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共産主義の時代
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/613.html
投稿者 中川隆 日時 2020 年 3 月 20 日 11:56:26: 3bF/xW6Ehzs4I koaQ7Jey
 

(回答先: 20世紀初めはこういう時代だった 投稿者 中川隆 日時 2020 年 3 月 20 日 10:36:36)

共産主義の時代

マルクスがイギリスで共産主義を考えた理由
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/891.html

階級社会イギリスは、オーウェルの「1984年」監視社会を実現した、最初の国だった
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/889.html

高校生で人生がほぼ決まってしまうフランスの超学歴社会…日本人ははるかに幸せ
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/962.html

ビル・ゲイツやスティーブ・ジョブズの正体
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/727.html

アメリカのロビイストは政治家に「この法案を成立させたら何億ドル差し上げますよ」と働きかける
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/530.html

米有名大学は金で学歴を「販売」 名門大学生の半分がコネと金入学
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/934.html

革命は軍や警察が国家を裏切り市民側に就かないと成功しない
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/574.html

パリ・コミューンについて
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/890.html

チェ・ゲバラ  世界を変えようとした男
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/715.html

社会主義の20世紀 カストロの選択
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/791.html

アナーキストが誰にも相手にされない理由 _ 一般大衆は自由であるよりも支配されることを望んでいる
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/737.html

新自由主義を放置すると中間階層が転落してマルクスの預言した階級社会になる理由
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/350.html

マルクスはやはり正しかった _ もうすぐ共産革命の嵐が吹き荒れる時代がやって来る
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/704.html

マルクス史観はどこが間違っていたのか?
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/775.html

社会主義はそんなに悪いか
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/702.html

ピケティで明けました
http://www.asyura2.com/13/ban6/msg/562.html

上級国民/下級国民 _ 『持てる者』は“事実上の一夫多妻”、『持たざる者』は生涯独身
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/689.html

欧州で増える貧困層 イギリスではフードバンク難民が100万人以上
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/803.html

“独立”する富裕層  政府による所得再分配は努力して金持ちになった人の金を盗む行為だから許せない
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/701.html

グローバリズムというのはファシズムだった
http://www.asyura2.com/17/ban7/msg/117.html

グローバル経済では人間が商品として売買される
http://www.asyura2.com/13/lunchbreak53/msg/884.html

安くて従順な子供を、朝から晩までこき使う資本主義の裏の顔
http://www.asyura2.com/12/lunchbreak52/msg/413.html

主要企業・銀行の殆どが外資に乗っ取られてるとこういう社会になる
http://www.asyura2.com/12/lunchbreak52/msg/784.html

誰も知らないアメリカ格差社会の実情
http://www.asyura2.com/13/lunchbreak53/msg/110.html

竹中平蔵物語 _ 竹中先生が理想とするアメリカ社会とは
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/301.html

池田信夫の逝かれっぷり _ 時代錯誤の「比較優位の原理」を鵜呑みにしている自称経済学者 池田信夫
http://www.asyura2.com/09/bun2/msg/543.html

日経平均株価が上がる程 日本人はどんどん貧しくなっていく _ アベノミクスがもたらした株価上昇による100兆円の損失
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/188.html



▲△▽▼


世界で成功した共産社会はバブル崩壊までの日本だけだった


馬渕睦夫 ウイルソン大統領とフランクリン・ルーズベルト大統領は世界を共産化しようとしていた
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/145.html

戦後の日本が世界で最も成功した社会主義国、理想の共産社会に近い一億総中流社会になった理由
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/353.html

GHQ とユダヤ金融資本は戦後の日本を共産化しようとして農地改革、人為的インフレ生成、預金封鎖、日本国憲法制定を行った
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/146.html

戦後の日本が世界で最も成功した社会主義国、理想の共産社会に近い一億総中流社会になった理由
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/353.html

日本の1946年預金封鎖
http://www.asyura2.com/13/ban6/msg/740.html

終戦後、自称”労働者の代表”達の活動を背後で操り、支援していたのはGHQだった
http://www.asyura2.com/17/ban7/msg/116.html

戦後の日本人は本当に GHQ とマッカーサーに洗脳されて東京裁判史観・自虐史観を持つ様になったのか?
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/232.html

昭和天皇を震え上がらせた共産主義の恐怖とは
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/754.html
 
ディビット・バーガミニ _ 天皇の陰謀 天皇裕仁はかく日本を対西洋戦争に導いた
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/760.html

鬼塚英昭 日本の真相 天皇のための戦争・天皇は内通していた
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/761.html


▲△▽▼

ソ連は共産国家ではなく単なる独裁国家

ロシア革命とは何だったのか?
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/795.html

脳動脈硬化症で晩節を汚した(?)レーニン _ 実際は若い時から…
http://www.asyura2.com/11/hasan72/msg/756.html

ロシアの若者の間でスターリンがじわじわ人気上昇中
http://www.asyura2.com/11/hasan72/msg/757.html

社会主義の20世紀 |バルトの悲劇
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/788.html

ドイツとロシアにはさまれた国々において、ヒトラーとスターリンは 1933年〜1945年に1400万人を殺害した
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/344.html

ヴィクター・ロスチャイルドはナチス・ドイツと八百長戦争をして儲けるために、親ナチス派のエドワード八世に醜聞を仕掛けて排除した 
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/772.html

社会主義の20世紀 おしつぶされた改革 〜プラハの春・ドプチェクの証言〜
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/794.html

プーチン大統領は神の申し子
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/297.html


▲△▽▼

共産主義者のルーズベルトは意図的に東欧を共産圏にした

馬渕睦夫 ウイルソン大統領とフランクリン・ルーズベルト大統領は世界を共産化しようとしていた
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/145.html

アメリカ軍はなぜ不利なノルマンディに上陸したのか 
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/963.html

馬渕睦夫 米国がつくった中華人民共和国
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/135.html

朝鮮戦争は八百長戦争だったのか?
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/492.html

馬渕睦夫 deep state の世界を語る _ 朝鮮戦争も東西冷戦もアラブの春も対テロ戦争もすべてヤラセだった
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/105.html

▲△▽▼

中国は共産主義国ではなく古来の皇帝が支配する儒教国家

馬渕睦夫 米国がつくった中華人民共和国
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/135.html

朝鮮戦争は八百長戦争だったのか?
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/492.html

中国最後の皇帝 毛沢東 _ 共産革命とは一体何であったのか?
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/537.html

中国では、法律は、皇帝の命令である。だから、皇帝は、法律に従わなくていい。
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/615.html

毛沢東はセッ○ス狂
http://www.asyura2.com/11/hasan72/msg/760.html

中国人の子供の幼き頭に刷り込まれた「毛沢東思想」の正体
http://www.asyura2.com/17/lunchbreak54/msg/253.html

毛沢東気取りの習近平の近況
http://www.asyura2.com/17/lunchbreak54/msg/277.html

社会主義マジック _ 中共が GDP 世界第二位の超大国になれた理由
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/203.html

有史以来 戦争に勝った事が一度も無い漢民族が巨大な領土を手に入れた手口
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/204.html

自称共産国家の中華人民共和国が世界史上最悪の階級社会になった理由
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/354.html

中国は世界史上最悪の階級社会
http://www.asyura2.com/17/lunchbreak54/msg/269.html

中国 _ 悪夢の監視社会
http://www.asyura2.com/17/lunchbreak54/msg/181.html

監視国家 中国
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/888.html

河添恵子 中国共産党の真実
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/425.html

石平 中国共産党政権の脅威
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/435.html


▲△▽▼

北朝鮮は共産主義国ではなく古来の儒教国家

朝鮮戦争は八百長戦争だったのか?
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/492.html

チュチェ思想は朝鮮古来の儒教思想であって、共産主義とは何の関係も無い
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/566.html

朝鮮は儒教国家、儒教を知らないと朝鮮人の行動様式は理解できない
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/564.html

"新喜び組"は23歳以下の美女たち!
http://www.asyura2.com/12/lunchbreak52/msg/906.html

 

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コメント
1. 中川隆[-13697] koaQ7Jey 2020年3月20日 12:21:16 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1185] 報告

20世紀はこういう時代でした


『アレクサンダー大王』 テオ・アンゲロプロス監督








16世紀、オスマントルコのギリシャ侵攻があった際、マケドニアの
アレクサンダー大王が復活したと巷間のうわさとなり、それと19世紀の
英国貴族誘拐事件の史実をふまえてアンゲロプロスはこのファンタジーを
つくり上げたそうです。

しかし、ファンタジーといっても本作の内容はやけに現実味を帯びた
部分もあり、類まれな空想のなかにのっぴきならぬリアリティを含ませて
います(全編が空想にもかかわらず)。

空想と現実感がないまぜになっているところがこの作品の魅力のひとつの
ような気がします。

長まわしのワンショット=ワンシーン、ロングショットの多用、曇天下の
撮影など、例によって変わるところはありません。

まず、冒頭近く、20世紀目前の大晦日いんちきくさい大王一味がいかにも
現実めいた脱獄を敢行したのち、いきなり古代マケドニアにタイムスリップ
したかのようなフォトジェニック、レンブラントの画のごとく明暗を強く
押し出してけぶる森の木立の拓けたまるい平土に一頭の白馬が繋がれて
遊んでいる。
やがて大王が馬に颯爽とまたがりエキゾティックな音曲がその夢のような
映像を盛り立てます。もやはうさん臭さはどこにもありません。

アレクサンダー大王、復活せり!

さて、大王が人質(農地の要求と恩赦を得るため)をつれて帰郷すると
そこはコミューンと呼ばれる共産村になっていました。
いわゆる私有財産は認められず、共有財産により貧富の差をなくそうとする
ものです。

そこで、イタリア人アナーキストの一団も加わり、村は徐々に安定性を欠いて
行きます(彼らは王のカリスマ性の限界を見抜くのだが)。

やがて、大王はしだいに村人から刀狩りや食糧略奪などをはじめ、じぶんの
言うことをきかないやつは処刑します。専制君主政のはじまりです。

結果、村人たちのうっぷんは水面下でだんだん蓄積されてゆきます。

ここらあたりは妙にリアリティが伴っています(その他、英国との折衝や裁判
など現実的な場面が何度もでてくる)。

ラスト近くの革命シーンのアイデアには度肝を抜かれますが、ここでは
思いっきり現実離れして、もはや寓話の世界です。映画的というより演劇的な
演出に圧倒されます。

史実のアレクサンダー大王もてんかん持ちだったらしく、それを持ち出すのも
芸が細かいです。

ところで、大王と同じ名のアレクサンダーという名の少年が登場します。
彼は向学心が強く、どうやらマザコンです。明らかに大王の少年時代を映しており、
次世代の英雄としての含みを持たせているように思われます。
これもどこか寓意的です。

ラストカットではもっと直截的に「英雄は生き続ける」と主張しているわけですが。
https://www.amazon.co.jp/%E3%82%A2%E3%83%AC%E3%82%AF%E3%82%B5%E3%83%B3%E3%83%80%E3%83%BC%E5%A4%A7%E7%8E%8B-DVD-%E3%82%AA%E3%83%A1%E3%83%AD%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%83%88%E3%83%8C%E3%83%83%E3%83%86%E3%82%A3/dp/B00JKB218E



アンゲロプロス「アレクサンダー大王」


ギリシャの映画監督テオ・アンゲロプロスというと、「旅芸人の記録」や「永遠と一日」といった作品でその名を知られ れた映画監督です。私もその作品を何本か見たことがありますが、ロングショットを多用し、時系列が頻繁に入れ替わる 事が多いように感じる作品がかなりあると思います。今回の「アレクサンダー大王」は時系列が頻繁に入れ替わることは ないものの、主人公は多くを語らず(ほとんど台詞はない)、映像で語らせるという感じの映画になっています。

物語は20世紀初頭、脱獄した政治犯がアレクサンダー大王を名乗り、仲間と共に外国人を誘拐し、自分たちの故郷にかえっ てそこに籠城する、という話です。まず、脱獄のシーンからして、いつの間にこうなったのかとおもわされるところが ありますし、脱獄した後に武装するシーンなどはまさに寓話めいています。馬と武器のあるところだけ月明かりがさして いるという場面やアレクサンダー大王のが昇る太陽を背に白馬に乗って登場する所などは、それを見ただけでもしびれて しまいます。

スニオン岬で外国人達を人質にしたアレクサンダー大王とその仲間は自分たちの特赦と村の農民達の土地所有を認める ことを要求しますがそれは認められず、彼らは故郷にはいって、そこで人質とともに立てこもることになります。村に入る 前に人質にした外国人のなかで女性は解放したものの、男性はそのまま連れて行き、故郷の村へと入ります。このあたり では、人質に対する扱いでトラブルを起こした部下を処刑するなど、かなり統制の取れた集団にしようとしていることが うかがえます。そして村に入った後、その後は村における様々な出来事が書かれていきます。歓迎の宴の場面では、村の 歌や踊り、イタリア人たちの歌など、さまざまな歌や踊りが登場しますが、こういうところは何となく「旅芸人の記録」 の歌合戦のシーンのようでした。しかしこの歓迎の宴の時点ですでにこの後の破滅が何となく予見できる作りになって います。思想的に相容れない人々が一緒にやっていくことが果たして出来るのかという不安を残しつつ、村での生活がスタート します。

故郷の村では、彼らがとらえられ獄につながれている間に原始的な共産社会がつくられ、そこでは「先生」という人が 指導的立場に立っています。また大王一行と途中で出会って村に着いてきたイタリア人無政府主義者達もいます。これら 2つの政治勢力と、大王一行の3つの立場が村の中に存在するようになりますが、やがて解放者のようであり、盗賊であり ながら村人の支持を得ていたアレクサンダー大王が共有財産である羊を殺したり、いままで止められていた時計を動かしたり、 何の理由もなく人を殺したりする中で村の社会が崩れ、やがて彼も破滅に至ることになります。共産社会を営んでいる村でも、 地主が土地は村民のものであることを認めると、その後村民間で今後も土地を共有にするべきか、伝統的な私有制にするべき かをめぐって対立するようになり、徐々にきしみが出てきています。結局イタリア人無政府主義者たちはうまくいかずに 村を出ようとして殺されることになります。それでも問題はまだまだ続き、アレクサンダーが共産社会のルールを破る行動 を繰り返し、独裁者として村を力で抑えていくことになります。そして最終的に政府軍との戦いに敗れ、彼は群衆の中にその 姿を消していくことになります。

村には盗賊の首領のアレクサンダーのほか、少年アレクサンダーもいます。かれは村において「先生」の指導する原始共産 社会の経験をしつつ、村にやってきた無政府主義者の思想にもふれ、さらにアレクサンダー大王というカリスマによる支配 も見ています。最後、傷を額に負った彼は、馬にのせられ、20世紀初頭のギリシャの寒村を飛び出し、現代のアテネの町へ と消えていきます。このあたりは、よく言われているところではありますが、子供に希望を託したといったところでしょうか。

大まかに内容をまとめてみましたが、まずこの映画の場合は時系列をいじると言うことは見られません。時間の流れは出来事が 起きた順番に流れていきます。そのため、いきなり過去のシーンに飛んだりすると言うことはなく、その分流れには乗りやすい とおもいます。映像自体はどんよりと曇ったギリシャの空のもと、雪のシーンなどもあり、色彩鮮やかとか明るい映像という ものはみられません。しかし、ロングショットを多用し、カメラを軸に一周して町の様子を移すといった映像表現は他の作品 でもよく見られる特徴でしょう。また、内容については、やはり近現代ギリシャの歴史に目を向けつつ、古代ギリシアの神話的 な世界の要素や、中世のビザンツ・キリスト教的な要素を映像表現の中にも加えつつまとめたという感じです。

映画のタイトルは「アレクサンダー大王」となっていますが、そこに書かれているのは歴史上のアレクサンドロスではなく、 紀元後3世紀頃に起こり、オスマン帝国の支配を受けるようになってから民衆の間に広まった「アレクサンダー伝説」の アレクサンドロスです。古代以来、様々な伝承が積み重なって作られる過程で、歴史上のアレクサンドロス像から大きく離れ、 民衆の心の中ではアレクサンドロスは解放者としてのイメージが強く広がっていきます。そしてその伝説とイメージの存在が、 20世紀初頭の義賊の首領にアレクサンダーの名が与えられる理由になるわけです。このような解放者としてのアレクサンダー というイメージは、古代のアレクサンドロスに関する伝記にも見ることが出来ます。東征初期、小アジア沿岸部のギリシア人 諸ポリスを「解放」していることがそう言った伝記にも書かれていますが、そういったことが時を経るにつれて伝説の中で 解放者としてのイメージを民衆に広める一員となったのでしょう。

一方、村の支配者となったアレクサンダーは当初は解放者として村民の支持を得ていたようですが、時が経つにつれて 徐々に独裁者となっていきます。この展開も古代のアレクサンドロスに関する史料にすでに見られます。ペルシア帝国を 滅ぼした後のアレクサンドロスは征服地支配の必要上、ペルシアの仕組みを採用したり宮廷儀礼を導入していますが、その ようなアレクサンドロスの姿をオリエントの風習に毒されて独裁者と化したように書くという叙述も古くからあります。 インタビューなどを見ると古代のアレクサンドロスと関係ない、民衆の伝承の中に存在するアレクサンダー大王を書いた ということを述べているので、映画の方とは関係ないとは思いますが。ただ、見る側としては古代の時点でそんな書き方も あるということが頭の片隅にあったため、アレクサンダーが独裁者となり村が崩壊するという過程はすんなりと受け入れて しまいました。

古代ギリシアと現代ということに関して、映画の中で、イギリス人貴族が古典の一節を引用して現代ギリシア人がそれを 分からない様をみてバカにするような所があったり、アレクサンダー大王の裁判の場面でもイギリス人貴族が古典の一節 を朗詠して一人悦にいる中でギリシャ人達には何をやっているのかさっぱり理解されないという場面が見られます。古代 ギリシアと現代ギリシャの関係というものは常に問題になるところだと思います。ルネサンス期の「古代の発見」以降、 古代ギリシアの文献や美術に対する興味が高まり、その結果近現代の西欧人にとり、現代ギリシャは古代ギリシアとは別 のものであり、自分たちこそ古代ギリシアの文明を継承しているという意識が強かったと聞きます。映画の中でのイギリス 人の振る舞いもそう言ったところが有る程度反映されているのでしょう。

https://historia334.web.fc2.com/days/megalexandros.html
2. 中川隆[-13692] koaQ7Jey 2020年3月20日 14:46:23 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1190] 報告


右翼・左翼の対立を使った分割統治政策 _ 左翼運動・マルクス主義運動は国際金融資本が資金提供していた
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/296.html

戦後の日本が世界で最も成功した社会主義国、理想の共産社会に近い一億総中流社会になった理由
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/353.html

GHQ とユダヤ金融資本は戦後の日本を共産化しようとして農地改革、人為的インフレ生成、預金封鎖、日本国憲法制定を行った
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/146.html

若松孝二 実録・連合赤軍 あさま山荘への道程 (2007年) _ 1970年代はこういう時代だった
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/287.html

重信房子、北朝鮮、オウム真理教の深い関係
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/300.html

日本共産党の(かなり危ない)アレな裏話…(おや?後ろに誰か来たようだ…(震…|
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/687.html

不破哲三の正体
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/650.html

日本の左翼は今でも地道な政治活動を続けている
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/744.html

左翼の本質は思想ではなく「タカリ」という生き方
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/671.html  

3. 中川隆[-13691] koaQ7Jey 2020年3月20日 15:00:13 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1191] 報告

チュチェ思想は共産思想ではなく典型的な儒教思想


中国も北朝鮮も共産主義国ではなくて儒教国家です。

自称共産国家は国名に民主主義共和国とか付けて民主主義国みたいに装っているのと同様、実際には民主主義国でも共産主義国でもないのです。

世界で本当の共産主義に近かった国はバブル前の日本だけです。

それは、終戦後、共産主義者・ニューディ−ラーばかりだった GHQ が農地改革したり、意図的にインフレを起こして資産家の財産を取り上げて日本を無階級社会にしたからなのです。

日本共産党や労働組合もGHQが合法化しました。

一方、自称共産国家の中国はそんな事はしていません。

本来の共産主義国には、現在の中国みたいな階級も極端な貧富の差は絶対に存在しません。つまり、 中国共産党員は共産主義者ではなく正統派の儒教者なのです。
そもそもこの現代に左翼なんか存在しません。

日本共産党は典型的な保守反動政党だし、現在の中国・北朝鮮・韓国は古来の儒教思想が現在まで続いている国だよ。 習近平も毛沢東も昔ながらの中国皇帝だしね。
グローバリズムは左翼思想だとか、チュチェ思想が共産主義だと言っているアホがいるけど、

・グローバリズムは21世紀型の帝国主義で典型的な資本主義思想

・チュチェ思想は天命を受けて統治している天子をみんなで支えなければいけないという儒教思想

4. 中川隆[-13688] koaQ7Jey 2020年3月20日 15:22:48 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1194] 報告

独裁者の登場と行く末
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/409.html
5. 中川隆[-13574] koaQ7Jey 2020年3月22日 16:42:14 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1330] 報告



ロシア革命|100年後の真実





【ロシア革命】@ 10月革命は 首都ペテルグラードソビエト議長 トロツキーの演説から始まった



【ロシア革命】 A 内戦とトロツキーの赤軍創設



【ロシア革命】 B レーニンの死去 ソビエトはトロツキーではなくスターリンを後継者に選んだ



【ロシア革命】 C スターリンの時代



【ロシア革命】 D 党内派閥争いから粛清



【ロシア革命】 E 強制収容所



【ロシア革命】 F スパイ ゾルゲ



【ロシア革命】 G 祖国防衛戦争



【ロシア革命】 H ソビエト軍の満州国侵攻



【ロシア革命】 I ソビエトの崩壊



【ロシア革命】 J スターリン主義の亡霊




【ロシア革命】 K 【フランス映画】THE ASSASSINATION OF TROTSKY トロツキーの暗殺)


6. 中川隆[-13534] koaQ7Jey 2020年3月23日 10:10:59 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1370] 報告

ワイダ カティンの森 Katyń (2007年)

監督 アンジェイ・ワイダ
脚本 アンジェイ・ワイダ ヴワディスワフ・パシコフスキ プシェムィスワフ・ノヴァコフスキ
原作 アンジェイ・ムラルチク
音楽 クシシュトフ・ペンデレツキ
撮影 パヴェウ・エデルマン
公開 2007年9月17日
製作国 ポーランド
言語 ポーランド語 ドイツ語 ロシア語


動画
https://www.nicovideo.jp/search/KATY%C5%83%20%20%2F7%20?f_range=0&l_range=0&opt_md=&start=&end=


キャスト

マヤ・オスタシェフスカ (Maja Ostaszewska):アンナ
アルトゥル・ジミイェフスキ (Artur Żmijewski):アンジェイ大尉 - アンナの夫、カティンで殺害される
ヴィクトリア・ゴンシェフスカ (Wiktoria Gąsiewska) : ヴェロニカ(通称ニカ) - アンジェイとアンナの娘
マヤ・コモロフスカ (Maja Komorowska):アンジェイの母
ヴワディスワフ・コヴァルスキ (Władysław Kowalski):アンジェイの父・ヤン教授 - ヤギェウォ大学教授、講演会を名目に大学に招集され、同僚とともに収容所に送られ、病死
アンジェイ・ヒラ (Andrzej Chyra):イェジ中尉 - アンジェイの戦友 - カティンで殺害されず帰還、のちに「カティンの森事件」について、ソ連側の証人となったことを恥じて自殺
ダヌタ・ステンカ (Danuta Stenka):大将夫人ルジャ
ヤン・エングレルト (Jan Englert):大将 - カティンで殺害される
アグニェシュカ・グリンスカ (Agnieszka Glińska):イレナ - ピョトル中尉の妹
マグダレナ・チェレツカ (Magdalena Cielecka):アグニェシュカ - ピョトル中尉、イレナの妹
パヴェウ・マワシンスキ (Paweł Małaszyński):ピョトル中尉 - カティンで殺害される
アグニェシュカ・カヴョルスカ (Agnieszka Kawiorska):エヴァ - 大将とルジャの娘
アントニ・パヴリツキ (Antoni Pawlicki):タデウシュ(トゥル) - アンナの甥、父カジミエシュはカティンで殺害される
アンナ・ラドヴァン (Anna Radwan) : エルジュビェタ - タデウシュの母
クルィスティナ・ザフファトヴィチ (Krystyna Zachwatowicz):グレタ - ドイツ総督府の法医学研究所関係者。イェジ中尉の依頼により、アンナにアンジェイ大佐の手帳をわたす
セルゲイ・ガルマッシュ (Sergei Garmash) : ポポフ大尉 - 同情的でアンナを秘密警察から匿った赤軍将校
スタニスワヴァ・チェリンスカ (Stanisława Celińska) : スタシア - 大将の使用人
クシシュトフ・グロビシュ (Krzysztof Globisz) : 医師 ドイツ総督府の法医学研究所で、カティンの森の事件の調査をしている。ポーランドがソ連により解放されることになり、自分の身の危険を感じている。


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『カティンの森』(ポーランド語: Katyń)は、2007年(平成19年)製作・公開のポーランドの映画(en:Cinema of Poland)である。第二次大戦下に実際に起きた「カティンの森事件」を題材とした映画である。


自らの父親もまた同事件の犠牲者である映画監督アンジェイ・ワイダが、80歳のときに取り組んだ作品である[1]。原作は、脚本家でありルポルタージュ小説家でもあるアンジェイ・ムラルチクが執筆した『死後 カティン』(Post mortem. Katyń, 工藤幸雄・久山宏一訳『カティンの森』)である。構想に50年、製作に17年かかっている。

撮影は『戦場のピアニスト』等でも知られるポーランド出身の撮影監督パヴェウ・エデルマン、音楽はポーランド楽派の作曲家クシシュトフ・ペンデレツキが手がけた。ポーランドでは、2007年9月17日に首都ワルシャワでプレミア上映され、同年同月21日に劇場公開された[2]。

翌2008年(平成20年)、第58回ベルリン国際映画祭でコンペティション外上映された[2]。

ワイダは、2010年(平成22年)4月7日、ロシアのウラジーミル・プーチン首相、ポーランドのドナルド・トゥスク首相が出席した「カティンの森事件」犠牲者追悼式典に参列した[3]。同月10日に開催予定であったがポーランド空軍Tu-154墜落事故のため中止となった「カティンの森事件」追悼式典のための大統領機には、搭乗してはいなかった[4][5]。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%B3%E3%81%AE%E6%A3%AE


1939年9月、クラクフのアンナ(マヤ・オスタシェフスカ)は娘を連れ、夫のアンジェイ大尉(アルトゥル・ジミイェフスキ)を探しに行く。一方、東から来た大将夫人(ダヌタ・ステンカ)はクラクフに向かう。アンジェイや仲間のイェジ(アンジェイ・ヒラ)たちは、ソ連軍の捕虜となっていた。アンジェイは、見たことすべてを手帳に書き留める決意をする。アンナはクラクフに戻ろうとするが、国境を越えられない。11月、アンジェイの父はドイツ軍の収容所に送られる。翌年初め、アンナと娘、アンナの義姉と娘は、ロシア人少佐の家に匿われていた。義姉親子は強制移住のため連れ去られるが、アンナたちは逃げ延びる。春、アンナと娘は義母のいるクラクフへ戻り、義父の死を知る。アンジェイはイェジから借りたセーターを着て、大将、ピョトル中尉らと別の収容所に移送される。1943年4月、ドイツは一時的に占領したソ連領カティンで、多数のポーランド人将校の遺体を発見したと発表する。犠牲者リストには大将、イェジの名前が記され、アンジェイの名前はなかった。大将夫人はドイツ総督府で夫の遺品を受け取り、ドイツによるカティンの記録映画を見る。1945年1月、クラクフはドイツから解放される。イェジはソ連が編成したポーランド軍の将校となり、アンナにリストの間違いを伝える。イェジは法医学研究所に行き、アンジェイの遺品をアンナに届けるよう頼む。イェジは大将夫人から“カティンの嘘”を聞き、自殺する。国内軍のパルチザンだったアンナの義姉の息子タデウシュは、父親がカティンで死んだことを隠すよう校長から説得されるが、拒否する。その帰り道、国内軍を侮辱するポスターを剥がした彼は警察に追われ、大将の娘エヴァと出会う。校長の妹はカティンで遺体の葬式を司った司祭を訪ね、兄ピョトルの遺品を受け取る。そして兄の墓碑にソ連の犯罪を示す言葉を刻み、秘密警察に狙われる。法医学研究所の助手グレタはアンナに、アンジェイの手帳を届ける。
http://www.kinenote.com/main/public/cinema/detail.aspx?cinema_id=40518


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カティンの森事件(ポーランド語: zbrodnia katyńska、ロシア語: Катынский расстрел)は、第二次世界大戦中にソビエト連邦(ロシア共和国)のグニェズドヴォ(Gnyozdovo)近郊の森で約22,000人[1]のポーランド軍将校、国境警備隊員、警官、一般官吏、聖職者がソビエト内務人民委員部(NKVD)によって銃殺された事件。「カティンの森の虐殺」などとも表記する。

NKVD長官ベリヤが射殺を提案し、ソビエト共産党書記長スターリンと政治局の決定で実行された[2]。

「カティン(カチンとも。Katyń)」は現場近くの地名で、事件とは直接関係ないものの、覚えやすい名前であったためナチス・ドイツが名称に利用した。


経緯

1939年4月にドイツはドイツ・ポーランド不可侵条約を廃棄し、同年8月にドイツとソ連の間で独ソ不可侵条約が締結された。同年9月1日にドイツがポーランドに侵攻することで第二次大戦が始まり、9月17日にソ連も同様にソ連・ポーランド不可侵条約を廃棄してポーランドの東部に侵攻した。独ソ不可侵条約には秘密議定書があり、両国はそれに従ってポーランドへの侵攻と分割占領を行ったのである。


ポーランド人捕虜問題

1939年9月、ナチス・ドイツとソ連の両国によってポーランドは攻撃され、全土は占領下に置かれた。武装解除されたポーランド軍人や民間人は両軍の捕虜になり、ソ連軍に降伏した将兵は強制収容所(ラーゲリ)へ送られた。

ポーランド政府はパリへ脱出し、亡命政府を結成、翌1940年にアンジェへ移転したがフランスの降伏でヴィシー政権が作られると、更にロンドンへ移された。

1940年9月17日のソ連軍機関紙『赤い星』に掲載されたポーランド軍捕虜の数は将官10人、大佐52人、中佐72人、その他の上級将校5,131人、下級士官4,096人、兵士181,223人となった。その後、ソ連軍は将官12人、将校8,000人を含む230,672人と訂正した[3]。ポーランド亡命政府は将校1万人を含む25万人の軍人と民間人が消息不明であるとして、何度もソ連側に問い合わせたが満足な回答は得られなかった。

1941年の独ソ戦勃発後、対ドイツで利害が一致したポーランドとソ連はシコルスキー=マイスキー協定(英語版)を結び、ソ連国内のポーランド人捕虜はすべて釈放され、ポーランド人部隊が編成されることになった。しかし集結した兵士は将校1,800人、下士官と兵士27,000人に過ぎず、行方不明となった捕虜の10分の1にも満たなかった。そこで亡命政府は捕虜釈放を正式に要求したが、ソ連側は全てが釈放されたが事務や輸送の問題で滞っていると回答した。12月3日には亡命政府首相ヴワディスワフ・シコルスキがヨシフ・スターリンと会談したが、スターリンは「確かに釈放された」と回答している。


捕虜の取扱い

ポーランド人捕虜はコジェルスク、スタロビエルスク(英語版)、オスタシュコフの3つの収容所へ分けて入れられた。その中の1つの収容所において1940年の春から夏にかけて、NKVDの関係者がポーランド人捕虜に対し「諸君らは帰国が許されるのでこれより西へ向かう」という説明を行った。この知らせを聞いた捕虜たちは皆喜んだが、「西へ向かう」という言葉が死を表す不吉なスラングでもあることを知っていた少数の捕虜は不安を感じ、素直に喜べなかった。彼らは列車に乗せられると、言葉通り西へ向かい、そのまま消息不明となる。


事件の発覚

スモレンスクの近郊にある村・グニェズドヴォ(Gnyozdovo)では1万人以上のポーランド人捕虜が列車で運ばれ、銃殺されたという噂が絶えなかった。独ソ戦の勃発後、ドイツ軍はスモレンスクを占領下に置いた際にこの情報を耳にした。

1943年2月27日、ドイツ軍中央軍集団の将校はカティン近くの森「山羊ヶ丘」でポーランド人将校の遺体が埋められているのを発見した。3月27日には再度調査が行われ、ポーランド人将校の遺体が7つの穴に幾層にも渡って埋められていることが発覚した。報告を受けた中央軍集団参謀ルドルフ=クリストフ・フォン・ゲルスドルフ将軍は「世界的な大事件になる」と思い、グニェズドヴォよりも「国際的に通用しやすい名前」である近郊の集落カティンから名前を取り「カティン虐殺事件」として報告書を作成、これは中央軍集団からベルリンのドイツ国民啓蒙・宣伝省に送られた。宣伝相ヨーゼフ・ゲッベルスは対ソ宣伝に利用するために、事件の大々的な調査を指令した。


発見当初の動静

1943年4月9日、ゲッベルスはワルシャワ、ルブリン、クラクフの有力者とポーランド赤十字社に調査を勧告した。ポーランド赤十字社は反ソプロパガンダであるとして協力を拒否したが、各市の代表は中央軍集団司令部に向かい、調査に立ち会った。ドイツ側は赤十字社の立ち会いの後に事件を公表する予定であったが、1943年4月13日には世界各紙で「虐殺」情報が報道された。このため、ドイツのベルリン放送でカティンの森虐殺情報が正式に発表された。

1943年4月15日、ソ連及び赤軍はドイツの主張に反論し、1941年にソビエトに侵攻してきたドイツ軍によってスモレンスク近郊で作業に従事していたポーランド人たちが捕らえられて殺害されたと主張した。しかし、捕虜がスモレンスクにいたという説明はポーランド側に行われたことがなく、亡命政府はソ連に対する不信感を強めた。ポーランド赤十字社にも問い合わせが殺到し、調査に代表を派遣することになった。すでに回収された250体の遺体を調査した赤十字社は遺体がポーランド人捕虜であることを確認し、1940年3月から4月にかけて殺害されたことを推定した。1943年4月17日、ポーランド赤十字社とドイツ赤十字社はジュネーヴの赤十字国際委員会に中立的な調査団による調査を依頼した。

これを受けてソ連はポーランド亡命政府を猛烈に批判し、断交をほのめかした。ソ連の反発を見た赤十字国際委員会は全関係国の同意がとれないとして調査団の派遣を断念した。1943年4月24日、ソ連はポーランド亡命政府に対し「『カティン虐殺事件』はドイツの謀略であった」と声明するように要求した。ポーランド亡命政府が拒否すると、26日にソ連は亡命政府との断交を通知した。

ポーランド赤十字社はカティンに調査団を送り込み、また、ドイツもポーランド人を含む連合軍の捕虜、さらにスウェーデン、スイス、スペイン、ノルウェー、オランダ、ベルギー、ハンガリー、チェコスロバキア(ベーメン・メーレン保護領及びスロバキア)など各国のジャーナリストの取材を許可した。さらに枢軸国とスイスを中心とする国から医師や法医学者を中心とする国際調査委員会が派遣された。1943年5月1日、国際委員会とポーランド赤十字社による本格的調査が開始された。


第一次調査

調査はソ連軍がスモレンスクに迫る緊迫した状況下で行われた。国際委員会は遺体の発掘と身元確認と改葬を行い、現地での聞き取り調査も行った。ドイツ側は「12,000人」の捕虜の遺体が埋められていると発表していたが、実数はそこまでには至らなかった。

発掘途中の調査では、遺体はコジェルスクの捕虜収容所に収容されていた捕虜と推定された。遺体はいずれも冬用の軍服を装着しており、後ろ手に縛られて後頭部から額にかけて弾痕が残っていた。遺体の脳からは死後3年以上経過しないと発生しない物質が検出されたことや、墓穴の上に植えられた木の樹齢が3年だったこと、遺体が死後3年が経過していると推定され、縛った結び目が「ロシア結び」だったことなどがソ連の犯行を窺わせた。

また、調査に同行したアメリカ軍捕虜のジョン・ヴァン・ブリード大佐とスチュワート大尉は、捕虜の軍服や靴がほころびていないことからソ連軍による殺害であることを直感したと後に議会公聴会で証言している。

1943年5月になると現場付近の気温が上昇し、死臭が強まったために現地の労働者が作業を拒否するようになった。6月からは調査委員会と赤十字代表団が自ら遺体の発掘に当たった。明らかに拷問に遭った遺体や今までに見つからなかった8番目の穴が発見されるなど調査は進展したが、この頃になるとソ連軍がスモレンスクに迫り、委員会と代表団は引き上げを余儀なくされた。ポーランド赤十字社代表団は6月4日、委員会は6月7日に現地を離れた。

撤収までに委員会が確認した遺体の総数は4,243体であった。


西側連合国の対応

イギリスは暗号解読の拠点であったブレッチェリー・パークでドイツ軍の無線通信を傍受し解読していたため、ナチス・ドイツが大きな墓の穴とそこで発見したものについて気づいていた。また当時ロンドンに移っていたポーランド亡命政府に対するイギリス大使であるオーウェン・オマレーが「事件がソ連によるものである」と結論した覚書を提出したが、ウィンストン・チャーチル首相はこれを公表しなかった[4]。

1944年、アメリカのフランクリン・ルーズベルト大統領はカティンの森事件の情報を収集するために、かつてブルガリア大使を務めていたジョージ・ハワード・アール(英語版)海軍少佐を密使としてバルカン半島に送り出した。アールは枢軸国側のブルガリアとルーマニアに接触してソビエト連邦の仕業であると考えるようになったが、ルーズベルトにこの結論を拒絶され、アールの報告は彼の命令によって隠された。アールは自分の調査を公表する許可を公式に求めたが、ルーズベルトはそれを禁止する文書を彼に送りつけた。アールは任務から外され、戦争の残りの期間をサモアで過ごすこととなった[4]。また、事件の生存者であるユゼフ・チャプスキ(英語版)は、1950年から「ボイス・オブ・アメリカ」のポーランド向け放送を担当することになったが、その際には事件に対して言及することを禁じられている[4]。


ソ連による「真相究明」

1943年10月15日からNKVDは独自に再調査を開始した。さらにモスクワに調査委員会を設置し、事件の調査を開始した。しかし、この調査委員会は委員長のニコライ・ブルデンコをはじめとして全員がソ連人であり、最初から「ナチス・ドイツの犯行」であることを立証するためのものであった[5]。ブルデンコ委員会は独自の聞き取り調査によって「殺害は1941年8月から9月、つまり、ドイツ軍の占領中に行われた」とし、殺害に用いられた弾丸がドイツ製であったことを根拠として、ナチス・ドイツの犯行であったと結論付けた[5]。

さらにソ連はニュルンベルク裁判においてドイツ人を裁くため、さらに調査報告書を作成した。告発を行ったソ連の検察官は「もっとも重要な戦争犯罪の内の1つがドイツのファシストによるポーランド人捕虜の大量殺害である」と述べている。これに基づいて1946年7月1日に裁判でカティンの森事件について討議が行われた。しかしこの告発は証拠不十分であるとして、裁判から除外された[5]。


冷戦期のカティンの森事件問題

冷戦が激化し始めた1949年、アメリカでは民間の調査委員会が設立され、事件の再調査を求めるキャンペーンを行った[6]。1951年、アメリカ議会はカティンの森事件に対する調査委員会を設置した[5]。1952年にはアメリカ国務省がソ連に対して証拠書類の提供を依頼したが、ソ連はこれを誹謗であるとして抗議している。調査委員会はソ連の犯行であることが間違いないと結論し、アメリカ議会は1952年12月に「カティンの森事件はソ連内務人民委員部が1939年に計画し、実行した」という決議を行っている[5]。しかし東側諸国はもとより西側諸国の多くもこれに同調しなかった[6]。

1959年、ソ連国家保安委員会(KGB)のアレクサンドル・シェレーピン議長は、ニキータ・フルシチョフ第一書記に対して、ポーランド人捕虜処刑に関する文書の破棄を提案している[7]。戦後ポーランドを支配していたPZPR(ポーランド統一労働者党)の幹部たちはソ連の説明を公式見解として認定した[8]。亡命ポーランド人たちは事件の研究を続け、時には地下出版の形でポーランド国内に伝えた[9]。

また、1970年代後半のイギリスでは事件に関する関心が高まり、ロンドンに犠牲者のための記念碑を作る計画があったが、イギリス政府はこの事件が起こった日付が「1940年」となっている点に難色を示し、除幕式に代表を派遣しなかった[4]。


冷戦後の調査

ソ連では1985年に就任したゴルバチョフ書記長の下でペレストロイカが進み、グラスノスチ(情報公開)の風潮が高まると、ソ連においても事件を公表する動きがあらわれた。1987年にはソ連・ポーランド合同の歴史調査委員会が設置され、事件の再調査が開始された。1990年にはNKVDの犯行であることを示す機密文書が発見され、ゴルバチョフ書記長らはもはや従来の主張を継続することはできないという結論を下した。

1990年4月13日、ソ連国営のタス通信はカティンの森事件に対するNKVDの関与を公表し、「ソ連政府はスターリンの犯罪の一つであるカティンの森事件について深い遺憾の意を示す」ことを表明した[7]。同日、ポーランドのヴォイチェフ・ヤルゼルスキ大統領がゴルバチョフと会談し、ゴルバチョフはカティンの森事件に言及するとともに、発見された機密文書のコピーをポーランド側に渡し、調査の継続を伝えた[7]。これにはカティンと同じような埋葬のあとが見つかったメドノエ(Mednoe)とピャチハキ(Pyatikhatki)、ビコブニアの事件も含まれている。


1992年、ソ連崩壊後の新生ロシア政府は最高機密文書の第1号を公開した。その中には、西ウクライナ、ベラルーシの囚人や各野営地にいるポーランド人25,700人を射殺するというスターリン及びベリヤ等、ソ連中枢部の署名入りの計画書、ソ連共産党政治局が出した1940年3月5日付けの射殺命令や、21,857人のポーランド人の殺害が実行されたこと、彼らの個人資料を廃棄する計画があることなどが書かれたシェレーピンのフルシチョフ宛て文書も含まれている。しかし、公表された文書で消息が明らかとなった犠牲者はカティンで4421人、ミエドノイエで6311人、ハルキエで3820人、ビコブニアで3435人であり、残りの3870人は依然として消息不明のままである[10]。

2004年、ロシア検察当局の捜査は「被疑者死亡」、「ロシアの機密に関係する」などの理由で終結した[11]。さらにロシア連邦最高軍事検察庁は事件の資料公開を打ち切り、2005年5月11日に「カティンの森事件はジェノサイドにはあたらない」という声明を行った[12]。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%B3%E3%81%AE%E6%A3%AE%E4%BA%8B%E4%BB%B6


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January 1, 2010
こんな映画を観た〜アンジェイ・ワイダ「カティンの森」

シアター・キノ代表の中島洋が正月映画に選んだ作品に間違いはないだろう。

こう考えて観た「カティンの森」(原題はカティン)、ソ連秘密警察によるポーランド将校の処刑シーンが延々と続いて終わるワイダ監督渾身の力作は、元日に観るべき映画として最良の選択だった。

カティンの森<事件>についてはウィキペディアが詳しい。カティンの森事件

しかしこの映画は「カティンの森事件」を伝えるためだけのものではない。実父をカティンで殺された経歴を持つワイダ監督の眼差しは、たとえば「存在の耐えられない軽さ」のような映画と同じ、犠牲者の側に立つのか、それとも生き延びるために加害者の欺瞞に迎合するのか、という非常に困難な問いに向けられている。そして、映画全体としてはソ連の犯罪の告発というより、夫の生還を信じて何十年も待ち続けたポーランドの女性たちへの痛切なグランプリになっている。

映画にはいくつかの役割がある。その中でも最も重要なものの一つは、歴史と人間の欺瞞を暴くことであり、もしかしたらすべてが欺瞞かもしれない歴史の中での人間の生き方を問うことである。

将校の妻たちは潔癖とも言える「拒否」の精神を発揮し、はた目には無意味に見える抵抗を続けていく。同じ状況におかれたとき、自分ならどうしただろうかと考えずにはいられないが、たぶん、現実に彼女たちはこういう生き方を貫いたのだ。処世術として迎合したふりをして時を待ち、組織化して反撃に転じるという発想はない。政治的にあまりにナイーブなのだ。すべては個人的な出来事に還元されてしまうようで、それを歯がゆくも感じる。

将校アンジェイの妻は、彼女とその娘の安全を心配する良心的な秘密警察幹部からの形式的な結婚話を断るが、思わず、なんて愚かなと思ってしまったほどだ。

しかし、これこそが女性特有の偉大さなのだ。極私的な「愛」しか信じるに値するものはない。一見、非歴史的で小市民的にみえるこの愚かといえば愚かな信念こそが、実はジェノサイドを不可避的に結果するあらゆる「政治」を解体する唯一の契機なのかもしれない。

大量の死体がブルドーザーで埋められていくシーンは圧巻で、自分が死体の一つとなって埋められていくかのような圧迫感がある。しかしそれは単に残酷なシーンというだけでなく、人間が本質的に持つ残酷さを感じさせて映像そのもの以上に恐ろしい。

バビ・ヤールでナチス・ドイツが行った大量処刑は機関銃によるものだったが、「カティンの森」ではソ連赤軍は一人ずつ確実にピストルで処刑したようだ。ほとんど証言が残されていないが、生涯最後となるかもかもしれない作品で、ワイダ監督はどんな細部にも細心の注意を払い、できるだけ事実に忠実に再現するように心がけたことだろうから、これがほぼ事実なのだろう。こうした「手工業的」な処刑方法には、いかにもスターリン型共産主義者らしい陰険さと小心さがうかがえる。

この大量虐殺の首謀者はスターリンとその片腕ベリヤであることが歴史的に明らかになっている。しかしこの「事件」は彼らの個人的な資質によって起きたものではなく、権力の集中によっていつでも起こりうることであり、現に起きていて、これからも起きていくことだろう。

最も軽蔑すべき人間たちによって最も優れた人間たちが粛清されてきたのが人類の歴史にほかならない。

その歴史を反転させる革命こそが待たれている。
https://plaza.rakuten.co.jp/rzanpaku/diary/201001010000/


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「カティンの森」アンジェイ・ワイダ監督 虐殺を今に問う 2009年12月19日
http://www.asahi.com/showbiz/movie/TKY200912180298.html

 祖国の悲劇と抵抗の歴史を描き続けるポーランドの巨匠アンジェイ・ワイダ監督の「カティンの森」が東京・神保町の岩波ホールで公開中だ。冒頭、「両親に捧(ささ)げる」という字幕が出る。父の命を奪い、母を苦しめた第2次大戦中の虐殺を、改めて「今」に問う。

 ポーランドに、ナチス・ドイツとソ連が侵攻した1939年。アンナは、ポーランド軍大尉の夫がソ連軍捕虜として連行される姿を目撃する。3年半後、ドイツは「虐殺された多数のポーランド人将校の遺体を発見」と発表。アンナは夫の死を伝えられるが、事実を受け入れられない……。

 この虐殺は「カティンの森事件」と呼ばれる。ポーランド東部を占領したソ連が40年、捕虜にした1万5千人ともいわれるポーランド人将校を殺害した。監督が映画化を構想し始めたのは、それから半世紀後だった。戦後、ポーランドはソ連の強い影響下にあった。「冷戦期、この事件はドイツの犯罪とされていた」と監督。89年に共産主義政権が次々倒れた東欧革命が起きるまで、真相はほぼ闇に葬られていたという。

 以後、すぐ製作に取りかかろうと試みるが、事件自体が長くタブー視され、全容を示す資料も、事件を扱った小説も見つからなかった。「世代」「地下水道」「灰とダイヤモンド」の「抵抗3部作」をはじめ、抑圧された人間像を切り出す原作を重厚に映してきた社会派の巨匠は、撮影までに長期をかけた。「見つかった将校の日記を参考にしたり、当時を知っている人にインタビューしたりした。映画は登場人物を含め、ほとんど実話だ」

 監督がつむぐ物語は、残された人たちを軸につづられていく。「特に、多くの女性の話を書くことが大事だった」と話す。監督自身、夫の生還を信じ続けた母親を見て育ったからだ。待つ側を物語ることで、残されて生きる者をも苦しませ続ける戦いの現実を強調したかった。犠牲になった兄のためにソ連の犯罪を意味する墓碑を建てようとする女性も登場する。

 手を縛り、後頭部を撃ち抜き、埋める――。終盤の虐殺場面は、まるで流れ作業のように残酷に映される。「この事件は戦争というより、スターリンの指示による官僚的、組織的な虐殺だろう」。独ソ双方が、相手側の犯罪としてプロパガンダ映画に利用するさまも象徴的に映される。

 劇中、アンナの夫の父にあたる大学教授はドイツの収容所で亡くなる。「言いたいことは一つ。独ソ両国ともポーランドを事実上、『消滅』させることで、同国を思うままに動かしたかった」と述べた。
http://www.asahi.com/showbiz/movie/TKY200912180298.html

7. 中川隆[-13533] koaQ7Jey 2020年3月23日 10:12:08 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1371] 報告

天皇一族が夜も眠れない程恐れたベリヤとは


ラヴレンチー・パーヴロヴィチ・ベリヤ(1899年3月29日 - 1953年12月23日)は、ソビエト連邦の政治家。

ヨシフ・スターリンの大粛清の主要な執行者(実際にベリヤが統轄したのは粛清の終結局面のみだったにせよ)とみなされている。

彼の影響力が最高潮に達したのは、第二次世界大戦後からスターリンの死後にかけてであった。「エジョフシチナ」として知られるニコライ・エジョフによる大粛清の恐怖と猛威のもとでエジョフを失脚させて権力を握り、自らも粛清に加担した。

スターリンの死後は第一副首相(en:First Deputy Premier of the Soviet Union of en:Council of Ministers (Soviet Union))として、自由化推進のキャンペーンを実施したが、このキャンペーンは、ニキータ・フルシチョフらとの政争の敗北によるベリヤの失脚、そして死刑執行とともに終焉した。


1953年6月のベリヤの逮捕後の裁判で、ベリヤによる著しい件数の強姦と性的暴行が明らかになった[19]。

ベリヤは大変な漁色家であり、誘惑を断ったが最後、その女性とその家族に身の破滅が待っていると恐れられた。暇さえあれば彼とその部下はモスクワ市内を車で廻り、気に入った女性をNKVD本部に拉致しては暴行する悪行を繰り返した[20]。流石に苦情が出たものの、スターリンも黙認していたため被害者は泣き寝入りせざるを得なかった。ある夜、ベリヤは通行人である未成年の女性をいつものように車に乗せ、本部に連行した後解放した。女性は帰宅しても何があったか両親に話そうとせず、結局その事件を苦に自殺してしまった。遺体を解剖した医師によれば、彼女の体にははっきりと暴行された形跡が見られたという。彼女の父親はベリヤの護衛を務めた警備隊長で、のちにベリヤが政争に敗れて処刑される際には処刑の執行人となりたいと嘆願したが、政府から「私刑は認められない」という理由で要望は聞き入れられなかった。また、米国の外交官と交際していた女性にベリヤが迫ったところ、ひどく嫌がられ関係を拒否されたため、彼は「収容所の埃となれ!」と言い放ち「米国のスパイ」という罪状で彼女を強制収容所送りにしてしまった。

ベリヤに対するこれら非難は近年まではソヴィエト連邦内外の政敵によるプロパガンダとして片付けられていたが、ベリヤが女性を暴行し、政治的な犠牲者を私的に拷問し、殺害していたという疑惑は歴史的な証拠を得つつある。ベリヤの性的暴行、性的サディズムの最初の嫌疑は、1953年7月10日のベリヤ逮捕の2週間後に党中央委員会本会議において共産党中央委員書記のニコライ・シャターリンによって告発された。シャターリンはベリヤが多くの女性と性的交渉を持ち、娼婦との関係の結果梅毒にかかったと述べ、ベリヤと交渉をもった25人の女性のリストについて言及した。やがてこの非難はより劇的な展開を迎える。フルシチョフは彼の死後に出版された回想録において「我々は100人以上の女性の名前を記したリストを見せられた。彼女たちはベリヤの部下によって、ベリヤの元へ連れて行かれたのだ。彼はいつも同じ手口を使った。女性が彼の家に到着すると、ベリヤは彼女をディナーに招待する。そしてスターリンの健康を祈って乾杯しようと持ち掛ける。その乾杯のワインには睡眠薬が混入されていたのだ」と述べている。

1980年代には、ベリヤが10代の女性たちを強姦したという噂まで出始めた。ベリヤの伝記を著したアントン・アントノフ=オフセーエンコ(Anton Antonov-Ovseenko)はあるインタビューにおいて、ベリヤが複数の若い女性たちの中から1人をレイプするために選び出す際、彼女たちに強いたといわれる明らかに倒錯した行為について語っている。このときに行ったとされる行為は、「ベリヤのフラワーゲーム」と名づけられている。それは、部下に5人ないし7人ほどの少女を連れてこさせ、靴だけ履かせたまま彼女たちに服を脱がせた上で、頭を中心に向けた四つんばいの姿勢で円陣を作らせるというものだった。ベリヤは歩き回りながら彼女たちを品定めして、そのうち1人の脚をつかんで引っ張り出して連れ去り、レイプしたという[21]。ここ数年の間にベリヤが私的に犠牲者を殴り、拷問し、殺害したという数多くの物語が流布している。

1970年代以降モスクワの子供たちは、ベリヤの以前の住居(現在はトルコ大使館)の裏庭、地下室、あるいは壁の中から骨が発見されたと言う話を繰り返し噂し合っている。2003年12月、ロンドンの日刊紙 デイリー・テレグラフは「(トルコ大使館で)キッチンのタイルが改装された際、大きな大腿骨と小さな足の骨が発見されたのは、ほんの2年前のことだった。この大使館で17年働いているインド人のアニルは、地下室で彼が発見した人間の骨が入ったプラスチックのバッグを見せてくれた」と報じた[21]。政治的に動機付けされた非難として、性的虐待とベリヤに対する強姦告訴については、妻のニーナ、息子のセルゴといった近親者と、元ソビエト情報部長官パヴェル・スドプラトフによる議論がある。

歴史学者のサイモン・セバーグ・モンテフィオーリによると、ベリヤは個人的知り合いであるアブハジアの指導者ネストル・ラコバが1936年末に粛清された後、その家族を拷問にかけた。彼の未亡人サリヤは独房で毎日拷問にかけられ、衰弱死。息子ラウフは死ぬほど叩かれ、その後強制収容所送りになったという[22]。後に生還している。モンテフィオーリは、ベリヤについて「強迫観念的な堕落行為をほしいままにする自身の力を利用した性犯罪者」と暴露している[23]。

ベリヤは小さな子供を拷問・強姦するために、自分の事務室に隣接した特別室を独占したという[24]。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A9%E3%83%B4%E3%83%AC%E3%83%B3%E3%83%81%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%83%99%E3%83%AA%E3%83%A4


▲△▽▼


天皇一族が夜も眠れない程恐れたベリヤとは _ 3


ベリヤが支配した国はこうなる:

ドイツとロシアにはさまれた国々、ポーランド、ベラルーシ、ウクライナ、バルト諸国、西部ソ連地域(=ブラッドランド)において、ヒトラーとスターリンの独裁政権は、1933年〜1945年の12年間に1400万人を殺害した。


ブラッドランド : ヒトラーとスターリン 大虐殺の真実 – 2015/10/15
ティモシー スナイダー (著), Timothy Snyder (原著), & 1 その他
https://www.amazon.co.jp/%E3%83%96%E3%83%A9%E3%83%83%E3%83%89%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%89-%E4%B8%8A-%E3%83%92%E3%83%88%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%81%A8%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%83%AA%E3%83%B3-%E5%A4%A7%E8%99%90%E6%AE%BA%E3%81%AE%E7%9C%9F%E5%AE%9F-%E5%8D%98%E8%A1%8C%E6%9C%AC/dp/4480861297
https://www.amazon.co.jp/%E3%83%96%E3%83%A9%E3%83%83%E3%83%89%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%89-%E4%B8%8B-%E3%83%92%E3%83%88%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%81%A8%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%83%AA%E3%83%B3-%E5%A4%A7%E8%99%90%E6%AE%BA%E3%81%AE%E7%9C%9F%E5%AE%9F-%E5%8D%98%E8%A1%8C%E6%9C%AC/dp/4480861300/ref=sr_1_fkmrnull_1?__mk_ja_JP=%E3%82%AB%E3%82%BF%E3%82%AB%E3%83%8A&keywords=%E3%83%92%E3%83%88%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%81%A8%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%83%AA%E3%83%B3+%E5%A4%A7%E8%99%90%E6%AE%BA%E3%81%AE%E7%9C%9F%E5%AE%9F&qid=1555198794&s=books&sr=1-1-fkmrnull

8. 中川隆[-13532] koaQ7Jey 2020年3月23日 10:13:12 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1372] 報告

【犠牲者1400万!】スターリンとヒトラーの「ブラッドランド」1933〜1945
http://3rdkz.net/?p=405


筑摩書房の「ブラッドランド ヒトラーとスターリン 大虐殺の真実」(ティモシー・スナイダー著)によれば、ドイツとロシアにはさまれた国々、ポーランド、ベラルーシ、ウクライナ、バルト諸国、西部ソ連地域(=ブラッドランド)において、ヒトラーとスターリンの独裁政権は、1933年〜1945年の12年間に1400万人を殺害した。

この数字は戦争で死亡した戦死者は一人も含まれていない。戦闘による犠牲者ではなく、両政権の殺戮政策によって死亡した人々だ。犠牲者の大半はこの地域に古くから住まう罪もない人々で、一人も武器を持っておらず、ほとんどの人々は財産や衣服を没収されたうえで殺害された。


筑摩書房「ブラッドランド」を読み解きながら、この地域で一体何が起こったのかまとめたい。


ブラッドランド=”流血地帯”はどういう意味を持つか

ブラッドランドは…

・ヨーロッパユダヤ人の大半が住んでいた

・ヒトラーとスターリンが覇権をかけて争った

・ドイツ国防軍とソ連赤軍が死闘を繰り広げた

・ソ連秘密警察NKVD(内務人民委員部)とSS(ナチス親衛隊)が集中的に活動した

…地域である。

ブラッドランドにおける主な殺害方法

1400万人殺したといっても、高度なテクノロジーは一切使われておらず、野蛮な方法であった。

ほとんどは人為的な飢餓による餓死である。

その次に多いのは銃殺である。

その次に多いのはガス殺である。

ガスも高度なテクノロジーとは無縁であった。ガス室で使用されたガスは、18世紀に開発されたシアン化合物や、紀元前のギリシャ人でさえ有毒だと知っていた一酸化炭素ガスである。

ウクライナの人為的飢餓テロー犠牲者500万人

http://3rdkz.net/?p=405


1929年〜1933年にかけて餓死したウクライナ農民の死亡率。赤は25%以上。ほぼ全滅した村も多くあった。

1930年代初頭、第一次五か年計画、集団農場化を焦るスターリンは、反抗的なウクライナ農民を屈服させるために飢餓を利用した。

年間770万トンにも及ぶ血も涙もない食糧徴発作戦により、少なくとも500万人のウクライナ農民が人為的な飢餓に追い込まれて死亡した。

食料徴発隊は共産党員、コムソモール、地元の教員・学生、村ソヴィエトの理事や議員、OGPU(合同国家政治保安部)で構成された《ブリガーダ》と呼ばれる作業班で、ほとんど盗賊と変わらなかった。作業班は家から家へと渡り歩き、家の中を隅から隅まで探し、屋根裏や床を破壊し、庭を踏み潰し、棒を突っ込んで穀物を探した。

村でも街でも国の組織にハッパをかけられ、残虐行為が広がっていた。
http://3rdkz.net/?p=405


ある妊娠中の女性が小麦を引き抜いたとして板切れで打ちすえられ死亡した。
三人の子供を抱えた母親は集団農場のじゃがいもを掘り出したとして警備員に射殺された。子供たちは全員餓死した。
ある村では穀物をむしり取ったとして7人の農民と14歳と15歳の子供達3人が銃殺された。

《ブリガーダ》は狂ったように食物を探しまわり、飢餓によって手足の浮腫が生じていない農民の家を怪しんで捜索した。しまいにはサヤエンドウ、ジャガイモ、サトウダイコンまでも取り上げた。餓死したものたちも瀕死の者たちも一緒になって共同墓地に放り出された。

人々の餓死は1933年初春に最高潮に達した。


雪が解け始めたとき、本物の飢餓がやってきた。人々は顔や足や胃袋をふくらませていた。彼らは排尿を自制できなかった・・。今やなんでも食べた。ハツカネズミ、ドブネズム、スズメ、アリ、ミミズ・・骨や革、靴底まで粉々にした。革や毛皮を切り刻み、一種のヌードル状にし、糊を料理した。草が生えてくるとその根を掘り出し葉や芽を食べた。あればなんでも食べた。タンポポ、ゴボウ、ブルーベル、ヤナギの根、ベンケイソウ、イラクサ・・

33年の冬までに、ウクライナの農民人口2000〜2500万人のうち、4分の1から5分の1が死んだ。
彼らは孤独のまま、極めて緩慢に、なぜこんな犠牲になったのかという説明も聞かされずに、自分の家に閉じ込められ、飢えたまま置き去りにされ、ぞっとするような死に方をしていったのだ。



ある農家はまるで戦争であった。みんな他を監視していた。人々はパンのかけらを奪い合った。妻は夫と、夫は妻といがみ合った。母は子供を憎んだ。しかし一方では最後の瞬間まで、神聖犯すべからざる愛が保たれていた。四人の子供を持った母親・・彼女は空腹を忘れさせようとして子供におとぎ話や昔話を聞かせてやった。彼女自身の舌は、もうほとんど動かないのに、そして自分の素手の腕さえ持ち上げられないのに、子供らを腕の中で抱いていた。愛が、彼女の中に生きていた。人々は憎しみがあればもっと簡単に死ねることを悟った。だが、愛は、飢餓に関しては、何もできなかった。村は全滅であった。みんな、一人も残っていなかった。



大粛清ー犠牲者70万人以上

ウクライナ大飢饉が一息ついた1934年1月、ナチスドイツとポーランドが不可侵条約を結んだ。当時のソ連はドイツ、ポーランド、日本という3つの宿敵に囲まれている形であった。ドイツとポーランドが手を結んだ今、ソビエト領内のポーランド人や少しでもポーランド人と関わりを持つ者は全てスパイとなった。

同年12月、レニングラード党第一書記キーロフが暗殺された。彼はスターリンにつぐナンバー2の権力者だった。スターリンはこれを最大限利用し、国内に反逆勢力がいるということを強調した。あたかも陰謀が常に存在するかのように。だがキーロフ暗殺の黒幕はスターリンその人であることが疑われている。

また、スターリンは集団農場化の大失敗によって引き起こされたウクライナの大飢饉を、外国のスパイ勢力の陰謀のせいだと主張した。


1936年、スターリンの妄想に付き従うものは重臣たちにさえ多くなかった。そんな中、ポーランド人のニコライ・エジョフという男がスターリンによってNKVD長官に任命されると、この男は反体制派とされる人々を嬉々として自ら拷問にかけ、手当たり次第にスパイであると自白させて銃殺にした。

1937年にはスターリンに歯向かうものは国内にいなかったが、依然政敵のトロツキーは外国で健在であり、ドイツとポーランドと日本という、いずれもかつてはロシア帝国やソビエト赤軍を打ち負かした反ソ国家に囲まれていた。スターリンは疑心暗鬼に囚われた。ドイツとポーランドと日本が手を携えて攻めてくるかもしれない……トロツキーが(かつてレーニンがそうしたように)ドイツ諜報機関に支援されて劇的にロシアの大地に帰還し、支持者を集めるのではないか……今こそ一見無害に見える者たちの仮面をはぎ取り、容赦なく抹殺するのだ!1937年の革命20周年の記念日に、スターリンは高らかにそう宣言した。

ポーランド人やドイツ人、日本人、またはそのスパイと疑われた人々や、元クラーク(富農)や反ソ運動の嫌疑により、約70万人の国民がスターリンとエジョフのNKVDによって銃殺された。また数え切れないほどの人々が拷問や流刑の過程で命を落とした。

粛清の範囲は軍や共産党やNKVDにまで及び、国中がテロに晒された。

殺された一般国民は全員、荒唐無稽な陰謀論を裏付けるために拷問によって自白を強要された無実の人々であった。

大粛清開始時のNKVD上級職員の3分の1はユダヤ人であったが、1939年には4%以下となっていた。スターリンは大粛清の責任をユダヤ人に負わせることを企図し、事実ヒトラーがそう煽ったように、後年ユダヤ人のせいにされた。こうしてのちに続く大量虐殺の布石がうたれたのである。


ポーランド分割ー犠牲者20万人以上

1939年ブレスト=リトフスク(当時はポーランド領)で邂逅する独ソの将兵。両軍の合同パレードが開催された。

1939年9月中旬、ドイツ国防軍によってポーランド軍は完全に破壊され、戦力を喪失していた。極東においてはノモンハンにおいてソ連軍が日本軍を叩き潰した。その一か月前にはドイツとソ連が不可侵条約を結んでいた。世界の情勢はスターリンが望むままに姿を変えていた。

ヒトラーはポーランド西部を手に入れて、初めての民族テロに乗り出した。

スターリンはポーランド東部を手に入れて、大粛清の延長でポーランド人の大量銃殺と強制移送を再開した。
http://3rdkz.net/?p=405&page=2


ソ連の場合、チェーカーやゲーペーウーを前身に持つエリートテロ組織であったNKVDや、革命初期の内戦期からテロの執行機関であった赤軍がヒトラーよりもっとうまくやった。

ソ連軍は9月中旬、50万の大軍勢を持って、既に壊滅したポーランド軍と戦うために、護る者が誰もいなくなった国境を超えた。そこで武装解除したポーランド将兵を「故郷に帰してやる」と騙して汽車に乗せ、東の果てへ輸送した。

ポーランド将校のほとんどは予備役将校で、高度な専門教育を受けた学者や医師などの知識階級だった。彼らを斬首することにより、ポーランドの解体を早めることが目的だった。

同じころNKVDの職員が大挙してポーランドに押し寄せた。彼らは10個以上の階級リストを作成し、即座に10万人以上のポーランド民間人を逮捕。そのほとんどをグラーグ(強制収容所)へ送り、8000人以上を銃殺した。またすでに逮捕されたポーランドの高級将校たちを片っ端から銃殺にし、ドイツの犯行に見せかけた。そして家族をグラーグへ追放した。銃殺された者は20000人以上、将校の関係者としてグラーグへ送られた者は30万人以上とされる。そのほとんどは移送中の汽車の中や、シベリアやカザフスタンの収容所で命を落とした。

独ソ双方から過酷なテロを受けたポーランドでは、20万人が銃殺され、100万人以上が祖国を追放された。追放された者のうち、何名が死亡したかはいまだ未解明である。
http://3rdkz.net/?p=405&page=3


抵抗の果てに

戦争後期、ソ連軍はドイツ軍を打ち破って東プロイセンへ侵入した。そして彼らは目に付く全ての女性を強姦しようとした。その時点でドイツ成人男性の戦死者数は500万人にのぼっていた。残った男性はほとんど高齢者や子供で、彼らの多くは障害を持っていた。女性たちを守る男はいなかった。強姦被害にあった女性の実数は定かではないが数百万人に及ぶと推定され、自殺する女性も多かった。

それとは別に52万のドイツ男性が捕えられて強制労働につかされ、東欧の国々から30万人近い人々が連行された。終戦時までに捕虜になり、労役の果てに死亡したドイツ人男性は60万人に上った。ヒトラーは民間人を救済するために必要な措置を一切講じなかった。彼は弱者は滅亡するべきだと思っていた。それはドイツ民族であろうと同じだった。そして彼自身も自殺を選んだ。

ヒトラーの罪を一身に背負わされたのが戦後のドイツ人であった。新生ポーランドではドイツ人が報復や迫害を受け、次々と住処を追われた。ポーランドの強制収容所で死亡したドイツ人は3万人と推計される。1947年の終わりまでに760万人のドイツ人がポーランドから追放され、新生ポーランドに編入された土地を故郷とするドイツ人40万人が移送の過程で死亡した。


戦間期のスターリンの民族浄化

独ソ戦の戦間期には、対独協力の恐れがあるとみなされた少数民族の全てが迫害を受けた。

1941年〜42人にかけて90万人のドイツ系民族と、9万人のフィンランド人が強制移住させられた。

1943年、ソ連軍がカフカスを奪還すると、NKVDがたった1日で7万人のカフカス人をカザフスタンとキルギスタンに追放した。更にNKVDはその年の12月には、2日間で9万人のカルムイク人をシベリアへ追放した。

1944年にはNKVD長官ベリヤが直接指揮を執って、47万人のチェチェン人とイングーシ人をわずか一週間で狩り集めて追放した。一人残らず連行することになっていたので、抵抗する者、病気で動けない者は銃殺され、納屋に閉じ込めて火を放つこともあった。いたるところで村が焼き払われた。


同年3月、今度はバルカル人3万人がカザフスタンへ追放され、5月にはクリミア・タタール人18万人がウズベキスタンへ強制移住させられた。11月にはメスヘティア・トルコ人9万人がグルジアから追放された。

このような状況であったから、ソヴィエトと共に戦ったウクライナやバルト諸国やポーランド、ベラルーシでもNKVDの仕事は同じだった。赤軍や新生ポーランド軍は、かつては味方だったパルチザンに対して牙をむいた。少数民族や民族的活動家はのきなみ捕えられ、同じように東の果てに追放されたのだった。その数は1200万人に及んだ!

おわりに

長年、ドイツとロシアにはさまれた国々の悲惨な歴史に圧倒されていた。これ以上恐ろしい地政学的制約はないだろう。ドイツとソ連の殺害政策によって命を失った人々は、誰一人武器を持たない無抵抗の民間人は、それだけで1400万人に及ぶ。もちろんこれは戦闘による軍人・軍属の戦死者は含まれていない。またルーマニアやクロアチアやフランスの極右政権によって虐殺されたユダヤ人やセルビア人は数に含まれていない。

ドイツとソ連の殺害政策は、偶発的に起こったのではなく、意図的に明確な殺意を持って引き起こされた。その執行機関はNKVDであり、赤軍であり、ドイツ国防軍であり、ドイツ警察であり、ナチス親衛隊だった。その殺し方は飢餓が圧倒的に多く、その次に多かったのが銃で、その次がガスである。


激しい人種差別と階級的憎悪、独裁者の偏執的かつ無慈悲な実行力が両国に共通に存在していた。

海に囲まれた我が国には、人種差別がどれほどの暴力を是認するものなのか、階級憎悪がどれほどの悲劇を生んできたのか、ピンとこない。

知ってどうなるものでもないが、この恐ろしい歴史を興味を持ったすべての人に知ってもらいたい。
http://3rdkz.net/?p=405&page=4

9. 中川隆[-13531] koaQ7Jey 2020年3月23日 10:14:23 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1373] 報告

ネオコンと呼ばれる集団の中には「元トロツキスト」が多いとも指摘されている。レオン・トロツキーの信奉者だったということだが、このトロツキーは謎の多い人物である。

 1917年3月にロマノフ朝が倒されているが、その「二月革命」(帝政ロシアで使われていたユリウス暦では2月)に参加した政党は立憲民主党(通称カデット)、社会革命党(エス・エル)、メンシェビキ(ロシア社会民主労働党の一分派)だが、主導したのは資本家。革命の目的は資本主義体制の確立にあった。一気に社会主義を目指そうとしたボルシェビキ(ロシア社会民主労働党の一分派)は幹部が亡命していたり、刑務所に入っていたことから事実上、参加していない。ウラジミール・レーニンはスイス、二月革命当時はまだメンシェビキのメンバーだったトロツキーはニューヨークにいた。

 この臨時革命政府は第1次世界大戦に賛成で、ドイツとの戦争を継続する意思を示していたのだが、ボルシェビキは即時停戦を訴えていた。そこで西と東、ふたつの方向から攻められていたドイツはレーニンたちボルシェビキの幹部をモスクワへ運んでいる。紆余曲折を経てボルシェビキは11月に実権を握った。これが「十月革命」だ。臨時革命政府の首相だったアレクサンドル・ケレンスキーは1918年にフランスへ亡命、40年にはアメリカへ渡っている。

 革命の象徴的な存在であるレーニンを1918年、エス・エルの活動家だったファニー・カプランが狙撃、重傷を負わせている。この暗殺未遂事件の真相は明らかにされていない。レーニンは1921年頃から健康が悪化して24年に死亡しているが、その死にも謎がある。

 トロツキーはヨシフ・スターリンとの抗争に敗れて1929年にソ連を離れ、40年にメキシコで暗殺された。
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201803240000/

10. 中川隆[-13530] koaQ7Jey 2020年3月23日 10:15:33 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1374] 報告

スターリンは独立の悪党だった


信仰より現世を選ぶ神学生

  国家総力戦が起こった第20世紀には、それに相応しい梟雄(きょうゆう)が謀略を張り巡らしていた。その中でも、一、二を争う悪党と言えば毛沢東とスターリンである。一般的に、ユダヤ人や西歐人はヒトラーを巨悪の代名詞にするが、本当に兇悪なのはロシアの独裁者と支那の赤い皇帝だ。ユダヤ人の虐殺数から言えば、スターリンの方が遙かにヒトラーを上回るし、チャーチルとローズヴェルトを手玉に取り、ソ連を超大国に仕立てた暴君の奸智は“超一流”としか言い様がない。戦争というのは政治「目的」を達成する為の「手段」であり、武力を使った「外政」の「延長」だから、最終的に戦争目的を達成した者が“勝者”である。大英帝国を没落させたチャーチル首相は、戦闘で勝ったとはいえ、外政上の「敗者」であるし、ソ連の東歐征服を助けたトルーマン大統領も「敗者」の側に片足を突っ込んでいるから、「勝者」とは言いづらい。翻って、毛沢東は日本軍対して劣勢だったけど、政治力学の秀才だったから、漁夫の利を得て「勝者」となった。この極悪人は単細胞の日本人を利用して蔣介石を追放し、宏大な支那大陸をまんまと手中に収めたんだから大したもんだ。一方、満座の席で笑われるのが我が国で、運搬方法も考えぬまま石油獲得のために東南アジアへと進出し、「大東亜解放」という妄想を叫んで米国と闘ってはみたものの、見事に惨敗。アジア諸国が独立できても、我が国は軍隊を失い、米国の属州になって未だに立ち直れない。深田祐介の解放論は「日本」を忘れているのだろう。 日本人は「自国の独立」を最優先にすべきだ。

Harry Truman 3Stalin 3winston churchill 3
(左: ハリー・トルーマン / 中央: ヨシフ・スターリン / 右: ウィンストン・チャーチル )

  第二次世界大戦で“最大の果実”をもぎ取ったスターリンは、毛並みの良い貴族でもなければ、名門大学出の御曹司でもなかった。後に「スターリン」と呼ばれるヨシフ・ヴィサリオノヴィッチ・ジュガシヴィリは、1879年、グルジアにある「ゴリ」という町が故郷で、靴職人を営むヴィサリオンとその妻エカチェリーナとの間に生まれた。1879年と言えば、明治12年だから、スターリンは小説家の正宗白鳥や作曲家の瀧廉太郎、物理学者のアルバート・アインシュタインと同世代の人物となる。なるほど、同級生となるマルキストの河上肇はラッキーだろうが、大正天皇がお生まれになった年でもあるから、我々としては不愉快で気分が悪い。他人の命を平気で奪ったスターリンは結構しぶとく、1953年(昭和28年)に74歳で亡くなっているから、天の摂理は何とも不条理だ。大正天皇は1926年に崩御されたのに、この極悪人は吉田茂のバカヤロー解散くらいまで長生きしたんだから。


Stalin 6(左 / 青年時代のスターリン )
  スターリンと言えば泣く子も黙る大虐殺の達人であったが、少年時代はそれと全く異なり、周囲も認める優秀の神学生であった。世の中に尽くした偉人と同じく、悪党の経歴というのも意外性に満ちている。幼い頃、「ソソ」と呼ばれたスターリンは、病気ばかりしている虚弱児で、左腕が右腕よりも短く、その右腕すら動かすのがやっとの少年であった。ソソが母親から受け継いだ言葉はグルジア語であったが、ロシア人の友達と遊んでいたので自然とロシア語を流暢に話せるようになったらしい。彼が10歳の時、母のエカチェリーナは息子をゴリの神学校に入れようと思い、受験準備をさせたところ、ソソは優秀な成績で合格したという。しかも、月額3ルーブル50ペイカの奨学金まで得たというから、トップ・クラスに属する生徒であった事は間違いない。(バーナード・ハットン 『スターリン』 木村浩訳、講談社学術文庫、1989年) 学級で一番の優等生になったソソは、記憶力が抜群に良かったというから、小さい頃からギャングの親玉になる素質があったのだろう。

  世界を揺るがす独裁者が、幼い頃とはいえ、教会で賛美歌を独唱していたなんて冗談みたいな話だが、冷酷な革命家で神学校出身の人物は珍しくない。例えば、フランス革命で指導的役割を果たしたマクシミリアン・ロベスピエール(Maximilien F. M. I. de Robespierre)は、オラトリオ修道会の神学校を経て、パリのルイ・ル・グラン学院に入ったし、権謀術数を駆使して警察長官にまで上り詰めたジョセフ・フーシェ(Joseph Fouché)も、オラトリオ修道会の神学校に通い、結構な知識を身につけた姦雄の一人であった。(このフーシェという革命家は煮ても焼いても食えない奴で、シュテファン・ツヴァイクの伝記に詳しいが、本当に狡賢い“クセ者”である。) 地元の子供と変わりなく神学校に通うソソであったが、彼の関心は天上の来世ではなく、地上の俗世であった。ソソは旋毛(つむじ)に悪魔の刻印が出来る前に、民族意識が目覚めたようで、祖国解放の気概に満たこの少年は、友達を前にしてグルジア民族の英雄である「コバ」を讃えたそうだ。そして、自らもコバに倣い「民族解放の闘士になるんだ !」と息巻いていた。

Robespierre 2Joseph Fouche 2Karl Marx 1
(左: ロベスピエール / 中央: ジョセフ・フーシェ / 右: カール・マルクス )

  こうした野望に燃えた少年が退屈な聖書や神学書に没頭するはずがなく、少年「コバ」が好奇心を示すのはロシア政府から禁じられていた書物であった。彼は手当たり次第に図書室の本を貪り読んだそうで、バルザックの『人間悲劇』からヴィクトル・ユーゴーの『九十三年』、さらにカール・マルクスの『資本論』へと目を通していたそうだ。こうして、禁書と革命に興味を抱いた神学生は、次第に政治活動へと傾いてくる。彼はマルクス主義グループを組織するようになり、この集団に『ブルゾーラ(闘争)』という名前をつけると、その指導者になってしまった。メンバーは危険を避けるため、各人が匿名を用い、ソソは以前から憧れていた「コバ」の名前を選んだそうだ。

Kamenev 3(左 / カーメネフ)
  スターリンは神学生であったが、聖人が伝えた有り難い福音より、破壊分子の荒々しい雄叫びに興奮した。関根勤のギャグじゃないけど、「納得!」と言いたい。スターリンにとって、「右の頬を打たれたら左の頬を差し出せ」という教えは、ナンセンスどころか愚の骨頂だ。それよりも、「憎い圧制者を容赦無く打倒せよ !」とか「刃向かう者は皆殺しにしろ !」というスローガンの方が似合っている。社会主義と暴力革命に馳せ参じるスターリンは胸がときめき、「これが我が人生 !」と生き甲斐を感じていたんじゃないか。今では、東大の赤い学生でも「将来の職業は?」と訊かれて、「職業革命家です!」と答える馬鹿はいないけど、ロマノフ王朝時代のロシアでは、そこら辺に赤ヘルの卵がゴロゴロいた。敵をぶっ倒すことで生きて行けるなら、スターリンにとって格好の天国だ。「陰謀」と「暴力」は彼の十八番。破壊活動やストライキに参加して、官憲に追われる姿も結構「絵」になっている。ちなみに逃走中、スターリンは後に夫人となるナジェージタと出逢っていた。そして、この「お尋ね者」は若きジャーナリストのレフ・ボリソヴィッチ・ローゼンフェルド(Lev Borisovich Rozenfeld / 後のKamenev カーメネフ)に匿われていたのである。(ちなみに、カーメネフはユダヤ人の父を持っていた。ロシアの革命分子にはユダヤ人が多い。)

犯罪者に向いている革命家

  人には「向き不向き」というものがあるようで、チフリスの神学校を去って社会民主党に移ったコバは、メキメキと頭角を現すようになり、22歳で党の指導的地位にまで昇ることができた。彼の才能は犯罪で開花する。例えば、コバは党の発展のためにも秘密出版所が必要であると悟っていた。しかし、あいにく党の金庫は空っぽで、印刷用の設備すら“無い”ときている。せっかく、グルジア語やアルメニア語、トルコ語、ロシア語のパンフレットを作成できるのに、それを刷ることができないなんて残念。だが、そんなことでヘコたれるコバではない。この策略家は、「お金や機械が無ければ、どこからか調達してくればいい」と考える。ある日、裕福なアルメニア人印刷業者の工場に強盗が入り、活字ケースや印刷機が強奪されるという事件が起きたそうだ。すると、「あら不思議 !」、コバのところに秘密印刷所が出来ました。(上掲書 p.28) さすが、スターリンは機転が利く。

Joseph Stalin 1(左 / 若い頃のスターリン )
  盗みが得意だったコバは、脱走の名人でもあった。官憲に目を附けられたコバは、ある事が切っ掛けで逮捕されてしまい、シベリアにある「ノーヴァダ・ウヤ」という僻地に流刑となる。だが、党の仲間から二年前に死亡した絨毯商、ダヴィド・ニジェラーゼ名義の旅券を手に入れ、その村を脱出することができた。人間の心理を察知するのが上手いコバは、クリスマス・イヴに脱走を図ったという。なぜなら、その神聖な夜であれば、どんな連中も仕事を放り出し、職務そっちのけで酔っ払うに違いないと踏んだからだ。確かに、ロシア人ならウォッカをがぶ飲みしてドンチャン騒ぎというのが目に浮かぶ。お祭りの日に真面目に働くロシア人なんて想像できない。今だって、サッカーやアイス・ホッケーの世界大会があれば、仕事をズル休みして会場に駆けつけるんじゃないか。それにしても、スターリンは強靱な体を持っていた。安全地帯のマカーロフ村まで20マイルもあるのに、極寒の中、気が遠くなるほどの道のりを歩いたんだから。しかも、途中には空腹を抱えた狼や熊までいたというから、いくら猟銃を所持していたとはいえ、随分と危険を冒したものである。スターリンの評伝によると、寒風吹きすさむ中、コバの足は痺れ、肌を突き刺す冷気で凍死寸前だったというから、悪人というのは本当に運が強い。

Leonid Krasin 2(左 / レオニード・クラーシン)
  ボリシェビキときたら威勢だけは良かったが、肝心の活動資金に困っていた。そこで、レーニンの腹心だったレオニード・クラーシン(Leonid B. Krasin)が「チフリスの国立銀行を襲って、金を奪ったらどうでしょう?」と提案したそうだ。この「解決策」を実行するに当たり、白羽の矢が立ったのはコバ。というのも、彼以外、適役がいなかったからだ。要請を受けたコバは軍資金として50ルーブルをもらい、ダヴィド・チジコフという偽名まで用いて故国へ派遣されることになった。大規模な強奪計画を練り始めたコバは、チフリス銀行が頻繁に100万から200万ルーブルに上る現金を輸送する事に着目し、彼はこの点を突くことにしたという。待望の掠奪行為はある早朝に実行された。武装したコサック隊は銀行を出発した貨物運搬車を襲撃し、護送車からの反撃を受けるも、34万1千ルーブルの現金と、農業銀行の国庫債券、株券、鉄道債券などを強奪したという。

  ところが、奪った金は危険過ぎて直ぐには使えなかった。なぜなら、掠奪したお札が全部、高額紙幣の500ルーブ札で、おまけに、全部が続き番号の紙幣であったからだ。当時のロシアでは、1ルーブル紙幣1枚あればお金持ちと見なされていたくらいだから、500ルーブル紙幣なんて使ったら大変だ。コバたちは警察当局の捜査が打ち切られるのを待ってから、その紙幣や債権を国外に持ち出し、「リトヴィノーフ」の偽名を持つワラッフがパリで処分るはずであった。しかし、「リトヴィノーフ」はこの段取りを実行できず、あっさりと官憲に捕まってしまった。警察はダヴィド・チジコフという男が事件に関与していると察知したが、その容疑者がコバであることまでは判らなかったという。

  コバはコーカサス刑事捜査部に務める友人から、この捜査情報を渡されので、偽名を用いて旅券を手に入れると、さっそく高飛びを図った。しかし、誰かの密告により捕まってしまう。この不運な男はロシアの極北地、ソリビチェゴッツクという町に送られてしまうが、またもや偽名旅券を手に入れ脱走できた。まったく、要領がいいというか、狡賢いというか、窮地に立たされても何とか抜け出してしまうんだから、スターリンは根っからの犯罪者である。巣鴨プリズンに収容されたA級戦犯は、みんな“しょげていた”というから、ちっとはスターリンを見倣うべきだ。ただし、服役者の中で岸信介だけが元気だった、というから長州出身の「元革新官僚」で、「昭和の妖怪」と呼ばれた豪傑は桁が違っていたのだろう。

  バクーに戻ったスターリンは、壊滅状態にある党組織を目にする。大部分の指導者が警察に逮捕されていたし、党を運営する資金も底をついていた。でも、スターリンには心強い仲間がいた。といっても、強盗犯や前科者ばかりだったけど。お金が欲しいスターリンは、商店主や銀行家、実業者などりリストを作り、党に「献金」してほしいと“鄭重”に頼んだそうだ。しかし、この「お願い」拒み、警察に訴える者がいると、「お礼参り」があったという。つまり、こんな「階級の敵」には容赦せぬとばかりに、ゴロツキどもが商店や邸宅を破壊したそうだ。それにもし、被害者がこの「仕返し」を警察に訴えようとすれば、「お前ばかりか、テメエの家族まで命をもらうことになるぞ」と脅したそうだから、何とも念が入っている。ロシア人やグルジア人の恐喝って、ヤクザの因縁よりも怖い。なんかエメリアエンコ・ヒョードルみたいな用心棒が出て来そうだもん。そう言えば、K-1チャンピオンのセーム・シュルトを破ったセルゲイ・ハリトーノフは驚愕を越えた恐ろしさを味わっていた。試合中、彼がシュルトの首に馬乗りとなり、その顔面に鉄槌を下したことがある。ハリトーノフの顔には、必殺仕掛人でさえ怯えるほどの狂気があった。案の定、シュルトの顔は鮮血まみれ。外人の格闘家さえ、そのドス黒く紫色に変わった顔面に驚き、ゾっとするような戦慄を覚えたくらいだ。ロシア人と比べたら、日本人の格闘家なんて温和な好青年である。

娼婦を搾取する共産主義者

  銀行強盗を実行したスターリンは、別の資金集めにも熱心だった。今度は売春宿の経営だ。彼は警察のブラックリストに載っているラヨス・コレスクと一緒に売春宿を切り盛りすることになった。スターリンは娼婦らに街頭や報酬の悪い所で商売せず、自分達のもとに移るよう説得したそうだ。やがて彼の売春宿は、チフリスでも、バクーやバツームでも大繁盛となった。女たちは体を売って得た料金の1割をもらい、コレスクは宿の運営、女たちの扶養、自分の取り分などを含めて5割を受け取り、残りの4割をコバに渡したそうだ。(上掲書 p.45) ところが、こうして売上げの一部を得ていたコバは、“ちゃっかり”と店の常連客になっていたというから、何とも図々しい野郎である。まぁ、後にローズヴェルトやチャーチルを騙すことになるんだから驚かないけど、“抜かりの無い”コバは、こっそりと上納金の一部をピンハネしていたそうだ。学校の先生は教えないけど、陰で“ほくそ笑む”スターリンって、とても「絵」になっている。

  仕事と趣味を両立してコバは満足だったが、この噂を聞きつけたレーニンは眉を顰めたという。そりゃ、そうだ。建前でも、一応、革命家たちは「人間による人間の搾取」に反対していたのだ。それなのに、当の革命家が娼婦の生き血を啜って肥え太っていたのでは世間体が悪い。(コバ自身はそんな矛盾をちっとも「悪い」とは思っておらず、娼婦の搾取など当然と考えていた。さすが、極道のスターリンは生きている次元が違う。) また、売春宿の運営実態は不透明で、帳簿や領収書も無かったから、党はコバの差し出すお金を黙って受け取るしかなかった。したがって、誠実なボルシェビキ党員がコバの遣り口を非難したのも当然だ。レーニンはコバ宛に手紙をしたため、売春商売が党の名誉を傷つけていると非難したそうだ。綺麗事を好むインテリのレーニンは、自分でお金を稼がないくせに、スターリンが売春で仕送りしている事に文句を長けていたんだから、何となくスターリンの方が偉く思える。

  レーニンから書簡を受け取ったコバは、怒れる党の指導者に返事を送り、自分は売春宿を悪いとは思っていないと述べ、むしろ女たちを以前よりも良い状態で暮らせるようにしてやったのだ、と自慢したそうだ。なぜなら、娼婦たちは雨の日も風の日も、通りに出ては客を拾い、警察にしょっ引かれる心配をしながら営業していたのだ。しかし、今ではそうした不安に怯えることもなく、ちゃんとした家に住み、まともな食事を取れるようになった。こうした改善を施してやったのだから、「いいじゃないか」というのがコバの主張である。こう聞くと、コバの言い分にも一理あると納得してしまうから不思議だ。まるでスターリンが慈悲深い元締に見えてくる。といっても、山口組の田岡組長とは違うぞ。ある新聞記者が、スターリンの売春業を記事にしようとしたらしい。すると、「自分の関係無いことに首を突っ込むな !」と怒鳴られ、「お前とお前の家族も皆殺しにするぞ !」と脅されたそうだ。それ以来、誰一人としてこの件を明るみに出そうとはせず、警察も女たちが口を割らないため介入できなかったという。

Lenin 2Trotsky 2Wilhelm II
(左: 若い頃のレーニン / 中央: トロツキー / 右: 皇帝ウィルヘルム2世)

  ボルシェビキ党は定期的に資金を得ることができ、各種の出版物やパンフレットをばらまくことが出来るようになった。しかし、コバは「党に大打撃を与える事になる」というレーニンの忠告に耳を傾け、これからは彼の指令通りに従うことを約束したそうだ。コバはコレスクと話をつけ、方々の売春宿に足繁く通うことを止めたという。その代わり、彼は別の資金源を開拓した。街頭で「他人に頼らず稼ぐ」娼婦たちの為に、「保護事業」なるものを起こし、コバは喜んで「保護者」になるという前科者を集めたらしい。この連中は町を巡回し、娼婦から稼ぎの上前をハネて、その一部を党に上納したそうだ。でも、これって間接搾取じゃないのか? つまり、サラリーマンの源泉徴収みたいなものだ。企業の会計係が社員の給料から税金をピンハネし、この「抜き取った金」を税務署に上納する。税務署の役人は自らの手を汚さず、“きっちりと”年貢を集められるから楽なもんだ。

  スターリンはとんでもない悪党だけど、ある意味、レーニンやトロツキーなんかより凄い。なぜなら、お金に困れば“自力”で工面したからだ。口ばかりが達者な党の幹部連中は、活動資金を資本制国家の金融業者に求めた。レーニンたちが革命を達成するため、ドイツの皇帝と銀行家に頼ったことは有名だ。ドイツに店を構えるウォーバーグ銀行のマックス・ウォーバーグ(Max Moritz Warburg)は、カイゼルに資金提供の話を持ち掛け、ロシアの内乱を拡大したかったカイゼルはこれを諒承する。ドイツ政府は充分な資金を用意して、レーニンとその取り巻き連中を安全にスイスからロシアに輸送する手筈を整えた。この資金調達のために動いたのは、マックスの弟であるポール・ウォーバーグ(Paul M. Warburg)であり、彼とパートナーを組むヤコブ・シフ(Jacob Schiff)、そしてウォール街の国際金融家であった。(この経緯は、アンソニー・サットン教授の『ウォール街とボルシェビキ革命』に詳しい。) 本質的に、“ロシア”革命は“ユダヤ人”の金貸しと扇動家によって画策された政府転覆事業である。ヤコブ・シフから軍資金を調達できた日本人は「誠に有り難う御座います」と感謝していたが、シフにとっては憎いロマノフ王朝を倒すための、便利な「駒」に過ぎなかった。ポグロムでユダヤ人を殺すロシア人に仕返しをする為なら、いくら大金を使っても惜しくはない。たとえ、我が国が日露戦争で勝てなくても、相当なダメージを与えたはずだから、シフとしてはおおよそ満足だろう。ユダ人の大富豪にしたら、日本なんて使い捨ての消耗品である。かくも現実は冷酷で厳しい。

Max Warburg 1Paul Warburg 1Jacob Schiff 1
(左: マックス・ウォーバーグ / 中央: ポール・ウォーバーグ / 右: ヤコブ・シフ )

  一般的に、インテリというのは口舌の徒で、演説は上手いが銭儲けに関しては素人だ。しかも、勇ましいことを述べても、いざ腕力で勝負となるや尻込みする。その点、スターリンは武闘派の革命家で、資金が無ければ強盗になるし、売春婦を使ってでも小銭を稼ごうとする。暗黒街で暮らしたスターリンにとっては殺人だって朝飯前だ。このような犯罪者は、実際にナイフを持って人の腹を刺し、グリグリと刃物を回転させ、腸をズタズタに切り刻む事ができる。鮮血で濡れた手を見ても驚かず、帰って喜びを感じるのがスターリンみたいな男だ。この独裁者と比べたら、卑怯者の菅直人や、機動隊にボコボコにされた全共闘の学生、ソ連の赤軍を待ち望んだ野坂参三や宮本顕治なんか、母親の背後に隠れる稚児に等しい。日本の左翼には自分で自分の運命を切り開く気概が無いのだ。スターリンはレーニンのように銀行家に「借り」を作らず、独立不羈の革命家を目指した。このレーニンが病に倒れれば毒を盛って暗殺するし、邪魔になったトロツキーは奸計を用いて排斥しようとする。自分にとって危険な者は誰でも抹殺し、ちょっとでも障碍となれば粛清の対象にしてしまうんだから、ロシアの君主になる奴は只者じゃない。観念的な共産主義に憧れた近衛文麿は、本当に世間知らずの「お公家さん」だった。近衛家のお坊ちゃんには、人殺しや強盗など出来ないし、任せることさえ出来ない。『ゴッド・ファーザー』のドン・コルレオーネ役には、マーロン・ブランドーじゃなくて、ヨシフ・スターリンが適役だったのかもね。でも、アカデミー賞を授与するユダヤ人は複雑な気持ちだろうなぁ。  
http://kurokiyorikage.doorblog.jp/

11. 中川隆[-13529] koaQ7Jey 2020年3月23日 10:16:45 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1375] 報告


〜20世紀最大の殺戮者と言われた独裁者スターリンの狂気と悪夢〜


 20世紀は、戦争と革命の世紀だと言われている。国家の利害関係とイデオロギーが激しく火花を散らせてぶつかり合った世紀であった。事実、世界の各地で数えきれない革命や戦争が起き、多くの人間が犠牲となった。世界の半分以上を巻き込んだ二つの世界大戦は、何千万という人間の屍の山をいくつも築き上げ、計り知れない悲劇を生んだ。

 同時に、20世紀は、悪名高き独裁者が数多くあらわれた時代でもあった。しかし、ここに、異常なまでの人間不信と権力への飽くなき欲望を持ち、殺戮に明け暮れた独裁者がいた。彼の狡猾で冷酷非情な性格は、その後の世界史の行方を大きく左右し、その影響は今日も続いている。彼、スターリンこそは、ヒトラー以上の狂気を持ち、ヒトラーの悪業と比べても何ら見劣りしないばかりか、その殺戮した人間の数ではヒトラーをはるかに上回るのである。彼こそは、20世紀最大の狂気の殺戮者と言っていいだろう。

 ヨシフ・スターリン・・・彼の本名はヨシフ・ジュガシビリと言い、スターリンという名は、党の機関誌「プラウダ」の編集長をしていた時に考えたペンネームである。スターリンとは、鋼鉄の人という意味があり、考案者はレーニンだと言われる。ジュガシビリは、1879年12月21日、グルジア地方の貧しい靴直し職人の子供として生まれた。グルジアは、コーカサス南麓と黒海に挟まれた地域で、気候が温暖ながらも変化に富んだ地形は、現在でも風光明媚な名所として知られている。

 彼が生まれた家は、大変、狭く台所と小さな部屋が一つしかなかった。しかし、みすぼらしい窓から見える景色は絶景だった。

 コーカサスの雄大な景色が一望出来たのである。その上、春になれば、ラベンダーが山肌一面に咲き乱れ、印象派の絵画を見るようだった。そうした、美しい自然環境のもとで、彼は、三番目の男の子として出生した。

 上の二人の兄は、誕生して半年ほどで死んでしまっていた。それだけに、ジュガシビリが誕生した時は、母親は、特別な思いを持って育てられた。

グルジア地方の夏の景色(古い絵はがき)

 しかし、母親の期待に反して、彼は病気ばかりする虚弱児であった。しかも、彼は不具であった。少年時代に発病した天然痘により、左足の二つの指はくっついたままで、左腕もほとんど動かすことさえ出来ず、まるで義手をつけているようだった。顔にも無数の瘢痕があり、風采の上がらない小男であったという。

 母親は、将来、我が子を神学校に入れて神父にさせたかったが、十代後半から社会主義運動に異常な興味を持ったジュガシビリは、母親の期待に反して、革命家の道を歩み出してしまった。そして、様々な活動に参加しては、逮捕、流刑を何度も繰り返すことになる。

 やがて、神学校から見切りをつけられたジュガシビリは、退学処分とされてしまった。しかし、彼に取っては、その方が、むしろ、せいせいしたようで、もうその頃には、若干22才でありながら、彼は党の指導者的存在にまでなっていた。


20才頃のスターリン

 この頃、スターリンは初めてレーニンと会った。この時レーニンは30代半ば、彼は、一目見て若く精力的なスターリンを気に入り、革命運動の戦略家としての素質を見抜いていたという。その後、彼はレーニンらと強い結束のもと、ますます、革命推進の中心的メンバーとなっていくのである。

 1905年のロシア情勢は、余談の許さぬ状態だった。前年には、日露戦争が勃発し、一年半に渡る戦いの末、ロシアは疲弊してしまい、国内には不満が爆発、血の日曜日事件や戦艦ポチョムキンの反乱を引き起した。ロマノフ王朝の権威は地に堕ち、ついに第一次大戦の最中、ロシア革命を誘発するのである。


 その結果、ロマノフ王朝ニコライ2世は退位し、代わって、ボルシェビキ(ソ連共産党の前身)による新政府が樹立した。

 1924年、レーニンが脳梗塞で再起不能の状態になると、スターリンは、レーニンの後継者として名乗りを上げ、ついに、党の実権を把握し事実上の最高指導者の地位に躍り出ることになる。

血の日曜日事件、平和とパンを求めて、首都ペテログラード(後のレニングラード)の宮殿に押し掛けた民衆は、軍隊の発砲で多数の死者を出す流血事件に発展した。

 しかし、時が経つにつれて、彼は、急速に凶悪な独裁者の本性をさらけ出し始めた。対立者を巧妙で悪徳の限りを尽くした手段で倒していくのである。

 まず、最大のライバル、革命の功労者だったトロツキーを国外追放し、カーメネフ、ジノビエフなど自分と意見主張を異にする政敵たちを、除名処分にして党から追い出したのである。それが済むと、スターリンは、ゲ・ペ・ウと呼ばれる秘密警察を設立した。ボルシェビキ的規律と秩序を確立するのがその目的だったが、その実態は、権力を思いのままに操るために、彼の意にそぐわない人物を手足となって粛正してゆく組織だった。まもなく、独裁体制樹立と同時に、恐怖の鎌首をもたげ、計り知れない恐怖の原動力となって活動を開始するのだ。

 1929年、スターリンは、第一次五カ年計画の発動を命じた。農業国ロシアを工業国に変えるのがその目的であった。その要となる政策は、農民の強制集団化であった。すべての農民をコルホーズと呼ばれる集団農場に一括してまとめ、そこで収穫される穀物を国家がすべて徴発しようというのである。そこでは、農機具は共同で用いられ、一切の私有は禁じられるのである。こうした彼の強引なやり方は、これまで、着々と富と財を蓄えていたクラークと呼ばれた富農層から猛烈な反発を食った。彼らにしてみれば、これまでの財産をすべて失い、以後も財を貯めることも許されないからだ。

 しかし、スターリンは、農業集団化に従わない農民には、情け容赦のない弾圧を加えた。29年だけでも、1千万近い農民が、処刑されたり、シベリアなどに送られている。ある農民などは、見せしめのため、広場で自らの墓穴を掘らされた上、銃殺されたのである。しかし、これは、まだ序曲であった。血の粛清は、ますます本格化し、やがて凄惨なクライマックスに向かってゆくのである。まもなく、農民だけでなく、民族主義者、知識人など彼の体制に批判的な人間も、すべて、その対象になっていった。彼らは、「人民の敵」と名指しされ裁判にかけられた。否、それは、裁判とは名ばかりの大量処刑であった。容疑がかけられると、陰惨な拷問や薬によって強制的に自白させられ、即刻、銃殺刑かシベリアの強制収容所に送られるのである。時間のムダを省くために、トロイカ(三頭だての馬車を意味する)と呼ばれる機関が暗躍することになった。それは、被告も原告もいなくても、その場で判決が下せると言う簡易型の移動式裁判であった。多くの者は、一方的に死刑判決を言い渡されると、その場で、それこそ、10分以内に処刑されてしまった。全く、信じられないほどの素早さであったという。

「我々は、国家の福祉増進という高潔な目的のために、日夜努力せねばならない。国内の工業化を実現するためには、ある種の犠牲も覚悟せねばならず、国民は耐久生活に耐えねばならない」無論、これは体裁のよいスターリンの言葉である。しかし、その表向きと違って現実は、想像を絶っするほどひどく惨いものだった。

 日々の配給は、わずかパン数十グラム程度。これでは、大人一人生きていくことは、到底不可能だった。人々は餓死から逃れるためには、ありとあらゆる努力をしなければならなかった。路上には、パンを求める孤児の群れが溢れ返った。あるウクライナから帰って来た学生は、身の毛もよだつ話をした。彼らによると、飢饉のために、食べるものがなくなった地方では、人肉を食べていると言うのである。餓死したと思われた死体は、細かく切って解体され、商品のように売りさばける準備がなされていたということであった。当然、この二人は秘密警察に逮捕され、拷問の上、銃殺に処せられたのは言うまでもない。スターリンは、自らの考えをイメージダウンさせるものは、事実であろうが、すべて隠蔽し、片っ端から闇に葬っていたのだ。

 スターリンの女性関係は、かなり派手であったことが知られている。3度、結婚したが、その他にも、愛人、情婦など数えきれないほどいて、浮気は絶えることがなかったという。一度目の妻は、逃亡生活の隠れ家で知り合ったケケという女性だった。しかし、逃亡生活の無理がたたったのか、彼女は結核にかかり死んでしまった。

 二度目の結婚は、彼が40才の時で、相手は彼より22才も若いナジェージダという女性だった。しかし、結婚して14年後、彼女は、革命15周年記念の晩餐会の夜、謎の死を遂げてしまう。

 晩餐会が終わって二人の言い争う声を聞いたという証言もあるが、真相はわからない。死因にしても、夫スターリンに対する抗議の自殺だの、逆に、怒りを買ったスターリンに毒殺されただの言われるが、今となっては永遠に謎のままであろう。


結婚したての頃、ナジェージダと(1920年頃)


 三度目の妻はローザという女性で、スターリンよりも10センチほど背も高く、大変、利口で陽気な女性だった。彼女は、二番目の妻ナジェージダとの間に出来た二人の子供にも愛情を注ぎ、いつも優しく誠実だった。しかし、スターリンは、何が気に食わないのかローザとも離婚してしまった。その後、ドイツとの戦争中にもかかわらず、女優、バレーの踊り子、オペラ歌手、クレムリンのタイピストたちを次々と別荘に招いては、深夜の響宴に明け暮れる始末だった。

 私生活でも、彼は、大変な独裁者で、冷酷非情な面を、度々、見せている。彼は、美食家で、国民が飢餓に苦しんでいようとも、毎日、たらふく食べねば気がすまなかった。料理が気に入らないと言って、皿ごと床にぶちまけたこともあった。また、妻の寝室に情婦を連れ込んで来ることもあったし、酔うと粗暴な振る舞いが多かったという。愛人の浮気の現場を押さえた時など、ものすごい癇癪を起こして、何度も殴りつけた上、二人の髪の毛をわし掴みにして、裸のまま部屋から引きずり出し、監獄にぶちこんでやるとののしった。二人は、即刻、連行され、裏切り者として銃殺されてしまったという。また、スターリンは、女性の嫉妬という感情には耐えられない面があった。例え、献身的に尽くそうが、嫉妬ゆえに彼に疎ましく思われ、闇に葬られて消息を絶った女性はあまりにも多い。

 スターリンは、恐ろしいほどの強靭な記憶力の持ち主だった。彼の頭の中では、日々の細々した私的な事柄から、党や軍内部のあらゆることまでが最大漏らさず記憶し尽くされていたのだ。例えば、どこそこの将軍が、どこの生まれでどういう性格と遍歴を持ち、どういった成果をおさめたか? あるいは、ヘマをしでかしたかということなどがビッシリと整理されていたのである。また、霊感力もするどく、軍事や外交面では、機が熟したと見るや、すばやく行動を起こした。それはいつも抜け目なく、まるで、鳶が油揚げをかっさらうようなすばやさであった。

 第二次大戦戦争が始まり、ドイツ軍がポーランドを屈服させた時も、スターリンは、東からポーランドに侵入し、労せずしてこの国の半分を占領した。スターリンとヒトラーとの間には、秘密裏に血も凍るような悪魔の取引がなされていたのである。

 この時、連合国は我が身可愛さから、ポーランドが東西の独裁者によって、なぶり殺されていくのを手をこまねいていただけだった。どの国も自国の利益のみを考えていた。


 フランスは、マジノ要塞に閉じこもり、イギリスなどは何もしなかった。そして、ポーランドがヒトラーとスターリンに食い尽くされてゆくのをただ見守っていたのであった。しかも、狡猾なるスターリンは、世界中がヒトラーのこの派手なパフォーマンスに気を取られている隙に、どさくさに紛れてバルト3国を武力で併合してしまったのである。第二次大戦の終戦直前には、日ソ中立条約を破って、怒濤のように満州に南下、息も絶え絶えとなった日本から、強引に北方領土を奪い取ることもした。

 このように、領土拡張の野望を夢見るスターリンにとって、国際法を踏みにじることなど朝飯前のことだった。彼は、室内に大きな世界地図を飾っていて、領土が新しく増えていく度に、色を塗っていくのが何よりの楽しみであったという。そして、地図を見ながら、今度はここをやる、ここが欲しい、これは気に食わぬなどと言って党の幹部たちの前でよくつぶやいていたらしい。

 スターリンは、地上最高の権力者になることに、この上ないあこがれを抱いていた。そして、何か、ピラミッドのような巨大なモニュメントを後世に残すことが夢だった。彼は、中世ロシアの暴君イワン雷帝をこよなく愛し、自らをそのイメージにダブらせるのが好きだったようだ。確かに、彼の政権下で、何十万という人間が、殴られたり蹴られたりして強制労働に従事する様は、陰惨な中世ロシアの時代を彷彿とさせるものがあった。

 スターリンは矯正労働収容所と称して、シベリアなど、ロシア北西部に数えきれない収容所をつくっていた。その数、百カ所以上・・・彼は、囚人を矯正し魂を鍛え直す労働だと言い張っていたが、その実態は、恐怖の強制労働に他ならなかった。スターリンは、国家の工業化のために、大量のただ働きの奴隷労働者が欲しかっただけなのである。

 スターリンにとって、囚人はいくらでも代替のきく安価な消耗品でしかなかった。賃金など払う必要もなく、かろうじて生きられるだけの食料を与えておけばよかったのだ。過酷な重労働で囚人が、どれだけ凍死しようが餓死しようが、お構いなしなのであった。こうした国家建設のプロジェクトの担い手である労働力を大量に確保するために、彼は、抜け目なく、第58条という新しい条例をつくっていた。1926年に交付されたその条例によれば、政府の転覆、崩壊、もしくは革命的成果を崩壊、弱体化させる行為は、反革命的と見なされ祖国の裏切り者と見なされるというのである。

 しかし、人々の日常的行為で、この条例に引っかからないものなどあり得なかった。要するに、どうにでもデッチ上げることが可能だったのである。全く意味もない行為が、ねじ曲げられて解釈され、その挙句に祖国の裏切り者というレッテルを張られて自由をはく奪されることが往々にしてあった。かくして、数百万の無実の人間が、囚人呼ばわりされ、全財産を国家に没収された上、処刑されるか、過酷な重労働を強制されることになった。この条例の目的は、罪のない人々を囚人にでっち上げ、スターリン体制を維持するための奴隷を合法的につくり出すことなのであった。裏切り者のレッテルを張られた者には、銃殺刑か荒涼としたシベリアへの流刑が待っていた。

 シベリアに送られた囚人たちを待っていたのは、金鉱の採掘、運河や鉄橋の建設などの過酷な強制労働であった。その労働は、想像を絶するほどひどいもので、一日に16時間以上の重労働が課せられるのである。真冬ともなると、あらゆる物が凍りつき、気温は零下60度にも下がる。当然、多くの囚人が凍傷にかかった。医者が、まるで植木職人のような手さばきで、凍傷にかかった囚人の手足をパチンパチンとハサミで切り落としていった。激しい飢餓に耐えきれずに、死体置き場から死人の肉を切り取って食べた者も少なくない。

 何をするにも『ダバイ!(動け!)』の罵声が飛び、反抗的な態度を取ると、それこそ目の玉が飛び出るほど殴られた。囚人たちは、体力を消耗して、みるみるうちに痩せおとり死んでいった。死んでコチコチに変わり果てて凍った死体は、次々に運搬用のそりに投げ込まれて片付けられていくが、その時、まるで木と木がぶつかり合うような音がしたという。ものすごい寒さと重労働による疲労、飢えのために、ほぼ全員が一冬で死に絶え消滅した。夏になると、再び、新しい囚人の群れが送られてくるが、彼らも冬になると同じ運命をたどるのである。毎年、補充のために、数十万単位の囚人が薄暗い船倉や列車に閉じ込められてピストン輸送されるが、決して囚人数が増えることはなかったという。こうして、死に絶えては補充されるという死のサイクルは休むことなく繰り返されるのである。

 スターリンは、金に異常な執念を見せた独裁者でもあった。全く、それは凄まじいばかりのものであった。彼は、ことあるごとに、金の備蓄量を増やさねばならないと口にし続けていた。そうして金を国家戦略の最重要資源に位置づけし、支配国の共産党へ金の提供を義務づけたのである。そうして、金を採掘するために、数百万の囚人が集められ、牛馬のごとくこき使われたのである。

 かくして、50年代の初めには、国家が保有する貴金属は、金2千トン、銀3千2百トン、プラチナ30トンという莫大な量にまで跳ね上がったのであった。しかし、それらを採掘するために強制労働に従事した数百万の人々は、とうにシベリアの凍土と化していた。白海・バルト海運河が開通した時など、スターリンは、蒸気船「カール・マルクス」号で完成したばかりの白海からオネガ湖までの227キロを快適な船旅としゃれこむ計画を立てた。その際、多くの役人や作家連中も招待された。彼は、第一次五カ年計画の中心事業であった白海・バルト海運河をわずか2年で開通させた偉業を世界に誇示したかったのである。招待された百名以上の作家たちは、超一流ホテルでチョウザメや高級食材、各種ハム類、ウォッカ、シャンパンなどふんだんに振る舞われた後、スターリンと優雅な運河の船旅を体験したのである。皮肉にも、その時、ウクライナでは有無を言わさぬ食料調達によって数えきれない農民が飢餓に苦しみ、その挙句に埋められた死体を掘り起こし、人食いまで行われていたにもかかわらずである。

 彼らは、その後、「スターリン記念」と称する本を書き、その中で、彼の数々の偉業を美辞麗句を並び立てて絶賛し、囚人たちがいかに再教育されて鍛え直され、国家に貢献し得たかを賛美したのであった。しかし、実際は、工事期限を死守するために、運河はかなり浅く掘られ、役には立たない代物だったという。また、運河開通の担い手、30万の労働者の内、10万人がボロクズのようになって死に絶え、運河の土となったことなど一行も書かれることはなかった。

 スターリンは、後にこう述べている「反抗心のない無力な労働者を育成するには、密告を奨励し、給食を飢餓すれすれにして、ちょっぴり食い物を増やしてやると彼らにたきつけることだ。そうすれば、労働力を最大限に引き出せる。彼らの苦情など一切無視すればよい。そうすれば、人間の個性や主張など簡単に打ち砕くことが出来るのだ」これほど、人間の尊厳を侮辱し冒涜した言葉もないだろう。しかし、この方法は、後になって、ヒトラーやムソリー二など西側の悪名高き独裁者たちも、見習って借用したということである。

 第一次五カ年計画が終わる頃、農民の強制集団化で富農層をほぼ撲滅した彼は、さらなる粛清をもくろんでいた。スターリン独裁の陰では、トロツキー、カーメネフ、ジノビエフと言った反対勢力がまだ幅をきかせていたし、党の幹部の中には、粗暴なスターリンを嫌って排除しようという動きもあった。ここでスターリンは再び狡猾な手段に出る。かつて、党から、追放したはずのカーメネフ、ジノビエフらを再び党員に迎え、要職につけたのである。これは、どういうことなのか? こうしたスターリンの心境の変化を西側のメディアは、「ロシアの赤がピンクになった」などという表現を使って「雪解け現象来る?」と大見出しで報道した。

 しかし、これは、さらなる大嵐が来る前の凪(なぎ)のようなものだった。スターリンは、何かとてつもないことをしでかす前には、必ずと言っていいほど、相手を油断させるためのフェイントを演出したからである。事実、スターリンの胸の内は、これから行われる大粛清のための構図が出来上がっていた。これまでに彼に楯ついた者、恥を掻かせた者、気に入らぬ者などが、彼の強靭な記憶力の中にインプットされ続けていた。そして、それらは、膨大なリストに細かく区分けされて、逮捕、拷問、処刑の瞬間を待ちわびていたのである。後は、スターリン自身が、合図を送るだけであった。

 キーロフの暗殺が大粛清のきっかけとなった。キーロフは、共産党の中央委員でもあり、人気があった。実際、スターリンの後継者と見なす党員がほとんどだった。

 スターリンは、表向きは、キーロフを同志として信頼しているように振る舞っていたが、本心は、彼の存在が我慢ならなかった。

 結局、キーロフの暗殺は、カーメネフ、ジノビエフらの犯行ということになり、彼らは、即刻、銃殺刑にされた。しかし、これは、とんでもないでっち上げで、キーロフの暗殺を仕組んだのは、スターリンの仕業に他ならない。


セルゲイ・キーロフ

(1886〜1934)スターリンを上回る人気があり、嫉妬したスターリンによって暗殺されたと言われる。


 こうして、彼は、次期に自分のポストを奪いかねないキーロフを暗殺し、その罪をかつての政敵、カーメネフとジノビエフらに擦りつけ、一挙に両方とも片付けることに成功したのである。後は、さらなる大粛清を行い、自らの独裁を揺るぎないものにしてゆくことであった。

 粛清の死の嵐は、たちまちソ連全土に波及していき、37年には空前絶後の規模で行われた。「古い細胞を除去し、党は一新されねばならない」・・・スターリンは、大虐殺をこのように弁明し粛清の論理を正当化した。そのために、彼は密告を奨励した。自分の陰口をたたく者、不満を持つ者、体制に批判的な者を密告によって嗅ぎ分け、ことごとく粛清するのである。

 身に覚えのない密告が盛んに行われ、数えきれない人間が深夜に連行され銃殺された。いたいげな子供が親を密告したケースも少なくない。まだ善悪の判断すらつかぬ子供が、多くの人々の前で表彰を受け無邪気に喜ぶ場面もあった。一方、実の子に密告された親は、強制収容所に送られ悲惨な死を遂げたのである。

 夜がふけると、人々は、身を寄せ合って、夜が明けるのを息を殺して待つよりなかった。こうしている間にも、自分に恨みを持った人間が、復讐のため、あることないことを告げ口し、処刑隊が向かっているかもしれないのである。もう、誰も信用出来なかった。人々は疑心暗鬼に脅え、毎夜、恐怖に震えおののいた。それは、まるで、中世の魔女狩りそっくりであった。いつ何時、死神がドアをノックするかわからず、おちおち眠ることも出来なかった。死刑執行人、すなわち、秘密警察が現れるのは、決まって深夜か早朝だったからである。

 この年だけで何百万人も連行され、約半数が処刑されたと言われている。大戦前の5年間だけでも、2千万人近い人間が逮捕され、銃殺もしくは強制収容所送りにされているのである。大粛清は党や軍などあらゆる分野に及んだ。軍に至っては、将校の8割が処刑されたと言われている。そして、ついには粛清を執行した本人たちにも矛先が向けられていった。スターリン政権下30年間で換算すると、ロシアだけで実に4千万を下らない人間が連行され有罪判決を受けたことになる。ソ連全土ともなると、その数はもっと膨らみ、もはや推定する以外にはない。当局によって有罪判決を受けた者たちは、その半数以上が虫けらのように処刑されるか流刑先で悲惨な死を迎えたのである。しかし、悲劇はこれが、すべてではない・・・4年間に渡る独ソ戦の死傷者2千5百万人がその上に加わるからである。

 さらに、大戦中も、ソ連占領下の各地で、粛清の嵐は容赦なく吹き荒れた。ソ連領内の北カフカスでは、ある山岳民族が強制移住の名目で大虐殺の憂き目にあっている。この山岳民族は、戦前から、自分たちの伝統文化を頑に守り、スターリンの農業集団化に協力しようとしなかったのだ。2月の大雪が降り続く深夜、突如、10万の軍隊で村々を包囲した当局は、着の身着のままで、住民を叩き起こし、駅で待っていた家畜輸送用の貨車に詰め込んだのである。その際、老人、妊婦、子供は足手まといになるため、射殺されるか、崖から突き落としたのであった。貨車に乗り遅れたある老夫婦と幼い孫はその場で射殺された。人々は貨車から5メートルも離れると、問答無用で射殺されたという。

 また、期限内に計画達成困難と見た当局が、スターリンの怒りを買うのを恐れ、残った村の数百人の住民を納屋に閉じ込め、火を放ったこともあった。苦しみ抜いて煙にいぶし出され、はい出して来たところを一人一人狙い撃ちして皆殺しにしてしまったという。グルジアに住んでいたある少数民族などは、こうして地上から永遠に抹殺されてしまった。

 スターリンの狂気は、敵対する民族のみならず、捕虜や自軍にも向けられ、止まることを知らなかった。戦時中、スモレンスク郊外のカチンの森の中で、数千人のポーランド将校が虐殺されて埋められているのが発見された。


 遺体はどれも、おがくずを口に詰め込まれて、銃剣で刺し殺されるか、後頭部を銃で撃たれるというひどいものであった。このような惨い虐殺現場は、その後、次々と発見されていくのである。

 また、スターリンは、捕虜は祖国の裏切り者とみなして、その家族はことごとく逮捕させていた。戦場を少しでも離れる者があれば、即刻、銃殺されるか戦車で引き潰したという。将兵を、生きたまま地雷を踏ませるために行進させることもあった。

カチンの森の虐殺現場

 かくして、スターリングラードの攻防戦だけでも、1万4千名のソ連兵が自軍に殺されたのである。つまり、一つの師団丸ごとが味方の手によって抹殺された計算となるのだ。こうした死者数まで漏れなく加算していくと、あまりに現実離れした数字となり計量することは、もはや不可能となる。

 彼の犯した罪が、いかに巨大なものか、自ずからわかると言うものだ。恐怖の戦慄の果てに、全身総毛立つ思いがして来るのも当然であろう。

この遺体は後ろ手で縛られた上、絞め殺されていた

 このような犠牲者の累積は、1953年、スターリンが死ぬ瞬間まで、急上昇を描くようにカウントされつづけたのである。この年、スターリンの突然の死によって、ようやく長引いていた朝鮮戦争も終結に向かっていった。彼は、晩年、殺されるのではないかという強迫観念に取り付かれていた。何をするにも異常に疑い深くなり、食べ物はすべて毒味をさせ、自分が招いた客でさえも、深夜、こっそり入って来て、寝ているのを確認する始末だった。元々、若い頃から何事にも疑り深かったスターリンは、今では病的で、誰も信じられる者もなく、医者でさえ自分のそばに決して近寄らせなかった。そして、長寿の薬だと称して訳のわからぬ薬を飲んだり、ヨードを垂らした怪しげな水を飲んでいたという。

 独裁者の最期は、あっけないものだった。脳内出血を起こした彼は、パジャマ姿で食堂で転倒し、ほとんど、意志朦朧としたままで息を引き取ったのであった。ラジオは荘重な音楽を鳴らし、国民に4日間、喪に服することを伝えた。享年74才だったと言われる。

 スターリンが死んでもう半世紀にもなる。嘘やでっち上げで固められた政治体制、共産主義の腐敗と害毒、粛清の恐怖など・・・国民は、過去を払拭し忘れたいと思った。しかし、スターリンの残した負の遺産は、あまりにも強烈で、人々の心の奥深くに刻まれて今も存続し続けている。新生ロシアになっても、その悪影響は国家の負の遺伝子として溶け込み、断ち切ることは出来ないようだ。これほどまでに多くの人間を殺しまくり、死しても、その影響力は、依然、弱まりを見せてはいない。
 歴史上、これまでには、残虐な独裁者は数多く登場した。皇帝ネロ、カリグラ、チンギスカン、ポルポト、フセイン・・・しかし、彼、スターリンに比べると、いかなる殺戮者もちっぽけで色あせて見えるようだ。あのユダヤ人大虐殺で有名なヒトラーでさえも・・・

   旧ソ連から独立したラトビア共和国内のある歴史博物館には共産主義の墓と称するものがある。その墓碑銘には、「共産主義死す。1945ー1991年」という文字が彫られているという。
 
http://members.jcom.home.ne.jp/invader/works/works_8_f.html


スターリンの、異常な人格については、さまざまに伝えられている。まず彼には、複雑な生い立ちから培われた「憎悪の心」が強かった。彼は田舎の、極貧の靴屋の息子として生まれたが、家庭には安らぎも楽しさも、まったくなかった。 

 父親は、短気で粗暴な男であった。スターリンは、父のひどい暴力に、いつも怯えていなければならなかった。幼い日の彼は、常に体のどこかが打ち身のあとで腫れていた。父の暴力がもとで、身体に障害も残ってしまった。彼は幼年にして、「憎む」ということを覚えた。環境を憎み、父親を憎み、すべての人間を憎むようになった。また、学校に入ると、友人たちが皆、自分より経済的に恵まれている、と悩んだ。自らの“生まれ”に対する劣等感は、他人への妬みとなって表れた。人が苦しむのを見て喜び、少しでも気に入らないと徹底的に暴力を振るった。彼にとって、人の不幸は“善”であり、人の幸福は“悪”であった。あわれにも、そのような見方が、染みついてしまったといわれる。自らの“育ち”に異常なまでの嫌悪を抱いていたせいであろうか。彼は、のちに権力を握ると、自分の幼少のころを知る人々を、次々に処刑している。人は自分の環境を克服して立派な人間になることもできる。しかし、彼は、環境に負けてしまったのである。
  
 また彼は、「自分さえよければいい」という卑怯な人間であった。彼の行動の基準は、“自分のため”という一点にしがなかった。自分がより大きな権力を得るためには、あらゆる人を利用し、多くの人々を平気で犠牲にした。若いころから革命運動に身を投じたが、常に「前進せよ、恐れるな」と、かけ声をかけるだけで、自分は決して危険な所へは現れなかった。事態が危うくなると、同志を見殺しにして、すかさず身を隠すのであった。三百人のデモ行進を指揮していたとき、リーダーの彼以外は全員、逮捕され、本人だけ逃走したということもあった。また、「進め!」という彼の号令で突撃した同志の多くが銃殺されたときも、彼はかすり傷ひとつ負わなかった。この卑劣な生き方は、生涯、変わることがなかった。 
  
 さてスターリンは、自分よりも優れ、恵まれている人に対しては、悪魔的ともいえる「嫉妬心」を抱いた。他人が勲章をもらうのを見れば、自分もそれを手にしなければ気がすまなかった。とにかく自分が一番にならなければ、おさまらないという性格であった。同時代のロシアの政治家であるブハーリン(のちにスターリンによって処刑された)は、こう語っている。

[スターリンは誰か他の人がもっているものは、自分も持たないと生きて行けないのだ」

(ロバート・コンクエスト著、片山さとし訳、三一書房刊、「スターリンの恐怖政治』上)と ― 。

  
 またスターリンは、極端な[幼児性」の持ち主であった。大変に“気まぐれ”で、ひとたび感情を害すると、すねて、数日間も会議に臨席しないことがよくあった。自分の思い通りにならないことに対しては、すぐさま“怒り”と“恨み”を抱いた。それゆえ彼は、他人と「対話」することができなかった。「納得」させるのではなく、自分の考えに反対する者には、すべて残忍な「暴力」を行使したのである。
  
 スターリンが競争相手を失脚させる常套手段は、「ウソ」を言いふらすことであった。巧みにウソをつき、「あいつは反レーニン主義者だ」などとレッテルを張り付け、攻撃したのである。また、自分を守り、飾り立てるためにも、多くのウソを作り出した。師ともいうべき立場のレーニンが死んだ時のことである。彼は、「スターリンは後継者として、ふさわしくない」としたレーニンの遺言をにぎりつぶした。その一方、レーニンと自分が仲良く並んで座っている写典を、新開やポスターなど、いたるところに掲げさせた。自分がレーニンの「正統の後継ぎ」であるかのような印象を、与えようとしたのである。しかも、その写真は、合成や修正を加えて作った偽物であったという。

自分の欲望のために、“師匠”をも利用したのである。多くの人が「おかしい」と思ったが、全部、封殺されてしまった。皆は知らないだろう、とウソをつく。事実をねじまげ、さも本当らしく、言いつくろう。だが、その場は、うまくごまかしたつもりでいても、真実は隠せない。隠せたところで、ウソはウソである。なかんずく仏法の世界においては、ウソは必ず、いつか自分への刃となって返ってくる。 

 スターリンは、民衆に対して、レーニンの死を深く悲しんでいるかのように見せかけた。しかし、実際は狂喜していた。彼の執務室に勤めていた職員は、「レーニンの死後の数日ほど、彼が幸せそうに見えたことはなかった」と語っている。彼は、権力の「座」にのぼりつめても、ウソをつき続けた。「スターリンは、レーニンの仕事の立派な後継者である」「スターリンは今日のレーニンである」と自ら宣伝した。自分に都合のいいように、歴史さえも「改ざん」していった。

  
 権力を手にしたスターリンは、自分の言うことは、すべて真実であるとした。あたかも神のごとく振る舞い、国民に「絶対的服従」を強いた。自分の思い通りになる人間しか認めず、人々の自由をうば奪い取ることで、絶対者として君臨したのである。思想統制にも力を入れた。出版物も厳しく制限。情報や表現の仕方まで、徹底して取り締まった。権力欲を満たすために、作家も利用した。自分の思いのままになる人間を作るために自分を礼賛する作品を書かせた。反対に、「絶対服従」しない者には、作品の出版を禁じ、すでに出版されていた作品も葬り去った。 
  
 スターリンは、人々の心から「安心」を取り除き、「恐怖」を植え付けることによって国民を支配した。秋谷会長が、現宗門を「恐怖政治」と呼んでいたが、まったく共通している。安心は信頼と自信を生み、人々を結び付ける。しかし恐怖は、疑いを生み、人々の間に「壁」を作る。圧政者に抵抗して結束することができなくなってしまう。彼は、そうした恐怖を与えるために、「密告制」を用いた。政府が一般市民の中から密告者を選ぶのである。町のいたるところに密告者がいた。家族や親友でさえ、密告者かもしれなかった。五人集まれば、そのうち一人は密告者だと言われるほどであった。そのうえ密告者は、告発された被害者の財産を分けてもらえた。だから、ますます密告に拍車がかかった。隣人の部屋や、同僚の仕事が欲しいと思えば、それが事実であろうとなかろうと、その人を、ただ告発しさえずればよかった。「だれも信じられない」世界は人々の欲望、嫉妬、憎悪をかきたてることで支配する。人間の最も醜い面を引き出す、やり方である。まさに、「魔性」であった。市民は、自分の身の安全と利益を守るために、心を閉ざすようになった。また、互いに敵意を抱き合い、公然と非難しあうようになっていった。
  
 当時の、さまざまなエピソードが残されている。裏側のページにスターリンの写真が載っていることに気づかず、新聞を空気銃で撃ち抜いた男性は、密告により懲役十年の刑に。また、ある集会で、スターリンの名が出ると、人々は一斉に拍手を始めた。三分、五分……拍手は、いっこうに鳴りやまない。やがて十分が過ぎた。一人が拍手をやめて席についた。その人は、翌日、逮捕された ― 。まさに「恐怖の世界」であった。 
  
 絶対者として振る舞う陰で、実はスターリンは驚くほど「臆病者」であった。常に暗殺の恐怖にとりつかれ、いかなる人間 ― 家族さえも信用することができなかった。例えば、何千人という護衛兵がいただけでなく、その一人一人に対しても、幾度も取り調べを行っていた。食事は、必ず検査室で調べさせ、そのうえで毒味をさせた。どんな時も、防弾チョッキを離さず、移動は、いつも装甲車で。屋敷の警備は、最も警戒が厳しい刑務所よりも厳重で、多くの錠や門、警備員、番犬などで守られていた。庭には地雷まで埋められていたという。しかも家の中は、暗殺者をまどわすために、同じ家具を備えつけた寝室をいくつも作り、毎晩、違う部屋で寝ていた ― 。
  
 スターリンは「自分を取り巻く、すべての人間が敵である」という妄想に、とりつかれていた。それは精神病の域にまで達していたといわれる。たった「一人」の狂気が、歴史に類を見ない大量の粛消をもたらしたのである。「狂った独裁者」を放置していてはならない。現代の“魂の大量虐殺者”も、断じて追放せねばならない。
  
 スターリンは、多ぐの無実の人々を捕らえては、拷問で“自白”させ、次々と処刑していった。彼は、こう語っていたといわれる。人の死は悲しいことであるが、それが百万人の死となると、単なる統計にすぎない」(アルバート・マリン著、駐文館訳刊、『スターリン』)  

 「自分の犠牲者を選び、自分の計画を詳しく練り、執念深く復讐をやって、それからベッドに入る……世の中にこれほど楽しいことはない」(前出、『スターリンの恐怖政治』上)と。 

 彼は、やがて、長年、自分に忠誠を尽くしてきた腹心の部下をも殺していった。だが、どんなことをしょうと、本当の安らぎを得ることは、決してなかった。最期は恐ろしい形相で、もだえ死んだという。
  
http://www.hm.h555.net/~hajinoue/jinbutu/suta-rin.htm

12. 中川隆[-13528] koaQ7Jey 2020年3月23日 10:19:51 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1376] 報告
レーニンの実像  

ロシアではグラスノスチによって、神聖不可侵だったレーニンの実像を知る手がかりが次第に明らかにされつつある。共産党中央委員会が管理していたマルクス・レーニン主義研究所所属の古文書館に「秘密」のスタンプが押された3724点におよぶレーニン関連の未公開資料が保存されていたことも判明し、民主派の歴史学者の手によってその公開が進みつつある。

 これらの資料のうちの一部は、ソ連崩壊以前からグラスノスチ政策によって公開されていた。そのうちのひとつが、私が月刊『現代』91年10月号誌上で全文を公表した、1922年3月19日付のレーニンの秘密指令書である。改めてここでその内容を紹介しておこう(翻訳全文は拙著『あらかじめ裏切られた革命』に所収)。


 22年当時、ロシアは革命とそれに続く内戦のために、国中が荒廃し、未曾有の大飢饉に見舞われていた。そんな時期に、イワノヴォ州のシューヤという町で、ボリシェヴィキが協会財産を没収しようとしたところ、聖職者が信徒の農民たちが抵抗するという「事件」が起きた。報告を受けたレーニンは、共産党の独裁を確立する最大の障害の一つだった協会を弾圧する「口実ができた」と喜び、協会財産を力ずくで奪い、見せしめのための処刑を行い、徹底的な弾圧を加えよと厳命を下したのである。以下、その命令書の一部を抜粋する。


<我々にとって願ってもない好都合の、しかも唯一のチャンスで、九分九厘、敵を粉砕し、先ゆき数十年にわたって地盤を確保することができます。まさに今、飢えた地方では人をくい、道路には数千でなければ数百もの死体がころがっているこの時こそ、協会財産をいかなる抵抗にもひるむことなく、力ずくで、容赦なく没収できる(それ故、しなければならないのです>


<これを口実に銃殺できる反動聖職者と反動ブルジョワは多ければ多いほどよい。今こそ奴らに、以後数十年にわたっていかなる抵抗も、それを思うことさえ不可能であると教えてやらねばならない>


おぞましい表現に満ちたこの秘密書簡は、『ソ連共産党中央委員会会報』誌90年4月号に掲載され、一般に公開された。党中央委ですら、90年の時点で、レーニンが直接命じた残忍なテロルの事実の一端を、公式に認める判断を下したわけである。

 アナトリー・ラトゥイシェフという歴史家がいる。未公開のレーニン資料の発掘に携わっている数少ない人物で、同じくレーニン研究に携わっていた軍事史家のヴォルコゴーノフが、95年12月に他界してからは、この分野の第一人者と目されており、研究成果をまとめた『秘密解除されたレーニン』(未邦訳)という著書を96年に上梓したばかりだ。モスクワ在住の友人を通じて、彼にあてて二度にわたって質問を送ったところ、氏から詳細な回答を得るとともに、氏の好意で著書と過去に発表した論文や新聞インタビュー等の資料をいただいた。以下、それらのデータにもとづいて、レーニンの実像の一端に迫ってみる(「 」内は氏の手紙および著書・論文からの引用であり、< >内はレーニン自身の書いた文章から直接の引用である。翻訳は内山紀子、鈴木明、中神美砂、吉野武昭各氏による)。

まずは、ラトゥイシェフからの手紙の一節を紹介しよう。


「残酷さは、レーニンの最も本質をなすものでした。レーニンはことあるごとに感傷とか哀れみといった感情を憎み、攻撃し続けてきましたが、私自身は、彼には哀れみや同情といった感情を感受する器官がそもそも欠けていたのではないか、とすら思っています。残酷さという点ではレーニンは、ヒトラーやスターリンよりもひどい」


「レーニンはヒトラーよりも残酷だった」という主張の根拠として、ラトゥイシェフはまず、彼自身が古文書館で「発掘」し、はじめて公表した、1919年10月22日付のトロツキーあての命令書をあげる。

<もし総攻撃が始まったら、さらに2万人のペテルブルグの労働者に加えて、1万人のブルジョワたちを動員することはできないだろうか。そして彼らの後ろに機関銃を置いて、数百人を射殺して、ユデニッチに本格的な大打撃を与えることは実現できないだろうか>

 ユデニッチとは、白軍の将軍の一人である。白軍との内戦において、「ブルジョワ」市民を「人間の盾」として用いよと、レーニンは赤軍の指導者だったトロツキーに命じているのである。

「ヒトラーは、対ソ戦の際にソ連軍の捕虜を自軍の前に立たせて『生きた人間の盾』として用いました」と、ラトゥイシェフ氏は私宛ての手紙に書いている。

「しかし、ヒトラーですら『背後から機関銃で撃ちながら突進せよ』などとは命令しなかったし、もちろん、自国民を『盾』に使うことはなかった。レーニンは自国民を『人間の盾』に使い、背後から撃つように命じている。ヒトラーもやらなかったことをレーニンがやったというのはこういうことです。しかも、『人間の盾』に用いられ、背後から撃たれる運命となった人たちは犯罪者ではない。あて彼らの『罪』を探すとすれば、それはただひとつ、プロレタリア階級の出身ではなかったということだけです。しかし、そういう人々の生命を虫ケラほどにも思わず、殺すことを命じたレーニン自身は、世襲貴族の息子だったのです」


レーニンが「敵」とみなしていたのは、「ブルジョワ階級」だけではない。聖職者も信徒も、彼にとっては憎むべき「敵」だった。従来の党公認のレーニン伝には、革命から2年後の冬、燃料となる薪を貨車へ積み込む作業が滞っていることにレーニンが腹を立て、部下を叱咤するために書いた手紙が掲載されてきた。


<「ニコライ」に妥協するのは馬鹿げたことだ。――ただちに緊急措置を要する。

 一、出荷量を増やすこと。

 二、復活祭と新年の祝いのために仕事を休むことを防ぐこと。>


「ニコライ」とは、12月19日の「聖ニコライの祭日」のことである。この日、敬虔(けいけん)なロシア正教徒は――ということは当時のロシア国民の大半は――長年の習慣に従って、仕事を休み、祈りを捧げるために教会へ足を運んだに違いない。レーニンはこの日、労働者が仕事を休んだのはけしからんと述べているわけだが、そのために要請した緊急措置は、この文書を読むかぎりとりたてて過激なものではないように思える。しかし実は、この手紙は公開に際して改竄(かいざん)が施されていた。古文書館に保存されていた、19年12月25日付書簡の原文には、先のテクストの「――」部分に以下の一文が入っていたのである。


<チェーカー(反革命・サボタージュ取り締まり全ロシア非常委員会=KGBの前身の機関)をすべて動員し、「ニコライ」で仕事に出なかったものは銃殺すべきだ>

 レーニンの要請した「緊急措置」とは、秘密警察を動員しての、問答無用の銃殺だったのだ――。


 この短い書簡の封印を解き、最初に公表したのは、今は亡きヴォルコゴーノフで、彼の最後の著書『七人の指導者』(未邦訳)に収められている。ラトゥイシェフは、私宛ての手紙で『七人の指導者』のどのページにこの書簡が出ているか示すとともに、こういうコメントを寄せてきている。


「この薪の積み込み作業に動員されたのは、帝政時代の元将校や芸術家、インテリ、実業家などの『ブルジョワ』層でした。財産を奪われた彼らは、着のみ着のままで、この苦役に強制的に従事させられていたのです。彼らにとって『聖ニコライの日』は、つかの間の安息日だったことでしょう。レーニンは無慈悲にも、わずかな安息を求め、伝統の習慣に従っただけの不幸な人々を『聖ニコライの日』から一週間もたってから、その日に休んだのは犯罪であるなどと事後的に言い出し、銃殺に処すように命じたのです」


内部に胚胎していた冷血


 ひょっとすると、このような事実を前にしてもなお、以下のような反論を試みようとする人々が現れるかもしれない。


――レーニンはたしかに「敵」に対しては、容赦なく、残酷な手段を用いて戦ったかもしれない。しかしそれは革命直後の、白軍との内戦時の話だ。戦争という非常時においては、誰でも多かれ少なかれ、残酷になりうる。歴史の進歩のための戦いに勝ち抜くにはこうした手段もやむをえなかったのだ――。

 いかにも最もらしく思える言い分だが、これも事実と異なる。レーニンの残酷さや冷血ぶりは、内戦時のみ発揮されたわけではない。そうした思想(あるいは生理)は、ウラジーミル・イリイッチ・ウリヤーノフが「レーニン」と名乗るはるか以前から、彼の内部に胚胎していたのだ。

 話は血なまぐさい内戦の時代から約30年ほど昔に遡る。1891年、レーニンが21歳を迎えたその年、沿ヴォルガ地方は大規模な飢饉に見舞われた。このとき、地元のインテリ層の間で、飢餓に苦しむ人々に対して社会的援助を行おうとする動きがわきあがったが、その中でただ一人、反対する若者がいた。ウラジーミル・ウリヤーノフである。以下、『秘密解除されたレーニン』から引用する。


「『レーニンの青年時代』と題する、A・ペリャコフの著書を見てみよう(中略)それによれば、彼(レーニン)はこう発言していたのだ。


『あえて公言しよう。飢餓によって産業プロレタリアートが、このブルジョワ体制の墓掘人が、生まれるのであって、これは進歩的な現象である。なぜならそれは工業の発展を促進し、資本主義を通じて我々を最終目的、社会主義に導くからである――飢えは農民経済を破壊し、同時にツァーのみならず神への信仰をも打ち砕くであろう。そして時を経るにしたがってもちろん、農民達を革命への道へと押しやるのだ――』」


 ここの農民の苦しみなど一顧だにせず、革命という目的のためにそれを利用しようとするレーニンの姿勢は、すでに21歳のときには確固たるものとなっていたのだ。

 また、レーニンは『一歩前進、二歩後退』の中で自ら「ジャコバン派」と開き直り、党内の反対派を「日和見主義的なジロンド派」とののしっているが、実際に血のギロチンのジャコバン主義的暴力を、17年の革命に先んじて、1905年の蜂起の時点で実行に移している。再び『秘密解除されたレーニン』から一節を引こう。


「このボリシェヴィキの指導者が、(亡命先の)ジュネーブから、1905年のモスクワでの『12月蜂起』前夜に、何という凶暴な言葉で、ならず者とまったく変わらぬ行動を呼びかけていたことか!(中略)


『全員が手に入れられる何かを持つこと(鉄砲、ピストル、爆弾、ナイフ、メリケンサック、鉄棒、放火用のガソリンを染み込ませたボロ布、縄もしくは縄梯子、バリケードを築くためのシャベル、爆弾、有刺鉄線、対騎兵隊用の釘、等々)』(中略)


『仕事は山とある。しかもその仕事は誰にでもできる。路上の戦闘にまったく不向きな者、女、子供、老人などのごく弱い人間にも可能な、大いに役立つ仕事である』(中略)


『ある者達はスパイの殺害、警察署の爆破にとりかかり、またある者は銀行を襲撃し、蜂起のための資金を没収する』(中略)建物の上部から『軍隊に石を投げつけ、熱湯をかけ』、『警官に酸を浴びせる』のもよかろう」


「目を閉じて、そのありさまを想像してみよう。有刺鉄線や釘を使って何頭かの馬をやっつけたあと、子供達はもっと熟練のいる仕事にとりかかる。用意した容器を使って、硫酸やら塩酸を警官に浴びせかけ、火傷を負わせたり盲人にしたりしはじめるのだ。

(中略)そのときレーニンはこの子供達を真のデモクラットと呼び、見せかけだけのデモクラット、『口先だけのリベラル派』と区別するのだ」


彼の価値観はきわめて「ユニーク」で、「警官に硫酸をかけなさい」という教えだったのだ。

よく知られている話だが、1898年から3年間、シベリアへ流刑に処されたとき、レーニンは狩猟に熱中していた。この狩猟の趣味に関して、レーニンの妻、クループスカヤは『レーニンの思い出』の中で、エニセイ川の中洲に取り残されて、逃げ場を失った哀れなウサギの群れを見つけると、レーニンは片っ端から撃ち殺し、ボートがいっぱいになるまで積み上げたというエピソードを記している。


 何のために、逃げられないウサギを皆殺しにしなくてはならないのか?これはもはや、ゲームとしての狩猟とはいえない。もちろん、生活のために仕方なく行なっている必要最小限度の殺生でもない。ごく小規模ではあるが、まぎれもなくジェノサイドである。レーニンの「動物好き」とは、気まぐれに犬を撫でることもあれば、気まぐれにウサギを皆殺しにすることもある、その程度のものにすぎない。


「レーニンは疑いなく脳を病んでいた人でした。特に十月革命の直後からは、その傾向が顕著にあらわれるようになります。1918年1月19日に、憲法を制定するという公約を反古にして、憲法制定会議を解散させたあと、レーニンはヒステリー状態に陥り、数時間も笑い続けました。また、18年の7月、エス・エルの蜂起を鎮圧したあとでも、ヒステリーを起こして何時間も笑い続けたそうです。こうした話は、ボリシェヴィキの元幹部で、作家であり、医師でもあったボグダーノフが、レーニンの症状を診察し、記録に残しています」


 レーニンの灰色の脳は病んでいた。彼は「狂気」にとりつかれていたのだ。ここでいう「狂気」とはもちろん、陳腐な「文字的」レトリックとしての「狂気」でも、中沢氏のいう「聖なる狂気」のことでもない。いかなる神秘ともロマンティシズムとも無縁の、文字通りの病いである。

 頭痛や神経衰弱を訴え続けていたレーニンは、1922年になると、脳溢血の発作を起こし、静養を余儀なくされるようになった。ソ連国内だけでなく、ドイツをはじめとする外国から、神経科医、精神分析医、脳外科医などが招かれ、高額な報酬を受け取ってレーニンの診察を行った。そうした診察費用の支払い明細や領収書、カルテなどが、古文書館で発見されている。


 懸命な治療にもかかわらず、レーニンの病状は悪化の一途をたどり、知的能力は甚だしく衰えた。晩年はリハビリのため、小学校低学年レベルの二ケタの掛け算の問題に取り組んだが、一問解くのに数時間を要した。にもかかわらず、その間も決して休むことなく、彼は誕生したばかりの人類史上最初の社会主義国家の建設と発展のために、毎日、誰を国外追放にせよ、誰を銃殺しろといった「重要課題」を決定し続けた。二ケタの掛け算のできない病人のサイン一つで、途方もない数の人間の運命が決定されていったのである。

そしてこの時期、もう一つの重大事が決定されようとしていた。レーニンの後継者問題である。1922年12月13日に、脳血栓症の二度目の発作で倒れたあと、レーニンは数回に分けて「遺書」を口述した。とりわけ、22年1月4日に「スターリンは粗暴すぎる。そしてこの欠点は、われわれ共産主義者の間や彼らの相互の交際では充分我慢できるが、書記長の職務にあっては我慢できないものとなる」として、スターリンを党書記長のポストから解任するよう求めた追記の一節が、のちに政治的にきわめて重要な意味をもつこととなった。

 ラトゥイシェフはレーニンとスターリンの関係についてこう述べる。


「よく知られている通り、レーニンは『遺書』の中でスターリンを批判しました。そのため、レーニンは、スターリンの粗暴で残酷な資質を見抜いており、もともと後継者として認めていなかったのだという解釈が生まれ、それがスターリン主義体制は、レーニン主義からの逸脱であるとみなす論拠に用いられるようになりました。しかしこれは『神話』なのです。レーニンの『神話』の中で最も根強いものの一つです。

 レーニンがスターリンを死の間際に手紙で批判したのは、スターリンがクループスカヤに対して粗暴な態度をとったという個人的な怒りからです。スターリンがそのような態度をとったのは、衰弱の一途をたどるレーニンを見て、回復の見込みはないと判断して見切りをつけたからでした。しかしそれまではグルジア問題などで対立することはあっても、スターリンこそレーニンの最も信頼する”友人”であり、忠実で従順な”弟子”でした。レーニンが静養していたゴーリキーに最も足繁く通っていたのはスターリンであり、彼はレーニンのメッセージを他の幹部に伝えることで、彼自身の権力基盤を固めていったのです」

たしかに「遺書」では、レーニンはスターリンを「粗暴」と評しているが、別の場面では、まったく正反対に「スターリンは軟弱だ」と腹を立てていたという証言もある。元政治局員のモロトフは、詩人のフェリックス・チュエフの「レーニンとスターリンのどちらが厳格だったか?」という質問に対して、「もちろん、レーニンです」と答えている。このモロトフの言葉を『秘密解除されたレーニン』から引用しよう。


「『彼(レーニン)は、必要とあらば、極端な手段に走ることがまれではなかった。タンボフ県の暴動の際には、すべてを焼き払って鎮圧することを命じました。(中略)

彼がスターリンを弱腰だ、寛大すぎる、と言って責めていたのを覚えています。『あなたの独裁とはなんです? あなたのは軟弱な政権であって、独裁ではない!』と」


 あのスターリンを「軟弱だ」と叱責したレーニンの考えていた「独裁」とは、ではどういうものであったか? この定義は、何も秘密ではない。レーニン全集にはっきりとこう書かれている。


「独裁の科学的概念とは、いかなる法にも、いかなる絶対的支配にも拘束されることのない、そして直接に武力によって自らを保持している、無制限的政府のことにほかならない。これこそまさしく、『独裁』という概念の意味である」

 こんな明快な定義が他にあるだろうか。
 法の制約を受けない暴力によって維持される無制限の権力。これがレーニンが定式化し、実践した「独裁」である。スターリンは、レーニン主義のすべてを学び、我がものとしたにすぎないのだ。


 ラトゥイシェフはこう述べている。

「独裁もテロルも、レーニンが始めたことです。強制収容所も秘密警察もレーニンの命令によって作られました。スターリンはその遺産を引き継いだにすぎません。もっとも、テロルの用い方には、二人の間に相違もみられます。スターリンは、粗野で、知的には平凡な人物でしたが、精神的には安定しており、ある意味では『人間的』でした。彼は政敵を粛清する際には、遺族に復讐されないように、一族すべて殺したり、収容所送りにするという手段を多用しました。もちろん残酷きわまりないのですが、少なくとも彼には人間を殺しているという自覚がありました。しかし、レーニンは違う。彼は知的には優れた人物ですが、精神的にはきわめて不安定であり、テロルの対象となる相手を人間とはみなしていなかったと思われます。

彼の命令書には


『誰でもいいから、100人殺せ』とか

『千人殺せ』とか

『一万人を「人間の盾」にしろ』


といった表現が頻出します。彼は誰が殺されるか、殺される人物に罪があるかどうかということにまるで関心を払わず、しかも『100人』『千人』という区切りのいい『数』で指示しました。彼にとって殺すべき相手は匿名の数量でしかなかったのです。

人間としての感情が、ここには決定的に欠落しています。私が知る限り、こうした非人間的な残酷さという点では、レーニンと肩を並べるのはポル・ポトぐらいしか存在しません」

 ラトゥイシェフの言葉を細くすれば、レーニンとポル・ポトだけでなく、ここにもうひとり麻原彰晃をつけ加えることができる。麻原が指示したテロルには、個人を狙った「人点的」なものもあったが、最終的には彼は日本人の大半を殺害する「予定」でいたわけであり、これは「人間的」なテロルの次元をはるかに超えている。

暴力革命を志向するセクトやカルト教団の党員や信徒達は厳しい禁欲を強いられるものの、そうした組織に君臨する独裁者や幹部達が、狂信的なエクステリミストであると同時に、世俗の欲望まみれの俗物であることは少しも意外なことではない。サリンによる狂気のジェノサイドを命じた麻原は、周知の通り、教団内ではメロンをたらふく食う俗物そのものの日々を送っていたのであるが、この点もレーニンはまったく変わりはなかった。

 レーニンが麻原同様の俗物? そんな馬鹿な、と驚く人は少なくあるまい。レーニンにはストイックなイメージがあり、彼に対しては、まったく正反対の思想の持ち主でさえも、畏敬の念を抱いてしまうところがある。彼は己の信じる大義のために生命をかけて戦い抜いたのであり、私利私欲を満たそうとしたのではない、生涯を通じて彼は潔癖で清貧を貫いた、誰もがそう信じて今の今まで疑わなかった。そしてその点こそが、レーニンとそれ以外の私腹を肥やすことに血道をあげた腐った党指導者・幹部を分かつ分断線だった

 ところが、発掘された資料は、それが虚構にすぎなかったことを証明しているのである。1922年5月にスターリンにあてたレーニンのメッセージを公開しよう。


<同志スターリン。ところでそろそろモスクワから600ヴェルスト(約640キロメートル)以内に、一、二ヶ所、模範的な保養所を作ってもよいのではないか? 

そのためには金を使うこと。また、やむをえないドイツ行きにも、今後ずっとそれを使うこと。

しかし模範的と認めるのは、おきまりのソビエトの粗忽者やぐうたらではなく、几帳面で厳格な医者と管理者を擁することが可能と証明されたところだけにすべきです。

 5月19日     レーニン>


この書簡には、さらに続きがある。


<追伸 マル秘。貴殿やカーメネフ、ジェルジンスキーの別荘を設けたズバローヴォに、私の別荘が秋頃にできあがるが、汽車が完璧に定期運行できるようにしなければならない。それによって、お互いの間の安上がりのつきあいが年中可能となる。私の話を書きとめ、検討して下さい。また、隣接してソフホーズ(集団農場)を育成すること>

 


自分達、一握りの幹部のために別荘を建て、交通の便をはかるために鉄道を敷き、専用の食糧を供給する特別なソフホーズまでつくる。

こうした特権の習慣は、後進たちに受け継がれた。その結果、汚職と腐敗のために、国家の背骨が歪み、ついには亡国に至ったのである。その原因は、誰よりもレーニンにあった。禁欲的で清貧な指導者という、レーニン神話の中で最後まで残った最大の神話はついえた。レーニンは、メロンをむさぼり食らう麻原と何も変わりはなかったのである。

http://www.hh.iij4u.or.jp/~iwakami/nakazawa.htm




▲△▽▼

レーニンの大量殺人総合データと殺人指令27通
http://www2s.biglobe.ne.jp/~mike/leninsatujin.htm

4年7カ月間で最高権力者がしたこと
1918年5月13日食糧独裁令〜1922年12月16日第2回発作

13. 中川隆[-13527] koaQ7Jey 2020年3月23日 10:21:39 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1377] 報告

2020年01月18日
ソ連と酷似してきた中国 急激な成長と衰退
レーニン像の周囲に集まり、倒そうとするソ連の人々
1992F1 (15)
引用:http://web.sapporo-u.ac.jp/~oyaon/Lenin/1992F1%20(15).jpg


中国の急激な成長期が終わり、衰退期に入ると予測されているが、共産国家は衰退期を上手く乗り切れない。

崩壊したソ連は発足から急成長を続けたが、たった一度の衰退期を乗り切れずに崩壊した。


ソ連化する中国


最近の中国は何から何まで過去のソ連にそっくりで、双子の兄弟のようです。

かつて共産国家ソ連はユーラシア大陸のほとんどを勢力下に置いて、世界を支配するかに思えました。


ベトナム戦争でアメリカが敗れ、ソ連側が勝った頃に拡大は頂点に達し、ソ連が新たなリーダーになるように見えた。

中国もリーマンショック頃まで急拡大し、、世界のリーダーになるのは時間の問題と思われました。

不思議な事にアメリカに挑む新興勢力は必ず、米国の7割程度の国力をピークに、衰退期に入る。

ソ連と戦後日本がそうだったし、中国も同じくらいのGDPで頭打ちになり、衰退期に入りました。


「7割の法則」が在るのかどうか知りませんが、アメリカの衰退時期と新興国家の成長期が重なるとこうなっている。

ソ連は1917年のロシア革命で誕生したが、伝説のように市民が蜂起した訳ではなく、ドイツの悪巧みで発生した。

当時第一次大戦で負けそうだったドイツは、対戦相手のロシアで革命を起こさせて有利にするため、レーニンを送り込んだ。


レーニンはロシア人だがドイツに亡命して国家崩壊を企む人物で、日本で言えば麻原彰晃レベルの人間でした。

普通は誰も相手にしませんが、ロシアは大戦や財政危機で国民生活が破綻しており、飢えた人々はレーニンに従った。

ロシア革命とは麻原彰晃が敗戦を利用して日本の皇帝になったようなもので、当然ながらソ連は帝政時代より凶悪な国家になった。


世界共産革命が使命


一方中華人民共和国が生まれた経緯はソ連以上に奇怪で、当時日本帝国と中華民国(今の台湾)が戦争をしていました。

中華民国は日本との戦争で疲弊してボロボロになり、そのせいで国内の対抗勢力の共産軍(毛沢東)に敗れました。

大戦終了後に、余力があった共産軍は大陸全土を支配し、中華民国は台湾島に追い払われて現在の中国ができた。


ソ連、ロシアともに成立過程を嘘で塗り固めていて、ソ連は民衆蜂起、中国は日本軍を追い払った事にしている。

両国とも本当の歴史を隠すためか、盛大な戦勝式を行って国民の結束を高めるのに利用しています。

ソ連・中国ともに共産国家であり、「全世界で共産主義革命を起こし世界統一国家を樹立する」のを国是としている。


因みに「ソビエト連邦」は実は国家ではなく、全世界共産化の勢力範囲に過ぎませんでした。

中国もまた地球を統一し共産化する事を大義としていて、だから際限なく勢力を拡大しようとします。

資本主義を倒して地球を統一する市民団体が中国やソ連で、相手が従わなければ暴力と軍事力で共産化します。


だから共産国家は必ず軍事国家で破壊的であり、平和的な共産国家は存在しません。

世界革命に賛同した国(軍事力で服従させた国)は衛星国家として従わせ、東ドイツや北朝鮮のようになります。

共産国家は勝ち続ける事が使命であり、負けることは絶対に許されず、負けは神から与えられた使命の挫折を意味します。


理念で結束した人々は成長期には強いが、上手く行かなくなると脆い
201203171516178521-2379290
引用:http://image.hnol.net/c/2012-03/17/15/201203171516178521-2379290.jpg


負けたら国家消滅する共産国


ソ連は1978年に軍事的空白地のアフガニスタンに侵攻したが、10年間武装勢力と戦った末に撤退しました。

無敵国家ソ連はタリバンとの戦争に敗れ、僅か2年後にソ連は崩壊してしまいました。

ソ連崩壊の原因は様々な説があるが謎に包まれていて、外貨不足、インフレ、マイナス成長、食糧不足などが挙げられている。


しかしそれで国家が滅ぶのなら、もっと滅んで良い国は山ほどあるし、苦境から立ち直った国もあります。

ソ連が崩壊した本当の理由は『世界革命が挫折してしまい、共産主義の大義が無くなった』からだとも解釈されている。

日本のような民族国家なら、負けても同じ民族が再び協力して立ち直りますが、理念で集まった国は一度の負けで崩壊します。


ソ連は理念を失ったために崩壊し、革命前の民族国家ロシアに戻る事にしました。

共産主義の特徴は理念で集まって急激に成長するが、一度理念が失われるとバラバラになってしまう。

ソ連と中国の共通点として、急激な成長と急激な衰退、外貨不足、民族弾圧や無数の収容所、報道規制、経済指標偽造などが挙げられる。


軍事力を強化してやたら虚勢を張るのも共産国家の共通点で、北朝鮮でさえ「アメリカを火の海にできる」と主張している。

ソ連もあらゆる兵器全てで「アメリカを超えている」と主張したが、崩壊後に全て嘘なのが判明した。

中国も次々と新兵器を登場させ「全て日米を凌駕している」と宣伝するが、実際はブリキのオモチャに過ぎません。


兵器の性能では共産国家は資本主義国家に絶対に勝てないので、正面から戦おうとしないのも共通点です。

「いつでも日本を倒せる」「アメリカなどいつでも倒せる」と言いながら現実には逃げ回るのが、彼らの戦略です。

逃げながらスパイ活動やサイバー攻撃で相手国に侵入しようとし、多くのスパイや工作員を養成する。


ソ連を最終的に破滅に追い込んだのは、最後の書記長であるゴルバチョフの改革政策でした。

ボロボロの共産国家に市場原理主義を導入した結果、国家のシステムが破綻して生産活動ができなくなりました。

昨日まで国家公務員だった農民が、今日から市場経済だから自力で生きろと言われても、できる筈がありませんでした。


中国は習近平主席の元、大胆な国家改革を行おうとしたが、失敗して元の共産主義土木経済に逆戻りした。


中国のGDPの半分は公共事業つまり土木工事で、鉄道や空港や高速道路などを毎年「日本ひとつ分」建設している。


土木工事をやめると急激な経済縮小が起きるので、誰も住まない年を建設し、誰も乗らない高速鉄道を走らせている。


ソ連末期には経済がマイナス成長を隠して、プラス成長と発表していましたが、中国もそうしています。
http://www.thutmosev.com/archives/41996082.html

14. 中川隆[-13526] koaQ7Jey 2020年3月23日 10:23:35 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1378] 報告

パリ・コミューンについて - 内田樹の研究室 2019-03-05

石川康宏さんとの『若者よマルクスを読もう』の三巻目は「フランスにおける内乱」をめぐっての往復書簡だった。

『反抗的人間』を読んでいたら、ぜひ引用したいカミュの言葉が出て来たので、それを数行加筆することにした。

それを含む、パリ・コミューン論を採録する。


『フランスの内乱』、読み返してみました。この本を読むのは、学生時代以来50年ぶりくらいです。同じテクストでも、さすがに半世紀をおいて読み返すと、印象がずいぶん違うものですね。

パリ・コミューンの歴史的な意義や、このテクストの重要性については、もう石川先生がきちんと書いてくださっていますので、僕は例によって、個人的にこだわりのあるところについて感想を語ってゆきたいと思います。
 
「コミューン」というのは、そもそもどういう意味なんでしょう。「コミューン」という言葉を学生だった僕はこの本で最初に知りました。そして、たぶん半世紀前も次の箇所に赤線を引いたはずです。

「コミューンは本質的に労働者階級の政府であり、横領者階級に対する生産者階級の闘争の所産であり、労働者階級の経済的解放を実現するために、ついに発見された政治形態である。」(『フランスの内乱』、辰巳伸知訳、マルクスコレクションVI, 筑摩書房、2005年、36頁、強調は内田)

「ついに発見された政治形態」であると断定された以上、それは前代未聞のものであるはずです。僕は素直にそう読みました。なるほど、パリ・コミューンは歴史上はじめて登場した政治形態だったのか。すごいな。それなのに反動的なブルジョワたちから暴力的な弾圧を受けて、徹底的に殲滅されて、多くのコミューン戦士は英雄的な死を遂げた。気の毒なことをしたなあ・・・。そう思いました。それくらいしか思いませんでした。でも、さすがにそれから半世紀経つと感想もずいぶん違うものになります。

 僕が気になったのは、パリ・コミューンがマルクスの時代において「ついに発見された」前代未聞のものであったことはわかるのですが、それに続くものがなかったということです。

 パリ・コミューンからすでに150年を閲しましたけれど、パリ・コミューンのような政治形態はそれを最後に二度と再び地上に現れることはありませんでした。それはなぜなのでしょう。

 もし、パリ・コミューンがマルクスの言うように、1870年時点での革命的実践の頂点であったのだとしたら、その後も、パリ・コミューンを範とした革命的実践が(かりに失敗したとしても)世界各地で、次々と試みられてよかったはずです。でも、管見の及ぶ限りで「この政治形態はパリ・コミューンの甦りである」とか「この政治形態はパリ・コミューンが別の歴史的条件の下でいささか相貌を変えて実現したものである」というふうに名乗る事例を僕は一つも知りません。「われわれの戦いはパリ・コミューンを理想としてしている」と綱領的文書に掲げた政治運動や政治組織も僕は見たことがありません。

 変な話だと思いませんか?

 かのマルクスが、「ついに発見された政治形態である」と絶賛した究極の事例について、それを継承しようとした人たちも、未完・未済のものであったがゆえにその完成をこそ自らの歴史的召命として引き受けようとした人たちも、1871年から後いなかった。どうして、パリ・コミューンという政治的理想をそれからのちも全力で追求しようとした人たちは出てこなかったのか? 

 少なくともそれ以後フランスには「パリ・コミューン的なもの」は二度と登場しません。フランスでは、1789年、1830年、1848年、1871年と、比較的短いインターバルで革命的争乱が継起しました。いずれも、その前に行われた革命的な企てを引き継ぐものとして、あるいは先行した革命の不徹底性を乗り越えるものとしてなされました。でも、1871年のパリ・コミューンから後、パリ・コミューンを引き継ぎ、その不徹底性を批判的に乗り越える革命的な企てを構想した人は一人もいなかった。

 1944年8月25日のパリ解放の時、進軍してきた自由フランス軍に中にも、レジスタンスの闘士たちの中にも、誰も「抑圧者が去った今こそ市民たちの自治政府を」と叫ぶ人はいませんでした。1968年には「パリ五月革命」と呼ばれたラディカルな政治闘争がありましたが、その時に街頭を埋め尽くしたデモの隊列からも「今こそ第五共和政を倒して、パリ・コミューンを」と訴える声は聴こえませんでした。少しはいたかも知れませんが(どんなことでも口走る人はいますから)、誰も取り合わなかった。

 今も「パリ・コミューン派」を名乗っていて、少なからぬ力量を誇っている政治組織が世界のどこかにはあるかも知れませんけれど、寡聞にして僕は知りません(知っている人がいたらぜひご教示ください)。

 これはどういうことなのでしょう。なぜ「ついに発見された政治形態」は後継者を持ちえなかったのか?

 以下はそれについての僕の暴走的思弁です。

「マルクスとアメリカ」でも同じ考え方をご披露しましたけれど、僕が歴史について考える時にしばしば採用するアプローチは「どうして、ある出来事は起きたのに、それとは別の『起きてもよかった出来事』は起きなかったのか?」という問いを立てることです。

 このやり方を僕はシャーロック・ホームズから学びました。「起きたこと」からではなくて、「起きてもよかったはずのことが起きなかった」という事実に基づいて事件の真相に迫るのです。「白銀号事件」でホームズは「なぜあの夜、犬は吠えなかったのか?」というところからその推理を開始します。なぜ起きてもよいことが起きなかったのか?

 (...)

 なぜパリ・コミューンはマルクスによって理想的な政治形態と高く評価されたにもかかわらず、それから後、当のマルクス主義者たちによってさえ企てられなかったのか?

 それに対する僕の仮説的回答はこうです。

 パリ・コミューンはまさに「ついに発見された政治形態」であったにもかかわらずではなく、そうであったがゆえに血なまぐさい弾圧を呼び寄せ、破壊し尽くされ、二度と「あんなこと」は試みない方がよいという歴史的教訓を残したというものです。

 パリ・コミューン以後の革命家たち(レーニンもその一人です)がこの歴史的事実から引き出したのは次のような教訓でした。

 パリ・コミューンのような政治形態は不可能だ。やるならもっと違うやり方でやるしかない。

 パリ・コミューンは理想的に過ぎたのでした。

 それは『フランスの内乱』の中でマルクスが引いているいくつもの事例から知ることができます。マルクスが引いている事実はすべてがヴェルサイユ側の忌まわしいほどの不道徳性と暴力的非寛容と薄汚れた現実主義とコミューン側の道徳的清廉さ、寛大さ、感動的なまでの政治的無垢をありありと対比させています。どちらが「グッドガイ」で、どちらが「バッドガイ」か、これほど善悪の対比がはっきりした歴史的出来事は例外的です。少なくともマルクスは 読者たちにそういう印象を与えようとしていました。

 ティエールは国民軍の寄付で調達されたパリの大砲を「国家の財産である」と嘘をついてパリに対して戦争をしかけ、寄せ集めのヴェルサイユ兵を「世界の称賛の的、フランスがこれまで持った最もすばらしい軍隊」と持ち上げ、パリを砲撃した後も「自分たちは砲撃していない、それは叛徒たちの仕業である」と言い抜け、ヴェルサイユ軍の犯した処刑や報復を「すべて戯言である」と言い切りました。一方、「コミューンは、自らの言動を公表し、自らの欠陥をすべて公衆に知らせた」(同書、44頁)のです。

 マルクスの言葉を信じるならまさに「パリではすべてが真実であり、ヴェルサイユではすべてが嘘だった」(同書、46頁)のでした。パリ・コミューンは政治的にも道徳的にも正しい革命だった。マルクスはそれを讃えた。

 でも、マルクス以後の革命家たちはそうしなかった。彼らはパリ・コミューンはまさにそのせいで敗北したと考えた。確かに、レーニンがパリ・コミューンから教訓として引き出したのは、パリ・コミューンはもっと暴力的で、強権的であってもよかった、政治的にも道徳的にも、あれほど「正しい」ものである必要はなかった、ということだったからです。レーニンはこう書いています。

 「ブルジョワジーと彼らの反抗を抑圧することは、依然として必要である。そして、コンミューンにとっては、このことはとくに必要であった。そして、コンミューンの敗因の一つは、コンミューンがこのことを十分に断固として行わなかった点にある。」(レーニン、『国家と革命』、大崎平八郎訳、角川文庫、1966年、67頁)

 レーニンが「十分に、断固として行うべき」としたのは「ブルジョワジーと彼らの反抗を抑圧すること」です。ヴェルサイユ軍がコミューン派の市民に加えたのと同質の暴力をコミューン派市民はブルジョワ共和主義者や王党派や帝政派に加えるべきだった、レーニンはそう考えました。コミューン派の暴力が正義であるのは、コミューン派が「住民の多数派」だからです。

「ひとたび人民の多数者自身が自分の抑圧者を抑圧する段になると、抑圧のための『特殊な権力』は、もはや必要ではなくなる!国家は死滅し始める。特権的な少数者の特殊な制度(特権官僚、常備軍主脳部)に代わって、多数者自身がこれを直接に遂行することができる。」(同書、67−8頁、強調はレーニン)

 少数派がコントロールしている「特殊な権力」がふるう暴力は悪だけれど、国家権力を媒介とせずに人民が抑圧者に向けて直接ふるう暴力は善である。マルクスは『フランスの内乱』のどこにもそんなことは書いていません。でも、レーニンはそのことをパリ・コミューンの「敗因」から学んだ。

 レーニンがパリ・コミューンの敗北から引き出したもう一つの教訓は、石川先生もご指摘されていた「国家機構」の問題です。これについて、石川先生は、レーニンは「国家機構の粉砕」を主張し、マルクスはそれとは違って、革命の平和的・非強力的な展開の可能性にもチャンスを認めていたという指摘をされています。でも、僕はちょっとそれとは違う解釈も可能なのではないかと思います。レーニンの方がむしろ「できあいの国家機構」を効率的に用いることを認めていたのではないでしょうか。レーニンはこう書いています。

「コンミューンは、ブルジョワ社会の賄賂のきく、腐敗しきった議会制度を、意見と討論の自由が欺瞞に堕することのないような制度とおき替える。なぜなら、コンミューンの代議員たちは、みずから活動し、自分がつくった法律をみずから執行し、執行にあたって生じた結果をみずから点検し、自分の選挙人にたいしてみずから直接責任を負わなければならないからである。代議制度はのこるが、しかし、特殊な制度としての、立法活動と執行活動の分業としての、代議員のための特権的地位を保障するものとしての、議会制度は、ここにはない。(...)議会制度なしの民主主義を考えることができるし、また考えなければならない。」(同書、74−75頁、強調はレーニン)
 
 法の制定者と法の執行者を分業させた政体のことを共和制と呼び、法の制定者と執行者が同一機関である政体のことを独裁制と呼びます。パリ・コミューンは「議会制度なしの民主主義」、独裁的な民主主義の達成だったとして、その点をレーニンは評価します。

 この文章を読むときに、代議制度は「のこる」という方を重く見るか、立法と行政の分業としての共和的な制度は「ない」という方を重く見るかで、解釈にずれが生じます。僕はレーニンは制度そのものの継続性をむしろ強調したかったのではないかという気がします。レーニンは何か新しい、人道的で、理想的な統治形態を夢見ていたのではなく、今ある統治システムを換骨奪胎することを目指していた。そして、マルクスもまた既存の制度との継続を目指したしたるのだと主張します。

「マルクスには『新しい』社会を考えついたり夢想したりするという意味でのユートピア主義など、ひとかけらもない。そうではなくて、彼は、古い社会からの新しい社会の誕生、前者から後者への過渡的諸形態を、自然史的過程として研究しているのだ。」(同書、75頁、強調はレーニン)
 
 ここで目立つのは「からの」を強調していることです。旧体制と新体制の間には連続性がある。だから、「過渡的諸形態」においては「ありもの」の統治システムを使い回す必要がある。レーニンはそう言いたかったようです。そのためにマルクスも「そう言っている」という無理な読解を行った。

「われわれは空想家ではない。われわれは、どうやって一挙に、いっさいの統治なしに、いっさいの服従なしに、やっていくかなどと『夢想』はしない。プロレタリアートの独裁の任務についての無理解にもとづくこうした無政府主義的夢想は、マルクス主義とは根本的に無縁なものであり、実際には、人間が今とは違ったものになるときまで社会主義革命を引き延ばすことに役だつだけである。ところがそうではなくて、われわれは、社会主義革命をば現在のままの人間で、つまり服従なしには、統制なしには、『監督、簿記係』なしにはやってゆけない、そのような人間によって遂行しようと望んでいるのだ。」(同書、76―77頁、強調はレーニン)

 レーニンが「監督、簿記係」と嘲弄的に呼んでいるのは官僚機構のことです。プロレタリアート独裁は「服従」と「統制」と「官僚機構」を通じて行われることになるだろうとレーニンはここで言っているのです。「すべての被搾取勤労者の武装した前衛であるプロレタリアートには、服従しなければならない。」(77頁)という命題には「誰が」という主語が言い落とされていますが、これは「プロレタリアート以外の全員」のことです。

 これはどう贔屓目に読んでも、マルクスの『フランスの内乱』の解釈としては受け入れがたいものです。

 マルクスがパリ・コミューンにおいて最も高く評価したのは、そこでは「服従」や「統制」や「官僚機構」が効率的に働いていたことではなく、逆に、労働者たちが「できあいの国家機構をそのまま掌握して、自分自身の目的のために行使することはできない」と考えたからです。新しいものを手作りしなければならないというコミューンの未決性、開放性をマルクスは評価した。誰も服従しない、誰も統制しない、誰もが進んで公的使命を果たすという点がパリ・コミューンの最大の美点だとマルクスは考えていたからです。

「コミューンが多種多様に解釈されてきたこと、自分たちの都合のいいように多種多様な党派がコミューンを解釈したこと、このことは、過去のあらゆる統治形態がまさに抑圧的であり続けてきたのに対して、コミューンが徹頭徹尾開放的な政府形態であったということを示している。」(マルクス、前掲書、36頁)

 マルクスの見るところ、パリ・コミューンの最大の美点はその道徳的なインテグリティーにありました。自らの無謬性を誇らず、「自らの言動を公表し、自らの欠陥のすべてを公衆に知らせた」ことです。それがもたらした劇的な変化についてマルクスは感動的な筆致でこう書いています。

「実際すばらしかったのは、コミューンがパリにもたらした変化である! 第二帝政のみだらなパリは、もはやあとかたもなかった。パリはもはや、イギリスの地主やアイルランドの不在地主、アメリカのもと奴隷所有者や成金、ロシアのもと農奴所有者やワラキアの大貴族のたまり場ではなくなった。死体公示所にはもはや身元不明の死体はなく、夜盗もなくなり、強盗もほとんどなくなった。1848年二月期以来、はじめてパリの街路は安全になった。しかも、いかなる類の警察もなしに。(・・・)労働し、考え、闘い、血を流しているパリは、―新たな社会を生み出そうとするなかで、(・・・)自らが歴史を創始することの熱情に輝いていたのである。」(同書、45―46頁、強調は内田)

「新しい社会を生み出そうとするなかで」とマルクスは書いています。この文言と「マルクスには『新しい』社会を考えついたり夢想したりするという意味でのユートピア主義など、ひとかけらもない」というレーニンの断定の間には、埋めることのできないほどの断絶があると僕は思います。

 でも、パリ・コミューンの総括において「パリ・コミューンは理想主義的過ぎた」という印象を抱いたのはレーニン一人ではありません。ほとんどすべての革命家たちがそう思った。だからこそ、パリ・コミューンはひとり孤絶した歴史的経験にとどまり、以後150年、その「アヴァター」は再び地上に顕現することがなかった。そういうことではないかと思います。

 勘違いして欲しくないのですが、僕はレーニンの革命論が「間違っている」と言っているのではありません。現にロシア革命を「成功」させたくらいですから、実践によってみごとに裏書きされたすぐれた革命論だと思います。でも、マルクスの『フランスの内乱』の祖述としては不正確です。

 ただし、レーニンのこの「不正確な祖述」は彼の知性が不調なせいでも悪意のせいでもありません。レーニンは彼なりにパリ・コミューンの悲劇的な結末から学ぶべきことを学んだのです。そして、パリ・コミューンはすばらしい歴史的実験だったし、めざしたものは崇高だったかも知れないけれど、あのような「新しい社会」を志向する、開放的な革命運動は政治的には無効だと考えたのです。革命闘争に勝利するためには、それとはまったく正反対の、服従と統制と官僚機構を最大限に活用した運動と組織が必要だと考えた。

 レーニンのこのパリ・コミューン解釈がそれ以後のパリ・コミューンについて支配的な解釈として定着しました。ですから、仮にそれから後、「パリ・コミューンのような政治形態」をめざす政治運動が試みられたことがあったとしても、それは「われわれは空想家ではない。われわれは、どうやって一挙に、いっさいの統治なしに、いっさいの服従なしに、やっていくかなどと『夢想』はしない」と断定する鉄のレーニン主義者たちから「空想家」「夢想家」と決めつけられて、舞台から荒っぽく引きずりおろされただろうと思います。

 アルベール・カミュは『国家と革命』におけるレーニンのパリ・コミューン評価をこんなふうに要言しています。僕はカミュのこの評言に対して同意の一票を投じたいと思います。

「レーニンは、生産手段の社会化が達成されるとともに、搾取階級は廃滅され、国家は死滅するという明確で断固たる原則から出発する。しかし、同じ文書の中で、彼は生産手段の社会化の後も、革命的フラクションによる自余の人民に対する独裁が、期限をあらかじめ区切られることなしに継続されることは正当化されるという結論に達している。コミューンの経験を繰り返し参照していながら、このパンフレットは、コミューンを生み出した連邦主義的、反権威主義的な思潮と絶対的に対立するのである。マルクスとエンゲルスのコミュ―ンについての楽観的な記述にさえ反対する。理由は明らかである。レーニンはコミューンが失敗したことを忘れなかったのである。」(Albert Camus, L'homme révolté, in Essais, Gallimard, 1965, p.633)

 僕はできたら読者の皆さんには『フランスの内乱』と『国家と革命』を併せて読んでくれることをお願いしたいと思います。そして、そこに石川先生がこの間言われたような「マルクス」と「マルクス主義」の違いを感じてくれたらいいなと思います。マルクスを読むこととマルクス主義を勉強することは別の営みです。まったく別の営みだと申し上げてもよいと思います。そして、僕は「マルクス主義を勉強すること」にはもうあまり興味がありませんけれど、「マルクスを読む楽しみ」はこれからもずっと手離さないだろうと思います
http://blog.tatsuru.com/2019/03/05_1542.html


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革命は軍や警察が国家を裏切り市民側に就かないと成功しない
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/574.html

15. 中川隆[-13474] koaQ7Jey 2020年3月23日 17:47:09 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1430] 報告

アメリカの闇 政治を金で買う超富裕層
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/634.html
16. 中川隆[-13318] koaQ7Jey 2020年3月25日 18:15:03 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1586] 報告
1982年にロナルド・レーガン大統領はNSDD55を出して一種の戒厳令計画で、憲法の機能を停止、地下政府を樹立することを定めたCOGを始めた。

 当初、COGは核戦争を前提にしていたが、1988年に大統領令12656が出されると対象は「国家安全保障上の緊急事態」に変更され、核戦争が勃発しなくても、支配階級が国家安全保障上の緊急事態だと判断すれば憲法の機能を停止できるようになった。2001年9月11日にこの規定が始動したという噂がある。

 COGのベースになったFEMAは1979年にジミー・カーター政権が作り上げているが、それはドワイト・アイゼンハワーが大統領だった1958年に作られた秘密政府が元になっている。

1957年にアメリカ政府はソ連を約300発の核兵器で殲滅することを計画した。
ドロップショット作戦である。
核戦争時に正規の政府が機能しなくなることを想定してのことだった。

 ソ連を核攻撃する計画は第2次世界大戦が終わった直後からアメリカで練られているが、その背景にはウィンストン・チャーチルを含むイギリスの支配層が存在していた。

 反ファシストで、ウォール街を拠点とする金融資本と対立していたフランクリン・ルーズベルトが1945年4月に死亡、その翌月にドイツが降伏する。

ドイツ降伏の直後にイギリスの首相だった反ソ連のチャーチルはJPS(合同作戦本部)に対し、ソ連を奇襲攻撃するための作戦を立てるように命令、そしてできたのがアンシンカブル作戦だ。

 これは参謀本部の反対で実行されなかったが、アメリカ軍、イギリス軍、ポーランド軍、そしてドイツ軍で「第3次世界大戦」を始める想定になっていた。

 チャーチルは1945年7月に首相の座を降りるが、大戦後の46年3月にアメリカのフルトンで「鉄のカーテン演説」を行って「冷戦」の開幕を告げる。FBIの文書によると、​チャーチルは1947年にアメリカのスタイルズ・ブリッジス上院議員に対し、ソ連を核攻撃するようハリー・トルーマン大統領を説得してほしいと求めている​。

 チャーチル家は貴族階級に属すが、ウィンストンの父親であるランドルフ・チャーチルは甘やかされて育ったプレーボーイで、46歳のときに梅毒が原因で死亡している。

 それだけなら個人的な問題ですむのだが、ランドルフにカネを渡していた人物が問題。ランドルフはネイサン・ロスチャイルドから多額の借金をしていたのだ。借金という形式だが、いくらでも借りられたと言われている。

 それはともかく、アメリカの収容所化には長い歴史がある。収容所化の背景には巨大な私的権力が存在している。フランクリン・ルーズベルトは私的権力が国を支配する仕組みをファシズムと呼んだ。大統領をすげ替えるだけでは解決しない問題が横たわっているのだ。米英支配層の長期戦略に反する大統領が登場したなら、あらゆる手段を使って排除されることだろう。

https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202003250000/

17. 中川隆[-13298] koaQ7Jey 2020年3月26日 09:08:54 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1606] 報告

私的権力が国を凌駕する力を持つ政体がファシズム


私的権力が世界を直接統治する体制を築こうとする動き


 アメリカは基軸通貨を発行する特権だけで生きながらえている帝国だが、その命運は尽きかけている。本ブログで繰り返し書いてことだが、2030年までその支配システムは持たないだろうと推測する人もいる。アメリカの支配層はドル体制を維持しようしているが、限界があることを認識しているはずだ。

 ドル体制を維持するため、1970年代からアメリカの支配層はドルを実社会から吸い上げる仕組みを作ってきた。そのひとつが産油国にドルを回収させるペトラダラーであり、もうひとつが流通するドルを吸い上げる投機市場の育成だ。

 同じ頃から彼らは公的な仕組みを破壊し、私有化を推進している。富と情報をごくわずかな人びとに集中させ、国を上回る力を持つ私的な権力を作り上げてきたのだ。これは一種のアナーキズムだが、圧倒的な力の差がある状態で「個人の自由」に基づくシステムを作れば、弱肉強食の非情な世界ができあがる。それが新自由主義にほかならない。

 そうした弱肉強食の世界における少数の強者は大多数の弱者を支配するために社会を収容所化する。監視システムを強化し、警察の軍事化を進め、洗脳や宣伝の仕組みを充実させているのはそのためだ。世界のパレスチナ化とも言えるだろう。西側の私的権力は自分たちが世界を直接統治する体制を築こうとしている。

 その強者は私的権力にすぎない。フランクリン・ルーズベルト大統領は1938年に私的権力が国を凌駕する力を持つ危険性を指摘、そうした状態をファシズムと呼んだ。強大な私的権力が民主的国家そのものより強くなることを許すなら、民主主義は危機に陥ると警鐘を鳴らしたのである。

 ルーズベルトの同志であり、1945年1月まで副大統領を務めていたヘンリー・ウォーレスは44年4月にニューヨーク・タイムズ紙に載せた意見の中で、アメリカをファシズムの脅威が襲うピークは第2次世界大戦の後だと指摘、ファシストは米英を帝国主義化し、ソ連との戦争へとアメリカを向かわせると見通している。

 1944年には大統領選挙があったが、民主党の幹部たちはウォーレスを副大統領候補からはずし、ルーズベルトとの関係が薄く、意見を交換することもほとんどなかったというハリー・トルーマンを新たな候補者に据えた。1945年4月にルーズベルトは急死、このトルーマンが大統領に昇格しているが、もしウォーレスが大統領になったなら、ウォール街の大物たちはファシストとの関係が追及されていたことだろう。

 戦後、西側世界はウィンストン・チャーチルが主導する形で冷戦に突入し、ウォーレス政権でファシストを追及したであろう人びとはジョセフ・マッカーシーを中心とするグループに攻撃された。マッカーシズムである。

 マッカーシーの背後にJ・エドガー・フーバーFBI長官がいたことは本ブログでも繰り返し書いてきた通り。マッカーシーの法律顧問を務めていたロイ・コーンは密造酒で大儲けしたルイス・ローゼンスティールと親しく、ジョン・ゴッチなど犯罪組織の大物の法律顧問でもあった。後にコーンはドナルド・トランプの顧問にもなる。

 この人脈がジェフリー・エプスタインにつながることも繰り返し書いてきた。未成年の女性などを有力者に提供、その行為を映像などで記録して恫喝に使っていた人脈で、それはイスラエルの情報機関の仕事だった。

 また、トルーマンのスポンサーはリンドン・ジョンソンと同じアブラハム・フェインバーグ。この人物はフランスの富豪、エドモンド・アドルフ・ド・ロスチャイルドと同じようにイスラエルの核兵器開発にカネを出している。

 こうした富豪を含む私的な権力は新自由主義化によって強力になり、彼らに呑み込まれた国は少なくない。現在、独立していると言えそうな国はロシア、中国、イランなど多くはない。そうした国々と西側の私的権力の熾烈な戦いが繰り広げられている。

https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202003250001/

18. 中川隆[-13295] koaQ7Jey 2020年3月26日 09:19:38 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1609] 報告


東京大空襲、原爆投下、朝鮮戦争、ケネディ大統領暗殺、勲一等旭日大綬章


 ドイツのドレスデンを空爆した翌月、アメリカ軍は1945年3月9日から10日にかけて、東京の下町、深川、城東、浅草などを焼夷弾で焼き尽くした。この爆撃で7万5000人から20万人の非戦闘員が殺されたと言われている。

 投下された焼夷弾の中には38個の小爆弾が収納されていて、高度610メートル付近で子爆弾はバラバラに飛び散り、建造物や地面に到達すると数秒後に焼夷剤のゲル化ガソリンが燃え上がる仕組みになっている。

 東京空襲を指揮したのはアメリカ空軍のカーチス・ルメイ。この軍人は原爆を投下する都市の選定にも加わっていた。朝鮮戦争における空爆の責任者でもある。

 ルメイは1948年からSAC(戦略空軍総司令部)の司令官を務め、50年6月に始められた朝鮮戦争で朝鮮半島北部の78都市と数千の村を破壊して多くの市民を殺害。ルメイ自身、3年間に朝鮮半島の人口の20%にあたる人を殺したと認めている。

 朝鮮戦争が休戦になった翌年の1954年にルメイを含むアメリカ軍の好戦派はソ連を核攻撃する作戦を立てた。アメリカに存在した核爆弾の数は無視したもので、600から750発の核爆弾をソ連へ投下、118都市に住む住民の80%、つまり約6000万人を殺すことになっていた。

 その2年後にSACは​核攻撃計画に関する報告書​をまとめている。それによると、ソ連、中国、東ヨーロッパの最重要目標には水爆が使われ、ソ連圏の大都市、つまり人口密集地帯に原爆を投下するとされている。軍事目標を核兵器で攻撃しても周辺に住む多くの人びとが犠牲になるわけだ。この当時もSACの司令官はルメイ。

 この計画ではソ連の主要都市だけでなく、ポーランドのワルシャワ、東ドイツの東ベルリン、チェコスロバキアのプラハ、ルーマニアのブカレスト、ブルガリアのソフィア、中国の北京が含まれていた。

 日本列島が中国に対する攻撃の拠点として想定されていた可能性は高い。1953年4月に沖縄では布令109号「土地収用令」が公布/施行されて基地化が強引に進められた。土地の強制接収は暴力的なもので、「銃剣とブルドーザー」で行われたと表現されている。沖縄の基地化はアメリカの先制核攻撃計画と密接に結びついていたと考えるべきだろう。

 本ブログでは繰り返し書いてきたが、第2次世界大戦はドイツ軍の主力がスターリングラードの戦いで破れた1943年初めの時点で事実上、終わっている。

 ドイツ軍は1941年6月にソ連に向かって進撃を開始した。バルバロッサ作戦だ。このソ連侵略でアドルフ・ヒトラーは西の守りを無視して約300万人を投入した。西部戦線に残ったドイツ軍は約90万人。ドイツ軍の首脳は西部方面を防衛するために東へ向かう部隊に匹敵する数の将兵を配備するべきだと主張したが、ヒトラーに退けられたとされている。(David M. Glantz, The Soviet-German War 1941-1945,” Strom Thurmond Institute of Government and Public Affairs, Clemson University, October 11, 2001)

 ドイツ軍は1942年8月にスターリングラードの市内へ突入するが、11月になるとソ連軍が猛反撃を開始、ドイツ軍25万人はソ連軍に完全包囲されてしまった。生き残ったドイツ軍の将兵9万人余りは1943年1月に降伏する。東部戦線での敗北は戦争自体の敗北も意味していた。

 ドイツ軍がソ連侵略に失敗したのを見てイギリスやアメリカは慌てて動き始める。その年の5月に両国はワシントンDCで会談、ドイツに対する軍事作戦を作成した。7月に両国軍はマフィアの協力を得てシチリア島へ上陸している。ハリウッド映画の宣伝で有名なノルマンディー上陸作戦(オーバーロード作戦)は1944年6月のことだ。

 ドイツ軍がソ連軍との戦いに敗れると、ナチス親衛隊はアメリカとの単独講和への道を探りはじめ、実業家のマックス・エゴン・フォン・ホヘンローヘをスイスにいたアレン・ダレスの下へ派遣している。ダレスは当時、戦時情報機関OSSの幹部だったが、ドイツの巨大資本と連携していたウォール街の弁護士という側面も持っていた。

 1944年になるとダレスたちはフランクリン・ルーズベルト大統領に無断でドイツ軍の情報将校だったラインハルト・ゲーレン准将らと接触しはじめたが、その仲介役はダレスの部下でウォール街の弁護士でもあったフランク・ウィズナー。大戦後に極秘の破壊工作機関OPCを指揮することになる人物だ。

 その後、ウォール街の住人たちがナチス元高官らをラテン・アメリカへ逃がすラットラインを作り、国務省やCIAはそうした人びとやドイツの科学者を雇う。ブラッドストーン作戦とペーパークリップ作戦だ。フランクリン・ルーズベルト大統領が1945年4月に急死すると、こうしたウォール街の住人がホワイトハウスで主導権を握ることになる。

 1945年5月にドイツが降伏すると、イギリスのウィンストン・チャーチル首相はソ連へ軍事侵攻するための作戦を立てるようにJPS(合同作戦本部)にを命令、アンシンカブル作戦が提出された。その作戦によると、攻撃を始めるのは7月1日で、アメリカ軍64師団、イギリス連邦軍35師団、ポーランド軍4師団、そしてドイツ軍10師団で「第3次世界大戦」を始める想定になっていた。この作戦が発動しなかったのは参謀本部が計画を拒否したからだという。(Stephen Dorril, “MI6”, Fourth Estate, 2000)

 この後、7月16日にニューメキシコ州のトリニティー・サイトで原子爆弾の爆破実験が行われて成功。8月6日には広島、8月9日には長崎に原爆が投下された。

 トリニティ実験の10日後にチャーチルは下野するが、翌年の3月にアメリカのフルトンで「鉄のカーテン演説」を行って「冷戦」の幕開けを宣言、その翌年に​アメリカのスタイルズ・ブリッジス上院議員に対し、ソ連を核攻撃するようハリー・トルーマン大統領を説得してほしいと求めている​。

 ルメイたち好戦派が目論む計画の障害になる人物が1961年に登場する。ジョン・F・ケネディがアメリカ大統領に就任したのだ。ケネディは1963年6月、アメリカン大学の学位授与式(卒業式)でソ連との平和共存を訴えている。ケネディ大統領が暗殺されたのはその5カ月後のことだった。日本政府がルメイに「勲一等旭日大綬章」を授与したのは暗殺の翌年のことである。

https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202003100000/

19. 中川隆[-13251] koaQ7Jey 2020年3月27日 12:11:28 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1653] 報告
不当に安すぎる通貨、円

日本が円高になる理由はそもそも1949年に1ドル360円になった時から、円が異常に安いので定期的に円高が起きています。

最初1ドルと1円は同じ価値だったが1940年ごろには1ドル4円から5円、敗戦によって1945年には1ドル15円、翌年には40円、1947年には1ドル50円になっていた。

当時アメリカは「日本を貧困化してフィリピン並みの小国にする」政策を進めていたが、1950年の朝鮮戦争ですべてが変わった。


アメリカ軍は優勢な共産軍の前に連戦連敗し朝鮮半島南端の釜山まで追い詰められて「日本軍を再結成して欲しい」と泣きついてきました。

日本は後に自衛隊になる警察予備隊を創設したり、日本を前線基地として使用させたり物資の補給などで協力し、米軍はなんとか引き分けに持ち込んだ。

アメリカは日本経済を復興し日本軍再結成に方針を転換し、その後日本は高度経済成長を経て今日に至る。


1ドル360円にしたことで円は不当に安くなり、日本で生産したものは安くて品質が良いので大量に輸出されるようになった。

1980年代になるとアメリカは日本の輸出で打撃を受けるようになり、1985年のプラザ合意でドル円を変動相場制に移行した。

これを分かりやすく言うと固定相場制では「輸出国が儲かった」のに、変動相場制では「輸入国が儲かる」ようになる。


日本は輸出するほど円高になって損をするのを繰り返し、バブル崩壊や平成不況、超円高でのたうち回った。

現在もこの構図は変わっておらず、日本の通貨円は不当に安いので日本企業は輸出攻勢をかけて儲けている。

「日本はもはや輸出大国ではない」という人もいるが、実際には毎年20兆円も経常黒字を積み重ねている。


円安に誘導するから円高になる

変動相場制では「日本が儲かるほど円高が進む」のだから毎年20兆円分円高にならないとおかしいのです。

20兆円と言うと日本のGDPの3.5%程度なので、毎年3%以上円高になっている計算です。

円高にならないとおかしいのだが、どの程度円高になると円の価値は正しくなるのでしょうか?


これは物価や実質実効レートを見れば簡単に分かり、実質実効レートとは物価を計算した「本当の為替レート」の事です。

例えばドル円がずっと1ドル100円だったとしても、日本の物価は変わらずアメリカは毎年5%物価上昇したら毎年5%円安が進んだことになります。

実質実効レートでは2011年ごろと比べて同じ為替レートでも円は10%ほど安くなっている。


つまり2011年の1ドル75円と同じドルと円の交換レートは、物価を修正すると現在では1ドル60円台になる。

経済危機のたびに注目される「ビッグマック指数」ではアメリカの物価は日本の2倍なので、1ドル50円台が予想される。

1985年や1995年や2009や2011年のような円高が発生した場合、次は1ドル60円台か50円台になると見ています。


物価からは1995年や2011年は円高ではなく「正しいレート」で、日本政府が強制的に円安誘導していたと言える。

政府が無理やり円安にするので、およそ10年ごとに矛盾が噴出して一気に円高になるのです。

1ドル60円になって人民元が何割か安くなると日中のGDPは再逆転し、再び日本のほうが上位になります。


人民元は日本円とは逆に不当に高く維持されていて、中国のGDPを大きく見せかけるのに貢献している。

http://www.thutmosev.com/archives/82547886.html

20. 中川隆[-13344] koaQ7Jey 2020年4月13日 12:55:47 : fsqm4t39Lc : b0hWUUt3RHJnVDY=[-11] 報告
『山本太郎から見える日本』から - 内田樹の研究室 2020-04-10
http://blog.tatsuru.com/2020/04/10_1141.html
山本太郎の起こしているムーヴメントは、たとえばスペインのポデモスや、アメリカのバーニー・サンダース、オカシオ゠コルテスなどが巻き起こしているオルタナティヴな運動とリンクしていると考えていいでしょうか?

内田 リンクしていると思います。ただそれは、よそでこういう実践があったから、それを模倣しようということではないと思います。世界同時多発的に起きるんです、こういうものは。

いま世界のどこも反民主主義的で、強権的な政治家が成功しています。アメリカのトランプも、ロシアのプーチンも、中国の習近平も、トルコのエルドアンも、フィリピンのドゥテルテも。非民主的な政体と市場経済が結びついた「政治的資本主義」が成功している。

 中国がその典型ですけれど、独裁的な政府が、どのプロジェクトにどんなリソースを集中すべきか一元的に決定できる。民間企業も軍部も大学も、党中央の命令には服さなければいけない。巨視的なプランを手際よく実行するためには、こちらの方が圧倒的に効率がよい。

民主国家では、民間企業や大学に対して、政府のプロジェクトに全面的に協力しろというようなことは要求できませんから。非民主的な国なら、政府のアジェンダに反対する人たちは強権的に黙らせられるし、人権も制約できるし、言論の自由も抑え込める。だから、短期的な成功を目指すなら「中国モデル」は魅力的です。日本の安倍政権も、無自覚ですけれど、中国やシンガポールのような強権政治にあこがれている。だから、国内的にはそれに対するアンチが出て来る。日本の場合は、それが山本太郎だったということなんじゃないですか。

21. 中川隆[-13122] koaQ7Jey 2020年4月19日 22:18:22 : 4x46IipBow : YWFUR1V5N3FIaFE=[26] 報告

階級社会が経済を破壊する理由を分かりやすく説明する


人口100人の青い目の人達の村_新自由主義村があった。

4人の資本家に支配された労働者庶民96人が住んでいた。

資本家の年俸は2億円、残りの庶民は年俸200万円
全体で9億9200万円の紙幣が循環していた。

新自由主義村では、自動車は6、7台しか売れず、他の者は自転車だった。
暴動や略奪や薬物中毒・犯罪が頻繁に起こっていて
ズタズタなスラム社会になった。


その村の隣に、ジパングという人口100人の島国があった。

20人の知恵者をリーダーとした職人庶民80人いた

リーダーの年俸は1440万円、残りの職人は年俸500万円

全体で 新自由主義村より少しすくない6億8800万円の紙幣が循環していた。

その村では、自動車は100台売れた。 自転車も売れた。

あらゆる産業が学問が医療が社会福祉が発展し
インフラが整備されていき、すばらしい街を形成していった。

22. 中川隆[-12983] koaQ7Jey 2020年4月24日 10:46:03 : ozcyhJ8c66 : aGxrMmwvWGhCdFU=[6] 報告
コロナ後の世界、「独裁か、民主主義か」という歴史的分岐点- 内田樹の研究室 2020-04-22
http://blog.tatsuru.com/2020/04/22_1114.html

―― 世界中がコロナ危機の対応に追われています。しかしたとえコロナが収束しても、もはや「元の世界」には戻らないと思います。内田さんはコロナ危機にどんな問題意識を持っていますか。

内田 新型コロナウイルス禍は、これからの世界のあり方を一変させると思います。「コロナ以前」と「コロナ以後」では世界の政治体制や経済体制は別のものになるでしょう。

 最も危惧しているのは、「新型コロナウイルスが民主主義を殺すかもしれない」ということです。こういう危機に際しては民主国家よりも独裁国家の方が適切に対処できるのではないか・・・と人々が思い始めるリスクがある。今回は中国が都市閉鎖や「一夜城」的な病院建設や医療資源の集中という、民主国家ではまず実施できない政策を強権的に下して、結果的に感染の抑制に成功しました。逆に、アメリカはトランプ大統領が秋の大統領選での再選という自己都合を優先させて、感染当初は「まったく問題ない」と言い張って初動に大きく後れを取り、感染が広がり出してからは有権者受けを狙った政策を連発しました。科学的で巨視的な対策を採れなかった。

 この差は、コロナ禍が終息した後の「アメリカの相対的な国威の低下」と「中国の相対的な国威の向上」として帰結すると予測されます。パンデミックを契機に、国際社会における米中のプレゼンスが逆転する。

 中国は新型コロナウイルスの発生源になり、初期段階では情報隠蔽や責任回避など、非民主的体制の脆さを露呈しましたが、党中央が仕切るようになってからは、強権的な手法で一気に感染拡大を抑え込んだ。それだけではなくて、中国は他国の支援に乗り出した。中国はマスクや検査キットや人工呼吸器や防護服などの医療資源の生産拠点です。どの国も喉から手が出るほど欲しがっているものを国内で潤沢に生産できる。このアドバンテージを利用して、習近平は医療支援する側に回った。

 イタリアは3月初旬に医療崩壊の危機に瀕しました。支援を要請しましたがEUの他のメンバーは反応してくれなかった。中国だけが支援を申し出た。人工呼吸器、マスク、防護服を送りました。これでイタリア国民の対中国評価は一気に上がった。知り合いのイタリア人も「いま頼りになるのは中国だけだ」と言っていました。

 もちろん中国も国益優先です。でも、トランプは秋の大統領選までのことしか考えていないけれど、習近平はこれから5年先10年先の地政学的地位を見越して行動している。短期的には「持ち出し」でも、長期的にはこの出費は回収できると見越して支援に動いた。この視野の広さの差がはっきりした。コロナ禍への対応を通じて、中国は国際社会を支える能力も意志もあることを明示し、アメリカは国際社会のリーダーシップを事実上放棄した。コロナ禍との戦いはこれから後も場合によっては1年以上続くかも知れませんが、アメリカがどこかで軌道修正をしないと、これ以後の国際協力体制は中国が指導することになりかねない。

―― 今回、中国の成功と米国の失敗が明らかになった。それが「コロナ以後」の政治体制にもつながってくるわけですね。

内田 そうです。今後、コロナ禍が終息して、危機を総括する段階になったところで、「米中の明暗を分けたのは政治システムの違いではないか」という議論が出て来るはずです。

 米中の政治システムを比較してみると、まず中国は一党独裁で、血みどろの権力闘争に勝ち残った人間がトップになる。実力主義の競争ですから、無能な人間がトップになることはまずない。それに対してアメリカの有権者は必ずしも有能な統治者を求めていない。アレクシス・ド・トクヴィルが洞察した通り、アメリカの有権者は自分たちと知性・徳性において同程度の人間に親近感を覚える。だからトランプのような愚鈍で徳性に欠けた人間が大統領に選ばれるリスクがある。トクヴィルの訪米の時のアメリカ大統領はアンドリュー・ジャクソンでインディアンの虐殺以外に見るべき功績のない凡庸な軍人でしたが、アメリカの有権者は彼を二度大統領に選びました。さいわいなことに、これが中国だったら致命的なことになりますが、アメリカは連邦制と三権分立がしっかり機能しているので、どれほど愚鈍な大統領でも、統治機構に致命的な傷を与えることはできない。

 少なくとも現時点では、アメリカン・デモクラシーよりも、中国的独裁制の方が成功しているように見える。欧州や日本でも、コロナに懲りて、「民主制を制限すべきだ」と言い出す人が必ず出てきます。

 中国はすでに顔認証システムなど網羅的な国民監視システムを開発して、これをアフリカやシンガポールや中南米の独裁国家に輸出しています。国民を監視・管理するシステムにおいて、中国はすでに世界一です。そういう抑圧的な統治機構に親近感を感じる人は自民党にもいますから、彼らは遠からず「中国に学べ」と言い始めるでしょう。


■なぜ安倍政権には危機管理能力がなかったのか

―― そのような大勢のなかで日本の状況はどう見るべきですか。

内田 日本はパンデミックの対応にははっきり失敗したと言ってよいと思います。それがどれくらいの規模の失敗であるかは、最終的な感染者・死者数が確定するまでは言えませんが、やり方を間違えていなければ、死者数ははるかに少なく済んだということになるはずです。

 東アジアでは、ほぼ同時に、中国、台湾、韓国、日本の4か国がコロナ問題に取り組みました。中国はほぼ感染を抑え込みました。台湾と韓国は初動の動きが鮮やかで、すでにピークアウトしました。その中で、日本だけが、感染が広まる前の段階で中国韓国やヨーロッパの情報が入っているというアドバンテージがありながら、検査体制も治療体制も整備しないで、無為のうちに二カ月を空費した。準備の時間的余裕がありながら、それをまったく活用しないまま感染拡大を迎えてしまった。

―― なぜ日本は失敗したのですか。

内田 為政者が無能だったということに尽きます。それは総理会見を見れば一目瞭然です。これだけ危機的状況にあるなかで、安倍首相は官僚の書いた作文を読み上げることしかできない。自分の言葉で、現状を説明し、方針を語り、国民に協力を求めるということができない。

 ドイツのメルケル首相やイギリスのボリス・ジョンソン首相やニューヨークのアンドリュー・クオモ州知事はまことに説得力のあるメッセージを発信しました。それには比すべくもない。

 安倍首相は国会質疑でも、記者会見でも、問いに誠実に回答するということをこれまでしないで来ました。平気で嘘をつき、話をごまかし、平気で食言してきた。一言をこれほど軽んじた政治家を私はこれまで見たことがありません。国難的な状況では決して舵取りを委ねてはならない政治家に私たちは舵取りを委ねてしまった。それがどれほど日本に大きなダメージを与えることになっても、それはこのような人物を7年間も政権の座にとどめておいたわれわれの責任です。

 感染症対策として、やるべきことは一つしかありません。他国の成功例を模倣し、失敗例を回避する、これだけです。日本は感染拡大までタイムラグがありましたから、中国や台湾、韓国の前例に学ぶ時間的余裕はあったんです。しかし、政府はそれをしなかった。

 一つには、東京オリンピックを予定通り開催したいという願望に取り憑かれていたからです。そのために「日本では感染は広がっていない。防疫体制も完璧で、すべてはアンダーコントロールだ」と言い続ける必要があった。だから、検査もしなかったし、感染拡大に備えた医療資源の確保も病床の増設もしなかった。最悪の事態に備えてしまうと最悪の事態を招待するかも知れないから、何もしないことによって最悪の事態の到来を防ごうとしたのです。これは日本人に固有な民族誌的奇習です。気持ちはわからないでもありませんが、そういう呪術的な思考をする人間が近代国家の危機管理に当るべきではない。

 先行する成功事例を学ばなかったもう一つの理由は安倍政権が「イデオロギー政権」だからです。政策の適否よりもイデオロギーへの忠誠心の方を優先させた。だから、たとえ有効であることがわかっていても、中国や韓国や台湾の成功例は模倣したくない。野党も次々と対案を出していますが、それも採用しない。それは成功事例や対案の「内容」とは関係がないのです。「誰」が出した案であるかが問題なのです。ふだん敵視し、見下しているものたちのやることは絶対に模倣しない。国民の生命よりも自分のイデオロギーの無謬性方が優先するのです。こんな馬鹿げた理由で感染拡大を座視した国は世界のどこにもありません。

 安倍政権においては、主観的願望が客観的情勢判断を代行する。「そうであって欲しい」という祈願が自動的に「そうである」という事実として物質化する。安倍首相個人においては、それは日常的な現実なんだと思います。森友・加計・桜を見る会と、どの事案でも、首相が「そんなものはない」と宣告した公文書はいつのまにか消滅するし、首相が「知らない」と誓言したことについては関係者全員が記憶を失う。たぶんその全能感に慣れ切ってしまったのでしょう、「感染は拡大しない。すぐに終息する」と自分が言いさえすれば、それがそのまま現実になると半ば信じてしまった。

 リスクヘッジというのは「丁と半の両方の目に張る」ということです。両方に張るわけですから、片方は外れる。リスクヘッジでは、「準備したけれど、使わなかった資源」が必ず無駄になります。「準備したが使用しなかった資源」のことを経済学では「スラック(余裕、遊び)」と呼びます。スラックのあるシステムは危機耐性が強い。スラックのないシステムは弱い。

 東京五輪については「予定通りに開催される準備」と「五輪が中止されるほどのパンデミックに備えた防疫対策策の準備」の二つを同時並行的に行うというのが常識的なリスクヘッジです。五輪準備と防疫体制のいずれかが「スラック」になる。でも、どちらに転んでも対応できた。

 しかし、安倍政権は「五輪開催」の一点張りに賭けた。それを誰も止めなかった。それは今の日本の政治家や官僚の中にリスクヘッジというアイディアを理解している人間がほとんどいないということです。久しく費用対効果だとか「ジャストインタイム」だとか「在庫ゼロ」だとかいうことばかり言ってきたせいで、「危機に備えるためには、スラックが要る」ということの意味がもう理解できなくなった。

 感染症の場合、専門的な医療器具や病床は、パンデミックが起きないときにはほとんど使い道がありません。だから、「医療資源の効率的な活用」とか「病床稼働率の向上」とかいうことを医療の最優先課題だと思っている政治家や役人は感染症用の医療準備を無駄だと思って、カットします。そして、何年かに一度パンデミックが起きて、ばたばた人が死ぬのを見て、「どうして備えがないんだ?」とびっくりする。


■コロナ危機で中産階級が没落する

―― 日本が失敗したからこそ、独裁化の流れが生まれてくる。どういうことですか。

内田 日本はコロナ対応に失敗しましたが、これはもう起きてしまったことなので、取り返しがつかない。われわれに出来るのは、これからその失敗をどう総括し、どこを補正するかということです。本来なら「愚かな為政者を選んだせいで失敗した。これからはもっと賢い為政者を選びましょう」という簡単な話です。でも、そうはゆかない。

 コロナ終息後、自民党は「憲法のせいで必要な施策が実行できなかった」と総括すると思います。必ずそうします。「コロナ対応に失敗したのは、国民の基本的人権に配慮し過ぎたせいだ」と言って、自分たちの失敗の責任を憲法の瑕疵に転嫁しようとする。右派論壇からは、改憲して非常事態条項を新設せよとか、教育制度を変えて滅私奉公の愛国精神を涵養せよとか言い出す連中が湧いて出て来るでしょう。

 コロナ後には「すべて憲法のせい」「民主制は非効率だ」という言説が必ず湧き出てきます。これとどう立ち向かうか、それがコロナ後の最優先課題だと思います。心あるメディアは今こそ民主主義を守り、言論の自由を守るための論陣を張るべきだと思います。そうしないと、『月刊日本』なんかすぐに発禁ですよ。

―― 安倍政権はコロナ対策だけでなく、国民生活を守る経済政策にも失敗しています。

内田 コロナ禍がもたらした最大の社会的影響は「中間層の没落」が決定づけられたということでしょう。民主主義の土台になるのは「分厚い中産階級」です。しかし、新自由主義的な経済政策によって、世界的に階級の二極化が進み、中産階級がどんどん痩せ細って、貧困化している。

 コロナ禍のもたらす消費の冷え込みで、基礎体力のある大企業は何とか生き残れても、中小企業や自営業の多くは倒産や廃業に追い込まれるでしょう。ささやかながら自立した資本家であった市民たちが、労働以外に売るものを持たない無産階級に没落する。このままゆくと、日本社会は「一握りの富裕層」と「圧倒的多数の貧困層」に二極化する。それは亡国のシナリオです。食い止めようと思うならば、政策的に中産階級を保護するしかありません。

 野党はどこも「厚みのある中産階級を形成して、民主主義を守る」という政治課題については共通しているはずです。ですから、次の選挙では、「中産階級の再興と民主主義」をめざすのか「階層の二極化と独裁」をめざすのか、その選択の選挙だということを可視化する必要があると思います。

―― 中産階級が没落して民主主義が形骸化してしまったら、日本の政治はどういうものになるのですか。

内田 階層の二極化が進行すれば、さらに後進国化すると思います。ネポティズム(縁故主義)がはびこり、わずかな国富を少数の支配階層が排他的に独占するという、これまで開発独裁国や、後進国でしか見られなかったような政体になるだろうと思います。森友問題、加計問題、桜を見る会などの露骨なネポティズム事例を見ると、これは安倍政権の本質だと思います。独裁者とその一族が権力と国富を独占し、そのおこぼれに与ろうとする人々がそのまわりに群がる。そういう近代以前への退行が日本ではすでに始まっている。


■民主主義を遂行する「大人」であれ!

―― 今後、日本でも強権的な国家への誘惑が強まるかもしれませんが、それは亡国への道だという事実を肝に銘じなければならない。

内田 確かに短期的なスパンで見れば、中国のような独裁国家のほうが効率的に運営されているように見えます。民主主義は合意形成に時間がかかるし、作業効率が悪い。でも、長期的には民主的な国家のほうがよいものなんです。

 それは、民主主義は、市民の相当数が「成熟した市民」、つまり「大人」でなければ機能しないシステムだからです。少なくとも市民の7%くらいが「大人」でないと、民主主義的システムは回らない。一定数の「大人」がいないと動かないという民主主義の脆弱性が裏から見ると民主主義の遂行的な強みなんです。民主主義は市民たちに成熟を促します。王政や貴族政はそうではありません。少数の為政者が賢ければ、残りの国民はどれほど愚鈍でも未熟でも構わない。国民が全員「子ども」でも、独裁者ひとりが賢者であれば、国は適切に統治できる。むしろ独裁制では集団成員が「子ども」である方がうまく機能する。だから、独裁制は成員たちの市民的成熟を求めない。「何も考えないでいい」と甘やかす。その結果、自分でものを考える力のない、使い物にならない国民ばかりになって、国力が衰微、国運が尽きる。その点、民主主義は国民に対して「注文が多い」システムなんです。でも、そのおかげで復元力の強い、創造的な政体ができる。

 民主主義が生き延びるために、やることは簡単と言えば簡単なんです。システムとしてはもう出来上がっているんですから。後は「大人」の頭数を増やすことだけです。やることはそれだけです。

―― カミュは有名な小説『ペスト』のなかで、最終的に「ペストを他人に移さない紳士」の存在に希望を見出しています。ここに、いま私たちが何をなすべきかのヒントがあると思います。

内田 『ペスト』では、猛威を振るうペストに対して、市民たち有志が保健隊を組織します。これはナチズムに抵抗したレジスタンスの比喩とされています。いま私たちは新型コロナウイルスという「ペスト」に対抗しながら、同時に独裁化という「ペスト」にも対抗しなければならない。その意味で、『ペスト』は現在日本の危機的状況を寓話的に描いたものとして読むこともできます。

 『ペスト』の中で最も印象的な登場人物の一人は、下級役人のグランです。昼間は役所で働いて、夜は趣味で小説を書いている人物ですが、保健隊を結成したときにまっさきに志願する。役所仕事と執筆活動の合間に献身的に保健隊の活動を引き受け、ペストが終息すると、またなにごともなかったように元の平凡な生活に戻る。おそらくグランは、カミュが実際のレジスタンス活動のなかで出会った勇敢な人々の記憶を素材に造形された人物だと思います。特に英雄的なことをしようと思ったわけではなく、市民の当然の義務として、ひとつ間違えば命を落とすかもしれない危険な仕事に就いた。まるで、電車で老人に席を譲るようなカジュアルさで、レジスタンスの活動に参加した。それがカミュにとっての理想的な市民としての「紳士」だったんだろうと思います。

「紳士」にヒロイズムは要りません。過剰に意気込んだり、使命感に緊張したりすると、気長に戦い続けることができませんから。日常生活を穏やかに過ごしながらでなければ、持続した戦いを続けることはできない。

「コロナ以後」の日本で民主主義を守るためには、私たち一人ひとりが「大人」に、でき得るならば「紳士」にならなけらばならない。私はそう思います。
http://blog.tatsuru.com/2020/04/22_1114.html

23. 中川隆[-12982] koaQ7Jey 2020年4月24日 10:46:55 : ozcyhJ8c66 : aGxrMmwvWGhCdFU=[7] 報告

『山本太郎から見える日本』から - 内田樹の研究室 2020-04-10
http://blog.tatsuru.com/2020/04/10_1141.html

山本太郎の起こしているムーヴメントは、たとえばスペインのポデモスや、アメリカのバーニー・サンダース、オカシオ゠コルテスなどが巻き起こしているオルタナティヴな運動とリンクしていると考えていいでしょうか?

内田 リンクしていると思います。ただそれは、よそでこういう実践があったから、それを模倣しようということではないと思います。世界同時多発的に起きるんです、こういうものは。

いま世界のどこも反民主主義的で、強権的な政治家が成功しています。アメリカのトランプも、ロシアのプーチンも、中国の習近平も、トルコのエルドアンも、フィリピンのドゥテルテも。非民主的な政体と市場経済が結びついた「政治的資本主義」が成功している。

 中国がその典型ですけれど、独裁的な政府が、どのプロジェクトにどんなリソースを集中すべきか一元的に決定できる。民間企業も軍部も大学も、党中央の命令には服さなければいけない。巨視的なプランを手際よく実行するためには、こちらの方が圧倒的に効率がよい。

民主国家では、民間企業や大学に対して、政府のプロジェクトに全面的に協力しろというようなことは要求できませんから。非民主的な国なら、政府のアジェンダに反対する人たちは強権的に黙らせられるし、人権も制約できるし、言論の自由も抑え込める。だから、短期的な成功を目指すなら「中国モデル」は魅力的です。日本の安倍政権も、無自覚ですけれど、中国やシンガポールのような強権政治にあこがれている。だから、国内的にはそれに対するアンチが出て来る。日本の場合は、それが山本太郎だったということなんじゃないですか。
 

24. 中川隆[-12440] koaQ7Jey 2020年6月08日 08:03:30 : Nyj8sfUoGw : SnJiY0VVaVpJMVU=[7] 報告
2018.7.2「脱資本主義の旗を掲げろ」大西つねきの週刊動画コラムvol.33


25. 中川隆[-12193] koaQ7Jey 2020年7月01日 03:58:25 : Rjv7TUFu8A : THhLOTdQUHRmV0k=[5] 報告
【Front Japan 桜】文革輸出とBLM・ANTIFAそして香港[桜R2/6/30]


26. 2020年7月28日 09:29:31 : qvCpCPFxe6 : SXdLWFhadjI5eHM=[10] 報告

現代の奴隷制を魯迅の寓話から考える 『賢人と馬鹿と奴隷』
2020年7月26日
https://www.chosyu-journal.jp/shakai/18132

 「森友学園」の国有地売却と財務省の公文書改ざんにかかわり、不眠不休の長時間労働を強いられた末、精神的に追い詰められて自殺した近畿財務局の赤木俊夫氏が残した手記に次のようなくだりがある。

 「佐川理財局長(パワハラ官僚)の強硬な国会対応がこれほど社会問題を招き、それに指示NOを誰もいわない理財局の体質はコンプライアンスなど全くない。これが財務官僚王国。最後は下部がしっぽを切られる。なんて世の中だ。手がふるえる。恐い。命。大切な命」

 官僚はトカゲの尻尾ではない、宮仕えも人間だという血を吐くような叫びは、折しもアメリカ全土を席巻し、世界に広がる「ブラック・ライブズ・マター(黒人の命も大切だ)」運動と通じあうかのように、多くの人々の同情を誘っている。それは、近年、長時間残業で過労死を強いられた犠牲者が、みずからを「奴隷」にたとえて苦悩してきたこととつながっている。

 1987年2月に急性心筋梗塞で過労死した広告代理店の制作部副部長は、「現代の無数のサラリーマンたちは、あらゆる意味で、奴隷的である。金に買われている。時間に縛られている。上司に逆らえない。賃金も一方的に決められる……」との手記を残していた。また1989年11月、長時間労働の末に動脈瘤破裂のくも膜下出血で過労死した「株式会社きんでん」の下請企業の電気工事士が、寝床で妻に「ぽつりと漏らした言葉」が「僕は奴隷かなぁ」であったことも報じられた。

 過労死対策にとりくむ弁護士・川人博氏は、『過労自殺 第二版』(岩波新書)で、「SEとは、システムエンジニアの略語のはずだが、私にはスレイブエンジニア(奴隷技術者)の略語のように聞こえてしまう。本来、SEは21世紀を担う技術者であるはずなのに、残念なことに、現代日本では、過重労働の代名詞となり、最も過酷な労働の一つとなっている」と書いている。日本の非人間的な長時間労働がもたらす「過労死」は、国際的にも「karoushi」として通じるものとなっている。

 イギリスで近代工業が発生した当時の綿工業は「児童奴隷制」に支えられていたが、資本主義はその始まりからアメリカの綿花栽培における黒人奴隷制を促すとともに、それを必要としていた。8時間労働制は、労働者が奴隷であることを拒否し「人間として生きる」ためのたたかいを通して勝ちとられたもので、あらゆる奴隷的状態からの解放の願いを体現したものだといえる。新自由主義がそれを過去のものとして葬り去ろうとするものであったことは、今やだれの目にも明らかとなっている。

 植村邦彦・関西大学経済学部教授は『隠された奴隷制』(集英社新書)で、古代ギリシャやローマから近現代に至る奴隷制について歴史的に検証し、当時の哲学者・思想家の見識を考察している。植村教授はそのなかで、ルソーが『社会契約論』(1762年)で、「イギリスの人民は自由だと思っているが、それは大間違いだ。彼らが自由なのは議員を選挙する間だけのことで、議員が選ばれるやいなやイギリス人民は奴隷となり、無に帰してしまうのだ」とのべていたことにもふれている。

 また、ヘーゲルが、「現に奴隷である人間は、自ら奴隷であることを拒否して、自分自身が“自由”の意識に到達していることを自分自身の行動によって示し、自らの“自由”が法的に補償されることを要求して実現しなければならない」「“自由”は自ら勝ち取るものだ」と考えていたことも紹介している。

 植村教授はさらに、それらを批判的に継承したマルクスの『資本論』などを引用し、労働者は「自由」だといわれるが実際には「自己決定権」を持たず、みずからが働く場も使用する道具や機械、生産した商品も、すべて労働者自身の所有物ではないことを明らかにしている。また、そこから生まれる「労働者の労働そのものからも労働の意味が、つまり労働の主体性や達成感が奪われている」ことが過去の奴隷制と同様に人間の「人格性」と「自由」を侵害していると指摘している。そして、今日の新自由主義の「個人の自助努力」「自己責任」などの思想が、そのような奴隷状態を覆い隠す「新しいヴェール」として使われてきたことを強調している。

『賢人と馬鹿と奴隷』

 ところで、中国の作家・魯迅は、辛亥革命後の帝国主義列強に分割・支配された中国社会の苦悩に迫り、その代表作『阿Q正伝』などで「みずからの奴隷の地位を自覚し、奴隷であることを拒否し、同時に奴隷の主人となることも拒否したときに初めて、奴隷から脱却する行動を起こしうる」と主張したことで知られる。

 魯迅はその一つ『賢人と馬鹿と奴隷』(1925年)と題する寓話で、奴隷であることを自覚し、それを拒否できない奴隷精神をいきいきと描いて、戯画化している。それはあらまし次のようなものだ。

 いつも不平を口にする「奴隷」が「賢人」に出会い、いかに使役を強いられているかを縷縷(るる)並べたて、涙ながらに嘆いてみせた。「賢人」はこれに痛ましげに目を赤らめて同情し「いまに、きっとよくなる」と諭した。「奴隷」は気が楽になり、愉快になった。

 「奴隷」はその後また不平をいいたくなり、出会った「馬鹿」に嘆いてみせると、突然大声で怒鳴られた。さらに、「奴隷」が自分の住まいがぼろ小屋で、四方に窓一つ開いていないと口にすると、「馬鹿」は「主人に言って、窓を開けてもらうことができんのか」と問い詰めた末、「奴隷」の家に連れて行かせ「窓を開けてやる」といって家の外から壁をこわしはじめたのだ。

 「奴隷」がこれに驚き、主人に叱られることを怖れて「誰か来てくれ、強盗だ」とわめくと、他の「奴隷」たちが来て「馬鹿」を追い払った。出てきた主人に「奴隷」は勝ち誇ったようにいった。強盗が家を壊そうとしたので、自分が一番初めにどなりつけ、みんなで追い払ったと。これに対して、主人は「よくやった」とほめた。

 「奴隷」はうれしく思い、見舞いにやって来た「賢人」に主人がほめてくれたと喜び伝えた。そして、「(あなたが)いまに、きっとよくなるといってくださったのは、本当に先見の明がおありで」と、おべんちゃらをいった。「賢人」はこれに、「なるほどね」と愉快そうに応えた。

 魯迅はここで、常に不平や不満を口にして人に聞かせようとするが、自分の置かれている状態を不正だと認識せず、常に主人によく見られようとする奴隷根性の滑稽さを諷刺している。だが、それ以上に善人ぶった「賢人」が「奴隷」を抑圧する主人の大きな支柱となっていることを、その偽善的でいかがわしい振る舞いを通して浮き彫りにしている。

 不正に怒りそれを許さず、実直に解決しようとする「馬鹿」を、奴隷同士が「自己責任」「自助努力」で追い払うことができ、主人のおほめを得た。「賢人」はそれに寄与できたことを知り、まんざらでもない思いでほくそ笑むのだ。

 冒頭の赤木氏の訴えに戻れば、当時の中国社会におけるこのような奴隷精神と、それを補強する構図は、形を変えてそのまま現在の日本社会に厳然と存在するといえるだろう。不正に異議を挟み阻止しようとするものが馬鹿扱いされる。奴隷状態に置かれた民衆に同情するそぶりを見せながら、机の下では主人と手を握りあい、みんなが結束して行動に立ち上がることには憎悪して分断を図る偽善的な勢力も養われている。そのような社会の抑圧構造が、ますます鮮明に浮かび上がるのである。

https://www.chosyu-journal.jp/shakai/18132

27. 中川隆[-11375] koaQ7Jey 2020年9月13日 20:37:43 : ZWCOH21deo : YnNhVzlqWlpEZ28=[13] 報告
2020年09月13日
同胞の革命を支援するユダヤ人
黒木 頼景
http://kurokiyorikage.doorblog.jp/archives/68827456.html


ロシア革命の裏側

  「王朝潰し」と言ったら、ロシア革命がその典型だ。日本ではボルシェビキによる「ロシア革命」と言われているが、実際はユダヤ人極左による政府転覆、あるいは「ユダヤ人革命」と呼ぶべき殺戮行為だ。というのも、革命を実行した者、それを支援した者を調べると、矢鱈とユダヤ人が目立つことに気づくからだ。一般的に、レーニンは「ロシア人」と思われるが、実際はゲルマン系ユダヤ人とテュルク系ロシア人との混血で、ユダヤ人との自意識がどれほどあったのか判らないが、ユダヤ人はロシア人よりも優秀と見なしていた。共産主義者にはユダヤ人が実に多く、メンシェビキを率いたユリウス・マルトフ(Julius Martov)、永久革命を説いたレオン・トロツキー(Leon Trotsky)、カール・ラデック(Karl Radek)、レオニード・カシン(Leonid Krasin)、レフ・カーメネフ(Lev Kamenev)、グリゴリー・ジノヴィエフ(Grigory Zinoviev)などが有名だ。例外はスターリンで、彼は「ヨセフ・ジュガシヴィリ(Ioseb Jughashvilli)」というグルジア人だった。

Leon Trotsky 4Karl Radek 3Leonid Krasin 1Grigory Zinoviev 4

(左 : レオン・トロツキー / カール・ラデック / レオニード・カシン / 右: グリゴリー・ジノヴィエフ )

Lenin 2( 左 / レーニン )
  所謂「ロシア革命」を検証する際に注目されるのが、ユダヤ人革命家と金融資本家との関係だ。なぜ、レーニンやトロツキーをウォール街の金持ち連中が支援したのかイマイチ解らない。社会主義政権の誕生となれば、民間企業の所有物だって政府に没収されるか政府の管理下に置かれるわけで、富裕層なら真っ先に反対するはず。そもそも、官僚による計画経済だから、市場経済の扼殺となってしまうじゃないか。したがって、私有財産を重視する大企業の大株主や経営者なら、たちどころに激怒するはずだ。でも、どうして裕福なユダヤ人は敵であるはずの共産主義者を金銭的に支援したのか? 例えば、ドイツ系ユダヤ人で投資金融家のポール・ウォーバーグ(Paul Moritz Warburg)やその兄弟であるフェリックス(Felix M. Warburg)やマックス・ウォーバーグ(Max M. Warburg)、「クーン・ローブ社(Kuhn, Loeb)」のヤコブ・シフ(Jacob H. Schiff)とその相棒であるオットー・カーン(Otto Hermann Kahn)、武器商人のアレクサンドル・パルヴス(Alexander Parvus / 本名 Israel Lazarevich Gelfand)は、革命家の新政府を助けていた。

Paul Warburg 002Felix Warburg 1Alexander Parvus 01Otto Hermann Kahn 1

( 左 : ポール・ウォーバーグ / フェリックス / アレクサンドル・パルヴス / 右 : オットー・カーン )

Jacob Schiff 8(左 / ヤコブ・シフ )
  西洋史の授業を取る日本の高校生や大学生は、思考能力や批判精神が欠落しているので、やっていることは受験勉強の延長だ。羅列された年号や人物名を暗記したり、内容抜きで条約や法令、社会制度の説明を受ければ満足する。一方、世間知らずの学校教師は、実社会に存在する裏取引とか銭の受け渡しなんか解らないから、外人学者が述べたことを紹介し、罪悪史観を刷り込むことで精一杯。どうして日露戦争の時、ヤコブ・シフが劣勢の日本へ資金を提供したのか、そして同じ人物が今度は、日本の敵となるボルシェビキに2千万ドルもの大金を譲与したのかを説明する事はない。貧しいプロレタリアを助けようとするトロツキーが、米国の資本家から財政的支援を受け、1917年にペトログラードに帰った時は、1万ドルの旅費を持っていたのだ。(当時の1ドルは現在のドルに比べ約20倍強もの価値があった。)

  第一次世界大戦中、ロシアと組んでいたブリテンは、レオン・トロツキーの動きを監視していて、トロツキーがカナダで逮捕された時、ブリテン政府は直ぐさま彼を釈放するようカナダ政府に働きかけていた。カナダ側はトロツキーをドイツのスパイと考えていたので、ブリテン政府の意向を理解できない。なぜなら、トロツキーはロシアにおける内乱を画策する不逞分子で、ブリテンにとったら「邪魔者」となるはず。それなのに、なぜか「釈放せよ」との命令が来る。しかも、米国のウッドロー・ウィルソン大統領がとても“親切”で、トロツキーがすんなりとロシアに帰国し、革命に奔走できるようパスポートを渡していたのだ。これはブリテン経由でロシアに入国できる米国旅券であったという。(Anthony C. Sutton, Wall Street and the Bolshevik Revolution, Arlington House, New York,1974, p.25.)

  ここで興味深いのは、ブリテン諜報部の米国支局長を務めていたウィリアム・ワイズマン卿(Sir William Wiseman)で、彼が住んでいたアパートには、ウィルソン大統領の補佐官であるエドワード・マンデル・ハウス(Edward Mandel House)が住んでいた。ちなみに、このハウスは軍人ではないが「大佐(Colonel)」と呼ばれ、まだニュージャージーの州知事だったウィルソンをスカウトし、ホワイトハウスに送り込んだ側近(導師)として有名だ。合衆国大統領というのは側近に操られることが多く、フランクリン・ローズヴェルト大統領を思い出せばよく分かる。FDRに囁くハリー・ホプキンス(Harry L. Hopkins)は有名で、ユダヤ人の取り巻きがゴマンと居た。ウィルソン大統領にも仕えた補佐官のバーナード・バルーク(Bernard M. Baruch)、ソ連のスパイだった補佐官のハリー・デクスター・ホワイト(Harry Dexter White)、財務長官のヘンリー・モーゲンソー・ジュニア(Henry Morgenthau, Jr.)、最高裁判事のフェリクス・フランクファーター(Felix Frankfurter)、ポール・ウォーバーグの息子であるジェイムズ・ウォーバーグ(James Paul Warburg)などがズラリ。

Edward Mandell House 2Bernard Baruch 5James Paul Warburg 11Henry Morgenthau 22


(左 : エドワード・マンデル・ハウス / バーナード・バルーク / ジェイムズ・ウォーバーグ / 右 : ヘンリー・モーゲンソー・ジュニア )

  一般の歴史家はユダヤ人富豪が資金提供をした理由として、「ロシアで迫害を受ける同胞を助けるため」としているが、本当はユダヤ人がロシアを支配し、そこから米国の同胞が巨額の利益を得るためだろう。かつてデイヴィッド・ロックフェラーが喝破した通り、財閥系ビジネスマンや国際資本家にとって「競争は悪で、独占は善」である。例えば、石油業界に10社ないし20社が参入し、薄利多売の競争をすれば各社の利益は思ったように伸びず、ヘタをすれば「共食い状態」となってしまうだろう。消費者が「得」をするなんて我慢できない。それよりも、「スタンダード・オイル社」が競争相手を叩き潰し、1社で市場を独占すれば巨万の富が手に入る。油田のある原産国と流通経路、それに加えて消費地域を支配すれば、価格設定は思いのままで、他の石油会社を探せない一般人は独占価格に従うしかない。これは穀物市場やレア・メタルの業界でも同じ。歐米の石油メジャーが中東アジアとロシアを牛耳れば、日本は手も脚も出ず、官民揃って土下座となり、「売って下さい !」と頼むしかない。

  グローバリストの冒険商人は独裁国が大好きだ。なぜなら、交渉の窓口が1つであり、独裁者とだけ合意に達すれば、後で厄介な問題は持ち上がらないからである。もし、ロスチャイルド家やロックフェラー家の番頭がロシアの石油や鉱物に目をつけ、独占的に採掘しようと考えれば、レーニンやスターリンとサシで話をつければいい。独裁者にとっては金銭と権力の維持が最優先なので、莫大な利益が転がってくるなれば食指が動く。一旦交渉が纏まれば、後はシメたもの。採掘による環境破壊なんて心配ないし、労働組合のストライキも無いから、歐米の資本家はやりたい放題だ。民衆政で選ばれた大統領でも、暴君の如き書記長でも、所詮「金に弱い俗人」だから、ユダヤ人ビジネスマンは「札束ビンタ」で相手を支配できる。ところが、世襲の義務に忠実な王侯貴族だと、この「札束ビンタ」が効かないことがあり、逆に猜疑心を招いてしまう。場合によったら、追い出される虞(おそれ)もあるのだ。ニコライ2世のような専制君主は狡猾で用心深いから、「旨い話」で近づいてくるユダヤ人を警戒し、彼らの魂胆を即座に見抜く。そもそも、皇帝や国王は成金の外人が自国にやって来て、先祖伝来の領土を好き勝手に荒らすことを好まない。国家と自分が一体となっているので、売国は売春と同じことになってしまうのだ。

Armand Hammer 01(左 / アーマンド・ハマー)
  ウォール街の野心家を知っているレーニンは、革命に資金を流すユダヤ人の狙いを解っていた。だから、レーニンはその強欲さを利用して自分の基盤を固めようとしたのだろう。この共産主義者はロシア系ユダヤ人のビジネスマンであるアーマンド・ハマー(Armand Hammer)と面会したことがある。ハマーは自伝を書いているが、レーニンと面会した時のエピソードは実に面白い。ちなみに、ハマーは元々医学部卒の青年であったが、父親の出身国であるロシアの惨状を知り、医療や食料の支援を決心したそうだ。この慈善行為にソ連の外務局が注目し、ロシア系アメリカ人の共産主義者でソ連に住むボリス・レインスティンが仲介者となり、ハマーはレーニンと会うことになったらしい。

  1928年当時のソ連は経済的に疲弊したので、「ネップ(NEP / 新経済政策)」を導入し、国民経済の蘇生を図っていた。1921年にハマーが訪れた時のソ連は目も当てられぬほどの状態で、貧困や飢餓で国民生活はボロボロだ。街の中心部でも人通りが少なく、時折、荷車や古い馬車が通る程度。自動車なんか稀である。人々はボロを着ており、靴下や靴を履いている者はほとんどいなく、薄汚れた布で足をくるんでいるだけ。中にはフェルトのブーツを履いている者もいたが、大半の子供は裸足だった。社会主義の理想郷が出現したというのに、街では一人として笑顔の者は見当たらず、みんな意気消沈。ただし、通行人の中には、皮のコートに膝下の半ズボン、編み上げ靴と軍服姿の人物がいたそうだが、それは共産党の役人だった。(アーマンド・ハマー 『ドクター・ハマー / 私はなぜ米ソ首脳を動かすのか』 広瀬隆訳、ダイヤモンド社、昭和62年、p.93) 青白いロシア人に驚くハマーがエカチェリンブルクを訪れた時には、恐ろしい飢餓が蔓延しており、大勢の国民が苦しんでいた。

ハマーは色々な地域を廻ったそうで、ウラル地方で出逢ったある老人は、黙々と松の木材をノコギリで挽いていた。彼が「何をやっているんだ?」と爺さんに尋ねると、この老人は「自分の棺桶を作っているところだ」、と答えたそうだ。なぜなら、あと三週間の食料しか残っていないから、自分が死んだ時、犬っころみたいに土の中へ直に埋めらるのは真っ平御免。だから、こうやって今、自分用の棺桶を作っているんだ」と述べたらしい。(上掲書、p.108.) こうした惨状を目にしたハマーは、米国で安くなっていた小麦を取り寄せることにした。後日、百万ドル相当の穀物がウラル港に届けられると、これを目にしたロシア人は感動し、ハマー青年に拍手喝采だった。

  ソ連の赤い皇帝は、このユダヤ人青年(23歳)に着目し、彼に会うことにした。たぶん、ハマーを梃子(てこ)にして、アメリカの資本家を導こうとしたのだろう。ハマーによれば、レーニンはアメリカとロシアが助け合うことを強調したそうだ。レーニン曰わく、

   本当に我々が必要としているのは、ロシアの車輪をもう一度回転させるための、アメリカの資本と技術援助なのです。(上掲書、p.118.)

  新経済政策(ネップ)でロシアの経済的潜在能力を引き出したいレーニンは、アメリカ商人へのインセンティブを考えていた。きっと強欲な外国人には「旨い汁」が必要と考えていたのだろう。レーニンは言う。

   我々は外国人に商業や工業の営業許可を与え、ネップを迅速に進めたいのです。(上掲書、p.119)

  歐米の金融業者や貿易商にとって独占的営業権は垂涎の的である。ハマーが指摘したように、ロシアには世界最大級の鉱物資源が眠っており、天然ガスや石油はもちろんことこ、プラチナ、エメラルド、石綿、銅などの宝庫である。現在でもロシアの天然資源は魅力的で、パラジウム、ニッケル、マグネシウム、ボーキサイト、ウラン、コバルト、黒鉛、珪藻土、ゴールドに目を奪われるビジネスマンは結構多い。だから、外国で青い鳥を求めるアメリカの富豪連中が、あれやこれやと共産党政府を支援し、金の卵を産む赤い鳥を独占したいと思うのは当然だ。後に、大手石油会社のオキシデンタル・オイル」を所有するハマーも、ソ連との人脈を大切にし、米ソを結ぶ政商として活躍する。

  「ロシア革命」を実行したユダヤ人とそれを支援したユダヤ人について説明すると長くなるので、ここでは省略する。(ユダヤ人の活躍については、別の記事で紹介したい。) とにかく、グローバリストは大金を使って政治家を手懐け、子飼いにされた政治家は有権者ではなく御主人様のために働く。主要メディアは貯金箱から10ドルを献金した少女の話を美談にするが、現実の政治は1億ドルを寄附したパトロン、あるいは100億ドルの裏献金をした大富豪が操る。10ドルや20ドルといった端金(はしたがね)を100口集めたって、下院議員や上院議員は動かない。せいぜい、新聞記者やテレビ局員を呼んで、子供達と笑顔の記念写真を撮るくらいだ。

http://kurokiyorikage.doorblog.jp/archives/68827456.html

28. 2020年9月19日 22:44:31 : I8PZ32rctI : MUMvcnRUd2pGalU=[2] 報告
【討論】菅政権誕生と日本の行方 / 社会主義の可能性はあるか?[桜R2/9/19]




パネリスト:
 荒木和博(特定失踪者問題調査会代表・拓殖大学海外事情研究所教授)
 川口マーン惠美(作家)※スカイプ出演
 田中英道(東北大学名誉教授)
 田村秀男(産経新聞特別記者・編集委員兼論説委員)
 浜崎洋介(文芸批評家)
 林千勝(戦史研究家・ノンフィクション作家)
 三橋貴明(「経世論研究所」所長)
司会:水島総
29. 中川隆[-11032] koaQ7Jey 2020年10月05日 02:01:31 : r0012kP8cs : ekYyeG5rL2xHQ1k=[6] 報告
マルクス経済学の世界
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/915.html

白井聡 武器としての「資本論」_ 要約 資本主義 経済学
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/1081.html

30. 中川隆[-10817] koaQ7Jey 2020年10月17日 12:20:39 : 7wy0AmJgxc : alByS1ZDbVFJS3M=[4] 報告
・資本主義 世界で相次ぐ”異変” 成長は続くのか〜TJ教授「否・資本主義の原動力だった植民地等のフロンティアの喪失」
 http://www.asyura2.com/13/dispute31/msg/420.html
 投稿者 仁王像 日時 2016 年 10 月 17 日 22:00:00: jdZgmZ21Prm8E kG2JpJGc
 

・米国の大富豪たちは巨額の献金で国家の行く末を左右〜一方、資本主義とは異なる「共有型経済」もすでに世界で急速に広がっている
 http://www.asyura2.com/13/dispute31/msg/424.html


 投稿者 仁王像 日時 2016 年 10 月 24 日 20:26:35: jdZgmZ21Prm8E kG2JpJGc
・資本主義 国家vs超巨大企業〜富をめぐる攻防〜これまでにない動きも〜スペインの小村では衣食住に競争制限/Nスペ
 http://www.asyura2.com/13/dispute31/msg/423.html


 投稿者 仁王像 日時 2016 年 10 月 23 日 08:52:45: jdZgmZ21Prm8E kG2JpJGc

・マネー・ワールド〜資本主義の未来〜第1集 お金が消える!?〜仮想通貨、地域通貨の出現/Nスペ 
 http://www.asyura2.com/13/dispute31/msg/636.html
 投稿者 仁王像 日時 2018 年 10 月 10 日 20:03:10: jdZgmZ21Prm8E kG2JpJGc


・マネー・ワールド〜資本主義の未来〜第3集〜新たな経済への模索 ”身の丈”資本主義/Nスペ
 http://www.asyura2.com/13/dispute31/msg/637.html
 投稿者 仁王像 日時 2018 年 10 月 15 日 20:01:35: jdZgmZ21Prm8E kG2JpJGc

 (再掲)
 ロボットやAIで作る生産様式で得られた商品は、剰余価値を生み出さない。資本家は、原料費とロボットやAIの損料を回収できるに過ぎない。つまりかかった費用しか回収できない。労働者の肉体労働が介在しないと新たな価値(剰余価値)を商品に上乗せして利益を生み出すことは出来ない。これはマルクスの学説である。

 従って、このような生産様式が一般化すれば、資本主義はオワということになる。

http://www.asyura2.com/09/dispute30/msg/902.html#c1

【マルクスの労働価値説は、広い意味の物理現象だろう】
 マルクスの労働価値説は正しいだろうことはわれわれの日常感覚とも一致する。これは経済学以前の自然現象あるいは広い意味の物理現象とみることもできる。

 この広い意味での物理現象を経済学に取り入れるのは良い事である。だからと言って、この一事を持って、これを取り入れた経済学は正しいということにはならない。他の多くの自然界を支配する諸物理法則をことごとく無視した(外れた)経済学では、現実の人間活動・生活に役立つはずがなく、虚構の学問になってしまう。

【ロボットが人の労働をすべて肩代わりする時代は資本主義は終わる?】
 さて話を変えて、最近、ロボットが人間の労働力に代わってしまうとの憶測が盛んだが、ロボットが人間の労働力を盗ってしまえば、「資本主義」は成り立たず終わるだろう。

 人間の労働だけが剰余価値を生み出すのであって、ロボットの労働は、通常の機械の摩耗分の損料と同じく製品に加算されるだけである。

 ロボットがつくる製品と同じ製品の大半がまだ人の手で並行的に作られていれば、その間はロボットの効率は高いので、実質的な剰余価値とみなせるものを生む出す(資本主義は成立)。だが、製品の大半をロボット労働が生み出す時代では、剰余価値は発生せず資本主義は終わる。

31. 中川隆[-9277] koaQ7Jey 2020年12月16日 12:29:42 : 4CCrES0a6E : bXliWEQxU29sZEk=[11] 報告
ジョージ・ソロスやビル・ゲイツが資金提供する極左組織「アドバスターズ」の陰謀とは? ユダヤ系金融家の真の目的…ジェームズ斉藤が解説
2020.08.18
https://tocana.jp/2020/08/post_167074_entry.html
【連載:某国諜報機関関係者で一切の情報が国家機密扱いのジェームズ斉藤(@JamesSaito33)が斬る! 国際ニュース裏情報】


■ソロスやビル・ゲイツがバックアップする極左組織

──今、アドバスターズという極左組織がワシントンD.C.で不穏な計画を立てているということですが。

ジェームズ斉藤(以下、ジェームズ) 9月17日から大統領選投票日の11月3日までホワイトハウスを包囲するWhite House Siege戦を展開するとホームページで宣言しています。彼らは2011年にオキュパイ・ウォールストリートやオキュパイ・ワシントンD.C.を行っています。9年前の戦いをもう一度復活させるつもりでしょうね。シアトルやニューヨークのCHAZ運動はこのための地ならしだった可能性が高いです、実際CHAZもオキュパイ・シアトル、オキュパイ・NYシティホールと言ってましたから。

──アドバスターズ(ADBUSTERS)ってどんな組織なんですか? 

ジェームズ AD=広告をバスターするという無広告の極左系カルチャー雑誌で、カナダが本拠地です。創設者のカレ・ラースンは旧ソ連時代のエストニアの生まれで奥さんは日本人です。60年代には日本でマーケットリサーチの会社を経営してました。

──それって広告業界の人ってことですよね? 電通とかとも関係してるんですか?

ジェームズ 直接の取引はなかったみたいです。ただ、世界各国でテレビの広告枠を買い取って、そこで「今日は何も買わない日、無買デーにしましょう」というメッセージを流しています。反消費社会を謳う極左ですね。かなり変わった人で、自著『カルチャージャム』には、スーパーマーケットのショッピングカートのコイン投入口に曲げたコインを突っ込んで使えなくしてすっきりしたと書いています。これが都市生活を快適に生きる方法らしいです。ほかには気に入らない企業のホームページにメール爆弾を送れとか、ビルの壁に落書きしろといったことを書いています。

──面倒臭いモンスタークレーマーじゃないですか。

ジェームズ そうです。不思議なのは、そんなことしかやっていないのに、テレビの広告枠を買ったり、雑誌を作ってることです。資金の出処を調べてみたところ、お馴染みのジョージ・ソロスやビル・ゲイツらCIA左派勢力の名前が出てきました。彼らがバックアップしてます。

──単純な話、彼らがやってることって選挙妨害にならないんですか?

ジェームズ 当然なります。極左側はトランプが占拠妨害だといって軍や警察を動員し、徹底的に弾圧してくるのを待っています。米国版天安門事件にしようと画策しているんです。もちろん、トランプ側もそれはわかっているので、まずは司法省が極左勢力を国内テロ組織として正式に認定し、その後に破壊活動が制御のきかない状態になるまで待って、軍を投入するはずです。すでにアドバスターズ側にはトランプ側のスパイが浸透している可能性もあります。


■アメリカの共産主義者の実態はユダヤ移民?

──とはいってもトランプ陣営は結構追い詰められていませんか?

ジェームズ CNNやMSNBCなどの主要メディアは完全に極左なので当てになりません。実際、シアトルやポートランドなどの暴動はCNNなんかが伝えるような平和的なものではないですし、現在でも続いています。

──それにしても不思議なのは、なぜアメリカに共産主義者がこんなにいるんですか? メディアも含めて、かなりの勢力だと思うんですけど。 

ジェームズ もともとは19世紀末に、帝政ロシアから大量のユダヤ移民がアメリカに逃げ込んできたことが原因です。帝政ロシアは歴史的にユダヤ人を迫害してきているので、200万人以上のユダヤ人が国外に逃げています。彼らがアメリカに逃げてきて共産主義者になっていったんです。

──なぜ共産主義者になったんですか? 別に資本主義でもいいんじゃないんですか?

ジェームズ 逃亡ユダヤ人たちはレーニンの共産革命をユダヤ開放運動と見ていたんです。

──あっ、そうでした! マルクスもレーニンもユダヤ人でした。

ジェームズ そうです。共産主義はユダヤ人が作ったものです。実際、トロツキーもニューヨークに一時亡命してたくらいで、アメリカに逃げてきたユダヤ人は共産革命を応援していたんです。ところが、スターリンが現れてボリシェヴィキ党を乗っ取ると、再び、ユダヤ人を虐殺する大粛清を始めたので、トロツキーもニューヨークに逃げてきたんです、結局、暗殺されますけど。そこで、アメリカのユダヤ人たちはソ連を捨てて、アメリカで共産革命を起こすことを画策するんです。

──やっとわかってきました。アメリカで本物の共産革命=ユダヤ解放運動を実現させようとしているんですね。

ジェームズ そうです。ただし、彼らがやろうとしているのはマルクスレーニン主義ではありません。現在の共産主義はグラシムの文化マルクス主義に基づいています。グラシムとは1920〜30年代のイタリアの共産主義者アントニオ・グラシムのことです。彼はイタリアで共産革命を起こそうとしたのですが、イタリアはムッソリーニのファシズムを選びました。その失敗から、マルクス・レーニン主義の唯物論に限界を感じ、労働者が資本家を倒し、物質の再分配を促すのではなく、支配者側の文化や価値観を破壊することが共産革命につながると唱えました。なので、彼らはいまアメリカの文化を破壊しているのです。BLM(Black Lives Matter)やキャンセル文化がその典型です。


画像は「Getty Images」より引用
──キャンセル文化というと、重箱の隅をつついて否定のための否定しかない、まともな話ができない人たちですね。

ジェームズ どこの国でも極左はそんな人たちばかりです。ヒラリーとオバマはこのグラシム流革命論を研究しました。特にオバマは、文化マルクス主義を恣意的に歪ませています。寛容性を逆手に取って自分の極左的価値観を押し付けてくるのです。例えば、BLMは正しいですが、ALM(All Lives Matter)は白人のわがままだという風潮を作り出します。ALMでは黒人に対して不寛容だという主張です。それを日米の主要メディアはそのまま無批判に受け取ってしまうのです。

──反対しにくいですしね。

ジェームズ 寛容性を謳った瞬間、反対意見を言えない雰囲気を作り出すからです。議論をさせない、オバマのそのやり方は非常に汚いです。はっきり言いましてtolerance(寛容性)、kindness(親切さ)などを口にする勢力は信用しないほうがいいですね。これらの用語は極左勢力のキーワードです。日本ですと、辻元清美、福島瑞穂あたりが口にするレベルの言葉です。

──ということは、もしかして、バイデンが選んだ民主党の副大統領カマラ・ハリスはアメリカの福島瑞穂って感じで捉えるとわかりやすいんですか? 

ジェームズ いえ、アメリカ民主党全体が福島瑞穂レベルの議論しかしていません。ハリスは福島瑞穂というよりも、前法務大臣で死刑反対派だったのに大臣になった途端に死刑を実行した「民主党の死刑執行人」千葉景子に似ています。

──千葉景子(苦笑)。それはかなり最低感がありますね。

ジェームズ アメリカの政治は日本と基本的にほとんど変わりません。例えば、アンティファは日本でいうところの「しばき隊」です。ただし、資金力と動員力で決定的な差がありますが。BLMも日本で活動していますが、これは東京にあるアメリカ民主党の日本支部が裏で糸を引いています。アドバスターズも日本に支部があるようです。

──対岸の火事じゃないんですね。

ジェームズ 日本にいるアメリカ人で大学院生、教授、英会話の講師などは要注意です’(※全員ではありません)。彼らは本国でやっていけないので日本に住み着き、しかも時間をもてあましていますので、極左活動をする傾向にあります(※あくまでも傾向です)。実際、私の知っているアメリカ人大学院生は日本に留学し、極左活動をしていました。

■ユダヤ系金融家の真の目的

──再び、アドバスターズに戻りますが、彼らはオキュパイ・ウォールストリートをやってるんですよね? でも、ウォールストリートって民主党系を応援しています。つまり左派なんじゃないんですか?

ジェームズ いえ、ウォールストリートは右でも左でもありません。彼らは儲けで判断しますので、あまりイデオロギー的ではないです。イデオロギー的なのはジョージ・ソロスのような金融家です。さっきも言ったようにユダヤ系金融家の多くは歴史的に極左勢力です。また、金融の本質は売買損益で儲ける仕組みなので、常に変動を誘発する極左のほうがありがたいというのもあるんです。ただし、極左ではない、保守系ユダヤもいて、彼らはトランプ側の主要な支持層になっています。


画像は「Getty Images」より引用
──ウォールストリートと金融家は分けて考えるんですね。

ジェームズ 同じ場合もありますけど、まったく同じものではないです。ウォールストリートはただの金の亡者なので右にも左にも転ぶということです。

──ただ、ユダヤ系金融家は金融市場を維持したいわけじゃないですか? ということは、本当に共産主義になるのはゴメンのはずですよね。市場がなくなってしまいますから。つまり、極左の金融家にしても本音は共産化はイヤで、ただカオスが作りたいだけの、なんちゃって極左ですか?

ジェームズ そうです。ただし、ユダヤ系金融家はアメリカなどの主要な金融市場だけが維持できればいいのです。彼らにとっての辺境であるロシアなどが共産化するのは問題ないです。逆に積年の恨みがある土地なので、共産主義化して潰れてしまえと思っているくらいです。また、中共に関しては政治が儒教的共産主義なだけで、経済は実質資本主義ですから、中共はユダヤにとってとても都合がいいんです。

──いろいろバッググランドがわかってきました。最後に、この選挙はどうなりそうですか? こんなに暴動が起きてどちらが勝つにしてもただでは済みそうにはないんですが。

ジェームズ いまの状況はリンカーン大統領を選出した1860年の大統領選挙に似ています。この時は共和党のリンカーンが勝って第16代大統領になったのですが、これを不服とする南部州が合衆国から分離し、南北戦争にまで発展しています。今年の大統領選はすでに分離運動の暴動が起き、死者も出ています。ですから、どちらが大統領になったとしてもその後、流血騒ぎになる可能性は高いと思っています。そのぐらい今年の大統領選はカオスです。

文=ジェームズ斉藤

32. 中川隆[-9244] koaQ7Jey 2020年12月18日 09:55:27 : aydw93LnQ2 : SjI2Q0VEbEJJTXc=[7] 報告
イノベーションが起きないのは偶然ではなく社会状況からの必然
2020/12/18





33. 中川隆[-9225] koaQ7Jey 2020年12月18日 21:16:49 : dXlYweNl5Q : dXV3Uzk5ZVI1dlE=[13] 報告
富裕層への減税は社会のため? いいえ、富むのはお金持ちだけでした。最新研究が「トリクルダウン」を否定
ハフポスト日本版 2020/12/18
https://www.msn.com/ja-jp/money/other/%E5%AF%8C%E8%A3%95%E5%B1%A4%E3%81%B8%E3%81%AE%E6%B8%9B%E7%A8%8E%E3%81%AF%E7%A4%BE%E4%BC%9A%E3%81%AE%E3%81%9F%E3%82%81-%E3%81%84%E3%81%84%E3%81%88-%E5%AF%8C%E3%82%80%E3%81%AE%E3%81%AF%E3%81%8A%E9%87%91%E6%8C%81%E3%81%A1%E3%81%A0%E3%81%91%E3%81%A7%E3%81%97%E3%81%9F-%E6%9C%80%E6%96%B0%E7%A0%94%E7%A9%B6%E3%81%8C-%E3%83%88%E3%83%AA%E3%82%AF%E3%83%AB%E3%83%80%E3%82%A6%E3%83%B3-%E3%82%92%E5%90%A6%E5%AE%9A/ar-BB1c1WRv?ocid=msedgntp


お金持ちに減税すると、豊かになるのは結局お金持ちだけ――。

過去50年の間に、様々な国で導入された富裕層への減税。

その背後にあるのが「富裕層が富むことで経済が活発になり、貧しい人も含む社会全体に富が行き渡る」とする経済理論・トリクルダウンだ。

しかしイギリスの経済学者たちによる最新研究から、富裕層の減税に社会全体を豊かにする効果はなく、むしろ富裕層だけが豊かになってきたことが明らかになった。

豊かになるのは富裕層だけ

研究を発表したのは、ロンドン・スクール・オブ・エコノミクスのデヴィッド・ホープ氏と、キングス・カレッジ・ロンドンのジュリアン・リンバーグ氏だ。

研究者たちは1965〜2015年の50年間に、日本やアメリカ、イギリスなど18の先進国で実施された富裕層への大幅減税を調査した。そして、それぞれの減税が所得不平等や、経済成長、失業率にどんな影響を与えるかを調べた。

その結果、大幅減税の後、上位1%の人たちがシェアする税引前の国民所得が0.8%増加していた。この効果は、短期間と中期間続いた。

一方で、国民1人あたりのGDPや失業率に変化はなく、トリクルダウンによる社会全体への経済効果は見られなかった。

研究者たちは「富裕層への大幅減税は、所得の不平等を引き起こしていた」「それと比較して、減税は経済成長や失業率には大きな効果はなかった」と指摘する。

様々な研究が問題視する、富裕層への減税

富裕層への減税は、特に1980年代以降に、様々な国で何度も実施されてきた。

アメリカのレーガン政権やイギリスのサッチャー政権が導入した減税がよく知られているが、日本でも安倍政権下で法人税率が引き下げられ、大企業や富裕層を優遇する政策が取られてきた。

https://www.msn.com/ja-jp/money/other/%E5%AF%8C%E8%A3%95%E5%B1%A4%E3%81%B8%E3%81%AE%E6%B8%9B%E7%A8%8E%E3%81%AF%E7%A4%BE%E4%BC%9A%E3%81%AE%E3%81%9F%E3%82%81-%E3%81%84%E3%81%84%E3%81%88-%E5%AF%8C%E3%82%80%E3%81%AE%E3%81%AF%E3%81%8A%E9%87%91%E6%8C%81%E3%81%A1%E3%81%A0%E3%81%91%E3%81%A7%E3%81%97%E3%81%9F-%E6%9C%80%E6%96%B0%E7%A0%94%E7%A9%B6%E3%81%8C-%E3%83%88%E3%83%AA%E3%82%AF%E3%83%AB%E3%83%80%E3%82%A6%E3%83%B3-%E3%82%92%E5%90%A6%E5%AE%9A/ar-BB1c1WRv?ocid=msedgntp&fullscreen=true#image=2


しかし近年、様々な研究が「富裕層への減税は富裕層の収入を増やすものの経済発展にはほとんど効果がない」と指摘している。研究者たちは「今回の研究もそれらの関連する研究結果と合致する」と述べる。

研究者の1人、リンバーグ氏はCBSのインタビューで「研究から、富裕層の税率を低くする経済的に正当な理由はないと言えます。実際に歴史を振り返ってみると、戦後の富裕層への税率が高かった時代の方が、経済成長率は高く、失業率は低かった」と語っている。
https://www.msn.com/ja-jp/money/other/%E5%AF%8C%E8%A3%95%E5%B1%A4%E3%81%B8%E3%81%AE%E6%B8%9B%E7%A8%8E%E3%81%AF%E7%A4%BE%E4%BC%9A%E3%81%AE%E3%81%9F%E3%82%81-%E3%81%84%E3%81%84%E3%81%88-%E5%AF%8C%E3%82%80%E3%81%AE%E3%81%AF%E3%81%8A%E9%87%91%E6%8C%81%E3%81%A1%E3%81%A0%E3%81%91%E3%81%A7%E3%81%97%E3%81%9F-%E6%9C%80%E6%96%B0%E7%A0%94%E7%A9%B6%E3%81%8C-%E3%83%88%E3%83%AA%E3%82%AF%E3%83%AB%E3%83%80%E3%82%A6%E3%83%B3-%E3%82%92%E5%90%A6%E5%AE%9A/ar-BB1c1WRv?ocid=msedgntp

34. 中川隆[-8365] koaQ7Jey 2021年1月11日 12:32:27 : 3NBb5fpKfI : Y0tGbi83VmpNM2s=[41] 報告
ソルジェニーツィン作「イワン・デニーソヴィッチの一日」木村浩訳
2010年01月04日
https://blog.goo.ne.jp/moritake123-2007/e/0470876a9f8f529a113b18453c4c3b41

 この作品「イワンデ二ーソヴィチの一日」はアレクサンドル・イサエヴィッチ・ソルジェニーツィンの作品であり、この作品で彼は1962年11月にソ連文壇にデビューする。その内容はスターリンの大粛清時代に題材をとり、「反逆者」として逮捕され、25年のシベリア流刑の処分を受けたイワン・デニソヴィッチ・ショーロフの獄中での一日の生活を描いたものであり、その極限状態を収容所(ラーゲリ)の内と外において表現する。この作品を掲載した「ノーヴイ・ミール(新世界)」誌は空前の発行部数を誇り、のちに発行された単行本は70万部という驚異的な発行部数を記録した。さらにこれに続く一連の作品(「ガン病棟」、「煉獄の中で」、「1916年10月」)によって彼はノーベル文学賞を受賞し世界的文豪の栄誉を担ったのである。

 私はこの作品の内容を紹介する前にこの作品の背景にあるソ連の状況を述べていこうと思う。

 1989年11月にベルリンの壁が崩壊し、その年の暮にはルーマニアのチャウシェスク独裁体制が民衆の怨嗟の中で打倒されチャウシェスク夫妻は銃殺された。同年夏のポーランドにおける「連帯(ワルサ議長)」主導政権の成立、1990年の東西ドイツの資本主義的統一によって拍車のかかった東欧「労働者国家圏」の雪崩を打った崩壊はソヴェート政権には衝撃的事件であったにもかかわらず、何もなしえず、そのソヴェート政権もゴルバチョフ、エリツィンによる民主化が進展し、1991年には最終的に崩壊した。それはまさに歴史を画する「革命的」大変動でありスターリンなきあとのスターリン体制の破産と崩壊を意味していた。

 このようにソ連、東欧の社会主義化は世界中の労働者、民衆の希望の星であったにもかかわらず無残な結果に終わったのである。

 その原因はどこにあったのであろうか?

 トロッキーはその著「裏切られた革命」の中で革命後のソ連社会を「過度期社会」と名付けている。それは「資本論」に反する革命(グラムシ)だったからである。マルクスは社会主義革命を高度に発展した資本主義国から移行するものと考えていた。だからトロッキーは遅れた資本主義国から社会主義化したソ連は長期にわたる過度期を経験したのちでなければ、真の社会主義に移行できないと考えたのである。この過度期を真の社会主義に導いていくものをプロレタリア独裁に求めたのである。そしてこのことが重要なのだがこの過度期を特徴づけるものとして、その進む先を、社会主義への進化の道か、その逆に資本主義への後退の道かの二つの可能性を示した。トロッキーは真の社会主義の道を「高度の労働生産性」と「世界同時革命」の二つの柱に求めていた。そしてレーニンも考えていたように西欧の資本主義国の革命の成功により、そこからの資金及び技術の援助によって、ロシア革命は成功に導かれると考えたのである。しかし、トロッキーはレーニンの死後スターリンとの路線論争に敗れメキシコに亡命する。後にスターリンによって送り込まれた刺客(=ラモン・メヂカル=トロッキーの秘書の恋人=映画ではアランドロンが演じていた)によって頭にピッケルを打ちこまれ惨殺される。

 スターリンは西欧先進資本主義国での革命が夢となった段階で、世界同時革命を幻想と考え、一国社会主義革命の総和としての世界革命を考えた。スターリンは一国社会主義革命という困難な課題を、それ以上に困難な課題(内外での敵対勢力との対決)を解決しつつ実現していかねばならなかったのである。この為には強固な指導体制をを必要とした。スターリンによる独裁体制は必然だったといえるであろう。強固な中央集権国家が生まれ、個人崇拝のもと絶対的権力が彼に付与されたのである。この権力は大粛清時代を通じてさらに強化された。

 スターリンにとっての課題は社会主義建設であって、それ以外の発展の道は考えられなかった。資源と労働を一つ(国家)に集中(社会主義的原始的蓄積)し、これを必要な部分に計画的に配分していく。これによって社会主義的工業化と農業の集団化を達成していかなければならなかった。しかしそれは経験則のない史上初の試みであり、試行錯誤の連続であった。その結果としての非効率的運営は経済の停滞を生み出した。NEP(新経済政策:一時的な資本主義的経営の容認)によって生まれ、育ってきた私企業者に工業においても、農業においても勝ることが出来なかった。ネップマンと呼ばれる豊かな私企業者が生まれ、貧農を雇用する富農層が生まれてきた。ここに一つの可能性が芽生えていた。それはこの私的経営者が資本家に転じていく道である。NEPでは国家に供出した残りの生産物を市場で売ることが許されていた。個人的利益を保証する制度は、生産者の労働意欲を高め、その総生産高を増大させたのである。NEPは純経済的に見れば成功を収めていた。この状況は「イワン・デニソヴィッチの一日」の中でも述べられている。コルホーズの停滞、そこで働く人のネップマンのところでのアルバイトをする状況が叙述されている。

 この時ソヴェート政権には二つの道が考えられていた。一つはいわゆる修正主義的道で、それを主張する学者には修正主義の理論的創始者と云われるドイツのベルンシュタインがおり。ソ連国内にはブハーリンがいた。共に過激な政策を排し、資本主義の利点を生かし、否定面を修正していこうというものである。資本主義社会は自由競争の社会であり、優勝劣敗の社会である。その結果、敗者が生まれる。それは資本主義社会の抱える構造的矛盾であり、敗者を自己責任に帰することはできない。そこで修正主義を国是とする国にとって必要なことは、優勝劣敗を放置するのではなく、いかに敗者を救済するかにあった。その方法として国家のとる政策は勝者から多くの税金を取り立て、これを敗者に配分するという福祉政策であり、極端な金持も、貧乏人もいない中間層を中心とした社会を作り、自由と平等を同時に実現していこうというものである。しかしこれを実現するためには経済の発展を必要とする。福祉政策には多くの財源が必要だからである。これは現在、北欧諸国(デンマーク。フィンランド)で行われている政策であり、本来的社会主義(正当)に対し民主社会主義(異端)と呼ばれている。日本の共産党、社民党はこれを目指している政党である。管理された資本主義を目指すのである。

 この種の考えはスターリン統治下においてもブハーリンに見られるように当然生まれていた。これ以外にも多様な考えがあり、一つの考えによって統一されてはいなかった。ブハーリンたちはNEPの結果生まれてきた豊かな私的経営者(ネップマン、富農)を保護育成し、そこから生まれる利潤を税金として一部吸収し、それを社会主義工業やソホーズ、コルホーズに投資し、徐々に社会主義化をしていく漸進的な道を考えていたのである。しかしこのような漸進的な道はスターリンによって資本主義への後退への道と退けられた。そして第2の道である全面的な社会主義的工業化と農業の集団化の道が選択されたのである。ネップマンや富農層は当然これに反発した。当然大きな混乱が生じた。穀物の供出が拒否され、武力衝突も起こった。スターリンはこれに対して武力制圧を行った。富農は逮捕されシベリア送りとなる。その財産は没収された。このような高圧的な政策は政権内部にも反発が生じた。しかし権力の中枢を握ったスターリンはこれらの反権力者に対しては容赦をしなかった。ことごとく逮捕され処刑された。政権内部にいたブハーリンも逮捕され銃殺刑に合う。スターリンの盟友でありライバルでもあったキーロフは暗殺される(この事実は「イワン・デニーソヴィッチの一日」の中でも述べられている)。大粛清時代が始まった。スターリンは自分に反対するものは政権内部の幹部、軍関係者等々政権を担当するものでも容赦をしなかった。自身の指導体制を脅かすと思われる人間はゲーペーウー(総合国家政治保安部)の後を継いだエヌ・ケー・ヴィ・デー(内部人民保安部)を使い、ことごとく逮捕し、後には裁判もなしに処刑した。そこにあったものは派閥争いであり、権力闘争であり、スターリンに気に入られようとする者たちの闘争でもあった。この大粛清は、路線闘争などという単純なものではなく、まさに食うか食われるかの争いであり、相手を食わねば自分が食われるという凄まじさであった。この大粛清はスターリンによってはじめられたにもかかわらず、後には自動的に動き出しスターリンの手を離れた感があった。このような政権内部の粛清とは別に「普通」の人々=労働者、農民、教師、司祭、音楽家、軍人、年金生活者、バレリーナ、乞食等が処刑された。密告が奨励され、子が親を、恋人を友人を、それぞれがそれぞれを密告した。そうすることが自身の安全を保つ方法だったのである。「娑婆じゃーマッチがないといただけで逮捕されるそうだ」、と「イワンデニーソヴィッチの一日」の中で囚人は言う。告発者が逆に告発され処刑に合った事件も述べられている。ラーゲリ内で密告者が殺された事件も書かれている。密告者は極端に嫌われてはいたが、それが正義と考えられていた。お互いがお互いを疑心暗鬼の目で見てだれも信用することのできない不幸な事態が、この時代を特徴づけていた。政治的ヒステリーの嵐が吹き荒れていた。

スターリン自身「私はもうおしまいだ、誰も信用できない。自分自身さえも」という言葉をフルシチョフとミコヤンに云ったということが伝えられている。スターリン自身、絶えず政敵からの暗殺の危機にさらされていた。未遂事件も報告されている。それ故、彼は多くの影武者を用意し、絶えず数人のボデイガードとともに行動し、執務室も幾つも用意し、そこを渡り歩き、その居場所を決して明らかにしなかったという。このように彼の心は決して休まることはなかったのである。そこには独裁者の抱える孤独がある。恐れられてはいても決して親しまれることの無い寂しさ、悲しさがそこにはあったに違いない。その意味では不幸な人間であったと言えよう。天寿を全うできたのが不思議なぐらいである(1879〜1953年 74歳没)。古くはシーザーが最近ではフセインが悲惨な最期を遂げている。大体において独裁者の末路は哀れである。この時代に抹殺された人の数は正確な統計資料がないので、確かなことは言えないが諸説があり、500万人程度の人間が抹殺されたり流刑に処せられたといわれている。

 この時代に抹殺された人の中には多くの外国人も含まれているが、その数、略歴については省略するが、その数は膨大なものがあり、ポーランド共産党中央委員のほぼ全員が処刑されたという資料もある。
 日本人に関して言えば、手に手を取り合って、ソ連に恋の逃避行を行った女優の岡田嘉子とその愛人演出家の杉本良吉は、不法入国ということもあり、当時の日本はソ連にとって潜在的な仮想敵国であったことから、スパイ容疑で逮捕され、岡田嘉子は10年にも及ぶ強制労働、杉本良吉は銃殺刑に合っている。そのほか共産党員の山本懸蔵、留学中の医師国崎定洞が処刑されている。ソ連社会主義に希望の光を見出しその社会で自らを生かしたいと望み、スパイなど考えたこともない純粋な人までもスターリンは抹殺したのである。そこにはスターリンの危機意識があり、その結果としての過剰反応があったといえよう。この時代はソ連の歴史に汚点を残す暗黒時代であった。この大粛清の時代の後社会的混乱と経済の停滞は長期にわたって続いた。さらに否定的要因として生まれたのがノーメンクラツーラという特権階層であり、彼らは官僚世界を生み出し労働者の上に君臨した。プロレタリア独裁ではなく、プロレタリアに対する独裁が生まれた。ソ連社会の崩壊は、上からのものであったが故に官僚社会は残った。しかしいずれにしてもロシア共和国(ソ連改め)はトロッキーが危惧し、ブハーリンが望んだ民主社会主義的道を選択したのである。今ロシア共和国はソ連時代を引き継ぎ、アメリカに次ぐ大国ではあるが、その内部には多くの矛盾を抱えており、安定していない。ロシアはどこへ行くのであろうか?

 ソルジェニーツィンはこの作品の中で宗教論、芸術論も展開している。社会主義ソ連においても宗教は人々の心に深く根付いていることを示し、さらに当時の芸術家が時の権力に迎合しているがこれは当時の状況下では仕方がなかったのだという元映画監督ツェーザリの意見に対して、「天才というのは、独裁者の趣味なんかで解釈を変えたりしない」とX-123番(収容所内では名前でなく番号で呼ばれていた)の口を借りてソルジェニーツィンは自身の意見を述べている。さらに「芸術とは何をではなくいかにじゃないですか?」という意見に対しては「いかにではなく何をだ」とX‐123は反論する。「如何に」は技術であって、「何を」はテーマである。これは当時の社会主義リアリズムにおける芸術論争を反映している。
 私は今までこの作品が成立した時代背景を中心に述べてきたが、これからはこの作品の内容を中心に述べていきたい。

 ソルジェニーツィン自身は、スターリンを批判した罪で逮捕され、8年間のシベリア流刑に処せられている。その流刑地は一つに限られておらず、その一つにカザフスタンのエキパストーゼにある政治犯のみを収容する特別収容所があった。ここでの実体験が「イワン・デニーソヴィッチの一日」に結実したのである。

 この作品「イワン・デニーソヴィッチの一日」はイワン・デニーソヴィッチ・ショーロフというロシア農民のシベリアでの収容所(ラーゲリ)での一日、その起床から始まって、員数検査、現場作業、食事風景、点呼、就寝を、マロース(極寒)という劣悪環境の中で描き、それを通して大粛清時代=1935〜1939年)のソ連社会主義の過酷な現実を描いている。

 この作品の主人公ショーロフはドイツ戦の時にドイツの捕虜になり、そこから命がけで脱走し、森の中で友軍に助けられたのだが、「反逆罪」で捕えられ25年間の流刑に処せられた。誰もが何故と問うであろう。「反逆者」と「捕虜」の因果関係が分からないからである。その答えは次の叙述で明らかになる。「書類によるとショーロフの罪は祖国への裏切りということになっている。いや彼はそう自白までしたのだ。つまり、自分は祖国を裏切るために捕虜になり、ドイツ諜報部の任務を遂行して、帰還が許されたものである」と。そこにはあるものは自白への強要であり、それを拒否すれば死が待っていたのである。スターリン語録の中には次の言葉がある。「赤軍には捕虜は存在しない。存在するのは「反逆者」のみである」。反逆者にならないためには死しかない。日本にも「死しても虜囚の辱めを受けず」という言葉がある。沖縄での米軍との戦いにおいて、多くの民間人が降伏せず死を選んだというのも共通性を感じその非人間性には怒りを感じる。

 この作品を読んで思い出すのはドストエフスキーによって書かれた「死の家の記録」である。これもドストエフスキーの実体験をもとに書かれたものである。共にシベリアでの過酷なラーゲリ内での生活を描いたものであるが、ドストエフスキーの描くラーゲリ内での生活には笞刑5000回等という過酷さがある反面その生活の中にはおおらかさもある。囚人と村人の間には交流があり手作りの芝居を披露したり看守の目を盗んで(目こぼしを受けて:勿論賄賂を必要とする)ではあるが街の女との接触も出来る。ペットの飼育も出来る。囚人の手創りの品を村人に売り、小遣い稼ぎも出来る。看守の囚人を見る目は優しい。共に虐げられた民という共通意識があるからであろう。しかしこの作品「イワン・デニーソヴィッチの一日」には、そんなおおらかさは一切ない。過酷な生活があるだけである。この作品を特徴づけているものの一つはマロース(極寒)である。ドストエフスキーの作品にはこの表現はない。気温はマイナス40度にもなる。「一本の木立ちもない荒野の上を風がヒューヒューと吹き荒れている。夏はからからに乾ききった風、冬は肌身を刺すマロースの風。この荒野には昔から一本の木立ちも生えたことはないのだ。まして、周りを鉄条網に囲まれた今はなおさらだ」要するに人間の住める環境ではないのだ。その作業とはどんなものだったのだろうか?「囚人は煉瓦を焼いたり、畑を耕したり、壁を塗ったり、家を建てたりさせられる」何のために?勿論工業化のためである。工業化のための資材は運ばれなければならない。だから、鉄道は敷設されねばならないし、トラック輸送のためには道路も作られねばならない。中継地には駅も必要であろう。管理者の住居も建設されねばならない。シベリアには森林がある。木材資源があり、その他の天然資源も豊富である。それらは切り出され、発掘され運ばれなければならない。これらの労働に囚人は動員されたのである。その苛酷さは十分に想像できる。その苛酷さをこの作品は余すことなく描いている。そこにあるのはまさに奴隷労働である。体を温める十分な暖房も無く、身なしの粥のために、一本の煙草のために右往左往する。強靭な肉体と精神なくしては刑期を全うできない。全うするためには生活の知恵を必要とする。仕事の場において、食事の場において、休憩の場においてすらそれを必要とする。管理者に対する袖の下はそのひとつである。そこには生存競争があり、勝ち抜いていかねばならない。それと同時に、そこには同胞愛があり、協調があり、協力がある。生活の知恵を持たない元海軍中佐のヴィノフスキーにはショーロフは手を差し伸べる。

 終戦を控え、日ソ不可侵条約を破り満州(当時)に侵攻したソ連軍はそこに住む日本人の住民、軍人を捕虜として、シベリアに拉致し、そこで強制労働に従事させたがその生活環境はもっと苛酷なものであったであろう。その奴隷労働に耐えきれず多くの日本人は死に至った。中国での残留孤児の問題も生じている。

 第2に特徴づけられるものは、囚人の性格である。ドストエフスキーの描く囚人は一般の囚人である。しかしこの作品で描かれる囚人はいわゆる政治犯である。元官僚で娑婆では自動車を乗り回し威張り散らしていたおエラ方のなれの果てのフェチコーワを除けば、すべて心の自由を求め劣悪の条件下でも毅然として生きる人たちである。囚人の持つ暗さはない。心のプライドを失わず、与えられた苛酷な労働を神から与えられた使命と考え、それを喜びと感じている。そこには本来的な労働がある。労働に精を出し、汗をかくことによって、マロースの寒さを忘れる。仕事終了の合図があっても、ショーロフは立ち去ることなく、しばし立ち止まり、仕事の出来栄えを確かめる。まだこの腕もおいぼれていないと自画自賛する。そこには労働の喜びがある。本来的な労働とは生産者と対象との間の物質代謝であり、それによって生産者は精神の高揚を体験する。利潤を求める疎外された部分労働ではない。バプテスト信者のアリョウシャはショーロフに云う「人間には素晴らし者でも神様のお眼には卑しいことなんですから!精神的なことをお祈りしなければいけないんですよ」と。本来の労働の精神性を考えると神につながるものを感じる。

 いわれなき攻撃には反撃する「この毒虫め、貴様らが勝手に刑期を伸ばせる時代は終わったんだ。 今日が娑婆の見納めになるぜ」と看守のデールに班長のチューリンは言う。うしろには副班長のパウロがシャベルを高く振り上げている。他の連中もデールを睨めつけている。デールは震え上がる。引き下がる以外にない。そこには囚人の持つ卑屈さはない。スターリンに対する批判も公然と行われる。「ひげの親爺(スターリンの愛称)がお前らを憐れんでくれるだと!あいつはな血をわけた兄弟でも信じようとはしなかった奴だぞ、お前らみたいなどこの馬の骨か判らない野郎を憐れんでたまるかい」。ここには言論の自由がある。密告があっても保安部は取り上げない。囚人は怖いし、手続きは面倒だ。過酷な生活に苦しみ、右往左往しながらも、彼らは大切なもの=高潔な心を失っていない。

 登場人物を紹介する。


 ヴィノフスキー元海軍中佐 エリート育ちであるが故に生活の知恵を持ち合わせていない。英国に協力し、戦後英国の提督から記念品を贈られたためにラーゲリ入りする。英国はソ連と同じ連合国の一員なのになぜ?

 元映画監督ツェザリ・マルコーヴィチ しばしば芸術談義を戦わす不思議なインテリ。映画監督と云っても1本しか映画は撮っていない。反権力映画であろう。

 バプテスト信者のアリョーシャ:全てを神のおぼしめしと信じ現実を肯定している。「されどもしキリスト教徒としてならば、恥ずることなかれ、かえって、かかる運命(さだめ)の故に神をたたえよ」という福音書の言葉を絶えず唱えている。

 班長のチューリン:父親が富農であったため赤軍を追放され、後にラーゲリ入りする。囚人たちの信望は厚い。白髪の老人

 副班長パウロ:ドイツ戦での英雄

 官僚のなれの果て:フェチコーワ

等々ここでは紹介を省略した囚人たちを含めてソヴェート社会のあらゆる階層(農民、軍人、インテリ、オールドボリシェヴィキ、バプテスト信者、元富農、元官僚等など)を代表する人物が織りなす人間模様がこの作品を彩っている。ソ連(当時)を代表する文芸誌「ノーブイミール(新世界)」の編集長トワルドフスキーは、この作品の「序にかえて」で次のように述べている。「作者は登場人物たちの運命に対して読者の心に哀傷と痛み引き起さざるを得ないが、その哀傷と痛みが、絶望的な打ちひしがれた感情とは少しも共通点がないという点に芸術家としての疑う余地のない勝利がある」と。ソルジェニーツィンは、この作品の中に登場する囚人たちの中に、いや、これらの人と同じ心を持つ人々の中にロシアの未来を託したのである。これらの何に対してもめげることのないロシアの大地に深く根を下した人々に栄光あれと叫びたい。これらの人がいる限りロシアの未来は明るいと信じたい。

ソルジェニーツィン作「イワン・デニーソヴィッチの一日」木村浩訳 新潮文庫
https://www.amazon.co.jp/%E3%82%A4%E3%83%AF%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%87%E3%83%8B%E3%83%BC%E3%82%BD%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%83%81%E3%81%AE%E4%B8%80%E6%97%A5-%E6%96%B0%E6%BD%AE%E6%96%87%E5%BA%AB-%E3%82%BD%E3%83%AB%E3%82%B8%E3%82%A7%E3%83%8B%E3%83%BC%E3%83%84%E3%82%A3%E3%83%B3/dp/4102132015

https://blog.goo.ne.jp/moritake123-2007/e/0470876a9f8f529a113b18453c4c3b41


詳細は

ソルジェニーツィンの世界
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/1236.html

35. 中川隆[-7740] koaQ7Jey 2021年1月26日 18:16:23 : lIXiw6cEL6 : U1U0UVNGWWllT2M=[23] 報告
国民への現金給付、効果低く非効率…米国、低スキルの失業者にも仕事を提供、財源は国
https://biz-journal.jp/2021/01/post_204305.html
2021.01.26 05:40 文=藤和彦/経済産業研究所コンサルティングフェロー Business Journal


米ホワイトハウスのHPより

 1月20日、ジョー・バイデン氏は第46代米国大統領に就任した。就任の際の演説で「結束(unity)という言葉を連呼したように、現在の米国の分断状況は極めて深刻である。バイデン大統領の就任式を視聴した米国人は、ドナルド・トランプ前大統領の就任時に比べ約150万人多い約4000万人だった(1月21日付ニューヨークタイムズ)が、肝心のトランプ支持者には「結束」というメッセージはほとんど届いていないといわれている。

「言葉よりも行動が大事」ということで、バイデン政権は早速フル稼働し始めている。バイデン大統領は22日、低所得者向けの食料援助を増額したり、受給者を広げることができるよう、関係省庁に指示を出した。米国では14%の世帯が「食べ物が十分にない」との調査結果があり、大きな社会問題になっているからである。

 このようなバイデン政権の動きをトランプ支持者たちはどのように見ているのだろうか。トランプ支持者が忌み嫌っている言葉は「中絶」と「社会主義」だといわれている(1月20日付AERA.dot)。新型コロナウイルスのパンデミックが引き起こした大不況を乗り越えるためとはいえ、バイデン政権の貧民救済策を彼らは「極めて社会主義的」だと苦々しく思っていることだろう。

■社会主義運動の中心地だった米国

 そもそもトランプ支持者をはじめ多くの米国人は、なぜここまで「社会主義」を嫌っているのだろうか。意外なことに米国は19世紀末まで世界の社会主義運動の中心地だった(1月14日付ニュースソクラ)。1848年の欧州各国での市民革命に失敗した社会主義者たちが米国に逃れてきたことが始まりだが、米国で最初のマルクス主義政治組織が創建されたのは1857年であり、73年には第一インターナショナルの本部がロンドンからニューヨークに移転されている。南北戦争後しばらくの間、米国は世界の社会主義運動の中心地だったが、米国での社会主義運動は根付くことはなかった。

 1862年に「ホームステッド法(5年間定住して農業を営むと160エーカーの土地が与えられるという内容)」が制定されたからである。賃金労働者たちは自営農民になれるチャンスを目指して西海岸などに殺到し、所有地から金や石油が出れば一夜にして富豪になれる事例が相次いだ。「おのれの才覚と幸運だけで巨万の富を得ることかできる」というアメリカンドリームのせいで米国の社会主義運動は担い手を失ってしまい、その状況は現在まで続いているのである。

 トランプ支持者は都市部より農村部に多く、彼らにとって、神によって平等に創られた人々が、自由に競争して、その結果格差が生じてもそれは悪いものではない。「平等の実現」に政治的な意味を見いだしていないトランプ支持者だが、アメリカンドリームに幻滅を感じ始め、行き詰まりを感じているという。ホックシールド・カリフォルニア大学バークレー校名誉教授は、大学教育を受けていない白人男性をはじめとするトランプ支持者の胸の内を次のように描写している(1月23日付クーリエ・ジャポン)。

「俺は社会の下層に追いやられつつある。あいつら(民主党支持者)は俺たちの運送業や生産業をオートメーション化しやがるが、俺には新たな職につけるだけの教育もない」

■意義ある「雇用」の創出が重要

 トランプ支持者にとっての悩みは「雇用」なのである。バイデン政権は、「国民1人当たり最大1400ドルの現金給付」を目玉とする追加の経済対策を目指しているが、はたして効果はあるのだろうか。

 米国の給与所得が2020年3月から11月にかけて累計で3300億ドル減少したのに対し、失業給付の上乗せや国民向けの一時金給付などが1兆ドルにも上っている。可処分所得が結果的に6700億ドル増加したが、昨年11月時点の消費は、2月の水準を2%以上、下回っている。

 給与所得の減少の3倍もの支出増にもかかわらず、雇用の回復も止まってきており、このような財政支出は非効率的であるといわざるを得ない。雇用を増やすためには投資の増加が不可欠だが、民間企業にできる投資は限られている。政府が率先して投資主体とならない限り、雇用が拡大する状況にはないのである。

 バイデン大統領が尊敬しているルーズベルト大統領は、1930年代の大恐慌期に大規模な公共事業の実施を通じて800万人以上の雇用を創出したとされているが、筆者が注目しているのは、サンダース上院議員の経済顧問を務めるケルトン・ニューヨーク州立大学教授が提唱する「地域密着型の公共サービス雇用制度」である。

 この制度はまず最初に地域の人々自身がコミュニティーなどのケア(世話)に必要な具体的な仕事を決める。これを踏まえ、基礎自治体は仕事の案件のストックをつくり、さまざまなスキルや関心を持った失業者に対して適切な仕事(時給15ドル以上、就労形態は自由)を提供する体制を整備する。必要な財源は、中央政府(労働省)が確保するというものである。

 このようなやり方であれば、低スキルが災いして労働市場に参入できないでいるトランプ支持者に対しても意義のある仕事を提供できるのではないだろうか。バイデン大統領は就任式で「民主主義が勝利した」と力説したが、 現在の間接民主主義という制度は、あくまでも統治形態の一つにすぎない。フランス革命以降、人々が求めていたのは、理念やイデオロギーの実現ではなく、物質的な生活条件の向上であったことを忘れてはならない。民主主義の実現自体が目的だったのではなく、万人の利益を保証する全体システムの構築が本来の目的だったはずである。

 バイデン政権は、意義ある「雇用」の創出を通じてのみ、米国社会の「分断」を癒やすことができると肝に銘じるべきである。

(文=藤和彦/経済産業研究所コンサルティングフェロー)

36. 中川隆[-7740] koaQ7Jey 2021年2月04日 10:18:35 : K6muIrSMR2 : TlUudzl6bDUwWlk=[6] 報告

2021.02.04XML
ナワリヌイにつらなるアングロ・サクソンの対ロシア工作
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202102040000/


 西側ではロシアの「民主派」として宣伝されているアレクセイ・ナワリヌイがロシアへ戻り、拘束されたが、​ナワリヌイの側近がイギリスの外交官と接触、不安定化工作について話し合う様子が撮影され、それをロシアのメディアが放送​した。相手のイギリス人はMI6(イギリスの情報機関)の人間だと見られている。

 ナワリヌイはエール大学の奨学生となり、同大学で学んでいるが、その手配をしたのはマイケル・マクフォール。バラク・オバマが大統領だった2010年8月、ムスリム同胞団を使って中東から北アフリカにかけての地域でアメリカ支配層にとって目障りな体制を転覆させるためにPSD-11を承認したが、その計画を作成したチームのひとりがマクフォール。

 この人物は2012年1月に大使としてモスクワへ着任するが、​その3日後にロシアの反プーチン派NGOの幹部が挨拶に出向いている​。その年の2月にはロシアで大統領選挙が予定されていて、その選挙に対する工作を指揮することがマクフォールの任務だったと考えられている。

 NGOの中には「戦略31」のボリス・ネムツォフとイーブゲニヤ・チリコーワ、「モスクワ・ヘルシンキ・グループ」のレフ・ポノマレフ、選挙監視グループ「GOLOS」のリリヤ・シバノーワらがいた。

 戦略31はNEDから、モスクワ・ヘルシンキ・グループはNEDのほかフォード財団、国際的な投機家であるジョージ・ソロス系のオープン・ソサエティ、そしてUSAIDから、GOLOSもやはりNEDから資金を得ている。

 CIAには秘密工作を実行するための資金を流す仕組みが存在する。定番のルートがNED(国家民主主義基金)やUSAID(米国国際開発庁)だ。NEDは1983年にアメリカ議会が承認した「民主主義のための国家基金法」に基づいて創設された組織で、政府から受け取った公的な資金をNDI(国家民主国際問題研究所)、IRI(国際共和研究所)、CIPE(国際私企業センター)、国際労働連帯アメリカン・センターへ流しているのだが、そうした資金がどのように使われたかは議会へ報告されていない。CIAの活動内容を明らかにすることはできないからだ。USAIDもクーデターや破壊活動などCIAの秘密工作で名前が出てくる。

 アメリカの私的権力は1991年12月のソ連消滅で自分たちの国が唯一の超大国になったと考え、他国に配慮することなく侵略戦争を行い、世界を制覇できると考えた。そして作成されたのがウォルフォウィッツ・ドクトリンだが、そのプランは21世紀に入って大きく揺らぐ。ウラジミル・プーチンを中心とする勢力がロシアを曲がりなりにも再独立させることに成功したのだ。

 ロシアでナワリヌイは支持されていないが、西側ではロシアに対する攻撃を正当化するために利用されている。大多数のロシア人には相手にされない戯言でも西側では信じる人が少なくないだろう。

 イギリスのロシアに対する工作は遅くとも20世紀の初頭から行われている。例えばイギリス外務省は1916年にサミュエル・ホーアー中佐を中心とするMI6のチームをロシアへ送り込んでいる。その中にステファン・アリーとオズワルド・レイナーが含まれていた。

 アリーの父親はロシアの有力貴族だったユスポフ家の家庭教師で、アリー自身はモスクワにあったユスポフの屋敷で生まれている。レイナーはオックスフォード大学時代からフェリックス・ユスポフの親友。イギリスはロシアをドイツとの戦争に引きずり込もうとしていた。

 ロシアの産業資本やユスポフは戦争に賛成していたが、皇后やグレゴリー・ラスプーチンという修道士は戦争に反対、ラスプーチンはイギリスにとって邪魔な存在だ。ラスプーチンの背後には大地主がいた。

 そうした対立の中、皇后は1916年7月13日にラスプーチンへ電報を打つが、それを受け取った直後にラスプーチンは見知らぬ女性に腹部を刺されて入院。8月17日に退院するが、その前にロシアは参戦していた。

 そして1916年12月16日、ラスプーチンは暗殺される。川から引き上げられた死体には3発の銃弾を撃ち込まれていた。最初の銃弾は胸の左側に命中、腹部と肝臓を貫き、2発目は背中の右側から腎臓を通過。3発明は前頭部に命中し、これで即死したと見られている。暗殺に使用された銃弾はイギリスの軍用拳銃で使われていたものだ。

 暗殺したのはユスポフを中心とする貴族グループだとされているが、このグループはMI6のチームと接触していた。イギリスのお抱え運転手だったウィリアム・コンプトンの日記によると、彼はレイナーをユスポフの宮殿へ1916年の10月の終わりから11月半ばにかけて6回にわたり運んだという。またユスポフは1916年12月19日にレイナーと会ったと書き残している。(Joseph T. Fuhrmann, “Rasputin,” John Wiley & Son, 2013)

 ロシアでは1917年3月に二月革命があり、大地主は権力の座から陥落して産業資本家を後ろ盾とする臨時革命政府が成立した。この政府は戦争を継続、ドイツは両面作戦を続けなければならなかった。そこで目をつけたのが即時停戦を主張していたボルシェビキだ。

 二月革命に際、ボルシェビキの指導者は国外に亡命しているか、刑務所に入れられていて、例えば、レーニンはスイスにいた。そうしたボルシェビキの幹部32名をドイツは「封印列車」でロシアへ運んだ。レーニンが帰国したのは1917年4月。その後、紆余曲折を経て11月の十月革命でボルシェビキ政権が誕生、ドイツとの戦争を止める。

 しかし、ドイツ軍は迅速に部隊を西側へ移動させられなかったことから1918年11月には敗北する。その3カ月前にイギリス、フランス、アメリカ、そして日本などはロシア(ソ連)に軍隊を派遣して干渉戦争を始めた。

 そうした経緯があるため、その後もドイツとソ連との関係は悪くなかった。ボルシェビキと米英の金融資本を強引に結びつけようとする人びとがいるが、それよりはるかに強くユニポフを中心とするロシア貴族やケレンスキーの臨時革命政府は結びついていた。この結びつきを現在の西側を支配している勢力は秘密にしたがっている。

 ソ連とドイツとの関係を破壊したのはアドルフ・ヒトラーだ。第2次世界大戦でドイツ軍はソ連へ攻め込むが、スターリングラードでの戦闘で大敗、その直後からウォール街の大物、つまりアレン・ダレスたちとナチスの幹部は接触を始め、善後策を協議している。

 アレン・ダレスが君臨していたCIAが世界各地で買収、恫喝、暗殺、クーデターを含む秘密工作を展開してきたことは広く知られている。ダレスが死んだ後も変化はなく、秘密工作の一端は1970年代にアメリカ議会でも明らかにされた。今でもロシアや中国は勿論、中東、東南アジア、東アジア、ラテン・アメリカ、アフリカなど全世界が活動の舞台だ。

 CIAは第2次世界大戦中に活動していたOSS(戦略事務局)の後継機関として設立された。OSSは1942年6月にウォール街の弁護士だったウィリアム・ドノバンを長官として創設されたが、そのモデルはイギリスの機関だった。特殊工作はSOE(特殊作戦執行部)、通常の情報活動はMI6に基づいて組織されている。

 ドノバンは巨大化学会社デュポンの顧問弁護士を務めていたが、その時の同僚弁護士のひとりがアレン・ダレス。この関係でドノバンはダレスををOSSへ誘い、特殊工作を担当するSOを指揮させた。それ以降、ダレスはアメリカにおける秘密工作のトップとして君臨する。この時からアメリカの情報機関は金融資本と緊密な関係を維持している。

 SOEは1940年にイギリスの首相だったウィンストン・チャーチルの命令で創設され、初代長官は保守党の政治家だったフランク・ネルソンが選ばれた。1942年に長官はチャールズ・ハンブローに交代するが、この人物はハンブロー銀行の人間だ。チャーチルは親の代からロスチャイルド家と緊密な関係にあるが、ハンブローとも親しかった。

 大戦後、OSSは廃止される。アメリカでは平和時に情報機関を持つべきでないとする意見があったが、情報の収集と分析だけにするという条件で1947年7月にポール・ニッツェの執筆した国家安全保障法が発効、9月にCIAは創設された。

 大戦中の1944年、イギリスのSOEとアメリカのSOは西ヨーロッパでドイツ軍と戦っていたレジスタンスに対抗するため、ジェドバラというゲリラ戦の部隊を編成する。レジスタンスの主力はコミュニストだったからである。後にベトナム戦争で住民皆殺し作戦のフェニックス・プログラムを指揮、CIA長官にもなったウィリアム・コルビーもジェドバラに所属していた。

 大戦後にジェドバラも廃止されるが、メンバーの一部は軍の特殊部隊へ流れるが、破壊活動を目的して秘密裏に組織されたOPCの幹部にもなる。この機関は1950年10月にCIAと合体、その翌年の1月にアレン・ダレスが秘密工作を統括する副長官としてCIAへ乗り込んだ。OPCが核になって1952年に作られたのが計画局である。

 この部署はCIAの「組織内組織」になり、今ではCIAを乗っ取ったような形。さらに国務省など政府内に触手を張り巡らせ、政府の外部にも「民間CIA」のネットワークが存在するが、その頭脳は今でもウォール街にあるはずだ。

https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202102040000/

37. 中川隆[-7352] koaQ7Jey 2021年2月15日 15:53:46 : JYhYYeXb2g : TDJnVUk4OGtjaHc=[19] 報告
2021.02.14
米英の対ロシア戦略におけるポーランドの役割(2/4)
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202102140001/

 ポーランドの一部は帝政ロシアやソ連を弱体化させるため、その内部に住む少数派を支援してきた。ユゼフ・ピウスツキが始めた「プロメテウス主義」である。ピウスツキは日露戦争が始まった1904年に来日しているが、その目的もそこにあった。

 第1次世界大戦と第2次世界大戦の間にピウスツキは別のプランを考えている。バルト海とエーゲ海で挟まれた中央ヨーロッパをカトリックで統一しようという「インターマリウム」だ。

 第2次世界大戦後、ナチスの大物や協力者を逃走させるために「ラットライン」が作られたが、その工作に参加していたカトリックのクルノスラフ・ドラゴノビッチ神父が夢想していた「現代版神聖ローマ帝国」ともインターマリウムは重なる。

 ポーランドの反ロシア運動を引き継いだのがウラジスラフ・シコルスキー将軍。1939年9月にドイツ軍がポーランドへ軍事侵攻するが、その直後にシコルスキーはパリへ脱出して亡命政権を名乗り、翌年6月にはイギリスのウィンストン・チャーチルと会談している。その際、ポーランドがイギリスと一緒に戦うことを約束、亡命政権はロンドンへ移動した。

 ドイツ軍によるポーランドへの侵攻は領土問題が関係している。第1次世界大戦後にドイツ本国と東プロイセンの間にポーランド領(ポーランド回廊)ができ、東プロイセンは飛び地になっていたのだ。

 その問題を解決するため、ドイツは住民投票を実施してドイツへ回廊を返還する意見が多ければ返還、その際にドイツはポーランドに鉄道やバルト海へ通じる高速道路を渡すという案を出した。

 その案をポーランドは受け入れ、1939年3月21日に同国のジョセフ・ベック外相がドイツの首都ベルリンを訪問することになるが、姿を現さなかった。ロンドンへ向かったのだ。その日、ロンドンではコントロール不能になったヒトラーをどうするかについて討議するため、各国の指導者が集まっていた。

 参加国はドイツに共同して対抗するかどうかを議論、フランスはすぐに同意、ソ連はフランスとポーランドが署名することを条件に同意したが、ポーランドのベック外相はドイツよりソ連が脅威だという理由で24日にそのプランを拒否した。そして26日にポーランドはドイツに対して回廊を返還しないと通告、ドイツ軍はポーランドへ軍事侵攻することになるのだが、こうした経緯はアメリカやイギリスを中心とする体制を支持する勢力にとっては広まって欲しくない話だろう。(続く)
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202102140001/


2021.02.14
米英の対ロシア戦略におけるポーランドの役割(3/4)
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202102140001/


 ウラジスラフ・シコルスキーの側近だったユセフ・レッティンゲルはヨーロッパをイエズス会の指導の下で統一したいと望んでいた。イエズス会が支配するインターマリウムを作りたかったのだろう。そのレッティンゲルは第2次世界大戦後、オランダ女王の夫であるベルンハルト殿下と「ビルダーバーグ・グループ」を創設している。

 このグループには上部機関が存在した。ヨーロッパ統合を目的として1948年に創設されたACUE(ヨーロッパ連合に関するアメリカ委員会)である。委員長を務めたのはウォール街の弁護士でOSS(CIAの前身)の長官だったウィリアム・ドノバン、副委員長はやはりウォール街の弁護士だったアレン・ダレス。委員会のスポンサーはフォード財団やロックフェラー財団などだ。NATO(北大西洋条約機構)が創設されたのはACUE設立の翌年、1949年のことだった。

 NATO創設の目的はソ連軍の侵略に対抗するためだとされているが、その当時のソ連には西ヨーロッパに攻め込む能力はない。何しろ、ドイツとの戦闘でソ連の国民は2000万人以上が殺され、工業地帯の3分の2を含む全国土の3分の1が破壊され、惨憺たる状態だったのである。実際はヨーロッパの統合、つまりヨーロッパの支配が目的だったと考えるべきだろう。

 大戦中、西ヨーロッパでドイツ軍と戦っていたのはレジスタンス。その主力はコミュニストだった。ウォール街やシティの支配者にとってコミュニストは目障りだ。

 そこで、アメリカとイギリスの情報機関は大戦の終盤、ジェドバラというゲリラ戦の組織を作った。その人脈は戦後も生き続け、アメリカでは軍の特殊部隊や情報機関の破壊工作部門になる。

 ジェドバラの人脈はヨーロッパにもネットワークを築く。1948年頃にはCCWU(西側連合秘密委員会)という組織が統括、NATOができてからはその新組織に吸収され、CPC(秘密計画委員会)が指揮することになる。その下部組織としてACC(連合軍秘密委員会)が1957年に設置され、NATOの秘密ネットワークを動かすことになった。NATOへ加盟するためには秘密の反共議定書にも署名する必要があると言われている。(Philip Willan, “Puppetmaster”, Constable, 1991)

 こうしたネットワークの中で最も知られているのはイタリアのグラディオだろう。1960年代から80年代にかけての時期、「極左」を装って爆弾テロを繰り返していた。人びとを恐怖させ、その恐怖と左翼を結びつけようとしたのだが、これは成功した。

 フランスで人気があったシャルル・ド・ゴールはコミュニストでなかったが、レジスタンスに参加していた。つまりアメリカやイギリスの支配者にとって目障りな存在だ。そのド・ゴールを敵視する秘密組織OAS(秘密軍事機構)が1961年に創設される。OASへ資金を流していたパイプのひとつ、パーミンデックスはジョン・F・ケネディ大統領暗殺でも名前が出てくる。

 フランスの内務大臣だったエドアル・ドプは1947年6月、政府を不安定化するため、右翼の秘密部隊が創設されたと語っている。その年の7月末か8月6日には米英両国の情報機関、つまりCIAとMI6と手を組んで秘密部隊はクーデターを実行する予定で、シャルル・ド・ゴールを暗殺する手はずになっていたとされた。

 OASは1961年4月にスペインのマドリッドで秘密会議を開き、アルジェリアでのクーデターについて話し合っている。アルジェリアの主要都市を制圧した後でパリを制圧するという計画で、4月22日にクーデターは実行に移される。

 CIAはクーデターを支援していたのだが、ジョン・F・ケネディ大統領はジェームズ・ガビン駐仏大使に対し、必要なあらゆる支援をする用意があるとド・ゴールへ伝えるように命じた。アルジェリアにいるクーデター軍がパリへ侵攻してきたならアメリカ軍を投入するということだ。CIAは驚愕、クーデターは4日間で崩壊した。(David Talbot, “The Devil’s Chessboard,” HarperCollins, 2015)

 その後、ド・ゴール大統領はフランスの情報機関SDECEの長官を解任、第11ショック・パラシュート大隊を解散させる。OASは1962年に休戦を宣言するが、ジャン-マリー・バスチャン-チリー大佐に率いられた一派は同年8月22日にパリで大統領の暗殺を試みたものの、失敗。暗殺計画に加わった人間は9月にパリで逮捕された。全員に死刑判決が言い渡されたが、実際に処刑されたのはバスチャン-チリー大佐だけだ。

 暗殺未遂から4年後の1966年にフランス軍はNATOの軍事機構から離脱、翌年にはSHAPE(欧州連合軍最高司令部)をパリから追い出す。フランスがNATOの軍事機構へ一部復帰すると宣言したのは1995年のこと。NATOへの完全復帰は2009年にニコラ・サルコジ政権が決めている。この段階でフランスもアメリカの属国になった。(続く)
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202102140001/

38. 2021年3月05日 09:15:49 : ERMXrJ34fI : blFVOGd3LjJ2Ym8=[12] 報告

2021年03月05日
止まらない中国のソ連化、急速な成長のあとに人口減少と経済崩壊
http://www.thutmosev.com/archives/85254226.html


共産主義とは王の代わりに共産党が支配者となる制度で、民主化など起きない(ロシア革命のレーニン)
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画像引用:https://toyokeizai.net/mwimgs/e/9/-/img_e9a08a736bb3446ec5d2c702ed8ac46a285492.jpg


絶対王政のロシア・中国が共産化した

近年の中国の急速な膨張と矛盾の噴出は、かつてのソ連の膨張と限界露呈、そして崩壊に向かった過程を連想させる。

ソ連は1922年から1991年まで存在した国家で、厳密には世界連邦つまり国連みたいなものを目指していたようです。

全世界を共産主義で統一した世界連邦がソ連だったが、現実には世界の半分で頭打ちになり「国家」のようなものになった。

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ソ連の特異性は思想によって全世界を統一しようとした点で、オウムが世界連邦を作ったのに等しい。

ソ連の始まりは資本論という一冊の本で、「共産主義にすれば問題はすべて解決する」と書いてありました。

現代の人は資本論がウソなのを知っているが当時の人々は真に受けて、本気で世界共産化を目指した。


共産主義を一言でいうと「王の資産を奪えば民衆は豊かになる」という原理で、金持ちから金を奪えば自分が金持ちになるという単純な思想です。

20世紀が始まった第一次大戦前には世界には王政国家が多く、土地などの資産を貴族と王が所有していました。

ロシアではロマノフ王朝が全国土を独占し国民に私有財産はなく、英米より圧倒的に貧しかった。


「王が全国土を独占し国民に私有財産はない」のが絶対王政で、共産党が王に変わっただけで国民に私有財産がないのは同じです。

共産化するのは王が資産を独占する絶対王政の国で、日本や英仏のような封建制の国は共産化しない。

中国も秦の始皇帝以来、皇帝がすべてを独占する絶対王政だったので、王が倒れると容易に共産化しました。

共産主義とは絶対王政の現代版

日米欧は封建国家で、朝廷の下に将軍が居て将軍の下に大名、大名の下に武士団がいるが僧侶や神官も権限があり商人は大名より豊かだった。

朝廷や貴族は名目上土地の支配者だったが、実際は京都御所周辺の土地しか所有していませんでした。

朝廷は御所の雨漏りの修理代すら出せず、信長や家康のような有力武将に「征夷大将軍」などの官位を販売して生活していました。


こうした国では王は絶対的支配者にはなりえず、封建制の次に議会制民主主義と資本主義に移行していった。

李氏朝鮮は絶対王政であり、韓国が”変な民主国家”にしかならないのはこれが理由です。

ロシアのような絶対王政国家が共産国家になると、目覚ましい軍事的経済的発展を遂げます。


民主国家や封建国家では「抵抗勢力」が強力だが、絶対王政=共産主義では遮るものが何もないからです。

ロシアは欧州最弱だったが共産化するや最強国家に変身し、これを見誤ったドイツは手痛い敗戦を喫した。

第二次大戦前の日本は日露戦争の経験から「ロシア人は弱い」と学習したが、共産化したソ連軍は強大になっていました。


ソ連は第二次大戦後の短期間に経済が急成長し、1950年代から70年代には「すぐにアメリカ経済を抜く」と思われていました。

アメリカの政治家や経済学者すらソ連に抜かれるのは時間の問題と考え、恐れおののいていました。

ソ連の急成長と崩壊

だがソ連の急成長は1980年を境にピタリと止まり、1990年には経済も軍事も崩壊していました。

全盛期からたった10年で崩壊するのも共産主義の特徴で、崩壊を遮るものも支えるものも存在しません。

徳川幕府が薩長軍に包囲された時、江戸城にはわずか500人の武士しか居なかったそうですが、それでも500人は玉砕覚悟で将軍を守ろうとしました。


ロマノフ王朝や清朝が滅んだ時、組織は内部崩壊を起こしたが、徳川幕府は組織として最後まで機能を保っていました。

共産国家は急速な発展のあと急速な崩壊を起こすのが常で、北朝鮮もこれに当てはまる。

今では考えられないが1950年代には北朝鮮経済は韓国より発展しており、だから北は南に侵攻しました。


ところが成長期を過ぎた北朝鮮は急速に衰退し、日米の全面支援を受ける韓国とは100倍以上の差がついています。

これは共産主義は絶対王政の為、国民は共産党の所有物に過ぎず、党(王)が豊かになっても民衆は貧しいままだからです。

中国も同じ欠陥をかかえていて、香港やウイグルでは問題が噴出しています。


中国の成長の最大の原動力は人口増加だったが、意外にもその人口が最初に減り始めた。

2020年の出生率は2016年(2000万人)のたった半分の1000万人に落ち込み、すぐに1000万人も割り込むでしょう。

これもソ連と同じであり計画経済のような計画出産というシステムが破綻してこうなっています。
http://www.thutmosev.com/archives/85254226.html

39. 2021年3月10日 15:52:58 : Uj2DKea5PM : ZUhYTnd1dThoMDY=[22] 報告
【真相はこうだ!桜便り】篠原常一郎〜共産主義の現在[R3/3/10]


40. 中川隆[-5586] koaQ7Jey 2021年4月18日 07:10:39 : cVvh3vnihc : SkQ4eVFEeU43Y0U=[1] 報告
【今、世界はどうなっている?】林千勝×水島総 第1回
「民族無き世界を目指す2つのグローバリズム〜ロスチャイルド家とカール・マルクスの繋がり」[桜R3/4/17]


41. 中川隆[-5005] koaQ7Jey 2021年7月14日 11:14:27 : PZddMrZD2w : c1ZOSXVQWldZMVU=[17] 報告
不破哲三の正体
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/650.html

日本共産党の(かなり危ない)アレな裏話…(おや?後ろに誰か来たようだ…(震…|
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/687.html

42. 中川隆[-12290] koaQ7Jey 2023年10月10日 10:34:59 : qFFXQaTFBY : N01JczVSLzdlZEE=[12] 報告
【マルクス主義】暴力!革命!元東大生がわかりやすく解説!世界が変わるには何が必要なのか?
2020/09/01
https://www.youtube.com/watch?v=W8YyFsvZ_wA&t=0s

革命を成し遂げるには何が必要なのか!
それを徹底分析したのがマルクスです!
共産主義!社会主義!理解するためにこの動画は外せない!

43. 中川隆[-11266] koaQ7Jey 2024年3月16日 09:04:46 : K7e7fGe11s : Z3FieHlkMHRXUDI=[12] 報告
<■76行くらい→右の▽クリックで次のコメントにジャンプ可>
雑記帳
2024年03月16日
江田憲治、中村勝己、森田成也『世界史から見たロシア革命 世界を揺るがした一〇〇年間』
https://sicambre.seesaa.net/article/202403article_16.html

https://www.amazon.co.jp/%E4%B8%96%E7%95%8C%E5%8F%B2%E3%81%8B%E3%82%89%E8%A6%8B%E3%81%9F%E3%83%AD%E3%82%B7%E3%82%A2%E9%9D%A9%E5%91%BD%E2%80%95%E4%B8%96%E7%95%8C%E3%82%92%E6%8F%BA%E3%82%8B%E3%81%8C%E3%81%97%E3%81%9F%E4%B8%80%E3%80%87%E3%80%87%E5%B9%B4%E9%96%93-%E6%B1%9F%E7%94%B0-%E6%86%B2%E6%B2%BB/dp/4806807168


 柘植書房新社より2018年7月に刊行されました。電子書籍での購入です。本書は2017年に開催されたロシア革命100周年記念シンポジウムの書籍化です。本書は、ロシア革命から100年となる2017年11月4日に開催されたシンポジウムの書籍化です。このシンポジウムでは、リーマンショックなど21世紀になって「社会主義に勝利した」はずの資本主義の問題点が顕在化する中で、ロシア革命の現代の世界史的意義が改めて討論されました。ロシア革命を全面的に肯定するわけではないとしても、ロシア革命を否定したり、ロシア革命の結果成立したスターリン体制がナチ体制とともに「全体主義」の枠組みで把握されたりする傾向に異議申し立てをする、というわけです。私の歴史認識や政治的立場とは大きく異なりますが、それだけにロシア革命に詳しくない私にとって教えられるところが多いのではないか、と考えて読みました。なお、このシンポジウムの参加者はほとんどが70歳前後だったようで、やはりこのシンポジウムのような問題意識が若い世代にはなかなか浸透していないようです。以下、本書の興味深い見解を備忘録としてまとめます。

 森田成也氏は、ロシア革命を一国の革命とは把握しないよう、提言します。ロシアが中心になっているものの、第一次世界大戦など世界的激動の一環として把握すべきというわけです。これは、ロシア革命が起点となり、その影響が世界中に広がっていったことも重視した認識です。「革命」自体はヨーロッパも含めてほぼ失敗しましたが、マルクス主義の影響は日本も含めて世界中の「非」もしくは「反」共産主義諸国にも広がった、というわけです。森田氏はロシア革命について、単なる必然史観でも単なる逸脱でもなく、偶然的側面も客観的に条件づけられた側面もある、と指摘します。また森田氏は、ヨーロッパ「先進諸国」に対するロシアの「後進性」と、それ故のロシアのブルジョアジーの「反動化」と労働者階級の大都市における集中度の高さを指摘します。また森田氏は、農奴制廃止が中途半端に終わった故の農民の「革命性」と、反ユダヤ主義が強かったことに起因する抑圧されていた少数民族の「革命性」とともに、第一次世界大戦における「後進的」農民と「先進的」労働者との従軍経験の共有も指摘します。

 中村勝己氏は、ロシア革命をめぐる同時代のレーニンとカール・カウツキーの論争のうち、ほぼレーニンの主張のみ翻訳されている戦後日本における左翼の言説空間の歪みを指摘します。カウツキーの言説には、公開性の原則や複数政党制(複数前衛党論)の重要性の指摘など、現代にも通ずる価値がある、というわけです。中村氏は、ロシア革命を同時代に経験したローザ・ルクセンブルクもロシア革命でのボリシェヴィキ独裁を批判しており、カール・カウツキーとローザ・ルクセンブルクには、民主主義における多元性保障の論理を必要とするヨーロッパ自由主義伝統の視点が根づいていた、と指摘します。湯川順夫氏は、ボリシェヴィズムとスターリニズムを一直線に結ぶことはできず、両者の間には質的断絶がある、と指摘します。

 江田憲治氏は、中国における共産主義の受容と定着での陳独秀の役割を重視します。江田氏は、陳独秀の民主主義闘争(革命)から社会主義革命への移行論(永続革命論)はトロツキーに学んだもので、民主主義と社会主義の同時並存論はそれを発展させた、陳独秀独自の思想の到達点と見ることができるかもしれない、と評価しています。なお、江田氏がかつて、中国共産党指導者が親族にいる中国史研究者に毛沢東の理論面での評価を尋ねたところ、毛沢東には理論などなく、せいぜいゲリラ戦の理論くらいだった、との返答があったそうです。さらに江田氏は、ゲリラ戦の理論も、毛沢東の思想的営為の結果ではなく、他の軍人(曾中生)の発案だったそうです。つまり、「毛沢東思想」とは、レーニン以来の社会主義の政治的指導者は同時に理論的指導者であり、そうあるべきという「政治文化」の所産か、実態を超えて指導者の正しさを強調する「政治文化」が、ロシアから中国、スターリンから毛沢東へと伝わったのではないか、と江田氏は指摘します。

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