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日本人は本当に縄文人の子孫なのか?
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/402.html
投稿者 中川隆 日時 2020 年 3 月 01 日 09:39:57: 3bF/xW6Ehzs4I koaQ7Jey
 

(回答先: 中川隆投稿集 _ アイヌ人は先住民ではない? 投稿者 中川隆 日時 2020 年 2 月 16 日 15:35:26)


日本人は本当に縄文人の子孫なのか?

チャンネル桜関係者が大好きな自称日本史研究者 長浜浩明と田中英道の学説(?)によると、

・日本人は縄文人の直系の子孫で、渡来人でも朝鮮人でもない
・アイヌ人は縄文人の子孫ではなく、12世紀シベリアから移住してきた異民族

なんだそうです:

長浜浩明 - YouTube
https://www.youtube.com/results?search_query=%E9%95%B7%E6%B5%9C%E6%B5%A9%E6%98%8E

田中英道 - YouTube
https://www.youtube.com/results?search_query=%E7%94%B0%E4%B8%AD%E8%8B%B1%E9%81%93


▲△▽▼


チャンネル桜関係者が大好きな自称日本史研究者 長浜浩明の学説(?)の何処がおかしいのか?
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/498.html

西洋美術史の専門家だった(?)田中英道は何時から頭がおかしくなったのか?
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/206.html

チャンネル桜の常連の三橋貴明はチャンネル桜関係者の受け売りしかできないアホだった
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/374.html

アイヌ人は先住民ではない、日本人は単一民族だというデマを撒き散らすチャンネル桜
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/323.html

 

  拍手はせず、拍手一覧を見る

コメント
1. 中川隆[-13309] koaQ7Jey 2020年3月01日 09:45:15 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[218] 報告

日本人と日本古来の文化を滅ぼそうとしているクリスチャンでグローバリストの天皇一族 _ 天皇は何人で何処から来たのか?
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/102.html

天皇一族の様な一重瞼・奥二重瞼は華北に居た漢民族にしかみられない
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/103.html

大和朝廷は漢民族?
http://www.asyura2.com/12/lunchbreak52/msg/451.html

弥生文化の起源
http://www.asyura2.com/18/revival4/msg/128.html

弥生人の起源 _ 自称専門家の嘘に騙されない為に これ位は知っておこう
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/547.html
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/549.html

先住民族は必ず虐殺されて少数民族になる運命にある
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/590.html

被差別同和部落の起源 _ 朝鮮からの渡来人が先住の縄文人・弥生人をエタ地域に隔離した
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/113.html

被差別部落出身の有名人は?_ 日本のカースト制 氏姓制度(しせいせいど)
http://www.asyura2.com/11/lunchbreak45/msg/860.html#c91

2. 中川隆[-13797] koaQ7Jey 2020年3月18日 18:22:11 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1085] 報告
【核DNAから探る】日本列島人は、どこからやって来たのか?

3. 中川隆[-13791] koaQ7Jey 2020年3月18日 23:09:26 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1091] 報告

弥生文化のルーツ
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/964.html
4. 中川隆[-13548] koaQ7Jey 2020年3月23日 08:41:32 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1356] 報告
306名無しさん@お腹いっぱい。2020/03/23(月) 00:48:43.27ID:9wBqifY1

日本人の地域差について

核ゲノム解読の結果分かったのは本土日本人の同質性が極めて高いということですが、 僅かに地域差があります。

もちろん地域差より個人差の方が大きいですが、あくまで地域別に平均化した話です。

本土日本人でも琉球民族やアイヌ民族に分類されるゲノムの人もいます。
以前より山間部や僻地に縄文の遺伝子が残っていると指摘されていましたが、それが実証された形です。

日本人のクラスターは渡来系の影響が強い「中央軸」と、比較的縄文の遺伝子が残っている「周辺部分」とに別れます。

今後さらに小さい地域単位ごとに調査していけばこの「中央軸」エリアでも縄文の遺伝子が強い集団が見つかったりすると思われます(特に山間部や島嶼)。

◆中央軸(南関東、関西、愛知、福岡、宮城、札幌)
一般に都市部とされる集団では遺伝的同質性が高く縄文由来の遺伝子が比較的少ない。特に東京人のゲノムは朝鮮民族に最も近い。

◆東北(宮城除く)
出雲人とゲノムが殆ど一致。九州人に次いで琉球民族に近い。ずーずー弁話者の分布と一致。

◆出雲
東北人とゲノムが殆ど一致。東京よりも縄文要素を残している。ずーずー弁話者の分布と一致。

◆九州(福岡除く)
本土日本クラスターの中では最も琉球民族に近い。従って本土日本人の中では最も縄文人に近い位置に来るとされる。また朝鮮半島よりも中国南部の影響を受けている。

https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/geo/1576626259/l50

5. 中川隆[-11652] koaQ7Jey 2020年8月27日 06:32:31 : 84g9nuhfWg : cVpXQXpGOS9odDY=[3] 報告
2020/08/25
縄文人ゲノム解析から見えてきた東ユーラシアの人類史
覚張 隆史(金沢大学人間社会研究域附属 国際文化資源学研究センター 助教)
太田 博樹(生物科学専攻 教授)
https://www.s.u-tokyo.ac.jp/ja/info/6987/

発表のポイント

伊川津貝塚(注1)遺跡出土の縄文人骨(IK002)の全ゲノム配列を解析し、アフリカ大陸からヒマラヤ山脈以南を通り、ユーラシア大陸東端に到達した最も古い系統の1つであることを明らかにした。
本州縄文人(IK002)の全ゲノム・ドラフト配列の詳細な解析から東ユーラシア全体の人類史の新たなモデルを示した。
縄文人ゲノムは、東ユーラシアにおける現生人類集団の拡散及び遺伝的多様性を理解するのに不可欠であり、高精度縄文人ゲノム解読を進め、日本列島人ゲノムの総合的理解に貢献する。

発表概要
アフリカで誕生したホモ・サピエンスが、ユーラシア大陸の東端まで如何に到達したかは、いまだ明らかではなく、ヒマラヤ山脈以北および以南の2つのルートが考えられている。東アジアに最初にたどり着いた人々は、考古遺物から北ルートと想定されてきたが、最近のゲノム研究は、現在東ユーラシアに住んでいる全ての人々が南ルートであることを示している。

東京大学大学院理学系研究科 生物科学専攻の太田博樹教授と金沢大学人間社会研究域附属国際文化資源学研究センターの覚張隆史助教は、コペンハーゲン大学やダブリン大学と国際研究チームを結成し、この矛盾の解決に取り組んだ。

古くから縄文遺跡として知られる伊川津貝塚遺跡から出土した女性人骨(図1)の全ゲノム・ドラフト配列を詳細に解析し、縄文人骨(IK002)のゲノムは、東ユーラシアのルーツともいえる古い系統であり、南ルートに属し、北ルートの影響をほとんど受けていないことを明らかにした。

図1:左の写真は、伊川津貝塚出土人骨(女性)IK002。右の写真は、側頭骨錐体という頭蓋骨の一部をダイヤモンドカッターで切断している様子。

このことは、縄文人が東ユーラシアで最も古い系統の1つであることを示唆する。現在の東ユーラシアの人々の遺伝的ランドスケープを理解するためには、より高精度の縄文人ゲノム解読が不可欠であり、今後、高精度縄文人ゲノム解読を進め、日本列島人ゲノムの総合的理解に貢献する。

発表内容
研究の背景・先行研究の問題点
近年の研究から、ホモ・サピエンスはいまから約7〜6万年前に、アフリカ大陸からユーラシア大陸へ拡散したことが明らかになっている。ユーラシア大陸の東側、すなわち東南アジア、東アジア、北東アジアへは、約5〜4万年前までにホモ・サピエンスがたどり着いていたと考えられている。しかし、どのような経路(ルート)を通って到達したかは、いまだ定説はない。

アフリカ大陸からユーラシア大陸の東端までのホモ・サピエンスの拡散は、後期旧石器時代に相当する。石器など考古遺物はヒマラヤ山脈以北および以南どちらからも見つかるので、拡散の経路として北と南の2つのルートがあったはずだ。ただし、南北で石器の特徴は異なり、東アジアから北東アジアにかけては、北ルートの特徴をもつ石器が主に見つかる。このため、日本列島にたどりついた最初のホモ・サピエンスは、北ルートを通ってやって来たと考えるのが自然だ。ところが、近年劇的に蓄積されている人類集団ゲノム情報を解析すると、現在ユーラシア大陸の東側に住んでいる人々は、南ルートで来たことを示す。つまり、考古遺物から考えられてきた人類史とは異なるストーリーであるが、この矛盾はこれまであまり議論されてこなかった。

東京大学大学院理学系研究科 生物科学専攻の太田博樹教授と金沢大学人間社会研究域附属国際文化資源学研究センターの覚張隆史助教らの研究グループは、縄文人(ここでは“縄文文化をもった人々”と定義する)の骨からDNAを抽出しゲノム解読するプロジェクトを約10年前から進めてきた。そして2018年、コペンハーゲン大学を中心とする国際チームが解析した東南アジアの古い人骨のゲノム配列データとともに、伊川津貝塚遺跡から出土した縄文人骨(IK002)の全ゲノム・ドラフト配列を発表した(McColl et al. 2018)。この論文では、約2千500年前の本州日本に住んでいた女性IK002が、ラオスで出土した約8千年前の狩猟採集文化を伴う人骨(La368)と、東南アジア・東アジア各地に現在住む人々の誰よりも、遺伝的に近縁であることを報告した。

今回、太田博樹教授と覚張隆史助教は、ダブリン大学トリニティー校の中込滋樹助教、コペンハーゲン大学のマーティン・シコラ准教授らとともに国際チームを結成し、伊川津縄文人(IK002)を主役とした論文をCommunications Biologyに発表した。この新たな論文(Gakuhari & Nakagome et al. 2020)では、(i) IK002は日本列島にたどりついた最初のホモ・サピエンスの直接の子孫か否か?(ii) IK002は南ルートの子孫で北ルートでやってきた人々の遺伝的影響はないのか?の2つを明らかにする目的で詳細な全ゲノム解析をおこなった。

研究内容
過去から現在の東ユーラシア人類集団のゲノム情報をもちいて系統樹を構築した。この系統樹では、ラオスのLa368(約8千年前)とバイカル湖近くのマルタ遺跡出土人骨(MA-1:約2万4千年前)を南北の指標として含めた。もしIK002が北ルートのゲノムを多く引き継ぐなら、“樹”でIK002はMA-1の近くの“枝”に位置するだろう。反対にIK002が南ルートのゲノムを多く引き継ぐなら、La368の近くに位置するはずだ。結果は後者であった。MA-1とLa368が分岐した後、La368の枝のすぐ内側で中国東部の田園洞人骨(約4万年前)が分岐し、つづいて現代のネパールの少数民族・クスンダが分岐し、その次にIK002が分岐した。現代の東アジア人、北東アジア人、アメリカ先住民は、さらにその内側で分岐した。この結果は、IK002のみならず、現在の東アジア人、北東アジア人およびアメリカ先住民が、南ルートのゲノムを主に受け継いでいることを示している。IK002の系統は東ユーラシア人(東アジア人、北東アジア人)の“根”に位置するほど非常に古く、東ユーラシア人の創始集団の直接の子孫の1つであった。そして、IK002は日本列島にたどりついた最初のホモ・サピエンスの直接の子孫である可能性が高いことが判明した。

また、先行研究(Jinam et al. 2012)で発表された北海道アイヌの人々のデータなど日本列島周辺の人類集団との関係を分析したところ、本州縄文人であるIK002は、アイヌのクラスターに含まれた。この結果は北海道縄文人の全ゲノム解析(Kanzawa-Kiriyama et al. 2019)と一致し、アイヌ民族が日本列島の住人として最も古い系統であると同時に東ユーラシア人の創始集団の直接の子孫の1つである可能性が高いことを示している。

さらに、IK002と現在および過去の東ユーラシア人へのマルタ人骨(MA-1)からの遺伝子流動(集団間の交雑)の痕跡をD-testと呼ばれる統計解析で検証した。これまでの研究から、現在の北東アジア人およびアメリカ先住民へは、MA-1からの遺伝子流動が有意な値で示されてきている(Raghavan et al. 2014)。しかし、本解析では、現在の東アジアおよび東南アジア人類集団へのMA-1からの遺伝子流動はほとんど検出されず、IK002へもMA-1からの遺伝子流動の統計学的に有意な証拠は示されなかった。すなわち、北ルートでやってきた人々のゲノムの影響は、IK002のゲノムで検出されなかった。

社会的意義・今後の予定
本研究の成果は、日本列島・本州に約2千500年前に縄文文化の中を生きていた女性が、約2万6千年前より以前に、東南アジアにいた人類集団から分岐した「東ユーラシア基層集団(東アジア人と北東アジア人が分岐する以前の集団)」の根っこに位置する系統の子孫であることを明らかにした(図2)。

図2:東アジア人類集団の形成史をモデル化した図

すなわち、縄文人が東ユーラシアの中でも飛び抜けて古い系統であることを意味し、延いては、縄文人ゲノムが現在のユーラシア大陸東部に住む人々のゲノム多様性を理解する鍵を握っていることを示している。

ただ、本研究はIK002という1個体の詳細なゲノム解析であり、したがって、これらの結果はIK002という個体について言えることで、すべての地域・時代の縄文人について言えるわけではない。たとえば、本研究では「北ルートでやってきた人々のゲノムの影響は検出されなかった」と結論づけているが、これはIK002についての結論であり、別の個体では北ルートのゲノムが検出されるかもしれない。さらに、大陸から日本列島への移住ルートについては、今後、列島内のさまざまな地域の縄文人骨を分析することによって解明されてくるもので、いまは分からないことは注意すべき点である。

今後、(I) 個体数を増やすこと、(II)より高精度のゲノム解読をおこなうことの2つが近々の課題である。太田博樹教授らのグループは既に愛知県田原市・伊川津貝塚遺跡から出土した他の5個体や千葉県市原市から出土した縄文人9個体の高精度ゲノム解析を進めている。

参考文献
・McColl et al. (2018) The prehistoric peopling of Southeast Asia. Science 361:88-92.
・Kanzawa-Kiriyama et al. (2019) Late Jomon male and female genome sequences from the Funadomari site in Hokkaido, Japan. Anthropological Science 127: 83-108.
・Jinam et al. (2012) The history of human populations in the Japanese Archipelago inferred from genome-wide SNP data with a special reference to the Ainu and the Ryukyuan populations. Journal of Human Genetics 57: 787-95.
・Raghavan et al. (2014) Upper Palaeolithic Siberian genome reveals dual ancestry of Native Americans. Nature 505: 87-91.

なお、本研究は次ぎの文部科学省及び日本学術振興会の研究助成補助金、25284157 (山田)、16H06408、17H05132、23657167、17H03738(石田・埴原・太田)、16H06279『ゲノム支援』(豊田)、及び『金沢大学超然プロジェクト』(覚張)、『九州大学生体防御医学研究所共同研究プログラム』(柴田)の助成を受け完遂されました。

発表雑誌
雑誌名 Communications Biology
論文タイトル Ancient Jomon genome sequence analysis sheds light on migration patterns of early East Asian populations
著者 Takashi Gakuhari#, Shigeki Nakagome#, Simon Rasmussen, Morten E. Allentoft, Takehiro Sato, Thorfinn Korneliussen, Blánaid Ní Chuinneagáin, Hiromi Matsumae, Kae Koganebuchi, Ryan Schmidt, Souichiro Mizushima, Osamu Kondo, Nobuo Shigehara, Minoru Yoneda, Ryosuke Kimura, Hajime Ishida, Tadayuki Masuyama, Yasuhiro Yamada, Atsushi Tajima, Hiroki Shibata, Atsushi Toyoda, Toshiyuki Tsurumoto, Tetsuaki Wakebe, Hiromi Shitara, Tsunehiko Hanihara, Eske Willerslev, Martin Sikora*, Hiroki Oota*
DOI番号 10.1038/s42003-020-01162-2
アブストラクトURL https://www.nature.com/articles/ s42003-020-01162-2

用語解説
注1 伊川津貝塚
愛知県田原市伊川津町にある縄文後・晩期を代表する大規模な貝塚遺跡。1918年に最初の発掘が行われて以来、多くの考古学者、人類学者によって発掘がおこなわれてきた。叉状研歯を伴う抜歯の痕跡が見られる人骨が見つかっていることで有名である。今回の全ゲノム解析に用いられたIK002は、2010年に本論文の共著者・増山禎之らによって発掘された6体中の1体である。壮年期女性の人骨で、腹胸部に小児(IK001)を乗せていた。IK002の頭部に縄文晩期後葉のこの地方の典型的な土器である五貫森式土器が接し発掘されている。 ↑

―東京大学大学院理学系研究科・理学部 広報室―

https://www.s.u-tokyo.ac.jp/ja/info/6987/

6. 中川隆[-4904] koaQ7Jey 2021年5月10日 14:33:38 : pbgFbSLkqY : Ykk5Z3l4cGMxUVk=[19] 報告
【ゆっくり解説】歴史に葬られた「まつろわぬ民」について。


7. 中川隆[-5070] koaQ7Jey 2021年7月09日 07:27:25 : MMSUDjOWSU : MHAzRzVjV3poUVk=[6] 報告
雑記帳
2021年06月29日
西北九州弥生人の遺伝的な特徴
https://sicambre.at.webry.info/202106/article_29.html
 取り上げるのがたいへん遅れてしまいましたが、西北九州「弥生人(弥生文化関連個体)」の遺伝的な特徴に関する研究(篠田他., 2019)が報道されました。最近、「弥生人」の遺伝的構成に関するやり取りを見かけたこともあり、「弥生人」の遺伝学的側面の基本文献となる本論文を取り上げるとともに、本論文刊行後の研究にも言及します。

 弥生時代は、日本列島に本格的な水田稲作がもたらされ、在来の「縄文人」と稲作を持ち込んだ主体と考えられるアジア東部本土(大陸部)から到来した人々との混血が始まる時期とされています。そのため、この時期の日本列島には在来集団と大陸から渡来した集団の双方が存在した、と考えられています。形質人類学的な研究から、最初に渡来系集団が侵入した九州ではその情況を反映して、渡来系集団と在来の「縄文人」の系統である西北九州の「弥生人」が存在し、さらに独特の形質を持つ南九州の「弥生人」が暮らしていた、と指摘されています。しかし、各集団の関係や、その後の混血の状況については、依然として多くが不明です。

 長崎県佐世保市の下本山岩陰遺跡では、2個体の弥生時代人骨(成人女性の下本山2号と成人男性の下本山3号)が出土しています。放射性炭素年代測定法による較正年代では2001〜1931年前頃と推定されています。この遺跡は西北九州「弥生人」の居住地域にあり、出土した人骨の形質も「高顔傾向が見られる点に留意しなければならない」と指摘されつつも、全体的には北部九州の「渡来系弥生人」よりは縄文時代の人々と類似する、との結論が提示されています。つまり、下本山岩陰遺跡の弥生時代の2個体は、形質の面からは他の西北九州の弥生時代の人々と同じく、「縄文人」の系統を引く集団の構成員と判断されます。

 本論文は、次世代シークエンサ(NextGeneration Sequencer、NGS)を用いて核DNA を分析し、この問題の解決を目指します。核ゲノムは両親から継承されるので、遺伝的に異なる集団からの遺伝子の寄与についての情報を得られます。2010 年以降、NGSは古代人遺骸のDNA分析に用いられるようになり、得られた核ゲノムの情報は、分析された標本の由来や形質に関して、以前の方法では得られなかった精度の高い推定が可能になっています。日本でも北海道の礼文島の船泊遺跡(関連記事)や愛知県田原市伊川津町の貝塚(関連記事)で発見された「縄文人」の核ゲノムが解析されており、その系統的位置についての情報が得られるようになっています。アジア東部本土から稲作農耕民が最初に侵入したとされる北部九州地域の情況を知ることは、現代日本人の成立を知る上で重要な知見となります。その意味でも西北九州「弥生人」の核ゲノム解析は重要です。


●DNA解析結果

 性染色体のDNAのリード数から、下本山2号は女性、下本山3号は男性と判定されました。下本山3号のY染色体ハプログループ(YHg)はOの可能性が高い、と推定されましたが、それ以上の下位区分はできませんでした。ミトコンドリアDNA(mtDNA)の系統解析では、同一の石棺に合葬された上記の2 体のうち、2号女性のmtDNAハプログループ(mtHg)はM7a1a4、3号男性はD4a1で、前者は典型的な「縄文人」の系統、後者は「渡来系弥生人」の系統のmtHgと判明しています。この異なる2つのmtHgが同一の遺跡、しかも同じ石棺墓に埋葬されていたことは、2号と3号が夫婦関係にあることともに、在来の縄文系集団と弥生時代以降の渡来系集団との混合が始まっていることを予想させますが、母系遺伝のmtHgのデータだけでは、その程度について結論を提示することは困難です。

 そこで、核ゲノムデータでの分析が行なわれました。1KG(1000人ゲノム計画)およびSGDP(サイモン図ゲノム多様性計画)のデータとの比較の結果、下本山2号および3号(以下、両者をまとめての分析では下本山弥生人と表記します)は主成分分析ではともに、本州・四国・九州を中心とする日本列島「本土」人と縄文人との間に位置します。日本列島の本土とアイヌと沖縄人という3集団との比較でも、下本山弥生人は本土および沖縄集団とアイヌ集団との間に位置し、アイヌ集団の一部とは重なっています。

 外群f3統計(ムブティ人;検証集団X、下本山弥生人)で集団間の遺伝的類似性を比較すると、下本山弥生人は伊川津縄文人や船泊縄文人と最も多く遺伝的浮動を共有し、両者と遺伝的に近い集団と示されました。また、その次に近いのは日本列島の3人類集団で、これは主成分分析の結果と一致します。f4統計(ムブティ人、船泊縄文人;下本山弥生人、検証集団X)でも、下本山弥生人は現代のどの集団よりも縄文人との遺伝的類似性を示しました。また、有意ではないものの、下本山弥生人は船泊縄文人よりも伊川津縄文人の方と遺伝的に近い傾向を示し、外群f3統計の結果とも一致します。

 次に、f4統計(ムブティ人、検証集団X;下本山弥生人、船泊縄文人)で、下本山弥生人に弥生時代以降のアジア東部本土からの渡来系の遺伝的要素が含まれるのか、検証されました。その結果、有意ではないものの、下本山弥生人は船泊縄文人と比較してアジア東部本土集団との遺伝的類似性を示す傾向が確認されました。最後に、弥生時代以降のアジア東部本土からの渡来系要素が下本山弥生人と現代日本人のどちらに多く含まれるのか検討するため、f4統計(ムブティ人、検証集団X;下本山弥生人、現代日本人)が実行され、現代日本人がアジア東部本土か集団との遺伝的類似性が有意に高い、と示されました。


●考察

 上述のように、下本山3号はYHg-Oで、それ以上の下位区分はできませんでしたが、これは渡来系弥生人に由来する、と推測されます。下本山3号はmtHg-D4aで、父系でも母系でも弥生時代以降にアジア東部本土から到来した系統と考えられます。しかし、核ゲノム解析では、下本山3号も縄文人系の遺伝子を有していると示され、在来の縄文集団と弥生時代以降のアジア東部本土からの渡来系集団の双方に由来するゲノムを有している、と明らかになりました。同様に、縄文人系のmtHg-M7a1a4を有していた下本山2 号女性人骨も、核ゲノム解析からは渡来系弥生人に由来すると考えられる遺伝子も有している、と示されました。このような集団内に異なる系統の遺伝子が混在している状況をmtDNAやY染色体DNAの情報で明らかにするには、同一の遺跡から出土した多数の標本を分析する必要があります。しかし、わずかな個体を解析するだけでも混血の状況を明らかにできる核ゲノム解析は、得られる標本が少ない遺跡の解析にはとくに有効であることを示しています。

 日本列島の人類集団の形質は、縄文時代から弥生時代にかけて大きく変化したことが知られており、弥生時代は現代日本人の成立を考える上で重要な時期です。この形質の移行期の九州には、出自の異なる3集団が存在した、と指摘されています。そのうち、西北九州弥生人の顔面部の形態は、低顔性が強く、眉間から眉上弓へかけての高まりが著明で、鼻根部は深く陥没します。男性の身長は160cm以下とやや低く、四肢骨の比率でも、四肢骨の末端が比較的長い縄文人と共通した特徴を有しています。その形態学的な特徴をまとめた研究では、四肢骨の形状に古墳時代の人々につながる特徴も認められていますが、西北九州弥生人は人骨形質と考古学的所見を合わせて、「縄文人の継続であって、新しい種族の影響を受けたとは考えにくい」との結論が提示されています。西北九州弥生人の歯の形態に関する研究でも、北部九州弥生人が縄文人および西北九州弥生人と比較して大きな歯を有し、縄文人と西北九州弥生人との間にはほとんど有意差がなかったことを見いだしており、西北九州弥生人は縄文人の系統の集団である、との結論を提示しています。

 下本山岩陰遺跡は1970 年に発掘されており、以前の研究で西北九州弥生人の遺跡分布の範疇として指摘された地域内に位置します。下本山岩陰遺跡の人骨形態に関する研究では、箱式石棺に埋葬されていた2 号と3 号骨は、縄文人と共通する低顔、凹凸のある鼻根部の周辺形態、四角い眼窩などの特徴を備えている、と報告されています。したがって形態学的な研究からは、下本山岩陰遺跡人骨は縄文人の形質を強く残した西北九州の弥生人集団に含まれる、と判断されます。

 一方、これまで紀元前3世紀から紀元後3世紀までの約600年間と考えられてきた弥生時代の年代幅は、大きく修正されつつあります。21世紀になっての高精度の炭素14 年代法による年代研究の結果、水田稲作が始まったのは、当時考えられていた紀元前5 世紀ごろではなく、約500年古い紀元前10世紀までさかのぼる可能性がある、と指摘されました。ただ、弥生時代の開始年代については議論が続いています(関連記事)。弥生時代が従来の想定よりも長期間に渡る可能性の提示から、この時代における集団の形質の変化についても、千年を超える時間範囲を念頭において考える必要があります。こうした情況において、九州の弥生集団を系統の異なる集団として固定的に把握することが適切なのか、改めて検討する必要があります。

 人骨の試料的な制約もあって、これまで弥生時代における形質の変化を追う研究は困難でした。しかし、高精度の核ゲノム解析が可能になったことで、これまで渡来系や在来系の集団と位置づけられていた弥生人も、時間の中で変化していくものとして把握することが可能となりました。本論文の分析では、下本山弥生人の遺伝的な特徴は、いずれも縄文人と現代の本土日本人の中間に位置する、と明らかになりました。また、下本山弥生人が船泊縄文人よりも伊川津縄文人に近い傾向を示したことから、地理的に近い縄文人が混血に寄与した可能性も示されました。

 主成分分析では下本山弥生人とアイヌの一部の個体が重なっていますが、これは一部のアイヌが本土日本人と混血することで類似の位置にいると考えられ、集団として互いが直接的に関係するわけではない、と推測されます。下本山弥生人は、放射性炭素年代法により弥生時代後期に属すると推測されているので、本論文の結果から、弥生時代末には西北九州地域でも在来の縄文集団と渡来系集団の混血がかなり進んでいた、と示唆されます。形態学的な研究では縄文人系と把握される集団でも、ゲノムの解析では混血が進んでいる、と明らかになったわけです。古代核ゲノム解析により、形態の変化からは定量的には把握できなかった縄文時代から弥生時代への移行の状況の解明が可能であることも示されました。

 本論文の最重要点は、九州の弥生社会が祖先を異にするいくつかの系統に分かれていたという図式から、弥生時代の状況を誤って解釈する可能性を示したことにあります。少なくとも、渡来系弥生人集団と西北九州の弥生人集団の間には、形態学的な研究が予想するよりもはるかに大規模な混血があり、双方は弥生時代の全期間にわたって明確に分離した集団ではなかった、と考えられます。ただ、その交雑の状況は、地域・遺跡ごとにさまざまだった可能性があり、本論文の分析から西北九州弥生人の遺伝的な性格を代表させることはできません。しかし、西北九州弥生人という集団は固定的なものではなく、時代とともに変化していった流動性のあるものだった、と把握する視点は重要でしょう。渡来集団が長い時間をかけて在来集団を取り込んでいったと考えれば、形態学的な研究が定義している渡来系弥生人と西北九州弥生人は、混血の程度の地理的・時間的な違いを固定化して見ているだけである、との解釈も成り立ちます。

 本論文は、1ヶ所の遺跡のわずか2個体を分析したものなので、この結果をそのまま九州全体の弥生時代の状況に演繹することは困難です。しかし、解析個体を増やしていくことで、古代核ゲノム解析は、九州における縄文時代から弥生時代にかけての集団の変遷について、更に詳細なシナリオを描くことになるはずです。日本列島本土では、弥生時代の幕開けとともにアジア東部本土から稲作農耕を行なう集団が渡来し、在来集団と混血していくことで現在につながる集団が形成されていきました。北部九州は、その渡来が最初に始まった地域であり、この地域での混血の状況を明らかにすることは、その後の日本列島での集団形成史を知るための重要な知見を提供します。幸いなことに、北部九州地域は、先人の努力により相当数の渡来系弥生人と西北九州弥生人の人骨が発掘され、保管されています。これらの人骨の核ゲノム解析を進めることで、日本人成立のシナリオは更に精緻なものになるはずです。


 以上、本論文についてざっと見てきました。弥生人の核ゲノム解析はまだ始まったばかりで、本論文が強調するように、少ない事例から時空間的に広範囲の状況を安易に推測してはならないでしょう。弥生時代の人類遺骸の核ゲノム解析では、渡来系弥生人とされている福岡県那珂川市の安徳台遺跡で発見された1個体は現代日本人の範疇に収まり、東北地方の弥生人男性は遺伝的に縄文人の範疇に収まる、と指摘されています(関連記事)。弥生時代の日本列島の人々の遺伝的構成は、縄文人とアジア東部本土集団の間で時空間的に大きな変動幅が見られるのではないか、と予想されます。日本列島の人類史において、弥生時代が最も遺伝的異質性の高い期間だった可能性も考えられます。

 本論文刊行後の研究では、縄文人はユーラシア東部内陸部南方祖先系統(56%)ユーラシア東部沿岸部祖先系統(44%)の混合として、現代本土日本人は縄文人(8%)と青銅器時代西遼河集団(92%)の混合としてモデル化でき、黄河流域新石器時代農耕民集団の直接的な遺伝的影響は無視できるほど低い、と推測されています(関連記事)。九州の縄文時代早期の人類遺骸のDNA解析からは、縄文人が時空間的に広範囲にわたって遺伝的にはかなり均質だった可能性も示唆されています(関連記事)。まだ縄文人と弥生人の核ゲノムデータは少なく、現代日本人の形成過程には不明なところが少なくありません。関東地方に関しては古墳時代における人類集団の遺伝的構成の大きな変化の可能性が(関連記事)、現代日本人の都道府県単位の遺伝的構造からは、古墳時代以降における近畿地方へのアジア東部本土からの移住の影響の可能性(関連記事)が示唆されているように、現代日本人の形成過程においては地域差と年代差も大きいと予想され、その解明には、時空間的により広範囲の古代人の核ゲノムデータが必要となります。


参考文献:
篠田謙一、神澤秀明、角田恒雄、安達登(2019)「西北九州弥生人の遺伝的な特徴―佐世保市下本山岩陰遺跡出土人骨の核ゲノム解析―」『Anthropological Science (Japanese Series)』119巻1号P25-43
https://doi.org/10.1537/asj.1904231


https://sicambre.at.webry.info/202106/article_29.html


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雑記帳 2021年07月09日
佐賀県唐津市大友遺跡の弥生時代早期人骨の核DNA分析
https://sicambre.at.webry.info/202107/article_9.html

 本論文(神澤他.,2021)は、「新学術領域研究(研究領域提案型)計画研究B01【調査研究活動報告2019年度(1)】考古学データによるヤポネシア人の歴史の解明」の研究成果の一環となります。同じ著者たちによる長崎県佐世保市下本山岩陰遺跡の弥生時代の人類遺骸のDNA解析結果を報告した研究を当ブログで取り上げたさい(関連記事)、コメントで佐賀県唐津市大友遺跡の弥生時代人骨の核DNA分析に関する研究を教えていただき、調べてみたところ『国立歴史民俗博物館研究報告』第228集に本論文が所収されていると分かったので、購入しました。他にも興味深い論文が多く掲載されているので、今後当ブログ取り上げていく予定です。

 本論文は、佐賀県唐津市呼子町大友の玄界灘に面した砂丘上に位置する大友遺跡の第5次調査で発見された、弥生時代人骨の核DNA解析結果を報告しています。大友遺跡では、1968〜1980年にかけての4次の調査、1999年の第5次調査と2000年の第6次調査により、それぞれ100個体以上と28個体と22個体の人類遺骸が発見されました。これら人類遺骸の副葬品の分析から、年代は弥生時代早期〜古墳時代初期と推測されています。大友遺跡は、朝鮮半島由来の支石墓をはじめとして、さまざまな様式の埋葬施設があることで知られています。大友遺跡の人類遺骸の特徴は、支石墓人骨を中心に「縄文人(縄文文化関連個体)」と共通する形質および抜歯風習を有する西北九州型とされています。これに関して、在来集団が朝鮮半島の墓制だけ取り入れたか、現時点では朝鮮半島の弥生時代相当期の人類遺骸が少なく判断困難ではあるものの、墓制の保守性・伝統性重視の観点から、被葬者はアジア東部大陸部起源だった、との見解があります。

 大友遺跡の人類遺骸の由来の解明は、日本人、とくに本州・四国・九州を中心とする日本列島「本土」集団の成立過程の考察において重要です。日本人の成立に関して形態学的研究では、弥生時代にアジア東部大陸部から朝鮮半島経由で九州北部に到来した多数の「渡来人」が在地の縄文系と集団と混合して成立したという、「二重構造説」が提唱されています。しかし、二重構造説が依拠した人類遺骸の年代は弥生時代中期以降が大半で、最重要である縄文時代〜弥生時代の移行期における人類遺骸を解析の対象としてないことに要注意です。その後、二重構造説は現代人や古代人を対象としたDNA研究からも支持されており、現代「本土」日本人の成立の大枠を説目しています。

 日本列島の古代DNA研究は1990年頃から始まり、ミトコンドリアDNA(mtDNA)が分析対象とされてきました。mtDNAは細胞内に数百コピー存在するので、核DNAよりも解析が容易です。mtDNAでは、蓄積した変異に基づいたハプログループという分類体系が確立しています。mtDNAハプログループ(mtHg)は、人類拡散の過程で集団に共有されたり、新規に形成されていったりするので、その分布調査により、古代から現代における人類集団の移住と拡散の歴史を解明できます。

 ただ、これまでの分析では既存のmtHgに基づいてmtDNAの一部領域のみを分析しているので、情報量が限られています。また、mtDNAは母系遺伝なので、男系の情報が欠落します。さらに、「縄文人」と「渡来系弥生人」の混血度合といった定量的分析では誤差も多く必ずしも有効な手段ではないなど、複数の点で課題がありました。この状況は、2010年から次世代シーケンサー(NGS)が古代DNA研究でも利用されるようになったことで、大きく変化しました。NGSにより古代人遺骸のDNAの網羅的分析が可能になり、mtDNAよりもはるかに多くの情報を有する核DNAの解析が可能になりました。mtDNAに関しても、新規のmtHgや個体特異的な変異の検出も可能となりました。そうした解析から描かれる集団成立史の想定は、以前よりも精緻なものとなっています。

 これまでの形態学的研究から、西北九州「弥生人」は「縄文人」系統の集団と考えられてきました。しかし、上述の下本山岩陰遺跡の弥生時代人類遺骸2個体のDNA解析結果から、縄文系と「渡来系弥生人」双方のDNAが示され、両系統の混血がかなり進んでいた、と明らかになりました(関連記事)。しかし、混血の地理的・時期的な変遷はまだ不明なので、本山岩陰遺跡の弥生時代人類遺骸2個体のDNA解析結果から、西北九州の弥生時代の人類の遺伝的構成について結論づけるのは時期尚早です。そこで本論文は、大友遺跡の弥生時代早期の人類遺骸の核DNA解析結果を報告し、西北九州の弥生時代の人類の遺伝的構成に新たな知見を加えます。


●DNA解析

 本論文がDNA解析の対象とした人類遺骸は、側頭骨が残存する個体のうち、オオツタノハ貝製腕輪を装着した5次8号支石墓の熟年女性(以下、大友8号)です。年代は弥生時代早期で、支石墓の下部構造は土壙墓です。側頭骨錐体部はDNAの保存状態が良好な部位とされます。大友8号は、X染色体とY染色体にマップしたリード数の比から女性と判断され、これは人骨の形態学的所見と一致します。大友8号のmtHgはM7a1a6です。大友8号は、一塩基多型データに基づいて、主成分分析でアジア東部の現代人および古代人と比較されました。アジア東部大陸部の集団は、北から南にかけて、集団ごとにクラスタを形成しながら中央付近で左右方向に連続的に分布しました。日本列島本土現代人は上方に離れてクラスタを形成し、さらに上方に縄文人が位置しています。この分布は、縄文人がアジア東部で遺伝的に特異的な集団であることに加えて、日本列島本土現代人が縄文人由来の遺伝要素を受け継いでいる、と示します。弥生時代早期の西北九州弥生人型である大友8号は、縄文人の分布範囲内となり、アジア東部大陸部や日本列島本土現代人から大きく離れています。一方、同じく西北九州弥生人とされる弥生時代末期の本山岩陰遺跡の2個体は、縄文人と日本列島本土現代人の間に位置します。


●考察

 大友遺跡出土人骨は、形態学的には典型的な西北九州弥生人型で、縄文人と共通する形質を有することから、その遺伝的背景と由来が注目されます。大友8号は、土圧などによる歪みが強く計測されていないものの、形質的には著しい低顔傾向など縄文人的な特徴が指摘されています。大友8号のmtHgはM7a1a6で、縄文人に典型的なmtHgです。南西諸島の古代人のmtDNA分析(本書に所収されている別論文、今後当ブログで取り上げる予定です)から、南西諸島集団のmtHg-M7aは下位区分では九州以北の古代人や日本列島本土現代人集団とも異なる、と明らかになっており、大友8号のmtHg-M7aは本土集団と共通します。大友8号の副葬品は南海産のオオツタノハ貝製腕輪ですが、遺伝的に母系では南西諸島集団からの影響は見られません。

 核DNAを用いた主成分分析では、大友8号は縄文人クラスタの範疇に収まり、大陸系集団との混血の影響は見られませんでした。これは人骨の形態的特徴と矛盾しません。支石墓は朝鮮半島に起源がある墓制なので、(1)土着住民が朝鮮半島の墓制を取り入れたか、(2)朝鮮半島で支石墓を墓制とする集団に起源がある、と考えられます。(2)では、朝鮮半島にも西北九州弥生人のように人々がいたのか、問題となります。現時点では人骨の形態学的証拠は乏しいものの、韓国釜山市の加徳島の獐項(ジャンハン)遺跡の6300年前頃の2個体の核DNAが解析されており、現代韓国人よりも縄文人的と明らかになっています(関連記事)。しかし、獐項遺跡の2個体の縄文人的な遺伝的構成の割合は日本列島本土現代人と同程度かそれ以下で、西北九州弥生人である大友8号や下本山岩陰遺跡の弥生人2個体とは遺伝的に大きく異なります。これらの知見を踏まえると現時点では、朝鮮半島に西北九州弥生人と遺伝的に同質の集団を想定するよりも、西北九州在来集団が朝鮮半島の墓制を取り入れた、と想定する方が妥当なようです。

 西北九州弥生人の中でも、早期の大友8号とは異なり、末期の下本山岩陰遺跡の2個体は渡来集団との混血がかなり進んでいます。これを地域差と年代差のどちらと解釈すべきなのか、現時点の限定的データからは明らかではありません。大友遺跡人類遺骸の同位体分析による食性分析では、時代が下るとともに、当初の漁撈依存から穀物依存の度合が高まる、と明らかになっています。大友遺跡の古墳時代初期の人類遺骸の中では、1個体だけ九州北部弥生人との強い類似性が示され、渡来系弥生人の流入の可能性が指摘されています。これらの知見から、西北九州弥生人でも、時期的・地理的に差はありつつ混血が進んだと考えられますが、今後、同時期の朝鮮半島南部および九州北部集団の古代人のDNA分析を継続することで、その実態がより精緻なものになる、と期待されます。


 以上、本論文についてざっと見てきました。弥生時代の人類遺骸の核ゲノム解析では、渡来系弥生人とされている福岡県那珂川市の安徳台遺跡で発見された1個体は現代日本人の範疇に収まり、東北地方の弥生人男性は遺伝的に縄文人の範疇に収まる、と指摘されています(関連記事)。弥生時代早期の九州の大友8号も遺伝的に縄文人の範疇に収まる、と明らかになったことで、改めて弥生時代の人類集団の遺伝的異質性の高さが示されたように思います。日本列島の人類史において、弥生時代が最も遺伝的異質性の高い期間だったかもしれません。

 その形態から縄文人的と評価されてきた西北九州弥生人のうち、早期の大友8号は核DNAの解析で既知の縄文人の範囲に収まりますが、末期の下本山岩陰遺跡の2個体は、縄文人と日本列島本土現代人集団との間に位置し、縄文人系集団と弥生時代以降にアジア東部大陸部から到来した集団との混合集団だった、と示唆されます。本論文が指摘するように、これが地域差と年代差のどちらを反映しているのか、現時点では不明ですが、いずれにしても、弥生時代にはアジア東部大陸部に最も近い西北九州でも、遺伝的には縄文人そのものの集団が早期に存在し、末期においても、日本列島本土現代人集団よりもずっと縄文人の遺伝的影響の強い個体が存在したことになり、弥生時代の日本列島本土ではまだ縄文人の遺伝的影響が根強く残っていた、と示唆されます。

 日本列島本土人類集団の遺伝的構成が、縄文人的なものからアジア東部大陸部現代人的なものに近づく過程は弥生時代もしくは縄文時代晩期に始まって長期にわたり、地域・年代差が大きかった、と推測されます。今後、時空間的に広範囲の古代DNA研究が進むことで、日本列島本土現代人集団の形成過程がより明らかになっていくと期待されます。アジア東部の古代DNA研究も進んでおり(関連記事)、縄文人や弥生時代以降に日本列島に到来したアジア東部集団の形成過程、さらには弥生時代以降に日本列島に到来したアジア東部集団にどのような年代差と地域差があるのか、といった問題の解明も今後進んでいきそうです。

 また本論文は、縄文人の遺伝的構成が長期にわたってかなり均質だった可能性を改めて示します。最近、佐賀市の東名貝塚遺跡で発見された縄文時代早期の人類遺骸の核DNAが解析され、既知の縄文人の範疇に収まる、と明らかになりました(関連記事)。形態学的分析から、縄文人が長期にわたって遺伝的に一定以上均質であることは予想されていましたが(関連記事)、縄文時代早期と弥生時代早期の西北九州の個体から縄文時代後期の北海道の個体(関連記事)まで遺伝的に古代および現代の人類集団と比較して緊密なまとまりを示すとなると、縄文人は長期にわたって広範囲に遺伝的には均質だった可能性が高そうです。

 最近、中国南部の広西チワン族自治区の隆林洞窟(Longlin Cave)で発見された11000年前頃の1個体(隆林個体)が、未知の遺伝的構成だと明らかになりました(関連記事)。未知の遺伝的構成とはいっても、出アフリカ現生人類(Homo sapiens)ユーラシア東部集団の範疇に収まり、その中では他の古代人および現代人と比較して異質の遺伝的構成というわけで、縄文人と位置づけが似ています。おそらく、最終氷期極大期(Last Glacial Maximum、略してLGM)の前後でユーラシア東部に拡散してきた現生人類集団は各地で孤立して遺伝的に分化していき、固有の遺伝的構成を形成していったのではないか、と推測されます。そうした集団の中には、隆林個体的集団のように絶滅したものや、縄文人のように一部の現代人に遺伝的影響を残したものもいたのでしょう。孤立性の高い日本列島において、縄文人は長期にわたって独自の遺伝的構成を維持し続けた、と推測されます。

 上述の韓国釜山市の加徳島の獐項遺跡の6300年前頃の2個体の事例からも、縄文人が日本列島から朝鮮半島に渡海したか、縄文人的な遺伝的構成の集団が日本列島だけではなく朝鮮半島南部にも存在した、と考えられます。しかし、縄文時代の日本列島と同時代の朝鮮半島の文化的交流は限定的で、対馬海峡で文化的に区分される、と指摘されています(関連記事)。その意味で、もちろん文化と遺伝を安易に同一視できないとはいえ、縄文時代と同時期の朝鮮半島において縄文人的な遺伝的構成の集団が大きな影響を有したとは考えにくく、縄文人が日本列島から朝鮮半島へと渡海しても、その影響は限定的で、獐項遺跡の6300年前頃の2個体も、その後の朝鮮半島や日本列島の人類集団に遺伝的影響を残さなかった可能性もじゅうぶんあるとは思います。弥生時代には、遺伝的にアジア東部大陸部の現代人集団と類似して縄文人とは大きく異なる集団が、大陸部から改めて到来したのではないか、と現時点では想定していますが、今後の古代DNA研究の進展により、大きな修正が必要になるかもしれません。ユーラシア西部、とくにヨーロッパと比較して大きく遅れていたユーラシア東部の古代DNA研究も最近になって目覚ましく発展しており、今後の研究の進展が楽しみです。


参考文献:
神澤秀明、角田恒雄、安達登、篠田謙一(2021)「佐賀県唐津市大友遺跡第5次調査出土弥生人骨の核DNA分析」『国立歴史民俗博物館研究報告』第228集P385-393


https://sicambre.at.webry.info/202107/article_9.html

8. 中川隆[-16532] koaQ7Jey 2021年9月07日 15:43:33 : r5z45lvW9w : b2RKcGJ1YVo0ZE0=[32] 報告
雑記帳
2021年09月06日
ユーラシア東部の現生人類史とY染色体ハプログループ
https://sicambre.at.webry.info/202109/article_6.html

 当ブログでは2019年に、Y染色体ハプログループ(YHg)と日本人や皇族に関する複数の記事を掲載しました。現代日本人のYHg-Dの起源(関連記事)、「縄文人」とアイヌ・琉球・「本土」集団との関係(関連記事)、天皇のY染色体ハプログループ(関連記事)と、共通する問題を扱っており似たような内容で、じっさい最初の記事以外は流用も多く手抜きでしたが、皇位継承候補者が減少して皇族の存続が危ぶまれ、女系天皇を認めるのか父系を維持するのか、との観点から現代日本社会では関心が比較的高いためか、天皇のYHgについて述べた2019年8月23日の記事には、その1ヶ月半後から最近まで度々コメントが寄せられています。

 2019年に掲載したYHgと日本人や皇族に関する複数の記事の内容は、その後のYHgに関する研究の進展を踏まえた現在の私見とかなり異なるので、正直なところ今でもコメントが寄せられるのには困っていました。そこで、ユーラシア東部における現生人類(Homo sapiens)の歴史とYHgについて現時点での私見をまとめて、上記の記事に関しては追記でこの記事へのリンクを張り、以後はコメントを受け付けないようにします。また、現生人類がユーラシア東部を経て拡散したと思われる太平洋諸島やオーストラリア大陸やアメリカ大陸についても言及します。なお、最近(2021年6月22日)、「アジア東部における初期現生人類の拡散と地域的連続性」と題して類似した内容のことを述べており(関連記事)、重複というか流用部分も少なからずあります。


●ユーラシア東部現代人の遺伝的構成

 ユーラシア東部への現生人類の初期の拡散は、とくにその年代について議論になっています。とくに、非アフリカ系現代人の主要な祖先の出アフリカよりも古くなりそうな、7万年以上前となるユーラシア東部圏の現生人類の痕跡が議論になっており、そうした主張への疑問も強く呈されています(Hublin., 2021、関連記事)。仮に、非アフリカ系現代人の主要な祖先の出アフリカが7万年前頃以降ならば、7万年以上前にアフリカからユーラシア東部に現生人類が拡散してきたとしても、現代人には殆ど若しくは全く遺伝的影響を残していない可能性が高そうです。それは、非アフリカ系現代人の主要な祖先とは遺伝的に異なる出アフリカ現生人類集団だけではなく、遺伝的に大きくは出アフリカ系現代人の範疇に収まる集団でも起きたことで、更新世のユーラシア東部に関しては、アジア東部の北方(Mao et al., 2021、関連記事)と南方(Wang T et al., 2021、関連記事)で、現代人に遺伝的影響をほぼ残していないと推測される集団が広く存在していた、と指摘されています。現生人類が世界規模で拡大し、最終氷期極大期(Last Glacial Maximum、略してLGM)に代表される氷期には分断が珍しくない中で、更新世には遺伝的分化が進みやすく、また集団絶滅も珍しくなかったのだと思います。

 これは、スンダ大陸棚(アジア東部大陸部とインドネシア西部の大陸島)を含むアジア南東部本土とサフルランド(更新世の寒冷期にはオーストラリア大陸とニューギニア島とタスマニア島は陸続きでした)との間の海洋島嶼地帯であるワラセア(ウォーレシア)に関しても当てはまります。ワラセアのスラウェシ島南部のリアン・パニンゲ(Leang Panninge)鍾乳洞で発見された完新世となる7300〜7200年前頃の女性遺骸(以下、LP個体)は、現代人では遺伝的影響が確認されていない集団を表している、と推測されています(Carlhoff et al., 2021、関連記事)。LP個体の遺伝的構成要素は二つの大きく異なる祖先系統(祖先系譜、ancestry)に由来しており、一方はオーストラリア先住民とパプア人が分岐した頃に両者の共通祖先から分岐し、もう一方はアジア東部祖先系統において基底部から分岐したかオンゲ人関連祖先系統だった、とモデル化されています。LP個体はユーラシア東部における現生人類の拡散を推測するうえで重要な手がかりになりそうですが、その前に、現時点で有力と思われるモデルを見ていく必要があります。

 アジア東部現代人の各地域集団の形成史に関する最近の包括的研究(Wang CC et al., 2021、関連記事)に従うと、出アフリカ現生人類のうち非アフリカ系現代人に直接的につながる祖先系統は、まずユーラシア東部(EE)と西部(EW)に分岐します。その後、EE祖先系統は沿岸部(EEC)と内陸部(EEI)に分岐します。EEC祖先系統でおもに構成されるのは、現代人ではアンダマン諸島人やオーストラリア先住民やパプア人、古代人ではアジア南東部の後期更新世〜完新世にかけての狩猟採集民であるホアビン文化(Hòabìnhian)集団です。EEC祖先系統は、オーストラレーシア人の主要な遺伝的構成要素と言えるでしょう。アジア東部現代人のゲノムは、おもにユーラシア東部内陸部(EEI)祖先系統で構成されます。このEEI祖先系統は南北に分岐し、黄河流域新石器時代集団はおもに北方(EEIN)祖先系統、長江流域新石器時代集団はおもに南方(EEIS)祖先系統で構成される、と推測されています。中国の現代人はこの南北の祖先系統のさまざまな割合の混合としてモデル化でき、現代のオーストロネシア語族集団はユーラシア東部内陸部南方祖先系統が主要な構成要素です(Yang et al., 2020、関連記事)。以下、この系統関係を示したWang CC et al., 2021の図2です。
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 このモデルを上述のLP個体に当てはめると、LP個体における二つの主要な遺伝的構成要素は、EEC 祖先系統(のうちオーストラリア先住民とパプア人の共通祖先系統)と、EEI祖先系統もしくは(EEC 祖先系統のうち)オンゲ人関連祖先系統だった、とモデル化されます。ここでまず問題となるのは、LP個体における一方の主要な遺伝的構成要素が、EEI祖先系統である可能性も、オンゲ人関連祖先系統である可能性もあることです。次に問題となるのは、Wang CC et al., 2021では、オーストラレーシア人の主要な遺伝的構成要素であるEEI祖先系統が、ユーラシア東部祖先系統においてEEI祖先系統と分岐したとモデル化されているのに対して、最近の別の研究では、出アフリカ現生人類集団がまずオーストラレーシア人とユーラシア東西の共通祖先集団とに分岐した、と推定されています(Choin et al., 2021、関連記事)。

 こうした非アフリカ系現代人におけるオーストラレーシア人の系統的位置づけの違いをどう解釈すべきか、もちろん現時点で私に妙案はありませんが、注目されるのは、遺伝学と考古学とを組み合わせて初期現生人類のアフリカからの拡散を検証した研究です(Vallini et al., 2021、関連記事)。Vallini et al., 2021では、パプア人の主要な遺伝的構成要素に関して、EE祖先系統内で早期にEEI祖先系統(というかアジア東部現代人の主要な祖先系統)と分岐した可能性と、EEとEWの共通祖先系統と分岐した祖先系統とアジア東部現代人の主要な祖先系統との45000〜37000年前頃の均等な混合として出現した可能性が同等である、と推測されています。以前は、オーストラレーシア人の主要な祖先系統である、EEおよびEWの共通祖先系統(EEW祖先系統)と分岐した祖先系統を「原オーストラレーシア祖先系統」と呼びましたが(関連記事)、今回は、ユーラシア南部(ES)祖先系統と呼びます。以下はVallini et al., 2021の図1です。
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 非アフリカ系現代人のゲノムにおけるネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)由来の領域の割合に大きな地域差がないことから、非アフリカ系現代人のネアンデルタール人的な遺伝的構成要素は単一の混合事象に由来し、その混合年代は6万〜5万年前頃と推定されています(Bergström et al., 2021、関連記事)。したがって、ES祖先系統はネアンデルタール人と混合した後の現生人類集団においてEEW祖先系統と分岐した、と考えられます。

 Vallini et al., 2021に従うと、ES祖先系統およびEEW祖先系統の共通祖先系統と分岐したのが、チェコ共和国のコニェプルシ(Koněprusy)洞窟群で発見された、洞窟群の頂上の丘にちなんでズラティクン(Zlatý kůň)と呼ばれる成人女性1個体(Prüfer et al., 2021、関連記事)に代表される集団の主要な祖先系統です(ズラティクン祖先系統)。ズラティクンも非アフリカ系現代人と同程度のネアンデルタール人からの遺伝的影響を受けており、出アフリカ現生人類集団とネアンデルタール人との混合後に、出アフリカ現生人類集団において早期に分岐した、と推測されます。

 出アフリカ現生人類集団において、ズラティクンに代表される集団が非アフリカ系現代人の共通祖先集団と遺伝的に分化する前に分岐したと考えられるのが、基底部ユーラシア人です。基底部ユーラシア人はネアンデルタール人からの遺伝的影響を殆ど若しくは全く有さない仮定的な(ゴースト)出アフリカ現生人類集団で、ユーラシア西部現代人に一定以上の遺伝的影響を残しています(Lazaridis et al., 2016、関連記事)。現時点で基底部ユーラシア人の遺伝的痕跡が確認されている最古の標本は、26000〜24000年前頃のコーカサスの人類遺骸と堆積物です(Gelabert et al., 2021、関連記事)。

 話をオーストラレーシア人の非アフリカ系現代人集団における遺伝的位置づけに戻すと、オーストラレーシア人の遺伝的構成要素がES祖先系統とEE祖先系統との複雑な混合に起因すると仮定すると、オーストラレーシア人の系統的位置づけが研究により異なることを上手く説明できるかもしれません。また、オーストラレーシア人でもオーストラリア先住民およびパプア人(以下、サフルランド集団)の共通祖先とアンダマン諸島人とでは、ES祖先系統とEE祖先系統との混合年代が異なるかもしれません。つまり、ES祖先系統を主要な遺伝的構成要素とする集団がサフルランド集団の共通祖先とアンダマン諸島人の祖先とに遺伝的に分化した後に、EE祖先系統を主要な遺伝的構成要素とする集団が、ES祖先系統を主要な遺伝的構成要素とするそれぞれの祖先集団と混合したのではないか、というわけです。Vallini et al., 2021に従うと、パプア人はES祖先系統とEE祖先系統の均等な混合としてモデル化されますが、アンダマン諸島人の混合割合は異なっているかもしれません。

 仮にこの想定が一定以上妥当ならば、LP個体もES祖先系統とEE祖先系統との複雑な混合により形成されたことになりそうです。LP個体で重要なのは、アジア東部からアジア南東部に新石器時代に拡散してきた農耕集団の主要な遺伝的構成要素(Yang et al., 2020)が、Wang CC et al., 2021に従うとEEIS祖先系統と考えられるのに対して、EEIS祖先系統と早期に分岐した未知のEE祖先系統が一方の主要な遺伝的構成要素と推定されていることです(Carlhoff et al., 2021)。LP個体の年代(7300〜7200年前頃)からも、農耕集団の主要な遺伝的構成要素であるEEISおよびEEIN祖先系統以外のEE祖先系統が、アジア南東部への農耕拡大前にオーストラレーシア人の祖先集団に遺伝的影響を残した、と示唆されます。

 北京の南西56km にある田园(田園)洞窟(Tianyuan Cave)で発見された4万年前頃の男性個体(Yang et al., 2017、関連記事)の主要な遺伝的構成要素が、Wang CC et al., 2021でもVallini et al., 2021でもEE(もしくはEEI)祖先系統であることから、ユーラシア東部系集団は4万年前頃までにはアジア東部北方にまで拡散したと考えられます。ユーラシア東部系集団がいつどのようにEW祖先系統を主要な遺伝的構成要素とするオーストラレーシア人の一方の祖先集団(ユーラシア南部系集団)と遭遇して混合したのか不明ですが、ユーラシアを北回りで東進し、アジア東部に到達してから南下した可能性と、ユーラシアを南回りで東進してアジア南東部に到達してから北上した可能性と、アジア南西部もしくは南部で北回りと南回りに分岐した可能性が考えられます。その過程でユーラシア東部系集団(EE集団)は遺伝的に分化していき、ユーラシア南部系集団(ES集団)と混合したのでしょう。オーストラリア先住民とパプア人の遺伝的分化が40000〜25000年前頃と推定されているので(Malaspinas et al., 2016、関連記事)、ユーラシア東部系集団とサフルランド集団の祖先集団との混合はその頃までに起きた、と考えられます。この点からも、ユーラシア東部系集団が3万年以上前にアジア南東部というかスンダランドに存在した可能性は高そうです。

 ユーラシア東部圏やオセアニアの現代人および古代人集団は、EE祖先系統とES祖先系統との複雑な混合により形成されたと考えられますが、とくに注目されるのは、ユーラシア東部系もしくはアジア東部系集団で、現代人と掻器に分岐したと推定されている古代人集団です。具体的には、中華人民共和国広西チワン族自治区の隆林洞窟(Longlin Cave)で発見された11510±255年前(Curnoe et al., 2012、関連記事)のホモ属頭蓋(隆林個体)と「縄文人(縄文文化関連個体群)」です。隆林個体(Wang T et al., 2021)と愛知県田原市伊川津町の貝塚で発見された2500年前頃の「縄文人」個体(Gakuhari et al., 2020、関連記事)はともに、アジア東部現代人の共通祖先集団と早期に分岐した集団を表している、と推測されています。おそらく両者とも、ユーラシア東部系集団とユーラシア南部系集団との複雑な混合により形成され、アジア東部現代人集団との近縁性から、アンダマン諸島人よりもEE祖先系統の割合が高いと考えられます。「縄文人」や隆林個体的集団のように、EE祖先系統とES祖先系統との単一事象ではなく複数回起きたかもしれない複雑な混合により形成された未知の遺伝的構成で、現代人への遺伝的影響は小さいか全くない古代人集団は少なくなかったと想定されます。

 隆林個体と地理的にも年代的にも近い(14310±340〜13590±160年前)の中華人民共和国雲南省の馬鹿洞(Maludong)で発見されたホモ属の大腿骨(馬鹿洞人)は、その祖先的特徴から非現生人類ホモ属である可能性が指摘されています(Curnoe et al., 2015、関連記事)。しかし、おそらく馬鹿洞人も隆林個体と同様に、EE祖先系統とES祖先系統との複雑な混合により形成されたのでしょう。隆林個体やオーストラリアの一部の更新世人類遺骸から推測すると、ES祖先系統を主要な遺伝的構成要素とする集団(ユーラシア南部集団)は、形態的にはかなり頑丈だった可能性があります。ただ、ユーラシア南部集団が出アフリカ現生人類集団の初期の形態をよく保っているとは限らず、新たな環境への適応と創始者効果の相乗による派生的形態の可能性もあるとは思います。この問題で示唆的なのは、オーストラリア先住民が、華奢なアジア東部起源の集団と頑丈なアジア南東部起源の集団との混合により形成された、との現生人類多地域進化説の想定です(Shreeve.,1996,P124-128)。多地域進化説は今ではほぼ否定されましたが(Scerri et al., 2019、関連記事)、碩学の提唱だけに、注目すべき指摘は少なくないかもしれません。

 Wang CC et al., 2021では、アジア東部現代人はおもにEEIN祖先系統とEEIS祖先系統の混合でモデル化され、前者は黄河流域新石器時代集団に、後者は長江流域新石器時代集団に代表される、と想定されています。中国の現代人はこの南北の遺伝的勾配を示し、北方で高いEEIN祖先系統の割合が南下するにつれて低下していく、と推測されています。また長江流域新石器時代集団だけではなく、黄河流域新石器時代集団にも少ないながら一定以上の割合でEEC祖先系統がある、とモデル化されています。「縄文人」はEEIS祖先系統(56%)とEEC祖先系統(44%)の混合としてモデル化され、青銅器時代西遼河地域集団でもEEC祖先系統がわずかながら示されています。

 EEC祖先系統がEE祖先系統とEW祖先系統の複雑な混合により形成されたとすると、Wang CC et al., 2021のEEC祖先系統は、オーストラレーシア人の祖先集団の遺伝的構成要素が混合と移動によりアジア東部北方までもたらされた、という想定とともに、オーストラレーシア人の一方の主要な祖先集団となったユーラシア東部系集団と遺伝的に近縁な集団にも由来するか、あるいはその集団に排他的に由来する可能性も考えられます。そうだとすると、オーストラレーシア人関連祖先系統が南アメリカ大陸の一部先住民でも確認されていること(Castro et al., 2021、関連記事)と関連しているかもしれません。南アメリカ大陸の一部先住民のゲノムにおけるオーストラレーシア人関連祖先系統は、オーストラレーシア人の一方の主要な祖先集団で、アジア東部現代人にはほとんど遺伝的影響を残していないユーラシア東部系集団にその大半が由来する、というわけです。アメリカ大陸への人類の拡散については、最近の総説がたいへん有益です(Willerslev, and Meltzer., 2021、関連記事)。


●日本列島の人口史

 日本列島においてDNAが解析された最古の人類遺骸は2万年前頃の港川人(Mizuno et al., 2021、関連記事)ですが、これはミトコンドリアDNA(mtDNA)の解析で、核DNAとなると、佐賀市の東名貝塚遺跡で発見された7980〜7460年前頃の男性となります(Adachi et al., 2021、関連記事)。日本列島における4万年前頃以前の人類の存在はまだ確定しておらず(野口., 2020、関連記事)、4万年前頃以降に遺跡が急増します(佐藤., 2013、関連記事)。この4万年前頃以降の日本列島の人類は、ほぼ間違いなく現生人類と考えられますが、4万〜8000年前頃の日本列島の人類集団の核ゲノムに基づく遺伝的構成は不明です。

 Vallini et al., 2021では、EE祖先系統を主要な遺伝的構成要素とするアジア東部の初期現生人類は初期上部旧石器(Initial Upper Paleolithic、以下IUP)とともに拡散してきた、と推測されています。IUPの定義およびその特徴は石刃製法で、最も広い意味での特徴は、硬質ハンマーによる打法、打面調整、固定された平坦な作業面もしくは半周作業面を半周させて石刃を打ち割ることで、平坦作業面をもつ石核はルヴァロワ(Levallois)式のそれに類似していますが、上部旧石器時代の立方体(容積的な)石核との関連が見られることは異なります(仲田., 2019、関連記事)。IUP的な石器群は、日本列島では最初期の現生人類の痕跡と考えられる37000年前頃の長野県の香坂山遺跡で見つかっていることから(国武., 2021、関連記事)、日本列島最初期の現生人類もEE祖先系統を主要な遺伝的構成要素とする集団だったかもしれません。一方、港川人の遺伝的構成は、本州・四国・九州を中心とする日本列島「本土」の最初期現生人類集団とは異なっていた可能性があります。

 4万年前頃以降となる日本列島最初期の現生人類の遺伝的構成がどのようなものだったのか、そもそも日本列島、とくに「本土」における更新世人類遺骸がほとんどなく、今後の発見も期待薄なので解明は難しそうです。しかし、急速に発展しつつある洞窟堆積物のDNA解析(Vernot et al., 2021、関連記事)により、この問題が解決される可能性も期待されます。田園洞窟の4万年前頃の男性個体(田園個体)は、現代人にほぼ遺伝的影響を残していないと推測されていますが(Yang et al., 2017)、3万年以上前には沿岸地域近くも含めてアジア東部北方に広範に分布していた可能性が指摘されています(Mao et al., 2021)。したがって、日本列島の最初期現生人類が田園個体と類似した遺伝的構成の集団(田園洞集団)だった可能性は低くないように思います。また、港川人のmtDNAハプログループ(mtHg)が既知の古代人および現代人とは直接的につながっていないこと(Mizuno et al., 2021)からも、日本列島の最初期現生人類が現代人や「縄文人」とは遺伝的につながっていない可能性は低くないように思います。

 日本列島の人類集団の核ゲノムに基づく遺伝的構成が明らかになるのは縄文時代以降で、「縄文人」では複数の個体の核ゲノム解析結果が報告されています。上述のように、そのうち最古の個体は佐賀市の東名貝塚遺跡で発見された7980〜7460年前頃の男性(Adachi et al., 2021)で、その他に、核ゲノム解析結果が報告された縄文人は、上述の愛知県田原市伊川津町の貝塚で発見された2500年前頃の個体(Gakuhari et al., 2020)、北海道礼文島の3800〜3500年前頃の個体(Kanzawa-Kiriyama et al., 2019、関連記事)、千葉市の六通貝塚の4000〜3500年前頃の個体(Wang CC et al., 2021)です。これら縄文人個体群は、既知の古代人および現代人との比較で遺伝的に一まとまりを形成し、縄文人が時空間的に広範囲にわたって遺伝的に均質な集団であることを示唆しますが、これは形態学でも以前より指摘されていました(山田.,2015,P126-128、関連記事)。

 弥生時代早期となる佐賀県唐津市大友遺跡で発見された女性個体(大友8号)も、これらの縄文人と遺伝的に一まとまりを形成します(神澤他., 2021A、関連記事)。中国と四国と近畿の縄文時代の人類遺骸の核ゲノム解析結果を見なければ断定できませんが、縄文人が時空間的に広範囲にわたって遺伝的に均質な集団である可能性はかなり高そうです。大友8号は、縄文人的な遺伝的構成の個体および集団が、縄文文化とのみ関連していない可能性を示唆し、これは最近の査読前論文(Robbeets et al., 2021)の結果とも整合的です。Robbeets et al., 2021では、沖縄県宮古島市長墓遺跡の紀元前9〜紀元前6世紀頃の個体の遺伝的構成が、既知の縄文人(六通貝塚の4000〜3500年前頃の個体群)とほぼ同じと示されました。先史時代の先島諸島には、縄文文化の影響がほとんどないと言われています。

 さらに、縄文人的な遺伝的構成(縄文人祖先系統)は日本列島以外でも高い割合で見られます。朝鮮半島南端の8300〜4000年前頃の人類は、割合はさまざまですが、遼河地域の紅山(Hongshan)文化集団と縄文人との混合としてモデル化されます(Robbeets et al., 2021)。そのうち4000年前頃の欲知島(Yokchido)個体の遺伝的構成要素は、ほぼ縄文人祖先系統で占められています。また、大韓民国釜山市の加徳島の獐遺跡の6300年前頃の人類も縄文人祖先系統を有している、と示されています(関連記事)。これらの知見から、縄文人的な遺伝的構成の個体および集団が、現地の環境への適応および/もしくは先住集団との混合により日本列島の縄文文化以外の文化の担い手になった、と考えられます。

 縄文人の形成過程が不明なので、朝鮮半島に縄文人祖先系統がどのようにもたらされたのか断定できませんが、その地理的関係からも、日本列島から朝鮮半島にもたらされた可能性が高そうです。考古学では、縄文時代における九州、さらには西日本と朝鮮半島との交流が明らかになっており、人的交流もあったと考えられますが、この交流を過大評価すべきではない、とも指摘されています(山田.,2015,P129-133、関連記事)。日本列島の縄文時代において、日本列島から朝鮮半島だけではなく、その逆方向での人類集団の拡散もあったと考えられますが、現時点では縄文人にその遺伝的痕跡が検出されていません。しかし、核ゲノムデータが得られている西日本の縄文人は佐賀市東名貝塚遺跡の1個体だけですから、縄文時代の日本列島に朝鮮半島から紅山文化集団関連祖先系統がもたらされた可能性は低くないでしょう。ただ、弥生時代早期の西北九州の大友8号の事例からは、日本列島の縄文人において、紅山文化集団関連祖先系統など朝鮮半島由来のアジア東部大陸部祖先系統(Wang CC et al., 2021のEEIN祖先系統)が長期にわたって持続した可能性は低いように思います。もちろん、西日本の時空間的に広範囲にわたる人類遺骸の核ゲノム解析結果が蓄積されるまでは断定できませんが。

 弥生時代になると、日本列島の人類集団の遺伝的構成が大きく変わります。現代日本人は、縄文人祖先系統(8%)と青銅器時代遼河地域集団関連祖先系統(92%)の混合としてモデル化されています(Wang CC et al., 2021)。Robbeets et al., 2021では、現代日本人は遼河地域の青銅器時代となる夏家店上層(Upper Xiajiadian)文化集団関連祖先系統と縄文人祖先系統の混合としてモデル化されています。したがって、以前から指摘されているように、弥生時代以降に日本列島にはアジア東部大陸部から人類集団が移住してきて、現代日本人に大きな遺伝的影響を残した、と考えられます。

 ただ、これは「縄文人」から「(アジア東部大陸部起源の)弥生人」という単純な図式で説明できるものではなさそうです。まず、上述のように弥生時代早期の西北九州の大友8号は遺伝的に既知の縄文人の範疇に収まります(神澤他., 2021)。東北地方の弥生時代の男性も、核ゲノム解析では縄文人の範疇に収まります(篠田.,2019,P173-174、関連記事)。弥生時代の人類でも「西北九州型」は形態的には縄文人に近いとされており、遺伝的には既知の縄文人の範疇に収まる大友8号も西北九州で発見されました。一方、弥生時代の「西北九州型」でも長崎県佐世保市の下本山岩陰遺跡の2個体は、相互に違いはあるものの、遺伝的には現代日本人と縄文人との中間に位置付けられます(篠田他., 2019、関連記事)。

 縄文人との形態的類似性が指摘される「西北九州型弥生人」とは対照的に、アジア東部大陸部集団との形態的類似性が指摘される「渡来系弥生人」では、福岡県那珂川市の弥生時代中期となる安徳台遺跡の1個体(安徳台5号)で核ゲノム解析結果が報告されており、遺伝的に現代日本人の範疇に収まる、と示されています(篠田他., 2020、関連記事)。「渡来系弥生人」は、その形態から遺伝的には夏家店上層文化集団などアジア東部大陸部集団にきわめて近いと予想されていましたが、じっさいには現代日本人と酷似していました。また安徳台5号は、現代日本人よりも縄文人祖先系統の割合が高いと推定されています(Robbeets et al., 2021)。同じく「渡来系弥生人」でも弥生時代中期となる福岡県筑紫野市の隈・西小田遺跡の個体は、現代日本人よりも縄文人祖先系統の割合がやや低くなっています(Robbeets et al., 2021)。鳥取市青谷上寺遺跡の弥生時代中期〜後期の個体群は、縄文人祖先系統の割合に応じて、遺伝的に現代日本人の範疇に収まる個体から、現代日本人よりもややアジア東部大陸部集団に近い個体までさまざまです(神澤他., 2021B、関連記事)。

 これら弥生時代の人類遺骸は形態に基づく分類の困難(関連記事)を改めて強調しており、それは上述の隆林個体(Wang T et al., 2021)でも示されています。このように、弥生時代の人類の遺伝的構成は、縄文人そのものから、現代日本人と縄文人との中間、現代日本人の範疇、現代日本人よりも低い割合の縄文人祖先系統までさまざまだったと示されます。さらに、アジア東部大陸部集団そのものの遺伝的構成の集団も存在したと考えられることから、弥生時代は日本列島の人類史において有数の遺伝的異質性の高い期間だったかもしれません。

 日本列島におけるこうした弥生時代の人類集団の形成に関して注目されるのが、2800〜2500年前頃の朝鮮半島中部西岸に位置するTaejungni遺跡の個体(Taejungni個体)です。Taejungni個体は、夏家店上層文化集団関連祖先系統と縄文人祖先系統の混合としてモデル化され、現代日本人と遺伝的にかなり近いものの、縄文人祖先系統の割合は現代日本人よりもやや高めです(Robbeets et al., 2021)。これは、現代日本人の基本的な遺伝的構成が、アジア東部大陸部から日本列島に到来した夏家店上層文化集団的な遺伝的構成の集団と、日本列島在来の縄文人の子孫との混合により形成されたのではなく、朝鮮半島において紀元前千年紀前半にはすでに形成されていた可能性を示唆します。

 一方、上述の6000〜2000年前頃の朝鮮半島南端の縄文人祖先系統を高い割合で有する集団は、紅山文化集団関連祖先系統との混合を示しており、現代日本人への遺伝的影響は小さい可能性があります。また、6000〜2000年前頃の朝鮮半島南端の集団も、Taejungni個体に代表される朝鮮半島中部の集団も、現代朝鮮人への遺伝的影響は大きくなく、紀元前千年紀後半以降に朝鮮半島の人類集団で大きな遺伝的変容が起きた可能性も考えられます。朝鮮半島の人類集団は5000年以上前から遺伝的構成がほとんど変わらず、弥生時代以降に日本列島に拡散して現代日本人の遺伝的構成に縄文人よりもはるかに大きな影響を残したので、日本人は朝鮮人の子孫であるといった言説が仮にあったとしても妥当ではないだろう、というわけです。

 夏家店上層文化集団関連祖先系統は、黄河流域新石器時代集団関連祖先系統よりも、アムール川地域集団関連祖先系統の割合の方が高い、とモデル化されています(Robbeets et al., 2021)。アムール川地域集団の遺伝的構成は14000年前頃から現代まで長期にわたって安定している、と示されています(Mao et al., 2021)。また、アジア東部北方完新世集団の遺伝的構造は地理的関係を反映しており、アムール川と黄河流域が対極に位置し、遼河地域はその中間的性格を示し、この構造は前期完新世にまでさかのぼります(Ning et al., 2020、関連記事)。中国の現代人(おもに漢人)は、上述のように黄河流域新石器時代集団と長江流域新石器時代集団との地域によりさまざまな割合の混合の結果成立しましたから、現代漢人と現代日本人との遺伝的相違は、縄文人祖先系統の割合とともに、少なくとも前期完新世にまでさかのぼる遺伝的分化に起因する可能性が高そうです。また黄河流域新石器時代集団は、稲作の北上とともに長江流域新石器時代集団の遺伝的影響も受けていると推測されているので(Ning et al., 2020)、現代日本人は間接的に長江流域新石器時代集団から遺伝的影響(黄河流域新石器時代集団よりも低い割合で)と文化的影響を受けていると考えられます。以下、アジア東部の新石器時代から歴史時代の個体・集団の遺伝的構成を示したRobbeets et al., 2021の図3です。
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 注目されるのは、Taejungni個体も「渡来系弥生人」の一部も、現代日本人よりも縄文人祖先系統の割合がやや高いことです。さらに、高松市茶臼山古墳の古墳時代前期個体(茶臼山3号)は、遺伝的には現代日本人の範疇に収まるものの、現代日本人よりも有意に縄文人に近い、と示されています(神澤他., 2021C、関連記事)。出雲市猪目洞窟遺跡の紀元後6〜7世紀の個体(猪目3-2-1号)と紀元後8〜9世紀の個体(猪目3-2-2号)も、遺伝的には現代日本人の範疇に収まるものの、現代日本人よりも有意に縄文人に近い、と示されています(神澤他., 2021D、関連記事)。

 これらの知見は、本州の沿岸地域となる「周辺部」と「中央軸」地域(九州の博多、近畿の大坂と京都と奈良、関東の鎌倉と江戸)との遺伝的違い(日本列島の内部二重構造モデル)を反映しているかもしれません(Jinam et al., 2021、関連記事)。「中央軸」地域は歴史的に日本列島における文化と政治の中心で、アジア東部大陸部から多くの移民を惹きつけたのではないか、というわけです。都道府県単位の日本人の遺伝的構造を調べた研究では、この「中央軸」地域に位置する奈良県の人々が、現代漢人と遺伝的に最も近い、と示されています(Watanabe et al., 2020、関連記事)。朝鮮半島において紀元前千年紀後半以降に、現代日本人よりも縄文人祖先系統の割合をずっと低下させ、遺伝的構成を大きく変えるようなアジア東部大陸部からの人類集団の流入があり、そうした集団が古墳時代以降に継続的に日本列島に渡来し、現代日本人の遺伝的構造の地域差が形成された、と考えられます。また、この推測が一定以上だとすると、現代日本人における縄文時代末に日本列島に存在した「縄文人」の遺伝的影響は、現在の推定値である9.7%(Adachi et al., 2021)よりもずっと低いかもしれません。


●Y染色体ハプログループ

 冒頭で述べたように、現代日本社会ではY染色体ハプログループ(YHg)への関心が高いようです。現代日本社会でとくに注目されているのは、世界では比較的珍しいものの日本では一般的なYHg-Dでしょう。これが日本人の特異性と結びつけられ、縄文人で見つかっていることから(現時点では、縄文人もしくは縄文人的な遺伝的構成の日本列島の古代人のYHgはDしか確認されていないと思います)、縄文人以来、さらに言えば人類が日本列島に到来した時から続いているのではないか、というわけです。注目されているようです。確かに、縄文人は38000年前頃に日本列島に到来した旧石器時代集団の直接的子孫である、との見解も提示されています(Gakuhari et al., 2020)。

 しかし、上述のように日本列島の最初期の現生人類集団が田園洞集団的な遺伝的構成だったとすると、縄文人にも現代人にも遺伝的影響をほぼ残さず絶滅したことになり、その可能性は低くないように思います。人類史において、完新世よりも気候が不安定だった更新世には集団の絶滅・置換は珍しくなく、それは非現生人類ホモ属だけではなく現生人類も同様でしたから、日本列島だけ例外だったとは断定できないでしょう(関連記事)。仮にそうだとしたら、YHg-D1a2aは日本人固有で、日本列島には4万年前頃から現生人類が存在したのだから、Yfullで18000〜15000年前頃と推定されているYHg-D1a2a1(Z1622)とD1a2a2(Z1519)の分岐は日本列島で起きたに違いない、との前提は成立しません。

 この推測には古代DNAデータの間接的証拠もあります。カザフスタン南部で発見された紀元後236〜331年頃の1個体(KNT004)は、日本列島固有とされ、縄文人でも確認されているYHg-D1a2a2a(Z17175、CTS220)です(Gnecchi-Ruscone et al., 2021、関連記事)。KNT004はADMIXTURE分析では、朝鮮半島に近いロシアの沿岸地域の悪魔の門遺跡の7700年前頃の個体群(Siska et al., 2017、関連記事)に代表される祖先系統(アムール川地域集団関連祖先系統)の割合が高く、アムール川地域の11601〜11176年前頃の1個体(AR11K)はYHg-DEです(Mao et al., 2021)。アムール川地域にYHg-Eが存在したとは考えにくいので、YHg-Dである可能性がきわめて高そうです。これを、日本列島から「縄文人」が拡散した結果と解釈できないわけではありませんが、ユーラシア東部大陸部にも更新世から紀元後までYHg-Dが低頻度ながら広く分布しており、YHg-D1a2a1とD1a2a2の分岐は日本列島ではなくユーラシア東部大陸部で起きた、と考える方が節約的であるように思います。

 上述の現代日本人の形成過程の推測と合わせて考えると、現代日本人のYHg-D1a2には、縄文人由来の系統も、縄文人が朝鮮半島に拡散して弥生時代以降に「逆流」した系統も、アムール川地域などアジア東部北方に低頻度ながら存在し、青銅器時代以降に朝鮮半島を経て日本列島に到来した系統もありそうで、単純に全てを縄文人由来と断定することはできないように思います。その意味で、仮に皇族のYHgが現代日本人の一部?で言われるようにD1a2a1だったとしても、弥生時代以降に朝鮮半島から到来した可能性は低くないように思います。

 YHg-Dはアジア南東部の古代人でも確認されており、ホアビン文化(Hòabìnhian)層で見つかった4415〜4160年前頃の1個体(Ma911)はYHg-D1(M174)です(McColl et al., 2018、関連記事)。上述のように、ホアビン文化集団はユーラシア南部系集団とユーラシア東部系集団との複雑な混合により形成されたと推測され、それは縄文人や隆林個体に代表される古代人集団やアンダマン諸島現代人も同様だったでしょう。縄文人やアンダマン諸島現代人のオンゲ人においてYHg-D1a2がとくに高頻度で、アジア東部北方の古代人でほとんど見つかっていないことから、YHg-Dはユーラシア南部系集団に排他的に由来する、とも考えられます。しかし、同じくユーラシア南部系集団とユーラシア東部系集団との複雑な混合により形成されたと推測されるサフルランド集団ではYHg-Dが見つかりません。

 YHg-Dは分岐が早い系統なので、ユーラシア南部系集団とユーラシア東部系集団の両方に存在し、創始者効果や特定の父系一族が有力な地位を独占するなどといった要因により、大半の集団ではYHg-Dが消滅し、一部の集団では高頻度で残っている、と考えるのが最も節約的なように思います。おそらくサフルランド集団の祖先集団にもYHg-Dは存在し、ユーラシア東部系集団との混合などにより消滅したのでしょう。YHgは置換が起きやすいので(Petr et al., 2021、関連記事)、現代の分布と地域および集団の頻度から過去の人類集団の移動を推測するのには慎重であるべきと思います。

 チベット人ではYHg-D1a1が多く、Wang CC et al., 2021ではチベット人はずっと高い割合のEEIN祖先系統とずっと低い割合のEEC祖先系統との混合とモデル化されています。おそらく、チベット人の祖先となったユーラシア南部系集団は、縄文人、さらには現代日本人の祖先となったユーラシア南部系集団とは遺伝的にかなり分岐しており、YHg-D1a共有を根拠に現代の日本人とチベット人との近縁性を主張するのには無理があるでしょう。Wang CC et al., 2021では、現代の日本人もチベット人もEEIN祖先系統の割合が高くなっていますが、日本人は青銅器時代遼河地域集団、チベット人は黄河地域新石器時代集団と近いとされているので、この点でも、現代の日本人とチベット人との近縁性を強調することには疑問が残ります。

 YHgでも非アフリカ系現代人で主流となっているK2は分岐がYHg-Dよりも遅いので、ユーラシア南部系集団には存在しなかったかもしれません。Vallini et al., 2021では、4万年前頃の北京近郊の田園個体はユーラシア東部系集団に位置づけられ、そのYHgはK2bです(高畑., 2021、関連記事)。Vallini et al., 2021で同じくユーラシア東部系集団ながら基底部近くで分岐したと位置づけられる、シベリア西部のウスチイシム(Ust'-Ishim)近郊のイルティシ川(Irtysh River)の土手で発見された44380年前頃(Bard et al., 2020、関連記事)となる男性(Fu et al., 2014、関連記事)はYHg-NOです(Wong et al., 2017)。古代DNAデータでも、YHg-K2がユーラシア東部系集団に存在したと確認されます。

 YHg-CはYHg-Dに次いで分岐が早いので、ユーラシア南部系集団とユーラシア東部系集団の両方に存在した可能性が高そうです。チェコ共和国のバチョキロ洞窟(Bacho Kiro Cave)で発見された現生人類個体群(44640〜42700年前頃)は、現代人との比較ではヨーロッパよりもアジア東部に近く、ヨーロッパ現代人への遺伝的影響はほとんどない、と推測されています(Hajdinjak et al., 2021、関連記事)。この4万年以上前となるバチョキロ洞窟個体群ではYHg-F(M89)の基底部系統とYHg-C1(F3393)が確認されており、ユーラシア東部系集団には、YHg-CとYHg-K2も含めてYHg-Fが存在したと考えられます。Vallini et al., 2021ではこのバチョキロ洞窟個体群はユーラシア東部系集団に位置づけられ、ルーマニア南西部の「骨の洞窟(Peştera cu Oase)」で発見された39980年前頃の「Oase 1」個体(Fu et al., 2015、関連記事)の祖先集団と遺伝的にきわめて近縁とされます。「Oase 1」のYHgはFで(高畑., 2021)、ユーラシア東部系集団におけるYHg-Fの存在のさらなる証拠となります。

 サフルランド集団のYHgはK2(から派生したS1a1a1など)とC1b2が多くなっており、YHg-C1b2はユーラシア南部系集団に存在したかもしれませんが、YHg-K2はユーラシア東部系集団との混合によりもたらされたかもしれません。それにより、サフルランド集団の祖先集団には存在したYHg-Dが消滅した可能性も考えられます。もちろん、YHgについて述べてきたこれらの推測は、YHgの下位区分の詳細な分析と現代人の大規模な調査とさらなる古代人のデータの蓄積により、今後的外れと明らかになる可能性は低くないかもしれませんが、とりあえず現時点での推測を述べてみました。


●まとめ

 以上、現時点での私見を述べてきましたが、今後の研究の進展によりかなりのところ否定される可能性は低くないでしょう。それでも、一度情報を整理することで理解が進んだところもあり、やってよかったとは思います。まあ、自己満足というか、他の人には、よく整理されていないので分かりにくいと思えるでしょうから、役に立たないとき思いますが。今回は、出アフリカ現生人類集団が単純に東西の各集団(ユーラシア東部系集団とユーラシア西部系集団)に分岐したのではなく、両者の共通祖先と分岐したユーラシア南部系集団という集団を仮定すると、パプア人の位置づけに関する違いも理解しやすくなるのではないか、と考えてみました。

 この推測がどこまで妥当なのか、まったく自信はありませんが、仮にある程度妥当だとしても、まだ過度に単純化していることは確かなのでしょう。現生人類とネアンデルタール人と種区分未定のホモ属であるデニソワ人(Denisovan)デニソワ人との間の関係さえかなり複雑と推測されていますから(Hubisz et al., 2021、関連記事)、生人類同士の関係はそれ以上に複雑で、単純な系統樹で的確に表せるものではないのでしょう。ただ、上述のように完新世よりも気候が不安定だった更新世において、現生人類の拡散過程で遺伝的分化が進んだこともあり、系統樹での理解が有用であることも否定できないとは思います。その意味で、出アフリカ現生人類集団からユーラシア南部系集団が分岐した後で、ユーラシア東部系集団とユーラシア西部系集団が共通祖先集団から分岐した、との想定も一定以上有効だろう、と考えています。また今回は、考古学の知見を都合よくつまみ食いしただけなので、考古学の知見とより整合的な現生人類の拡散史を調べることが今後の課題となります。


参考文献:
Adachi N. et al.(2021): Ancient genomes from the initial Jomon period: new insights into the genetic history of the Japanese archipelago. Anthropological Science, 129, 1, 13–22.
https://doi.org/10.1537/ase.2012132

https://sicambre.at.webry.info/202109/article_6.html

9. 2021年11月10日 16:00:29 : lCCO7qVYNQ : TkZaNEtBbjVhVkU=[25] 報告
雑記帳
2021年11月10日
大橋順「アジア人・日本人の遺伝的多様性 ゲノム情報から推定するヒトの移住と混血の過程」
https://sicambre.at.webry.info/202111/article_10.html


 井原泰雄、梅ア昌裕、米田穣編『人間の本質にせまる科学 自然人類学の挑戦』所収の論文です。ヒトゲノムとは、ヒト(Homo sapiens)が持つ遺伝情報(全DNA配列)の1セットのことです。あらゆる生物の基本単位は細胞で、赤血球以外のヒトの体細胞は核膜で囲まれた球状の細胞核を持っています。細胞核の中に染色体があり、各染色体はヒストンとよばれるタンパク質にデオキシリボ核酸(DNA)が巻きついた棒状の構造をしています。DNAの最小単位(ヌクレオチド)は、塩基と糖とリン酸から構成されています。塩基にはアデニン(A)とグアニン(G)とシトシン(C)とチミン(T)の4種類があり、ヌクレオチドにはそのうち1塩基が結合しています。ヌクレオチドはリン酸を介して鎖状につながっており、DNA鎖と呼ばれます。2本のDNA鎖の塩基同士は水素結合によりつながっており、二重螺旋構造となっています。向かい合う塩基の組み合わせは特異的で相補的な関係にあり、具体的にはAとT、GとCです。DNA鎖における4種類の塩基の組み合わせが塩基配列で、生物が正常な生命活動を維持するための遺伝情報が含まれています。ヒトゲノムは約31億塩基対により構成され、その一部(数%)はタンパク質のアミノ酸配列を規定しており、そうした部位はタンパク質コード遺伝子と呼ばれます。ヒトゲノムには、約25000個のタンパク質コード遺伝子が存在します。


●性特異的遺伝マーカー

 ヒトの細胞核には、22対の常染色体(ヒトは二倍体生物なので44本)と1対の性染色体(女性はX染色体が2本、男性はX染色体とY染色体が1本ずつ)が含まれています。卵子には必ずX染色体が1本含まれますが、精子にはX染色体を含むものとY染色体を含むものがあり、精子が卵子と結合すると、前者ならば女子、後者ならば男子が生まれます。Y染色体は父親から息子にのみ伝わるので、父親の系譜を反映する遺伝マーカーとしてよく利用されます。

 ミトコンドリアは細胞質に存在する細胞小器官で、エネルギー産生や呼吸代謝の役割を担っています。ミトコンドリアもDNAを含んでおり(mtDNA)、核DNAと同様に親から子供に伝わります。受精のさい、父親由来のミトコンドリアは卵子の中に入らないか、入っても破壊されるので、mtDNAは母親からのみ子供に伝わります。この母系遺伝の性質から、mtDNAは母親の系譜を反映する遺伝マーカーとして利用されています。mtDNAは男性も有しており、細胞内のDNA量が多く解析しやすいため、これまでに多くの研究があります。


●SNP

 配偶子が形成されるさい、ひじょうに低い確率ではあるものの、DNA複製エラーによる塩基配列の変化が起きることもあり、突然変異と呼ばれます。突然変異には、塩基置換、塩基の挿入や欠失、繰り返し配列における繰り返し数の増減などがあり、突然変異により生じた新たな塩基配列が、世代経過に伴って集団中で頻度が増加すると、多型として観察されるようになります。ヒトゲノム中で最も高頻度に観察される多型は、SNP(一塩基多型)です。SNPとは、着目する集団において、塩基配列上のある特定の位置に、2種類以上の塩基が存在する部位のことです。SNPの異なる塩基をアレル(対立遺伝子)と呼びます。ヒトの点突然変異(1塩基が別の塩基に置換されること)率は1世代1塩基あたり1.2×10⁻⁸と低いので、大部分のSNPには2種類の塩基しか観察されず、そのほとんどが単一起源と考えられます。単一起源とは、祖先型がGアレルで派生型がAアレルの場合、GアレルからAアレルへの突然変異は過去に1回しか起きていない、ということです。二倍体生物のヒトは両親から相同染色体を1本ずつ受け継ぐので、各SNPに対して3種類の遺伝子型が存在し、たとえばA/GのSNPでは、A/AとA/GとG/Gの3通りの遺伝子型が存在します。

 タンパク質コード遺伝子上にあるSNPのうち、塩基の違いにより異なるアミノ酸となるものを非同義SNP、同じアミノ酸となるものを同義SNPと呼びます。多くのSNPはアメリカ国立生物工学情報センター(National Center for Biotechnology Information、略してNCBI)に登録されており、rsで始まるIDが付与されています。SNPを構成する2つのアレルのうち、頻度の低い方はマイナーアレル、頻度の高い方はメジャーアレルと呼ばれます。NCBIのdbSNPデータベースには、マイナーアレル頻度が1%以上の非同義SNPが101000個以上、同義SNPが89000個以上登録されています(2020年10月27日時点)。

 日本人を含むアジア東部人に特徴的な表現型を示すSNPに、ABCC11遺伝子上の非同義SNP(rs17822931)とEDAR遺伝子上の非同義SNP(rs3827760)があります。ABCC11はABC(ATP binding Cassette)トランスポータータンパク質の一つで、乳腺やアポクリン腺などの外分泌組織で作用するタンパク質です。rs17822931はABCC11タンパク質の180番目のアミノ酸残基がグリシン(Gアレル)もしくはアルギニン(Aアレル)となるSNPで、アルギニンとなるアレル頻度がアジア東部人では高く、A/A遺伝子型だと耳垢は乾燥型に、G/AもしくはG/G遺伝子型だと耳垢は湿った型になります。EDARはエクトジスプラシンA受容体で、胚発生において重要な役割を果たすタンパク質です。rs3827760はEDAR タンパク質の370番目のアミノ酸塩基がバリン(Tアレル)もしくはアラニン(Cアレル)となるSNPで、Cアレルを持つほど毛髪が太くなり、また切歯のシャベルの度合いが強くなります。乾燥型の耳垢と関連するrs17822931のAアレルには、アジア東部人の祖先集団で強い正の自然選択が作用した可能性が高く(関連記事)、それが明瞭な地域差を生じさせた、と考えられます。


●減数分裂と組換え

 生殖細胞系列で起こる細胞分裂の様式は減数分裂と呼ばれ、細胞が通常増殖するさいの様式は有糸分裂もしくは体細胞分裂と呼ばれます。減数分裂が体細胞分裂と異なる点は、染色体の複製跡に姉妹染色分体となり、2回連続して細胞分裂(減数第一分裂と減数第二分裂)が起きることで、最終的に配偶子では染色体数が分裂前の細胞に半分になることです。減数分裂により遺伝的多様性が生み出される仕組みに、非姉妹染色分体間で染色体の一部が入れ替わる交叉(乗換)があり、各染色体あたり約2ヶ所以上(減数分裂あたり約50ヶ所)で交叉が起きます。これにより、新たな塩基配列を有する染色体(組換え体)が子供に伝わることがあります。同一染色体上の2地点間で組換えが起こる頻度が1%以上の時、その2点間の遺伝距離を1センチモルガン(cM)と呼び、ヒトの場合は1.3cMの距離が約100万塩基に相当します。


●ハプロタイプと連鎖不平衡

 ハプロタイプとは、同一染色体上に存在する複数のSNPのアレルの組み合わせです。観察されるハプロタイプの種類数は、SNP部位間で過去に起きた組換えの回数に依存しており、SNP部位が近接している(正確には、遺伝的距離が短い)と組換え率が低いため、理論上の最大種類数よりも少なくなります。観察されるハプロタイプの種類や各ハプロタイプ頻度は集団により異なりますが、遺伝的に近い集団ではよく似ているので、ヒト集団間の遺伝的近縁関係や、ヒトの移住史の推定に用いられます。


 連鎖不平衡とは、同一染色体上の2つ以上の多型間のアレルに関連がある状態のことです。SNP1(AアレルとGアレル)とSNP2(CアレルとTアレル)により規定されるハプロタイプの場合、A-CとA-TとG-CとG-Tの4種類のハプロタイプが存在し得ます。ハプロタイプの頻度がそれを構成するアレル頻度の積と等しくない場合、両アレルは連鎖不平衡の関係にあると呼ばれ、ハプロタイプ頻度の方がアレル頻度の積よりも大きければ正の連鎖不平衡、小さければ負の連鎖不平衡と呼ばれます。A-CとA-TとG-CとG-Tの各ハプロタイプ頻度をh11とh12とh21とh22とする場合、AアレルとCアレルの各頻度はh11+h12とh11+h21です。AアレルとCアレルの連鎖不平衡係数を、A-Cハプロタイプ頻度からアレル頻度の積を引いたD11=h11- (h11+h12) (h11+h21)と定義すると、D11>0ならばAアレルとCアレルは負の連鎖不平衡、D11>0ならばAアレルとCアレルは負の連鎖不平衡、D11=0ならば、AアレルとCアレルは連鎖平衡にある、と呼ばれます。AアレルとTアレルの連鎖不平衡係数をD12、GアレルとCアレルの連鎖不平衡係数をD21、GアレルとTアレルの連鎖不平衡係数をD22と定義すると、D11=-D12=-D21=D22の関係が常に成立します。


●ゲノム人類学

 全ゲノム配列決定技術が実用化されたことで、ゲノム人類学研究において飛躍的な進展がみられています。ゲノム人類学とは、ヒトゲノムの多様性情報から、人類の進化過程や表現型の多様性の基盤となる遺伝因子を明らかにし、ゲノム水準で「生物としてのヒト」の理解を目指す学問分野と言えます。多くの生物種でゲノム解析が行なわれていますが、公共ゲノムデータベースが最も充実しているのはヒトで、データ解析のフリーソフトウェアも多数公開されています。一昔前までは、実験してDNA配列を決定するという、いわゆるwet解析抜きに研究を進めることは困難でしたが、現在ではデータベースのデータを利用したいわゆるdry解析のみで優れた成果を挙げられます。若い人が参入しやすい点からも、ゲノム人類学は今後ますます発展する、と期待されます。


●アジア人の形成過程

 人の進化を包括的に理解するには、より多くのヒト集団の解析が必要なので、大規模な国際共同研究計画が盛んに行なわれています。その一つにヒトゲノム解析機構(Human Genome Organisation、略してHUGO)の汎アジアSNP共同事業体(Pan-Asian SNP Consortium、略してPASC)があります。PASCでは、アジア人の形成過程を明らかにする目的で、アジアの73集団の1808人について、54794個のSNP遺伝子型が調べられています(関連記事)。

 これまで、アジア東部現代人の祖先集団の形成について、二つの仮説が提案されてきました。一方は、アジア東部集団とアジア南東部集団がアジア大陸南部の沿岸部に沿って到達し、一つの共通祖先を有しており、アジア南東部到達後にアジア東部まで北上した、という説です(南岸経路説)。もう一方は、アジア東部に到達した二つの移住経路があり、南を経由した移住の後に、より北方を経由して到達した(アジア中央部を介してヨーロッパ集団とアジア集団をつないだ)移住があった、という説です(南北両経路説)。代表的なアジア集団と、アフリカ集団とヨーロッパ集団とオセアニア集団とアメリカ大陸先住民集団を含めた、29集団を対象とした系統樹解析により、ヨーロッパ集団とアジアやオセアニアやアメリカ大陸先住民の集団とが分岐した後、オセアニア集団とアジアおよびアメリカ大陸先住民集団とが分岐し、最後にアジア東部集団とアメリカ大陸先住民集団とが分岐した、と示唆されました。なお、本論文はこのように指摘しますが、現生人類各集団間の関係は複雑で(関連記事)、遺伝的に大きく異なる集団間の混合により形成された集団を単純な系統樹に位置づけることには、難しさがあるように思います(関連記事)。

 SNPハプロタイプの多様度に注目すると、南の集団から北の集団にいくほど(緯度に比例して)、その多様性は減少しており、アジア集団の祖先は南から北へと移動してきた、と強く示唆されます。アジア東部集団で観察されるハプロタイプの90%のうち、50%はアジア南東部集団で観察される一方、わずか5%しかアジア中央部および南部集団では観察されませんでした。系統樹解析結果も合わせると、アジア東部集団の主要な起源はアジア南東部にあり、南岸経路説の方が有力と言えそうです。

 ネグリートは、アジア南東部からニューギニア島にかけて住む少数民族です。ネグリートは、低身長や暗い褐色の皮膚や巻毛といった特徴的な表現型を持ち、狩猟採集を営みながら孤立して存続してきたことから、その祖先集団や他のアジア集団との関係については諸説ありました。ネグリートは系統樹解析結果では、アジア東部人やアメリカ大陸先住民とともにオセアニア人から分岐しており、ネグリートの一部集団がアジア東部人やアメリカ大陸先住民と遺伝的に近いことから、ネグリートは他のアジア集団と共通祖先を有している、と考えられます。


●47都道府県の解析

 47都道府県の日本人11069個体の138688ヶ所の常染色体SNP遺伝子型データを用いて、日本人の遺伝的集団構造を調べた研究(関連記事)では、47各都道府県から50個体ずつ無作為抽出され、各SNPのアレル頻度が計算され、漢人(北京)も含めてペアワイズにf2統計量を求めてクラスタ分析が行なわれました。f2統計量とは、2集団間の遺伝距離を測定する尺度の一つで、SNPごとにアレル頻度の集団間差の2乗を計算し、全SNPの平均値として与えられます。クラスタ分析とは、多次元データからデータ点間の非類似度を求め、データ点をグループ分けする多変量解析手法の一つで、この研究では階層的手法の一つであるウォード法が用いられています。47都道府県を4クラスタに分けると、沖縄、東方および北海道、近畿および四国、九州および中国に大別されます(図5.9、図のCHBは北京漢人)。関東や中部の各都県は1クラスタ内に収まりません。これは、関東もしくは中部の都県を遺伝的に近縁な集団とはみなせず、そうした単位で日本人集団の遺伝的構造を論じることは難しい、と示しています。以下は本論文の図5.9(本論文の参照文献より引用)です。
画像

 47都道府県を対象にした主成分分析結果(図5.10a)では、沖縄県に遺伝的に最も近いのは鹿児島県と示されます。主成分分析とは、多数の変数(多次元データ)から全体のバラツキをよく表す順に互いに直行する変数(主成分)を合成する、多変量解析の1手法です。最も多くの情報を含む第1主成分の値から、沖縄県と鹿児島県の遺伝的近縁性が示されます。これは、単に地理的近さだけではなく、奄美群島の存在も影響していると考えられます。図5.9でクラスタを形成した地方については、九州と東北が沖縄県と遺伝的に近く、近畿と四国が遺伝的に遠い、と示されます。第2主成分は、都道府県の緯度および経度と有意に相関しています。以下は本論文の図5.10(本論文の参照文献より引用)です。
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 日本列島には3万年以上前からヒトが棲んでおり、16000年前頃から縄文時代が始まります(開始の指標を土器だけで定義できるのか、開始も終了も地域差がある、との観点から、縄文時代の期間について議論はあるでしょう)。弥生時代が始まる3000年前頃(この年代についても議論があるとは思います)に、それまで日本に住んでいた「縄文人」が、アジア大陸部から到来してきた「渡来人」と混血した、と考えられています。現代日本人の成立については、おもに北海道のアイヌと、おもに沖縄県の琉球人と、本州・四国・九州を中心とする「本土人」から構成される「二重構造モデル」が想定されています。遺伝学的研究により、「縄文人」と「渡来人」の混血集団の子孫が「本土人」で、アイヌや琉球人、とくに前者は当時の混血の影響をあまり受けていない、と示されています。

 「渡来人」の主要な祖先集団の子孫と想定される北京漢人と、各都道府県のf2統計量を計算すると、沖縄県は漢人から遺伝的に最も遠く、近畿と四国が漢民族に近い(最も近いのは奈良県)、と示されました。したがって、図5.10aにおいて、第1主成分の値が大きい都道府県は「縄文人」と遺伝的に近く、値が小さい都道府県は「渡来人」と近い、と想定されます。大部分の「渡来人」は朝鮮半島経由で日本列島に到達したと考えられますが、朝鮮半島から地理的に近い九州北部ではなく、近畿や四国の人々に「渡来人」の遺伝的構成成分がより多く残っており、近畿と四国には、他地域よりも多くの割合の「渡来人」が流入したかもしれません。


●日本人に特徴的なY染色体

 Y染色体上の組換えを受けない領域の塩基配列の違いに基づいて、「縄文人」由来のY染色体を同定できる可能性があります。日本人男性345個体のY染色体の全塩基配列決定に基づく系統解析(関連記事)では、日本人のY染色体は主要な7系統に分かれました。他のアジア東部集団のY染色体データを含めての解析に基づくと、日本人で35.4%の頻度で見られる系統1は、他のアジア東部人ではほとんど観察されない、と示されました。系統1に属する日本人Y染色体の変異を詳細に解析すると、系統1はYAPという特徴的な変異を有するY染色体ハプログループ(D1a2a)に対応しています。YAP変異は、形態学的に「縄文人」と近縁と考えられているアイヌにおいて、80%以上という高頻度で観察されます。「渡来人」の主要な祖先集団の子孫である韓国人集団や中国人集団には系統1に属するY染色体がほとんど観察されなかったことから、系統1のY染色体は「縄文人」に由来する、と結論づけられます。なお、同一検体のmtDNAの系統解析からは、明らかに「縄文人」由来と想定されるような系統は検出されませんでした。


●今後の課題

 日本列島「本土人」の常染色体のゲノム成分の80%程度は「渡来人」由来と推定されており(関連記事)、「縄文人」と「渡来人」の混血割合は2:8程度だったと思われます。縄文時代晩期の人口は8万人程度と推定されており、その居住範囲は日本列島全域にわたっていました。混血割合から単純に考えると、32万人の「渡来人」が渡海して日本列島に流入したことになりますが、この推定値は多すぎると思われます。より少ない「渡来人」が日本列島で優勢になる可能性として、「渡来人」との戦闘により「縄文人」が激減した可能性も想定されます。しかし、「縄文人」由来の系統1のY染色体の割合が現代日本人では35%となることから、仮に大多数の「縄文人」男性が系統1のY染色体を有していても、2:8の混血割合であれば、せいぜい20%にしかならないはずです。戦闘でまず犠牲になるのは男性であることが多く、系統1のY染色体の頻度はさらに低くなるでしょう。この問題も含めて、日本人の集団史には未解明の問題が残っています。


 以上、本論文についてざっと見てきました。現代日本人は先住の「縄文人」と弥生時代以降にアジア大陸部から新たに日本列島に到来してきた「渡来人」との混合により形成された、との見解は現代日本社会においてかなり定着してきたように思います。しかし、近年の古代DNA研究の進展から、その形成過程はかなり複雑だったように思われます(関連記事)。朝鮮半島において、「縄文人」的構成要素でゲノムをモデル化できる個体が8300年前頃から確認されており、2800〜2500年前頃の朝鮮半島中部西岸の個体は日本列島「本土」現代人と遺伝的構成がよく似ています。これらを踏まえると、日本列島「本土」現代人の基本的な遺伝的構成は朝鮮半島において紀元前千年紀初頭には確立しており、この集団が弥生時代以降に日本列島に到来して勢力を拡大した、と考えられます。

 さらに、朝鮮半島では紀元前千年紀後期以降に人類集団の遺伝的構成に大きな変化があって現代北京漢人により近づき、そうした集団が弥生時代後期から飛鳥時代にかけて到来し、日本列島「本土」現代人の祖先集団に遺伝的影響を残した、と現時点では想定しています。47都道府県単位で奈良県民が遺伝的に最も北京漢人に近いのは、古墳時代から飛鳥時代に朝鮮半島から渡来した集団がおもにヤマト王権の中心地域に移住した結果だろう、と推測しています。また本論文では、「縄文人」由来と考えられる系統1のY染色体の割合が日本列島「本土」現代人で高い、と指摘されていますが、そのうち一定以上の割合は弥生時代以降に朝鮮半島から到来した可能性が高いように思います。もちろん、こうした私見も日本列島、さらにはユーラシア東部の人口史を過度に単純化しているのでしょうし、今後の古代DNA研究の進展により大きく見直す必要が出てくるかもしれません。


参考文献:
大橋順(2021)「アジア人・日本人の遺伝的多様性 ゲノム情報から推定するヒトの移住と混血の過程」井原泰雄、梅ア昌裕、米田穣編『人間の本質にせまる科学 自然人類学の挑戦』(東京大学出版会)第5章P78-91

https://sicambre.at.webry.info/202111/article_10.html

10. 中川隆[-12510] koaQ7Jey 2023年6月11日 09:59:51 : FliUTcRNEY : Z1dLUVlOVC5zSy4=[3] 報告
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雑記帳
2023年06月11日
日本列島の人類史に関する問題の整理
https://sicambre.seesaa.net/article/202306article_11.html

 最近、日本列島における4万年以上前の人類の存在の可能性や、日本語の起源などについて考えることがあったので、一度おもに古代ゲノム研究に基づいて関連する情報をまとめるとともに、遺伝学に基づく人類の進化や拡散に関する通俗的な見解について、普段から考えていることも整理します。最近の当ブログの記事は、論文を訳して時に私見も少し付け加えるだけで終わることが多く、自分なりに一度整理しないと、全体像をよく把握できないままになる、と考えたからです。言い忘れたことや欠落している視点は多々あるでしょうが、とりあえず現時点の見解をまとめます。ネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)と現生人類(Homo sapiens)との関係や、種区分未定のホモ属であるデニソワ人(Denisovan)についてなど、他にも自分なりに情報をまとめて整理する必要のある問題が多いので、今後少しずつ進めていくつもりです。


●便宜的区分と古代ゲノム研究の通俗的解釈に関する問題

 分類・区分して程度の違いを見出す能力は現生人類でとりわけ発達しており(ネアンデルタール人やデニソワ人に現生人類と同等のそうした能力があった可能性も否定はできませんが)、鉄と銅の違いや鯛と河豚の違いや石材の違いなど、分類・区分は現生人類社会の基盤の一つになっています。重要なのは、そうした区分にどれだけの整合性・妥当性があるのか、ということだと思います。ただ結局のところ、時代や地理や文化や民族などの区分も含めて分類という行為は、現生人類の知的営みにおいてたいへん重要で実用的ではあるものの、あくまでも理解を助けるための手段という側面も多分にあります。現生人類の営みが多くの場合時空間的に連続していることを考えると、対象が現在であれ過去であれ、あくまでも便宜的措置であり、それを絶対視することなく、多くの前提・留保のもとに、ある程度割り切りつつも、慎重に区分してそれを使用していくしかないのでしょう。

 たとえばネットで検索すると、アイヌ民族・文化の成立は13世紀で、北海道の先住民は「縄文人(この記事では縄文文化関連集団という意味で用います)」であるとして、アイヌ文化・民族を縄文文化やその後継と考えられる続縄文文化や擦文文化およびその担い手の集団と明確に区別するような、通俗的見解が散見されます。これは便宜的な区分を絶対視してしまった見解で、現生人類にとって常に警戒すべき陥穽と言うべきでしょう。年表を見ると、アイヌ文化期は13世紀頃以降に始まる、とするものが多いようですが、これはあくまでも便宜的区分・名称であり、この頃に初めてアイヌ民族・文化が成立することを証明しているわけではありません。じっさい、考古学的文化に民族名を冠することは問題だとして、アイヌ文化ではなくニブタニ文化と呼ぶよう、提唱している研究者もいます(瀬川., 2019)。文化と民族の連続性と変容と断絶の評価は難しく、年表の字面だけ見て文化の断絶を想定するのは、論外だと思います。

 古代ゲノム研究の大衆的な受容にも問題があり、まず、古代ゲノム研究は統計的手法に依拠しており、「完全な証明」をできるわけではなく、あくまでも確率の問題ということです(放射性炭素年代測定法などの年代測定法も同様です)。この点を誤解している人はきわめて少ないかもしれませんが、A集団のゲノムはB集団関連祖先系統(祖先系譜、祖先成分、祖先構成、ancestry)50%程度とC集団関連祖先系統50%程度でモデル化できる、というような知見を、B集団とC集団がA集団の祖先だと証明された、と認識している人は少なくないかもしれません。しかし、これはあくまでも、A集団のゲノムにおける祖先系統の割合が、BおよびC集団的な祖先系統により統計的に適切にモデル化できることを示しているだけで、B集団とC集団がA集団の直接的祖先であることを証明しているわけではありません。

 たとえば、現代日本人集団を現代朝鮮人関連祖先系統(91%)と縄文時代個体関連祖先系統(9%)の2方向混合としてモデル化できる、と示した研究(Wang CC et al., 2021)がありますが、もちろん、現代朝鮮人集団が現代日本人集団の祖先のはずはないので、現代朝鮮人集団のような遺伝的構成の集団が朝鮮半島には太古から存在し、現代日本人集団の主要な祖先になった、と考える人は少なくないかもしれません。その研究では、古代人集団を用いて、現代日本人集団は青銅器時代西遼河集団関連祖先系統(92%)と縄文時代個体関連祖先系統(8%)の2方向混合としてモデル化できる、とも推測されています。しかし、これは青銅器時代西遼河集団が現代日本人集団の直接的祖先であることを示しているのではなく、ある集団の直接的な祖先集団を見つけることが困難な古代ゲノム研究において、年代や文化や地理的分布(考古学的知見)も参照しつつ、代理となりそうな古代人集団で検証して、統計的に適切な結果を提示しているにすぎません。

 その意味で、古代ゲノム研究から特定の現代人集団の祖先集団を特定することは困難で、どれだけ近似値に近づけるかが問題となります(これは多くの学問に共通する問題かもしれませんが)。最近の研究(Robbeets et al., 2021)では、現代日本人集団は低い割合の縄文時代個体関連祖先系統と青銅器時代の高い割合の西遼河地域の夏家店上層(Upper Xiajiadian)文化個体関連祖先系統の混合としてモデル化できる、と示されましたが(後述のように、この研究には批判もあります)、夏家店上層文化集団と縄文時代集団が現代日本人の直接的な祖先であることを証明しているわけではなく、それぞれの集団と遺伝的に類似した集団が現代日本人の直接的な祖先集団である可能性は高い、と示しているだけです。ただ、地理分布からして、「縄文人」集団が現代日本人の(影響は小さくとも)直接的な祖先集団である可能性は高そうです。古代ゲノム研究で示される特定の集団もしくは個体のゲノムにおける祖先系統とは、基本的に代理であることを踏まえねばならないでしょう。

 古代ゲノム研究で他に重要な問題となるのは、特定の文化や時代を表す集団が1個体で構成される場合も珍しくないことです。その1個体が特定の文化や時代の集団の遺伝的構成を適切に表している可能性はあるとしても、遺伝的多様性の高い集団ならば、それを適切に反映できませんし、他の地域もしくは集団から流入してきた外れ値個体であればなおさらです。この問題は古代ゲノム研究に今後ずっとついて回るでしょうから、とても無視できません。完新世の現生人類については、今後この問題をある程度回避できるかもしれませんが、ネアンデルタール人など非現生人類ホモ属では、ゲノム解析数の増加を完新世現生人類ほどにはとても期待できません。現生人類とネアンデルタール人の混合についても、非アフリカ系現代人集団の祖先と混合した集団が直接的に確認されているわけではなく、あくまでも代理の個体のうちどれが非アフリカ系現代人集団の祖先と混合したネアンデルタール人集団に近いのか、検証されているだけです(Mafessoni et al., 2023)。

 また上述の問題とも関わりますが、特定の文化や時代といった区分も便宜的なので、これを安易に個体もしくは集団の遺伝的構成と関連づけたり、特定の地域における人類集団の遺伝的連続性を前提としたりするのは危険です。この問題については、世界のいくつかの事例を以前に取り上げましたが(関連記事)、文化と遺伝というかDNAとの関連は多様で、遺伝的構成や片親性遺伝標識(母系のミトコンドリアDNAと父系のY染色体)のミトコンドリアDNA(mtDNA)ハプログループ(mtHg)やY染色体ハプログループ(YHg)を、安易に特定の文化もしくは民族の分類と関連づけることは極めて危険です。これは、ネアンデルタール人が常染色体ゲノムでは現生人類よりもデニソワ人の方と明らかに近縁でありながら、mtDNAでもY染色体でもデニソワ人より現生人類の方と明らかに近縁であること(Petr et al., 2020)からも、強く示されています。

 種系統樹と遺伝子系統樹とは必ずしも一致しないので(Harris.,2016,第2章)、常染色体ゲノムの特定領域であれ、ミトコンドリアであれY染色体であれ、そのハプログループの比較で特定の集団(種、分類群)間の近縁関係を論じるのは危険です。たとえば、近縁なA・B・Cの3系統の分類群において、A系統がB系統およびC系統の共通祖先と分岐し、その後でB系統とC系統が分岐したとすると、B系統とC系統は相互に、A系統よりも形態が類似している、と予想されます。しかし、形態(もしくは表現型)の基盤となる遺伝子の系統樹が種系統樹と一致しない場合もありますから、B系統とC系統はどの形態(もしくは表現型)でもA系統とよりも相互に類似している、とは限りません。

 これと関連して、B系統においてある表現型と関連する遺伝子のあるゲノム領域において、遺伝的浮動もしくは何らかの選択により変異が急速に定着した場合、ある表現型ではB系統は近縁のC系統よりもA系統の方と類似している、ということもあり得ます。じっさい、チンパンジー属とゴリラ属とホモ属の系統関係において、種系統樹ではチンパンジー属とホモ属が近縁ですが、ニシローランドゴリラ(Gorilla gorilla gorilla)ではゲノム領域の約30%で、種系統樹と遺伝的近縁性とが一致しない、と推定されています(Scally et al., 2012)。つまり、この約30%のゲノム領域では、ホモ属(現代人)がチンパンジー属よりもゴリラ属の方と近縁か、チンパンジー属がホモ属よりもゴリラ属の方と近縁である、というわけです。

 この記事の主題に即して具体的に日本列島の事例を挙げると、先史時代の先島諸島です。先島諸島には縄文文化の影響が及ばなかった、と考えられており(水ノ江., 2022)、沖縄諸島が安定していた貝塚時代から農耕の開始やアジア東部大陸部の陶磁器など外来要素が突如出現し大きく変わったグスク時代に、これらの要素は先島諸島へと伝わり、奄美・沖縄諸島と先島諸島が初めて一つの文化圏になりました(高宮., 2014)。しかし先島諸島では、グスク時代のずっと前となる紀元前9〜紀元前6世紀頃の個体において、遺伝的にほぼ完全に縄文時代個体と重なる複数の個体が確認されています(Robbeets et al., 2021)。考古資料には見えない言語など精神的文化の共有があったのか否か、遺伝的に大きく異なる他集団と共存していたのか否かなど、この事例が意味するところは現時点でよく分からず、日本列島においても文化もしくは民族とDNAとを安易に関連づけてはならない、と示しているように思います。


●4万年以上前

 日本列島では4万年前頃以降に遺跡が急増し(佐藤., 2013)、これ以降の人類の存在と、それが現生人類であることについては、ほぼ異論がないと思います。日本列島における4万年以上前(中期旧石器時代と前期旧石器時代と一般的には呼ばれています)の人類の存在で、2000年11月に発覚した旧石器捏造事件(関連記事)もあり、否定的な人が多いようにも思われます。そもそも、ヨーロッパ基準の前期→中期→後期(下部→中部→上部)という旧石器時代区分が、日本列島も含むアジア東部において適切に当てはまるのか、という問題もあるかもしれませんが、これについては私の知見があまりにも不足しているので、今回はこれ以上言及しません。

 捏造事件発覚後に、日本列島最古(127000〜70000年前頃)と騒がれた(関連記事)島根県出雲市の砂原遺跡の石器については、そもそも石器なのか否か議論となっており(関連記事)、人類の痕跡を示している、との共通認識が考古学研究者の間で確立しているとはとても思えません。それ以外の4万年以上前かもしれない日本列島の遺跡は、岩手県遠野市の金取遺跡です。砂原遺跡の石器については、年代以前にそもそも石器なのか否か、議論になっているのに対して、金取遺跡の4万年以上前とされる石器については、石器であることを疑う見解はないようです(上峯., 2020)。したがって、日本列島に4万年以上前に人類は存在しなかった、と主張するならば、金取遺跡の4万年以上前とされる石器について、その年代が4万年前頃以降であることを証明しなければなりません。

 ただ、仮に4万年以上前に日本列島に人類が存在したとしても、おそらく世界でも有数の更新世遺跡の発掘密度を誇るだろう日本列島において、4万年以上前となる人類の痕跡がきわめて少なく、また砂原遺跡のように強く疑問が呈されている事例もあることは、仮にそれらが本当に人類の痕跡だったとしても、4万年前以降の日本列島の人類とは遺伝的にも文化的にも関連がないことを強く示唆します。仮に日本列島における4万年以上前の人類の存在を仮定するならば、中国で中期〜後期更新世のデニソワ人かもしれないホモ属遺骸が複数発見されていることから(関連記事)、デニソワ人かもしれません。あるいは、絶滅したか現代人の主要な祖先ではないかもしれませんが、中国では10万年前頃の現生人類とされる遺骸が発見されているので、現生人類の可能性も考えられますが、その年代はずっと新しいのではないか、と議論になっています(関連記事)。


●後期旧石器時代

 ここでは、4万年前頃から縄文時代の直前までを指します。4万年前頃以降に日本列島に到来した人類集団については、そもそも後期旧石器時代の人類遺骸がほとんど発見されていないため、推測困難です。この時期で最古級となる遺跡が、長野県佐久市の香坂山です。香坂山遺跡では、較正年代で36800年前頃と、日本列島では最古の石刃石器群が発見されており、初期上部旧石器(Initial Upper Paleolithic、略してIUP)に位置づけられています(国武., 2021)。上述のようにDNA(遺伝的構成)と文化とを安易に結びつけてはいませんが、IUPは遺伝的にはユーラシア東部系集団との関連が指摘されています(Vallini et al., 2022)。

 もう少し具体的に見ていくと、4万〜3万年前頃には、現在の北京付近からアムール川流域とモンゴルまで、北京の南西56km にある田园(田園)洞窟(Tianyuan Cave)で発見された4万年前頃の男性個体で表される集団が存在していたようです(Mao et al., 2021)。これを仮に田園洞集団と呼ぶと、田園洞集団はアジア東部大陸部沿岸にまで広く分布していたようですから、日本列島に到来した可能性も充分考えられます。ただ、現代人には殆ど若しくは全く遺伝的影響を残していないようですから(Mao et al., 2021)、4万〜3万年前頃に日本列島に到来した現生人類集団は、縄文時代集団や現代日本人集団とは遺伝的につながっていないかもしれません。

 日本列島で発見された旧石器時代の人類遺骸は、そもそも本州・四国・九州とそのごく近隣の島々を中心とする日本列島「本土」で発見された更新世の人類遺骸が皆無に近いので、ほぼ琉球諸島に限られています。沖縄県石垣島の白保竿根田原洞穴遺跡では、旧石器時代の6個体のmtDNAが解析され、mtHgはM7aとB4とRに分類されていますが、琉球諸島現代人のゲノム解析から、旧石器時代琉球諸島の人類集団は、琉球諸島現代人の祖先ではなさそうだ、と推測されています(松波., 2020)。他にmtDNAが解析された更新世琉球諸島の人類遺骸としては、沖縄県島尻郡八重瀬町の港川フィッシャー遺跡で発見された2万年前頃の港川1号があり、そのmtHgはMの基底部近くに位置する、と推測されています(Mizuno et al., 2021)。この個体がその後の琉球諸島、さらには日本列島の人類集団と遺伝的につながっているのか否かは、mtHgからは判断できません。


●縄文時代

 縄文時代は、草創期(16500〜11500年前頃)→早期(11500〜7000年前頃)→前期(7000〜5470年前頃)→中期(5470〜4420年前頃)→後期(4420〜3220年前頃)→晩期(3220〜2350年前頃)と一般的に区分されています(山田., 2019)。縄文時代の開始を、土器が出現した16500年前頃とするのか、生態系・石器組成の変化や竪穴住居の定着などに基づいて13000〜11000年前頃とするのか、議論がありますが(関連記事)、草創期を旧石器時代から縄文時代への移行期とする見解もあります(山田., 2019)。

 現時点で解析されている縄文文化関連個体のゲノムデータからは、縄文時代の人類集団は時空間的に広範囲にわたって、既知の現代人および古代人集団と比較して一まとまりを形成し、遺伝的には比較的均一と考えられます(Cooke et al., 2021)。これは、縄文文化がほぼ現在の日本国の領土に限定されており、他地域との相互作用は低調だった、とする考古学的知見と整合的です(水ノ江., 2022)。ただ、mtHgでは地域差が指摘されており(篠田.,2019,P165-170)、核ゲノムでも地域差が示唆されています(Cooke et al., 2021)。とくにmtHgの地域差は、「縄文人」集団の形成過程を解明するうえで、重要な手がかりになるかもしれません。

 このように、「縄文人」集団は既知の現代人および古代人集団と比較して遺伝的に特異な存在と言えるかもしれませんが、ユーラシア東部系集団の変異内に収まっていますし、上述の田園洞集団のように、後期更新世〜初期完新世にかけては現生人類でも、現代人への遺伝的影響が小さいか、ほぼ絶滅してしまった集団は世界各地で珍しくありませんでした(関連記事)。その意味で、現代ではほぼ日本列島にしてその遺伝的痕跡を残しておらず、それもアイヌ集団を除けば遺伝的影響がかなり小さいと考えられる「縄文人」集団も、現生人類の歴史では特別な存在とは言えないでしょう。むしろ、今後ユーラシア東部圏やオセアニアの人類史で問題となるのは、現代人の主要な祖先集団がいつどのような経路で現代の分布地域に到来したのか、ということだと思います。

 現時点で最古となるゲノム解析された縄文時代の個体は、愛媛県久万高原町の上黒岩岩陰遺跡で発見された女性で、較正年代で8991〜8646年前頃となります。この個体のゲノムはすでに典型的な「縄文人」的構成要素を示しており、遅くとも9000年前頃までには、「縄文人」的な遺伝的構成の集団が形成されており、日本列島に存在したのでしょう。ただ、早期の時点で日本列島全域の縄文文化関連集団がすでに遺伝的に比較的均一だったのかは不明です。

 「縄文人」的な遺伝的構成の集団がどのように形成されたのかは、不明です。これについては大きく二つに分けられ、一方は、「縄文人」的祖先系統がユーラシア東部現代人の主要な祖先集団(MAEE集団)の祖先系統と20000〜15000年前頃に分岐した、とするものです(Cooke et al., 2021)。もう一方は、「縄文人」的祖先系統がユーラシア東部系の遺伝的に大きく異なる祖先系統との混合により形成された、というものです(Wang CC et al., 2021)。前者の場合、どこで分岐し、いつ日本列島に到来したのか、後者の場合、いつどこで混合して日本列島に到来したのか、あるいは日本列島で混合した場合、各集団はいつ日本列島に到来して混合したのか、という問題がありますが、現時点ではよく分かりません。以下は、後者の見解を図示したWang CC et al., 2021の図2です。
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 愛知県田原市の伊川津貝塚遺跡の縄文文化関連個体(IK002)のゲノム解析結果を報告した研究(Gakuhari et al., 2020)は、遺伝的に古代北ユーラシア人(Ancient North Eurasian、略してANE)に分類される、シベリア南部のマリタ(Mal’ta)遺跡で発見された24000年前頃となる1個体(MA1)関連祖先系統からの遺伝子流動の痕跡がほとんど検出されなかったことから、「縄文人」が南回り(ヒマラヤ山脈以南)でユーラシア西方から日本列島へと到来した、と推測します。ANEはユーラシアの現代人でも東部より西部の方と近く、現代のアメリカ大陸先住民の主要な祖先の一部となりました(Sikora et al., 2019)。

 一方で、同じくANEに分類される、ヤナ犀角遺跡(Yana Rhinoceros Horn Site、略してヤナRHS)の31600年前頃の個体は、日本人や他のアジア南東部および東部現代人と遺伝的に比較して「縄文人」と有意に密接なので、ANEと「縄文人」との間の遺伝子流動が推測されています(Cooke et al., 2021)。これらの知見をどう解釈すべきか、難しいところですが、ヤナRHS個体とMA1との間に直接的な祖先・子孫関係はなさそうですから(Sikora et al., 2019)、MA1と異なるヤナRHS個体のゲノムの祖先系統の一部に、「縄文人」の祖先と共通するものがあるのでしょうか。この問題は、「縄文人」集団の遺伝的形成過程解明の手がかりになるかもしれません。

 結局のところ、「縄文人」集団がどのように形成されたのか、現時点では不明ですが、北海道の礼文島の船泊遺跡で発掘された3800年前頃の縄文時代個体のゲノムデータを報告した研究(Kanzawa-Kiriyama et al., 2019)で、アジア東部大陸部の南方から北方までの沿岸集団と「縄文人」との遺伝的類似性が報告されていたことは注目されます。その後の研究(Wang CC et al., 2021)では、ロシア極東沿岸部のボイスマン(Boisman)遺跡の6300年前頃となる中期新石器時代集団(ボイスマン_MN)のゲノムが、モンゴル新石器時代集団関連祖先系統87%と「縄文人」関連祖先系統13%でモデル化されました。また朝鮮半島南岸の新石器時代の個体群のゲノムは、0〜95%の「縄文人」関連祖先系統と、西遼河地域の紅山(Hongshan)文化個体関連祖先系統でモデル化できます(Robbeets et al., 2021)。

 上述のように、現在の考古学的知見では、縄文文化はほぼ現在の日本国の領土に限定されており、他地域との相互作用は低調だった、と考えられており、これらの地域で縄文文化が大きな影響力を有して根づいたとはとても言えないでしょうが、朝鮮半島南岸については、0.1%程度の推定割合ながら縄文土器が出土しており(水ノ江., 2022)、「縄文人」が九州から朝鮮半島南岸へと渡り、さらに朝鮮半島南岸の新石器時代の個体群のゲノムにおけるさまざまな割合の「縄文人」関連祖先系統から考えると、一定の遺伝的影響を残した可能性は高そうです。

 しかし、これら日本列島外の縄文時代相当期間の個体群のゲノムにおける「縄文人」関連祖先系統が、縄文時代の日本列島の個体からもたらされたものかどうかは、検討の余地があります。最近の研究(Huang et al., 2022)は、先行研究(Wang CC et al., 2021)と同じく「縄文人」祖先系統の形成を、遺伝的に大きく異なる2つの祖先系統の混合としてモデル化していますが、先行研究よりも複雑になっています。その研究では祖先系統の分岐について、ユーラシア東部系が、まず初期ユーラシア東部系と初期アジア東部系に分岐し、初期アジア東部系が南北に分岐して、南部系は南部(内陸部)系と沿岸部系(アジア東部沿岸部祖先系統)に分岐します。「縄文人」関連祖先系統は、アンダマン諸島のオンゲ人関連祖先系統に比較的近い初期ユーラシア東部祖先系統(54%)とアジア東部沿岸部祖先系統(46%)の混合とモデル化されています(Huan et al., 2022図4)。以下はHuang et al., 2022の図4です。
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 Huang et al., 2022では、ボイスマン_MNはアジア東部北部祖先系統(71%)とアジア東部沿岸部祖先系統(29%)の混合とモデル化されています。つまり、先行研究で推定されたボイスマン_MNのゲノムにおける13%程度の「縄文人」関連祖先系統は、「縄文人」から直接的もしくは朝鮮半島経由でもたらされたのではなく、「縄文人」のゲノムにおける一方の主要な祖先系統を、ボイスマン_MNも約30%と比較的高い割合で有していることに起因しており、ボイスマン_MNと「縄文人」との直接的な関連はなかったのかもしれません。これは朝鮮半島南岸新石器時代個体群にも言えて、これらの個体のゲノムにおける「縄文人」関連祖先系統は、日本列島の縄文時代の個体からもたらされたものではないかもしれません。

 ただ、ボイスマン_MNには外れ値個体(ボイスマン_MN_o)があり、ロシア極東沿岸のレタチャヤ・ミシュ(Letuchaya Mysh)の7000年前頃となる狩猟採集民1個体(レタチャヤミシュ_7000年前)とともに、そのゲノムの30%程度が「縄文人」関連祖先系統でモデル化できます(Wang K et al., 2023)。また、上述のように、朝鮮半島南岸新石器時代には、そのゲノムの95%を「縄文人」関連祖先系統でモデル化できる個体が確認されており、具体的には、後期新石器時代の欲知島(Yokchido)遺跡の個体です(Robbeets et al., 2021)。これら一定以上の割合の「縄文人」関連祖先系統でゲノムをモデル化できる個体、とくに欲知島遺跡個体は、その地理的近さと、ひじょうに少ないものの縄文文化の考古資料が朝鮮半島南岸で発見されていること(水ノ江., 2022)から、日本列島の縄文時代の個体が朝鮮半島に到来して遺伝的影響を残した結果かもしれません。

 ただ、ロシア極東沿岸の2個体(ボイスマン_MN_oとレタチャヤミシュ_7000年前)のゲノムが30%程度の「縄文人」関連祖先系統でモデル化できることの意味は、よく分かりません。朝鮮半島南岸も関わる何からのつながりがあったのか、あるいはアジア東部大陸部の南方から北方までの沿岸集団と「縄文人」との遺伝的類似性が、更新世にまでさかのぼる複雑なもので、それも反映しているのかもしれません。この関連で注目されるのは、アムール川流域の11601〜11176年前頃の1個体(AR11K)のYHgがDEに分類されていることです。現代人と古代人の分布頻度から、更新世のアムール川流域にYHg-Eの個体が存在したとは考えにくいため恐らくはYHg-Dで、少ない個体の中で見つかったことは、当時まだ日本列島以外のアジア東部大陸部沿岸にもYHg-Dが現在以上の頻度で存在したことを示唆しており、それは「縄文人」集団の形成過程とも関わってくるかもしれません。

 つまり、YHg-D1a2aは日本列島と(日本列島から流入した)朝鮮半島(南部もしくは南岸)にしか存在せず、「縄文人」の指標となるYHgとするような通俗的見解がネットでは散見されるものの、縄文時代の日本列島から朝鮮半島に渡り、弥生時代以降に日本列島へと「逆流」した系統や、アジア東部大陸部沿岸から朝鮮半島などを経て弥生時代以降に日本列島到来した系統など、現代日本人のYHg-D1a2aでは、直接的には「縄文人」に由来しない割合も一定以上あるのではないか、というわけです。これは、日本人のYHgの詳しい分析と、分布頻度および分岐推定年代の精緻化と、古代DNA研究による裏づけで証明されていかねばならず、現時点では思いつきにすぎないことも否定できません。


●弥生時代

 弥生時代の開始については、言語学的知見も踏まえた考古学的観点から、日本語系統(日琉語族)系統の流入との関わりが指摘されています(Miyamoto., 2022)。それによると、日本語祖語は偏堡(Pianpu)文化の紀元前2700年頃の遼西地区東部もしくはマンチュリア南部の遼河流域に起源があり、紀元前1500年頃に朝鮮半島北部〜中央部のゴングウィリ(Gonggwiri)式土器を介して朝鮮半島南部の無文(Mumun)文化を形成し、この頃に磨製石器を伴う稲作など灌漑農耕が山東半島から遼東半島経由で朝鮮半島南部へと広がり、紀元前9世紀に九州北部へと広がり弥生文化の形成に至って、日本列島在来の「縄文語」系統を(北海道を除いてほぼ)やがて駆逐した、とされます(Miyamoto., 2022)。一方、朝鮮語祖語もマンチュリア南部とその周辺に起源があり、現在の北京付近に位置した、いわゆる戦国の七雄の一国である燕の東方への拡大に圧迫されて朝鮮半島へと移動し、その考古学的指標は紀元前5世紀頃の粘土帯土器(rolled rim vessel、Jeomtodae)文化になり、やがて朝鮮半島から日本語系統を駆逐した、と指摘されています(Miyamoto., 2022)。つまり、マンチュリア南部とその周辺から、まず紀元前二千年紀半ばに日本語系統が朝鮮半島へと到来し、その後で九州北部に広がったのに対して、朝鮮語系統は紀元前千年紀半ばに朝鮮半島へ到来した、というわけです。こうした言語学的知見も踏まえた考古学的見解が、古代ゲノム研究でも裏づけられるのかどうか、以下で整理します。

 弥生文化関連個体群の最大の遺伝的特徴は、その差異の大きさです。弥生文化関連個体群のゲノムは基本的に、MAEE集団(ユーラシア東部現代人の主要な祖先集団)から派生したアジア東部北方系(NEA)集団関連祖先系統と、「縄文人」関連祖先系統の混合でモデル化できますが、その割合が個体により大きく異なり、現代日本人集団の平均10%前後と同等か、それよりやや低いか、20%程度とやや多いか、40〜50%程度と明らかに多いなどさまざまで(Robbeets et al., 2021)、弥生文化関連個体群の遺伝的不均質性はこうした差異を反映しています。さらに、弥生時代早期となる佐賀県唐津市大友遺跡で発見された女性個体(大友8号)は、既知の「縄文人」と遺伝的に一まとまりを形成し(神澤他., 2021a)、これは、東北地方の弥生時代の男性個体も同様です(篠田.,2019,P173-174)。また、鳥取県鳥取市(旧気高郡)青谷町の青谷上寺地遺跡で発見された13個体も遺伝的差異を示しており、1ヶ所の遺跡でも遺伝的不均一性の相対的な高さが示されています(神澤他., 2021b)。つまり、弥生文化関連個体群のゲノムは基本的に、NEA集団関連祖先系統と「縄文人」関連祖先系統の混合でモデル化でき、現代日本人集団と同様にNEA集団関連祖先系統の割合が高い個体が多いものの、「縄文人」関連祖先系統の割合は10%程度から100%までさまざまとなり(0%の個体群が存在した可能性も考えられます)、それが弥生文化関連個体群の遺伝的不均質性を反映している、というわけです。あるいは、日本列島の人類史上、弥生時代は最も遺伝的不均質性の高い期間だったかもしれません。

 このNEA集団関連祖先系統はさらに区分されています。上述のように、朝鮮半島南岸の新石器時代個体群は、「縄文人」関連祖先系統とNEA集団関連祖先系統でモデル化できますが、上述のように、このEAN集団関連祖先系統を紅山文化個体関連祖先系統とされています(Robbeets et al., 2021)。一方で、弥生時代以降の日本列島「本土」の人類集団のゲノムは、高い割合の夏家店上層文化個体関連祖先系統と低い割合の「縄文人」関連祖先系統でモデル化できる、と指摘されています(Robbeets et al., 2021)。これは、朝鮮半島南岸の新石器時代個体群が、弥生時代以降の日本列島「本土」の人類集団の主要な祖先ではなかったことを示唆します。しかし、この研究については、競合する混合モデルを区別する解像度が欠けていて、紅山文化個体関連祖先系統と夏家店上層文化個体関連祖先系統は朝鮮半島と日本列島の古代人と遺伝的に等しく関連しており、家店上層文化個体関連祖先系統を選択的に割り当てられた集団は、家店上層文化個体関連祖先系統の代わりに紅山文化個体関連祖先系統でも説明できる、との批判があります(Tian et al., 2022)。

 そもそも上述のように、弥生時代以降の日本列島「本土」の人類集団のゲノムは、高い割合の夏家店上層文化個体関連祖先系統でモデル化できる、と指摘した研究(Robbeets et al., 2021)が示しているのは、現代日本人集団の主要な直接的祖先が夏家店上層文化集団だったことではなく、既知の古代人集団では夏家店上層文化集団が最適な代理となり得る、ということです。したがって、Tian et al., 2022の指摘から、現代日本人集団の主要な直接的祖先は、紅山文化集団や家店上層文化集団と類似しているものの異なる別の集団だった、と示唆されます。これは、上述の言語学的知見も踏まえた考古学的見解と親和的というか、少なくとも矛盾はしません。EAN集団関連祖先系統のより詳細で適切な区分と、それに基づく古代人および現代人の集団のゲノムの適切なモデル化には、時空間的により広範囲の、さらに多くの古代人のゲノムデータが必要になるでしょう。

 上述の言語学的知見も踏まえた考古学的見解との関連で注目されるのは、日本列島の弥生時代と古墳時代では、人類集団のゲノムが「縄文人」関連祖先系統とEAN集団関連祖先系統の混合(割合は異なります)でモデル化できることは同じであるものの、後者には違いが見られる、と指摘されていることです(Cooke et al., 2021)。つまり、EAN集団関連祖先系統でも、弥生時代の人類集団の場合には西遼河の中期新石器時代もしくは青銅器時代個体群関連祖先系統(アジア北東部祖先系統)により適切に表され、古墳時代の人類集団の場合には高い割合の黄河流域集団関連祖先系統(アジア東部祖先系統)と低い割合のアジア北東部祖先系統により適切に表されます。ただCooke et al., 2021では、これらの祖先系統がアムール川流域と西遼河地域と黄河流域との間の複雑な相互作用により形成された(Ning et al., 2020)、という大前提があります。弥生時代の人類集団に関しては、「縄文人」祖先系統とアジア北東部祖先系統との間の混合が3448±825年前、古墳時代の人類集団に関しては、「縄文人」祖先系統とアジア東部祖先系統の混合は1748±175年前と推定されています(Cooke et al., 2021)。

 これは、上述の言語学的知見も踏まえた考古学的見解と関連しているかもしれません。つまり、朝鮮半島における紀元前5世紀頃以降の朝鮮語系統の拡大と日本語系統の衰退を遺伝的に反映しているのが、アジア東部祖先系統の割合増加とアジア北東部祖先系統の割合低下で、それが日本列島の弥生時代と古墳時代の人類集団のゲノムにおけるEAN集団関連祖先系統の違いに示されているのではないか、というわけです。ただ、そうした変化が日本列島に反映されたのは弥生時代後期までさかのぼるかもしれませんし、弥生時代以降の朝鮮半島から日本列島への移住の波が、ある程度連続的で一定していたのか、一回もしくは複数回の大きなものだったのかは、もっと時空間的に広範囲の古代人のゲノムデータが多く分析されないと、推測は困難です。ただ、Cooke et al., 2021は、弥生時代の人類集団を、「縄文人」関連祖先系統の割合が高めの長崎県佐世保市の下本山岩陰遺跡の2個体(篠田他., 2019)で代表させており、下本山岩陰遺跡の2個体の前に、現代日本人程度の割合の「縄文人」関連祖先系統をゲノム有する個体が存在すること(Robbeets et al., 2021)も考慮して、弥生時代の人類集団の形成過程とその差異を検証しなければならないでしょう。


●古墳時代以降

 上述のように、弥生時代は人類集団の遺伝的差異が大きく、それはゲノムにおけるさまざまな割合の「縄文人」関連祖先系統とNEA集団関連祖先系統により説明できます。Cooke et al., 2021は、現代「本土」日本人集団的な遺伝的構成が古墳時代に成立したことを指摘しますが、弥生時代よりは縮小していたかもしれないにしても、複数の研究から、古墳時代も人類集団の遺伝的差異が大きかった、と示唆されます。現代「本土」日本人集団と同じような割合の「縄文人」関連祖先系統をゲノムに有する個体としては、古墳時代前期となる香川県高松市の高松茶臼山古墳の男性被葬者(茶臼山3号、神澤他., 2021c)や、島根県出雲市猪目洞窟遺跡で発見された古墳時代末期(猪目3-2-1号)と奈良時代(猪目3-2-2号)の被葬者(神澤他., 2021d)が挙げられます。

 一方で、和歌山県田辺市の磯間岩陰遺跡の第1号石室1号(紀元後398〜468年頃)および2号(紀元後407〜535年頃)のゲノムにおける「縄文人」関連祖先系統の割合は、52.9〜56.4%、2号が42.4〜51.6%と推定されています(安達他.,2021)。後の畿内ではないものの近畿地方において、紀元後5〜6世紀頃においても、このようにゲノムを現代「本土」日本人集団よりもずっと高い割合の「縄文人」関連祖先系統でモデル化できる個体が存在することは、日本列島「本土」では古墳時代においても現代より人類集団の遺伝的異質性がずっと高かったことを示唆します。

 現代「本土」日本人集団の基本的な遺伝的構成の確立は、少なくとも平安時代まで視野に入れる必要があり、さらに言えば、中世後期に安定した村落(惣村)が成立していくこととも深く関わっているのではないか、と現時点では予測していますが、この私見の妥当性の判断は、歴史時代も含めた古代ゲノム研究の進展を俟つしかありません。ただ、現在は弥生時代や古墳時代よりも日本列島「本土」人類集団の遺伝的均質性は高くなっているでしょうが、それでも地域差はあり、それは弥生時代や古墳時代と同様に、「縄文人」関連祖先系統とNEA集団関連祖先系統の割合の違いを反映しているのでしょう(Watanabe, and Ohashi., 2023)。

 この点で注目されるのは、古墳時代の日本列島と同時代の朝鮮半島との関係です。朝鮮半島の三国時代の伽耶に関して、その政治的中心地であった金海(Gimhae)の大成洞(Daesung-dong)にある支配者の大規模な3700m²にもなる埋葬複合施設で発見された、紀元後4〜5世紀頃の8個体のゲノムが解析されました(Gelabert et al., 2022)。この8個体は遺伝的に、6個体から構成されるクレード(単系統群)1と2個体から構成されるクレード2に分類されます。クレード1のゲノムは、後期青銅器時代〜鉄器時代黄河流域集団関連祖先系統(93±6%)と「縄文人」関連祖先系統(7±6%)でモデル化できます。クレード2のゲノムは、朝鮮半島中期新石器時代個体100%でモデル化できますが、中国北部集団関連祖先系統(70±8%)もしくは遼河流域青銅器時代集団関連祖先系統(66±7%)と、残りの「縄文人」関連祖先系統でモデル化できます。つまり、クレード2のゲノムは30%前後の割合の「縄文人」関連祖先系統でモデル化できるわけです。

 Gelabert et al., 2022は、朝鮮半島南岸の紀元後4〜5世紀頃の人類集団のゲノムに存在していた「縄文人」関連祖先系統について、朝鮮半島南岸において新石器時代から三国時代まで存続した可能性を指摘しますが、新石器時代以降のどこかの時点で途絶え、弥生時代や古墳時代の日本列島から改めてもたらされた可能性も検証に値するとは思います。これは、朝鮮半島において日本語系統の言語がいつ完全に消滅したのか、さらには伽耶諸国に対する「日本」というかヤマト王権の影響がいかなるものだったのか、という問題とも関わっているかもしれません。つまり、ヤマト王権と伽耶諸国との深い結びつきは、言語的近縁性に基づく根深いもので、日本列島で勢力を拡大したヤマト王権が朝鮮半島にまで影響力を及ぼした、と単純には解釈できないかもしれないことを示唆します。

 また、朝鮮半島南岸に新石器時代以降ずっと、ゲノムを一定以上の割合の「縄文人」関連祖先系統でモデル化できる人類集団が存在したとしたら、現代の日本列島「本土」集団のゲノムにおける「縄文人」関連祖先系統の割合は一定以上、朝鮮半島南岸新石器時代集団に由来するかもしれません。つまり、「縄文人」を縄文文化関連個体と規定すれば(この規定は無理筋ではないはずです)、現代の日本列島「本土」集団のゲノムにおける「縄文人」関連祖先系統の割合は、現在の推定(上述のように地域差はもちろんありますが、10%前後)よりずっと少なかったかもしれず、縄文時代と現代との間で日本列島の人類集団では遺伝的にほぼ全面的な置換が起きたことになります。まあ、現代日本人集団のゲノムにおける縄文人的構成要素の割合が平均して10%程度だとしても、全面的な置換に近い、と言えそうですが。

 一方、韓国の西部沿岸地域に位置する全羅北道(Jeollabuk-do)群山(Gunsan)市の堂北里(Dangbuk-ri)遺跡の紀元後6世紀半ば頃となる6個体のゲノム解析結果(Lee et al., 2022)は、これら6個体が西遼河地域青銅器時代集団関連祖先系統、もしくは追加の低い割合の中国南部の福建省の渓頭(Xitoucun)遺跡の後期新石器時代個体関連祖先系統でモデル化でき、「縄文人」関連祖先系統の統計的に有意な寄与が検出されませんでした。ただ、遺伝的な北方の代理を内モンゴル自治区の中期新石器時代個体群へと置き換えると、堂北里遺跡の6個体と韓国の蔚山広域市の現代人のゲノムにおける、少ないものの有意な量の「縄文人」関連祖先系統の寄与が検出されます。しかし、地理的および時間的近接性を考慮すると、西遼河地域青銅器時代集団が古代および現代の朝鮮人にとってより適切なモデルを提供している、と考えられます。つまり、遅くとも紀元後6世紀半ば頃には、「縄文人」関連祖先系統がほぼ検出されないような現代朝鮮人とよく似た遺伝的構成の集団が存在していたわけです。この集団の言語は恐らく朝鮮語系統だったでしょうが、当時の朝鮮半島の人類集団の遺伝的構成の地域差については、もっと多くの古代ゲノムデータが必要となり、朝鮮半島の人類集団における「縄文人」関連祖先系統の消滅時期も現時点では不明です。


●琉球諸島と北海道

 沖縄諸島に関しては、グスク時代の人類集団とそれより前の人類集団とでは形質的にかなり異なっており、近世集団は古墳時代集団や鎌倉時代集団に近い、との形質人類学の研究成果と、上述の、グスク時代に農耕の開始やアジア東部大陸部の陶磁器など外来要素が突如出現した、との考古学的知見から、貝塚時代末期以降に外部、おそらくは古代末期〜中世初期以降の九州本島から沖縄諸島への人類の流入がかなりあったのではないか、と推測されています(高宮., 2014)。上述のように、奄美・沖縄諸島と先島諸島が初めて一つの文化圏となったのもこの頃で、先島諸島においては、紀元前千年紀の個体ではゲノムがほぼ完全に「縄文人」関連祖先系統でモデル化できましたが、近世には琉球諸島の現代人のような遺伝的構成(高い割合のNEA集団関連祖先系統と低い割合の「縄文人」関連祖先系統)の個体が確認されています(Robbeets et al., 2021)。

 琉球諸島の現代人集団のゲノムにおける「縄文人」関連祖先系統の割合は27%程度と推定されており(Kanzawa-Kiriyama et al., 2019)、古代末期〜中世初期以降の九州本島から沖縄諸島へ到来した人類集団のゲノムが、20%程度の「縄文人」関連祖先系統でモデル化できるとすると、琉球諸島の現代人集団のゲノムは、古代末期〜中世初期以降の九州本島集団関連祖先系統(80〜90%)と貝塚時代集団関連祖先系統(10〜20%)の混合としてモデル化できそうです。琉球諸語は貝塚時代集団の言語と古代末期〜中世初期の九州本島集団の言語の混合により成立したのでしょうか、基本的には日本語系統に分類されることからも、日本(ヤマト)文化の影響が圧倒的に強かった、と推測されます。つまり、遺伝的にも文化的にも、近世以降の琉球諸島集団について縄文時代(というか貝塚時代)からの強い連続性を想定することは難しいように思います。

 現代アイヌ集団については、「縄文人」集団との強い遺伝的連続性がネットでもよく指摘されており、その根拠は、アイヌ集団のゲノムが66%程度と高い割合の「縄文人」関連祖先系統でモデル化できることです。しかし、上述のように、遺伝学的研究だけでアイヌ集団と「縄文人」集団との連続性を証明できるわけではなく、考古学など他分野の研究成果も踏まえて初めて、きわめて蓋然性の高い推測になっていることに注意すべきでしょう。また、アイヌ集団の遺伝的な地域差がどの程度あるのか、現時点ではよく分かりません。オホーツク文化関連個体の研究(Sato et al., 2021)から、アイヌ集団は遺伝的に、「縄文人」集団とオホーツク文化集団と日本列島「本土」集団の関連祖先系統の混合でモデル化できる、と提案されています。その関連祖先系統の割合は、ゲノムをほぼ「縄文人」関連祖先系統でモデル化できそうな続縄文文化もしくは擦文文化集団から49%、オホーツク文化集団から22%、日本列島「本土」集団から29%程度です。もちろん、上述のように、この割合には地域差があるかもしれません。

 オホーツク文化集団のゲノムは11%程度の「縄文人」関連祖先系統でモデル化でき、上述のように弥生時代以降の日本列島「本土」集団のゲノムも少ない割合ながら一定以上の「縄文人」関連祖先系統でモデル化できますから、アイヌ集団のゲノムにおける「縄文人」関連祖先系統のうち一定の割合(10〜15%程度?)は、オホーツク文化集団および弥生時代以降の日本列島「本土」集団に由来する可能性が高そうです。もちろん、アイヌ集団の祖先と混合したオホーツク文化集団および弥生時代以降の日本列島「本土」集団にも地域差があったでしょうから、具体的な割合の推測は困難ですが。つまり、ネット上では、現代アイヌ集団のゲノムにおける「7割」という「高い割合」の「縄文人」要素を根拠に、「縄文人」集団から現代アイヌ集団への連続性を主張する見解も散見されるものの、そんな単純な話ではないだろう、というわけです。

 もちろん、上述のように、遺伝というかDNAと文化や民族とを安易に関連づけてはならないことが大前提で、DNAと文化とのさまざまな関連(関連記事)からも、遺伝的影響の大小と文化的影響の大小を安易に関連づけてはならないことが示唆されます。その上で、オホーツク文化が紀元後10世紀以降に擦文文化から人工物や生産・生業技術や居住パターンや生計戦略などの数々の要素を段階的に受け入れ、トビニタイ文化を経て最終的に擦文文化に吸収・同化されていき、少なくとも物質文化側面では、擦文文化そのものと区別がつかないものになったこと(大西., 2019)と合わせて考えると、縄文時代から続縄文時代経て擦文文化期へと続いた北海道を中心に分布した地域集団がオホーツク文化集団に対して優位に立ち、これを同化していった可能性が高そうです。つまり、アイヌ集団の言語は恐らく縄文時代の北海道の(特定の?)人類集団に由来し、その文化・民族性を縄文文化と切断する見解は妥当ではないだろう、というわけです。もちろん、アイヌ集団がオホーツク文化やアジア東北部大陸部の人類集団から大きな文化的影響を受けなかったわけではないでしょう。


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高宮広土(2014)「奄美・沖縄諸島へのヒトの移動」印東道子編『人類の移動誌』初版第2刷(臨川書店)第3章「日本へ」第5節P182-197
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松波雅俊(2020)「ゲノムで検証する沖縄人の由来」斎藤成也編著『最新DNA研究が解き明かす。 日本人の誕生』第2刷(秀和システム)第5章
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水ノ江和同(2022)『縄文人は海を越えたか 言葉と文化圏』(朝日新聞出版)
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https://sicambre.seesaa.net/article/202306article_11.html

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