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ハンガリー人の起源
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/302.html
投稿者 中川隆 日時 2020 年 9 月 01 日 20:20:40: 3bF/xW6Ehzs4I koaQ7Jey
 

(回答先: ドイツ人の起源 投稿者 中川隆 日時 2020 年 9 月 01 日 15:14:48)


ハンガリー人の起源


雑記帳 2019年07月28日
ハンガリーとウラル地域の父系のつながり
https://sicambre.at.webry.info/201907/article_54.html


 ハンガリーとウラル地域の父系のつながりに関する研究(Post et al., 2019)が公表されました。ウラル語族集団は現在、シベリア西部からヨーロッパ北東部までユーラシア北部の広範な地域に存在します。約1300万人の話者がいるハンガリー語もウラル語族の一派ですが、現在、その話者であるハンガリー人(マジャール人)は他のウラル語族集団と離れた地域に居住しています。ハンガリー語と最近縁の言語は、ヨーロッパ中央部のハンガリーから遠く離れたシベリア西部に居住する集団のマンシ(Mansi)語およびハンティ(Khanty)語で、ハンガリー語も含めてこれらはウゴル諸語を形成します。ハンガリー語は、紀元後千年紀の後半にテュルク語族のいくつかより強い影響を受けました。

 言語学と考古学から、ハンガリー人の起源はシベリア西部にある、と考えられてきました。しかし、ハンガリー人は遺伝的に、近隣のインド・ヨーロッパ語族集団とひじょうに類似しています。これは、常染色体でもY染色体DNAでもミトコンドリアDNA(mtDNA)でも同様です。対照的に、ハンガリー人は言語では近縁となるウラル語族の大半とはとくに強い遺伝的関連を示しません。これは、ハンガリー人の祖先が紀元後9世紀末頃にカルパチア盆地に到達し、過去1100年間の異なる集団間の均質化の過程により遺伝的構造が大きく変化した、という以前からの人類学の知見と一致します。

 古代mtDNA研究からは、ハンガリーの征服者たちと、アジア内陸部やヨーロッパ北部および東部やロシア中央部やオビ川とエルティシ川の間の地域の現代人との、強い遺伝的類似性が明らかになりました。また、紀元後8〜9世紀にカルパチア盆地に存在したアヴァール人に関しては、推定上のハンガリー人の祖先より明らかに多かった、と考えられています。アヴァール人の庶民のmtDNAとアヴァールおよびスラヴの混合墓地から、アヴァール人の庶民はアジア系集団よりも中世ヨーロッパ集団の方と遺伝的には顕著に近縁と明らかになりました。これは、アヴァール人支配層が母系では庶民に影響を及ぼさなかった、と示唆します。父系的な支配集団が形成されていた、ということでしょうか。

 紀元後6〜7世紀となるハンガリーのソラッド(Szólád)遺跡の埋葬者21人のY染色体DNAハプログループ(YHg)は、常染色体から推測される地域パターンとおおむね一致し、おもにヨーロッパ中央部および南部のYHg(E・I1・I2a2・T・R1a・R1b)に分類されます(関連記事)。近隣地域からカルパチア盆地への多くの移住を考慮に入れると、現代ハンガリー人の遺伝的構成が近隣集団とひじょうに類似しているのはよく了解されます。しかし、現代ハンガリー人の遺伝的構成に、東方の起源地であるウラル地域からの遺伝子流動が反映されているのか、という問題は残ります。

 そこで注目されているのがYHg-Nで、ウラル語族の拡大と関連している、と考えられてきました。これまで、YHg-N3はヨーロッパ中央部の現代のインド・ヨーロッパ語族集団では報告されていませんが、現代ハンガリー人では4%ほどとなり、他のウラル語族集団より低い割合となっています。YHg- N3a4は、ハンガリー人とマンシ人およびハンティ人というウゴル語族集団とを関連づけるサブクレードではなかい、と以前より考えられてきました。紀元後9〜10世紀のハンガリーの人類集団はYHg-Nのサブクレードに分類され、その中にはYHg- N3a4も確認されています。

 また、ハンガリーの古代人のDNA研究では、mtDNAハプログループ(mtHg)にアジア東部起源のものがあることも確認されています。mtHgでは、古代のハンガリーの人類集団は、ヴォルガ・ウラル地域のテュルク語族系の現代バシキール人(Bashkirs)との類似性が指摘されていました。バシキール人は、テュルク語族とウゴル語族とインド・ヨーロッパ語族の各集団の混合と考えられています。本論文は、初めてハンガリー人の高網羅率のY染色体DNA配列データを用いて、ウラル山脈およびシベリア西部地域の集団と比較し、YHg- N3a4の分岐年代を推定し、その時空間的な分散パターンを明らかにしています。

 YHg- N3a4は、B535とB539というサブクレードに二分されます。両者の分岐は4200年前頃と推定されています。B539はさらにB540とB545に分岐し、その年代は4200年前頃と推定されています。B540は、マンシ人およびハンティ人集団のサブクレードと、ハンガリー人およびバシキール人のサブクレードに区分されます。両者の推定分岐年代は3900年前頃です。B545はハンガリー人とバシキール人とタタール人(Tatars)のサブクレードに区分されます。B540とB545の拡大は、ともに2900〜2700年前頃に始まった、と推定されています。YHg- N3a4のハンガリー人は全員B539サブクレードに分類され、オビ・ウゴル諸語のマンシ人およびハンティ人、ヴォルガ・ウラル地域のテュルク語族のバシキール人およびタタール人も含まれます。YHg- N3a4が比較的高頻度で見られる地域は、サブクレードB535がフィンランド人を中心としたヨーロッパ北東部で、サブクレードB539がウラル山脈南方です。この二つのサブクレードの地理的分布パターンには、明らかに違いがあります。B539にはB540とB545というサブクレードがあり、ハンガリー人とバシキール人では両方見られます。

 上述のように、考古学でも言語学でも、ハンガリー人の起源がウラル山脈の東のシベリア西部だと考えられてきました。ヴォルガ・ウラル地域におけるその起源としては、紀元後6〜8世紀のカシュナレンコヴォ(Kushnarenkovo)文化集団、それに続く紀元後9〜10世紀のカラヤクポヴォ(Karayakupovo)文化集団が想定されてきました。考古学的証拠からは、ハンガリー人の祖先集団(古マジャール人)の一部は紀元後9世紀半ばに西方へと移動し、現在のウクライナとなるドニエプル川下流地域に出現した、と推測されています。しかし、紀元後11〜13世紀のチヤリクスカヤ(Chiyalikskaya)文化の遺跡からは、ウラル地域における古マジャール人の存続が支持されます。さらに、他の証拠からも、古マジャール人はウラル地域で紀元後13世紀まで存続していた、と指摘されています。ハンガリー人の東方の故地は古代ハンガリーと呼ばれ、ハンガリーの初期の年代記で言及されています。

 YHgは通常、滑らかな分布パターンを示しますが、YHg- N3a4のサブクレードB539の分布は独特です。古代DNA研究により、YHg- Nは新石器時代の中国とバイカル湖地域において、すでに6000年以上前に高頻度で多様である、と明らかになっており、その起源はユーラシア東部と考えられます。YHg- N3a4-B539は、ウラル地域とシベリア西部が中心的な分布地域ですが、低頻度ながら遠く離れたハンガリーで見られ、その間ではほとんど確認されていません。シミュレーションにより、ランダムな遺伝的浮動モデル、ヨーロッパとウラル山脈地域およびシベリア西部との間の単一の移住モデルは棄却されています。カルパチア盆地のハンガリーでは、紀元後10世紀の征服者の墓地でYHg- N3a4が確認されており、この頃のハンガリーの征服者の少なくとも一部がウラル地域起源だったことを示唆します。

 バルト海地域で高頻度のYHg- N3aでは、明確な南北の頻度勾配傾向が見られます。YHg- N3a3-VL29はエストニア人とラトヴィア人の間では高頻度で、ウクライナ人の間でも検出されます。これはYHg- N3aの分布の西端となり、ハンガリー人でも同様の分布が予想されますが、ハンガリーにも低頻度ながら存在するYHg- N3a4-B539とそのサブクレードの事例は異なります。ヴォルガ・ウラル地域、シベリア西部、それらから地理的に遠いハンガリーにおけるYHg- N3a4-B539の存在は、段階的な頻度勾配で説明するのは容易ではなく、現代ハンガリー人の祖先集団(古マジャール人)の移住が想定されます。

 サブクレードB 540内のマンシ人およびハンティ人とハンガリー人およびバシキール人との分岐は2900〜2700年前頃に始まったと推定されており、これはオビ・ウゴル諸語とハンガリー語の分岐を紀元前10世紀に起きたと推定する言語学的データと一致します。ただ、ウラル語族系統樹の最近の言語学的復元では、ウゴル語族系統の推定分岐年代の幅が、4900〜1700年前とより広くなっています。シベリア西部では寒冷気候の最盛期が紀元後8〜9世紀で、その結果としていくつかのシベリア西部集団が移動したか可能性も指摘されており、古マジャール人の西進はこれで説明できるかもしれません。

 上述のように、現代ハンガリー人におけるYHg- N3a4- B539の頻度は低いのですが、紀元後9世紀後期〜10世紀早期のハンガリーの墓地ではその頻度が26.3%と高いので、ウラル山脈地域の古マジャール人におけるYHg- Nの割合は顕著に高かったかもしれません。また、ウラル山脈地域周辺の古マジャール人の起源として、カシュナレンコヴォ文化およびカラヤクポヴォ文化が指摘されていることから、両文化の人類集団のY染色体および常染色体の多様性の研究が、ハンガリー人の人口史への新たな洞察を提供できるだろう、と本論文は指摘しています。ハンガリーの言語状況は、男性主体の父系的な集団による征服の結果として説明できるかもしれません。こうした事例は人類史において普遍的だったのではないか、と私は考えているのですが(関連記事)、まだ明らかに勉強不足なので、今後も地道に調べていくつもりです。


参考文献:
Post H. et al.(2019): Y-chromosomal connection between Hungarians and geographically distant populations of the Ural Mountain region and West Siberia. Scientific Reports, 9, 7786.
https://doi.org/10.1038/s41598-019-44272-6


https://sicambre.at.webry.info/201907/article_54.html  

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コメント
1. 2020年11月24日 10:09:22 : s0KWgdgip6 : Wm12b1o3YzVJYms=[5] 報告
2020年11月23日
ウラル地域の中世初期人類の遺伝的データとハンガリーとの関係
https://sicambre.at.webry.info/202011/article_30.html


 ウラル地域の中世初期人類の遺伝的データとハンガリーとの関係についての研究(Csáky et al., 2020)が公表されました。ウラル地域は多くの移住に関わっており、それはヨーロッパの歴史も形成しました。こうした事象の考古学的痕跡は、中でもウラル南部地域の中世初期の墓地に見られます。数百基の墓を有する小さくまとまった墓地はウラル地域の典型で、豊富な考古学的発見がありました。考古学・言語学・歴史学の議論によると、現代ハンガリー人集団の民族的起源はウラル地域にさかのぼれます。

 言語学的証拠に基づくと、ウラル語族のウゴル諸語に属するハンガリー語は、ウラル山脈の東側で紀元前1000〜紀元前500年頃に現れました。文字記録と言語学的情報と考古学的議論によると、紀元後6世紀(以下、紀元後の場合は省略します)の後、ハンガリー人の先駆者の一部が、その故地からウラル地域西部(シスウラル地域)へと移動しました。9世紀の第1三半期頃、シスウラル地域集団の一部がヴォルガ川を渡り、ドニエプル・ドニエストル地域のハザール・カガン(Khazarian Khaganate)の近くに定住しました。初期ハンガリー人は、895年に起きたカルパチア盆地の征服までヨーロッパ東部に居住し、いわゆるスボッツィ(Subbotsy)考古学的層を形成します。10世紀のカルパチア盆地の物質的特徴は、征服後の急速な変化で、ヨーロッパ東部地域との維持された文化的つながりには、多くの間違いない考古学的証拠があります。

 ウラル地域の先史時代から中世の集団の遺伝的歴史は、これまでほとんど調べられてきませんでした。他方、中世カルパチア盆地の集団は、父系・母系での単系統遺伝標識の観点から集中的に研究されてきました。最近の研究では、ハンガリーの早期征服期の墓地から102人のミトコンドリアゲノムが報告されました。その研究では、草原地帯遊牧民(アジア中央部のスキタイ人)とヨーロッパ東部のスルブナヤ(Srubnaya)文化集団の子孫との混合集団が、ハンガリーの征服者の遺伝的構成の基礎だったかもしれない、と示唆されています。また、アジアのフン人(フン族)とハンガリーの征服者の遺伝的つながりも推測されています。ただ、調査された中世の標本セットは征服者集団全体を表しておらず、標本の76%はハンガリー北東部の特別な遺跡複合であるカロス・エパージェッスゼーグ(Karos-Eperjesszög)に由来しています。これは、ハンガリー征服期の最重要遺跡の一つで、東方の特徴についても多くの発見がありました。結論は大規模ですが、最も強調されたスルブナヤ文化集団とのつながりは曖昧です。それは、ハンガリー人の考古学的遺産の最初の痕跡が現れる2000年以上前に存在していたからです。さらに、匈奴(フン人)の遺伝的データセットのようなさらに言及された関係はユーラシアではわずかで、フン人の遺伝的遺産はまだ特徴づけられていません。

 最近の別の二つの研究は、ハンガリーの征服者のY染色体ハプログループ(YHg)の変異度を調査し、征服者の支配層集団の父系は、ヨーロッパ人やフィン・ペルム諸語話者やコーカサス人やシベリア人(もしくはユーラシア東部人)の割合がかなり高く、異質だと報告しています。これらの研究は、ハンガリーの征服者は離れた3集団に起源がある、と主張します。それは、内陸アジア(バイカル湖地域〜アルタイ山脈)、シベリア西部〜ウラル南部(フィン・ウゴル語派話者)、黒海〜コーカサス北部(コーカサス北部テュルク人、アラン人、ヨーロッパ東部人)です。これらの研究では、フィン・ウゴル語派話者でも頻繁に存在する、YHg-N1a1a1a1a2(Z1936)の存在が指摘されています。YHg-N1a1a1a1a2(旧N3a4)は、現代ハンガリー人でも4%ほど存在します。また別の研究では、YHg-N1a1a1a1a2の詳細な系統が復元されており、特有の下位系統が特定の民族集団に共有されている、と示されています(関連記事)。たとえば、N1a1a1a1a2a1c2(Y24365/B545)はタタール人とバシキール人(Bashkir)とハンガリー人に共有されており、ヴォルガ・ウラル地域の現代人とハンガリーの現代人とを結びつけます。

 ウラル語族話者現代人集団の以前のミトコンドリアDNA(mtDNA)研究では、ユーラシア東部および西部のmtDNA系統の分布は、語族の障壁というよりはむしろ地理的距離により決定される、と示唆されました。たとえば、ヴォルガ・ウラル地域のフィン・ウゴル語派集団は、言語学的に関連するバルト・フィン民族集団よりも、テュルク語の近隣集団の方と類似しているようです。ウラル語族15集団に関する最近の研究では、同様に近隣集団との類似性が報告されていますが、シベリア人起源の可能性がある遺伝的要素の共有も指摘されています。現代ハンガリー人の一部のミトコンドリア系統はシベリア人起源かもしれませんが、ハンガリー人の遺伝子プールは他のウラル語族話者とは異なります。

 本論文のおもな目標は、考古遺伝学的手法により、ウラル地域の中世初期集団に関する現在の一連の考古学的知識を拡大することです。ウラル地域からの36人の標本の収集において、最重要の意図は、文化的かつ年代的に(直接的もしくは間接的)にハンガリー人の祖先とつながる、専門的に発掘され適切に報告された、ウラル南部地域の墓地からのみ被葬者を集めることです。トランスウラル地域から標本抽出されたウェルギ(Uyelgi)墓地は、10世紀のカルパチア盆地の考古学的特徴と最も類似していました。後期クシュナレンコヴォ(Kushnarenkovo)文化の墓地は、8世紀末から11世紀にかけて使用されました。

 考古学と歴史学の理論はやや多様なので、ウラル山脈西側(シスウラル地域)のカマ川中流に位置する中世初期の考古学的文化の広範囲を包含することが目的とされました。これまでの研究では、8〜9世紀のネヴォリノ(Nevolino)文化の終焉がハンガリー人の祖先の西方への移住と関連づけられています。したがって標本抽出は、3〜4世紀のブロディ(Brody)、5〜6世紀のバーティム(Bartym)、7〜8世紀のスホイログ(Sukhoy Log)という、ネヴォリノ文化の3段階全てで行なわれました。

 さらに、南方の近隣のネヴォリノ文化との密接な文化的つながりのあるロモヴァトヴォ(Lomovatovo)文化の、南部の異形を表す9〜10世紀のバヤノヴォ(Bayanovo)墓地が調査されました。バヤノヴォの豊富に供えられた墓の標本抽出は、骨の保存状態が悪いため、制限されました。さらに、調査されたウラルの個体群の一部を伴う、mtDNAの同一の超可変領域1(HVRI)に基づいて以前の研究で選択された、カルパチア盆地のミトコンドリアゲノムに関して、10〜12世紀の古代ハンガリー人から9標本が再分析されました。

 本論文のおもな目的は、3〜11世紀のウラル南部地域の集団の父系の遺伝的構成を特徴づけ、ユーラシアの利用可能な古代人および現代人の遺伝的データセットと結果を比較することです。また、ウラル集団とカルパチア盆地の征服期集団との間の、潜在的な遺伝的関係の報告も目的とされました。以下、本論文で分析対象とされた個体が発見された遺跡の場所と文化区分とその年代を示した図1です。
画像


●DNA解析

 標本は29人の男性と16人の女性から構成されます。mtDNA全体と、3122ヶ所の核DNAの一塩基多型標的濃縮が実行されました。後者では、常染色体およびY染色体の一塩基多型が得られ、ウラル地域の5ヶ所の異なる墓地と現代のハンガリーの6ヶ所の埋葬地に由来する、45人の性別が決定されました。さらに、ウラル地域の20人の男性のY染色体縦列型反復配列(Y-STR)が調査されました。放射性炭素年代と安定同位体データも得られました。

 45人の高網羅率(8.71〜154.03倍で平均71.16倍)のミトコンドリアゲノムが得られました。この新たなデータセットは、mtDNAハプログループ(mtHg)では9マクロハプログループ(A・ C・D・H・T・U・N・R・Z)から構成されます。ユーラシア西部起源と推定されるmtHgはU(U2e1・U3a1・U4a1d・U4b1a1a1・U4d2・U5a1a1・U5b2a1a1、計12人)、H(H1b2・H3b・H40b、計9人)、N(N1a1a1a1a、計5人)、T(T1a1・T1a2・T2b4h、計5人)により表されますが、系統分析からは、そのうち一部が東方起源と示されます。ユーラシア東部起源と推定されるmtHgは、A(A+152+16362・A12a、計4人)、C(C4a1a6・C4a2a1、計6人)、D(D4j・D4j2、計2人)、R11b1bとZ1a1aが1人ずつです。

 ハンガリーの征服者はウラル地域の特定の古代人とのmtDNAのHVRIの一致に基づいて選択されましたが、ミトコンドリアゲノム水準では同一と証明されていません。しかし、関連標本とは系統的に近いままです。いくつかのミトコンドリア系統関係は、トランスウラル地域とシスウラル地域をつなげます。たとえば、ウェルギとスホイログの標本はmtHg-A+152+16362の主要な系統に集まり、さらにウェルギとブロディの標本(mtHg-D4j2)、およびウェルギとバーティムの標本(mtHg-U4d2)は、同様に同じ主要な系統に位置します。

 ミトコンドリア系統とは対照的に、STR および・もしくは一塩基多型データに基づくY染色体の遺伝子プールは、本論文のデータセットでは均一な構成を示します。YHgの内訳は、N1a1(M46)が83.3%、G2a2b2a1a1a1b(L1266)が5.5%、J2が5.5%、R1bが5.5%です。ウェルギ墓地の19人の男性のうち13人はさまざまなDNA保存状態の下位区分のYHg-Nを有していますが、シスウラル地域では、YHg-N1a1の3系統が検出されました。スホイログとバーティムのシスウラル地域標本は全体的に保存状態が悪く、さらなるY染色体に基づく分析はできませんでした。


●母系とゲノムデータの比較集団分析

 ハンガリーの征服者は、mtHgに基づく主成分分析ではシスウラル地域集団に最も近く、アジア中央部およびヨーロッパ東部のスキタイ集団ではウェルギ集団の比較的近くに位置します。それは、これらの古代人集団がユーラシア東西両集団の混合だからです。シベリア西部のマンシ(Mansi)およびハンティ(Khanty)集団のような、アジア中央部および南部とフィン・ウゴル語派現代人集団の一部は、調査されたシスウラル地域およびウラル地域の集団と密接なつながりを示します。ミトコンドリアゲノム分析では、古代人13集団のシスウラル地域の有意な違いは示唆されず、その中で、ハンガリーの征服者は最小の遺伝的距離を示します(FST=0.00224)。ハンガリーの征服者と調査されたウラル地域の2集団との遺伝的距離は、その地理的距離と相関しません。ウェルギ集団とハンガリーの征服者との間の遺伝的距離は、ウェルギと地理的により近いシスウラル地域の集団間よりも小さくなっています。

 古代人28集団のMDS(多次元尺度構成法)プロットによると、シスウラル地域集団はとりわけ中世ハンガリーの征服者集団との類似性を示し、ヨーロッパ集団とアジア集団との間に位置します。ウェルギ地域集団は全ての古代人集団から比較的離れたプロットのアジア部分に位置し、(アジア中央部の後期鉄器時代集団を除く)古代人集団からの有意でより大きな遺伝的距離と、アジアの比較ミトコンドリアゲノムデータセットの不足に起因する可能性が高そうです。シスウラル地域集団とハンガリーの征服者との遺伝的関係は明らかですが、直接的なつながりというよりは、以前の居住地域の地理的近接性を示唆します。以前の研究では、ハンガリーの征服者のミトコンドリアゲノムの多様性は、本質的にスルブナヤ文化関連遊牧民集団とアジアの遊牧民集団との混合の結果として報告されています。その分析と解釈は、ウラル地域の古代人標本の欠如に制限されていましたが、本論文で示された新たなデータは、この以前の見解を洗練します。さらに、以前に研究されたハンガリーの征服者集団が、移民だけではなく、カルパチア盆地の在来混合系統も含む混合起源の遺伝子プールであることは、注目に値します。

 シスウラル地域集団は、アジア中央部高地の現代人4集団、近東およびコーカサス地域のさらなる7集団、ヨーロッパの6集団からの有意ではない遺伝的距離を明らかにし、この集団の混合的な特徴が示唆されます。興味深いことに、ウェルギ地域集団のミトコンドリアは遺伝的距離において、広範な系統発生的つながりにも関わらず、ハンガリーの征服者を含むほぼ全ての先史時代および現代の集団で有意な違いを示し、これは集団内の関連系統の多さと、ユーラシア東西のmtHgの混合的特徴により説明できます。

 ウェルギ地域の5標本からの10928個の核ゲノムの一塩基多型と、ショットガン配列データで524301個の一塩基多型で主成分分析が行なわれました。主成分分析は、現代人集団の地理的位置を反映しています。PC1軸は、ユーラシア東西を分離し、アジア中央部人はその中間に位置します。PC2軸はヨーロッパ人をアジア南西部人と、ユーラシア東部人を南北の勾配に分離します。ウェルギ地域の5標本は、核ゲノムの主成分分析ではヨーロッパ人集団とアジア人集団との間で中央に集団化します。

 ウェルギ地域の5標本はウラル語族の傾向に沿っており、現代シベリア中央部のマンシ人(Mansis)およびセリクプ人(Selkups)だけではなく、草原森林地帯の北部集団のバシキール人(Bashkirs)やタタール人とも近くなっています。PC3軸では、シベリアのタタール人はウラル地域個体群クラスタと最も近い集団です。他の古代人集団が主成分分析で投影されると、ウェルギ地域の5標本はアルタイ地域の青銅器時代のオクネヴォ(Okunevo)集団や、カザフスタン中央部草原地帯の青銅器時代集団とクラスタ化し、ロシアの中期青銅器時代ボリショイ・オレーニ・オストロフ(Bolshoy Oleni Ostrov)集団(関連記事)の近くに位置します。言語学的勾配(関連記事)に基づくと、ウェルギ集団はユーラシア中央部草原地帯のウラル語族話者個体群とテュルク語族集団との間に位置します。

 主成分分析は集団層序化を明らかにしない可能性があるので、教師なしADMIXTURE(K=16)が実行されました。平均して22450個の一塩基多型を有するウラル地域標本は、現代のマンシ人、イルツーク・バラビンスク(Irtysh-Barabinsk)のタタール人、ユーラシア中央部草原地帯のさまざまな古代人ゲノムと、最も類似した系統クラスタ割合を示します。これらの集団間の関係と、集団間の何千年もの潜在的な集団遺伝的事象を解明するためには、より古い参照標本と、より高網羅率の配列が必要です。


●ウェルギ墓地の遺伝的継続性

 トランスウラル地域のウェルギ墓地は、考古学的記録によると、最古の9世紀、9〜10世紀、10〜11世紀の3期間に区分できます。母系・父系での単系統遺伝的標識は、これらの期間の遺伝的継続性を示し、母系ではやや内婚制集団と示唆されますが、これは、墓地の多数の埋葬が攪乱されているため、考古学的調査結果では観察できませんでした。mtHgではN1a1a1a1aとC4a1a6とH40bが、3期間それぞれおよび3期間相互で同一系統もしくは単系統であることを示し、この傾向は父系のハプロタイプおよびネットワーク分析により一層顕著です。

 YHg-N1a1は3期間全てで存在しますが、STR特性にはほとんど違いがありません。最古および中間の層位には、墳墓(クルガン)32の2個体の同一のSTR を含むYHg-N1a1のみが含まれます。墳墓28・29・30の個体群間では、3個体の同一のSTRが検出されます。おそらく、さらに同一のYHgがこの墓地に存在したかもしれませんが、保存状態が悪いため、7人の男性の全STR特性を復元できません。これらの結果に基づくと、ウェルギ墓地は父系共同体に使用された、と示唆されます。

 母系・父系での単系統遺伝的標識は、墓の集団化同様に、調査対象個体群間の血縁関係を、少なくともある程度は示唆します。しかし、親族分析をできるだけの高品質なデータはまだ得られていません。


●ウラル南部地域とハンガリーの征服者の母系での遺伝的つながりの可能性

 トランスウラル地域のカルパチア盆地および10世紀のハンガリーの征服者との遺伝的つながりは、ウェルギ3とカロス2(Karos II)墓地の3人のハンガリーの征服者が同一のmtHg-U4d2を有するという、個体群の密接な母系関係により推測されます。さらに、10世紀前半のハルタ(Harta)墓地の30〜40歳程度の女性であるコンク3(Hconq3)はmtHg-A12aで、母系ではウェルギ7の祖先です。

 ウェルギ墓地は、植物の装飾品が施された銀の台が特徴であるスロスツキ(Srostki)文化の考古学的特徴を示し、シベリアのミヌシンスク盆地とアルタイ地域のバラバ草原地帯とカザフスタン北部を経て、トランスウラル地域へと広がりました。さらに、これらの墳墓での考古学的発見は10世紀以前ではなく、つまりカルパチア盆地のハンガリー人の征服の後でした。mtHg-U4d2に現れるカロス墓地からのハンガリーの征服者との同一のミトコンドリアゲノム配列は、密接な生物学的つながり、もしくはウェルギ集団とハンガリーの征服者の共通起源集団を示します。mtHg-D4jは、一つの興味深い現象を示します。ウェルギ21は現代ハンガリー人1個体とクラスタ化します。この墳墓11で発見されたウェルギ21個体の副葬品は、同様にカルパチア盆地のハンガリーの征服者の典型的な副葬品と類似しています。

 ウェルギ10のミトコンドリアゲノムと、バラントニュラク・エルド・デュロ(Balatonújlak-Erdő-dűlő)のハンガリーの征服者の2個体(コンク1およびコンク9)、およびマコ・イガシ・ジャランド(Makó-Igási járandó)墓地のコンク9の同一系統は、mtHg-U5a1a1でクラスタ化します。ウェルギ10は考古学的観点からは混合的特徴を示します。その発見物はスロスツキ文化の影響と同様に9世紀とつながっているかもしれません。バラントニュラク・エルド・デュロの成人女性標本は銀のヘアピンとともに埋葬されており、考古学的発見に基づくと、年代は10世紀第2三半期の可能性があります。埋葬の一つには、東方起源の側壁の窪みを有する墓がありました。そうした発見物のないマコ・イガシ・ジャランドの墓は、11世紀第2三半期と推定されています。つまり、それはアルパディアン(Árpádian)期で、ハンガリーの征服者と在来集団はおそらくすでに混合していました。興味深いことに、25〜30歳の男性は、この墓地に埋葬されたほとんどの男性のように、いくつかのアジア人の頭蓋の特徴を示します。

 ウェルギ墓地とハンガリーの征服者のつながりは、mtHg-N1a1a1a1aでも見られ、これは古代ハンガリー人で優勢でした。本論文で取り上げられた、ケネズロ・ファゼカスズグ(Kenézlő-Fazekaszug)とオロシャザ・ゲルビクシュタンヤ(Orosháza-Görbicstanya)とカロス・エパージェッスゼーグ(Karos-Eperjesszög)墓地のハンガリーの征服者の7個体は、母系では1分枝でクラスタ化しますが、最初と最後の層のウェルギ墓地標本は、その隣接する分枝に位置します。これらの結果は。ウェルギ墓地の考古学的年代と一致して、これら2集団とその共通祖先との間の間接的なつながりを明確に示します。

 シスウラル地域集団とハンガリーの征服者の母系での遺伝的つながりは、とくにmtHg-T2b4hで明らかです。カロス遺跡のバーティム2とベイ3とハンガリーの征服者はmtHg-T2b4hの同じ分枝に位置し、さらに、バーティムとカロスの個体群は、バヤノヴォの個体のmtHgの祖先である同じ系統を共有します。カロス標本の系統はアジア起源の可能性があると判断されました。しかし、それにも関わらず、この推測は、じっさいの系統的つながりだけではなく、中世の前からさえこれらの系統が繰り返し西方に存在することもあり、本論文のデータにより再検討されました。ウラル地域とハンガリーの征服者との間のミトコンドリア6系統の系統発生的つながりは、これらの集団間のやや密接な母系の遺伝的つながりを示し、考古学的発見物でも裏づけられます。


●ウラル南部地域の古代の父系

 ウェルギ地域の男性の大半はYHg-Nで、STRと一塩基多型とネットワーク分析を組み合わせると、同じ下位区分であるN1a1(M46)に分類されます。YHg-N1a1はシベリア東部からスカンジナビア半島まで広範に分布しています。その下位区分の1つがN1a1a1a1a2(Z1936)で、ウラル語族話者集団では顕著に見られ、おそらくウラル地域に起源があり、おもにウラル山脈の西側からスカンジナビア半島(フィンランド)に分布しています。ウェルギ遺跡の7標本は、ほぼYHg-N1a1a1a1a2の下位区分であるN1a1a1a1a2a1c2(Y24365/B545)に分類され、これはほぼ現在のタタールスタン共和国とバシコルトスタン共和国とハンガリーにのみ見られます。

 17ヶ所のSTR遺伝子座を有するウェルギ遺跡の7標本を含む、YHg-N1a1に分類される238人と、12ヶ所のSTR遺伝子座を有するYHg-N1a1に分類される335人を用いて、中央結合(MJ)ネットワーク分析が行なわれました。17ヶ所のSTR遺伝子座のMJに基づくと、特定の標本は、バシキール人やハンティ人(Khanty)やハンガリー人やヴォルガ・ウラル地域およびロシア中央部のタタール人と、同一もしくは一段階隣の特性を示します。12ヶ所のSTRデータに基づくMJは、ボドログスゼルダヘリ・バルヴァニヘギー(Bodrogszerdahely-Bálványhegy)およびカロス・エパージェッスゼーグの2人のハンガリーの征服者との、ウェルギの一段階隣のつながりを示します。Y染色体のSTRハプロタイプ参照データベース(YHRD)は、フィンランド人と、ウラル地域もしくはペンザ州(Penza)やアルハンゲリスク州(Arkhangelsk)といったヨーロッパロシア地域の標本間でのさらなる類似性もしくは同一性を示し、とくに、ハンガリー語も属するウラル語族と類似した地域、もしくは初期ハンガリー人の想定される移住経路に沿った地域で顕著です。

 カルパチア盆地の7世紀のアヴァールの支配層男性が、ウェルギ集団と類似のYHg-N1a1頻度にも関わらず、離れた下位区分であるN1a1a1a1a3a(F4205)を有していることは注目され、N1a1a1a1a3aは現代ではバイカル湖地域周辺のモンゴル語族話者集団で顕著に見られます。さらに、アヴァールの支配層男性は、本論文で取り上げられた集団とはかなり異なる集団史を有していたので、相互に混同されてはいけません。

 ウェルギ11のYHgはJ2です。YHg-Jは現在広く分布しており、おそらくは近東起源です。興味深いことに、サレツドヴァリ・ヒゾフェルド(Sárrétudvari-Hízóföld)のハンガリーの征服者個体(SH/81)はYHg-J2a1aですが、ウェルギ11はその下位区分には分類できないので、さらなる推測はできません。

 ウェルギ4のYHgはG2a2b2a1a1a1b(L1266)で、その下位系統はヨーロッパ外に存在すると確認されています。ハンガリーの征服者の間では、YHg-G2a2b(L30)の存在がカロス2墓地の個体(K2/33)で証明されており、さらなる分類もしくはSTRデータはありませんが、YHg-G2a2b2a1a1a1bは確認されており、その標本は本論文のSTR分析にも含めることができます。この場合、14のSTR標識を用いることにより、データベースの見解に起因して、MJネットワークはハンガリーの征服者とウェルギ個体群両方のコーカサス人との類似性を示しますが、同一性も単系統性もこれらの間では観察できません。


●まとめ

 ウラル地域は、考古学・言語学・歴史学に基づくと、古代ハンガリー人の民族形成において重要な役割を果たしましたが、これらの研究分野の結果は、年代および文化的側面の違いを示します。本論文で示されたウラル南部のY染色体と常染色体DNAデータは、集団遺伝学的観点からもこの地域の関連性を確証します。

 系統発生的および系統地理学的観点で調べられたウラル地域の36標本の全体的な母系構成は、東西の混合の特徴を示唆しますが、父系はヴォルガ・ウラル地域に典型的なYHgとより均質です。トランスウラル地域のウェルギ集団の各mtHgを正確に東西系統に分類することは不可能ですが、包括的な代表が存在します。ヨーロッパ起源のmtHg-N1a1a1a1a・H40bは、内部の多様化を伴う母系の通時的な成功を示し、ややユーラシア西部の特徴の集団が基底にある、と示唆します。他方、強い東方の系統地理を有するmtHgでは、同一(C4a1a6)もしくは単一(A・A12a・C4a2a1)のハプロタイプは、ウェルギ地域の第3三半期において顕著で、この集団への比較的最近の混合が示唆されます。しかし、遺伝的および考古学的変化の同時発生は、系統構成の均質性、核ゲノムの主成分分析の位置、父系の均一性、全期間での東部構成(mtHg-C4a1a6)の存在と矛盾します。

 スロスツキ文化関連集団の遺伝的寄与をこの水準では除外できないという事実にも関わらず、東方構成の大半はウェルギ墓地の使用前に混合していた可能性が高そうです。ウェルギ集団は、父系・母系での単系統の遺伝的構成から、ハンガリーの征服者の潜在的な遺伝的起源と、年代的および・あるいは地理的に関連した集団として示されます。さらに、ウェルギ集団の予備的な常染色体分析結果からは、ウェルギ集団がアレル(対立遺伝子)頻度構成を、言語学的もしくは歴史的にハンガリー人と関連する現代のウラルおよびシベリア西部集団と共有している、と示されます。これは、将来の研究の立脚点を提供します。

 ハンガリーの征服者とのウェルギ集団の母系でのつながりは、間接的な(単系統的ではあるものの連続的ではない)関係と直接的な(同一もしくは一段階隣の)関係に区分できます。興味深いことに、間接的なつながりは遺伝的に西方の特徴に基づく集団に区分できますが、直接的なつながりは、ほぼ混合した東方構成のみです。この現象の考えられる説明は、ハンガリーの征服者とウェルギ集団が、過去に東方の混合前に分離した共通祖先を有しており、ウェルギ集団はその後で両集団に遺伝的構成を提供した、というものです。

 しかし、まだ報告されていない東方の構成の正確な起源もしくは同定と、核ゲノムの混合割合と、緩やかな系統発生的つながりは、アジア中央部を指摘します。シスウラル地域の系統発生的構成は、それらの緊密さもしくは連続性に疑問を呈しますが、データ不足のため、この集団の詳細な分析はできません。ハンガリーの征服者の系統に基づくつながりは散発的ですが、地域的な類似性が観察され、それはMDSと主成分分析でより顕著です。

 ハンガリーの征服者の遺伝的構成のみに基づく以前の研究は、非ヨーロッパ系統をさまざまな東方系統に結びつける傾向がありますが、とくに、後期鉄器時代と前期中世のシスウラル地域集団における稀なユーラシア東部のハプロタイプの存在は、将来これらの結論を再形成するかもしれません。将来の研究では、本論文で提示されたデータセットを、高い網羅率のゲノム分析と、さらに古代ハンガリー人とその近隣共同体のヨーロッパ東部の墓地からの標本を含めることで、拡張する予定です。


参考文献:
Csáky V. et al.(2020): Early medieval genetic data from Ural region evaluated in the light of archaeological evidence of ancient Hungarians. Scientific Reports, 10, 19137.
https://doi.org/10.1038/s41598-020-75910-z

https://sicambre.at.webry.info/202011/article_30.html

2. 2021年10月07日 10:48:51 : eAnA8vXCag : a3JobkR2NS41a00=[25] 報告
雑記帳
2021年10月07日
ハンガリーのアールパード朝のベーラ3世のDNA解析
https://sicambre.at.webry.info/202110/article_7.html

 ハンガリーのアールパード(Árpád)朝のベーラ(Bela)3世のDNA解析に関する研究(Wang et al., 2021)が公表されました。現代ヨーロッパ人の大半はインド・ヨーロッパ語族の言語を話していますが、その起源と拡散はひじょうによく議論されてきた主題です。インド・ヨーロッパ語族の根源を年代測定するために適用されたベイズ法は、紀元前6000年頃の推定年代を提供し、アナトリア半島をインド・ヨーロッパ語族祖語の故地として示唆します。

 代替的な仮説では、インド・ヨーロッパ語族祖語話者はポントス・カスピ海草原(ユーラシア中央部西北からヨーロッパ東部南方までの草原地帯)の遊牧民で、車輪付き乗り物の発明後にその言語がヨーロッパに拡大した、と提案されます。新石器時代と青銅器時代のヨーロッパ全域の古代人遺骸の遺伝学的データは、紀元前3000年頃に始まるヨーロッパ東部草原地帯からの牧畜民の拡大により媒介された、大規模な人口集団置換を明らかにしました(関連記事)。報告された人口移動は、元々の言語の置換と、「草原地帯」遺伝的構成要素の寄与につながったかもしれません。「草原地帯」祖先系統(祖先系譜、祖先成分、ancestry)は、「狩猟採集民」祖先系統および「農耕」祖先系統とともに、ほとんどの現代ヨーロッパ人の遺伝的構成要素を占めます。

 この草原地帯とインド・ヨーロッパ語族との相関には例外が知られており、たとえば、草原地帯関連祖先系統を有するにも関わらず、非インド・ヨーロッパ語族言語を話すバスク人です。遺伝学的研究では、バスク人はイベリア半島の新石器時代および鉄器時代の個体群と最も密接な現代人集団で(関連記事1および関連記事2)、新石器時代以降の在来言語存続の可能性が示唆されます。バスク人については、最近その遺伝的構造の包括的な研究が公表されました(関連記事)。ヨーロッパにおいて二番目によく話されている非インド・ヨーロッパ語族言語は、いわゆるフィン・ウゴル語派で、現在ではフィンランドとエストニアとロシア西部とハンガリーに分布しています。フィン・ウゴル語派はフィン諸語とハンガリー語に区別され、両者ともユーラシア北東部にまで広がっているより大きなウラル語族の一部です。

 現代人集団に関する遺伝学的研究では、ヨーロッパでは人口集団間の遺伝的距離が地理的距離と相関している、と示されています。しかし、これは現在のフィンランド人には当てはまらず、フィンランド人はユーラシア東部人口集団に向かってヨーロッパ人の遺伝的まとまりからずれています。フェノスカンジアの人類遺骸の最近の古代DNA研究は、遅くとも紀元前3500年頃までにはフェノスカンジアに到達した、究極的にはガナサン人(Nganasan)のようなアジア北東部人口集団と関連する、追加の遺伝的寄与を特定しました(関連記事)。この遺伝的構成要素は、フィンランド北部の現代サーミ人個体群により低い割合で存在し、ヨーロッパ中央部祖先系統と大半が混合したフィンランド人にはさらに低い割合で存在します。

 注目すべきは、推定されるシベリア人関連祖先系統の分布が、ほとんどのウラル語族話者人口集団には存在するものの、現代ハンガリー人では欠けていることです。フィンランド人とは対照的にハンガリー人は、わずかしかアジア東部人構成要素を有さないヨーロッパ現代人の遺伝的多様性内にほぼ完全に収まります。ハンガリーの古代人遺骸のゲノム分析は、前期新石器時代における「農耕」祖先系統の到来に伴う大規模な遺伝的置換と、ヨーロッパの他地域で観察されるように、その後の中期新石器時代における在来「狩猟採集民」祖先系統の復興の過程を明らかにしてきました(関連記事)。さらに、後期新石器時代から前期青銅器時代の移行において、「草原地帯」祖先系統がハンガリー全域に拡大し、ほとんどのヨーロッパ現代人に存在する第三の遺伝的構成要素をもたらしました(関連記事)。

 ハンガリーの遺伝的歴史の次の期間は、あまりよく特徴づけられていません。じっさい、鉄器時代後の個体群に関するほぼ全ての古代DNA研究は、Y染色体内の遺伝子型もしくは多型の配列や、ミトコンドリアDNA(mtDNA)配列や、表現型の一塩基多型に依存しており、経時的なハンガリーの人口集団の詳細なゲノム規模の特徴づけはできません。鉄器時代後の紀元前35年から紀元後9世紀前半までハンガリーはローマ帝国の一部で、紀元後4〜6世紀のフン人や、紀元後6世紀のランゴバルド人や、それに続く紀元後6世紀後半〜紀元後9世紀前半のアヴァール人など、いくつかの「蛮族の移住」を経てました。これまでゲノムデータはパンノニアのランゴバルド関連墓地の遺骸でのみ利用可能で、遺伝的に異質な個体群と明らかになっているので、この集団は以前もしくは現在のハンガリーの人口集団と似ていないさまざまな起源の人々の集合だった、と示唆されます(関連記事)。

 利用可能な文献記録によると、紀元後530年(以下、紀元後の場合は省略します)に「マジャール」という名前と関連づけられてきた「ムゲリウス(Muageris)」王が、黒海北側のクトゥリグール(Kutrigur)フン人の支配者でした。数世紀後、ハンガリーの大王子であるアールモシュ(Álmos)1世は、同じ地域で850年頃に君主制国家を組織化しましたが、以前の人口集団との関連は完全には解明されていません。アヴァール可汗国(Avar Khaganate)の崩壊(紀元後822年頃)から数十年後、アールモシュとその息子のアールパード(Árpád)が862〜895年頃にかけてカルパチア盆地を征服しました。この征服期間に、ハンガリーの征服者はテュルク語族話者のカバル人(Kabars)とともに、アヴァール人およびスラブ人集団を同化した、と示唆されています。

 興味深いことに、いわゆるアールパード朝(この用語は18世紀にハンガリー最初の王家として提唱され、その名称はハンガリー征服を完了したアルモスの息子のアールパードに由来します)の復元された系図は、大王子アールモシュ(862年頃に最初の征服を主導しました)からハンガリーのアンドリュー3世(1301年に死に、これが王朝終焉を意味します)まで、父方継承が常に続いてきた、と示します。この父系継承で最も著名な王の一人であるベーラ(Bela)3世(在位は1172〜1196年)は、ハンガリー王国の象徴として「二重十字架」を採用した最初の王です。ベーラ3世はゲーザ(Geza)2世の息子で、フランスのアンティオキアのアンナと結婚し、第一子の息子は後にイムレ(Emeric)王となりました。ベーラ3世は最初に妻のアンナおよび恐らくはアールパード朝の他の特定されていない構成員とともにセーケシュフェヘールバール(Székesfehérvá)の王立大聖堂に埋葬されましたが、後にブタペストのマティアス(Matthias)教会に再埋葬されました。

 2012年に、王室と関連する骨格の発掘の一部として、ベーラ3世とアンティオキアのアンナの解剖学的要素が収集されました。以前の研究では、ベーラ3世のY染色体縦列型反復配列(STR)ハプロタイプが遺伝子型決定され、Y染色体ハプログループ(YHg)R1aと予測されました。別の研究では、ベーラ3世のY染色体配列が報告され、4500年前頃にアフガニスタン北部付近を中心とする地域にたどれる系統と明らかになり、現在のバシキール人(Bashkirs)が2000年前頃に分離した最も密接な父系親族でした。本論文は、ベーラ3世のゲノムがアジア中央部人と現在のハンガリー人のどちらの遺伝子プール内でまとまるのか解明するため、ベーラ3世の遺骸のゲノム規模の特徴づけを試みました。ベーラ3世と関連する墓から4点の骨片が収集されました。ヒトゲノム全体で39万〜124万ヶ所の一塩基多型を標的として、対象となる一塩基多型の網羅率は6.154倍となりました。常染色体と性染色体の比率から、標本の個体は男性と判断されました。


●片親性遺伝標識

 片親性遺伝標識(母系のミトコンドリアDNAと父系のY染色体)では、ベーラ3世のmtDNAハプログループ(mtHg)はH1bで、mtHg-Hは現代ヨーロッパでは最も一般的です。ベーラ3世のmtDNAでは、改定ケンブリッジ参照配列(rCRS)に対する多型の一覧が見つかりました。本論文のベーラ3世のmtDNA分析結果は、以前の研究と一致します。mtDNA集団データベースプロジェクト(EMPOP)でベーラ3世のミトコンドリアゲノムのハプロタイプを探すと、おもにヨーロッパで報告されているものの、アジア中央部でも見られるmtHg-H1bの211標本が見つかりましたが、ベーラ3世と正確に一致するハプロタイプは見つかりませんでした。ベーラ3世のYHgはR1a1a1b2a2a1(Z2123)で、アジア中央部でとくに高頻度となるYHg-R1a の主要な下位系統であるYHg-R1a1a1b2(Z93)の下位系統となり、以前の研究の結果と一致します。


●ゲノム規模常染色体遺伝標識データ分析

 さらに、ゲノム起源データを用いて、ベーラ3世の祖先系統が調べられました。まず主成分分析が実行され、ユーラシア西部現代人のデータにベーラ3世の常染色体データが投影されました(図1)。ベーラ3世のゲノムはクロアチアとハンガリーの現代人集団に近接しています。同じようなパターンは、ADMIXTUREに実装されたクラスタ化アルゴリズムから得られ、ベーラ3世はヨーロッパ東部現代人集団と類似の遺伝的特性を共有します。以下は本論文の図1です。
画像

 次にf3外群統計を用いてユーラシア西部現代人集団とのベーラ3世のゲノムの類似性が検証され、共通の外群であるアフリカのムブティ人集団と比較して、共有される遺伝的類似性が計測されました。主成分分析の結果と一致して、ベーラ3世のゲノムはヨーロッパ現代人の多様性内にまとまり、ほとんどの他のヨーロッパ人口集団とは区別できません(図2)。以下は本論文の図2です。
画像

 クロアチア人およびハンガリー人と比較した、ベーラ3世との他の現代人集団のあらゆる類似性の違いを評価するため、f4統計(X、ムブティ人;クロアチア人およびハンガリー人、ベーラ3世)が検証されました。Xは世界規模の現代人集団の一覧です。検証された比較のいずれも、0からの優位な偏差を報告せず、ベーラ3世の遺伝的祖先系統のほとんどがクロアチアおよびハンガリーの現代人と共有されている、と確認されます。しかし、パプア人やアミ人や漢人などユーラシア東部およびオセアニア人口集団を用いた検定では、ベーラ3世にわずかに有意な誘引がありました。これは、ベーラ3世のゲノムと現代アジア人との間には、主成分分析空間ではベーラ3世と最も密接に位置するヨーロッパ人口集団とよりもわずかに高いアレル(対立遺伝子)共有があることを示唆します。


●表現型分析

 表現型関連の一塩基多型を詳しく調べて、ベーラ3世の外見と代謝の特徴が推測されました。歴史的表現で報告されているように、ベーラ3世は明るい肌と青色もしくは緑色の目をしており、それはSLC45A2とSLC24A5とHERC2の各遺伝子について定義された遺伝子座における派生的アレルが存在するからです。さらに、ベーラ3世は乳糖耐性だった可能性が高く、成人期のラクターゼ(乳糖分解酵素)活性持続(LP)と関連するLCT遺伝子の一塩基多型(rs4988235)の派生的アレルを示し、一方でほとんどの現代ヨーロッパ人のように、毛髪の厚さと関連するEDAR遺伝子の祖先的多様体を有していました。


●考察

 822年頃のアヴァール可汗国の崩壊から数十年後、アールモシュとその息子のアールパードは862〜895年頃にかけてカルパチア盆地を征服しました。カルパチア盆地に拠点を置く三つの草原地帯帝国は、ローマ帝国後の統治モデルの代替を提供しました。征服期間に、ハンガリー人の侵略者はテュルク語族話者のカバル人とともに、アヴァール人とスラブ人の集団を同化させました。さらに、ハンガリーの征服者は、テュルク語族話者のカバル人とともに移動し、オノグル人(Onoghurs)や祖型ハンガリー人などを含む「アヴァール」人領域へと侵入し、統合したことも示唆されます。

 ハンガリー人を征服した人々のmtDNAとY染色体と常染色体の遺伝標識の研究は、ユーラシア東西両方の遺伝的構成要素により特徴づけられる混合祖先系統を明らかにしてきました。しかしハンガリーでは、複数の中世初期のヒトの移住がローマ帝国崩壊後に起きました。したがって、アールパード朝樹立までのハンガリーで起きた人口動態の再構築は、この中間期の考古遺伝学的データが必要となるでしょう。じっさい、フンおよびアヴァールと関連する個体群のmtHgとYHgは、ハンガリー征服期の集団よりもさらに強いユーラシア東部の遺伝的影響を示唆します。

 本論文は、アールパード朝の最も著名な王の一人のゲノム特性を直接的に調べることにより、歴史時代のハンガリーの個体の最初のゲノム規模分析を提示します。歴史的証拠から、895年のハンガリーの部族連合によるカルパチア盆地の最初の征服から12世紀後半のベーラ3世まで父系継承が常に行なわれた、と明らかにされています。1170年にベーラ3世は、戦略的外交関係の構築もしくは維持のためヨーロッパの他の高貴な家系の構成員と結婚するという一般的な伝統にしたがって、ルノー・ド・シャティヨン(Raynald Châtillon)の娘であるアンティオキアのアンナと結婚しました。ベーラ3世から120万ヶ所以上の一塩基多型のゲノム規模データが再構築され、その平均深度は6倍となります。

 ベーラ3世の常染色体DNA特性は、クロアチア人やハンガリー人のようなヨーロッパ東部現代人集団の変異内に収まります。これは、ベーラ3世がヨーロッパで最も一般的な母系であるmtHg-Hであることにより、さらに裏づけられます。さらに、ベーラ3世は以前に、より詳細な系統地理再構築に基づいて、アジア中央部にたどれるYHg-R1aだと明らかになっています。確立された系図に基づくと、このY染色体系統はベーラ3世とその祖先であるアールパード朝の開祖アールパード(845〜907年)との間の直接的つながりを提供しますが、それはこの間に系図と生物学的な父子関係が一致しない場合(ペア外父性)がなければ、という条件付です。したがって、大王子アールパードとその後の(ベーラ3世の前の)アールパード朝の構成員は、ベーラ3世よりもユーラシア東部祖先系統の割合を多く有している可能性があります。しかし、これはベーラ3世の代には失われていたかもしれません。それは、アールパードとベーラ3世との間には18世代約300年が経過しており、ヨーロッパ系の貴族との結婚が繰り返し行なわれていたからです。

 それにも関わらず、ベーラ3世とアールモシュとの間の父系関係は、ハンガリーにおけるこのユーラシア東部型のYHgの存在を、少なくとも9世紀末まで拡張する可能性があります。しかし、そうしたユーラシア東部関連のY染色体は、ハンガリーでも獲得できたかもしれません。それは、フンや初期アヴァール期のエリート軍人3個体が、同じYHg-R1a1a1b2(Z93)だと最近明らかになったからです。あるいは、このユーラシア東部の遺産は、東方からの追加の人口移動を通じてハンガリーの部族の征服とともに、ハンガリーに到来した可能性があります。

 注目すべきことに、当時の地元の人口集団の遺伝的構成は、支配王朝の構成員で観察されるものとは異なっていた可能性があります。したがって、征服する部族がハンガリーに現在の言語をもたらしたと考えられるので、ハンガリーのエリートのさらに早い代表者のゲノムを遺伝的に特徴づけることが重要でしょう。これは、ベーラ3世のY染色体で報告されたユーラシア東部祖先系統がハンガリーで獲得されたのか、それとも東方から西方への移住を通じて到来したのか、決定するでしょうし、大王子アールパードと後のアールパード朝構成員が、さらにその後のベーラ3世よりも、常染色体でユーラシア東部祖先系統をずっと多い割合で有しているのかどうか、検証するでしょう。


参考文献:
Wang CC. et al.(2021): Genome-wide autosomal, mtDNA, and Y chromosome analysis of King Bela III of the Hungarian Arpad dynasty. Scientific Reports, 11, 19210.
https://doi.org/10.1038/s41598-021-98796-x


https://sicambre.at.webry.info/202110/article_7.html

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