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(回答先: 昭和天皇はウォール街のエージェントだったので、共産主義者のルーズベルト大統領と対立して対米戦争を起こした 投稿者 中川隆 日時 2020 年 3 月 20 日 13:16:21)
ノモンハン事件は本当に日本が負けたのか
http://www.thutmosev.com/archives/68696634.html
ソ連の主力兵器は戦車、重火砲、機関銃で日本は徒歩と単発銃だった。
引用:http://www.geocities.jp/torikai011/manchuria/bt_7_02.jpg
互いを強敵と認めた戦い
第二次大戦前にノモンハン事件という日本とソ連の国境紛争があり、その後の世界大戦の縮図とも言われている。
1939年5月11日から3ヶ月だったが日ソ両軍は力の限り戦い、互いの力量を推し量った。
日本ソ連双方とも相手を恐るべき強敵と見なして、ついに1945年の世界大戦終結まで戦おうとしなかった。
ソ連のスターリンは「日本軍とは絶対に戦わない」のを基本方針にし、日本軍もまたソ連を決して刺激しないようにした。
だがノモンハン事件は一般的には、特に軍事知識が豊富な人ほど、日本側の惨敗だったというのが定説になっている。
それではなぜスターリンやソ連の将校らは日本軍に震え上がって、決して戦おうとしなかったのだろうか?
1939年以前の日本軍は日露戦争のロシアのイメージからソ連軍を侮り、「攻めて行けば逃げだろう」と考えていた。
ソ連軍もまた日本軍を侮り、近代戦闘などできない旧式で劣った軍隊と見なしていた。
第二次大戦が始まる前の欧米諸国の日本観はほぼこうで、アメリカ人は「日米海戦になっても日本の軍艦は太平洋に出れない」と考えていた。
満州を占領した日本軍とモンゴルを占領したソ連軍は国境付近で対峙し、1939年5月11日にモンゴル軍と満州国軍の小競り合いから紛争が始まった。
満州の日本軍とモンゴルのソ連軍兵力はソ連が優勢であり、兵器の近代化ではもっと大きな差が生じていた。
まだ「隼」や「零式」が出来る前で、航空戦力でもソ連が勝っていたといわれている。
武士と近代軍の戦い
ソ連軍はコンクリート製の要塞を建設し機関銃を配備していたが、日本軍は徒歩や馬で単発絨を担いで移動していた。
5月の紛争勃発時に関東軍が相手にしたのはモンゴル軍だったが、ソ連軍が加勢すると日本軍1700人に対して敵は2倍以上に膨らんだ。
日本軍ソ連軍とも、満州モンゴル国境周辺で6万人前後が駐留していたとも言われている。
当時の日ソ軍ではまだ歩兵は無線機を持っていなかったか、あっても故障や雑音で役にたたず、部隊ごとに独自の判断で行動した。
日本軍も(貧弱な)戦車や装甲車を配備していたが、ソ連側は車両や重火砲、機関銃などが充実していた。
参戦した日本軍将校は「敵は驚くほど大量の弾薬を所持している」と報告したが、日本軍は弾丸を節約する為、接近して一発ずつ撃っていた。
中でも得意としたのが「銃剣突撃」で歩兵がソ連軍のコンクリート陣地に突入して、弾丸を使わずに制圧する戦法だった。
映画の「戦国自衛隊」みたいな武士と近代軍の戦いがモンゴルで展開された。
兵力、装備、補給(これが大問題だった)で劣る日本軍を見てソ連軍は楽勝だと思ったが、そうはならなかった。
日本軍は弾薬、燃料、水、食料すべて底をついたが輸送用の牛馬を食べたり、水溜りの泥水を飲みながら、銃剣突撃を繰り返した。
5月後半に紛争は一旦終結したが、双方が空襲をくりかえし6月27日から第二次ノモンハン事件が勃発した。
前回は日本軍2000人対ソ連軍数千人だったが、8月には日本軍2万人、ソ連軍1万2千人規模に増強されていた。
日本軍は徒歩か良くて牛馬、トラックはすぐ故障するので人間が押すものだった
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引用:http://cdn2.russian7.ru/wp-content/uploads/2016/08/1-116.jpg
補給なき孤立
兵力では日本軍が上回っていたが、車両、航空機、武器弾薬食料をソ連軍は数倍も持っており、やはり日本軍は徒歩と牛馬で移動した。
「総兵力」では双方5万人か6万人だったがソ連軍はトラックで移動し日本軍は徒歩だったので、「戦場の人数」はソ連数万人、日本軍数千人だったとも言われている。
しかもソ連軍は武器弾薬が充実しているのに対し、日本軍は徒歩なので持って歩ける武器がほぼ全てだった。
ソ連戦車や機関銃は日本軍の10倍以上で、再び武士と近代軍の戦いが繰り返され、日本軍は泥水を飲みながら銃剣突撃を繰り返した。
ソ連との戦闘は昭和天皇の耳に入り「遺憾の意」が伝えられて関東軍はノモンハンから撤退し、紛争は終結した。
そして紛争が終わってから調べてみると、驚くべき事に日本軍の犠牲のほうが少なく、ソ連側の犠牲が大きかった。
ただしノモンハンを占領したソ連に対して日本軍は撤退したので、日本側の敗戦とされている。
通常の歴史家はノモンハン事件を愚の骨頂と言うのだが、この紛争で日本はある重要な物を手に入れることが出来た。
ソ連兵士や将校やスターリンにまで日本軍への恐怖は染み渡り、ソ連は「絶対に日本軍とは戦わない」事になった。
ノモンハン事件で日本が手に入れた決定的なもの
兵力10倍以上で武器弾薬にいたってはその数倍、食料と水が無いのに互角に戦った日本軍は、ソ連を恐れさせた。
1945年8月、日本帝国はアメリカに降伏を申し入れ8月半ばには停戦したいと伝え、ソ連も把握していたと思われる。
1945年8月8日にソ連は対日宣戦布告したが朝鮮半島の向こう側に居座ったままで、日本軍を攻撃しようとしなかった。
散発的な銃撃戦があっただけで、関東軍が下がるとソ連軍は前に進み、8月15日に両者が向かい合っていたのが38度線、現在の韓国と北朝鮮の国境だった。
ソ連軍が総攻撃してきたら関東軍は朝鮮半島で玉砕していただろうが、ソ連上層部はノモンハン事件を思い出してモスクワから対独戦の主力部隊を呼ぶ事にした。
シベリア鉄道で戦車や兵士を運んでいる間に日本は降伏して、アメリカ軍が進駐した時点で戦争は終わった。
もしノモンハン事件がなかったら、ソ連軍は大戦末期に日本軍との戦いを躊躇しなかっただろうと考えられる。
そして戦後もソ連は「日本軍は弱小となっても侮れない」として非武装になった日本に手を出すことは無かった。
むろん在日米軍との戦闘を恐れたのもあるが、ロシア軍の脳裏には今もノモンハン事件の記憶が残っている。
http://www.thutmosev.com/archives/68696634.html
- スターリンはなぜ北海道占領計画を放棄したのか? 中川隆 2020/9/04 05:42:38
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