団ではより一般的で(関連記事1および関連記事2)、観察されたYHgの1.5〜9%を構成しますが、中には例外的に30%に達する個体群も存在します。

 5000年前頃となる草原地帯関連祖先系統の到来とともに、YHg-R1aやR1bなど侵入してくるYHgが、YHg-G2やT1aやH2などより古い「新石器時代」YHgの多くをほぼ置換し、YHg-H2はとくに、新石器時代個体群において高頻度で見られませんでしたが、その多様性も大きく減少し、多くの下位系統が完全に失われたかもしれない、と予測されます。

 本論文のYMCAがハプロタイプ決定品質を向上させて系統地理学的推論も導き出せるのかどうか検証するため、先史時代古代人のDNAデータと、暫定的にYHg-H2に分類された選択された個体群の新たな収集が用いられました。49個体の新たなデータが生成され、既知の46個体のY染色体ゲノムデータと統合されました。

 YHg-H2は、新石器時代のより優勢なYHg-G2a2b2a1a2a(Z38302)とともに一般的に見られますが、本論文ではYHg-H2の低頻度が注目されます。とくに、YHg-G2a個体群の相対的な高頻度と比較してのYHg-H2個体群の相対的な少なさから、系統選別のより強い影響と、したがって観察される地理的パターンのより高い変化を予測するように、「系統の歴史」、したがって潜在的には拡散経路をよりよく追跡できます。この特定の事例では、YHg-H2個体群と関連する固有の遺伝標識を用いて、アナトリア半島からヨーロッパ西部への拡大する新石器時代農耕民を追跡でき、新石器時代拡大の提案されたいわゆる「ドナウ川もしくは内陸部」経路と「地中海」経路を遺伝的に識別可能なのかどうか、検証できます。これらの新石器時代拡大経路は、最近核ゲノム分析でも裏づけられました(関連記事)。

 残念ながら、Y染色体の進化系統樹のYHg-H2の下位区分は、YHg-H2個体の現代人標本の不足とYHg-H2の古代人の相対的な少なさのため現在よく理解されておらず、多くの場合、既知および未報告の古代人標本のほぼ全ての系統樹的歴史と一致しません。本論文では、1例を除く全事例で、YHg-H2個体群は、YHg-H2 a1やH2b1など、現在のISSOG分類における2つの分岐クレード(単系統群)から派生した一塩基多型の混合を有している、と明らかになりました。したがって、上述のYMCAの性能から、さらにYHg-H2個体群が分析され、この系統の分岐パターンの解明が試みられました。

 Y染色体DNAの非組換え部分では、進化史は系統樹構造に従うと予測されるので、たとえばISOGGでのYHg-H2aとH2b1とH2c1aなどの混合ハプログループはあり得ません。これらの個体群のよりよく理解された進化史を見つけるため、IQ-TREEを用いて最尤(ML)系統発生樹が構築されました。ML系統樹(図3A)から2つの主要なクレードが識別され、暫定的にH2m(青色)およびH2d(緑色)と表示されます。現在のISOGGの命名法に関して、YHg-H2mはYHg-H2とH2aとH2a1とH2c1aの一塩基多型の混合により定義づけられることに要注意です。YHg-H2dは、2ヶ所のYHg-H2b1の一塩基多型と、以前には検出されなかった追加の4ヶ所の一塩基多型により定義されるようです。したがって、YHg-H2dは、トルコとドイツの個体群から成る下位クレードを含んでおり、それらは、YHg-H2b1と関連する追加の10ヶ所の一塩基多型により独自に定義され、さらなる下位区分の可能性が示唆されることに要注意です。

 診断一塩基多型の拡張セットに基づいて、ML系統樹に含まれるための最小限の網羅率要件を満たしていない個体も含めてさえ、58個体をYHg-H2mとH2dのどちらか、あるいは(基底部)H2*(低網羅率のため)に分類できました。最終的に、これら追加の一塩基多型のどれにも由来せず、YHg-H2の一塩基多型の多くにとって祖先型である3個体も確認され、基底部の3個体と表示されます。

 本論文の全標本をヨーロッパの地図に投影すると、系統地理的パターンがはっきりと現れました(図3B)。YHg-H2d個体は全員、ヨーロッパ中央部へのいわゆる内陸部・ドナウ川経路沿いで見つかり、YHg-H2mは1個体を除いて全て、ヨーロッパ西部とイベリア半島と最終的にはアイルランド島へのいわゆる地中海経路で見つかりました。ドイツ中央部で見つかった孤立したYHg-H2mの個体(LEU019)は、年代が後期新石器時代・前期青銅器時代で、新石器時代拡大の2000〜3000年後となります。ミシェスベルク(Michelsberg)文化のような中期・後期新石器時代集団の東方への拡大の考古学およびmtDNAの証拠は、この単一の地理的に離れた観察結果を説明できるかもしれません。以下は本論文の図3です。
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 本論文で用いられた古代人標本の不完全でさまざまな網羅率のため、古代人標本の放射性炭素年代測定を用いての、分岐年代推定のための信頼できる較正を作成できませんでした。本論文は代わりに、個体の各組み合わせの最新の共通祖先(TMRCA)以来の年代を推定し、新たに識別されたYHg-H2クレードの分岐年代を調べました。まず、相対的な置換率が構成され、YHg-A0と他の全てのYHgの平均TMRCAが161300年前と推定されました。この較正された置換率を用いてのTMRCAは、YHg-A1が133200年前、YHg-HIJKが48000年前と推定され、これは現在のそれぞれの推定年代(yfull)である133400年前および48500年前とひじょうに近くなっています。本論文はYHg-H2のTMRCAを24100年前と推定し、これは現在の推定年代(17100年前)よりもわずかに古く、高網羅率のYHg-H2の現代人標本を1個体しか利用できず、古代人標本が増加したことで説明できます。

 YHg-H2dとH2mの推定TMRCA年代は15400年前で、それぞれの推定TMRCA年代は11800年前と11900年前です(図4)。しかし、重複する一塩基多型が少ないために関連するエラーバーがより広くなっている場合でも、平均推定年代は依然として比較的一貫していることに要注意です。これらの推定値に加えて、YHg-H2dとH2mの個体がアナトリア半島とレヴァントでも見つかった事実から、YHg-H2の多様性は農耕および家畜の確立以前に近東狩猟採集民に存在していた可能性が最も高く、初期農耕民にも存在し、その後で新石器時代拡大を経てヨーロッパ中央部および西部に広がった可能性が高い、と示されます。以下は本論文の図4です。
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●YHg-H2の解像度向上のための診断用一塩基多型の特定

 YMCAを用いてYHg-H2の新たな下位クレードを特定した後、参照ヒトゲノム配列(hs37d5)と比較して、どの一塩基多型がこれらの下位クレードの診断用なのか、識別することも目的とされました。そのために、次の特性を有する分離部位が探されました。(1)集団内のどの個体もその部位では祖先的ではない場合。(2)その部位では集団内の複数個体が網羅されている場合。(3)その部位では集団外のどの個体も派生的ではない場合。(4)その部位では集団外の複数の個体が網羅されている場合。そのうえで、「新たな」一塩基多型の調査は、CからTもしくはGからAではなく、したがって古代DNA損傷の結果である可能性が低い置換に限定されましたが、本論文の結果でCからTもしくはGからAである多様体も、それらがISOGG もしくはYFullで以前に発見されているならば、含まれました。

 YHg-H2(全て)とH2d(緑色)とH2m(青色)として定義される図3の下位ハプログループ・分枝の、312ヶ所の診断用の可能性のある一塩基多型が特定されました。心強いことに、本論文で特定された312ヶ所の診断用一塩基多型のうち258ヶ所(80.1%)はすでに、ISOGGもしくはYFullの一覧においてYHg-H2(P96)もしくはより派生的な下位区分と関連している、と明らかになっています。本論文では、YHg-H2と関連づけられていなかった、以前に発見された一塩基多型を2ヶ所(0.31%)のみ見つけました。それは、YHg-R1a1およびR1a1aと関連づけられたCからTの置換です。これはYHg-H2標本31点のうち17点で見つかったので、CからTの置換が損傷に起因する可能性は低そうです。さらに、本論文のYHg-H2の古代人(フランスのYHg-H2の1個体を除いて)では、134ヶ所の既知の基底部YHg-H2一塩基多型のうち110ヶ所を見つけられました。

 上述のさまざまなYHgで新たに発見された残りの62ヶ所の一塩基多型は、未発見の診断用一塩基多型か、失われたYHg-H2の多様性を表します。しかし、部位8611196におけるAからGの置換のような、新たに発見された一塩基多型のいくつか(本論文のYHg-H2の31個体のうち20個体)では、新たな真の診断用一塩基多型の圧倒的な証拠が見つかりました。これら明確なYHg-H2の下位ハプログループを検出する本論文の手法の能力、したがって新石器時代拡大における情報価値のあるYHgの分岐年代をさらに解明して推定する能力は、網羅率の増加と、YMCAで標的をとできる部位の数の増加によってのみ可能となります(ショットガン配列もしくは1240k配列と比較した場合)。


●考察

 人口集団のY染色体の歴史の分析は、人口史を理解するうえでひじょうに重要かもしれません。この目的のため、本論文は古代のY染色体配列データの標的配列戦略の採用を提唱します。本論文で提示された焦点を絞った研究では、ショットガン配列もしくは1240k配列と比較した場合、内在性ヒトDNA含有量を考慮したうえで、同じ配列作業量YMCAを用いたさいに達成可能な一塩基多型の網羅率と数の改善が浮き彫りになります。

 標的となる内在性ヒトDNAの濃縮は、古代DNA研究における不充分な標本の保存状態を克服するためにひじょうに重要です。現代人男性から確認された1240kアッセイのY染色体一塩基多型は単に、信頼できるYHg分類のためのNRY上の診断用一塩基多型を、とくに現代の多様性に先行するYHgの事例では充分に網羅できない、と示され、最新の「Y染色体一塩基多型パネル」のために連続する領域を標的とする必要性が浮き彫りになります。YMCAは、他のキャプチャに使用され、追加の抽出もしくはライブラリの準備を必要としない、同じライブラリに適用できます。YMCAを本論文では試みられていない他のキャプチャアッセイと組み合わせることは確かに可能ですが、管理された研究における選択された男性標本の特注YMCAは、追加の配列作業を伴う(男性および女性標本への)手順複合適用よりも優れているかもしれない、と本論文は主張します。

 YHg-H2(P96)のより詳細な分析を通じて、古代のYHg-H2の多様性に関する現在の理解は、系統樹的な歴史(NRYの歴史にも当てはまるはずです)と矛盾し、この多様性の解決は近東からヨーロッパへの新石器時代拡大の2経路へのさらなる裏づけにつながる、と示せます。それは、YMCAによりもたらされた改善された解像度なしには可能ではなかっただろう観察結果です。ユーラシア西部狩猟採集民のY染色体(YHg-I2aやI2bやC1a)の下位構造の研究や、青銅器時代ユーラシア西部やアジア中央部および南部YHg-R1aおよびR1bの多様化をよりよく特徴づけるために、こうした手法が将来適用されるよう期待されます。


参考文献:
Rohrlach AB. et al.(2021): Using Y-chromosome capture enrichment to resolve haplogroup H2 shows new evidence for a two-path Neolithic expansion to Western Europe. Scientific Reports, 11, 15005.
https://doi.org/10.1038/s41598-021-94491-z
古人類学
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2021年08月07日

小林登志子『古代メソポタミア全史 シュメル、バビロニアからサーサーン朝ペルシアまで』
読書 アフロユーラシア史前近代
 中公新書の一冊として、中央公論新社より2020年10月に刊行されました。電子書籍での購入です。本書が対象とするのはメソポタミアで、年代では都市文化が始まる紀元前3500年頃からおもに紀元前539年の新バビロニア王国の滅亡までで、その後もアラブ人勢力による支配の始まりとなる紀元後651年のサーサーン王朝の滅亡までが扱われています。メソポタミアは地理的に大きくは、南部のバビロニアと北部のアッシリアの2地域に区分されます。メソポタミアは現在の国境線ではおおむねイラク共和国に相当しますが、この南北の違いは、現在のスンニ派(北部)とシーア派(南部)の対立にも続いている、と本書は指摘します(妥当な見解なのか、疑問は残りますが)。

 世界最古の都市文化は、紀元前四千年紀後半にユーフラテス河畔で勃興しました。ユーフラテス河はアジア南西部における交易の大動脈で、それが都市の発展を促したのでしょう。ユーフラテス河の東方を流れるティグリス河は、ユーフラテス河と比較する短く、支流が山地から直接本流に流れ込むため水位が急増し、大洪水が頻繁に起きました。そのため、メソポタミアの災害といえば洪水で、「大洪水伝説」が語り継がれ、それは『聖書』にも取り入れられました。ユーフラテス河とティグリス河という「(両)河の間の地」を意味するギリシア語がメソポタミアです。メソポタミア南部のバビロニアは地理的に、北部のアッカドと南部のシュメルに二分されます。ただ、シュメル人は自らをシュメルではなく「キエンギ(ル)」と呼んでおり、シュメルは後代のアッカド語となります。

 メソポタミア南部に人々が最初に定住したのはウバイド文化期(紀元前5500〜紀元前3500年頃)で、歴史時代は都市文化が成立したウルク文化期(紀元前3500〜紀元前3100年頃)に始まります。その担い手は、「民族」系統不詳のシュメル人です。広い沖積平野が続くメソポタミア南部では高度な灌漑農業が営まれの下が、鉱物や石材や木材には恵まれず、オオムギなど農産物を対価としてそれらの物資を入手しました。都市文化の当初より、内向きでは生き残れず、外部との関係が不可欠だった、というわけです。そのため、メソポタミア南部全体が共通の経済観念を有していたようで、その証拠が文字の祖型とされるトークン(小型粘土製品)です。紀元前三千年紀後半には、メソポタミアやシリアなどで次々と都市が形成されていきますが、都市の周辺には、都市と関わる遊牧社会も存在しました。

 紀元前3100〜紀元前2900年頃となるジェムデット・ナスル期にはバビロニア全域に都市文化が広まり、初期王朝時代が続きます。シュメルでは複数の都市国家が交易路や領土問題で争いました。初期王朝時代には第I期(紀元前2900〜紀元前2750年頃)に都市を囲む城壁が出現し、第IIIB期(紀元前2500〜紀元前2335年頃)に覇権をめぐる都市間の合従連衡が活発になり、ついにはウルクがシュメルを統一します。ウルクはアッカド語の呼称で、シュメル語ではウヌグです。ウルクにはすでにウバイド文化期に定住が始まり、紀元後634年のアラブ人によるメソポタミアへの侵攻の前後に放棄されたようです。ウルクで発明された文字が完全な文字体系(楔形文字)に整備されたのは紀元前2500年頃でした。メソポタミアの都市国家の王は、都市全域を支配して全住民に人頭税や地租を課すのではなく、広大な耕地と所属員から構成される家産的な独立自営の組織に依存していたようです。

 メソポタミア南部のバビロニアを統一したのは、ウルクではなくバビロニア北部のアッカドのサルゴン王(在位は紀元前2334〜紀元前2279年)でした。シュメルとアッカドでは、言語により呼称は違うものの、ほぼ同じ神々が祀られていました。たとえば大地母神は、シュメル語ではイナンナ、アッカド語ではイシュタルです。余談ですが、これが高橋克彦『竜の柩』の設定にも取り入れられていたことを思い出しました。アッカドはバビロニアを統一しましたが、その後もシュメル人がたびたび反乱を起こしました。こともあり、支配が安定したのは第3代のマニシュトゥシュ王の時代だったようです。アッカドの衰退後、シュメル人による最後の統一王朝を築いたのがウル第三王朝でした。ウル第三王朝時代には、現存最古の法典となるシュメル語の『ウルナンム法典』が作成されました。『ウルナンム法典』では、傷害罪は銀で償うと規定されており、『ハンムラビ法典』などに見られる後の同害復讐法とは異なります。ウル第三王朝の滅亡とともに、シュメル人は政治的・「民族的」独立を失い、日常語はアッカド語となりますが、その後も学校ではシュメル語が教えられ、シュメル語の文学作品が作られました。

 ウル第三王朝滅亡後のメソポタミア南部は古バビロニア時代と呼ばれ、前半は群雄割拠の混乱期だったイシン・ラルサ時代、後半はハンムラビ王(在位は紀元前1792〜紀元前1750年)以降のバビロン第一王朝時代と区分されます。紀元前二千年紀前半のメソポタミアで大きな役割を果たしたのは、シリア砂漠からメソポタミアへ侵入してきた、西方セム語族のアムル(アモリ)人でした。メソポタミア北部のアッシリアの歴史は、紀元前2000年頃以降にようやく明確になってきて、アッシリア時代(紀元前2000〜紀元前1600年頃)と呼ばれます。アッシリアはアナトリア半島やシリアとメソポタミアとの間の遠距離交易活動を優位に展開した商業国家で、紀元前三千年紀にはアッカド王朝やウル第三王朝に従属していました。バビロン第一王朝は、ヒッタイト王国に攻められて紀元前1595年に滅亡しましたが、都市としてのバビロンの優位は失われず、バビロンを首都とする王朝が新バビロニアまで1000年以上にわたって断続的に続きました。

 紀元前二千年紀後半のメソポタミアでは、同じくアッカド語を使い、同じ神々を祀るなど同一文化を担う二大勢力として、バビロニアとアッシリアによる覇権争いが展開します。この間、バビロニアを長期にわたって支配したのが、「民族」系統不詳のカッシート王朝(紀元前1500〜紀元前1155年)でした。一方、アッシリアは不明な点が多くいミタンニ(ミッタニ)王国(紀元前16〜紀元前14世紀)に制圧されていましたが、紀元前14世紀後半にミタンニの支配から脱し、メソポタミア北部で勢力を回復します。ただ、アッシリアがバビロニアに軍事的に勝利しても、バビロニア文化に圧倒されることは珍しくなかったようです。この時期のメソポタミアには、このミタンニやアナトリア半島中央部のヒッタイト王国が関わり、さらにはエジプトもアジアへと侵出してきます。こうしてメソポタミアも含めてアジア南西部で諸勢力が並存し、「世界最古」の「国際社会」が形成されます。ミタンニはフリ(フルリ)人の国で、その言語は膠着語であり、紀元前千年紀前半にアナトリア半島東部およびアルメニアを支配したウラルトゥ王国(紀元前9世紀中期〜紀元前6世紀初頭)の言語と類縁関係にあります。こうして諸勢力が興亡を繰り返しつつ政治・文化・経済的に交流を続けた「国際社会」は、「紀元前12世紀の危機」で大打撃を受けます(関連記事)。

 「紀元前12世紀の危機」を経た後、紀元前千年紀前半のメソポタミアでは「世界帝国」の興亡が繰り広げられます。この時代の「世界帝国」としてまず台頭したのは、「紀元前12世紀の危機」で中期アッシリアが衰退した後に復興した新アッシリア(紀元前1000〜紀元前609年)で、その武力により版図を拡大しました。その背景には鉄器時代の到来があり、鉄製の農具や工具の普及により人類の居住世界が大きく広がるとともに、鉄製武器と騎兵の本格的出現により軍事力が向上しました。この間、アラム語がアジア南西部で広く用いられるようになります。

 紀元前8世紀後半のティグラト・ピレセル3世(在位は紀元前744〜紀元前727年)の代にアッシリアは大きく拡大し、「帝国」としての実態を有するようになっていきます。その後、紀元前8世紀末から紀元前7世紀前半にかけて、アッシリア帝国全盛期を迎え、ついにはメソポタミアのみならずエジプト全土も支配しますが、この支配は長続きしませんでした。新アッシリアは複雑な官僚組織で広大な帝国を運営し、多くの属国が存在しました。しかし、アッシュル・バニパル王が紀元前627年に死ぬと、新アッシリア帝国は急速に崩壊していき、紀元前609年に滅亡します。

 新アッシリア帝国を単独では滅ぼせなかったものの、新バビロニアは新アッシリア帝国の滅亡後にメソポタミアで大きな勢力を有し、とくに有名な王は「バビロニア捕囚」を行なったネブカドネザル2世です。新バビロニアの都市住民は自由人と奴隷と「半自由人(王室や宮殿または個人に属している人や小作人)」に分かれ、商人の経済活動が活発だったようです。しかし、新バビロニアはペルシアに勃興したハカーマニシュ王朝により紀元前539年に滅ぼされ、本書はこれを古代メソポタミア史の終わりと指摘します。もはやメソポタミアは歴史を動かす主役たり得ず、以後はもっぱら東西の強国に蹂躙されていった、というわけです。紀元後7世紀のアラブ人勢力の支配により、メソポタミア地域の言語がアラビア語へと変わったのは、それを象徴しています。
読書
アフロユーラシア史前近代
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2021年08月06日

ヤンガードライアスを同期させるラーハ湖の噴火の正確な年代
古人類学
 ヤンガードライアスを同期させるドイツのラーハ湖噴火(LSE)の正確な年代に関する研究(Reinig et al., 2021)が公表されました。LSEは、後期更新世におけるヨーロッパ最大級の火山事象の一つと位置づけられています。LSEのテフラ堆積物は、後期氷期から前期完新世への移行期における代理指標アーカイブを同期させるための重要な等時性を示していますが、噴火の年代については不確かさが残っています。

 この研究は、火砕堆積物に埋もれた半化石樹木の年輪年代測定と放射性炭素測定を行ない、LSEの年代を13006±9年前(1950年を基点とする較正年代)と確定しました。これは、じゅうらい認められていた年代より1世紀以上古くなります。LSEの年代が修正されたことで、ヨーロッパの氷縞粘土湖の年代は、グリーンランドの氷床コア記録に対して必然的にシフトし、これによりヤンガードライアスの開始時期は12807±12年前(較正年代)となりました。

 これは、じゅうらいの推定年代より約130年古くなります。この結果は、ヤンガードライアスの開始時期を北大西洋とヨーロッパで同期させるもので、LSEとグリーンランド 亜氷期1の寒冷化の直接的関連性を排除し、温暖化条件下での大西洋の南北方向の鉛直循環の弱化という大規模な共通機構を示唆しています。ヤンガードライアスは、大型動物の絶滅や農耕への移行とも関連している可能性があり、人類史の観点からひじょうに注目される事象だけに、今後の研究の進展が期待されます。


参考文献:
Reinig F. et al.(2021): Precise date for the Laacher See eruption synchronizes the Younger Dryas. Nature, 595, 7865, 66–69.
https://doi.org/10.1038/s41586-021-03608-x

https://sicambre.at.webry.info/202108/article_9.html

4. 2021年11月11日 19:55:40 : N6zpS5ezAw : Uy9UNkFvUTlYZm8=[61] 報告
【ゆっくり解説】謎多き『シュメール人』とその文化を解説
2021/11/11
https://www.youtube.com/watch?v=eACe-YxK--U


謎多き『シュメール人』とその文化を解説します。
シュメール人は突然と地球上に現れ、突然消えたと言われている古代人です。
非常に高度な文明を持っていたとされ未だ謎多き人類です。
今回はシュメール人の色々な謎に迫ってみました!

5. 中川隆[-12028] koaQ7Jey 2023年12月09日 11:02:56 : SHHUQPOQXA : c254eW5TR2puN2s=[6] 報告
<▽39行くらい>
津本英利『ヒッタイト帝国 「鉄の王国」の実像』
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=16829202

メソポタミア人の起源
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/369.html

アナトリア半島人の起源
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/294.html

レヴァント人の起源
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/305.html

ペリシテ人の起源
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/777.html
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/301.html

フェニキア人の起源
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/1005.html
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/292.html

レバノン人の起源
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/284.html

3-7. Y-DNA「J」   セム度・メソポタミア農耕民度 調査
http://garapagos.hotcom-cafe.com/3-7.htm

シュメール神話の人類創世
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14139520

西洋の達人が悟れない理由
03. 中川隆 2011年1月29日 U. エロスの深層
神様が人間を創った理由
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/385.html

アナーキストが誰にも相手にされない理由 _ 一般大衆は自由であるよりも支配されることを望んでいる
アダムとイブはサタンのお陰で神の専制支配から逃れることが出来た。
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/737.html

異教徒は「人間」ではないので殺してもいい
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/798.html

6. 中川隆[-10839] koaQ7Jey 2024年4月21日 18:46:41 : EblDZJN3dE : NmhnWFBnSkdCZXc=[2] 報告
<■85行くらい→右の▽クリックで次のコメントにジャンプ可>
雑記帳
2024年04月20日
後藤健 『メソポタミアとインダスのあいだ 知られざる海洋の古代文明』
https://sicambre.seesaa.net/article/202404article_20.html

https://www.amazon.co.jp/%E3%83%A1%E3%82%BD%E3%83%9D%E3%82%BF%E3%83%9F%E3%82%A2%E3%81%A8%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%80%E3%82%B9%E3%81%AE%E3%81%82%E3%81%84%E3%81%A0-%E7%9F%A5%E3%82%89%E3%82%8C%E3%81%96%E3%82%8B%E6%B5%B7%E6%B4%8B%E3%81%AE%E5%8F%A4%E4%BB%A3%E6%96%87%E6%98%8E-%E7%AD%91%E6%91%A9%E9%81%B8%E6%9B%B8-%E5%BE%8C%E8%97%A4-%E5%81%A5/dp/4480016325


 筑摩選書の一冊として、筑摩書房より2015年12月に刊行されました。電子書籍での購入です。本書は、紀元前三千年紀〜紀元前二千年紀のアラビア湾、とくにアラビア半島東部沿岸地方やイラン高原などメソポタミアの隣接地域の「文明(「当ブログでは原則として文明という用語を使いませんが、この記事では本書に従って文明と表記します)」の興亡を検証します。まず本書は、日本の学校教育で取り上げられる「古代の四大文明」なる用語が、「学説」ではなく尤もらしい言い回しにすぎない、と指摘します。こうした指摘は、現代日本社会においてそれなりに浸透してきたようでが、まだ根強く残っているようにも思います。

 本書の主題は、「古代文明」の起源を、灌漑農耕による生産性の飛躍的向上とそれにより生じた余剰の蓄積、さらにはそれを可能とした労働力の集中と社会・政治的階層の確立などの側面から説明することが多かったこれまでの有力説に対して、そうではない「古代文明」も存在し、それはなぜ可能だったのか、またそうした「古代文明」はなぜ崩壊したのか、ということです。具体的には、ウンム・ン=ナール「文明」は、農耕文化が発達していなかった地域に突然出現したように見える都市「文明」でした。本書は、「世界最古の文明」の発祥地とされるメソポタミアにしても、金属など農産物以外の「文明」に必要な物資が乏しかったため、イラン高原やアラビア半島湾岸部といった他地域との交易が必要だったことと、農耕文化が発達していなかった地域における「四大文明」以外の「古代文明」出現との関連を指摘します。さらに本書は、メソポタミアがイラン高原と湾岸地域だけではなく、その先のアジア中央部やインダス川流域と関わっていることも指摘します。

 メソポタミアでは、「文明」成立前のウバイド文化の頃から、湾岸との交流があった、と考古学的記録から示されています。初期メソポタミア「文明」にとって重要な近隣地域の一方となったイラン高原は、当時メソポタミアでは「エラム」と呼ばれていました。イラン高原とその東方からメソポタミアへの交易経路では、その位置からスーサが重要だったようです。エラム地方は、メソポタミアとイランの勢力が直接的に接触する場所で、考古学的記録から両勢力間の恒常的な争いが窺えます。エラムにおける原初的な都市は、メソポタミアのような農耕社会の発展の結果ではなく、交易拠点としての発展の結果という側面が強かったようです。一方で、メソポタミアは当初湾岸には、イラン高原に対するほどには積極的に関与しなかったようです。

 本書でとくに深く取り上げられているウンム・ン=ナール「文明」は、紀元前2500年頃にオマーン半島に成立し、メソポタミアとインダスとの間の海域を支配しました。本書はウンム・ン=ナール「文明」を、イラン東南部と一体で、トランス・エラム「文明」の交流網がさらに一段階進展したものとして把握します。ウンム・ン=ナール「文明」は、新たな勢力による交易網の創出ではなく、それ以前の交易網の発展だった、というわけです。アラビア湾の海上交易を支配したウンム・ン=ナール「文明」は紀元前2000年頃の前後に「衰退した」ようで、局所的なワーディー・スーク文化へと変容します。

 しかし本書はこれを、オマーン半島における「文明」の「衰退」もしくは「縮小」を示しているものの、アラビア湾岸最古の「文明」は「首都」機能をウンム・ン=ナール島から湾岸中部に位置するバハレーン島に移転させたのであり、湾岸地域全体では「文明」発展の一局面にすぎなかった、と指摘します。こうして紀元前三千年紀末に成立したのがバールバール文明で、メソポタミアでは、ウンム・ン=ナール「文明」が「マガン」、バールバール「文明」がディルムンと呼ばれました。

 紀元前18世紀におけるバールバール「文明」の「衰退」は、広い視野では発展の一局面にすぎなかったウンム・ン=ナール「文明」の「衰退」とは異なり、シリアからインダス川流域にいたる広範囲での政治・経済的大変動の一部で、本物の「衰退」だった、と本書は指摘します。この後しばらく、バールバール「文明」のように「国際的な」活動を湾岸の人々が担うことはなかったわけです。インダス「文明」は紀元前1900〜紀元前1800年頃に終焉し、地方的な諸文化がインダス「文明」の一部を継承しました。インダス「文明」の衰退はバールバール「文明」にとって、最大の顧客であるメソポタミアにインダス方面の物資を供給することが困難になったことで、大きな影響となっただろう、と本書は指摘します。さらに、カッシートによるバビロン支配など、メソポタミア情勢の不安定化も、バールバール「文明」の終焉につながっていたようです。

https://sicambre.seesaa.net/article/202404article_20.html

7. 中川隆[-10817] koaQ7Jey 2024年4月25日 18:14:01 : ENGsrwC9lP : RmZlSVkvbkRWbDI=[4] 報告
<■70行くらい→右の▽クリックで次のコメントにジャンプ可>
太陽神を失ったクルド人、世界最初の文明を作った末裔
2024.04.24
https://www.thutmosev.com/archives/34742.html

3400年前のエジプトの壁画に描かれた太陽神アテン、太陽神はメソポタミア発祥


引用:http://blog-imgs-35-origin.fc2.com/f/r/a/frankshimakura/Aten_disk.jpg
光のない人達

クルド人といえば埼玉県川口市の団地に大勢住んでいる難民で、難民申請を繰り返しては様々な違法行為をしていると報じられています

クルド民族はトルコやシリアなどに複数の国に数千万人もいるが国家を持たない為、どの国でも厄介者になり迫害されたり抵抗したり独立運動をしています

クルド民族の全盛期は今から5000年ほど前で世界最古のメソポタミア文明を作ったのが何を隠そうクルド民族の始まり、つまりクルドはメソポタミアの末裔になります

栄光のメソポタミア文明は隣のエジプト文明と共に栄えたが、メソポタミアはエジプトより人口が少なく収穫も少なく資源が少なく全てが一回り小さかった

メソポタミアは内部抗争を繰り返して弱体化し紀元前18世紀から紀元前10世紀にかけて混乱し、以降アッシリア、バビロニア、ペルシャ、オスマントルコと支配王朝が変わるうちにクルド民族は支配される側に転落した

古代メソポタミア分裂後にクルドは国を持つことがなく、第一次大戦と第二次大戦はチャンスだったがアラブ諸国やイスラエルのように上手く立ち回る事ができず流民のままだった

支配国になっているオスマントルコ帝国は第二次大戦の敗戦国になったがクルドはこのチャンスも生かす事ができず少数民族のままだった

シリアなど中東諸国ではクルドは迫害される少数民族で、多くはイスラム教を信仰しているはこれはメソポタミアやクルド民族の土着信仰ではなくイスラム諸国に対して従属的な立場になっている

クルドがイスラム教を信仰するのはキリスト教に征服された国々がキリスト教徒になっているようなもので、それを続ける限り西洋キリスト教国に対して従属的な立場から抜け出せないでしょう

クルド民族には指導者とか政府や自治組織やハマスのような過激派すらなく、ただ数千万人がバラバラに住んでバラバラに活動しているだけです

彼らが何をやっているかというと中東で戦争が起きると武装組織として米軍やイギリス軍に協力するものの代表や政府がないので見返りを得られずいつも利用されて捨てられてた

911テロに始まるアメリカの対テロ戦争でもクルド人部隊はアメリカ側で参戦したが、やはり代表組織や政府がないので利用されて用が済んだら捨てられました

スウェーデンでマフィアをやり日本ではもめ事を起こす
クルド人はバラバラに日本や欧州に難民として入国し、スウェーデンは難民に甘かったので10万人ほどが居住している

だがそこでクルド人がやらかしたのはマフィアの結成と「非合法なくすり」のビジネスで、スウェーデンを中継地点に欧州各国に違法薬をばらまいた

それだけではなくスウェーデンの少年たちを組織に組み込んで構成員にしたり、街中でマフィア同士の銃撃戦までやってお人よしのスウェーデン人もクルド人の本性に気づいた

気付いたがもう10万人に永住権を与えたり難民認定したので追い出す事ができず、国中の治安が悪化し取り返しがつかない事になっている

クルド人は数千年前の栄光からなのかプライドだけは高く現地の法律や習慣を守らないので、世界中どこでも評判が悪く彼らに味方するのは変な人権団体くらいです

もう少し常識的な振舞をして世界から認められるような代表組織を作れば良いのだが、彼らは手っ取り早く武器や拳を振り回すので相手にされないのです

こんなクルド民族ですが日本の創成期に大きな影響を与えていて、日章旗や旭日旗の意匠や「太陽神」という神を生み出したのは古代メソポタミアでした

それだけではなくキリスト教や仏教で光を背負う「光背」がメソポタミア起源で、そうしたものが大陸を経由して日本にたどり着いて日章や旭日になりました

今から約3800年前につくられた古代メソポタミアのハムラビ法典には太陽神という考え方があり、太陽神シャマシュの壁画などが残されている

メソポタミアで生まれた太陽神やその他の神はエジプトで大量に壁画に描かれて、インドでヒンドゥ教の神にもなり、インドは仏教の起源でもあり仏教に強い影響を与えた

このようにクルド民族は太陽神と神々の栄光を背負っているが現代のクルド人は「ただのイスラム教徒」に成り果てて、多くの場合騒動とテロを繰り返す厄介者になっている

彼らが太陽神と神々の国の日本にやってきてイスラム教徒として騒動を起こしているのは奇遇だが情けないとしか言いようがない
https://www.thutmosev.com/archives/34742.html

8. 中川隆[-10366] koaQ7Jey 2024年6月02日 06:33:00 : pd6waTzt6s : aUJjYTBxNUtiRGM=[1] 報告
シュメールの歴史と王が記された石板に書かれていた驚きの内容とは?
世界ミステリーch 2024/06/01
https://www.youtube.com/watch?v=K1gt4cZrezY

シュメール王名表というものには歴代の王の名前や何が起こったかが記されています。そこには24万1000年もの間8人の王が地球を治めたと言ったことが書かれているのですが、これは本当なのか?今回はシュメール王名表を見ながら、合わせて神話の読み解き方もお話ししていきます!

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