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チャーチルはソ連を核攻撃しようとしていた
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/1028.html
投稿者 中川隆 日時 2020 年 9 月 17 日 13:02:08: 3bF/xW6Ehzs4I koaQ7Jey
 

(回答先: 共産主義の時代 投稿者 中川隆 日時 2020 年 3 月 20 日 11:56:26)

チャーチルはソ連を核攻撃しようとしていた


2020.09.17
ソ連を核攻撃したいことチャーチルが考えていたことを示す新たな文書が出てきた
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202009170001/

 ウィンストン・チャーチル1951年4月に自宅でニューヨーク・タイムズ紙のジェネラル・マネージャーだったジュリアス・アドラーに対し、​ソ連に最後通牒を突きつけ、それを拒否したなら20から30発の原爆をソ連の都市に落とすと脅そうと考えている​と話していたことを示す文書が発見されたという。1951年10月にチャーチルが首相へ返り咲く直前のことである。


 第2次世界大戦の当時からチャーチルはソ連を敵視している。アドルフ・ヒトラーの側近だったルドルフ・ヘスが単身、飛行機でスコットランドへ渡った翌月の1941年6月、ドイツ軍は全兵力の4分の3がソ連へ攻め込んだが、その際にイギリスとアメリカが傍観したのもそのためだろう。そうした米英の姿勢をヒトラーも知っていたかのようだ。


 米両国が動き始めるのはドイツ軍が43年2月にスターリングラードで降伏してから。その年の5月に慌てて両国の首脳は協議、7月にシチリア島上陸作戦を敢行した。その際、コミュニスト対策で手を組んだ相手がマフィアだ。


 スターリングラードの戦いでドイツ軍が敗亡したことによって戦争のの帰趨は決したのだが、しばらく戦争は続く。そして1945年4月にフランクリン・ルーズベルト米大統領が急死して親ファシストのウォール街がホワイトハウスを奪還、5月にドイツは降伏する。


 その直後にチャーチルはソ連に対する奇襲攻撃を目論んだ。そして作成されたのがアンシンカブル作戦。7月1日にアメリカ軍64師団、イギリス連邦軍35師団、ポーランド軍4師団、そしてドイツ軍10師団で「第3次世界大戦」を始めるというものだったが、参謀本部がこの計画を拒否したので実行されていない。


 アメリカでは1945年7月16日にニューメキシコ州のトリニティ(三位一体)実験場でプルトニウム原爆の爆発実験を行って成功した。この日程はポツダム会談が始まる前日に行いたいというハリー・トルーマンの求めで決められた。


 この成功を受けてトルーマンは原爆の投下を許可、26日にポツダム宣言が発表され、8月6日に広島へウラン型が投下された。長崎へプルトニウム型原爆が投下されたのはその3日後だ。


 チャーチルは1945年7月26日に辞任するが、46年3月にアメリカのフルトンで「鉄のカーテン演説」を行って「冷戦」の開幕を宣言、その翌年にはアメリカの​スタイルズ・ブリッジス上院議員に対し、ソ連を核攻撃するようハリー・トルーマン大統領を説得してほしいと求めている​。その5年後、チャーチルのソ連を核攻撃したいという欲望はさらに膨らんだわけだ。


 その欲望はアメリカの好戦派も共有、ソ連や中国に対する核攻撃計画を作成しはじめる。1950年代に沖縄の軍事基地化が進んだのはそのためだ。沖縄のアメリカ軍基地は攻撃のためのものであり、そこの部隊は「殴り込み」が目的だ。


 アメリカの軍や情報機関の好戦派は1957年初頭にソ連を核攻撃する目的で「ドロップショット作戦」を作成、テキサス大学のジェームズ・ガルブレイス教授によると、​攻撃は1963年後半に実行されることになっていた​。1963年11月22日にソ連との平和共存を訴えていたジョン・F・ケネディ大統領が暗殺され、それを口実にしてソ連との戦争を始めようという動きがあったが、これは挫折している。

https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202009170001/  

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コメント
1. 2020年10月28日 09:05:46 : 73Otu5mjPA : RnFlSzhlR0tEanc=[13] 報告
2020.10.26
それでも核兵器を欲しがる人びと(1/4)
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202010260001/


核兵器開発の始まり

 国連で2017年7月に採択され、同年9月に署名された核兵器禁止条約が来年1月に発効する見通しになったようだ。それ自体、悪いことではないだろうが、それで世界から殺戮と破壊がなくなるわけではなく、そうした殺戮と破壊から目を背けていることを誤魔化す「いちじくの葉」としてこの条約を利用する人もいるだろう。

 核兵器の開発は1939年8月に出されたアルバート・アインシュタイン名義の勧告書から始まる。その草稿を書いたのはハンガリー出身の物理学者、レオ・シラードとユージン・ポール・ウィグナーだ。

 1940年2月にイギリスではバーミンガム大学のオットー・フリッシュとルドルフ・パイエルスのアイデアに基づいてMAUD委員会が設立される。その委員会のマーク・オリファントが1941年8月にアメリカでアーネスト・ローレンスと会い、10月にフランクリン・ルーズベルト大統領は原子爆弾の開発を許可してイギリスとの共同開発が始まった。

 マンハッタン計画と統括していたアメリカ陸軍のレスニー・グルーブス少将(当時)は1944年、その計画に参加していたポーランドの物理学者ジョセフ・ロートブラットに対し、計画は最初からソ連との対決が意図されていると語ったという。(Daniel Ellsberg, “The Doomsday Machine,” Bloomsbury, 2017)

 アメリカのフランクリン・ルーズベルト大統領とイギリスのウィンストン・チャーチル首相の関係が良くなかったことが知られている。ルーズベルトが初めて大統領に就任した1933年にJPモルガンをはじめとするアメリカの金融資本がファシズム体制の樹立を目論んでクーデターを計画したことはスメドリー・バトラー海兵隊少将が証言している。

 そのJPモルガンの創始者はジョン・ピアポント・モルガン。その父親であるジュニアス・モルガンはイギリスでジョージ・ピーボディーと銀行を経営していた。その銀行が苦境に陥ったとき、助けたのがネイサン・ロスチャイルド。ロスチャイルド家はウィンストン・チャーチル、そして父親のランドルフ・チャーチルはロスチャイルド家をスポンサーにしていた。またルーズベルトは反ファシスト、チャーチルは反コミュニストだ。(つづく)
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202010260001/

2020.10.27
それでも核兵器を欲しがる人びと(2/4)
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202010270000/


米英金融資本の対ソ連戦

 ドイツ軍は1941年6月、つまりアドルフ・ヒトラーの忠実な部下だったルドルフ・ヘスが単身飛行機でスコットランドへ渡った翌月、ソ連へ向かって進撃を始めた。その際、アドルフ・ヒトラーは軍幹部の意見を無視、ソ連を攻撃するために約300万人を投入している。西部戦線に残されたドイツ軍は約90万人にすぎなかった。(David M. Glantz, The Soviet-German War 1941-1945,” Strom Thurmond Institute of Government and Public Affairs, Clemson University, October 11, 2001)

 西からアメリカ軍やイギリス軍に攻められたなら一溜まりもなかっただろうが、そうしたことはなかった。そして1943年2月にドイツ軍はスターリングラードで降伏、その年の5月にイギリスとアメリカは慌てて協議、7月にシチリア島上陸作戦を敢行した。その際、コミュニスト対策で米英軍はマフィアと手を組む。

 スターリングラードでドイツ軍が降伏した段階で第2次世界大戦の帰趨は決したのだが、戦争はしばらく続く。その間にアレン・ダレスやライマン・レムニッツァーはナチスの幹部と善後策を大統領に無断で協議しはじめる。サンライズ作戦だ。

 そして1945年4月にフランクリン・ルーズベルト米大統領が急死、5月にドイツは降伏。その直後にチャーチルはソ連に対する奇襲攻撃を目論み、作成されたのがアンシンカブル作戦。7月1日にアメリカ軍64師団、イギリス連邦軍35師団、ポーランド軍4師団、そしてドイツ軍10師団で「第3次世界大戦」を始めるというものだったが、参謀本部がこの計画を拒否したので実行されていない。

 1945年7月16日にはアメリカのニューメキシコ州にあったトリニティ(三位一体)実験場でプルトニウム原爆の爆発実験を行い、成功した。副大統領から大統領に昇格していたハリー・トルーマンは原子爆弾の投下を7月24日に許可し、広島と長崎へ投下されたのである。8月15日には天皇の声明、いわゆる「玉音放送」とか「終戦勅語」と呼ばれるものが日本人に対して発表された。

 その声明発表から15日後、レスニー・グルーブス少将に対してローリス・ノースタッド少将はソ連の中枢15都市と主要25都市への核攻撃に関する文書を提出した。9月15日付けの文書ではソ連の主要66地域を核攻撃で消滅させるには204発の原爆が必要だと推計している。そのうえで、ソ連を破壊するためにアメリカが保有すべき原爆数は446発、最低でも123発だという数字を出した。当時、アメリカはこれだけの原発を持っていなかったのだが、その生産能力をトルーマン大統領も知らなかったという。(Lauris Norstad, “Memorandum For Major General L. R. Groves,” 15 September 1945)

 チャーチルは1945年7月26日に辞任するが、46年3月にアメリカのフルトンで「鉄のカーテン演説」を行って「冷戦」の開幕を宣言、その翌年には​アメリカのスタイルズ・ブリッジス上院議員に対し、ソ連を核攻撃するようハリー・トルーマン大統領を説得してほしいと求めている​。

 1951年4月にはニューヨーク・タイムズ紙のジェネラル・マネージャーだったジュリアス・アドラーに対し、ソ連に最後通牒を突きつけ、それを拒否したなら​20から30発の原爆をソ連の都市に落とすと脅そうと考えているとチャーチルは話した​とする文書が存在する。その半年後に彼は首相に返り咲いた。

 一方、アメリカでは1957年に軍の内部でソ連に対する先制核攻撃を準備しはじめている。(James K. Galbraith, “Did the U.S. Military Plan a Nuclear First Strike for 1963?”, The American Prospect, September 21, 1994)

 この年の初頭、アメリカ軍はソ連への核攻撃を想定したドロップショット作戦を作成、300発の核爆弾をソ連の100都市で使い、工業生産能力の85%を破壊する予定になっていた。(Oliver Stone & Peter Kuznick, “The Untold History of the United States,” Gallery Books, 2012)

 テキサス大学のジェームズ・ガルブレイス教授によると、リーマン・レムニッツァー統合参謀本部議長やSAC司令官だったカーティス・ルメイを含む好戦派は1963年の終わりに奇襲攻撃を実行する予定だったとしている。

 こうした好戦的な作戦の前に立ちはだかっていたのがジョン・F・ケネディ大統領。そのケネディは1963年11月22日に暗殺された。好戦派は暗殺の黒幕がソ連、あるいはキューバだという話を流して開戦に持って行こうとしていたが、失敗した。(つづく)
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202010270000/

2020.10.27
それでも核兵器を欲しがる人びと(3/4)
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202010270001/


日本の核兵器開発

 日本でも核兵器の研究開発は行われてきた。第2次世界大戦当時、理化学研究所の仁科芳雄を中心とした陸軍の二号研究と海軍が京都帝大と検討していたF研究が知られている。

 仁科グループは1943年1月に研究をスタートさせ、44年3月には濃縮実験を始めているが、保有するウランの絶対量が少ない。陸軍は福島県石川郡でのウラン採掘を決め、海軍は上海の闇市場で130キログラムの二酸化ウランを手に入れたという。

 その一方、ドイツから二酸化フランを運ぶ計画もあった。1945年の始めに1200ポンド(約540キログラム)の二酸化ウランをU234潜水艦で運ぼうとしたが、5月1日にアメリカの軍艦に拿捕され、乗っていた日本軍の史観は自殺、ウラン化合物はオーク・リッジへ運ばれたとされている。

 日本の支配層は戦後も核兵器の開発を諦めていない。例えば、岸信介は1957年5月に参議院で「たとえ核兵器と名がつくものであっても持ち得るということを憲法解釈」として持っていると答弁、1959年3月には参議院予算委員会で「防衛用小型核兵器」は合憲だと主張している。

 NHKが2010年10月に放送した「“核”を求めた日本」によると、佐藤栄作首相は1965年に訪米した際、リンドン・ジョンソン米大統領に対し、「個人的には中国が核兵器を持つならば、日本も核兵器を持つべきだと考える」と伝えている。1967年には「動力炉・核燃料開発事業団(動燃)」を設立した。(「“核”を求めた日本」NHK、2010年10月3日)

 NHKの番組によると、この時代、日本政府は西ドイツ政府に秘密協議を申し入れ、1969年2月に実現した。日本側から外務省の国際資料部長だった鈴木孝、分析課長だった岡崎久彦、そして調査課長だった村田良平が出席した。日独両国はアメリカから自立し、核武装によって超大国への道を歩もうと日本側は主張したのだという。

 ジャーナリストのシーモア・ハーシュによると、リチャード・ニクソン政権で大統領補佐官を務めたヘンリー・キッシンジャーは日本の核武装に前向きだった。彼はスタッフに対し、日本もイスラエルと同じように核武装をすべきだと語っていたという。(Seymour M. Hersh, “The Samson Option,” Random House, 1991)

 自衛隊も核武装の研究をしていた。1969年から71年にかけて海上自衛隊幕僚長を務めた内田一臣は、「個人的に」としているが、核兵器の研究をしていたことを告白しているのだ。実際のところ、個人の意思を超えた動きも自衛隊の内部にあったとされている。(毎日新聞、1994年8月2日)

 原爆の製造に必要なプルトニウムを製造することになっていた東海発電所の原発はGCR(黒鉛減速炭酸ガス冷却型原子炉)で、原爆用のプルトニウムを生産するには適していると言われている。アメリカやソ連はこの型の原子炉でプルトニウムを生産、原爆を製造している。

 兵器クラスのプルトニウムを製造するために重水炉や高速炉も利用できるようだが、その高速炉の開発を目指していたのが動燃だ。「もんじゅ」と「常陽」が核兵器製造システムに組み込まれていると疑われても仕方がないと言える。ちなみに、常陽の燃料を供給していたのが臨界事故を起こしたJCOだった。

 日本の動きをアメリカは警戒していると最初に指摘したのはジャーナリストで市民運動にも積極的に取り組んでいた山川暁夫。1978年6月に開かれた「科学技術振興対策特別委員会」で再処理工場の建設について発言、「核兵器への転化の可能性の問題が当然出てまいるわけであります」としている。実際、カーター政権は日本が核武装を目指していると疑い、日米間で緊迫した場面があったと言われている。

 アメリカの情報機関の内部には日本が核兵器を開発していると信じている人が少なくないようだ。日本が核武装を目指していると信じられている一因はリサイクル機器試験施設(RETF)の建設を計画したことにある。

 RETFとはプルトニウムを分離/抽出することを目的とする特殊再処理工場で、東海再処理工場に付属する形で作られることになった。常陽やもんじゅで生産した兵器級プルトニウムをRETFで再処理すれば、30発以上の核兵器を日本は製造できるということだ。

 ジャーナリストのジョセフ・トレントによると、ロナルド・レーガン政権の内部には日本の核兵器開発を後押しする勢力が存在し、東京電力福島第1原子力発電所で炉心が用揺する事故が起こった2011年当時、日本は約70トンの核兵器級プルトニウムを蓄積していたという。(Joseph Trento, “United States Circumvented Laws To Help Japan Accumulate Tons of Plutonium”)

 アメリカで核兵器開発で中心的な役割を果たしてきた施設はオーク・リッジ国立研究所やハンフォード・サイト。オーク・リッジ国立研究所の目と鼻の先でCRBR(クリンチ・リバー増殖炉)計画が1972年に始められたのだが、1977年にジミー・カーターが大統領に就任しすると核政策の変更があり、基礎的な研究計画を除いて中止になる。

 しかし、ロナルド・レーガン政権になった後の1981年に計画は復活したが、87年に議会はクリンチ・リバーへの予算を打ち切る。そこで高速増殖炉を推進していた勢力が目をつけたのが日本だ。クリンチ・リバー計画の技術を格安の値段で日本の電力会社へ売られることになる。

 その結果、毎年何十人もの科学者たちが日本からクリンチ・リバー計画の関連施設を訪れ、ハンフォードとサバンナ・リバーの施設へ入っている。中でも日本人が最も欲しがった技術はサバンナ・リバーにある高性能プルトニウム分離装置に関するもので、RETFへ送られた。そうした流れの中、1995年12月に「もんじゅ」で起こったのが冷却剤の金属ナトリウムが漏れ出るという事故。高速炉が動かなくなったため、始められたのがプルサーマル計画だ。

 2011年3月8日付のインディペンデント紙によると、​都知事だった石原慎太郎が「日本は1年以内に核兵器を開発することができる」と語った​という。その3日後、東電の福島第1原発で炉心が溶融、環境中に大量の放射性物質を放出するという大事故が引き起こされた。(つづく)
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202010270001/

2020.10.28
それでも核兵器を欲しがる人びと(4/4)
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202010270003/


使われる核兵器

 2011年3月11日に大事故を引き起こした東電の福島第1原発の警備を担当していたのはイスラエルのマグナBSP。セキュリティ・システムや原子炉を監視する立体映像カメラが原発内に設置していたと​エルサレム・ポスト紙​や​ハーレツ紙​が伝えている。

 そのイスラエルは世界有数の核兵器保有国。核兵器の研究開発はネゲブ砂漠にある原子力研究センターが中心になっている。1986年10月にサンデー・タイムズ紙が掲載したモルデカイ・バヌヌの内部告発によると、イスラエルが保有している核弾頭の数は150から200発。水素爆弾をすでに保有、中性子爆弾の製造も始めていたという。中性子爆弾は実戦で使う準備ができていたとしている。

 イスラエルの軍情報機関ERD(対外関係局)に勤務、イツァク・シャミール首相の特別情報顧問を務めた経歴を持つアリ・ベンメナシェによると、1981年に時点でイスラエルがサイロの中に保有していた原爆の数は300発以上で、水爆の実験にも成功していたという。(Seymour M. Hersh, "The Samson Option", Faber and Faber, 1991)またカーター元米大統領はイスラエルが保有する核兵器の数を150発だとしている。(BBC, May 26, 2008)

 今年8月4日にレバノンの首都ベイルートで大きな爆発があり、インターネット上に流れている映像には核爆発を思わせるキノコ雲や衝撃波が映っている。映像のいくつかには飛行物体が写っていて、最初の爆発はイスラエルが発射した対艦ミサイルガブリエル、2度目の爆発はF16が発射した核弾頭を搭載したデリラだとする説もある。爆発の様子やクレーターの存在などから小型核兵器、あるいは核物質を使った新型兵器だとも言われている。

 実は、中東で小型核兵器、あるいは核物質を使った新型兵器が使われた疑いのあるケースは今回以外にもある。2006年7月から9月にかけてのレバノン侵攻でイスラエル軍はヒズボラに敗北、その際にイスラエルが誇るメルカバ4戦車も破壊されたが、その直後にウルスター大学の​クリストファー・バスビー教授​はレバノンへ入り、残されたクレーターを調査、濃縮ウラニウムを見つけている。レバノンやガザを走っていた自動車のフィルターからもそうした物質が発見されたという。バスビー教授はイラクの2011年10月にイラクのファルージャでも調査、そこで濃縮ウラニウムが人の髪の毛や土の中から検出されたと語っている。

 日本は「唯一の被爆国」なのだろうか?(了)

https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202010270003/

2. 中川隆[-9915] koaQ7Jey 2020年11月16日 09:21:03 : BLz0NHzvgM : YkJpTDl1aDM1Uy4=[6] 報告
2020.11.16
57年前の11月22日にあったケネディ大統領の暗殺と今年のパンデミック宣言
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202011160000/

 歴史の節目になる出来事がある。1963年11月22日のジョン・F・ケネディ大統領暗殺がそうした出来事のひとつだということは間違いないだろう。あと6日でそれから57年ということになる。

 テキサス大学のジェームズ・ガルブレイス教授(経済学者ジョン・ケネス・ガルブレイスの息子)によると、アメリカの軍や情報機関の好戦派は​1963年後半にソ連を先制核攻撃する計画​を立てていた。そのタイミングでケネディ大統領は暗殺されたわけだ。

 この攻撃計画は「冷戦」が原因ではない。ソ連を殲滅したいという願望が冷戦を生み出したと言うべきだろう。

 第2次世界大戦中、アメリカのフランクリン・ルーズベルト大統領が反ファシストだったのに対し、イギリスのウィンストン・チャーチル首相はロスチャイルドをスポンサーとする反コミュニストだった。ドイツがソ連へ攻め込んでいたとき、西側が圧倒的に手薄だったドイツにイギリスが攻め込まなかったのはそのためだ。

 動き出すのはドイツ軍がスターリングラードでの戦いで敗北、1943年2月に降伏してから。その年の5月に米英の首脳は会談、7月にシチリア島上陸作戦を敢行した。その際、コミュニスト対策でマフィアと手を組んでいる。

 スターリングラードでドイツ軍の主力が降伏した段階で第2次世界大戦の帰趨は決したのだが、そのまま戦争を終えると反ファシストのルーズベルト大統領がドイツに対して厳しい姿勢に出るだけでなく、ファシストと裏で手を組んでいたウォール街(金融資本)の責任を問うことが予想された。

 勿論、そうした展開にはならなかった。金融資本の代理人、つまりウォール街の弁護士でOSSの幹部だったアレン・ダレスたちが大統領に無断でドイツ側と接触して善後策を協議、その間は戦争を継続させた。ドイツが降伏するのはルーズベルトが急死した翌月の1945年5月のことだ。

 その直後、チャーチルはJPS(合同作戦本部)に対してソ連を奇襲攻撃するための作戦を立てるように命令、7月1日にアメリカ軍64師団、イギリス連邦軍35師団、ポーランド軍4師団、そしてドイツ軍10師団で「第3次世界大戦」を始めるという内容のアンシンカブル作戦が提出されている。この作戦が実行されなかったのは参謀本部が拒否したからだと言われている。(Stephen Dorril, “MI6”, Fourth Estate, 2000)

 第2次世界大戦中、アメリカでは原子爆弾の開発が進められていた。マンハッタン計画だが、それを統括していたアメリカ陸軍のレスニー・グルーブス少将は1944年、ポーランドの物理学者ジョセフ・ロートブラットに対し、計画は最初からソ連との対決が意図されていると語ったという。(Daniel Ellsberg, “The Doomsday Machine,” Bloomsbury, 2017)

 1945年7月16日にアメリカのニューメキシコ州にあったトリニティ実験場でプルトニウム原爆の爆発実験が実施され、成功した。副大統領から大統領に昇格していたハリー・トルーマンは原子爆弾の投下を7月24日に許可し、広島と長崎へ投下されたのである。この後、対ソ連戦の軸は核攻撃へ移行する。

 1945年8月15日に天皇の声明、いわゆる「玉音放送」とか「終戦勅語」と呼ばれるものが日本人に対して発表されたが、それから半月ほど後にローリス・ノースタッド少将はグルーブス少将に対し、ソ連の中枢15都市と主要25都市への核攻撃に関する文書を提出した。9月15日付けの文書ではソ連の主要66地域を核攻撃で消滅させるには204発の原爆が必要だと推計、そのうえでソ連を破壊するためにアメリカが保有すべき原爆数は446発、最低でも123発だという数字を出した。(Lauris Norstad, “Memorandum For Major General L. R. Groves,” 15 September 1945)

 ガルブレイス教授によると、キューバ侵攻作戦に失敗した3カ月後の1961年7月、ベルリンで緊張が高まる中、軍や情報機関の幹部はNSC(国家安全保障会議)でケネディ大統領に対し、1963年後半に先制核攻撃を実施する計画について説明した。そのタイミングなら十分な数のICBMを準備でき、しかもソ連は対抗手段の準備ができていないと主張したのだが、大統領から拒否されている。(Peter Janney, “Mary’s Mosaic,” Skyhorse, 2013)

 1961年11月にケネディ大統領はキューバの体制を不安定化させる目的でマングース作戦を承認している(William Colby, “Honorable Men”, Simon & Schuster, 1978)が、そのタイミングでCIAのアレン・ダレス長官や秘密工作部門の責任者だったリチャード・ビッセル計画局長を解任、チャールズ・キャベル副長官も62年1月に辞めさせられている。

 1962年8月にCIAの偵察機U2がキューバに対空ミサイルSA2の発射施設があることを発見した。当時、国防長官を務めていたロバート・マクナマラは1998年のインタビューで、約162発の核弾頭がキューバへすでに持ち込まれていて、そのうち約90発は軍事侵略してくるアメリカ軍に対して使われる戦術核だった。

 カーチス・ルメイを中心とする軍の強硬派はケネディ大統領に対し、運び込まれたミサイルを空爆で破壊すべきだと主張するが、それを大統領は退け、10月22日にテレビでキューバにミサイルが存在する事実を公表、海上封鎖を宣言した。戦略空軍はDEFCON3(通常より高度な防衛準備態勢)へ引き上げ、24日には一段階上のDEFCON2にする一方、ソ連を空爆する準備をしている。

 ソ連軍の潜水艦が輸送船を警護していたが、アメリカ海軍の空母ランドルフを中心とする艦隊の駆逐艦ビールが10月27日にソ連の潜水艦に対して爆雷を投下した。

 攻撃を受けた潜水艦の副長は参謀へ連絡しようとするが失敗、アメリカとソ連の戦争が始まったと判断した艦長は核魚雷の発射準備に同意するようにふたりの将校に求めた。たまたま乗り合わせていた旅団参謀が発射の同意を拒否したので核魚雷は発射されなかったが、その威力は広島に落とされた原爆と同程度で、もし発射されていたなら、現場にいたアメリカの艦隊は全滅、核戦争に突入した可能性が高い。(Oliver Stone & Peter Kuznick, “The Untold History of the United States,” Gallery Books, 2012 / Daniel Ellsberg, “The Doomsday Machine,” Bloomsbury USA, 2017)

 この危機を外交的に解決したケネディ大統領は1963年6月10日にアメリカン大学の卒業式で「平和の戦略」と呼ばれる演説を行い、パックス・アメリカーナを否定した上でソ連と平和共存する道を歩き始めると宣言した。その5カ月後にケネディ大統領はテキサス州ダラスで暗殺された。

 2001年9月11日にニューヨークの世界貿易センターとバージニア州アーリントンの国防総省本部庁舎に対する攻撃も歴史の節目になった出来事。それを利用してアメリカの支配者は国内でファシズム化を進め、国外で侵略戦争を本格化させた。今年3月11日にWHOが行ったパンデミック宣言はこれに匹敵する出来事だ。

https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202011160000/

3. 中川隆[-9434] koaQ7Jey 2020年12月08日 10:24:23 : lLc7YEFIro : MUlJdEVVZjhSQ2c=[9] 報告


2020.12.08
グローバルNATOに組み込まれ、中国やロシアと戦争する道を進む日本
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202012080001/

 日本、アメリカ、フランスは来年5月に合同軍事訓練を実施、またイギリス海軍が空母クイーン・エリザベスを中心とする空母打撃群を来年初めにも南西諸島周辺を含む西太平洋へ派遣すると伝えられている。こうした場合、日本政府は尖閣諸島の領有権問題を口実に使うが、勿論、表面的な口実にすぎない。

 本ブログではすでに書いたことだが、アメリカとその従属国はグローバルNATOなる戦略を打ち出している。その内容はNATOの事務総長を務めるイェンス・ストルテンベルグが説明した通りだろう。

 ストルテンベルグは今年6月8日、NATO2030なるプロジェクトを始めると宣言した。NATO(北大西洋条約機構)の活動範囲を太平洋へ広げ、オーストラリア、ニュージーランド、韓国、そして日本を巻き込む計画を明らかにしたのだ。

 11月17日にオーストラリアのスコット・モリソンは東京で菅義偉首相と会談、その後で両者は日本とオーストラリアが相互アクセス協定(RAA)の大筋で合意したと発表し、その日にアメリカ、オーストラリア、インド、そして日本の4カ国の海軍が北アラビア海で艦隊演習を開始した。NATO2030は始動している。

 NATOは1949年4月に創設された軍事同盟で、最初のメンバー国はアメリカ、カナダ、イギリス、フランス、イタリア、ポルトガル、デンマーク、ノルウェー、アイスランド、ベルギー、オランダ、そしてルクセンブルク。

 アメリカは1951年9月1日にオーストラリアやニュージーランドとサンフランシスコのプレシディオでANZUS条約に調印、同年9月8日には日本と同じ場所で安保条約に調印している。このふたつの軍事同盟をアメリカは一体化させようとしているのだろう。

 NATOが組織された表面的な目的はソ連軍の侵攻に備えることだが、その当時のソ連に西ヨーロッパへ攻め込む能力はなかった。ドイツとの戦いで疲弊していたからだ。

 イギリスの首相を務めていたウィンストン・チャーチルはドイツが降伏した直後、JPS(合同作戦本部)に対してソ連を奇襲攻撃するための作戦を立てるように命令、アンシンカブル作戦が作成された。

 その作戦によると、7月1日にアメリカ軍64師団、イギリス連邦軍35師団、ポーランド軍4師団、そしてドイツ軍10師団で「第3次世界大戦」を始めることになっていた。この作戦が実行されなかったのは参謀本部が拒否したからだと言われている。

 その当時、イギリスとアメリカは原子爆弾の開発が進められていた。マンハッタン計画だが、それを統括していたアメリカ陸軍のレスニー・グルーブス少将は1944年、ポーランドの物理学者ジョセフ・ロートブラットに対し、計画は最初からソ連との対決が意図されていると語ったという。(Daniel Ellsberg, “The Doomsday Machine,” Bloomsbury, 2017)

 アメリカのフランクリン・ルーズベルト大統領は反ファシズムで、反コミュニストでロスチャイルド系金融機関と関係が深いチャーチルよりソ連のヨシフ・スターリンに近かったと言われている。ルーズベルトが1945年4月に急死した際、スターリンはチャーチルに毒殺されたのではないかと疑ったとも言われている。

 アンシンカブル作戦が中止になった後、1945年7月16日にアメリカのニューメキシコ州にあったトリニティ実験場でプルトニウム原爆の爆発実験が実施されて成功、副大統領から大統領に昇格していたハリー・トルーマンは原子爆弾の投下を7月24日に許可し、広島と長崎へ投下された。これはソ連を意識した爆撃だった。

 この当時、アメリカにはチャーチルの仲間がいた。1933年から34年にかけてルーズベルトを排除してファシズム政権を樹立させるクーデターを計画したウォール街の金融機関を中心とする富豪たちだ。

 こうしたイギリスやアメリカの支配者はユーラシア大陸の周辺部を支配して内陸部を締め上げるという長期戦略を持っている。おそらく19世紀には存在していた。それをまとめ、1904年に発表したのが地政学の父と呼ばれるハルフォード・マッキンダーだ。

 マッキンダーの理論の詳細は割愛するが、ジョージ・ケナンの「封じ込め政策」やズビグネフ・ブレジンスキーの「グランド・チェスボード」もその戦略に基づいている。アメリカはその戦略を実行する軍事的な主体をグローバルNATOにしようとしているわけだ。それがNATO2030。

 こうした戦略のターゲットには中国だけでなくロシアも含まれる。ここにきてロシアは択捉島に防空システムS-400V4を配備したというが、アメリカ側の動きを考えれば当然だろう。

 ソ連が消滅した直後の1992年2月、国務次官だったネオコンのポール・ウォルフォウィッツを中心に国防総省ではDPG草案という形で世界制覇プランが作成された。いわゆるウォルフォウィッツ・ドクトリンである。

 そのドクトリンに基づき、1995年2月にジョセイフ・ナイ国防次官補は「東アジア戦略報告(ナイ・レポート)」を発表、それ以降、日本はアメリカの戦争マシーンに組み込まれてきた。そして現在、アメリカの支配者によって自衛隊は中国軍やロシア軍と対峙させられようとしている。「新型コロナウイルス」という蜃気楼に怯えていられるような状況ではないのだ。

https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202012080001/

4. 中川隆[-7443] koaQ7Jey 2021年2月11日 23:50:58 : 4NNV0iO1eY : UEpNaGVuUURxYTI=[25] 報告
2021.02.11
妄想で「建国記念の日」を制定する国
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202102110000/


 日本では2月11日を「建国記念の日」としている。どの国でも祝日にはその国のあり方が反映されているが、特に「建国」はそうした意味合いが強い。

 日本は第2次世界大戦で敗北、生まれ変わったことになっている。ポツダム宣言の受諾、つまり無条件降伏を決め、その事実を同盟通信の海外向け放送で明らかにしたのは8月10日。14日には受諾を通告、16日に日本軍は停戦命令を出し、9月2日に政府全権の重光葵と軍全権の梅津美治郎が降伏文書に調印した。その間、8月15日に「玉音放送」、あるいは「終戦勅語」と呼ばれている昭和天皇の朗読がラジオで流されている。

 降伏後の日本は連合国軍、事実上アメリカ軍に占領された。この状態が解消されたのは1951年9月8日。サンフランシスコのオペラハウスで「対日平和条約」が結ばれ、同じ日にプレシディオ(第6兵団が基地として使っていた)で日米安保条約が調印された。平和条約の発効は翌年の4月28日。

 9月2日、9月8日、4月28日などを「建国記念の日」にしても良さそうだが、そうしなかった。憲法の施行を「建国」と考えることもできるが、5月3日を憲法記念日にしている。この日が「建国記念の日」にされることを回避するためだという見方もありえる。そして「紀元節」を復活させた。

 ところで、講和会議には日本を含む52カ国が出席したものの、中国の代表は招請されず、インド、ビルマ(現在のミャンマー)、ユーゴスラビアの3カ国は出席せず、ソ連、ポーランド、チェコスロバキアは調印式に欠席した。

 対日平和条約の調印式には日本側から首相兼外相の吉田茂、蔵相の池田勇人、衆議院議員の苫米地義三、星島二郎、参議院議員の徳川宗敬、そして日銀総裁の一万田尚登が出席した。安保条約の署名式には吉田ひとりが出席している。

 この年の4月、ウィンストン・チャーチルはニューヨーク・タイムズ紙のジェネラル・マネージャーだったジュリアス・アドラーに対し、ソ連に最後通牒を突きつけ、それを拒否したなら20から30発の原爆をソ連の都市に落とすと脅そうと考えていると話している。​そうした会話があったとする文書​が存在するのだ。

 1945年4月にアメリカのフランクリン・ルーズベルト大統領が急死、5月にドイツは降伏するが、その直後にチャーチルはイギリスの首相としてソ連を奇襲攻撃する計画をJPS(合同作戦本部)にたてさせた。そして作成されたのがアンシンカブル作戦。

 その作戦では7月1日にアメリカ軍64師団、イギリス連邦軍35師団、ポーランド軍4師団、そしてドイツ軍10師団でソ連を攻撃、「第3次世界大戦」を始めることになっていた。この計画が実行されなかったのは参謀本部が拒否したからだ。

 アメリカの原子爆弾開発もチャーチルに影響を与えた可能性があるだろう。7月16日にアメリカのニューメキシコ州にあったトリニティ(三位一体)実験場でプルトニウム原爆の爆発実験を行い、成功したのだ。副大統領から大統領に昇格していたハリー・トルーマンは原子爆弾の投下を7月24日に許可した。チャーチルはその2日後に下野した。8月6日に広島、9日には長崎へ原爆が投下される。

 マンハッタン計画を統括していたアメリカ陸軍のレスニー・グルーブス少将は1944年、ポーランドの物理学者ジョセフ・ロートブラットに対し、計画は最初からソ連との対決が意図されていると語ったという。日本の降伏を早めるために広島と長崎へ原爆を投下したわけではなく、ソ連との戦争を始めたということだ。(Daniel Ellsberg, “The Doomsday Machine,” Bloomsbury, 2017)

 8月末にローリス・ノースタッド少将はグルーブス少将に対し、ソ連の中枢15都市と主要25都市への核攻撃に関する文書を提出した。9月15日付けの文書ではソ連の主要66地域を核攻撃で消滅させるには204発の原爆が必要だと推計している。そのうえで、ソ連を破壊するためにアメリカが保有すべき原爆数は446発、最低でも123発だという数字を出した。(Lauris Norstad, “Memorandum For Major General L. R. Groves,” 15 September 1945)

 チャーチルがアメリカのフルトンで「鉄のカーテン演説」を行い、「冷戦」の開幕を宣言したのは1946年3月5日。その翌年には​アメリカのスタイルズ・ブリッジス上院議員に対し、ソ連を核攻撃するようハリー・トルーマン大統領を説得してほしいと求めている​。そしてアドラーに対する発言が続く。

 アメリカでは1957年に軍の内部でソ連に対する先制核攻撃を準備しはじめている。(James K. Galbraith, “Did the U.S. Military Plan a Nuclear First Strike for 1963?”, The American Prospect, September 21, 1994)

 この年の初頭、アメリカ軍はソ連への核攻撃を想定したドロップショット作戦を作成、300発の核爆弾をソ連の100都市で使い、工業生産能力の85%を破壊する予定になっていた。(Oliver Stone & Peter Kuznick, “The Untold History of the United States,” Gallery Books, 2012)

 テキサス大学のジェームズ・ガルブレイス教授によると、リーマン・レムニッツァー統合参謀本部議長やSAC司令官だったカーティス・ルメイを含む好戦派は1963年の終わりに奇襲攻撃を実行する予定だったとしている。

 そうした流れの中、日本はアメリカを中心とする国々と平和条約を締結し、アメリカと安保条約を結んだのである。アメリカが1950年代に沖縄を軍事基地化したのもソ連や中国を攻撃する準備であり、核兵器が持ち込まれたのは必然。その当時、アメリカはソ連や中国を核攻撃するつもりだったのであり、沖縄はそのための拠点と考えられた。「核の傘」という議論は妄想に基づくものだ。

 「建国記念の日」は「紀元節」の言い換えだが、この「紀元節」が定められたのは1873年10月のこと。『日本書紀』を引っ張り出し、神武天皇が即位した日を割り出し、1872年12月には1月29日だと決められたという。ところが1月29日では旧暦(太陰暦)の1月1日になり、「旧正月を祝う日」だと考える人が多くなってしまう。そこで日付を変えることにしたようだ。孝明天皇が1867年1月30日に死亡しているので、紀元節と孝明天皇の命日が近いことも日付変更の一因になったと言われている。

 ちなみに、日本書紀によると神武天皇が橿原宮で即位したのは「辛酉年春正月庚辰朔」(辛酉の年の正月1日、庚辰の日)、西暦では紀元前660年に相当する。つまり縄文時代の晩期、あるいは弥生時代の前期ということになる。

 妄想に基づいて2月11日を「建国記念の日」や「紀元節」と決めたということだが、それは近代日本の姿を示している。

https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202102110000/

5. 中川隆[-7348] koaQ7Jey 2021年2月15日 15:58:27 : JYhYYeXb2g : TDJnVUk4OGtjaHc=[23] 報告
2021.02.14
米英の対ロシア戦略におけるポーランドの役割(2/4)
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202102140001/

 ポーランドの一部は帝政ロシアやソ連を弱体化させるため、その内部に住む少数派を支援してきた。ユゼフ・ピウスツキが始めた「プロメテウス主義」である。ピウスツキは日露戦争が始まった1904年に来日しているが、その目的もそこにあった。

 第1次世界大戦と第2次世界大戦の間にピウスツキは別のプランを考えている。バルト海とエーゲ海で挟まれた中央ヨーロッパをカトリックで統一しようという「インターマリウム」だ。

 第2次世界大戦後、ナチスの大物や協力者を逃走させるために「ラットライン」が作られたが、その工作に参加していたカトリックのクルノスラフ・ドラゴノビッチ神父が夢想していた「現代版神聖ローマ帝国」ともインターマリウムは重なる。

 ポーランドの反ロシア運動を引き継いだのがウラジスラフ・シコルスキー将軍。1939年9月にドイツ軍がポーランドへ軍事侵攻するが、その直後にシコルスキーはパリへ脱出して亡命政権を名乗り、翌年6月にはイギリスのウィンストン・チャーチルと会談している。その際、ポーランドがイギリスと一緒に戦うことを約束、亡命政権はロンドンへ移動した。

 ドイツ軍によるポーランドへの侵攻は領土問題が関係している。第1次世界大戦後にドイツ本国と東プロイセンの間にポーランド領(ポーランド回廊)ができ、東プロイセンは飛び地になっていたのだ。

 その問題を解決するため、ドイツは住民投票を実施してドイツへ回廊を返還する意見が多ければ返還、その際にドイツはポーランドに鉄道やバルト海へ通じる高速道路を渡すという案を出した。

 その案をポーランドは受け入れ、1939年3月21日に同国のジョセフ・ベック外相がドイツの首都ベルリンを訪問することになるが、姿を現さなかった。ロンドンへ向かったのだ。その日、ロンドンではコントロール不能になったヒトラーをどうするかについて討議するため、各国の指導者が集まっていた。

 参加国はドイツに共同して対抗するかどうかを議論、フランスはすぐに同意、ソ連はフランスとポーランドが署名することを条件に同意したが、ポーランドのベック外相はドイツよりソ連が脅威だという理由で24日にそのプランを拒否した。そして26日にポーランドはドイツに対して回廊を返還しないと通告、ドイツ軍はポーランドへ軍事侵攻することになるのだが、こうした経緯はアメリカやイギリスを中心とする体制を支持する勢力にとっては広まって欲しくない話だろう。(続く)
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202102140001/


2021.02.14
米英の対ロシア戦略におけるポーランドの役割(3/4)
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202102140001/


 ウラジスラフ・シコルスキーの側近だったユセフ・レッティンゲルはヨーロッパをイエズス会の指導の下で統一したいと望んでいた。イエズス会が支配するインターマリウムを作りたかったのだろう。そのレッティンゲルは第2次世界大戦後、オランダ女王の夫であるベルンハルト殿下と「ビルダーバーグ・グループ」を創設している。

 このグループには上部機関が存在した。ヨーロッパ統合を目的として1948年に創設されたACUE(ヨーロッパ連合に関するアメリカ委員会)である。委員長を務めたのはウォール街の弁護士でOSS(CIAの前身)の長官だったウィリアム・ドノバン、副委員長はやはりウォール街の弁護士だったアレン・ダレス。委員会のスポンサーはフォード財団やロックフェラー財団などだ。NATO(北大西洋条約機構)が創設されたのはACUE設立の翌年、1949年のことだった。

 NATO創設の目的はソ連軍の侵略に対抗するためだとされているが、その当時のソ連には西ヨーロッパに攻め込む能力はない。何しろ、ドイツとの戦闘でソ連の国民は2000万人以上が殺され、工業地帯の3分の2を含む全国土の3分の1が破壊され、惨憺たる状態だったのである。実際はヨーロッパの統合、つまりヨーロッパの支配が目的だったと考えるべきだろう。

 大戦中、西ヨーロッパでドイツ軍と戦っていたのはレジスタンス。その主力はコミュニストだった。ウォール街やシティの支配者にとってコミュニストは目障りだ。

 そこで、アメリカとイギリスの情報機関は大戦の終盤、ジェドバラというゲリラ戦の組織を作った。その人脈は戦後も生き続け、アメリカでは軍の特殊部隊や情報機関の破壊工作部門になる。

 ジェドバラの人脈はヨーロッパにもネットワークを築く。1948年頃にはCCWU(西側連合秘密委員会)という組織が統括、NATOができてからはその新組織に吸収され、CPC(秘密計画委員会)が指揮することになる。その下部組織としてACC(連合軍秘密委員会)が1957年に設置され、NATOの秘密ネットワークを動かすことになった。NATOへ加盟するためには秘密の反共議定書にも署名する必要があると言われている。(Philip Willan, “Puppetmaster”, Constable, 1991)

 こうしたネットワークの中で最も知られているのはイタリアのグラディオだろう。1960年代から80年代にかけての時期、「極左」を装って爆弾テロを繰り返していた。人びとを恐怖させ、その恐怖と左翼を結びつけようとしたのだが、これは成功した。

 フランスで人気があったシャルル・ド・ゴールはコミュニストでなかったが、レジスタンスに参加していた。つまりアメリカやイギリスの支配者にとって目障りな存在だ。そのド・ゴールを敵視する秘密組織OAS(秘密軍事機構)が1961年に創設される。OASへ資金を流していたパイプのひとつ、パーミンデックスはジョン・F・ケネディ大統領暗殺でも名前が出てくる。

 フランスの内務大臣だったエドアル・ドプは1947年6月、政府を不安定化するため、右翼の秘密部隊が創設されたと語っている。その年の7月末か8月6日には米英両国の情報機関、つまりCIAとMI6と手を組んで秘密部隊はクーデターを実行する予定で、シャルル・ド・ゴールを暗殺する手はずになっていたとされた。

 OASは1961年4月にスペインのマドリッドで秘密会議を開き、アルジェリアでのクーデターについて話し合っている。アルジェリアの主要都市を制圧した後でパリを制圧するという計画で、4月22日にクーデターは実行に移される。

 CIAはクーデターを支援していたのだが、ジョン・F・ケネディ大統領はジェームズ・ガビン駐仏大使に対し、必要なあらゆる支援をする用意があるとド・ゴールへ伝えるように命じた。アルジェリアにいるクーデター軍がパリへ侵攻してきたならアメリカ軍を投入するということだ。CIAは驚愕、クーデターは4日間で崩壊した。(David Talbot, “The Devil’s Chessboard,” HarperCollins, 2015)

 その後、ド・ゴール大統領はフランスの情報機関SDECEの長官を解任、第11ショック・パラシュート大隊を解散させる。OASは1962年に休戦を宣言するが、ジャン-マリー・バスチャン-チリー大佐に率いられた一派は同年8月22日にパリで大統領の暗殺を試みたものの、失敗。暗殺計画に加わった人間は9月にパリで逮捕された。全員に死刑判決が言い渡されたが、実際に処刑されたのはバスチャン-チリー大佐だけだ。

 暗殺未遂から4年後の1966年にフランス軍はNATOの軍事機構から離脱、翌年にはSHAPE(欧州連合軍最高司令部)をパリから追い出す。フランスがNATOの軍事機構へ一部復帰すると宣言したのは1995年のこと。NATOへの完全復帰は2009年にニコラ・サルコジ政権が決めている。この段階でフランスもアメリカの属国になった。(続く)
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202102140001/

6. 中川隆[-5231] koaQ7Jey 2021年4月26日 09:29:32 : ONH563Cklw : N3U4Nzd3QWZkeS4=[5] 報告
2021.04.26
バイデンが始めようとしている「第2の冷戦」も下には全面核戦争が隠されている
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202104250000/


 ジョー・バイデンがアメリカ大統領に就任してから「第2の冷戦」に突入すると言う人が増えたようだが、「第1の冷戦」とは何だったのだろうか。

 その始まりは1946年3月にウィンストン・チャーチルがアメリカのフルトンで行った「鉄のカーテン演説」だと考えられている。バルト海のステッティンからアドリア海のトリエステにいたる「鉄のカーテン」が存在していると語った。この「カーテン」はイギリスが属す地域とソ連の影響下にある地域を分けているというわけである。

 チャーチルは第2次世界大戦で日本が降伏する前からソ連を殲滅しようとしていた。フランクリン・ルーズベルト米大統領は1945年4月に急死するが、その翌月にドイツは降伏する。その直後にチャーチルはソ連に対する奇襲攻撃を目論み、JPS(合同作戦本部)に対してソ連を奇襲攻撃するための作戦を立てるように命令した。

 そしてできあがったのが「アンシンカブル作戦」だ。1945年7月1日にアメリカ軍64師団、イギリス連邦軍35師団、ポーランド軍4師団、そしてドイツ軍10師団で「第3次世界大戦」を始めるという内容だった。この作戦が実行されなかったのは参謀本部が拒否したからだと言われている。(Stephen Dorril, “MI6”, Fourth Estate, 2000)

 ドイツが降伏したのは1945年5月だが、ドイツ軍の主力がスターリングラードで降伏した1943年1月に敗北は決定的だった。ドイツ軍がソ連への軍事侵略を開始したのは1941年6月のこと。その際に約300万人が投入され、西部戦線に残ったドイツ軍は約90万人だった。こうした不自然な振り分けはアドルフ・ヒトラーの命令によるもので、彼は西から攻めてこないここと知っていたのではないかと推測する人もいる。

 スターリングラーでのドイツ軍敗北に慌てたイギリスとアメリカはその年の5月に協議、両国軍は1943年7月にシチリア島へ上陸している。第2次世界大戦中、西ヨーロッパでドイツ軍と戦っていたのは事実上、レジスタンスだけだったが、その主力はコミュニスト。そこでシチリア島でもコミュニストが強く、アメリカ軍はコミュニスト対策として犯罪組織と手を組んだ。ハリウッド映画の宣伝で有名なノルマンディー上陸作戦(オーバーロード作戦)は1944年6月のことだ。

 スターリングラードでドイツ軍が敗北した後、ナチスの幹部はアメリカの戦時情報機関OSSの幹部としてスイスにいたウォール街の弁護士、アレン・ダレスと接触している。これはルーズベルト大統領に無断で行われていた。

 ダレスたちはナチスの元高官や協力者をラテン・アメリカへ逃がすためにラットラインを作り、大戦後、国務省やCIAはそうした人びとやドイツの科学者を雇い入れる。ブラッドストーン作戦とペーパークリップ作戦だ。そもそもナチスを資金面から支えていたのはイギリスやアメリカの巨大金融資本、つまりシティやウォール街だ。

 そうした中、ダレスたちにとっては好都合なことに、反ファシストのルーズベルトが急死、チャーチルはソ連への奇襲攻撃も目論んだわけである。

 1940年代の前半、アメリカとイギリスは原子爆弾の製造を目的とする「マンハッタン計画」が進められていた。1945年7月16日にはアメリカのニューメキシコ州にあったトリニティ(三位一体)実験場でプルトニウム原爆の爆発実験が行われ、成功している。この日程はポツダム会談が始まる前日に行いたいというハリー・トルーマンの求めで決められていた。

 この成功を受けてトルーマンは原爆を実戦で使用することを許可。7月26日にポツダム宣言が発表され、8月6日に広島へウラン型が、9日には長崎へプルトニウム型原爆がそれぞれ投下された。1945年末までに広島では約14万人、長崎では7万4000人程度が死亡したと言われているが、晩発性の放射線障害による犠牲者を含めれば数字はさらに膨らむ。

 マンハッタン計画を統括していたアメリカ陸軍のレスニー・グルーブス少将は1944年、ポーランドの物理学者ジョセフ・ロートブラットに対し、計画は最初からソ連との対決が意図されていると語ったという。(Daniel Ellsberg, “The Doomsday Machine,” Bloomsbury, 2017)

 日本の降伏を早めるために広島と長崎へ原爆を投下したわけではなく、ドイツ軍がソ連に攻め込んでいた最中にイギリスとアメリカはソ連に対する核攻撃の準備を始めたということになる。ドイツ軍が優勢だった時に米英両国軍が動かなかったのは必然だった。

 ポツダム宣言が発表された1945年7月26日にチャーチルは下野、そして「鉄のカーテン演説」を行ったのだが、1947年にはアメリカの​スタイルズ・ブリッジス上院議員に対し、ソ連を核攻撃するようハリー・トルーマン大統領を説得してほしいと求めている​。

 ソ連を核兵器で壊滅させたいというチャーチルの思いはその後も消えない。彼は1951年4月に自宅でニューヨーク・タイムズ紙のジェネラル・マネージャーだったジュリアス・アドラーに対し、​ソ連に最後通牒を突きつけ、それを拒否したなら20から30発の原爆をソ連の都市に落とす​と言って脅そうと考えているとしていた。このことを示す文書が発見されている。その半年後にチャーチルは首相へ返り咲く。

 アメリカにも核攻撃を望む人がいた。例えば1945年8月末にローリス・ノースタッド少将はグルーブス少将に対し、ソ連の中枢15都市と主要25都市への核攻撃に関する文書を提出。9月15日付けの文書ではソ連の主要66地域を核攻撃で消滅させるには204発の原爆が必要だと推計している。そのうえで、ソ連を破壊するためにアメリカが保有すべき原爆数は446発、最低でも123発だという数字を出した。(Lauris Norstad, “Memorandum For Major General L. R. Groves,” 15 September 1945)

 1949年に出されたJCS(統合参謀本部)の研究報告には、ソ連の70都市へ133発の原爆を落とすと書かれている。1952年11月には初の水爆実験を成功させ、1954年にSAC(戦略空軍総司令部)は600から750発の核爆弾をソ連に投下、118都市に住む住民の80%、つまり約6000万人を殺すという計画を立てる。1957年に作成された「ドロップショット作戦」では300発の核爆弾をソ連の100都市で使い、工業生産能力の85%を破壊する予定になっていた。(Oliver Stone & Peter Kuznick, “The Untold History of the United States,” Gallery Books, 2012)

 水爆実験は1953年8月にソ連も成功させたが、放射性物質の分析から技術的にはソ連が上だということが後に判明する。それでもアメリカ支配層が先制核攻撃に積極的だった理由は核弾頭の数とその運搬手段で圧倒しているという判断があったからだ。

 核弾頭をターゲットまで運ぶためには戦略爆撃機かICBM(大陸間弾道ミサイル)が必要なのだが、1959年の時点でソ連は事実上、このタイプのミサイルを保有していなかった。アメリカが必要なICBMを準備でき、しかもソ連が準備できていないタイミングで先制核攻撃をすると考えた好戦派の中には統合参謀本部議長だったライマン・レムニッツァーや空軍参謀長だったカーティス・ルメイが含まれる。​彼らは1963年後半に先制攻撃する計画を立てた​。

 アメリカの核攻撃計画をソ連もつかんでいたはず。ソ連はICBMの問題をアメリカの近くに中距離ミサイルは配備するという方法で解決しようとした。ソ連はキューバへ中距離ミサイルを持ち込んだのだ。この動きは1962年10月に発覚する。

 アメリカの軍や情報機関の好戦派は即時攻撃をジョン・F・ケネディ大統領に要求したが、大統領は話し合いで解決する道を選び、成功させた。1963年後半に予定した先制核攻撃計画でもケネディ大統領は大きな障害になる。その障害が取り除かれたのは1963年11月22日のことだ。大統領がダラスで暗殺されたのだ。暗殺の直後、CIAはソ連やキューバが黒幕だとする偽情報を流したが、米ソ開戦には至らなかった。

 冷戦は新しい戦争ではなく、ナチスが敗れたソ連との戦いの新しいステージにすぎない。ナチスが登場する前のドイツはソ連と友好的な関係にあった。ロシアの十月革命以降、ソ連と戦ってきたのはイギリスにほかならない。

 その冷戦は核戦争の動きを覆い隠していたが、実際はいつ熱戦になっても不思議ではなかった。核戦争を始めようとしていたのはイギリスやアメリカ。日本ではアメリカの核兵器について「核の傘」と表現するが、これは根本的に間違っている。「核の槍」なのである。

 ところで、ケネディ大統領に再任を拒否された好戦派で新イギリス貴族のライマン・レムニッツァーは1955年から57年にかけて琉球民政長官を務めている。沖縄では1953年に布令109号「土地収用令」が公布/施行され、武装したアメリカ兵を動員した暴力的な土地接収が行われていた。いわゆる「銃剣とブルドーザー」による接収だ。沖縄の軍事基地かは核攻撃の準備だったと言える。

https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202104250000/

7. 中川隆[-12555] koaQ7Jey 2023年5月25日 09:31:22 : hkS8l6HytQ : d1R1YmlNR0lWLlE=[10] 報告
<■160行くらい→右の▽クリックで次のコメントにジャンプ可>
2023.05.25XML
豪労働党は米国の核戦略に従い、原潜を環境規制法案の対象から外す法案を提出
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202305250000/

 ​オーストラリアの労働党は原子力潜水艦を環境保護の法的規制の対象外にするため、「国防法改訂法案」を議会に提出​したという。原子力発電所は1998年に制定された「オーストラリア放射線防護および原子力安全法」と1999年に制定された「環境保護および生物多様性保全法」の規制を受けているが、その規制から原潜を外すということだ。

 この法案はオーストラリアがアメリカやイギリスと創設した軍事同盟AUKUSと関係している。2021年9月に創設が発表された際、アメリカとイギリスはオーストラリアに原潜の艦隊を建造させるために必要な技術を提供するとも伝えられ、ジョー・バイデン米大統領はオーストラリアへ売却する3隻のバージニア級原子力潜水艦を2030年代の初めに建造すると語っている。その潜水艦を動かすためにはアメリカの軍人が乗り込む必要があり、事実上、アメリカ海軍の潜水艦になるという。

 この計画は日本とも関係している。山上信吾オーストラリア駐在大使はキャンベラのナショナル・プレス・クラブで2022年11月14日、日本がオーストラリアの原子力潜水艦を受け入れる可能性があると表明しているのだ。

 アメリカ、イギリス、オーストラリアはアングロ・サクソン系の国だが、日本は明治維新以来、アメリカやイギリスの金融資本から強い影響を受けてきた。アメリカは2018年5月に「太平洋軍」を「インド・太平洋軍」へ編成替えしたが、この新体制でも日本の軍事的な役割は重要だとされている。

 アメリカ、イギリス、オーストラリアに日本とインドを加えた5カ国で「クワド」と呼ばれる軍事同盟が作られているが、インドは腰が引けていて、ロシア製の防空システムS-400の購入を諦めていない。

 中東ほど劇的な形ではないが、東アジアでもアメリカから自立する動きがある。台湾、韓国、フィリピンの現政権はアメリカへ擦り寄っているが、日本ほど盤石ではない。そこでNATOが乗り出そうとしている。

 NATO(北大西洋条約機構)のイェンス・ストルテンベルグ事務総長は2020年6月、オーストラリア、ニュージーランド、韓国、日本をメンバーにするプロジェクト「NATO2030」を開始すると宣言した。2024年中に連絡事務所をNATOは連絡事務所を東京に設置するという。

 1949年4月にアメリカとカナダの北米2カ国、そしてイギリス、フランス、イタリア、ポルトガル、デンマーク、ノルウェー、アイスランド、ベルギー、オランダ、そしてルクセンブルクの欧州10カ国で創設されたNATOはソ連軍の侵攻に備えるとしていた。

 しかし、この主張には説得力がない。ソ連はドイツとの戦争で2000万人とも3000万人とも言われる国民が殺され、工業地帯の3分の2を含む全国土の3分の1が破壊され、惨憺たる状態で、西ヨーロッパに攻め込む余力があったとは思えない。結局、ソ連はこの痛手から立ち直ることができなかった。

 NATOの初代事務総長でウィンストン・チャーチルの側近だったヘイスティング・ライオネル・イスメイはNATOを創設した目的について、ソ連をヨーロッパから締め出し、アメリカを引き入れ、ドイツを押さえ込むことのあると公言している。アメリカがヨーロッパを支配するための仕掛けとして設立されたと考えるべきだろう。

 本ブログでは繰り返し書いてきたが、第2次世界大戦のヨーロッパ戦線は1942年8月から43年2月にかけて行われたスターリングラードの戦いで事実上、勝敗は決していた。アドルフ・ヒトラーの命令でドイツ軍は戦力の4分の3をソ連との戦いに投入、その部隊が降伏したのだ。

 それを見て慌てたイギリスとアメリカの支配層は1943年5月にワシントンDCで会談、7月にシチリア島上陸作戦を敢行した。その際、レジスタンスの主力だったコミュニストを抑え込むため、アメリカ軍はマフィアの協力を得ている。ノルマンディー上陸作戦(オーバーロード作戦)は1944年6月だ。

 その頃になるとアメリカの戦時情報機関OSSのフランク・ウィズナーを介してアレン・ダレスのグループがドイツ軍の情報将校、ラインハルト・ゲーレン准将(ドイツ陸軍参謀本部第12課の課長)らと接触している。ソ連に関する情報を持っていたゲーレンをダレスたちは同志と見なすようになり、大戦後には彼を中心に情報機関が編成された。BND(連邦情報局)だ。

 スターリングラードでドイツ軍が降伏した後、アメリカやイギリスはナチスと接触して善後策を協議。サンライズ作戦である。その後、アメリカの軍や情報機関はナチスの幹部や協力者を逃走させたり、保護したり、雇用する。ラットライン、ブラッドストーン作戦、ペーパークリップ作戦などという暗号名が付けられている。

 その一方、ソ連やレジスタンスに対抗するための手を打っている。そのひとつがシチリア島上陸作戦だが、もうひとつはゲリラ戦部隊ジェドバラの創設。1944年のことである。この部隊を組織したのはイギリスとアメリカの特殊部隊。つまりイギリスのSOEとアメリカのSO(OSSの一部門)だ。

 アメリカの大統領だったフランクリン・ルーズベルトはファシズムや植民地に反対、ソ連を敵視、植民地の維持を望んでいたイギリスのウィンストン・チャーチルとは関係が良くなかった。ルーズベルト政権が始まった1933年から34年にかけての時期、アメリカの金融資本はクーデターを計画している。ファシズム体制を樹立しようとしていることを金融資本側は隠していない。このクーデターを阻止したのが海兵隊の退役少将だったスメドリー・バトラーだ。

 アメリカの金融資本(ウォール街)を生み出したのはイギリスの金融資本(シティ)であり、チャーチルはシティにつながっている。米英の金融資本がナチスと手を組み、ソ連やコミュニストを敵視していたことはジャーナリストや研究者によって明らかにされてきた。

 例えば、アメリカのブラウン・ブラザース・ハリマンやディロン・リードといった金融機関はナチスとの関係が強かった。ブラウン・ブラザース・ハリマンの重役の中にはW・アベレル・ハリマンやプレスコット・ブッシュも含まれ、ハリマンとブッシュはドイツ企業との手形交換業務を行う名目で「ユニオン・バンキング(UBC)」を設立、ナチスへの重要な資金ルートになる。スイスで設立されたBIS(国際決済銀行)や第2次世界大戦が勃発する半年ほど前にドイツへ約2000トンの金塊を渡したと言われているイギリスのイングランド銀行もナチスとの関係が指摘されている。

 アメリカでは政府の内部にもファシストの巣窟が存在していた。国務省だ。反ファシストのルーズベルトは大統領として国際会議に出席する場合、国務省の高官を同行させていない。基本的に同行したのは軍人で、文民は個人的にルーズベルトが信頼していたハリー・ホプキンスだけだったという。(Susan Butler, “Roosevelt And Stalin,” Alfred A. Knopf, 2015)

 アメリカの国務省には「リガ・グループ」とも呼ばれる反コミュニスト、反ソ連の一派がロシア革命の直後から存在していた。ラトビアのリガ、ドイツのベルリン、そしてポーランドのワルシャワの領事館へ赴任していた外交官たちがその中心で、メンバーの中には「封じ込め政策」で有名なジョージ・ケナンや駐日大使を務めたJPモルガン人脈のジョセフ・グルーも含まれていた。そのケナンより反ロシア感情が強く、好戦的なグループがネオコンにほかならない。

 ルーズベルト大統領は大戦が終わってから金融資本とファシストとの関係を明らかにする意向だったと言われているが、1945年4月に休止してしまう。ドイツが降伏したおはその翌月。その直後にチャーチルはソ連を奇襲攻撃するための軍事作戦を作成させた。「アンシンカブル作戦」である。(Stephen Dorril, “MI6”, Fourth Estate, 2000など)

 その作戦では、1945年7月1日にアメリカ軍64師団、イギリス連邦軍35師団、ポーランド軍4師団、そしてドイツ軍10師団で「第3次世界大戦」を始めることになっていたが、イギリスの参謀本部は拒否し、実行されなかったという。

 この作戦が葬り去られる別の理由もあった。1945年7月16日、アメリカのニューメキシコ州にあったトリニティ実験場でプルトニウム原爆の爆発実験が行われ、成功したのだ。ハリー・トルーマン大統領の意向でポツダム会談が始まる前日に実行されたという。

 その実験成功を受けてトルーマン大統領は原子爆弾の投下を7月24日に許可。26日にアメリカ、イギリス、中国はポツダム宣言を発表、8月6日に広島へウラン型爆弾を投下、その3日後には長崎へプルトニウム型爆弾が落とされている。これ以降、チャーチルやアメリカの好戦派はソ連や中国への核攻撃計画を作成する。核兵器に反対することに問題はないが、ソ連が核兵器を保有しなければアメリカやイギリスが核戦争を始めたことを無視するべきではない。

 AUKUSの創設が発表された際、オーストラリアの原子力潜水艦保有計画も明らかにされた。敵国の潜水艦を攻撃することな任務になるようで、核戦争を想定している。しかも建造、維持・運用をアメリカに依存することになっているので、アメリカの核戦略の一部になる。必然的にオーストラリアはアメリカが進めている中国やロシアとの戦争に巻き込まれてしまう。

 かつてオーストラリアの労働党は自主独立の政策を進めようとしていた。1972年12月の総選挙で労働党が勝利、ゴフ・ホイットラムが首相に就任、自国の対外情報機関ASISに対し、CIAとの協力関係を断つように命令する。イギリスのジャーナリスト、デイビッド・レイによると、ウイットラムはチリにおける軍事クーデターに関する情報を入手、そこでASISがCIAのサルバドール・アジェンデ政権崩壊工作に協力していたことを知っていた。(David Leigh, "The Wilson Plot," Pantheon, 1988)

 また、オーストラリアのパイン・ギャップにはCIAの通信傍受施設があるのだが、その使用期限が迫っていた。この施設は1966年12月に結ばれた秘密協定に基づいて建設されたもので、協定の有効期限は10年。1976年までに更新しないと基地を閉鎖しなければならない。ホイットラムが更新を拒否することをアメリカ側は懸念していた。

 そこでCIAは1975年11月、イギリス女王エリザベス2世の総督であるジョン・カー卿を動かしてホイットラム首相を解任した。実際に動いたのはアメリカのCIAやイギリスのMI6だが、総督がいなければ解任できなかった。総督は名誉職だと考えられていたが、そうではなかったのである。

 アメリカのジャーナリスト、ジョナサン・ウイットニーによるとカーは第2次世界大戦中の1944年、オーストラリア政府の命令でアメリカへ派遣されてCIAの前身であるOSS(戦略事務局)と一緒に仕事をしている。大戦後もCIAと深い関係にあった。(Jonathan Kwitny, "The Crimes of Patriots," Norton, 1987)

 アメリカとイギリスを中心とする情報機関のつながりがある。アングロ・サクソン系のカナダ、オーストラリア、ニュージーランドの機関がその配下にある。事実上、米英金融資本がそうした国々を監視、管理するためのネットワークだ。すでにアメリカや韓国は米英の影響下にあるが、それをNATO2030で強化しようとしているのだろう。
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202305250000/

8. 中川隆[-12385] koaQ7Jey 2023年8月08日 16:31:59 : 808oKCj2Ac : aDFLeEFOcWk0bTI=[3] 報告
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2023.08.07XML
帝国主義者のチャーチルは第2次世界大戦後、世界を核戦争へと引っ張り続けた
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202308060000/

 ドイツ軍は1941年6月にソ連に対する奇襲攻撃を開始した。「バルバロッサ作戦」だ。西側には約90万人だけを残し、310万人を投入するという非常識なものだが、これはアドルフ・ヒトラーの命令で実行されたという。その攻撃を準備していたはずの1940年9月から41年5月までの期間、ドイツ軍はイギリスを空爆している。これは陽動作戦だと考えるべきだろう。

 1941年7月にドイツ軍はレニングラードを包囲、9月にはモスクワまで80キロメートルの地点に到達した。ヒトラーはソ連軍が敗北したと確信、再び立ち上がることはないと10月3日にベルリンで語っている。またウィンストン・チャーチル英首相の軍事首席補佐官だったヘイスティングス・イスメイは3週間以内にモスクワは陥落すると推測しながら傍観していた。(Susan Butler, “Roosevelt And Stalin,” Alfred A. Knopf, 2015)

 しかし、ソ連軍の抵抗でこうした予想通りにことは進まず、ドイツ軍は1942年8月にスターリングラード市内へ突入する。ここでソ連軍に敗北、1943年1月に降伏した。この段階でドイツの敗北は決定的。ここからアメリカやイギリスは慌てて動き始めたわけで、ナチスに勝ったのはソ連。アメリカはその事実を消し去り、自分たちが勝ったのだというイメージを広めるため、ハリウッド映画を利用した。

 それでもアメリカは反ファシズムのフランクリン・ルーズベルトが大統領を務めていたが、このルーズベルトは1945年4月12日に急死する。ドイツはその翌月の上旬に降伏、その直後にチャーチルはソ連への奇襲攻撃を目論む。そこでJPS(合同作戦本部)に対して作戦を立案を命令し、5月22日には「アンシンカブル作戦」が提出された。この事実は本ブログでも繰り返し書いてきたことだ。

 その作戦によると、1945年7月1日にアメリカ軍64師団、イギリス連邦軍35師団、ポーランド軍4師団、そしてドイツ軍10師団で奇襲攻撃、「第3次世界大戦」を始めることになっていた。この作戦が実行されなかったのは、参謀本部が計画を拒否したからである。(Stephen Dorril, “MI6”, Fourth Estate, 2000)

 チャーチルは1945年7月26日に退陣するが、大戦後の46年3月にアメリカのフルトンで「鉄のカーテン演説」を行い、「冷戦」の幕開けを宣言した。FBIの文書によると、チャーチルは1947年にアメリカのスタイルズ・ブリッジス上院議員に対し、ソ連を核攻撃するようハリー・トルーマン大統領を説得してほしいと求めている。(Daniel Bates, “Winston Churchill’s ‘bid to nuke Russia’ to win Cold War - uncovered in secret FBI files,” Daily Mail, 8 November 2014)

 チャーチル自身はイギリスの貴族を父に、またアメリカの富豪を母に持つ人物。父親のランドルフはジョン・スペンサー-チャーチル公爵の3男で、素行の評判は良くない。カネ使いが荒く、親しくしていたネイサン・ロスチャイルド男爵から多額の借金をしていたという。ランドルフは1895年に死亡しているが、死因は梅毒。ネイサンはセシル・ローズのスポンサーだ。

 チャーチルが退陣する直前、アメリカでは原子爆弾の開発が最終局面に差し掛かっていた。7月16日にニューメキシコ州のトリニティ実験場でプルトニウム原爆の爆発実験が行われ、成功している。7月24日にハリー・トルーマン米大統領は原子爆弾の投下を許可、7月26日に「ポツダム宣言」が発表された。そして原爆は8月6日に広島、8月9日には長崎へ投下された。宣言の受諾は8月9日の「御前会議」で決定され、翌日には連合国側へ打電されている。

 日本がポツダム宣言の受諾を通告してから約1カ月後、アメリカの統合参謀本部では必要なら先制攻撃を行うことが決められた。この決定は「ピンチャー」という暗号名で呼ばれ、1946年6月18日に発効している。(Annie Jacobsen, “Area 51”, Little, Brown, 2011)

 原爆を手にしたアメリカの支配階級はソ連を先制核攻撃する計画を立てる。1949年に出された統合参謀本部の研究報告では、ソ連の70都市へ133発の原爆を落とすという内容が盛り込まれていた。(Oliver Stone & Peter Kuznick, “The Untold History of the United States,” Gallery Books, 2012)

 アメリカは1952年11月に水爆実験を成功させ、核分裂反応を利用した原子爆弾から核融合反応を利用した水素爆弾に核兵器の主役は移っていく。勿論、核兵器を使うには運搬手段が必要。この当時、原爆の輸送手段は爆撃機で、その任務を負っていたのがSAC(戦略空軍総司令部)だ。1948年から57年にかけてSACの司令官を務めたのは日本の諸都市で市民を焼夷弾で焼き殺し、広島や長崎に原爆を落とし、朝鮮戦争では3年間に人口の20%を殺したカーティス・ルメイ中将にほかならない。

 中国を核攻撃する場合、日本や沖縄が出撃拠点になるが、その沖縄では1950年代に「銃剣とブルドーザー」で土地が強制接収され、軍事基地化が推し進められていた。1953年4月に公布/施行された布令109号「土地収用令」に基づき、武装米兵を動員した暴力的な土地接収が実施され、55年の段階で沖縄本島の面積の約13%が軍用地になっている。

 SACは1954年に600から750発の核爆弾をソ連に投下、118都市に住む住民の80%を殺すという計画を立て、57年に作成された「ドロップショット作戦」では300発の核爆弾をソ連の100都市に落とすることになっていた。そのころからアレゲーニー山脈の中、ウエストバージニア州のグリーンブライア・ホテルの地下に「地下司令部」、いわゆる「グリーンブライア・バンカー」が建設されている。完成したのは1962年だ。

 その頃、アメリカではICBMの準備が進んでいた。​統合参謀本部議長だったライマン・レムニッツァーや空軍参謀長だったカーティス・ルメイを含む好戦派は1963年後半までにソ連を先制核攻撃する計画をたてた。​まだソ連がICBMの準備ができていない時点で攻撃したかったのだ。その作戦の障害になっていたジョン・F・ケネディ大統領は1963年11月22日にテキサス州ダラスで暗殺された。

https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202308060000/

9. 中川隆[-10108] koaQ7Jey 2024年6月25日 15:08:32 : oqdeZEYozg : RHNIdlNVUnVYYTY=[25] 報告
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2024.06.25XML
米英の支配層はウクライナ、パレスチナ、東アジアで焦土作戦を実行する可能性
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202406250000/

 ウクライナにおける戦闘でアメリカ/NATOの敗北は決定的だ。ウクライナを完全に征服し、耕作地や資源を奪い、クリミアを制圧してロシア海軍の重要な基地があるセバストポリを手に入れるという西側の計画は潰れた。

 しかし、それでもアメリカやイギリスをはじめとするNATO諸国はウクライナ人を戦場へ送り込み、死体の山を築かせている。西側諸国は兵器のオペレーターだけでなく、戦闘員(兵士)を送り込んでいるが、それでも勝つことは困難だ。「ロシアに勝たせない」ためには核兵器を使うしかないだろう。生物兵器の使用を考えていたようだが、完成したようには思えない。

 自分たちの敗北が決定的になった際、焦土作戦が選択されることがある。例えば1941年11月、イギリスのウィンストン・チャーチル首相は日本軍がインドへ攻め込むことを恐れ、ベンガルで「拒否政策」と呼ばれる焦土作戦を打ち出した。イギリスの取り分を確保した上でサイロや倉庫から種籾を含む全ての米を押収、また輸送手段を奪うために漁民の船や自転車を取り上げたのだ。これは現地の人びとから食糧を奪うことを意味した。

 しかも、その政策を推進中の1942年10月にベンガル地方はサイクロンなど自然災害に襲われ、死傷者が出た。農作物も大きな打撃を受けて食糧不足は避けられない状態になるのだが、飢餓が見通されても米の運び出しはチャーチル首相は命じた。

 小麦はオーストラリアから調達できたのだが、インドの船は戦争のために使われていて運べない。チャーチル首相は1943年1月、イギリスの食糧と資源の備蓄を強化するため、インド洋で活動していた商船は全て大西洋へ移動させていた。(Madhusree Mukerjee, “Churchill’s Secret War,” Basic Books, 2010)

 1943年10月には現地の提督からチャーチル首相に対し、政策の継続は大惨事を招くという警告の電報を打ち、イギリス下院では満場一致で食糧をインドへ送ると議決しているのだが、それを首相は無視した。食糧を送るというルーズベルト大統領の提案も拒否している。

 その結果、ベンガルでは1943年から44年にかけて大規模な飢饉が引き起こされ、餓死者の人数はベンガル周辺だけで100万人から300万人に達したと推計されている。

 アメリカやイギリスの支配層はウクライナでも焦土作戦を始めたように見える。彼らはウクライナを荒廃させ、ウクライナ人に「総玉砕」を求めているのだ。平和がロシアに利益をもたらすことを欧米は嫌っている。

 パレスチナでもアメリカやイギリスをはじめとする西側諸国が支援するイスラエルは苦境に陥り、戦線を拡大させようとしているが、レバノンに攻め込んでヒズボラに勝つことは困難だと見られている。しかも、欧米の支配に抵抗している中東の武装勢力はヒズボラと共に戦うとしている。中東を火の海にするつもりかもしれない。ロシアや中国が中東を抑えることをアメリカやイギリスの支配層は許せないだろう。

 東アジアでも軍事的な緊張が高まっているが、朝鮮戦争の当時とは違い、日本は平坦の拠点として脆弱。アメリカ軍の補給はままならないと予想されている。東アジアでの戦争でアメリカ軍が勝つことは難しいのだが、それでもアメリカ軍は攻撃の準備を進めてきた。台湾や日本(沖縄)から大陸を攻撃した場合、報復攻撃で台湾も日本も壊滅する可能性が高い。これも焦土作戦だと言えるだろう。
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202406250000/

10. 中川隆[-9619] koaQ7Jey 2024年8月05日 05:28:33 : DbOIAtchfM : SXVZcGE0bHhsSVU=[6] 報告
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2024.08.05XML
米国支配層はソ連を破壊するために核兵器を開発、大戦後は先制核攻撃を目論んだ
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202408050000/

 アメリカ軍は1945年8月6日にウラン型原子爆弾「リトル・ボーイ」を広島へ投下した。その3日後には長崎へプルトニウム型原爆「ファット・マン」を落としている。

 その年の2月4日から11日にかけてイギリスのウィンストン・チャーチル英首相、アメリカのフランクリン・ルーズベルト、そしてソ連のヨシフ・スターリンがヤルタで会談、ドイツが降伏し、ヨーロッパでの戦争が終結してから2カ月から3カ月後にソ連が日本に宣戦布告する条件も決められた。

 ドイツはルーズベルトが急死した翌月の5月に降伏、8月上旬にソ連は参戦することが自動的に決まったが、それに合わせ、トルーマン政権は原爆を日本へ投下したわけだ。

 アメリカの核兵器の開発プロジェクトは「マンハッタン計画」と名付けられていたが、主導した国はイギリス。1940年2月にバーミンガム大学のオットー・フリッシュとルドルフ・パイエルスのアイデアに基づいてプロジェクトが始まり、MAUD委員会なるものが設立されている。

 1943年には核兵器用のウランとプルトニウムを製造するため、テネシー州オーク・リッジに4施設が建設され、そのひとつはオーク・リッジ国立研究所へと発展した。ワシントン州に建設されたハンフォード・サイトではプルトニウムを製造するため、1944年9月にB原子炉が作られている。

 この「マンハッタン計画」を統括していたアメリカ陸軍のレスニー・グルーブス少将(当時)は1944年、同計画に参加していたポーランドの物理学者ジョセフ・ロートブラットに対し、その計画は最初からソ連との対決が意図されていると語ったという。(Daniel Ellsberg, “The Doomsday Machine,” Bloomsbury, 2017)

 広島と長崎への原爆投下を許可したのは大統領に就任してまもないハリー・トルーマンである。アメリカ、イギリス、中国が「ポツダム宣言」を発表する2日前、7月24日のことだ。日本が「ポツダム宣言」にどう反応するかを見ずにトルーマンは原爆投下による市民虐殺を決めたわけである。

 投下決定の8日前、7月16日にニューメキシコ州のトリニティ実験場でプルトニウム原爆の爆発実験が行われ、成功している。その翌日から始まるポツダム会談を意識しての実験だった。当初の実験予定日は7月18日と21日の間だったが、トルーマンの意向で会談の前日に早めたのである。

 トルーマンは1944年11月の大統領選挙で副大統領候補に選ばれたのだが、ルーズベルト大統領と親しくはなかった。副大統領を務めていたヘンリー・ウォーレスが言いがかりに近いスキャンダルで排除され、民主党幹部の圧力でトルーマンが選ばれたようだ。

 トルーマンのスポンサーだったアブラハム・フェインバーグはアメリカン・バンク・アンド・トラストの会長を務め、アメリカ民主党の重要な資金提供者だった人物で、シオニストとしても知られている。シオニストの武装組織ハガナ(イスラエル軍の母体)のエージェントだったとも言われている。ジョン・F・ケネディ大統領暗殺を受けて副大統領から昇格したリンドン・ジョンソンもフェインバーグをスポンサーにしていた。

 ルーズベルト大統領の時代、アメリカの権力システムは二重構造になっていた。ルーズベルトのニューディール派とウォール街を拠点とする金融資本が対立していたのだ。

 この対立は1932年の大統領選挙でルーズベルトが勝利した直後から生じている。この選挙ではウォール街の傀儡で現役のハーバート・フーバーが敗れ、ニューディール派のルーズベルトが勝利したのだ。ルーズベルトは資本主義を維持するためには巨大資本の活動を規制し、労働者の権利を拡大する必要があると考え、国際問題では植民地やファシズムに反対していた。これはウォール街にとって容認できないことだ。

 そこで金融資本は在郷軍人会を利用したクーデターを計画する。計画の中心的な存在は巨大金融機関のJPモルガン。司令官としてダグラス・マッカーサーを考えたが、人望があり、軍の内部への影響力が大きいスメドリー・バトラーを取り込まないとクーデターは無理だという意見が通り、バトラーに働きかけることになる。

 ウォール街のクーデター派はドイツのナチスやイタリアのファシスト党、中でもフランスのクロワ・ド・フ(火の十字軍)の戦術を参考にしていた。彼らのシナリオによると、新聞を利用して大統領への信頼感を失わせるようなプロパガンダを展開、50万名規模の組織を編成して恫喝して大統領をすげ替えることにしていたという。

 話を聞いたバトラーは信頼していたフィラデルフィア・レコードの編集者トム・オニールに相談、オニールはポール・コムリー・フレンチを確認のために派遣する。フレンチは1934年9月にウォール街のメンバーを取材、コミュニストから国を守るためにファシスト政権をアメリカに樹立させる必要があるという話を引き出した。バトラー少将は1935年にJ・エドガー・フーバーに接触してウォール街の計画を説明するのだが、捜査を拒否している。

 1933年にドイツではナチスが国会議事堂放火事件を利用して実権を握るが、この年の8月にシオニストはナチス政権とユダヤ系ドイツ人をパレスチナへ移住させることで合意していた。「ハーバラ合意」だ。ナチスの「ユダヤ人弾圧」によってユダヤ系の人びとをパレスチナへ向かわせることができるとシオニストは考えたようだ。

 しかし、ユダヤ教徒の多数派はパレスチナへ移住しない。ヨーロッパでの生活に慣れている人びとの多くはオーストラリアやアメリカへ向かう。1938年11月にドイツではナチスがユダヤ系住民を襲撃、多くの人が殺され、収容所へ入られ始めるが、この「水晶の夜」以降もユダヤ教徒はパレスチナでなくアメリカやオーストラリアへ逃れた。その後、シオニストはイラクなどでユダヤ教徒をターゲットにしたテロ攻撃を実施してパレスチナへと導いた。

 ウォール街はシティ(イギリスの金融界)からスピンオフして出来上がったのだが、この米英金融資本は親ファシズムで、ナチスを金融面から支援していたことが知られている。

 ナチスへの資金援助で特に重要な役割を果たしたのはディロン・リード、ブラウン・ブラザース・ハリマン、ユニオン・バンキングなど。その経営陣にはジョージ・ハーバート・ウォーカー、その義理の息子であるプレスコット・ブッシュ、ブッシュと同じエール大学のスカル・アンド・ボーンズに入っていたW・アベレル・ハリマンも含まれている。

 そのほかスイスで設立されたBIS(国際決済銀行)や第2次世界大戦が勃発する半年ほど前にドイツへ約2000トンの金塊を渡したと言われているイングランド銀行も仲間だと言えるだろう。

 こうした米英金融資本に支えられたナチスは1941年6月、ソ連に対する軍事侵攻を始めた。「バルバロッサ作戦」だが、思惑通りの展開にならない。1942年8月にはスターリングラード市内へ突入するが、ここでもソ連軍に敗北、1943年1月に降伏した。この段階でドイツの敗北は決定的になった。

 この展開にソ連の敗北を期待していたチャーチルは慌てる。1943年1月にルーズベルト大統領とチャーチル首相はフランスのシャルル・ド・ゴールらとカサブランカで会談した。「無条件降伏」という話が出てくるのはこの会談だった。この条件はドイツの降伏を遅らせることが目的だったとも言われている。、米英はソ連対策を講じるための時間的な余裕が必要だった。

 その年の7月に両国軍は犯罪組織の協力を得てシチリア島へ上陸、ナチスの幹部はアレン・ダレスたちと接触し始める。「サンライズ作戦」だ。その後、アメリカの軍や情報機関はナチスの幹部や協力者を逃走させ、保護、そして雇用する。「ラットライン」、「ブラッドストーン作戦」、「ペーパークリップ作戦」などだ。こうした工作でナチスの幹部や協力者はアメリカの保護下に入り、工作にも参加することになる。そうした人脈はソ連消滅後、旧ソ連圏へ戻って活動を始めた。その一例がウクライナのネオ・ナチである。

 ドイツが降伏した直後にチャーチルはソ連への奇襲攻撃を目論む。そこでJPS(合同作戦本部)に対して作戦を立案を命令、5月22日には「アンシンカブル作戦」が提出された。

 その作戦によると、攻撃を始めるのは1945年7月1日。アメリカ軍64師団、イギリス連邦軍35師団、ポーランド軍4師団、そしてドイツ軍10師団で「第3次世界大戦」を始める想定になっていた。この作戦が発動しなかったのは、参謀本部が5月31日に計画を拒否したからである。(Stephen Dorril, “MI6”, Fourth Estate, 2000)

 この計画は実行されなかったが、アメリカ軍は8月6日に広島へ、9日には長崎へ原爆を投下した。ソ連を意識してのことだろう。この攻撃のほか日本の諸都市を焼夷弾で絨毯爆撃する作戦を指揮したカーティス・ルメイは1948年からSAC(戦略空軍総司令部)の司令官に就任、1954年にはソ連を破壊するために600から750発の核爆弾を投下し、118都市に住む住民の80%、つまり約6000万人を殺すという計画を作成している。この年の終わりにはヨーロッパへ核兵器を配備した。(Oliver Stone & Peter Kuznick, “The Untold History of the United States,” Gallery Books, 2012)

 沖縄では1950年代に「銃剣とブルドーザー」で土地が強制接収されて軍事基地化が推し進められた。1953年4月に公布/施行された布令109号「土地収用令」に基づき、武装米兵が動員された暴力的な土地接収で、55年の段階で沖縄本島の面積の約13%が軍用地になっている。

 1955年頃になるとアメリカが保有していた核兵器は2280発に膨らみ(Annie Jacobsen, “Area 51”, Little, Brown, 2011)、57年になるとアメリカ軍の内部でソ連に対する先制核攻撃を準備しはじめている。(James K. Galbraith, “Did the U.S. Military Plan a Nuclear First Strike for 1963?”, The American Prospect, September 21, 1994)

 そして1957年の初頭、アメリカ軍はソ連への核攻撃を想定したドロップショット作戦を作成した。それによると300発の核爆弾をソ連の100都市で使い、工業生産能力の85%を破壊する予定になっていたという。(Oliver Stone & Peter Kuznick, “The Untold History of the United States,” Gallery Books, 2012)

 そのころからアレゲーニー山脈の中、ウエストバージニア州のグリーンブライア・ホテルの地下に「地下司令部」が建設されている。いわゆるグリーンブライア・バンカーだ。1959年に国防総省が中心になって着工、62年に完成している。

 ​テキサス大学のジェームズ・ガルブレイス教授によると、統合参謀本部のライマン・レムニッツァー議長やSACの司令官だったルメイなど好戦派は、1963年の後半にソ連を奇襲攻撃る予定だった​という。その頃になればアメリカはICBMを配備でき、しかもソ連は配備が間に合わないと見ていた。ソ連が反撃するためにはアメリカの近くから中距離ミサイルを発射するしかない。そこでソ連はキューバへ中距離ミサイルを運び込み、キューバ危機になる。1962年10月のことだ。この危機を回避することに成功したジョン・F・ケネディ大統領は1963年11月22日に暗殺された。現在の世界情勢は当時より危険だと考えられている。
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202408050000/

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