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レバノン人の起源
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/284.html
投稿者 中川隆 日時 2020 年 9 月 01 日 11:19:43: 3bF/xW6Ehzs4I koaQ7Jey
 

(回答先: エジプト人の起源 投稿者 中川隆 日時 2020 年 8 月 30 日 10:52:24)

レバノン人の起源


雑記帳 2020年06月14日
鉄器時代から現代のレバノンの人口史
https://sicambre.at.webry.info/202006/article_18.html


 鉄器時代から現代のレバノンの人口史に関する研究(Haber et al., 2020)が公表されました。この研究はオンライン版での先行公開となります。古代近東はユーラシア西部の主要な文化間の相互作用の中心に位置し、エジプトやヒッタイトやアッシリアやバビロニアやペルシアやギリシアやローマや十字軍やマムルークやオスマン帝国など、さまざまな勢力に支配され、そのほとんどは在来集団に永続的な文化的影響を残しました。しかし、そうした支配勢力の遺伝的寄与はさほど明確ではありません。

 以前の古代DNA研究では、近東の現代人のゲノムの90%ほどは、上記の征服前となる近東の青銅器時代集団に由来する、と推定されています。この結果は、歴史的記録に人口移動・植民化・地元住民との混合が残っていることと、対立するように見えるかもしれません。たとえば、紀元後1307年、マムルーク朝はレバノン沿岸を300の新たに移住させたトルクメン人に分割しました。ローマはベイルートとバールベックを植民地および駐屯地と宣言し、ヘレニズム期の兵士たちとその子孫たちの名前は、シドン(Sidon)で発見された碑文で読み取れます。

 レバノンの十字軍の埋葬地の被葬者の古代DNA分析では、ヨーロッパから近東への移住と在来住民との混合が一般的で、ある期間にはヨーロッパ系および在来系と両者の混合子孫という異質な集団が共存していた、と示されています(関連記事)。しかし、十字軍によるヨーロッパ系と在来集団との混合は永続的な遺伝的影響を残さなかったようで、レバノンの現代人において十字軍系統は検出困難なほど「希釈」されました。十字軍の事例は、多くの征服と移住の後でさえ、近東青銅器時代系統が依然として近東現代人集団のゲノムで支配的である理由を説明できるかもしれません。

 したがって、これまでの古代DNA研究から、二つの未解決の問題が提起されます。まず、近東において一時的な混合事象は一般的だったのか、あるいは十字軍の事例は例外的だったのか、ということです。次に、近東現代人のゲノムは青銅器時代近東集団系統にほぼ由来しますが、全てではないので、どの青銅器時代後の事象が、近東現代人集団で観察される遺伝的多様性に寄与したのか、ということです。

 こうした問題の解明のため、近東における紀元前800〜紀元後200年の新たな古代人のゲノムデータが生成され、それは鉄器時代2期(紀元前1000〜紀元前539年)と鉄器時代3期(紀元前539〜紀元前330年)とヘレニズム期(紀元前330〜紀元前31年)とローマ前期(紀元前31〜紀元後200年)の4期に区分されます。これらのゲノムデータは、近東の既知のゲノムデータと比較されました。それは、中期青銅器時代(紀元前2100〜紀元前1550年頃)とローマ後期(紀元後200〜634年)と十字軍期(紀元後1099〜1291年)と現代で、過去4000年にわたっています。

 まず、ベイルートで発見された被葬者67人の側頭部の錐体骨からDNAが抽出されました。そのうち19人で有意なゲノムデータが得られ、網羅率は0.1〜3.3倍です。この新たなデータと、既知の古代人および現代人のデータが組み合わされ、2つのデータセットが作成されました。セット1には、2012人の現代人および914人の古代人と815791ヶ所の一塩基多型が含まれます。セット2には、2788人の現代人および914人の古代人と539766ヶ所の一塩基多型が含まれます。

 これらの標本群のうち近親関係にあるのは、ペルシア帝国支配下の紀元前500年頃となる鉄器時代3期の女性SFI-43と男性SFI-44で、1親等の関係にあり、ミトコンドリアDNA(mtDNA)ハプログループ(mtHg)はともにT2c1です。セット2の全標本を対象とした主成分分析では、近東とヨーロッパとコーカサスとロシア草原地帯とアジア中央部および南部の集団が区別されます。現代のレバノンに居住していた古代人は、現代および古代の近東人とクラスタ化します。本論文で取り上げられた新標本群は、青銅器時代集団(シドン青銅器時代集団)と現代レバノン人の間でクラスタ化します。

 1親等の2人(SFI-43とSFI-44)は外れ値として表示され、同時代人とはクラスタ化せず、青銅器時代標本群近くに位置します。1親等の2人が古代レバノン人以外の集団に対して遺伝的類似性を有しているのか、検証されました。SFI-43は古代エジプト人とクレード(単系統群)を形成し、その系統の全てを古代エジプト人もしくは遺伝的に同等な集団と共有していた、と推測されます。SFI-44の系統はより複雑で、本論文のデータセットではどの集団ともクレードを形成しませんが、SFI-43・古代エジプト人・古代レバノン人とは系統を共有しているようです。

 SFI-43とSFI-44は古代エジプト人とクラスタ化し、現代もしくは古代レバノン人と現代エジプト人との間に位置しますが、SFI-44はSFI-43よりもレバノン人の近くに位置します。SFI-43とSFI-44は1親等の関係にあるものの、その遺伝的系統は異なるようなので、SFI-44が、SFI-43由来の系統と、本論文のデータセットにおける他の個体群もしくは集団との混合なのかどうか、qpAdm を用いて検証されました。SFI-43はSFI-44と関連する集団の系統から70%と、古代レバノン人関連集団から30%の混合としてモデル化できます。しかし、これらの系統の割合は、家系において1回以上の混合が起きていなかったら、2人の1親等の関係を反映していません。

 そこで、古代エジプト人と古代レバノン人との間の1親等の混合を表す交雑ゲノムが再現され、SFI-44がSFI-43と交雑ゲノムとの間の混合に由来するとモデル化できるのかどうか、検証されました。そのモデルでは、SFI-44は系統の50%をSFI-43から、50%を交雑ゲノムと類似した系統の個体から有している、と示されます。したがって、SFI-43はエジプト女性で、SFI-44はその息子となり、父親はエジプト人とレバノン人両方の系統を有する、と示唆されます。レバノンにおけるこの家族の構造は、当時の集団移動と異質な社会を強調しますが、この文化間混合が一般的だったのか、それとも例外的だったのか理解するには、追加の標本抽出が必要です。SFI-43とSFI-44は、地域的な個体群が各期間を表すよう集団化される以下の分析では除外されています。

 連続した8期間の遺伝的表現により、経時的に連続した2集団がクレードを形成するのかどうか、その系統が共有される祖先集団にすべて由来するのかどうか、もしくはその後の混合が発生し、2集団がその結果としてクレード関係を失ったのかどうか、検証されました。まずf4統計では、本論文のデータセットにおける「古代」と関連した遺伝的変化が、レバノンの連続した2期間で起きた、との結果が得られました。青銅器時代の後、鉄器時代2期の開始において、古代ヨーロッパ人および古代アジア中央部人と関連するユーラシア系統の増加に特徴づけられる、有意な遺伝的変化が明らかになりました。

 この検証では、鉄器時代2期と3期の間の有意な遺伝的違いは観察されなかったので、この2期間の標本群は1集団としてまとめられ、qpAdmを用いて鉄器時代の混合モデルが調べられました。レバノン鉄器時代集団は、在来の青銅器時代集団(63〜88%)と古代アナトリア半島人もしくは古代ヨーロッパ南東部人(12〜37%)の混合としてモデル化できます。また、ヨーロッパ人で典型的に見られる草原地帯的系統が、鉄器時代2期の始まりに近東に出現することも示されました。この外来系統の起源として可能性があるのは、青銅器時代の後、紀元前1200〜紀元前900年頃に地中海東部地域を襲撃した「海の民」です。混合の成功モデルの一つでは、ベイルートから南方に約170kmに位置するアシュケロン(Ashkelon)の鉄器時代1期集団と関連する系統を含んでおり、以前には「海の民」関連の混合に由来するかもしれない、と推測されていました。さらに、古代エジプト考古学では、「海の民」はレヴァントを征服したものの、エジプトの征服には失敗した、とされています。

 鉄器時代におけるレバノンへのユーラシアの遺伝子流動が、古代エジプトに到達したのかどうか、時空間的に草原地帯系統を定量化することで検証され、古代エジプトは、レヴァントが鉄器時代に受けたユーラシア人からの遺伝子流動を受けたか、ユーラシア系統はエジプトでアシュケロンのように置換された、と示唆されます。アシュケロンでは、ベイルートの鉄器時代2期とは対照的に、ヨーロッパ系統がもはや鉄器時代2期集団では有意には見られません(関連記事)。レヴァントとエジプトからのさらなる鉄器時代標本により、鉄器時代の混合が起源集団の位置の結果として北から南への勾配を示すのか、それともこの期間のレヴァントにおける北方もしくは南方への成功した移住の規模の違いに由来するのか、解明されるでしょう。

 古代レバノンにおける第二の遺伝的変化は、ヘレニズム期とローマ前期で観察できます。本論文はこの2期間の個体群を1集団に統合しました。それは、この2期間の個体群の中に放射性炭素年代で重なる個体も存在したことと、f4統計では両期間の集団間で対称性が示されたからです。ヘレニズム期とローマ前期の集団は、在来のベイルート鉄器時代集団(88〜94%)とアジア中央部・南部集団(6〜12%)の混合としてモデル化できます。セット2において古代および現代レバノン人集団間で共有されるハプロタイプ区分の分析では、ヘレニズム期の2人(SFI-5とSFI-12)とローマ前期の1人(SFI-11)は、アジア中央部および南部人と過剰なハプロタイプを共有しており、qpAdmの結果が確認されました。

 古代レバノンとアジア中央部および南部との関係はまた、現代レバノン人のY染色体ハプログループ(YHg)に存在するL1a1(M27)でも現れます。YHg-L1a1は現在アジア中央部および南部では一般的ですが、他地域では稀です。YHg-L1a1である5人のレバノン人の合着年代を検証すると、紀元前450〜紀元後50年頃となる男性1人に由来する、と明らかになり、これはヘレニズム期と重なります。

 ヘレニズム期のレバノンにおけるアジア中央部・南部系統の存在は、アレクサンドロス(マケドニア)帝国支配下の接続された地理を反映しており、それはアレクサンドロス帝国に先行したペルシア帝国(アケメネス朝、ハカーマニシュ朝)も同化し、5世紀にわたって東西間の接続を維持しました。これらの大帝国は、エジプトとレバノンの家族に直接的に見られるように、人々の移動と混合を促進し、本論文では近東における混合個体群が示されます。

 ヘレニズム期およびローマ前期とローマ後期との間の遺伝的変化の検証では、f4統計からはほとんど遺伝的変化が見られませんでした。一方、この時期のローマでは、近東とヨーロッパの間の有意な集団移動が指摘されています(関連記事)。ローマ後期個体群をヘレニズム期およびローマ前期集団と他の古代集団との混合としてモデル化すると、古代アナトリア半島人およびヨーロッパ南東部人を含む成功モデルが見つかります。しかし、この系統はすでに鉄器時代の始まりからレバノンに存在していたので、ローマ後期個体群における在来集団遺骸の要素は、人口構造に起因している可能性があります。とくに、ヘレニズム期およびローマ前期標本群が沿岸地域から得られたのに対して、ローマ後期標本群は遠い山岳地域から得られており、さらに、混合モデルはベイルート鉄器時代集団を在来系統の起源として用いると有意ではないので、ローマ後期個体群は先行する在来集団にその系統の全てが由来する、と示されます。

 ローマ後期から中世にかけて、アフリカ系統の増加が検出されますが、これは統計的有意性をわずかに下回ったままで、アフリカ東部人を混合モデルで用いると、中世レバノン人の系統の2.9%以下を占めます。レバノンで観察された最後の遺伝的変化は十字軍期の後に起きましたが、上述のように、十字軍によるヨーロッパ系と在来集団との混合は永続的な遺伝的影響を残さなかったようで、レバノンの現代人において十字軍系統は検出困難なほど「希釈」されました。

 レバノンの人類集団におけるこの最後の遺伝的変化は、十字軍の影響ではなく中世の後に起き、コーカサスおよびトルコからの集団と関連した系統の増加が明らかになります。混合により起きた連鎖不平衡(複数の遺伝子座の対立遺伝子同士の組み合わせが、それぞれが独立して遺伝された場合の期待値とは有意に異なる現象)崩壊を用いると、この混合はレバノンがオスマン帝国支配下にあった紀元後1640〜1740年頃に起きた、と示されます。連鎖不平衡崩壊検証はまた、ヘレニズム期に起きた有意な混合を検出し、それは本論文で分析された古代個体群からのより直接的な推定と一致します。

 セット2のデータを用いて、古代および現代レバノン人のデータを混合グラフに適合させると、他の古代集団との関係が示されます。グラフは上述の結果を支持し、青銅器時代以降のレバノンにおけるかなりの遺伝的連続性を示します。その間の主要な混合事象は3回で、鉄器時代とヘレニズム期とオスマン帝国期です。それぞれ、3%と11%と5%の外来系統の遺伝的寄与があった、と推定されます。以下、この関係を示した本論文の図3です。

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https://ars.els-cdn.com/content/image/1-s2.0-S0002929720301555-gr3_lrg.jpg

 本論文は、鉄器時代からローマ期の近東古代人の全ゲノム配列データを新たに提示し、それは主要な歴史事象と集団移動により特徴づけられる期間に及んでいます。本論文のデータは、これらの事象の遺伝的結果を捕捉しますが、一般的集団の遺伝的構成への影響は最小限で、近東における大きな文化的移行は、これらの事例では同等の遺伝的移行とは合致しないことも示します。支配層の交替による文化的変化は大きかったものの、多数を占める非支配層の遺伝的構成には大きな影響が及ばなかった、ということでしょうか。

 本論文で示されたように、時系列から標本抽出された古代集団を用いて検出される小さな遺伝的変化は、利用可能な歴史的記録を補足しており、歴史学においても古代DNA研究の役割はますます大きくなっていくだろう、と予想されます。日本史の研究においても、近いうちに古代DNA研究の成果が頻繁に活用されるようになるかもしれません。そうすると、現代日本人の基本的な遺伝的構成が古墳時代までにほぼ確立したことや、その後の小さいものの明確に検出されるような、地域間の移動も確認されるかもしれません。もっとも、これはあくまでも現時点での私の推測で、じっさいにどうだったのか、日本列島の前近代人を対象とした古代DNA研究が進展するまで断定はできませんが。


参考文献:
Haber M. et al.(2020): A Genetic History of the Near East from an aDNA Time Course Sampling Eight Points in the Past 4,000 Years. The American Journal of Human Genetics, 107, 1, 149–157.
https://doi.org/10.1016/j.ajhg.2020.05.008


https://sicambre.at.webry.info/202006/article_18.html  

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コメント
1. 中川隆[-9912] koaQ7Jey 2024年7月08日 06:29:55 : SoceYmFETQ : RTZ0ZGtvUGwwTW8=[1] 報告
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雑記帳
2024年07月08日
レバノン北部の人口史
https://sicambre.seesaa.net/article/202407article_8.html

 レバノン北部の人口史に関する研究(Platt et al., 2024)が公表されました。本論文は、現代のレバノン北部のコウラ(Koura)地区住民の人口史を、近隣地域も含めて現代人と古代人のゲノムデータから推測しています。コウラ地区は現代のレバノンにおいて、他地域と比較してギリシア正教の信者が顕著に多く、それが近代の移住に由来するのか、それ以前の継続的な難民の流入や交易に由来するのか、本論文は調べています。本論文は、現代のコウラ地区住民における近代のギリシアからの遺伝的影響は限定的で、過去にアナトリア半島人類集団との間に強いつながりがあった、と示しています。古代人と現代人のゲノムを用いた、狭い特定の地域を対象とした人口史の研究は今後ますます盛んになりそうで、日本列島での研究の進展も期待されます。


●要約

 数千年にわたる文化的交差点としてのレバノンの豊かな歴史は、周辺地域からの移住と征服の連続的な波を通じて、その人口集団の遺伝的組成に大きな影響を与えてきました。現代のレバノンでは、コウラ地区はその独特な文化的基盤で際立っており、レバノンの他地域と比較して、ギリシア正教の信者の顕著に高い集中がおもな特徴です。本論文は、コウラ地区におけるギリシア正教の普及が、近代のギリシアの遺産かのか、あるいは難民の継続的流入およびギリシアやアナトリア半島との交易の相互作用から生じた連続的な混合なのかどうか、調べます。

 本論文は独自および刊行されているデータを用いて、コウラ地区の現在の人口集団の形成において役割を果たしたかもしれないこの地域における、さまざまな人口集団から得られた古代と現代両方のDNAデータを分析しました。本論文の調査結果から、この地域への近代のギリシアからの移住に直接的に由来する遺伝的影響は限定的なようだ、と示唆されます。ギリシア植民地の歴史的存在はこの地域の過去に痕跡を残してきましたが、コウラ地区の独特な特徴は、文化的および政治的要因によっておもに形成されてきたようで、おもにアナトリア半島とのより強い遺伝的つながりを示しており、現代のギリシア人とではなく古代のギリシア人との類似性があります。


●研究史

 現代レバノンのコウラ地区には、レバノンの他地域と比較して、その遺産を反映している可能性が高い、独特な文化的施設があり、高密度でほぼ排他的にギリシア正教の信者がいます。このレバノン沿岸部のコウラ地区は、東方では地中海沿岸から西方ではレバノン山の麓にまで広がっています。コウラ地区はその北方ではレバノンで2番目に大きい都市であるトリポリ(Tripoli)に、南方では、かつてフェニキアの主要港湾都市だったバトゥルーン(Batroun)に接しています。コウラ地区の人口集団は、北方、おもにアナトリア半島からの継続的な文化的影響下にあり、この文化的つながりは古代史と現代子を通じて維持されました。アナトリア半島の影響の証拠は、レバノンの初期のエジプト統治下でとくに顕著であり、この影響はその後、ビザンツ帝国を通じて維持され、発展しました。

 宗教はレバノンにおいて歴史的共同体の形成に大きな役割を果たしてきました。コウラ共同体は、ギリシア正教およびギリシア文化のつながりにおいて独特です。これは、コウラ地区の人口集団が現代のギリシア正教および/もしくは他の北方の宗教移民の顕著な移民を受け入れたのか、あるいは他の手段で宗教的および文化的独自性を獲得したのかどうか、という興味深い問題を提起します。歴史資料によく記録されているいくつかの以前の主要な事象は、あり得る移住事象もしくは非ギリシア人系統におけるギリシア的慣行の文化的同化の示唆を提供します。たとえば、アレクサンドロス大王の征服後に、ギリシアの支配者はレヴァントにおいてギリシア人の入植を促進しました。これは、ギリシアの故地周辺でのその後の紛争期間においてギリシア人の難民にとって「磁石」として機能したかもしれない、ギリシア人の共同体の孤立地帯を残しました。あるいは、コウラ共同体と北方の地域との間には、ギリシアと直接的には関わらない、かなりの文化的および経済的類似性がありました。したがって、ギリシア人との遺伝的混合の存在の有無に関する問題は、ギリシア人との遺伝的混合が現在の人口集団に影響を及ぼし、レバノン北部の現代のコウラ地区の人口配置について説明できるのかどうかについて、より多くの詳細を提供できるかもしれません。

 レヴァントは東ローマ帝国の支配からビザンツ帝国へと移り、ビザンツ帝国は基本的に476年に東ローマ帝国に取って代わりました【東西に分裂したローマ帝国のうち、東方は1000年以上生き残り、ビザンツ帝国とも呼ばれる、と考える方が妥当なようにも思いますが】。ビザンツ帝国の拡大は、レバノン北部とアナトリア半島との間のより多くの接触をもたらしました。ビザンツ帝国の統治下では、レヴァントと小アジアにおいて、おもにビザンツとその多くの競合者との間の多くの連続的な紛争だけではなく、宗教的巡礼のためもあり、連続的なヒトの移動がありました。ローマ人は在来人口集団との遺伝的混合の証拠を示しませんでしたが、ビザンツの統治下では、おもに西方から東方への多くの維持夕がありました。ビザンツ帝国の統治は、分立を抑制するために戦争を煽る機会主義的な政治的連携と組み合わさった、異端に対する宗教評議会の論争により特徴づけられます。レバノンは、これらの紛争の難民を引きつけた、いくつかの地域を提供しました。興味深いことに、この区別はすでに、コウラ地区と近くの丘陵に避難した人口集団との間で、東方正教会をローマの宗派と区別した同じ過程によって引き起こされました。

 本論文はこの歴史的背景を考慮して、現在の人口集団の遺伝的構成がギリシア正教の現代の分布の起源に洞察を提供するのかどうかの判断に着手しました。具体的には、遺伝的永久が現代のギリシア人との混合な由来するのか、もしくは交易か移住での連続的な遺伝的流入をもたらすアナトリア半島およびその近隣の北方地域との持続的な文化的つながりに由来するのかどうか、ということです。本論文では、どの祖先人口集団がコウラ地区の現代の住民を最も密接に説明するのか、特定するために検索する、広範な遺伝的分析が適用されました。

 本論文は、単純にギリシア正教の移住がコウラ地区の現代の宗教人口集団を形成したのかどうかというよりも、キリスト教の歴史により多くの光を当てるかもしれない、これらの地理的基盤の遺伝的影響の解明が目的です。本論文はそのため、コウラ地区とビザンツ帝国との間の明確なつながり、および、現在のトルコにけるトルクメン人の到来やイスラム教徒の拡大や十字軍やこの地域のオスマン帝国の支配の前となる、4050〜1350年前(1950年が基準)にかけての遺伝的記録において、ギリシア正教文化を伴っていた系統とかなりの混合があったのかどうかを調べます。


●主成分分析

 図1の主成分分析(principal component analysis、略してPCA)は、いくつかの類似性を明らかにしました。アナトリア半島古代人標本は、コウラ地区標本と密接にまとまり(とくに主成分1および2で、ただ、主成分3および4では違います)、混合図の結果を反映しています。コウラ地区クラスタ(まとまり)はシリアの古代人とも有意に重なっていますが、他の古代の人口集団、とくにギリシア古代人とはわずかにより離れています。

 現代トルコ人標本には、トルクメン人の混合が入ったことを考えると、コウラ地区/アナトリア半島古代人クラスタからの明確な違いが含まれます。コウラ地区と古代アナトリア半島とキプロス島とドデカネス諸島の人々は、ギリシアの追加の現代人標本とともに、拡張データセットのPCAにおいて連続体を形成します(ドデカネス諸島に焦点が当てられます)。

 現在のギリシア人の主成分(PC1)およびPC2は、比較的広範な分散を示し、主要な2クラスタへと大まかに収まり、一方はコウラ地区よりも(マロン派の中心地である)エーデン(Ehden)により近く、もう一方はアジア勾配の方へと向かっています。現在のギリシア人は、PC3やPC4と同様に、情報の規模変更を受けたPCAでは、コウラ地区とはより明確にクラスタ化します(図1)。以下は本論文の図1です。
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 レバノン北部の共同体の標本に限定したPCでは、ディッニエー(Dinniyeh)とエーデン/ズグハルタ(Zgharta)とコウラ地区は、無作為混合ではなく、焦点となる区別化されたクラスタを形成する、と示されます。祖先情報を考慮すると、現代トルコ人は互いに独特な祖先パターンを示しますが、コウラ地区標本から離れて残りのトルコ人と区分されます。したがって、潜在的な地理的/祖先的標本の偏りは、現代のトルコ人をコウラ地区標本と比較する場合には、関係ありません。上述のPCAの高解像度の相互作用図は、サイトで利用可能です。


●混合分析

 K(系統構成要素数)= 2〜9のADMIXTURE分析は、図2に示されています。コウラ地区は現代のレヴァントの人口集団と類似しており、K=9において黄色で示される祖先人口集団が高い割合で表されています。これは、レバノンを除いて古代の人口集団では一般的ではありませんでした。交差検証得点は、人口集団における差異のほとんどの説明されない部分がK=6で最小値に近い、広い流域を示します。アルメニア古代人で見られる祖先人口集団はコウラ地区にも存在し、K=9での分析では赤色で示され、これはレヴァントでは稀だったものの、現在ではずっと一般的です。興味深いことに、ADMIXTUREは現代の人口集団においてひじょうに稀になった祖先の古代イスラエル構成要素を示しました。以下は本論文の図2です。
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●F₄統計と混合図

 F₄の結果は図3で示され、検証人口集団XはY軸に表示されています。図3a〜cでは、F₄出力は、レバノン古代人とアナトリア半島古代人とギリシア古代とコウラ地区住民との間の差異と比較しての、人口集団Xとムブティ人との間の差異の重なりを示します。これらの分析において、コウラ地区住民が現代の人口集団であることは注目に値します。各事例で、古代の人口集団のF₄はほぼ完全に負です。それが示唆するのは、ムブティ人とそれらどの古代の人口集団との間に現れたアレル(対立遺伝子)は、コウラ地区住民と全ての他の古代の人口集団との間に現れたアレルにより形成される可能性が高い、ということです。換言すると、顕性(優性)変異はコウラ地区住民に今では多く現れている系統に沿って発生した可能性が高そうです。

 唯一の例外はレバノン古代人です(図3a)。この場合、イラン古代人はコウラ地区住民とレバノン古代人との間の有意な重なりのある系統を有していませんが、アルメニア古代人は、レバノン古代人と比較して、コウラ地区住民を表しているアレルを示します。コウラ地区住民の独特な系統がこの地域の他の人口集団のほとんどより古いならば、アルメニアはレバノン古代人と比較して、コウラ地区住民より古くはないとしても、同じくらい古そうです。これらの結果は一般的に、ギリシアとコウラ地区との間で検証された混合仮説の検証のために構築されたqpGraphの基本的輪郭を正当化します。以下は本論文の図3です。
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 F₄結果のもう一つの特徴は、現代の人口集団を含むことです。現代の人口集団はすべて、古代の祖先とは区別する顕著な混合事象を示します。また、コウラ地区住民とレバノン古代人との間のつながり(図3a)は、ムブティ人とすべての現代の人口集団との間の正のつながりを示し、古代の分離以来大きく転がったアルメニア人の記載と類似した、より古い系統を示唆します。これらは、上述のADMIXTUREにより示された祖先人口集団の一部を反映しています。

 負のF₄値は、レバノン古代人からコウラ地区住民への経路とともに、ムブティ人からXへの経路上での負の重なりを示唆している可能性が高そうです。つまり、レバノン古代人とコウラ地区住民との間に蓄積されたアレルは、ムブティ人からの経路上で図示された人口集団Xに蓄積されたアレルで見つかります。これらの結果は、イスラエル古代人とレバノン古代人との間のアレル共有を示唆しますが、コウラ地区住民とは違います。コウラ地区住民は、レバノン古代人がイスラエル古代人と共有していた一部のアレルを共有していないかもしれません。逆に、正のF₄値は、人口集団Xとコウラ地区住民との間の遺伝子流動を示唆している可能性が高いものの、レバノン古代人とはそうではなく、Xにとって最も顕著な事例はイラン古代人で、こまり、コウラ地区住民はレバノン古代人が受け取らなかったイラン古代人のアレルを共有しています。


●qpGraph分析

 コウラ地区の古代人および現代人とギリシア古代人とレバノン古代人とアナトリア半島古代人とレバノン現代人との間の関係を把握するための基本輪郭が設計され、これに候補形状を追加でき、コウラ地区のギリシア正教の人口特性を説明するような、コウラ地区住民がより多くのギリシアもしくはアナトリア半島からの遺伝的寄与を受け取ったのかどうか、検証されました。古代の人口集団に焦点を呈ることにより、トルクメン人との混合などより最近の人口の影響の除外もできるだけ試みられ、ビザンツ帝国の支配を反映している系統もしくはそれ以前のギリシア人との混合系統が調べられました。

 そこで、図4では2形態が構築され、ギリシアからの寄与の有無でのコウラ地区住民への混合が検証されました。ギリシア人との混合のあるz得点は-41.41でしたが、ギリシア人との混合のないz得点は-31.18で、ギリシア人との混合に由来する古代の寄与が、ギリシア人との混合なしでのモデルよりも現代の人口集団を的確に説明できない、と示唆されます。かなりのZ得点から、現代の人口集団における大量の差異は単純な輪郭では説明されないものの、候補となるギリシア人との混合によって説明される差異の量の検証には充分である、と明らかになります。以下は本論文の図4です。
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●考察

 エジプト人や他の古代文化による歴史を通じて記録されたコウラ地区の政治的つながりは、より北方の政体との類似性を示します。一つの問題は、コウラ地区の現代の人口集団がギリシア正教とのそうした強いつながりをどのように発展させたのか、これは難民もしくは入植者からの遺伝的寄与を伴っていたのかどうか、あるいは、ビザンツ帝国など北方の政体とのコウラ地区類似性のためつながりが現れたのかどうか、ということです。したがって、トルクメン人の拡大とイスラム教徒の拡大とオスマン人に乱交する地域的人口集団を示す系統の特定と、この地域へのアナトリア半島および/もしくはギリシアとの混合について検証するためのそれらの系統の使用が試みられました。

 その地理的近さにも関わらず、レバノン北部の標本を表すPCAでは、明確な3クラスタが観察されました。これらのクラスタは中心で合流し、コウラ地区とレバノン山の他の2地区(ズグハルタおよびディッニエー)を表す明確な3勾配へと放射状に伸び、これら地理的に近い3クラスタを区別する個別の特定の遺伝的構成要素を示唆します。コウラ地区人口集団は沿岸地域に属し、最終氷期からビザンツ帝国の崩壊まで、アナトリア半島からのヒトの移動があった可能性は最も高そうです。

 ビザンツ帝国の支配のずっと前に、レヴァントでは14000年前頃となるアナトリア平原からの新石器時代前の移動に始まる、何千年にもわたっての移住のいくつかの連続的な波がありました(関連記事1および関連記事2)。青銅器時代には、アナトリア半島はヒッタイト人とハッティ人(Hattian)とルウィ人(Luwian)の故地でした。その後、多くの文化の中で、アナトリア半島西部にはミケーネやイオニアやリディアのギリシア人が、アナトリア半島中央部にはフリギア人が、アナトリア半島東部にはウラルトゥ人やアッシリア人が居住しました。

 アナトリア半島とイランの初期農耕民も、その後でレヴァントへと拡大し、さらにその後、帝国の出現および初期の交易と関連するヒトの移動はレヴァント沿岸部集団の遺伝的構成に影響を及ぼし、地域的類似性が認められます(関連記事1および関連記事2)。コウラ地区は初期農耕民にとって魅力的な場所を構成しており、それは、沿岸部に位置し、農耕に適した平野が多くあるからです。コウラ地区が多くの古代人集落の遺跡で、人々がオリーブおよび/もしくはスギ材を交易していたのと同じくらい長く、交易に関わってきました。

 じっさい、PCA図におけるコウラ地区標本は、アナトリア半島古代人や、古代のギリシア人との類似性を有するものの現代のギリシア人とは類似性を有さない古代シリア人によっておもに表されるクラスタ内に収まります。これらの観察は、より多いPCA構成要素でさえ維持され、アナトリア半島古代人との現代のコウラ地区標本の密接な類似性を示唆しています。その起源が少なくとも3世代にたどれるコウラ地区標本の部分集合は、レバノン北部のPCAの中心でひじょうに緊密なクラスタを示し、近隣人口集団とその後に混合した創始者共同体を表しています。

 これらの結果は、交差検証誤差が最小化されるK=6で解決するADMIXTURE図と一致します。コウラ地区標本とアナトリア半島古代人は主要な3構成要素を示し、それは、ギリシア古代人を表す大きな割合の緑色の構成要素と、イラン人を表す黄色の構成要素と、レヴァントとアラビア半島の人々を表す橙色の構成要素です。レヴァント/アラビア構成要素はギリシア古代人からは明らかに減少しますが、アナトリア半島古代人ではよく表されています。古代の移住、新石器時代の交流、徴集されたフェニキア人船員でほぼ構成される海軍を創設し、エジプトまで支配を拡張した、レヴァントへのペルシア帝国の拡大を考えると、これらの混合は驚くべきことではありません。ペルシア帝国は軍港や造船所の設立に関心があったため、コウラ地区とその周辺は魅力的なとなった可能性が高そうです。

 アレクサンドロス大王はペルシアのレヴァント領を支配した時に、その約1400人の兵士をフェニキアの占領に残し、アレクサンドロス大王の死後、レヴァントの後継者となったセレウコスは支配を固めるため、レヴァントにおけるギリシア人の入植を促進しました。じっさい、PCAでコウラ地区集団と最も近い個体群は、中期青銅器時代後期のアララハ(Alalakh)遺跡人口集団に属しています。アララハ遺跡は、セレウコス帝国の首都であるアンティオキア(Antioch)周辺の古代集落です。

 より広くは、セレウコス朝の影響の遺産は、サトラップ(satrapy、太守、総督)モデルの継続を通じての、ギリシアの寺院と共同体の遺産を残した植民市が含まれており、その計画の遺物には、アンティオキアの雷神ゼウスの寺院や、バールベック(Baalbek)遺跡における神殿などが含まれます。これは、コウラ地区が、局所的な文化の類似性のためローマ帝国後にビザンツ帝国とのその後の混合を促進した、これらの場所の一つだったのかどうか、および、かなりのギリシア人の入植を受けたのかどうか、という問題を浮き彫りにします。

 さらに、コウラ地区は、その明らかな文化的類似性のため他地域の暴力からの避難所を探すギリシア人にとって、安全な退避地のように見えたかもしれません。したがって本論文は、そうした入植の兆候があったのかどうか、判断を試みました。その結果、直接的な現代ギリシア人の移住の遺伝的影響はこの地域では弱いようだ、と分かりました。確立されたギリシア人植民地はレバノンの歴史に織り込まれていますが、コウラ地区におけるつながりは文化的かつ政治的だったようで、アナトリア半島とのより多くの遺伝的類似性を示します。

 アナトリア半島古代人からの顕著な遺伝子流動は、祖先系統(祖先系譜、祖先成分、祖先構成、ancestry)の割合を推定する4集団検定(F₄)を用いても論証されました。この遺伝子流動は明確に、ムブティ人を外群として用いた場合に論証されました(図3b)。これらの結果は、人々がアナトリア半島からレヴァントへと数千年前に拡大した勝機の移動以来起きてきた連続的な遺伝子流動を示唆しており、エジプトの属国時代以降の記録により証明されます。古代と現代の人口集団標本間に、顕著な違いがあることも注目に値します。祖先人口集団の分布に影響を及ぼしてきたビザンツ帝国の崩壊後のかなりの混合におそらく起因する差異は、ADMIXTURE分析で示されています。

 コウラ地区において優勢なギリシア正教人口集団が、アナトリア半島集団との混合と、現代ギリシア人との混合のどちらに起因する特定するため、qpGraph分析が構築され、ビザンツ帝国崩壊前の人口集団が分離されて、現代のコウラ地区人口集団へのそれらの構成要素の混合が検証されました。さらに、ビザンツ帝国の滅亡後に起きたイラン人との混合の可能性があるトルクメン人による移住の除外も構想されました。ギリシア人自体は、言語(インド・ヨーロッパ語族の初期の分枝)と神話(オリンポスの神々によるティタンの神々の置換とメドゥーサの歴史)に反映されている混合の複雑な歴史を反映しています。さらに、現代ギリシア人のほとんどの遺伝的祖先系統は、アナトリア半島西部およびエーゲ海の新石器時代農耕民と、それより少ない程度の初期イランおよびコーカサス農耕民により依然として占められている、と示されました(関連記事)。

 銅器時代と青銅器時代におけるギリシアの交易はフェニキア人の拡大と直接的に競合し、アレクサンドロス大王の統治下で、ギリシアからインドと地中海東部全体までの世界が支配されました。しかし、ギリシア人移民と在来の人口集団との遺伝的相互作用は複雑で、地域もしくは共同体固有でさえありました。ギリシア人の完全な分析には、草原地帯およびインド・ヨーロッパ語族話者の解明を含むより完全なqpGraph輪郭が必要で、次に、コウラ地区におけるギリシア人系統の少なさのため解決困難であることに要注意です。コウラ地区へのあり得る移住パターンに反映されているかもしれないギリシア人内の構造は延期されるかもしれず、それは、ギリシア正教人口を促進する移住があったのかどうか、という本論文において回答しようとした問題です。

 ADMIXTUREとF₄の結果に基づいて、qpGraphの支柱形態が構築され、それは北方へ向かってのアフリカからの広範な衝突流動を示唆しました。本論文はこれに補綴の混合候補を形態を追加し、古代ギリシアもしくは古代アナトリア半島からの移住の可能性を検討しました。興味深いことに、アナトリア半島を支持するZ得点の差異は約10でした。これは、ギリシア正教の形態におけるギリシア文化の存在が、退避地の集中もしくはコウラ地域におけるそれ以前のギリシア人との提携に起因しなかったことを示唆します。これは、全ての交絡因子候補もこの地域では欠けていることを示唆しており、PCA図で観察されたセレウコス朝のあり得る植民の影響とは別に、アレクサンドロス大王の影響とそれ以前の古典期の交易がコウラ地区における比較的小さな遺伝的遺産を残し、これはそれ自体の重要な結果です。

 本論文の遺伝学的結果は、アナトリア半島との類似性に関する長い歴史的記録を再現しているようです。さらに、本論文の遺伝学的結果は、コウラ地区におけるセレウコス朝の入植についてと、退避地への入植のためのその後のあり得る磁石としての問題を解決し、遺伝的兆候は現在の人口のつながりを反映していません。北方への移動と提携は、南方におけるレバノンのとのつながりよりも、コウラ地区においてより容易で、陸路は困難だったため、それらはおもに海上移動でした。海上交易では、コウラ地区の人々はフェニキア人商人と協力しました。もう一方の端はビザンティウムとの歴史的結びつきを示しており、それはギリシア正教とのつながりを説明し、その歴史的つながりはすでに数千年にわたって結びついてきました。


参考文献:
Platt DE. et al.(2024): Anatolian genetic ancestry in North Lebanese populations. Scientific Reports, 14, 15518.
https://doi.org/10.1038/s41598-024-66191-x


https://sicambre.seesaa.net/article/202407article_8.html

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