ハンス・クナッパーツブッシュ(Hans Knappertsbusch, 1888年3月12日 - 1965年10月25日)は、ドイツの指揮者。ミュンヘンやウィーンなどで活躍し、とくにリヒャルト・ワーグナーやアントン・ブルックナーの大家として知られる。1951年から1964年にかけて、ほぼ毎年出演したバイロイト音楽祭では主幹的指揮者を務めた[1]。 193センチの長身で、ドイツや日本では「クナ」(Kna) の愛称で親しまれた。 ラインラント地方の都市エルバーフェルト(現在はヴッパータール市の一部)にあるアルコール蒸留会社を経営していたグスタフの次男として生まれる。(なお、同郷出身の指揮者にはギュンター・ヴァントや、ホルスト・シュタインがいる。)
クナッパーツブッシュは子供の頃から音楽家に憧れていたが、家族、特に母と兄(後に会社を継ぐ)の反対もあり、ボン大学に進み哲学を学んだ。後にミュンヘンでも哲学を学び、卒業論文は『パルジファルにおけるクンドリー』であったと言われる。ケルン音楽大学にて音楽を修め、ブラームスの演奏で有名なフリッツ・シュタインバッハに指揮法を学ぶ[3]。 1909年から1912年までバイロイト音楽祭における、ハンス・リヒターの助手として潜り込むことに成功。それ以後、故郷のエルバーフェルトやライプツィヒ、デッサウ、ミュールハイム・アン・デア・ルール(1910年に、ここでデビューしたと伝えられる)など各地の歌劇場やオーケストラにて修行を重ね、1922年、34歳にしてブルーノ・ワルターの後任としてミュンヘンのバイエルン州立歌劇場の音楽監督に就任する。 翌1923年にはウィーンに初めて進出し、ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団とも1929年のザルツブルク音楽祭で初顔合わせを果たしている。 しかし、1935年にバイエルン州での演奏活動を禁止され、同時にバイエルン州立歌劇場からも追放[4]される(後任は当時ナチ寄りとされたクレメンス・クラウス)。 追放後はウィーンとベルリン、ザルツブルク音楽祭などに定期的に客演した。 1936年からはウィーン国立歌劇場を根城に、1944年6月30日の『神々の黄昏』上演(爆撃で破壊される前の最後の上演)まで同劇場で精力的な演奏活動を繰り広げた。『黄昏』上演後は、終戦まで息を潜めていた。 1945年8月17日、ミュンヘンのプリンツレゲンテン劇場のバイエルン州立管弦楽団とのコンサートで活動を再開するも、1ヵ月後に連合軍から「反ユダヤ主義者」という誤った嫌疑で活動を禁止されてしまう (彼はユダヤ人とも交際が幅広かった。禁止解除後、連合軍は謝罪している)。 2年後の1947年にバンベルク交響楽団を指揮し改めて活動を再開。ミュンヘンとウィーンを中心に[5]指揮活動を継続した。1951年にはバイロイト音楽祭に初登場、『指環』、『パルジファル』を指揮した。 その後はウィーン、ベルリン、バイロイトを中心に、イタリアやパリでも演奏活動を続けたが、1961年にブリュッセルで胃の大手術を受け、以後は体力が衰えがちとなり椅子に座って指揮するようになった。
1964年の秋に自宅で転倒して大腿骨を骨折したのが原因で一気に体力が衰え、翌1965年に自宅で亡くなった。 クナッパーツブッシュの亡骸は2番目の妻であるマリオン(1895-1984[6])とともにミュンヘンのボーゲンハウゼン墓地(聖ゲオルグ教会)に葬られている[7]。 人物 クナッパーツブッシュは大変な練習嫌いで通っていた。第二次世界大戦中の爆撃で破壊され、1955年に再建されたウィーン国立歌劇場の再開記念公演で、リヒャルト・シュトラウスの楽劇『薔薇の騎士[8]』を上演することになった時には、練習場所のアン・デア・ウィーン劇場でメンバーに向かって「あなたがたはこの作品をよく知っています。私もよく知っています。それでは何のために練習しますか」と言って帰ってしまった[9]。この本番のライヴ録音はCD化されている。ただし音楽評論家の吉田秀和は、これはオーケストラや指揮者がそれまで繰り返し手がけてきた作品であることを前提としており、クナッパーツブッシュがどんな場合でも準備をしなかった訳ではないだろうとしてる[10]。 ナチスの政権奪取後は流石に表だった批判をせず、体制に配慮してトーマス・マンを非難する論文に署名したり、ヒムラーの臨席による親衛隊向けのコンサートを主催するなど、それなりに合わせてはいたが、彼の指揮スタイルがヒトラーの趣味に合わず[11]1936年にミュンヘンを追放された[12]ことで、第三帝国終焉までナチスとの相性は悪かった。ナチスによる音楽活動に従事していたにもかかわらず、大戦後の職務復帰は比較的早かった。 演奏解釈・スタイル・レパートリー 岩城宏之がウィーンにいた頃、ウィーン・フィルの楽員に「クナの指揮スタイルが理想だ」と言ったところ、「クナは若い頃は無茶苦茶していたんだ。年をとってからああいう風になっただけだ。君も若いうちは無茶苦茶やればいい」と諭されたという[13]。このように、若かりし頃のクナッパーツブッシュの演奏スタイルは、後年とは異なるものだったようである。40代からレコーディング活動を行っているが、テンポの変化が激しく、後年にレコーディングされた一連のレコード群の解釈と比較すると、その差は大きい。健康問題もあって、レコーディング活動を徐々に疎ましく思うようになっていったといわれるが、それなりに残された[14]。 21世紀に入ってクナッパーツブッシュがウィーン・フィルハーモニー管弦楽団を振ったコンサート映像(ワーグナーの『ワルキューレ』第1幕全曲、『トリスタンとイゾルデ』から前奏曲と「愛の死」、ジークフリート牧歌など)が映像化[15]されるなど、クナッパーツブッシュの指揮の映像を広く目にすることができるようになった。これらの映像では、クナッパーツブッシュが非常に小さく指示を与えているのみであるにもかかわらず、突き刺さるようなFFFが鳴らされるなど[16]、長年の共同作業に基づく解釈が定着していたことがわかる。 ヴィルヘルム・バックハウスとのベートーヴェンのピアノ協奏曲第4番などコンチェルトの伴奏も、映像として残されている[17]。 ワーグナー 楽劇の中では『パルジファル』がお気に入りであり、バイロイトでは1951年から死の前年の1964年まで、出演拒否した1953年を除いて連続して指揮をした。バイロイトでのライヴは、1962年の『パルジファル』は早くからフィリップスよりリリースされていたが、20世紀末以降はクナッパーツブッシュ協会の監修を経て GOLDEN MELODRAM[18]など各種レーベルからリリースされている。 クナッパーツブッシュのバイロイト出演記録 1951年:パルジファル、ニーベルングの指環、ニュルンベルクのマイスタージンガー(ヘルベルト・フォン・カラヤンと交代で指揮) 1952年:パルジファル、マイスターシンガー 1954年:パルジファル 1955年:パルジファル、さまよえるオランダ人(ヨーゼフ・カイルベルトと交代で指揮) 1956年:パルジファル、指環(カイルベルトと交代で指揮) 1957年:パルジファル(アンドレ・クリュイタンスと交代で指揮)、指環 1958年:パルジファル、指環 1959年:パルジファル 1960年:パルジファル、マイスタージンガー 1961年 - 1964年:パルジファル なお、ゲオルク・ショルティがレコーディングしてワーグナー録音の一大金字塔を打ち立てた『ニーベルングの指環』全曲録音は、最初はクナッパーツブッシュに依頼されたものであり、その下準備のためのレコーディング(『ワルキューレ』第1幕。ジークリンデ:キルステン・フラグスタート、ジークムント:セット・スヴァンホルム、フンディング:アーノルト・ヴァン・ミル)も行われた。 ブルックナーのスコア選択 ブルックナーの交響曲もクナッパーツブッシュの得意としたレパートリーであるが、原典版を使用しなかったことでも知られている。 クナッパーツブッシュの若いころにはブルックナーのスコアはいわゆる「改訂版」しか出版されていなかった。この改訂版にはブルックナー以外の者による改変・カットなどがあったが、こうした改変・カットを見直すべく1935年以来ローベルト・ハースによって校訂された「原典版」が出版され、その後ハースに引き続いてレオポルト・ノヴァークによって校訂された新しい原典版も出版されていった (「ブルックナーの版問題」も参照のこと) https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%96%E3%83%AB%E3%83%83%E3%82%AF%E3%83%8A%E3%83%BC%E3%81%AE%E7%89%88%E5%95%8F%E9%A1%8C しかしクナッパーツブッシュはブルックナーの交響曲の演奏に際し、校訂された原典版は採用せず旧来の改訂版ばかりを使用した。クナッパーツブッシュがなぜ旧態依然とした改訂版の使用に固執し、演奏当時入手が可能であった原典版を採り上げなかったのかについてはわかっていない。 クナッパーツブッシュがスタジオ録音したブルックナーの交響曲はウィーン・フィルハーモニー管弦楽団を指揮した3番、4番、5番、ミュンヘン・フィルハーモニー管弦楽団を指揮した8番がある。 このほか7番や9番にもライヴ録音がある。 現代では改訂版による演奏に接する機会は極めて稀であり、クナッパーツブッシュによる録音が「一番入手しやすい改訂版の音源」となっている。 レパートリー ワーグナー指揮者、ブルックナー指揮者のイメージが強すぎるため見過ごされがちだが、実際のレパートリーは幅広く、コンサートでは バッハからモーツァルト、ベートーヴェン、ブラームス[19]、チャイコフスキー、マーラー、リヒャルト・シュトラウス、シベリウス、バルトーク、フランツ・シュミット、ストラヴィンスキー、テオドール・ベルガーを、 オペラではリヒャルト・シュトラウスの他、ヴェルディやプッチーニ、コルンゴルト、プフィッツナー、ヴォルフ=フェラーリ[20] なども指揮していた。 また、ウェーバーやシューベルト、ヨハン・シュトラウスなどの小品を振った演奏も高く評価されている。 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%83%B3%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%82%AF%E3%83%8A%E3%83%83%E3%83%91%E3%83%BC%E3%83%84%E3%83%96%E3%83%83%E3%82%B7%E3%83%A5
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