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新型コロナウイルスに一番近いのはスペイン風邪
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/721.html
投稿者 中川隆 日時 2020 年 4 月 02 日 10:26:43: 3bF/xW6Ehzs4I koaQ7Jey
 

(回答先: 新型コロナウイルスは糖尿病患者が最も危険 投稿者 中川隆 日時 2020 年 4 月 01 日 18:02:07)


新型コロナウイルスに一番近いのはスペイン風邪
 

 スペインかぜ(1918 flu pandemic, Spanish Flu)とは、1918年から1919年にかけ、全世界的に大流行したインフルエンザの通称。

当時20億人の世界人口の3割が感染して、5000万人が死亡したといわれるが、疫学研究者の説によれば、地球上のほぼ全員が感染した可能性がある

 発生源は、1918年3月のアメリカ・カンザス州の米軍基地。

 その後同年6月頃、ブレスト、ボストン、シエラレオネなどでより毒性の強い感染爆発が始まった。


 新型インフルエンザ対策に関する検討小委員会ではカナダの鴨のウイルスがイリノイ州の豚に感染したとの推定が委員から説明されている。

 感染者は約5億人以上、死者は5,000万人から1億人に及び、当時の世界人口は18〜20億人であると推定されているため、全人類の3割近くがスペインかぜに感染したことになる。感染者が最も多かった高齢者では、基本的にほとんどが生き残った一方で、青年層では、大量の死者が出ている。


 日本では、当時の人口5,500万人に対し39万人が死亡、米国でも50万人が死亡した。 これらの数値は感染症のみならず戦争や災害などすべてのヒトの死因の中でも、最も多くのヒトを短期間で死亡に至らしめた記録的なものである。

 流行の経緯としては、第1波は1918年3月にアメリカ合衆国デトロイト市やサウスカロライナ州付近などで最初の流行があり、アメリカ軍のヨーロッパ進軍(第一次世界大戦における)と共に大西洋を渡り、5〜6月にヨーロッパで流行した。

 第2波は、1918年秋にほぼ世界中で同時に起こり、病原性がさらに強まり、重篤な合併症を起こし死者が急増した。

 第3波は、1919年春から秋にかけて、第2波と同じく世界で流行した。また、最初に医師・看護師の感染者が多く、医療体制が崩壊してしまったため、感染被害が拡大した。

このパンデミックは、今回の新型コロナウイルス流行と似ている。初期に、医療関係者の大規模な感染が起きて、医療体制が崩壊したことがパンデミックを招いている。

 また、病原体が次々に突然変異を起こして、どんどん致死性の強いものに変化し、免疫を持たない若者たちを直撃して大量死に追いやった。したがって、新型コロナウイルスの致死性・毒性は、これから急激に変化する可能性があることを意味している  



▲△▽▼

スペイン風邪(1918-1919流行、死者三千万人)で死んだ著名人

ギヨーム・アポリネール(文学者)
マックス・ヴェーバー(政治学者)
グスタフ・クリムト(画家)
エゴン・シーレ(画家)
ヴェストマンランド公エーリク(スウェーデン王子)
ヤーコフ・スヴェルドロフ(政治家)
エドモン・ロスタン(劇作家)
チャールズ・ヒューバート・パリー(作曲家)
竹田宮恒久王(皇族)
末松謙澄(政治家、元内務大臣)
徳大寺実則(公爵、元内大臣)
島村抱月(劇作家)
村山槐多(画家)
野村朱鱗洞(俳人)
辰野金吾(建築家)



▲△▽▼


2020年03月30日
人類史上最悪の伝染病「1918年インフルエンザ」に関する10の誤解
https://gigazine.net/news/20200330-10-misconceptions-about-1918-flu/

1918年に流行し、当時の世界人口の4分の1に感染したといわれる「1918年インフルエンザ」、別名スペイン風邪は、2000万人から4000万人が死亡したといわれています。しかし、この伝染病には誤解も多いとして、人類史上最悪の伝染病の1つともいわれる1918年インフルエンザから学ぶための「10の誤解」が、学術系メディアのThe Conversationで公開されています。

10 misconceptions about the 1918 flu, the 'greatest pandemic in history'
https://theconversation.com/10-misconceptions-about-the-1918-flu-the-greatest-pandemic-in-history-133994

◆誤解1:スペイン風邪はスペインで発生した


1918年インフルエンザは第一次世界大戦のさなか、ヨーロッパの兵士たちから最初に症例が報告されましたが、戦争を行っていた国は敵に弱点を知られまいとして情報を隠しました。このため病気は大陸を広がっていき、中立国であったスペインに上陸してはじめて存在が報告され、名前がつきました。実際に、1918年インフルエンザの起源は現代でも議論が分かれるところであり、ヨーロッパのほか東アジアやアメリカのカンザスさえ可能性として考えられるとのこと。

なお、このような背景から、多くの専門家は病原体に対し、地名とウイルスを結び付ける呼び方を行ないません。

◆誤解2:「スーパーウイルス」によってパンデミックが引き起こされた
1918年インフルエンザは急速に広がり、最初の6カ月間で2500万人が亡くなりました。

一方で、近年の研究から、1918年インフルエンザのウイルスは他の年に流行したインフルエンザウイルスに比べて致死性が高かったものの、根本的には異ならなかったことが示されています。死亡率を上げたのは戦地における環境の悪さや都市の混雑、戦争に伴う栄養失調や衛生状態の悪さといった要素であり、インフルエンザによって弱まった肺が細菌性肺炎になったことが、死因の多くを占めると考えられています。

◆誤解3:最初の流行が最も致命的だった
1918年インフルエンザは1918年ごろから第1波、1918年秋頃から第2波、1919年春から秋にかけて第3波が起こりましたが、第1波の致死率は比較的低かったとのこと。1918年10月から12月にかけておそった第2波が最も致死率が高く、第3波は第1波以上ではあるものの第2波よりも低い致死率だったといいます。

第2波がおそってきた当時、軽症患者は自宅にとどまりましたが、重症患者はしばしば病院や軍営の混雑した場所に集められました。これにより致死的な形でウイルスが広まったと研究者は考えています。

◆誤解4:ウイルスは感染者のほとんどを殺した


多くの人をおそった1918年インフルエンザでしたが、かかった人がほぼ全て死亡するような病気ではありませんでした。一方で、感染者が属するグループによって致死率が異なり、ネイティブアメリカンは特に大きな影響を受けました。これは過去のインフルエンザ株にさらされたことがなかったことが影響していると考えられています。中には、それまで存在したネイティブアメリカンのコミュニティそのものが消滅してしまったケースも存在するとのこと。

◆誤解5:当時の治療法は病気にほとんど影響を与えなかった
1918年に特定の抗ウイルス療法は存在せず、現代と同様に、医療は病気の「治療」ではなく患者の「サポート」を目的としていました。

研究者の中には、1918年インフルエンザの死者の中にはアスピリン中毒が死亡率や重症度に影響を与えたという仮説を唱える人もいます。当時の医療当局はインフルエンザに対し、1日30gのアスピリン投与を推奨していました。現代では安全な投与量として「1日最大4g」と定められており、大量のアスピリン投与が死を招いた可能性があるそうです。

ただし、アスピリン投与が行われなかった地域でも致死率が高いことがあり、議論には決着がついていません。

◆誤解6:すぐにニュースが大々的に報じられた
1918年にインフルエンザが流行した当時、各国の当局は兵士の士気が下がったり、国中でパニックが起こったりすることを避けるため、パンデミックを軽視する傾向にありました。このため当初は当局の軽視により報道も多くなかったそうです。

しかし、パンデミック最盛期になると当局も行動に移し、多くの都市で検疫が行われ、時には警察や消防士たちが行動を制限されることもあったとのこと。

◆誤解7:パンデミックが第一次世界大戦の結果を変えた


パンデミックは連合国と中央同盟国の両方に等しく影響を与えたため、パンデミックの流行によって戦争の結果が左右されたとは考えられていません。ただし、戦場という環境が、ウイルスにとって病原性を強める理想的な場所を作り出したことは確かです。

◆誤解8:広範囲にわたる予防接種によりパンデミックが収束した
1918年インフルエンザの予防接種は1918年に行われなかったため、パンデミックの収束は予防接種によるものではありません。

何年も軍に所属していた兵士は新兵よりも死亡率が低かったことが明らかになっており、過去のインフルエンザ株への暴露が体を守っていた可能性は考えられます。

これに加え、急速に進化するウイルスが致死率の低い株に変化した可能性もあります。致死率が高いと宿主を急速に殺すため、簡単に伝染されなくなります。自然淘汰のモデルから考えて、ウイルスが致死性を下げたことも十分に考えられるとのこと。

◆誤解9:ウイルスの遺伝子が配列決定されたことはない
2005年、研究者らは1918年インフルエンザの塩基配列を解読しました。この研究で採取されたサンプルはアラスカの永久凍土に埋葬された死者から回収されたとのこと。

その後、1918年インフルエンザウイルスの遺伝子をリバースジェネテクス法により人工合成しサルに感染させたところ、パンデミック中に観察された症状を示すことがわかりました。サルは免疫が過剰反応するサイトカインストームにより死亡したことから、1918年当時もサイトカインストームが若年成人の死亡率を高めたと考えられています。

◆誤解10:今日の世界は1918年と同じぐらい無防備である


感染症の深刻な流行は数十年ごとに発生する傾向がありますが、現代の科学者は、病気で死にかけている患者を隔離して対処する方法について、1918年当時よりも多くを理解しています。また、細菌への二次感染と戦うための抗生物質は当時存在しませんでしたが、現代は医師が処方することが可能です。社会的距離や手洗いの重要性が広く知られており、ワクチンや抗ウイルス薬の開発にも期待できます。文明が発達しても、ウイルスは依然として人間生活を突如として脅かしますが、人類は過去から教訓を学ぶことができるはずです。

https://gigazine.net/news/20200330-10-misconceptions-about-1918-flu/

 

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コメント
1. 中川隆[-13120] koaQ7Jey 2020年4月02日 10:28:11 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1786] 報告

スペイン風邪〜米のカンザス州で新型のインフルエンザが発生、陸軍基地へと広がった。米軍基地からの兵士の仏への移動に伴い、ヨーロッパにも感染が拡大し人類史上最大規模の死者を出した/詫摩佳代
http://www.asyura2.com/20/senkyo271/msg/222.html

第U部 規範と制度で考える

第5章 国際協力という可能性―グローバル・ガバナンスと地政学/詫摩佳代

≪第一次世界大戦中のマラリアとインフルエンザ≫

 第一次世界大戦中、マラリアと並んで、スペイン風邪も猛威を振るった。1918年初頭、アメリカのカンザス州ハスケル群で新型のインフルエンザが発生し、ウィルスは州を東に横断し、陸軍基地へと広がった。米軍基地から仏への兵士の移動に伴い、ヨーロッパにも感染が拡大し、南米、アジア太平洋、アフリカへとウィルスが蔓延した。老人と子どもが犠牲になる普通のインフルエンザとは異なり、死者の大半が20代・32代の若だったこともあり、人類史上、最大規模の死者を出した。

【出展】
 「新しい地政学」北岡伸一・細谷雄一編/東洋経済社’20年


・なぜ世界のメディアは前世紀初頭に起きた「スペイン風邪」(最大で1億人が犠牲に)と今回のコロナを対比して伝えないのか
 http://www.asyura2.com/20/senkyo270/msg/805.html
 投稿者 仁王像 日時 2020 年 3 月 24 日 09:52:42: jdZgmZ21Prm8E kG2JpJGc  

2. 中川隆[-12703] koaQ7Jey 2020年5月08日 08:28:41 : EIjh7CCywc : RFRGdXFIdUF6OEU=[4] 報告

 スペイン風邪のもたらしたもの 2020年05月07日
http://tokaiama.blog69.fc2.com/blog-entry-1114.html

 歴史上、微生物パンデミックは、「黒死病」と呼ばれたペストや、天然痘、コレラ禍と数多いが、もっとも世界中に拡散し、もっともたくさんの死者を出したのは、1918年〜1920年に全世界を席巻した「スペイン風邪」である。
 この感染力の凄まじさから、同じコロナウイルスであるコビット19に対する強烈な警戒心が生まれている。

 被害推計は、いろいろあるのだが、当時、世界人口が20億人のうち、感染者は80%以上、死者は5000万人〜1億人という評価が多い。
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%83%9A%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%81%8B%E3%81%9C

 驚かされるのは、人跡未踏のような秘境に住んでいる未開民族から、北極エスキモーにまで激しく感染が拡大したことで、100年前に「日本のチベット」と言われた程度の山奥の集落など、ひとたまりもなかった。

 私の祖母は、今住んでいる中津川市蛭川の隣、白川町黒川の出身なのだが、元々の先住民ではなかった。
 1910年(明治43年)に、三重県の富田町という海辺の町で生まれて、スペイン風邪の流行が収束した後に、一家揃って、黒川に移住したのだ。

 当時の黒川村は、周囲を1000m級の深い山々に囲まれた本当の秘境で、小澤征爾が数年前まで故、ロストポービッチを引き連れて、夏になると若手の音楽家を集めて講習や演奏活動を行ったことで知られるほど自然環境の素晴らしい土地である。

 なぜ、黒川かといえば、パチンコやネオンサインのような世俗から離れた本当の秘境だったからで、ここでは故、辻宏氏が、日本で数少ないパイプオルガン工房を設けていたことでも知られる。
 辻さんは、スペインでの活躍で、国家最高勲章を授与されているほど優れたパイプオルガン制作者だった。2005年に逝去された今は、工房は閉鎖されている。

 祖母が家族揃って、黒川に移住したのは、1920年頃のことらしいが、なぜ、黒川かというと、実は、岐阜県の山中の集落がスペイン風邪により、若者たちが大量死して、人口が急減したことにより、その穴を埋めるように向かったのだ。

 死者数など、正確な資料を得るには黒川村史を閲覧すればよいのだが、今はコロナ禍で、すべての図書館が閉じていて、当時の資料を確認することができない。
 朧気に伝え聞いた記憶では、第二波感染爆発のとき、いきなり致死的毒性が高まり、健康な若者たちが次々に倒れ、感染者の半数以上が死亡したという。

 黒川では中ノ平という村の中心地、黒川中学の真下に住んで、伊勢屋・冨田屋という雑貨店を開業していたのだが、まだ資本主義的な貸借や所有の常識、経験が浅い村人たちが、ツケで買い物をしても代金を支払わなかったために二軒とも潰れてしまった。
 別の見方では、スペイン風邪禍で、当時の黒川村の働き手の中核であった若者たちの多くが死亡したため、村は極度に貧しくなり、ツケの返済どころでなかったともいう。

 当時の若者といえば、すでに120歳前後であり、もちろん生存者はいないので、事情を聞くわけにもいかないのだが、確かに、祖母よりも上の世代が非常に少ないようだ。
 この戦争のような死者は、岐阜県内陸部に共通するもので、黒川村のような医療の恩恵のない地域で、極端な死者が出たようだ。

 1920年代といえば、まだ何もかも人力にしか頼れない時代なので、人がいないという現実は、村の存続にかかわる問題なので、村の長老たちは必死になって人を呼び寄せたのだろうと想像がつく。
 ちょうど、このころ、黒川村は、交通不便な内陸部でありながら「東美館」という生糸の製糸工場まで誘致している。女工哀史の時代だ。
 これも、若者たちを村に呼び寄せようと、長老たちが必死の思いで誘致したのだろうと考えられる。

 そうして、スペイン風邪の膨大な死者による空白を埋めるため、少しでも人口に余裕のある地域から、人口の急減した被害村落に向かって人口の移動が起きていたのだろう。
 その後、太平洋戦争が勃発すると、満蒙開拓団に参加する人が現れたのは、必ずしも黒川村が桃源郷ではなかったからのように、私には思われる。

 満蒙開拓団は、中津川市の坂下読書地区の人々が知られているが、行った人間で、ハッピーエンドを迎えた者は皆無だ。地獄という表現がふさわしかった。
 黒川の女性のなかに、何が起きたのか実名で証言する人がいたので、詳しく記録されている。

 <つなぐ 戦後74年>性接待 満州で1度死んだ 女性、遺族ら 歴史伝える決意 2019年8月14日
 https://www.tokyo-np.co.jp/article/national/list/201908/CK2019081402000138.html

 以下引用

 敗戦直後の旧満州(中国東北部)で、岐阜県の黒川村(現白川町)周辺から渡った黒川開拓団の女性が、団幹部の指示でソ連兵に性的な「接待」をさせられた。
 今月一日には地元から遺族会が中国の同団跡地へ墓参。中傷や差別を恐れ、口を閉ざしてきた女性や遺族らは近年「悲劇を語り継がねば」と、行動を続けている。(秋田佐和子、平井一敏、浅井正智)

 「(夫がいる)奥さんには頼めん…。あんたら娘だけ、犠牲になってくれんかと言われた。団の幹部にですよ」

 当時二十歳だった佐藤ハルエさん(94)=岐阜県郡上市=が、自身の体験を公に語り始めたのは二〇一三年。長野県阿智村にできた満蒙(まんもう)開拓平和記念館で講演した。接待をさせられた女性十五人のうち四人が性病などで現地で亡くなっている。今、存命者の中で、佐藤さんだけが実名で取材などに応じる。「満州で一度死んだ。どう思われたっていい」と前を向く。

 吉林省陶頼昭(とうらいしょう)に入植した黒川開拓団は一九四五年八月の敗戦で現地住民らからの略奪に遭った。団の男たちは侵攻してきたソ連軍に警護を頼み、代償に未婚の若い女性を差し出した。

 「怖くても嫌とは言えなかった。女は命を守るために性を提供することもある。そう教えられていた」。性の接待は二カ月ほど続いたという。

 元団員で、敗戦時は十歳だった安江菊美さん(84)=白川町=は、佐藤さんと同時期に証言し始めた女性から、亡くなる前に、語り部になるよう託された。現地で接待をする女性たちのために風呂たきなどを手伝っていた。性病予防と称し、医務室で女性が薬品をかけられていた様子など、見たままを伝える。

 七月二日には岐阜大から近現代史の研修に訪れた学生十二人に、町内に立つ「乙女の碑文」の前で説明。高校の社会科教諭を目指す井戸文哉さん(20)は「重くデリケートな問題だが、自分たちが伝えていかないといけない。使命感を覚えた」と神妙に話した。

 白川町でこうした動きを始めたのは、一一年に四代目の遺族会長となった藤井宏之さん(67)。父は開拓団の団員だった。町では満州で亡くなった四人を悼むため、八二年に会が「乙女の碑」を建立したが説明書きはなかった。語ることがタブー視されていたからだ。

 「罪深い歴史を後世に伝える責任を感じていた」と昨年十一月、会により性被害の実態を詳細に記した「乙女の碑文」を建てた。十五人もの関係者から意見を聞き、四千文字を費やして何があったのかを明らかにした。

 遺族会は今月一日、二年ぶりに墓参りのため旧満州の跡地を訪れた。藤井さんは「子どもたちに二度とつらい思いをさせたくない」と、暗い歴史と向き合う決意を見せている。
********************************************************

 佐藤ハルエさんは、本当に勇気のある女性で、「ウソをついたり隠し立てしたりするのが嫌」で、自分に起きた運命を、後世に伝えるため、証言をかってでた。
 私の祖母は、開拓団募集のときは、すでに出稼ぎ先の知立市で結婚していたので、開拓団に行かずにすんだ。

 多くの女性たちが「バイタ」と誹謗中傷されることを怖れて口を閉ざすなかで、唯一、「自分は一度死んだ、なんと思われても構わない」と、真実を後世に残す証言を決意した。
 幸い、身の上に同情した優しい夫を得て、郡上で幸福な老後を過ごしている。
 
 黒川は、とても貧しい土地で、仕事も少ないので、スペイン風邪禍後、20年もしたら、今度は若者たちが余ってしまい、祖母のように出稼ぎに出るか、当時盛んにもてはやされた外国開拓団に向かうかしかなかったのだ。

 今、私の住んでいる蛭川村でも、戦前は、石材業が盛んになり賑わったので、隣村の黒川村から、たくさんの移住者が来ている。
 黒川の女性たちは、蛭川の石屋に嫁入りすることが多かったという。

 ちなみに、祖母が、一家で富田町から黒川に入ったときは、まだ高山線など開通してなくて、中央線で、恵那駅に降りて、約50Kmの道のり、海抜1000mの峠を越えて徒歩で向かったそうだ。
 その後、修学旅行でも、黒川から徒歩二日がかりで恵那まで出たそうだ。若者たちは、通常、徒歩一日の工程だった。

 江戸時代は、黒川村も苗木藩の一部だったので、中山道の助郷に駆り出された。
 一日がかりで大井村に出て、名主の小屋に泊まり、数日間の助郷働きをして、また一日がかりで里に帰った。
 皇女和宮の将軍家降嫁のときはもの凄いイベントで、近隣の住民にとんでもない重荷を背負わせたことは、島崎藤村の「夜明け前」に詳しく描かれている。

 祖母は、祖父の死後、名古屋で事務員として、一人で生計を立てていたのだが、やはり数奇な運命に巻き込まれた。
 「奥様ジャーナル社」という団地新聞に勤めていて、社の企画で乗鞍に向かったとき、自分の育った白川町で、乗っていたバスが、飛騨川に転落したのだ。

 転落した2台の乗客107名のうち、助かったのは祖母を含めて3名だった。祖母は、土砂崩れで道路が遮断されたとき、伝令として、土砂降りの雨のなか、他のバスに向かった。自分のバスに戻ろうとしたとき、それは、ゆっくりと深さ50mの水量があった飛水峡に呑み込まれていった。
 http://tokaiama.blog69.fc2.com/blog-date-20090926.html

 黒川村は、今は、加茂郡白川町の一部なのだが、やはり大きな産業がないせいか、過疎化の一途である。
 小澤征爾の体調が悪化してからというもの、音楽家たちも来なくなった。

 今、スペイン風邪の再来のようなコロナ禍が始まっていて、調べている限り、感染者は可児市どまりで、まだ白川町には出ていないようだ。
 ありがたいことに、私の住む中津川市でも、まだ出ていない。
 しかし、このまま無事にすむはずがない。とりわけ、スペイン風邪と同じ猛毒化した第二波が迫っているといわれる。
 http://tokaiama.blog69.fc2.com/blog-entry-1042.html

 明時代の劉伯温は、8月後半に、恐ろしい事態になると予言している。
 たぶん第二波が、スペイン風邪のように、全国の隅々を制覇して、人々を殺してゆくのだろう。
 私も、肺に基礎疾患がある身なので、助かるはずがないと覚悟を決めて、今は、ゴミ屋敷と身の始末に追われている。
  
http://tokaiama.blog69.fc2.com/blog-entry-1114.html

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