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コーカサス人の起源
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/303.html
投稿者 中川隆 日時 2020 年 9 月 01 日 20:27:47: 3bF/xW6Ehzs4I koaQ7Jey
 

コーカサス人の起源

雑記帳 2019年02月07日
コーカサス地域の銅石器時代〜青銅器時代の人類のゲノムデータ
https://sicambre.at.webry.info/201902/article_10.html

 コーカサス地域の銅石器時代〜青銅器時代の人類のゲノムデータを報告した研究(Wang et al., 2019A)が報道されました。1100kmに及ぶコーカサス山脈は黒海とカスピ海の間に位置しており、コーカサス地域には上部旧石器時代以降の豊富な考古学的記録があります。コーカサス地域での新石器時代は8000年前以降に始まりました。鉱石・牧草地・木材といった天然資源が豊富なコーカサス地域は、発展していくメソポタミアの都市文化にとって重要な地域でした。

 西アジア・コーカサス地域・ユーラシア草原地帯・ヨーロッパ中央部の接触に関しては、7000〜6000年前頃に考古学と遺伝学の双方で証拠が得られています。こうした接触は6000〜5000年前に増加していき、車輪・ワゴン・銅合金・新たな武器や家畜品種などが好感されていきました。こうした接触によりヤムナヤ(Yamnaya)文化が形成され、やがてヤムナヤ文化集団は5000〜4000年前頃より拡散していき、ヨーロッパに大きな遺伝的影響を残した、と推測されています(関連記事)。車輪の開発やウマの家畜化の進展などによる移動力の増加が、こうした大移動の背景にあるのでしょう。コーカサス地域は、こうした人類集団と文化の移動・拡散において、重要な役割を果たしたのではないか、と考えられています。

 本論文は、おもに6500〜3500年前頃のコーカサス地域の45人のゲノム規模の一塩基多型データを生成し、既知の古代人や現代人のデータと比較しつつ、コーカサス地域、さらにはユーラシア西部の人類集団の移動・相互の関係を検証しています。これまでのコーカサス地域の現代人のゲノム解析からは、アナトリア半島や近東の集団との類似性と、隣接する北方の草原地帯との遺伝的不連続性が指摘されていました。常染色体やミトコンドリアDNA(mtDNA)のデータからは、コーカサス地域全体は遺伝的に比較的均質に見えるのにたいして、Y染色体は多様でより深い遺伝的構造を示し、地理的・民族的・言語・歴史的事象と一致します。本論文は、古代ゲノムデータの解析・比較により、こうしたパターンがどのように形成されてきたのか、検証しています。

 まず大まかに言えるのは、6500〜3500年前頃のコーカサス地域の人類集団の遺伝的構成は草原地帯と山岳地帯とで大きく分かれ、3000年にわたって安定的だった、ということです。つまり、人類集団の遺伝的構成は、コーカサス山脈の南方地域と北部の山麓地域とでは類似しているのに対して、コーカサス山脈の北部では、隣接していても、山麓地域と草原地域とでは明確に異なり、そうした構造が3000年にわたっておおむね安定的に継続した、ということです。銅石器時代〜青銅器時代には、コーカサス山脈は人類集団を遺伝的に分離する障壁とはならなかったようです。本論文は、生態系に対応した人類集団の遺伝的構成になっている、と指摘しています。Y染色体では、ハプログループJ・G2・Lが多い山麓地域と、R1/R1b1およびQ1a2の多い草原地域とで明確に異なりますが、mtDNAのハプログループは両集団ともY染色体DNAハプログループよりも多様で類似しています。

 青銅器時代のコーカサス地域には、おもにコーカサス山脈以北のマイコープ(Maykop)文化(5900〜4900年前頃)とコーカサス山脈以南のクラアラクセス(Kura-Araxes)文化が存在し、後者は青銅器時代後期にかけて1期〜3期へと変容していきます(5600〜4300年前頃)。コーカサス山脈以北では、ヤムナヤ文化も拡大してきて、マイコープ文化から北部コーカサス文化(4800〜4400年前頃)へと変容していきます。こうした文化変容にも関わらず、生態系に対応した人類集団の遺伝的構成は比較的安定していました。

 さらに、マイコープ文化集団の担い手の遺伝的構成も、山麓地域と草原地域とで異なっており、文化変容が大規模な人類集団の移動を伴わず、在来集団による文化受容だったことを示唆しています。ただ、マイコープ文化期に、山麓地域には多いアナトリア農耕民系要素が草原地域では基本的に見られないか少ない一方で、アナトリア農耕民系要素が顕著に多い個体も草原地域マイコープ文化集団で2人確認されているので、山麓地域と草原地域とである程度の遺伝子流動があった、と推測されます。また、草原地域マイコープ文化集団には、ユーラシア北部・中央部に存在したと推測される、まだ識別されていない祖先集団(ゴースト集団)からの遺伝的影響を受けており、アメリカ大陸先住民集団や東アジア系集団との類似性をもたらしている、と推測されています。本論文の見解を私が文章にしても分かりにくいので、以下に本論文の図5を掲載します。

画像
https://media.springernature.com/lw900/springer-static/image/art%3A10.1038%2Fs41467-018-08220-8/MediaObjects/41467_2018_8220_Fig5_HTML.png

 上述したように、コーカサス地域では現在、常染色体やmtDNAが比較的均質なのに対して、Y染色体では民族に応じた大きな違いが見られます。本論文は、現在のコーカサス北部集団には、鉄器時代以降に草原地帯集団から追加の遺伝子流動があった、と推測しています。考古学と歴史学からは、鉄器時代と中世におけるコーカサス地域への大量の侵入が指摘されていますが、この仮説の検証には、鉄器時代以降の古代DNA解析が必要になる、と本論文は慎重な姿勢を示しています。おそらく鉄器時代以降のコーカサス地域では、男性主体の征服活動があったのでしょう。

 また本論文は、ヤムナヤ文化系集団が、そのヨーロッパ西方への本格的な拡大の前に、ヨーロッパからわずかに遺伝的影響を受けた可能性も指摘しています。本論文はその候補として、ヨーロッパ中央部の球状アンフォラ(Globular Amphora)文化集団などを想定しています。ヤムナヤ文化集団のヨーロッパへの大規模な拡散の前に、ユーラシア西部では微妙な遺伝子流動があり、それはユーラシア草原地帯(東)からヨーロッパ(西)への一方向のみではなかった、というわけです。本論文は、考古学的証拠でも、ヨーロッパからメソポタミアまで含む文化の交流がヤムナヤ文化集団の本格的な拡大前より始まったことが示されていることから、ユーラシア西部では早くから広範囲の文化的・遺伝的交流があったのではないか、と指摘しています。


参考文献:
Wang CC. et al.(2019A): Ancient human genome-wide data from a 3000-year interval in the Caucasus corresponds with eco-geographic regions. Nature Communications, 10, 590.
https://doi.org/10.1038/s41467-018-08220-8


https://sicambre.at.webry.info/201902/article_10.html  

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コメント
1. 2020年9月02日 13:33:25 : AUv6HyK3b2 : OW1XSExYVDc0dHc=[27] 報告
コーカサス三国 - Google マップ
https://www.google.com/maps/search/%E3%82%B3%E3%83%BC%E3%82%AB%E3%82%B5%E3%82%B9%E4%B8%89%E5%9B%BD%E3%80%80googlemap/@40.048982,42.797506,6z?hl=ja


コーカサス - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B3%E3%83%BC%E3%82%AB%E3%82%B5%E3%82%B9

定番観光地に飽きた人が行く秘境、コーカサス三国ってどんなところ?
https://tabizine.jp/2019/04/09/251882/

2. 2020年9月02日 14:05:59 : AUv6HyK3b2 : OW1XSExYVDc0dHc=[28] 報告
雑記帳 2015年11月27日
インド・ヨーロッパ語族の形成におけるコーカサスの狩猟採集民の遺伝的影響
https://sicambre.at.webry.info/201511/article_27.html


 現代のユーラシアの人類集団にコーカサスの狩猟採集民の遺伝的影響があることを明らかにした研究(Jones et al., 2015)が報道されました。この研究は、コーカサス地域の上部旧石器時代後期(13000年前頃)と中石器時代(9700年前頃)の人間のゲノム、およびスイスの上部旧石器時代後期(13700年前頃)の人間のゲノムを解析しました。現代ヨーロッパ人の形成には、ヨーロッパ西部の狩猟採集民、西アジアからの農耕民、西ヨーロッパに牧畜および冶金技術を伝えたヤムナヤ(Yamnaya)文化集団が重要な役割を果たした、と考えられています。

 この研究は、西ヨーロッパに青銅器時代を到来させたヤムナヤ文化集団が、東ヨーロッパの狩猟採集民集団とともに、コーカサス地域の狩猟採集民の遺伝的影響を大きく受けていることを明らかにしました。このコーカサス狩猟採集民集団は、45000年前頃にヨーロッパ西部の狩猟採集民集団と、最終氷期最盛期へと向かう25000年前頃の氷期に西アジアの農耕民の祖先集団と分岐し、孤立して氷期を生き延び、人口減少にともない遺伝的に比較的均質化していった、と推測されています。また、このコーカサス狩猟採集民の遺伝子は、インド・ヨーロッパ語族の拡大にともない、中央および南アジアにまで拡散した、と考えられています。


参考文献:
Jones ER. et al.(2015): Upper Palaeolithic genomes reveal deep roots of modern Eurasians. Nature Communications, 6, 8912.
http://dx.doi.org/10.1038/ncomms9912

https://sicambre.at.webry.info/201511/article_27.html

3. 2020年9月02日 14:08:25 : AUv6HyK3b2 : OW1XSExYVDc0dHc=[29] 報告
雑記帳 2020年06月30日
コーカサス北部のコバン文化の母系と父系
https://sicambre.at.webry.info/202006/article_36.html

 コーカサス北部のコバン(Koban)文化の母系と父系に関する研究(Boulygina et al., 2020)が公表されました。近年の古代DNA研究の進展は目覚ましく、コーカサスでも銅石器時代〜青銅器時代の集団で大きな成果が得られています(関連記事)。しかし、コーカサス北部集団の現代の民族的構成の形成に大きな影響を与えた文化の古代DNAは、まだ詳しく調べられていません。紀元前二千年紀末〜紀元前千年紀半ば頃となる後期青銅器時代と前期鉄器時代のコバン(Koban)文化は、古代と現代を架橋するという点で、とくに興味深い存在です。ロシア連邦北オセチア共和国のコバン墓地に因んで名づけられたコバン文化は、大コーカサス山脈の両側に紀元前13/12世紀〜紀元前4世紀まで広がっていました。コバン文化は、発展した冶金技術と段々畑農耕でよく知られていますが、コバン文化集団の遺伝的起源と多様性は、これまで調べられてきませんでした。

 本論文は、コバン文化個体群のミトコンドリアDNA(mtDNA)とY染色体DNAの分析結果を報告し、その遺伝的起源を検証します。具体的には、ロシア連邦カバルダ・バルカル共和国のザユコーヴォ3(Zayukovo-3)遺跡(紀元前8〜紀元前5世紀)と、ロシア連邦スタヴロポリ地方(Stavropol Krai)キスロヴォツク市(Kislovodsk)のクリンヤール3(Klin-Yar 3)遺跡の個体群です。DNA分析には、サンガー法と次世代シーケンサー(イルミナ)が用いられました。クリンヤール3遺跡では5人、ザユコーヴォ3遺跡では10人のDNAが解析されました。mtDNAハプログループ(mtHg)は、サンガー法ではクリンヤール3遺跡の2人とザユコーヴォ3遺跡の9人で、次世代シーケンサーではクリンヤール3遺跡の1人とザユコーヴォ3遺跡の3人で決定されました。また次世代シーケンサーでは、クリンヤール3遺跡の1人とザユコーヴォ3遺跡の5人でY染色体ハプログループ(YHg)が決定されました。さらに、これら紀元前9〜紀元前5世紀頃となるコーカサス北部のコバン文化期個体群との比較用として、サルマタイ(Sarmatian)文化期のザユコーヴォ3遺跡の1個体(紀元後2〜3世紀)もDNAが分析されました。

 サンガー法でのmtHgは、クリンヤール3遺跡の2人がH20aとJ1c(次世代シーケンサーではJ1b1)、ザユコーヴォ3遺跡の9人がN・U5a1a1h(次世代シーケンサーではU5a1a2)・HV1(次世代シーケンサーではHV1a1a)・T1a(次世代シーケンサーではT1a1)・H1e・W5a(次世代シーケンサーではN)・R6/H1e・R6・I1です。YHgは、クリンヤール3遺跡の1人がE1a2a1b1b(CTS2361)、ザユコーヴォ3遺跡の5人がG2a1a1a1b(FGC1160)・D1a1b1a(M533)・G2a1a(FGC595/Z6553)・R1b1a1b(M269/PF6517)・R1a(L146/M420/PF6229)です。

 これらのYHgは、E1a2a(CTS246/V1119)・G2a1a・R1b(M343/PF6242)・R1aのように、鉄器時代のコーカサスとヨーロッパでは一般的で、YHg-R1a・R1bは通常、インド・ヨーロッパ語族の移住と関連づけられてきました。既知の考古学的データは、スキタイ人の侵入がコバン文化に大きな影響を与えた、と示します。これは、本論文のYHgで確認されます。YHg-R1a・R1bは、スキタイ人とサルマティア人において高頻度で報告されています。YHg-G1a(CTS11562)は通常、近東の新石器時代個体群と関連づけられていますが、ヨーロッパの新石器時代個体群でも見られます。現在、ヨーロッパ中央部においてYHg-G2a(P15/PF3112)は低頻度ですが、現代のオセチアバルカルやカラチャイでは広範に見られます。YHg-R1a・R1b・E1a2aは、バルカル(Balkar)やカラチャイ(Karachay)やダルギン(Dargin)やレズギ(Lezghin)やアブハズ(Abkhaz)といった他の現代コーカサス北部民族集団でも見られます。ザユコーヴォ3遺跡の1個体のYHgはアジア東部に見られ、ユーラシア西部ではほぼ見られないYHg-D1a1b1aで、この個体のmtHg-HV1は、最終氷期極大期(Last Glacial Maximum、略してLGM)後にコーカサスを通ってヨーロッパへと拡大しました。

 mtDNA解析では、サンガー法と次世代シーケンサーでmtHgの決定に違いも見られます。これは、サンガー法での配列が超可変領域1(HVR1)に限定されている一方で、次世代シーケンサーでは全配列を分析できることに起因しているかもしれません。コバン文化個体群では、ヨーロッパの旧石器時代および新石器時代文化の人々に見られるmtHgが確認されました。具体的には、mtHg-H・J・N・T・W・I・Uは古代および現代コーカサス北部集団でも確認されており、ユーラシア西部において長期にわたって存在します。本論文のデータは、古代コーカサス地域における相対的な遺伝的継続性を示しますが、時として他文化からの影響も受けました。ザユコーヴォ3遺跡の1個体で確認されたYHg-R1bは、鉄器時代におけるコーカサス北部へのスキタイ人の侵略の遺伝的痕跡かもしれません。

 注目されるのは、ザユコーヴォ3遺跡の1個体で確認されたmtHg-HV1です。mtHg-HV1は、LGM 後におそらくはコーカサスを経由して近東からヨーロッパ西部へと拡散した、と推測されています。この個体のYHgは、アジア東部で見られるD1a1b1aです。本論文で報告されたコバン文化個体群の他のYHgは、現代コーカサス北部の民族集団で一般的です。YHg-Dは現在では、おもにアンダマン諸島とチベットと日本列島とアフリカ西部というように、ひじょうに限定的にしか見られません。このYHg-D1a1b1aがどのような経路でコーカサス北部にまで到達したのか、また、この個体は核ゲノムではどのような遺伝的構成なのか、今後の研究の進展が注目されます。


参考文献:
Boulygina E. et al.(2020): Mitochondrial and Y-chromosome diversity of the prehistoric Koban culture of the North Caucasus. Journal of Archaeological Science: Reports, 31, 102357.
https://doi.org/10.1016/j.jasrep.2020.102357

https://sicambre.at.webry.info/202006/article_36.html

4. 2020年9月02日 14:13:31 : AUv6HyK3b2 : OW1XSExYVDc0dHc=[30] 報告
雑記帳 2016年12月07日
南コーカサスにおける中部旧石器時代〜上部旧石器時代の移行年代
https://sicambre.at.webry.info/201612/article_7.html


 今年(2016年)9月14日〜18日にかけてマドリードで開催された人間進化研究ヨーロッパ協会の第6回総会で、南コーカサスにおける中部旧石器時代〜上部旧石器時代の移行年代に関する研究(Frouina et al., 2016)が報告されました。この研究の要約は、PDFファイルで読めます(P99)。コーカサス地域は、出アフリカ後の現生人類(Homo sapiens)の重要な拡散経路だった、と考えられています。そのため、コーカサス地域における中部旧石器時代〜上部旧石器時代の移行は、ネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)と現生人類との「交替劇」を理解するうえで重要となります。

 中部旧石器時代において、コーカサス地域は生物地理学的障壁により南北に分断されており、(コーカサス地域における中部旧石器文化の担い手と考えられる)ネアンデルタール人集団は孤立して存在していたようです。その根拠となるのが、北コーカサスと南コーカサスの石器群の違いで、北コーカサスの石器群が東ヨーロッパやクリミアの石器群との類似性を示す一方で、南コーカサスの石器群はレヴァントやザグロス地域の石器群との類似性を示しています。

 コーカサス地域の上部旧石器時代の人骨はほとんど発見されていないので、その担い手が確定したとまでは言えないようですが、現生人類と考えられています。コーカサス地域では、中部旧石器時代と上部旧石器時代の間に「移行的な石器文化」が確認されていないので、ネアンデルタール人と現生人類との間で接触はほとんどなく、急速に中部旧石器時代から上部旧石器時代へと移行したのではないか、と考えられています。

 この研究は、コーカサス地域における中部旧石器時代〜上部旧石器時代への移行について詳細に理解するためには、より精度の高い年代測定が必要だとして、放射性炭素年代測定法とともに、石英粗粒子を用いての光刺激ルミネッセンス法(OSL)と赤外光ルミネッセンス法(IRSL)のように、堆積物に含まれる異なる鉱物にルミネッセンス年代測定法を用いるよう、提言しています。ネアンデルタール人と現生人類との「交替劇」をより詳細に理解するためにも、今後の研究の進展が期待されます。


参考文献:
Frouin T. et al.(2016): Dating the Middle-Upper Palaeolithic Transition in western Georgia (South Caucasus): a multi-method (OSL, IRSL and 14C) approach. The 6th Annual ESHE Meeting.


https://sicambre.at.webry.info/201612/article_7.html

5. 2020年9月02日 14:23:33 : AUv6HyK3b2 : OW1XSExYVDc0dHc=[31] 報告
雑記帳 2018年10月07日
青銅器時代〜鉄器時代のユーラシア西部草原地帯の遊牧民集団の変遷
https://sicambre.at.webry.info/201810/article_11.html


 青銅器時代〜鉄器時代のユーラシア西部草原地帯の遊牧民集団の変遷に関する研究(Krzewińska et al., 2018)が報道されました。本論文は、おもにポントス-カスピ海草原(中央ユーラシア西北部から東ヨーロッパ南部までの草原地帯)の青銅器時代〜鉄器時代の人類集団のゲノムを解析し、ユーラシアの古代および現代の人類集団の既知のゲノムと比較しました。本論文の結論は、鉄器時代のユーラシア西部遊牧民集団の主要な起源はポントス-カスピ海草原東部にある、というものです。

 ポントス-カスピ海草原には青銅器時代〜鉄器時代にかけて多くの遊牧民集団が連続的に存在し、アジアとヨーロッパ双方の文化発展に大きな影響を及ぼしました。その中で最も有名なのは前期青銅器時代のヤムナヤ(Yamnaya)文化集団で、その拡大はヨーロッパにコーカサス地域の遺伝的要素をもたらしました(関連記事)。ポントス-カスピ海草原の重要性は、このヤムナヤ文化集団の拡大だけではなく、その後の紀元前1800〜紀元後400年にかけての青銅器時代〜鉄器時代の連続した移住と文化的変容も同様です。

 紀元前1800〜紀元前1200年にかけてのポントス-カスピ海草原は、スルブナヤ-アラクルスカヤ(Srubnaya-Alakulskaya)文化集団の期間で、ウラルからドニエプル流域まで小さな居住遺跡が分布しています。青銅器時代〜鉄器時代の移行期となる紀元前1000年頃からは、キンメリア人を含む先スキタイ遊牧民集団がポントス-カスピ海草原西部に出現し始めます。紀元前700〜紀元前300年にはスキタイ人がポントス-カスピ海草原西部を支配し、新たな軍事文化を有する遊牧民として、アルタイ地域からカルパティア山脈までその勢力が及びました。スキタイ人は、ポントス-カスピ海草原に留まらず、カザフスタン草原まで支配したわけです。

 スキタイ人は紀元前300年頃に衰退し始めますが、これは西方のマケドニアと敵対していったことと、東方からのサルマティア人の侵略が大きかったようです。サルマティア人とスキタイ人は数世紀間共存したと考えられていますが、けっきょくはサルマティア人が優勢になり、スキタイ人は没落しました。サルマティア人は、類似した多くの遊牧民集団から構成されていたと考えられ、政治的にはローマ帝国東方の辺境地帯で最も政治的影響力を有しましたが、紀元後400年には、ゴート人とフン人の連続した攻撃により衰退しました。

 ポントス-カスピ海草原の青銅器時代〜鉄器時代の人類集団のゲノム構造はじゅうぶんには解明されていません。以前の研究では、スルブナヤ集団と後期新石器時代〜青銅器時代のヨーロッパ集団との近縁性が指摘されていました。キンメリア人については、その遺伝的起源はあまり解明されていません。スキタイ人のミトコンドリアDNA(mtDNA)解析では、ユーラシア草原地帯の東西の集団の混合が指摘されていました。スキタイ人でも東方のアルタイ地域のアルディベル(Aldy-Bel)文化集団は、中央アジアの東部集団との遺伝的類似性を示しますが、西方のポントス-カスピ海草原のスキタイ人集団との関係と起源に関する理解は貧弱です。サルマティア人の起源と他集団との遺伝的近縁性もあまり知られていませんが、ゲノム解析では東部ヤムナヤ文化集団および青銅器時代のヴォルガ川中流域のポルタフカ(Poltavka)集団との類似性が指摘されています。

 本論文は、後期青銅器時代〜鉄器時代にかけてのポントス-カスピ海草原の古代人のゲノム解析が不充分であることから、紀元前1900〜紀元後400年にかけての、ポントス-カスピ海草原の年代的に連続した異なる4文化集団の35人ゲノムを解析し、既知のユーラシアの人類集団のゲノムと比較することで、研究を前進させました。ゲノム解析の平均網羅率は0.01倍〜2.9倍です。内訳は、スルブナヤ-アラクルスカヤ人が13人、キンメリア人が3人、スキタイ人が14人、サルマティア人5人です。

 mtDNAハプログループでは、後期青銅器時代のスルブナヤ-アラクルスカヤ人がヨーロッパ人もしくはユーラシア西部人と関連するH・J1・K1・T2・U2・U4・U5に分類されたのにたいして、青銅器時代〜鉄器時代の移行期の遊牧民集団であるキンメリア人と、鉄器時代の遊牧民集団であるスキタイ人・サルマティア人には、中央アジアおよび東アジア系集団と関連するA・C・D・Mに分類される個体がいました。より古いスルブナヤ-アラクルスカヤ人に東アジア系mtDNAハプログループが見られないのは、草原地帯の集団の東アジア系ハプログループの出現が鉄器時代の遊牧民集団と関連しており、キンメリア人に始まるからかもしれません。Y染色体DNAハプログループでは、18人の男性のうち17人が、ハプログループRに分類されました。スルブナヤ-アラクルスカヤ人は、青銅器時代に拡大したR1aに分類されました。鉄器時代の遊牧民はほとんどがR1bに分類され、これはロシア草原地帯のヤムナヤ文化集団に特徴的です。例外はキンメリア人の男性1人で、ユーラシア東方集団と関連するQ1に分類されました。

 低〜中網羅率ですが、ゲノム解析の結果、さまざまな新知見が得られました。スルブナヤ-アラクルスカヤ人は現代のヨーロッパ北部・北東部集団と近縁です。青銅器時代〜鉄器時代移行期のキンメリア人は、遺伝的に均質ではありません。本論文でゲノム解析の対象となったスキタイ人は、スキタイの中核であるポントス草原北部の個体群で、高い集団内多様性を示します。スキタイ人は遺伝的に大きく3集団に区分され、それぞれ、ヨーロッパ北部集団・ヨーロッパ南部集団・コーカサス北部集団と近縁です。スルブナヤ-アラクルスカヤ人の1個体と、キンメリア人の最も新しい年代の個体と、サルマティア人全員も、コーカサス北部集団と近縁です。スキタイ人の1個体は、ユーラシア西部集団の遺伝的変異の範囲を超えて、東アジア人と遺伝的近縁性を示しています。

 スルブナヤ-アラクルスカヤ人はユーラシア西部集団の変異内に収まり、北東部および南東部アジア集団の要素を欠いています。一方、それに続くキンメリア人は全員、東方のシベリア集団の遺伝的要素を有していました。キンメリア人の最古の個体の遺伝的構成の比率は東方のアジア系とユーラシア西部系で等しく、2番目に古いキンメリア人個体は、ユーラシア東部とアメリカ大陸先住民集団で見られるY染色体DNAハプログループQ1に分類され、この頃よりポントス-カスピ海草原の遊牧民集団に東アジア系の遺伝的要素が入ってきたようです。

 スキタイ人は、上述したように遺伝的には多様で、複数の系統から構成されているため、起源の解明は困難です。東方スキタイ人がヤムナヤ文化集団と近縁な一方、西方スキタイ人は中央アジア北東部からシベリア南部のアファナシェヴォ(Afanasievo)およびアンドロノヴォ(Andronovo)文化集団と近縁です。また、西方スキタイ人には、南アジアおよび東アジア系集団の遺伝的要素が欠けており、これもスキタイ人の遺伝的多様性の一因となっています。スキタイ人は、ユーラシアの半遊牧民集団や黒海地域のギリシア人など、多様な人々を組み込んでいったのではないか、と推測されています。じっさい、異なる遺伝的背景の個体が、同じ文化様式で埋葬されていたこともありました。スキタイ人は、遺伝的に大まかに言って、その前後にポントス-カスピ海草原を支配したキンメリア人とサルマティア人とも、近い関係にはあるものの直接的な祖先-子孫関係にはない、と推測されています。

 ウラル南部の個体も含むサルマティア人は草原地帯集団の変異内におおむね収まり、ウラル南部ではユーラシア西部の遊牧民集団の遺伝的構成が比較的維持された、と推測されています。サルマティア人の比較的高い遺伝的多様性については、遺伝子流動というよりも、大きな有効人口規模の結果かもしれない、と指摘されています。サルマティア人とキンメリア人の遺伝的近縁性も指摘されており、鉄器時代以降にユーラシア東部の遺伝的影響を受けつつも、ポントス-カスピ海草原においてユーラシア西部草原地帯の遺伝的要素が強く維持されてきた、と示唆されます。

 古代ゲノム解析から、ポントス-カスピ海草原の青銅器時代〜鉄器時代は、遊牧民集団の移動性の高い複雑な時代だった、と推測されます。青銅器時代〜鉄器時代にかけてポントス-カスピ海草原を支配した人類集団は、それぞれ前後の時代の集団と主要な直接的祖先-子孫関係にあったまでは言えませんし、ユーラシア東部からの遺伝的影響を受けているものの、大まかには、ポントス-カスピ海草原とウラル南部を起源地とする集団の遺伝的構成が維持され、ユーラシア西部の遊牧民集団が形成された、と言えそうです。

 ポントス-カスピ海草原の青銅器時代〜鉄器時代の遊牧民集団では、とくにスキタイ人において強い傾向が見られるようですが、拡散先の在来集団を同化させて組み込んでいったようです。遊牧民集団の柔軟性は、歴史学などでも指摘されていたと思いますが、それが古代ゲノム解析でも裏づけられた、ということなのでしょう。もっとも、これにより広範な地域に及ぶ強大な勢力を短期間で築くこともできますが、出自の異なる集団の合流で形成されているだけに、史実に見えるように、崩壊する時はあっけないのでしょう。

 ポントス-カスピ海草原の青銅器時代〜鉄器時代の遊牧民集団は、アジアとヨーロッパに遺伝的にも文化的にも大きな影響を及ぼしました。文化面では、乗馬・戦車(チャリオット)などが挙げられます。これらは考古学的検証が可能ですが、直接的証拠は乏しいとしても、おそらくはインド・ヨーロッパ語族も、草原地帯の遊牧民集団が広めた可能性は高いと思います。ユーラシア中央部の遊牧民集団は、とくに紀元前に関しては文字記録が少ないため、あるいは過小評価される傾向にあるかもしれませんが、古代ゲノム解析の進展により、その重要性が今後広く認識されていくのではないか、と予想されます。


参考文献:
Krzewińska M. et al.(2018): Ancient genomes suggest the eastern Pontic-Caspian steppe as the source of western Iron Age nomads. Science Advances, 4, 10, eaat4457.
https://doi.org/10.1126/sciadv.aat4457


https://sicambre.at.webry.info/201810/article_11.html

6. 2020年9月17日 05:19:13 : liWo46rFAQ : R01SeUJPdnRBd3c=[1] 報告
雑記帳 2020年09月17日
コーカサスの25000年前頃の人類のゲノムデータ
https://sicambre.at.webry.info/202009/article_20.html


 人間進化研究ヨーロッパ協会第10回総会で、コーカサスの25000年前頃の人類のゲノムデータに関するPDFファイル(Gelabert et al., 2020)が報告されました。この研究の要約はPDFファイルで読めます(P49)。近年では、環境DNA研究の古代DNA研究の応用により、遺跡の堆積物から、後期および中期更新世のさまざまなホモ属系統や他の哺乳類の複数のミトコンドリアゲノムが解析されました(関連記事)。この手法は、人類遺骸の古代ゲノム研究への補完的もしくは代替的手法として、人類の進化と交雑史と拡散の研究に、新たな地平を開きます。この手法はまた、過去の環境と人類の生計および行動についての新たな情報を提供する可能性を有します。

 この研究は、ジョージア(グルジア)西部のイメレティ(Imereti)地域に位置するサツルブリア(Satsurblia)洞窟の、25000年前頃となる上部旧石器時代層から得られたゲノムデータを報告します。サツルブリア洞窟遺跡では、33000〜14000年前にまたがる、上部旧石器時代の豊富な考古学的記録が得られています。上部旧石器時代後期(較正年代で13380〜13132年前)となる、サツルブリア洞窟遺跡で発見された人類の右側頭骨の完全なゲノムに関する以前の研究では、この地域に居住していた最終氷期極大期(Last Glacial Maximum、略してLGM)後の集団は「コーカサス狩猟採集民(CHG)」で、いくつかのユーラシア集団の主要な祖先集団でした(関連記事)。しかし、この地域のLGM前の集団の遺伝的構成は、ユーラシア西部のこの期間のゲノムデータがないため、不明なままです。

 サツルブリア洞窟の25000年前頃の人類のミトコンドリアゲノムは、45000年前頃となるブルガリアのバチョキロ洞窟(Bacho Kiro Cave)で発見された個体(関連記事)との明確な類似性を示します。核ゲノムデータの分析では、この25000年前頃の人類は、同じくサツルブリア洞窟で発見された13000年前頃の人類とはクラスタ化せず、対照的に現在のレヴァント集団に近いようです。これは、南コーカサス地域の人類集団におけるLGM前後での遺伝的不連続性を示唆します。さらに、サツルブリア洞窟の25000年前頃の層では、他の哺乳類3種の存在が特定されました。それは、タイリクオオカミ(Canis lupus)とウシ(Bos taurus)とヒツジ属の種です。

 遺跡の堆積物のDNA解析により、人類遺骸のない遺跡でも遺伝的データを得ることが可能となりましたから、更新世の人類遺骸がひじょうに少ない日本列島のような地域への適用により、研究が大いに進展するのではないか、と期待されます。中国や朝鮮半島でもこうした研究が進めば、日本人の形成過程もより詳細に解明されるでしょう。また、この研究で非ヒト動物の遺伝的データが得られたように、当時の動物相のより詳細な解明も進むのではないか、と期待されます。


参考文献:
Gelabert P. et al.(2020): Metagenomes and ancient human lineages from a pre-LGM layer of Satsurblia cave in the Caucasus. The 10th Annual ESHE Meeting.


https://sicambre.at.webry.info/202009/article_20.html

7. 中川隆[-11191] koaQ7Jey 2020年9月24日 08:58:10 : FGqpD48T5s : RDVTamFLOWx0L1E=[10] 報告
雑記帳 2020年09月24日
新石器時代から青銅器時代の近東人類集団の遺伝的構成
https://sicambre.at.webry.info/202009/article_30.html


 取り上げるのが遅れてしまいましたが、新石器時代から青銅器時代の近東人類集団の遺伝的構成に関する研究(Skourtanioti et al., 2020)が報道されました。農耕開始以降、近東は複雑で初期国家水準の社会の形成において影響力のある地域で、19世紀以来大きな考古学的関心を集めてきました。過去10年の古代DNA研究の発展により、近東における新石器時代開始の過程に関する問題も明らかになってきました。アナトリア半島南部・中央部やレヴァント南部やイラン北西部の近東農耕民は在来の狩猟採集民の子孫で、この地域における狩猟採集から農耕への移行は、地域間のわずかな遺伝子流動を伴う生物学的に継続的な過程だった、と示されました(関連記事1および関連記事2および関連記事3)。

 約2000年後、この状況は変わりました。これら前期完新世集団とは対照的に、アナトリア半島西部・中央部とレヴァント南部とイラン(ザグロス地域)とコーカサスの銅器時代および青銅器時代の集団は、相互に遺伝的差異がより少なくなっており、この期間は、より大きな地域にまたがる遺伝子流動の広範な過程により特徴づけられる、と示唆されます(関連記事)。しかし、この過程の時空間的範囲は、この広範な地域の中継地となり得るアナトリア半島中央部・東部の古代人ゲノムが不足しており、より高密度の標本抽出が必要となるため、よく理解されていません。現在まで、アナトリア半島全域にまたがる「新石器時代一式」の特徴の空間的分布からは、より広範な地域と相関する異質な複数回の事象の過程だった、と示唆されます。しかし、集団移動がアナトリア半島内のこれらの地域の形成に重要な役割を果たしたのかどうか、未解明です。

 アジア西部全域で、人々および物質および/あるいはアイデアの移動の考古学的証拠がよく記録されています。コーカサス南部では、考古学的研究から、後期新石器時代のメソポタミア北部との関係が示唆されており、アナトリア半島東部では、メソポタミア世界とほぼ関連している、いくつかの広範な事象により特徴づけられる文化的つながりのネットワークが証明されています。これらは、紀元前五千年紀における、メソポタミア南部のウバイド文化のトロス山脈まで達する、メソポタミア上流部への浸透を含みます。

 コーカサス南部では、紀元前五千年紀後半〜紀元前四千年紀半ばに、メソポタミア上流部からの強い影響により、この浸透が続きました。紀元前四千年紀半ば〜末にかけて、「中期および後期ウルク拡大」と呼ばれる別のメソポタミア南部の影響が、メソポタミア上流部とアナトリア半島東部のユーフラテス川とティグリス川の上流部に到達しました。同時に、一般的にはコーカサス南部起源と考えられているクラ・アラクセス(Kura-Araxes)文化が、紀元前3000〜紀元前2900年頃にアナトリア半島東部およびレヴァント北部・南部へと拡大しました。これらの事象の証拠は多くの発掘から得られており、とくに、アナトリア半島東部のマラティヤ平野のアルスラーンテペ(Arslantepe)遺跡の長期にわたる広範な発掘により明らかです。レヴァント北部では、メソポタミア北部との物質的つながりが紀元前四千年に出現し始め、広範な文化的接触もしくは集団移動の結果と考えられてきました。

 したがって、主要な問題は、人類集団・物質文化・アイデア・それらの組み合わせのうち、何が移動していたのか、ということです。これらの初期の発展は、中期青銅器時代(MBA)からの地中海東部における「グローバル化」の増加につながり、それは海陸の経路を通じての資源利用と管理の強化により特徴づけられます。しかし、中期および後期青銅器時代(LBA)の人類遺骸が不足しているため、人類の移動性の役割は不明確で、困難な問題になっています。この点で、トルコのアムク川流域のアララハ遺跡は、この時期の300人以上の被葬者が発見されているため、古代DNA研究の適用にとって例外的な格好の事例となります。

 この移動の性質の理解が、本論文の主題となります。本論文では、先史時代のアナトリア半島とレヴァント北部とコーカサス南部低地の主要な遺跡の人類遺骸のゲノム規模データの、大規模な分析が提示されます。本論文の目標は、近東のこの地域のゲノム史を、新石器時代から中期および後期青銅器時代の相互につながった社会への移行にまたがって、体系的な標本抽出により復元することです。新たな古代のゲノム規模データセットは110人から構成され、アナトリア半島中央部・北部とアナトリア半島東部とコーカサス南部低地とレヴァント北部の4地域を含み、それぞれ期間は先史時代の2000〜4000年にまたがっています。

 紀元前六千年紀半ばのアナトリア半島北部・中央部およびコーカサス南部低地集団は密接につながっている、と明らかになりました。これらの集団は、アナトリア半島北部から現代のイラン北部となるコーカサス南部およびザグロス地域にかけて、遺伝的勾配を形成します。この勾配は、紀元前6500年頃の両地域を生物学的に接続する混合事象の後に形成されました。アナトリア半島全域の銅器時代および青銅器時代集団も、ほぼこの遺伝的勾配の子孫です。対照的にレヴァント北部では、銅器時代と青銅器時代の間の大きな遺伝的変化が特定されました。この移行期にレヴァント北部集団では、ザグロス・コーカサス地域およびレヴァント南部の両方と関連する系統を有する、新たな集団からの遺伝子流動がありました。これは、社会的志向、おそらくはメソポタミアの都市中心部の台頭に対応における変化を示唆していますが、まだ遺伝的に標本抽出されていません。


●標本分析

 124万ヶ所の系統特定に有益な一塩基多型を対象として、アナトリア半島とレヴァント北部とコーカサス南部の4000年にわたる先史時代の110人のゲノム規模データが得られました。このうち9人の年代は紀元前六千年紀となる後期新石器時代から前期銅器時代(LN/EC)で、アナトリア半島中央部・北部のボアズキョイ・ビュユッカヤ(Boğazköy-Büyükkaya)と、アナトリア半島南部・レヴァント北部のテルクルドゥ(Tell Kurdu)と、コーカサス南部低地のアムク川流域のメンテシュテペ(Mentesh Tepe)およびポルテペ(Polutepe)で発見されました。残りの101人の年代は、紀元前四千年紀〜紀元前二千年紀となる後期銅器時代から後期青銅器時代(LC-LBA)で、アナトリア半島南部・レヴァント北部では現代のテルアッチャナ(Tell Atchana)となるアララハ(Alalakh)と現代のテル・マルディフ(Tell Mardikh)となるエブラ(Ebla)、アナトリア半島中央部・北部ではキャムリベルタルラシ(Çamlıbel Tarlası)とイクジテペ(Ikiztepe)、アナトリア半島東部ではアルスランテペ(Arslantepe)とティトリスヘユク(Titriş Höyük)、コーカサス南部低地ではアルハンテペ(Alkhantepe)です。

 詳細な集団遺伝分析では、網羅率や汚染など品質要件を満たしていない16人が除外され、合計94人のゲノム規模データが分析されました。このうち77人は加速器質量分析法(AMS法)による放射性炭素年代が得られました。これらは遺跡もしくは地域と年代により集団化されました。それは、ビュユッカヤEC(銅器時代)が1個体、キャムリベルタルラシLC(後期銅器時代)が12個体(近親者を除くと9個体、以下同様です)、アルスランテペEBA(前期青銅器時代)が4個体、アルスランテペLCが18個体(17個体)、ティトリスヘユクEBAが1個体、イクジテペLCが11個体、アララハ中期〜後期青銅器時代(MLBA)が26個体(25個体)、アララハ中期〜後期青銅器時代(MLBA)外れ値が1個体、エブラ前期〜中後期青銅器時代(EMBA)が11個体、テルクルドゥ前期銅器時代(EC)が5個体、テルクルドゥ中期銅器時代(MC)が1個体、コーカサス低地LCが1個体、コーカサス低地後期新石器時代(LN)が2個体です。

 これらのデータは、約800人の既知の古代人の遺伝的データと組み合わされました。その中で、アナトリア半島の17個体が本論文のアナトリア半島集団とともに分析されました。それは、テペシク・シフトリク(Tepecik-Çiftlik)遺跡のテペシクN(新石器時代)、バルシン(Barcın)遺跡のバルシンC(銅器時代)、ゴンドリュレ・ヘユク(Gondürle-Höyük)遺跡のゴンドリュレヘユクEBA、トパヘユク(Topakhöyük)遺跡のトパヘユクEBA、カマン・カレヒユク(Kaman-KaleHöyük)遺跡のK.カレヒユクMLBAです。


●アナトリア半島とレヴァント北部とコーカサス低地におけるLN/ECの遺伝的構造

 これまで、新石器時代アナトリア半島の遺伝子プールに関する知識は、西部のバルシンおよびメンテシェ(Menteşe)遺跡(本論文ではバルシンNとされます)と、中央部コンヤ平原のボンクル(Boncuklu)遺跡と、南部のテペシク・シフトリク遺跡からしか得得られていませんでした。これらの個体群の年代は紀元前九千年紀〜紀元前七千年紀で、本論文のLN/EC個体群へと継承されます。新石器時代から青銅器時代の近東の遺伝的構造を概観するため、まず現代人と古代人を対象に主成分分析が行なわれました。全体的に、バルシンN とイラン・コーカサス古代個体群との間で、LN/EC個体群はPC2軸に沿って散在しています。テルクルドゥECはPC1軸に沿って新石器時代および銅器時代レヴァント個体群へと僅かに移動します。ビュユッカヤECは、現在までに報告されているあらゆるアナトリア半島新石器時代個体からさらに離れて位置し、新石器時代および銅器時代イラン個体群へと移動します。コーカサス低地LN(ポルテペおよびメンテシュテペ遺跡)の2個体はPC2軸に沿って、ビュユッカヤECと銅器時代イラン個体群との間で上方に位置します。

 主成分分析で観察された質的差異を検証するため、f4統計によりユーラシア西部のより早期の集団と、LN/EC集団の遺伝的類似性が比較されました。ビュユッカヤECおよびコーカサス低地LNはバルシンNと、コーカサス狩猟採集民(CHG)およびイランNとのアレル(対立遺伝子)をより多く共有している点で異なりますが、ヨーロッパ西部狩猟採集民(WHG)やヨーロッパ東部狩猟採集民(EEF)やアナトリア半島の続旧石器時代個体やレヴァントの続旧石器時代・新石器時代個体群とは共有アレルが少なくなっています。qpAdm を用いてf4統計を要約することにより、ビュユッカヤECとコーカサス低地LNの両方を、バルシンN とイランN(24〜31%)の2者混合としてモデル化できます。主成分分析でバルシンN とビュユッカヤECの間の中間に位置するテペシクNも、同じモデルに適合します(イランNが22%)。イランNをCHGと置換することにより、ビュユッカヤECは適切なモデル(CHGが24%)が得られますが、コーカサス低地LNではこのモデルは適合しません。

 主成分分析と一致して、テルクルドゥECはバルシンN とイランNの混合の勾配には収まりませんが、古代レヴァント集団とのさらなる類似性を示します。f4統計では、テルクルドゥECは、同じ地域のほぼ1000年後の個体(テルクルドゥMC)を含む他のあらゆる新石器時代〜前期銅器時代のアナトリア半島集団よりも、先土器新石器時代レヴァント個体群(レヴァントN)とより多くの類似性を有します。バルシンNと比較すると、テルクルドゥECはヨーロッパ西部・東部・南東部の中石器時代狩猟採集民との類似性が有意に低くなっています。上述のバルシンN とイランN/CHGの混合モデルは、テルクルドゥECでは支持されません。代わりに、テルクルドゥECは、バルシンN とイランN(15.5±3.7%)もしくはCHGとレヴァントN(36.6±7.1%)の3者混合としてよくモデル化できます。


●新石器時代の混合と銅器時代および青銅器時代集団の共通の遺伝的構成

 LN/EC個体群とは対照的に、LC-LBA個体群はユーラシア西部人の主成分分析では密集し、イランとコーカサスとレヴァントとアナトリア半島西部の古代人集団により区分されるLN-EC勾配にほぼ収まります。本論文の仮説は、アナトリア半島中央部・北部および東部のLC-LBA集団がこのより古い遺伝的構造の子孫で、同じ系統構成を共有しているかもしれない、というものです。

 主成分分析と一致して、外群f3およびf4統計では、LN-EC勾配と類似しているLC-LBA集団の共通の遺伝的構成が示唆されます。まず、外群f3統計(ムブティ、LC-LBA、検証集団)では、共通の外群であるムブティからのLC-LBAと検証集団との間の平均的な共有された遺伝的浮動が測定され、検証集団がバルシンNやテルクルドゥECやビュユッカヤECのようなヨーロッパとアナトリア半島とレヴァント北部の新石器時代および銅器時代集団の時に、最高値に達しました。次に、バルシンNとテルクルドゥECを追加すると、f4統計(ムブティ、検証集団、バルシンN/テルクルドゥEC 、X)では、ユーラシア西部の一連の古代検証集団に関して、バルシンNもしくはテルクルドゥECとLC-LBA集団(X)との間の違いが特徴づけられます。イランNおよび/もしくはCHGは一貫して、テルクルドゥEC およびバルシンNと比較すると、LC-LBAとの過剰な類似性を示します。イランおよびコーカサスの銅器時代および青銅器時代集団は、年代的にLC-LBAにより近く、主成分分析ではイランN/CHGとLC-LBAの間に位置しますが、バルシンと比較すると、一部のLC-LBA集団とのみより多くのアレルを共有します。

 LC-LBA集団の共有された混合構成の時間的側面をさらに調べるため、最近開発された手法であるDATESを用いて混合年代が推定されました。上述のように、LN-EC勾配はバルシンNとイランN/CHGの割合の変化であり、両方が起源集団として選択されました。しかし、イランNおよびCHG両方の標本規模は小さく、イランNでは多くの一塩基多型が欠けているため、第二起源集団の代理としてコーカサス現代人(アルメニア、ジョージア、アゼルバイジャン、アブハズ、イングーシ)が用いられました。

 標本規模がじゅうぶんに大きく、LC-LBA集団で年代の古いLC(後期銅器時代)3集団(キャムリベルタルラシLCが9個体、イクジテペLCが11個体、アルスランテペLCが17個体)に焦点が当てられました。これら全個体の推定をまとめると、バルシンNとコーカサス現代人を遺伝子プールの代理として用いたさいに、105±19世代前という堅牢な混合年代が得られました。1世代28年と仮定すると、この推定はLC-LBA個体群の年代の3000年前頃の混合事象と等しく、紀元前6500年頃に相当します。ブレはあるものの類似の推定年代は、キャムリベルタルラシLCとイクジテペLCとアルスランテペLCという個々の銅器時代集団で観察されます。混合年代は別の2手法(ALDERおよびrolloffp)でも推定されましたが、全体的にはDATESと一致しました。

 さらに、コーカサス低地LN とビュユッカヤEC、コーカサスの既知のEBA個体群、イランC(銅器時代) を含む、EC(前期銅器時代)勾配上の他の古代集団にも分析が拡大されました。紀元前3100年頃のコーカサスEBA個体群はアナトリア半島LC個体群と類似しており、121±35世代前という類似の混合年代が得られました。重要なことに、より古いコーカサス低地LN2個体とビュユッカヤEC1個体(紀元前5600年頃)は、34±15世代前というもっと最近の混合年代が推定されました。これは暦年代で紀元前6500年頃となり、LC個体群から推定される混合事象の年代と一致します。


●銅器時代と青銅器時代集団の混合モデル化

 LC-LBA集団の系統構成を説明するには、バルシンNおよびイランNの両関連系統が必要だと示されましたが、時空間的にLC-LBA集団により近い古代集団の代替的組み合わせも、同様に適合モデルを提供できるかもしれません。真の人口史をより反映している可能性が高い妥当な混合モデルを得るには、密接に関連した候補起源集団間を正確に区別することが重要です。qpAdmを用いて、全LC-LBA集団が、一方は新石器時代アナトリア半島系統、もう一方はイランおよびコーカサス集団関連系統という2起源集団の混合として、モデル化されました。新石器時代アナトリア半島系統では、新石器時代もしくは前期青銅器時代の3集団(バルシンN、テルクルドゥEC、ビュユッカヤEC)が用いられました。イランおよびコーカサス集団関連系統では、イランNおよびCHGと、同じ地域のより新しい銅器時代および青銅器時代集団が用いられました。LC-LBA集団の混合兆候は、イランおよびコーカサス集団よりも古いものの、代理として用いられました。それはLC-LBA集団が、LC-LBA個体群に寄与したまだ標本抽出されていない遺伝子プールを表しているかもしれないからです。

 バルシンNとイランNの混合は多くのLC-LBA集団を適切に説明しますが、アララハMLBAとエブラEMBAとアルスランテペLCとバルシンCとコーカサス低地LCでは失敗しました。イランN関連系統の寄与は、21±9%〜38±6%です。バルシンNとCHGの代替モデルでは、CHG関連系統の推定寄与がわずかに高く、27±13%〜41±7%ですが、12集団のうち8集団はCHGとモデル化できません。銅器時代および青銅器時代集団では、イランCがイランNと類似の結果を示しますが、推定寄与の割合はより高くなります(34〜53%)。イランC自体は、イランNとバルシンN(37±3%)の混合としてモデル化でき、LC-LBAのモデル化の結果とよく一致します。対照的に、コーカサス集団、とくに銅器時代から青銅器時代(En/BA)集団は、ほとんどLC-LBに適合しません。

 バルシンNをテルクルドゥECと置換して、混合モデル化が繰り返されました。一般的にテルクルドゥECとのモデルは、LC-LBA集団とよく適合しますが、それはバルシンN(22個体)と比較してテルクルドゥEC(5個体)の標本規模がずっと小さいことに起因する、モデルと実際の対象集団との間の不一致を検出する統計的能力の低下の不自然な結果かもしれないので、注意が必要です。古代イラン集団とのモデルが複数のLC-LBA集団で適合しない一方で、テルクルドゥECとCHGの混合は、CHGの割合が13±19%から40±9%まで多様ではあるものの、バルシンCを除く全LC-LBA集団でモデル化できます。

 CHGを後のコーカサス集団と置換すると、同じくバルシンCを除いて、より高いコーカサス関連系統の寄与(40〜67%)を有する同じパターンが示されます。バルシンNを外群セットに追加後に分析を繰り返しても、ほとんどの結果は同じままでした。しかし、テルクルドゥECを有する同じ地域のLC-LBA2集団、つまりエブラEMBAとアララハMLBAはこのモデルから逸脱し、テルクルドゥECは単純な2者混合モデルでは適切な代理ではないかもしれない、と示唆されます。したがって、古代イラン集団は全体的に、コーカサス集団よりも代理として敵辣に機能するようですが、さらに比較するにはより高解像度のデータが必要です。

 ビュユッカヤECは、本論文のデータセットにおいては、アナトリア半島内でLC-LBA集団と類似の遺伝的構成を有する最初の個体です。したがって、後のLC-LBA集団がさらなる外部からの寄与なしに同じ遺伝子プールから派生した、という想定も検証されました。F4(ムブティ、X、ビュユッカヤEC、LC-LBA)統計からは、ビュユッカヤECがLC-LBA集団よりも、バルシンNのようなヨーロッパ・アナトリア半島農耕民とより多くのアレルを共有している、と示唆されます。同様に、バルシンNが外群に含まれる場合、ほとんどのLC-LBA集団はqpAdmでビュユッカヤECと姉妹集団としてモデル化できません。ほとんどのLC-LBA集団は、古代イラン/コーカサス集団の第二系統への追加により適切にモデル化されますが、アララハMLBAとエブラEMBAは、古代レヴァント南部集団からのかなりの寄与を必要とします。

 全体的に、qpAdm分析と組み合わせた、後期新石器時代および後期銅器時代集団の両方から得られた同じ混合年代の推定に基づくと、LC-LBA集団も新石器時代の遺伝的勾配から派生したものの、先行集団よりもかなり均質化していた、と示唆されます。イランの古代集団はコーカサス集団よりも東方の起源のより適切な代理となりますが、メソポタミア内からのまだ標本抽出されていない代理が、このイラン/コーカサス関連系統の真の歴史的起源集団を表しているかもしれないので、本論文の結果の字面通りの解釈は要注意です。


●青銅器時代レヴァント北部の遺伝的置換

 テルクルドゥとエブラとアララハの各遺跡により代表されるレヴァント北部は、4区分で最も顕著な遺伝的置換を示します。最後となる中期銅器時代テルクルドゥ1個体(テルクルドゥMC)の後の2000年以内に、アムク川流域内および周辺の集団(アララハMLBAとエブラEMBA)の遺伝的構成は、同時代のアナトリア半島人とほぼ同じに変化しました。しかし、ビュユッカヤEC とのqpAdmモデル化では、アララハMLBAとエブラEMBAは依然として、古代レヴァント南部集団とのつながりに関して、他のアナトリア半島集団と異なっている、と示唆されます。それらの違いはまた、エブラEMBA とアララハMLBA が、バルシンNやコーカサス集団のようなより古い集団との関係について他のLC-LBA集団とは異なっている、と示されるf4統計でも確認されます。

 さらに、バルシンN/テルクルドゥECおよび/もしくは古代コーカサス集団は、qpAdmではエブラEMBAおよびアララハMLBAを充分にモデル化できず、その仮定起源集団は真の祖先の適切な代理を表していない、と示唆されます。基底系統としてより古いテルクルドゥECと、地理的に近いアルスランテペLCとで、潜在的な代理起源集団として代替的なモデルを用いると、どちらも適合は改善されませんでした。しかし、混合モデルは、第三の起源集団としてレヴァント南部集団の追加により適切になり、この場合の各系統の割合は、テルクルドゥECが27〜34%、後のコーカサス集団が36〜38%、レヴァントEBAが28〜38%となります。

 テルクルドゥECの後の追加の遺伝子流動と一致して、アナトリア半島集団もしくはコーカサス集団の遺伝子プールを起源集団として用いると、アララハMLBAで他のLC-LBA集団よりも新しい推定混合年代が得られ、アナトリア半島LCとは78±27世代前(紀元前3880±746年前)、コーカサスEBAとは44±8世代前(紀元前3060±224年前)です。アナトリア半島LCもしくはコーカサスEBAのどちらかを一方、レヴァントCをもう一方の起源集団として用いると、指数関数的減衰は適合できませんでした。


●アララハにおける個体の移動性の証拠

 レヴァント北部のアララハMLBA全員の遺伝的分析は、主成分分析における外れ値のため、女性1個体(ALA019)を除いて行なわれました。ALA019は井戸の底で発見され、考古学的および人類学では、放射性炭素年代が紀元前1568〜紀元前1511年で、いくつかの治癒した外傷の証拠がある異常な埋葬を表している、と指摘されています。ユーラシア人の主成分分析では、ALA019は遺伝的に、古代イランおよびトゥーラン(現在のイランとトルクメニスタンとウズベキスタンとアフガニスタン)の銅器時代および青銅器時代個体群とより密接でした。これらの集団は西から東の遺伝的勾配を表しており、バルシンNおよびイランNおよびシベリア西部狩猟採集民(WSHG)と関連する系統のさまざまな割合を有しています。

 主成分分析で観察されたALA019の遺伝的類似性は、外群f3統計で確認されました。コーカサスおよび西方草原地帯の他の古代集団も高い類似性を示しますが、f4統計(ムブティ、X、トゥーラン、ALA019)からは、ALA019が他のトゥーラン個体群とは、多かれ少なかれイランNもしくはWSHGと時としてアレルを共有することにより区別されると示唆され、この地域における遺伝的勾配の存在と一致します。メソポタミア南部のような近隣地域からの古代ゲノムの欠如を前提にすると、ALA019の起源として最も他可能性が高いのは、イラン東部もしくはアジア中央部のどこかです。


●青銅器時代前のアナトリア半島とコーカサス南部全域の遺伝的均質化

 本論文は、年代では紀元前六千年紀以降を対象とし、シリア(レヴァント北部)とアナトリア半島は4000年、コーカサス南部は2000年に及びます。さらに、混合年代の推定により、新石器時代へと1000年さかのぼることが可能となりました。アナトリア半島西部(マルマラ海周辺地域)とコーカサス南部低地への後期新石器時代/前期銅器時代(紀元前六千年紀)の遺伝的勾配が明らかになり、この遺伝的勾配は後期新石器時代の開始(紀元前6500年頃)以降の混合過程により形成されました。この勾配の東端はアナトリア半島(西部の)系統をわずかに伴うザグロス山脈を超えて、銅器時代と青銅器時代のアジア中央部にまで達しました(関連記事)。南方では、アナトリア半島系統はレヴァント南部の新石器時代集団に存在し、北方でコーカサス(のおもに山岳地帯)の銅器時代および青銅器時代集団に存在し、これは後期新石器時代の混合の結果である可能性が最も高そうです。

 広範な地域の遺伝的均質化の証拠は、父系でのみ継承されるY染色体系統からも得られます。この地域の全ての時空間的集団では、Y染色体ハプログループ(YHg)はほぼ共通してJ1a・J2a・J2b・G2aです。低頻度のYHg-H2・T1aも加えて、これらは新石器時代までさかのぼるか、すでに上部旧石器時代に存在していた(関連記事)遺伝的遺産の一部を形成します。いくつかの注目すべき例外は裏づけに乏しいものの、それにも関わらず、長距離移動と拡張されたYHg多様性の重要な証拠を提供します。たとえば、YHg-R1b1a2(V1636)・R1b1a1b1b(Z2103)は17000年以上前に分岐したと推定されているので、アルスランテペ遺跡の主要な期間にポントス・カスピ海草原(中央ユーラシア西北部から東ヨーロッパ南部までの草原地帯)からの早期の侵入の直接的証拠はありません。アララハ遺跡のALA084個体で見つかったYHg-L2(L595)は、以前には銅器時代イラン北部の1個体と、コーカサス北部のマイコープ(Maykop)文化後期の3人で報告されていました。このYHg-L2の3人は、本論文で示された共通のアナトリア半島/イラン関連系統の勾配に由来する系統を有しており、コーカサス山脈北側の草原地帯の南端にも達する、広範な分布を示唆します。

 紀元前七千年紀の西から東への遺伝的勾配の形成の年代推定により、常染色体と父系・母系の単系統という両方の指標で観察されたこれらの遺伝的標識の文脈化が、人類の移動性と社会経済的慣行の変化という考古学的証拠を伴って可能となりました。紀元前6500〜紀元前6400年頃は、アナトリア半島新石器時代の重要な分岐点でした。なぜならば、以前には食糧生産共同体が皆無かほとんどなかった地域に、定住共同体の突然で大量の拡大が見られたからです。その後、コーカサス南部では、新石器時代生活様式が突如出現し、紀元前6000年頃となる外来の家畜動物と栽培種の導入は、近隣地域の新石器時代集団とのある種の相互作用と、最終的には侵入を示唆しており、その中でザグロス地域とカスピ海地域に沿ったアナトリア半島南西部は、新石器時代文化導入の最も適した候補地の一つでした。

 これらの事象に関連して、近東内の家畜化されたヤギ集団の遺伝的構造が崩壊し始め、銅器時代までには近東全域のヤギの群が、新石器時代東西両集団からの系統を有する、と明らかになりました。この混合の正確な年代は不明ですが、人類と家畜との間の類似から、家畜は交易ネットワークを通じてのみ移動したのではなく、人々と共にも移動し、それは物質文化やアイデアや慣行も同様だった、と示唆されます。これは、たとえばコーカサス南部の円形新石器時代建造物により示唆されており、メソポタミア北部でとティグリス川およびユーフラテス川流域のアナトリア半島側で紀元前六千年紀に発展しつつあった、ハラフ伝統を想起させます。

 後期青銅器時代までの続く数千年に、遺伝的連続性はアナトリア半島北部・中央部と東部で持続し、これは後の集団との遺伝的類似性と、新石器時代後の新たな系統の欠如により支持されます。これは、この時期の激しい文化的相互作用の考古学的証拠に基づく集団変化に関する、以前の仮説とは矛盾します。たとえば、トルコの黒海沿岸のイクジテペ遺跡には、強いバルカンとの類似性を有する物質文化が含まれており、これは黒海全域の集団との直接的接触を示す、と議論されてきましたが、これらの接触は遺伝子流動を伴わないようです。

 アルスランテペ遺跡は別の代表的事例を提供します。前期銅器時代の始まりにおいて、アルスランテペ遺跡の考古学的証拠は、コーカサスとのつながりを有する牧畜民集団によるアルスランテペの占拠につながった、破壊的な社会政治的紛争の存在を強く示唆します。主成分分析とf4統計では、この期間の2個体は、コーカサスとポントス・カスピ海草原からの集団との過剰な類似性を示しますが、後のアルスランテペEBA個体群は、このコーカサスとの類似性を共有していません。これは、仮定された人口の相互作用が一時的で小規模だったに違いないものの、アルスランテペEBAの小さな標本規模(4個体)が検出に充分ではなかったかもしれない、と示唆します。微妙な遺伝子流動はアルスランテペ遺跡の最近の知見と一致しており、アルスランテペ遺跡を占拠したEBA牧畜民は、コーカサスからの侵入集団というよりはむしろ、ザグロス山脈周辺を移動するよく確立された在来集団だった可能性の方が高い、と示唆されます。

 アルスランテペ遺跡の遺伝的景観は、メソポタミア世界との相互作用に関して重要な示唆も有します。考古学的証拠では、紀元前四千年紀にメソポタミア集団はアナトリア半島南東部とシリア北部に植民地を確立し、これはウルク拡大と呼ばれる期間です。しかし、ウルクの拡大は、在来エリート層の経済・政治・文化的関心をメソポタミア南部へと新たに向ける、社会文化的変化の複雑で深い過程でもありました。アルスランテペ遺跡の人工物はこの複雑さを反映しており、本論文で示された遺伝的継続性は、遺伝子伝達なしに、在来集団がこれらより広範なウルクの特徴とアイデアを採用した、という考えを支持します。


●レヴァント北部における集団と領域国家の動態

 アナトリア半島の他地域とは対照的に、レヴァント北部は遺伝的構造で新石器時代後の変化を追跡できる近東の地域として際立っています。エブラ遺跡とアララハ遺跡の人類の遺伝子プールは、コーカサスとレヴァント南部の両方からの追加の遺伝的寄与を必要とするより複雑なモデルによってのみ説明できる、と明らかになりました。本論文で提案されたモデルにおいてコーカサスと関連する起源集団の包含は、この置換がレヴァントへのコーカサス南部のクラ・アラクセス文化の拡大と関連しているのかどうか、という問題を提起します。この拡大はレヴァントで紀元前2800年頃に記録されており、アナトリア半島東部およびコーカサス南部高地からの移動/移住と関連しているかもしれません。しかし、本論文の結果はいくつかの理由でこの想定を支持しません。まず、アナトリア半島東部のようなクラ・アラクセス文化のおもな拡大地域において、コーカサス関連系統の実質的な増加は見つかりません。次に、コーカサス南部高地からの集団は、クラ・アラクセス文化関連個体群も含めて、第二起源集団としても適合しませんでした。最後に、コーカサス南部からレヴァント北部への提案されている拡大経路の中間に位置する集団である、アナトリア半島東部のアルスランテペ遺跡個体群とのモデルも同様です。

 その結果、これらの解釈上の警告は、テルクルドゥ集団と青銅器時代エブラおよびアララハ集団との間の2000年に起きたかもしれない、複数の遺伝子流動事象を含む、代替的な歴史的想定の検討を必要とします。しかし、文字記録や考古学的および古気候学的証拠からは、より短い期間、つまり前期銅器時代の終わりが、政治的緊張と集団移動に関してひじょうに重要だった、と示唆されます。たとえば、この期間には、中期青銅器時代の始まりにエブラ遺跡は2回破壊され、再建されました。前期銅器時代の終わりから後期青銅器時代まで、アムク川流域へと侵入する人類集団に言及する文字記録は広範に存在します。これらの集団はアモリ人やフルリ人などと呼ばれましたが、その(文化的)自己認識の形成背景や地理的起源に関しては、まだ議論が続いています。最近の仮説では、これらの集団の到来が4200年前頃の大旱魃における気候変動による集団移動と関連づけられており、この大旱魃はメソポタミア北部のハブール川前流域の放棄と、近隣の居住可能地域の探索へとつながった、と指摘されています。

 これを考慮すると、アララハとエブラで推定された系統は、まだ標本抽出されていないメソポタミア北部のEBA集団遺伝的構成を最もよく表しているかもしれない、と示唆されます。次の中期〜後期青銅器時代には、王国/帝国間の領土支配の動態の変化がエブラおよびアララハの社会文化的発展に影響を及ぼしたとしても、遺伝的混乱の証拠は見つかりません。それにも関わらず、アジア中央部起源の可能性があるアララハ遺跡の1個体の事例は、中期および後期青銅器時代の地中海東部社会の「国際主義」の文脈内で解釈できるかもしれない知見です(関連記事)。この現象のさまざまな社会的特徴と、これらが個人の生活史にどのように反映されているのか、ということに関して、今後の研究が必要です。


●まとめ

 全体的に、本論文の大規模なゲノム分析は、2つの主要な遺伝的事象を明らかにします。まず、後期新石器時代に、アナトリア半島とコーカサス南部にまたがる遺伝子プールが混ざり、混合勾配が生じました。次に、前期銅器時代に、レヴァント北部集団が、メソポタミアからのまだ標本抽出されていない近隣集団を含む可能性が高い過程で、遺伝子流動を受けました。アルスランテペ遺跡において微妙で一時的な遺伝子流動を検出できるとしても、均質な銅器時代および青銅器時代のアナトリア半島集団の遺伝子プール内の地域規模の集団動態と関連する問題の解明は、現在の分析手法では解決できないかもしれない、と本論文は認識しています。

 さらに、本論文の標本抽出は数と地理的範囲において以前の研究との比較で拡大していますが、メソポタミアの人類遺骸の重要な地域ではまだ標本抽出されていません。したがって、本論文で提示された近東の遺伝的景観は示唆的ですが、まだ不完全です。それにも関わらず、前期〜後期青銅器時代間のアナトリア半島とコーカサス南部とレヴァント北部の累積的な遺伝的データセットからは、後期新石器時代と前期青銅器時代の遺伝的事象に続いて、この地域では遺伝的に異なる集団の侵入はなかった、と示唆されます。この結論は、複雑な青銅器時代の社会政治的実体の形成についての我々の理解に関して、ひじょうに重要です。


参考文献:
Skourtanioti E. et al.(2020): Genomic History of Neolithic to Bronze Age Anatolia, Northern Levant, and Southern Caucasus. Cell, 181, 5, 1158–1175.E28.
https://doi.org/10.1016/j.cell.2020.04.044


https://sicambre.at.webry.info/202009/article_30.html

8. 2021年9月15日 10:28:15 : jmWOKHPVwU : WGhpRjRnMUNJV3M=[10] 報告
雑記帳
2021年09月15日
コーカサス現代人の起源とその移動経路
https://sicambre.at.webry.info/202109/article_15.html


 コーカサス現代人の起源とその移動経路に関する研究(Gavashelishvili et al., 2021)が公表されました。コーカサスはヨーロッパとアジア、黒海とカスピ海の境界線上にある山岳地帯です。コーカサスでは、地理的範囲が比較的小さく、ほぼ温暖な気候にも関わらず、自然景観や動植物種や栽培家畜品種の多様性はひじょうに高くなっています。この多様性のため、コーカサスは世界の生物多様性のホットスポットの一つであり、地球上の全言語のほとんどを占める、かなりの言語多様性も含んでいます。

 コーカサスは世界の重要な退避地の一部を提供しました。退避地では、ヒトも含めて陸生動植物のほとんどが一連の氷期極大期に生き残り、その現在の分布はおもに退避地からの氷期後の拡大を反映しています。これら氷期の退避地と移動への障壁はヒトの進化において重要な役割を果たし、現在世界で見られるヒトの遺伝的および民族言語的パータンのほとんどを生み出しました(関連記事)。コーカサスはヤムナヤ(Yamnaya)の遺伝的祖先系統(祖先系譜、ancestry)の約半分に寄与しました(関連記事)。つまり、ポントス・カスピ海草原(ユーラシア中央部西北からヨーロッパ東部南方までの草原地帯)の牧畜民です。

 この後期銅器時代から前期青銅器時代の牧畜民集団は、顕著な人口統計学的および文化的影響をユーラシアの大半に及ぼしました。たとえば、遺伝的影響やインド・ヨーロッパ語族や乗馬の拡大です(関連記事1および関連記事2および関連記事33)。インド・ヨーロッパ語族祖語は、コーカサスの古代語とポントス・カスピ海草原のウラル語族祖語の混合から生まれた、と仮定されています。したがって、コーカサスは過去と現在のユーラシアの遺伝的および文化的多様性の形成に重要な役割を果たしてきました。

 研究技術が進歩してより多くの標本が得られるにつれて、研究により、コーカサス人口集団の遺伝的変異と地理やさまざま民族性の指標との関連がさらに多く明らかにされてきました。コーカサスの常染色体ゲノムとミトコンドリアDNA(mtDNA)の変異は比較的均一に見えますが、Y染色体の多様性はコーカサスの東部と西部を区別する地理的不均一性を明確に示します。コーカサスにおけるこの東西の勾配は、ジョージア(グルジア)人を下位の民族集団に区別した場合、常染色体ゲノムの変異でも示されてきました。

 ゲノム規模の常染色体特性やミトコンドリアやY染色体のハプログループの研究から、現在のコーカサス南部では少なくとも13000年前頃となる上部旧石器時代後期にまでさかのぼる遺伝的連続性がある、と裏づけられます(関連記事1および関連記事2)。コーカサス北部では、この連続性はユーラシア草原地帯の人口集団との青銅器時代後の混合のため崩壊しました(関連記事)。現在、コーカサスにおける民族/下位区分民族集団間の遺伝的差異は、ヒトの移動の景観浸透性と相関しています。これは、民族的もしくは言語的境界というよりもむしろ、地形の険しさや森林被覆や降雪により決定されます。

 以前の研究の仮説は、次のようなものでした。コーカサス現代人の遺伝的構成はいくつかの異なる氷期退避地からのヒトの拡散により最終氷期と初期完新世に形成され、その後、大コーカサス山脈の人口集団間の遺伝子流動は、歴史時代にかなりの混合を経てきたコーカサスの他地域の人口集団間よりも少なかった、というものでした。退避地人口集団からのヒトの移動の性質を理解することが、この仮説を提示した研究の背後にある主要な動機でした。

 本論文は、コーカサスの現代の人口集団と過去の狩猟採集民人口集団との間のゲノム規模の遺伝的類似性を測定し、これらの人口集団間の遺伝的類似性が地理的特徴により決定されるのかどうか検証し、退避地人口集団のコーカサスへの主要な拡散経路を推測します。この研究の結果により、最終氷期から初期完新世を通じてのコーカサスの移住の全体像の再構築が可能となります。


●標本抽出と遺伝子型決定

 コーカサスの地理的および言語的に異なる集団の男性77人(表1)から標本抽出されました(図1)。その内訳は、ジョージアとトルコのカルトヴェリ語族話者、ロシア連邦との北西コーカサス語族話者とテュルク語族話者、ジョージア南部のジャヴァヘティ(Javakheti)州のアルメニア語話者で、アルメニア語話者は19世紀初期にトルコ東部のムシュ(Mush)とエルズルム(Erzurum)から逃れてきた人々の子孫です。各人口集団の遺伝的識別特性の代表制を最大化するため、標本は過去3世代にわたって各民族・地理的人口集団の外部からの祖先がいない地元の人々から収集されました。DNA標本は、常染色体693719ヶ所とX染色体17678ヶ所で遺伝子型決定されました。

 これらコーカサス現代人のゲノムデータに、既知のムブティ人10個体、上部旧石器時代から中石器時代の122個体のゲノムデータが組み合わされました。古代人の遺伝子型は、最終氷期極大期(Last Glacial Maximum、略してLGM)もしくは氷期退避地内に由来する個体が選択されました。古代人標本群は2000年間隔で区分され、次に地理単位でまとめられました(表2)。以下は本論文の図1です。
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●分析結果

 標本抽出された中で12個体は3親等と4親等の関係にあると推測されましたが、残りは無関係でした。標本抽出された現代人はほぼゼロ水準の近親交配を示しました。コーカサスの現代の人口集団間の平均Fst(遺伝的距離)は0.00951で、最大値はジョージアのヘヴスレティ(Khevsureti)集団(KHEVS)とジョージアのメスケティ(Meskheti)集団(MSKH)との間の0.027です。カルトヴェリ語族話者のAJARとSMGとIMRとKRTとKAKH(表1)の間では有意な違いはありませんでした。残りの集団は、これらの集団および相互と有意に異なっていました。現代人のデータのADMIXTURE分析では、全てのK値にわたってKHEVSとTUSHを他のデータと区別しました。K=2はKに応じて増加する交差検証誤差が最小でした。ADMIXTUREプロットは、南西と南(LAZとMSKH)から北と北東(CHCHNとKHEVSとTUSH)への勾配を示唆しました。

 主成分分析の第1軸と第2軸はアナトリア半島北東部(カルトヴェリ語族話者のLaz共同体)からコーカサス北東部(BalkarとKarachayとChechen共同体)への明確な勾配を示しました。大コーカサス山脈の主要な尾根の南側の人口集団は、北部の人口集団間よりも相互に密接に関連しています。北部人口集団は2つの明確なクラスタを示しました。それは、カルトヴェリ語族話者の北東部クラスタ(KHEVSとTUSH)と、北東コーカサス語族およびテュルク語族話者(CHCHNとBLKとKRCH)です。

 古代の人口集団を主成分分析の最初の2軸に投影すると、類似の勾配が生成され、アナトリア半島とレヴァントの古代の人口集団は古代のシベリアおよびヨーロッパの人口集団の反対側に位置します。これらの勾配では、レヴァントおよびアナトリア半島の古代の人口集団とアナトリア半島北東部の現代の人口集団が一方の端に、シベリアとヨーロッパの古代の人口集団とコーカサス北部の現代の人口集団がもう一方の端に位置します。古代のコーカサス狩猟採集民は現代のカルトヴェリ語族話者のSVNとSMGの変異の範囲内に収まりました。古代のアナトリア半島人とレヴァント人は現代の南カルトヴェリ語族話者(MSKH)とアルメニア語話者(ARM)の変異内に収まります。古代のシベリア人とヨーロッパ人は、大コーカサス山脈の主要な尾根の北側の人口集団(ChechensとBalkarsとKarachays)とより密接でした。

 一般的に、現代のコーカサスの人口集団は時空間的により密接なコーカサスの古代の人口集団と遺伝的により類似しており、この関係は現代の人口集団間の遺伝的違いをよく説明しました(図2および図3)。この類似性は、コーカサスとアナトリア半島とバルカン半島の初期の氷期後の人口集団で最高でした。コーカサス古代人の祖先系統はカルトヴェリ語族話者集団において最高で、ジョージア西部のイメレティア人(Imeretians)集団(IMR)とスヴァン人(Svans)集団(SVN)とメグレリアン人(Megrelians)集団(SMG)で最高に達します。つまり、古代コーカサス狩猟採集民(CHG)と地理的に最も近い人口集団です。

 アナトリア祖先系統は、ジョージア南部のカルトヴェリ語族話者であるメスヘティ人(Meskhs)集団(MSKH)およびラズ人(Lazs)集団(LAZ)と、トルコ北東部のインド・ヨーロッパ語族話者のアルメニア人集団(ARM)で最高でした。バルカンおよびシベリア祖先系統は、大コーカサス山脈の主要な尾根の北側の集団で最高に達します。つまり、ジョージア北東部のカルトヴェリ語族話者のトゥシェティ人(Tushs)集団(TUSH)と、ロシア連邦の北東コーカサス語族話者のチェチェン人(Chechens)集団(CHCHN)テュルク語族話者のバルカル人(Balkars)集団(BLK)です。以下は本論文の図2です。
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 コーカサス現代人と古代の人口集団との間のf3統計の遺伝的類似性は、最小コスト経路および最小コスト(LCD)の相互作用とこれら人口集団間の現在から過去への平均年代(BP)により最もよく説明されます。最良のモデルでLCDが示唆するのは、(1)ヒトの移動は地形の険しさ(TRI)により妨げられ、(2)ポスポラス・ダーダネルス海峡とイギリス海峡は障壁として機能せず、(3)沼地や氷河や砂漠は完全な障壁ではなかったものの、コスト節点の最高コストで浸透性があり、(4)砂漠の川辺と河川はTRI値で浸透性がある、ということです。つまり、コスト節点は、表3で特定された地理的特徴(2・4・6・8・10・12・14)の組み合わせでした。遺伝的類似性は一般的に、BPとLCDの減少につれて増加しました(図3)。以下は本論文の図3です。
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 このコスト節点により生成されたLCD.Dは、f4統計に基づく遺伝的類似性との最高の一致度を示しました(図4)。F3統計とLCDとの間、およびf3統計とBPとの間には全体的に負の相関がありました。f3統計とLCDとの間の部分相関は−0.297でした。LCDと遺伝的類似性との間の相関は、15950〜5950年前頃の期間ではひじょうに有意でした。25950〜17950年前頃となる氷期極大期には相関が低下しました。さらにさかのぼる25950年以上前には、ほとんどの場合で相関は有意ではありませんでした。以下は本論文の図4です。
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 本論文のモデルは、15950〜13950年前頃と39950〜37950年前頃となる古代の人口集団への遺伝的類似性と地理的近接性(景観浸透性の関数として)との間の不一致を示します(図3および図4)。コーカサスの全ての現代人標本は、最小コスト距離がより近いヨーロッパ中央部の15950〜13950年前頃の標本群とよりも同期間のアペニン山脈標本群(図1)の方と多くの遺伝的類似性を有しており、ラズとアルメニアの全ての現代人標本は、最小コスト距離がより近いヨーロッパ中央部の15950〜13950年前頃の標本群とよりも、同期間のアナトリア半島標本群の方と多くの遺伝的類似性を有ます。本論文のコーカサス現代人標本は、最小コスト距離がより近いバルカン半島の39950〜37950年前頃の個体よりもアジア東部の古代人個体の方とより多くの類似性を示しました。

 本論文のモデルは、ユーラシアとアフリカの古代の人口集団から現代のコーカサスの人口集団への最小コスト経路を生成しました(図5)。ヨーロッパとシベリアとアジア東部の古代の人口集団からの全ての最小コスト経路は、ヨーロッパ東部平原とカスピ海北西部沿岸とムツクヴァリ(Mtkvari)川(クラ川)の氾濫原を経て大コーカサス山脈の南側の人口集団に到達しました。大コーカサス山脈の南側の全ての古代の人口集団は、カスピ海西部沿岸もしくはボスポラス・ダーダネルス海峡とヨーロッパ東部平原を経て大コーカサス山脈の北側の人口集団に到達しました。

 アナトリア半島の古代の人口集団からコーカサスの人口集団のカスピ海流域への最小コスト経路は、ボスポラス・ダーダネルス海峡を横断し、ヨーロッパ東部平原とカスピ海西部沿岸とムツクヴァリ川の氾濫原を通りました。アフリカとレヴァントとアナトリア半島とイランのアルボルズ(Alborz)州からの最小コスト経路は、ポントス山脈を横断するか、アラス(Araxes)川およびムツクヴァリ川の氾濫原を通ってコーカサス南部に達しました。アフリカからの最小コスト経路は、コーカサスに到達する前にレヴァントに収束しました。以下は本論文の図5です。
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 Fstは、f3およびf4統計の最良の説明となる同じ地理的特徴に由来するLCDと最も強い相関がありました。Fstに基づく近隣結合樹は、(1)ジョージア西部とトルコ北東部のカルトヴェリ語族話者人口集団、(2)ジョージア南部とトルコ東部のカルトヴェリ語族話者およびアルメニア語話者、(3)コーカサス北部の北東コーカサス語族話者およびテュルク語族話者、(4)他とは遺伝的に最も異なる大コーカサス山脈北東部のカルトヴェリ語族話者でそれぞれ一まとまりとなります。

 ジョージア中央部(KRT)と東部(KAKH)の標本抽出されたカルトヴェリ語族話者人口集団は、最も混合していました。追加のマンテル検定では、Fstが古代の4人口集団(アナトリア半島とバルカン半島とコーカサスとシベリア)からの寄与における違いと有意に相関していた、と示されました。これら古代の人口集団からの寄与の違いは、LCDとも有意に相関していました。LCDを制御した部分的マンテル検定では、Fstと古代の寄与との間の相関は有意ではありませんでした。古代の寄与の制御では、FstとLCDの相関は有意に減少しました。マンテル検定では、LCDと古代の祖先系統がコーカサスにおける現代の遺伝的変異のほとんどを説明する、と示唆されました。


●考察

 本論文の結果は、コーカサスの現代の人口集団がコーカサスとアナトリア半島とバルカン半島の狩猟採集民からの検出可能な祖先系統を有している、と示唆します。コーカサス狩猟採集民(CHG)は現代のコーカサスの人口集団にとって主要な遺伝的寄与者です。CHGのアレル(対立遺伝子)の割合は、ジョージア西部の遺跡群と近接した地域の現代の人口集団で最高となり、そこではCHGの遺骸が発見されていて(関連記事)、この地域から離れると徐々に減少し、アナトリア半島およびヨーロッパの古代人のアレルにほとんどが置換されます。これらの遺跡はコルシック(Colchic)退避地内にあり、そこではコーカサスにおいてLGMを含む一連の氷期極大期をヒトが生き延びました。本論文のモデルは、氷期後の早期に他地域からコーカサスへの狩猟採集民の移住が増加した、と示します。

 アナトリア半島古代人のアレルはジョージア南部およびトルコ東部の現代人、つまりジョージアのメスケティ(Meskheti)州のジョージア人とラズ人とアルメニア人のゲノムで最も高い頻度となりますが、ヨーロッパもしくはバルカン半島の古代人のアレルは、コーカサス北部の現代の人口集団において最も一般的で、ヨーロッパの狩猟採集民が小アジアというよりもむしろヨーロッパ東部平原を横断してコーカサスに移住した、と示唆します。注目すべきことに、レヴァントのナトゥーフ文化(Natufian)とアトラス山脈(アフリカ北西部)の古代人のゲノムは、アナトリア半島古代人のように同じ現代の人口集団と最も高いアレル共有を示しており、古代アナトリア半島人口集団がコーカサスに拡大する前に、これらの人口集団間で何らかの混合があったことを示唆します。本論文の主成分分析投影におけるコーカサスの古代人および現代人の遺伝的勾配の類似性は、上部旧石器時代後期から現代までの遺伝的連続性を改めて確証します(関連記事)。本論文はこの現象の理由を明確に説明します。

 コーカサスの現代の共同体における古代のさまざまな人口集団(移住源)の痕跡は、(1)拡散の物理的障壁により重みづけされた地理的距離、および(2)古代の人口集団の年代とともに減少します。この兆候は、現代の人口集団間を個々の古代の人口集団との類似性により区別するのに充分な強さです。本論文の分析から示唆されるのは、上部旧石器時代および中石器時代の狩猟採集民の退避地人口集団の拡大は、起伏の多い地形や沼地や氷河や砂漠により大きく妨げられ、コーカサス現代人におけるこれら狩猟採集民の遺伝的遺産は、退避地の人口集団間の景観浸透性によりよく説明される、というものです。古代の遺伝的痕跡と景観浸透性との間の関係は、退避地人口集団が時間的にコーカサス現代人とより近ければより強くなり、特定の祖先的地域と関連する遺伝的痕跡が、遺伝的浮動とその後の混合事象の結果として消えていく、と示唆されます。

 本論文のモデルはひじょうに高い性能を示しましたが、15950〜13950年前頃と39950〜37950年前頃の古代の人口集団では、遺伝的類似性と地理的近接性(景観浸透性の関数として)との間の不一致を説明できませんでした(図3および図4)。コーカサスの全ての現代人標本は、地理的により近い15950〜13950年前頃のヨーロッパ中央部標本よりも、同年代のアペニン山脈標本の方と多くの類似性を有しており、ラズとアルメニアの全ての現代人標本は、地理的により近い15950〜13950年前頃のヨーロッパ中央部標本よりも、同年代のアナトリア半島標本の方と多くの類似性を有しています。これはおそらく、氷期後初期のアナトリア半島狩猟採集民とコーカサスおよびヨーロッパの狩猟採集民との混合、およびこの時期のアジア東部(ユーラシア東部)狩猟採集民とヨーロッパ狩猟採集民との混合に起因します。

 これらの混合事象が本論文の景観浸透性と組み合わされた結果、コーカサス狩猟採集民の遺伝的痕跡を有するアナトリア半島古代人が、ヨーロッパ中央部狩猟採集民に対してよりも、ポスポラス・ダーダネルス海峡およびバルカン半島を通ってアペニン山脈の狩猟採集民へと多くの遺伝的影響を与えた一方で、ヨーロッパ中央部狩猟採集民はユーラシア草原地帯を通じてアジア東部(ユーラシア東部)狩猟採集民からより多くの遺伝的影響を受けた、と示唆されます。これら東方から西方への混合事象は、技術的発展もしくは自然選択を通じての利点(たとえば、致命的な感染症への耐性)を通じて促進されたかもしれず、現代の人口集団の本論文の標本を、ヨーロッパ中央部の古代の人口集団よりもアナトリア半島とアペニン山脈の古代の人口集団の方とより密接に関連させます。

 39950〜37950年前頃となる古代の人口集団の本論文の標本は、バルカン半島とアジア東部の単一個体によりそれぞれ代表されます。コーカサス現代人の本論文の標本が、地理的により近いバルカン半島の39950〜37950年前頃の1個体とよりも、同じ年代のアジア東部の1個体の方とより多くの類似性を示すことは、二つの想定により説明できます。一方は、このバルカン半島の個体がどこかから移動してきて、あらゆる現代の人口集団に遺伝的に寄与しなかった、と示される場合です。もう一方は、現生人類がヨーロッパに45000年前頃に到来した時とLGMとの間で、気候が最も穏やかだった39950〜37950年前頃に、ユーラシア東西間でより多くの遺伝子流動があり得た場合です。

 この遺伝子流動は、バルカン半島のこの1個体が旧石器時代および中石器時代のヨーロッパ人よりもアジア東部人の方と密接に関連している、という事実により支持されますが(関連記事)、ロシア西部の同年代の1個体は、アジア東部人よりも後のヨーロッパ人の方と密接に関連しています(関連記事)。氷期極大期には、起源となる人口集団はひじょうに断片化され、相互の遺伝子流動はなかったか限定的で、氷期退避地で生き延び、そこから人口集団が温和な気候期に拡大し、過酷な気候期には縮小して戻りました。したがって、本論文のモデルは、もし古代の人口集団間でその人口集団内よりも多くの遺伝的非類似性があるならば、コーカサス現代人における古代の人口集団の遺伝的遺産をよりよく説明します。

 現在でさえ、コーカサスの現代の人口集団間の遺伝的類似性(Fst)は、これらの人口集団間の接続地間の最小コスト距離と有意に相関しており、限定的な標本および遺伝的指標に基づく以前の研究と一致します。現代の人口集団間の遺伝的類似性は、同じ地理的特徴により重みづけられた最小コスト距離に最も強く対応しており、その地理的特徴は、古代と現代の人口集団間の遺伝的類似性を最もよく説明します。しかし、過去のメタ集団間の状況を考慮しなければ、現代の人口集団間の景観浸透性でコーカサスの現在の遺伝的構造の変異のかなりの部分を説明することはできません。

 大コーカサス山脈および小コーカサス山脈とポントス山脈の両方は、コーカサスを通っての推定されるヒトの移動をかなり妨げた、と示唆されます。大コーカサス山脈はヒトの移動にとって大きな障壁をもたらし、遺伝的多様性の南北の勾配と一致します。遺伝的分化は大コーカサス山脈の主要な尾根の南北の人口集団間で最も強く、大コーカサス山脈が最終氷期以降ヒトの拡散にとって重要な物理的障壁だったことを再度示唆します。しかし、大コーカサス山脈の同じ側の人口集団間の顕著な違いもあり、不均一な景観を通って入ってくる移民への異なる接触を示唆します。

 カスピ海の西側は、黒海の東側よりもヒトの移動にとってより浸透性があったようです。ヨーロッパとシベリアとアジア東部からの最小コスト経路のどれも、黒海の東側を通りませんでした。黒海の東側は、北は大コーカサス山脈、南は小コーカサス山脈とポントス山脈に囲まれていますが、カスピ海の西側はほとんど開けています。コーカサスの東端と西端との間の違いが、コーカサスにおけるY染色体と常染色体ゲノムの変異の東西の勾配を説明します。

 本論文では、コーカサスの他の民族集団の標本が対象とされておらず、もしそれらの民族から標本が得られていたならば、コーカサスの遺伝的構造についてより多くの情報が得られたはずです。しかし、得られた標本は本論文の仮説の検証には充分でした。これまでの研究は、現在の多くの共同体における古代の人口集団のゲノム規模の祖先系統を測定してきました。しかし、本論文が把握している限りでは、さまざまな地理的特徴の機能としての景観浸透性への現代と古代の人口集団間のゲノム規模遺伝的類似性の関係を推定し、退避地人口集団からの主要な拡散経路を推測したのは、本論文が初めてです。本論文のモデルは、コーカサスだけではなく他の地域との関連においても、先史時代の事象の拡散と移住の経路の年代を定めて地図を作成することに役立てます。異なる遺伝的痕跡の古代の供給源からの重みづけされた地理的距離と、この供給源との遺伝的類似性との間に有意な負の相関があることは、特定の経路で特定の年代に移住したことの証拠とみなせます。


参考文献:
Gavashelishvili A. et al.(2021): Landscape genetics and the genetic legacy of Upper Paleolithic and Mesolithic hunter-gatherers in the modern Caucasus. Scientific Reports, 11, 17985.
https://doi.org/10.1038/s41598-021-97519-6

https://sicambre.at.webry.info/202109/article_15.html

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