http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/311.html
Tweet |
(回答先: 日本列島は欧米の侵略の拠点で日本人は手先。イギリスもアメリカも日本がアジアの国々と友好的な関係を結ぶことを許さない 投稿者 中川隆 日時 2020 年 5 月 30 日 07:38:41)
1985年8月12日 日本航空123便墜落事故は自衛隊がミサイルで撃墜した?
2020.09.09
日本航空123便と大韓航空007便
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202009090000/
アメリカを中心とする支配秩序は崩れつつある。そうした支配秩序のプロパガンダ機関である有力メディアはそうした事実を隠そうとしているが、隠しきれていない。欧米の一部支配者は現在、COVID-19(コロナウイルス感染症-2019)に対する人びとの恐怖を利用して世界秩序を「リセット」しようとしている。
そうした支配者が作り上げようとしている世界では、強大な私的権力が直接統治することになるのだろう。監視システムが張り巡らされ、強力な治安システムが存在し、人びとのつながりが厳しく制限される収容所のような世界だ。
第2次世界大戦でドイツが降伏する直前、1945年4月にアメリカ大統領だったフランクリン・ルーズベルトが急死、ホワイトハウスは親ファシストの金融資本が奪還、反ファシスト勢力を「赤狩り」という形で弾圧することになる。
そうした弾圧の中、1950年9月に「1950年国内治安法(マッカラン法)」が成立する。1950年代にアメリカの軍や情報機関では好戦派がソ連や中国への先制核攻撃を計画、その準備を始めている。沖縄の軍事基地化はその一環だった。
ベトナム戦争に反対する声を上げようと訴えていたマーチン・ルーサー・キング牧師は1968年4月に暗殺され、大規模な蜂起の引き金になる。そこでアメリカ軍は暴動鎮圧を目的とした2旅団(4800名)を編成した(ガーデン・プロット作戦)。
1970年には戦争に反対する人びとを取り締まるため、令状なしの盗聴、信書の開封、さまざまな監視、予防拘束などをFBIやCIAなどに許す法案が作成された。ヒューストン計画だが、これは司法長官のジョン・ミッチェルが拒否して実現していない。
ヒューストン計画は1979年にFEMA(連邦緊急事態管理庁)として現実化、1984年には「国家緊急事態」の際に多数の人びとを拘束するというRex 84が作成され、訓練も行われた。これはCOGにつながる。このCOGは当初、核戦争が想定されていたのだが、1988年に対象は「国家安全保障上の緊急事態」に拡大された。
1981年1月に始まったロナルド・レーガン政権はソ連に対する軍事的な圧力を強め、1983年11月には戦術弾道ミサイルのパーシングIIを西ドイツへ配備している。そうしたことが進行していた最中の1983年1月、中曽根康弘首相はアメリカを訪問、日本を「巨大空母」とワシントン・ポスト紙のインタビューで表現した。ワシントン・ポスト紙は「不沈空母」と書いたが、巨大空母も不沈空母もその意味に本質的な差はない。
そのワシントン・ポスト紙によると、「日本列島をソ連の爆撃機の侵入を防ぐ巨大な防衛のとりでを備えた不沈空母とすべき」であり、「日本列島にある4つの海峡を全面的かつ完全に支配する」とし、「これによってソ連の潜水艦および海軍艦艇に海峡を通過させない」と語ったのである。
ソ連に対する軍事的な挑発だが、それから間もない1983年4月から5月にかけてアメリカ海軍は千島列島エトロフ島の沖で大艦隊演習「フリーテックス83」を実施、3空母を集結させた。エンタープライズ、ミッドウェー、コーラルシーを中心とする機動部隊群が集まって挑発的な軍事演習を実行したのだ。この重大な出来事を日本のマスコミは報じなかった。
そして1983年8月31日から9月1日にかけて大韓航空007便がソ連の領空を侵犯するという事件が引き起こされる。この旅客機はアンカレッジを離陸して間もなく航路を逸脱、NORAD(北米航空宇宙防衛司令部)が設定したアラスカの「緩衝空域」と「飛行禁止空域」を横切ってソ連軍の重要基地の上を飛行、ソ連側の警告を無視して飛び続けた末にサハリン沖で撃墜されたとされている。航路を逸脱してソ連へ向かう旅客機にNORADは何も警告していない。この事件には不可解なことがいくつもあるのだが、今回は割愛する。
この事件を利用してアメリカ政府は大々的な反ソ連キャンペーンを展開、その年の11月にはNATO(北大西洋条約機構)軍が軍事演習「エイブル・アーチャー83」を計画、核攻撃のシミュレーションも行われることになっていた。1981年の段階で西側からの全面攻撃を想定していたソ連のKGBはこれを「偽装演習」だと疑い、全面核戦争を仕掛けてくるのではないかと警戒、その準備を始めている。NATOの大規模な演習は中止になったのでソ連側の懸念が正しかったどうかは不明だが、全面核戦争の寸前だったとは言えるだろう。
大韓航空機の事件から2年後の8月12日、羽田空港から伊丹空港へ向かっていた日本航空123便が群馬県南西部の山岳地帯に墜落した。乗員乗客524名のうち520名が死亡している。
運輸省航空事故調査委員会はボーイング社の修理ミスで隔壁が破壊されたことが原因だと主張しているが、その主張が正しいと仮定すると、実際の乗員乗客の状態は医学的にありえない。委員会の主張には全く説得力がないのだ。再現実験でも調査委員会のストーリーは無理だということが確認されている。
本ブログでは繰り返し書いてきたが、墜落から10年後の1995年8月、アメリカ軍の準機関紙であるスターズ・アンド・ストライプ紙は日本航空123便に関する記事を掲載した。墜落の直後に現場を特定して横田基地へ報告したC-130の乗組員、マイケル・アントヌッチの証言に基づいているのだが、その記事は自衛隊の責任を示唆している。
これも繰り返し書いてきたが、1995年2月に国防次官補だったジョセフ・ナイが「東アジア戦略報告(ナイ・レポート)」を公表、それに基づいて日本はアメリカの戦争マシーンに組み込まれていく。
1995年はその節目になったわけだが、大きな事件があった年でもある。1月の兵庫県南部地震は自然の出来事だが、3月には地下鉄サリン事件に続き、警察庁長官だった國松孝次が狙撃された。その前年の6月には長野県松本市でもサリンがまかれている。
その当時、日本をアメリカの戦争マシーンへ組み込むことに反対する人は自民党の中にも少なくなかっただろうが、1996年から日本はアメリカの意向に沿い、戦争マシーンに組み込まれていく。1995年の出来事がアメリカ支配層の脅しだった可能性は否定できない。スターズ・アンド・ストライプ紙の記事も脅しだった可能性がある。同紙はアメリカ軍の準機関紙であり、箝口令で沈黙していたアントヌッチの証言を載せたということは、軍が許可したことを意味している。
記事では墜落地点が特定できていて、アメリカ軍は救助活動を始めようとしていたとしている。ところが救助活動は中止させられた。その直後に自衛隊のヘリコプターが現場へ来たにもかかわらず、日本政府は翌日まで救助活動をしていない。記事には書かれていない、日本政府を震え上がらせる何かがあると思われても仕方がない。最終的に自衛隊がミサイルで撃墜したとする説もあるが、運輸省航空事故調査委員会の主張よりはるかに説得力がある。
もし、その説が正しいなら、事実が発覚すれば、1983年にソ連へ向けて発した非難は全て日本政府に向けられる。いや、ソ連の場合は軍事目的で侵入したと思われても仕方のない状況だった(実際、そうだった可能性もある)のだが、日航機の場合は違う。中曽根政権だけでなく、アメリカの支配者が操る天皇制官僚システムという型の中でしか民主主義、自由、人権を語れないマスコミも厳しい状況に陥るだろう。
マスコミにしろ学者にしろ、このシステムを揺るがすような事実を口にしたり文章にすることはできない。自衛隊機が旅客機を撃墜したということになれば、当然、自衛隊は機能しなくなるが、これは自衛隊をアメリカ軍の手先として使うことを困難にするということでもある。
アメリカは1980年代にソ連に対する軍事的な締め付けを強め、1983年には核戦争の寸前に到達した。1985年もそうした情勢の流れの中にあったのだが、その翌年の4月、ソ連ではチェルノブイリ原発で大事故が発生、支配体制を揺るがすことになった
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202009090000/
最新投稿・コメント全文リスト コメント投稿はメルマガで即時配信 スレ建て依頼スレ
スパムメールの中から見つけ出すためにメールのタイトルには必ず「阿修羅さんへ」と記述してください。
すべてのページの引用、転載、リンクを許可します。確認メールは不要です。引用元リンクを表示してください。