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(回答先: スマホとITがつくる監視社会 投稿者 中川隆 日時 2021 年 6 月 06 日 07:28:21)
インターネット=グローバル化、 SNS=多文化共生
なるべく嫌われないようにして生きるスタイルは、これからどんどん難しくなる
2022.01.14
https://blackasia.net/?p=10804
「人とつながる」というのは、良いことばかりではない。なぜなら友達とつながるだけでなく、自分たちの価値観と相容れない敵対者ともつながることを意味しているからだ。敵対者とつながった結果、人は突如としてこの世の中に自分に対する憎しみや憎悪が満ち溢れていることに気づく。(鈴木傾城)
会ったこともない人間からもグローバルに憎悪される
皮肉なことに「つながり」を効率的に進めたSNSは、自分に敵意を抱く相手や意見がまったく違う相手とも容易につながってしまうので、逆に分断を生み出す装置となってしまっている。分かりやすく言うと、SNSが分断装置としても機能するようになった。
フェイスブックはSNSの王者だが、この企業は分断装置をビジネスにしたせいで世界中で嫌われる企業となってしまい、企業名を「メタ」に変えて「SNSの王者」という立ち位置を捨ててしまった。
しかし、すでにパンドラの箱は開けられてしまった。
SNSは社会に根深く定着し、これからも無駄に人々をつなげ続け、対立と衝突の最前線となるだろう。会ったこともない人間からもグローバルに憎悪され、それが可視化されて分断を深刻化させるのだ。
そうである以上、なるべく嫌われないようにして生きるスタイルは、これからどんどん難しくなる。
人間には人それぞれ意見や立場や主張がある。それは今までも対立や衝突を生み出してきた。何も主張しなくても、いかなる敵対行為をしなくても、私たちが「この国に属している」というだけで、嫌われるという事実もある。民族対立は人間の歴史を貫いて続いている。
拭い難い民族間の憎悪というのは、実のところ世界中でありふれたものだ。民族間だけでなく、人種間でも、宗教間でも、政治間でも、あらゆるものが対立要素となってすべての民族に憎悪を生み出す。
そして、その憎悪はSNSによって顕在化し、可視化される。インターネットとSNSが対立と憎悪を増幅し、拡大再生産させるのである。
人「自分たちと違う者」と対立していた
インターネットは便利なネットワークだ。世界を瞬時につなぐ。そして、SNSもまた便利なシステムである。人々を瞬時につなぐ。
インターネットやSNS自体はつなぐ相手を選ばない。誰でも瞬時につなぐ。これはどういうことなのかというと、ネットワーク網による「グローバル化」であり「多文化共生」であるということだ。
インターネット=グローバル化
SNS=多文化共生
このような図式であると言える。世界はインターネットとSNS、すなわちグローバル化と多文化共生に覆われるようになって、国家間対立・人種対立・個人間対立のすべてがより先鋭化したと気づくべきだ。
結局、グローバル化・多文化共生が何を生み出すのかというのを分かりやすく考えたら、インターネットとSNSで起きている世界を見ればいいのである。インターネットとSNSで対立と分断が起きているのであれば、グローバル化・多文化共生をリアル世界で進めると対立と分断が起こるということだ。
グローバル化・多文化共生がまだ未発達な時代、人々は物理的に分断されて滅多に出会うことがなかった。相手のことはよく知らなかったし、会うこともないのだから関心すらも持たなかった。
相手が自分をどう思っているのかも、どんなことを言っているのかも何も知らなかった。だから、やり過ごせていた。
ところがグローバル化と多文化共生がやってきて、ヒト・モノ・カネが全世界で交わるようになっていき、インターネットやSNSによって見知らぬ人たちの「考え方」がダイレクトに伝わってくるようになったのである。
すると人は、突如として「自分たちと違う者」を発見し、自分を嫌う相手と出会うことになったのだ。そこから不幸が始まった。
自分がいかに嫌われているのかを知ることができる社会
「人とつながる」というのは、良いことばかりではない。なぜなら「友達とつながる」だけでなく、「自分たちと違う人間」「自分たちの価値観と相容れない人間」ともつながることを意味しているからだ。
つながった結果、今まで知ることのなかった自分に対する憎しみや反対意見や拒絶を、人々はワールドワイドに、リアルに、生々しく突きつけられるようになった。そして、人は突如としてこの世の中に自分に対する憎しみや憎悪が満ち溢れていることに気づくのだ。
ここ最近、全世界で憎悪が満ちるようになったのは、驚くべきことではない。それは、グローバル化と多文化共生がもたらした負の側面である。人は会わなくてもいい人と出会うようになったのだ。人は知らなくてもいいことを知るようになったのだ。
「SNSなんかなかった時代の方が幸せだった」と私に述懐した人もいる。確かに、SNSがなかった時代、人は自分の身のまわりのほんの小さな世界で生きていた。人は自分の小さな地域、小さな共同体(コミュニティ)の中でこじんまりと生きていた。
ところが今はインターネットがあってSNSが社会を覆い尽くした。自分が何気なくつぶやいたひとことは場合によっては数十万人、数百万人が目にすることになる。その結果、何気ない「ひとこと」がまったく意見の違う人間の目にも触れるようになる。
ある発言が、それらの人たちの感情を害するようになると、やがては激しく炎上するようになっていく。
良いことでも悪いことでも、加速度的に拡散していくのが情報化社会だ。どちらかと言えば、悪いことの方が拡散しやすい傾向にある。そのため、有名無名に関わらず、すべての人が敵を作り、激しい勢いで自分を嫌う人が膨れ上がっていくのを目撃することになる。
グローバル化と多文化共生は、自分がいかに嫌われているのかを知ることができる社会が到来したということなのである。
誰もが、誰かに嫌われる荒廃した社会が到来している
グローバル化と多文化共生は止まらない。そのため、この世界で生きようと思うと、誰かに嫌われ、憎まれ、攻撃されることを前提に生きなければならない。この事象に関しては、すべての人が巻き込まれる。誰もが、誰かに嫌われる荒廃した社会が到来しているのだから、誰もが他人事ではない。
グローバル化・多文化共生が定着すればするほど人は異質と混じり合うようになる。そして、対立と衝突と憎悪が互いに飛び交う荒んだ世界が広がる。社会はより対立と衝突に満ちあふれて荒んでいく。
憎悪が飛び交う中では相互理解や共生共存は絵空事でしかない。グローバル化・多文化共生の社会が変えられないのだとすれば、私たちはもう誰もがこのような社会で覚悟を決めて「適応しなければならない」のである。
『生き残る種とは、最も強いものではない。最も知的なものでもない。それは、変化に最もよく適応したものである』と言う。
グローバル化・多文化共生が生み出す荒廃した世界では、憎悪や批判や中傷や罵詈雑言を浴びても何とも思わないか、もしくはうまく対処できる人間だけが生き残る。
真逆の価値観、相容れない感性、譲れない信条、深い拒絶心がワールドワイドに結びつくのがグローバル化・多文化共生=インターネット・SNSである。話し合って何とかなるわけでは絶対にない。最初から憎まれていることすらもある。
憎まれている上に価値感を共有していないのであれば、相手との相互理解や共生共存は絶対に得られない。関われば関わるほど対立は激化し、禍根を残すだけだ。
感受性の強い人や、自分に敵意や憎悪や中傷を向けられると夜も眠れなくなるような人は、生き方や考え方を変えなければならない。
敵意や憎悪や中傷が渦巻くのだから、繊細な感受性のままではとても生き残れない。憎悪の中で生き残る体質に自分を変えていかなければならないのだ。
憎悪にまみれた相手に対して好かれようと思っても、それは無駄な努力だし意味がない。折れれば「弱い相手」と見なされて、よけいに踏み込んできて相手をつけ上がらせることになる。
グローバル化・多文化共生=インターネット・SNSの時代となり、明確に「対立と衝突が避けられない時代」に入っているのだから、自分を憎悪の中で生き残る体質にしていく努力は必須のものとなった。
なるべく嫌われないようにして生きるスタイルは、これからどんどん難しくなるので、そういうのは目指してはいけない。それがグローバル化・多文化共生の時代に被害者となるスタイルなのだから……。
邪悪な世界の落とし穴
『邪悪な世界の落とし穴 無防備に生きていると社会が仕掛けたワナにおちる(鈴木 傾城)』
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