ニーチェと超人思想〜超人と末人〜 http://benedict.co.jp/smalltalk/talk-251/ ■末人
末人 ・・・ 不吉な響きをもつ言葉だが、何の目的もなく、人生を放浪し、生をむさぼるだけの人間。哲学者ニーチェはそれを末人とよんだ。さらに、ニーチェは、このような末人が「神が死んだ」終末に出現し、ノミのように地球にはびこると予言した。 なんとも暗い未来だが、根拠はあるのだろうか? 今から3000年前、古代ギリシャでオリュンピア祭が始まった。4年に一度の競技大会で、現代オリンピックの起源である。ただし、競技種目は今よりずっと少なかった。水泳競技はなく、トラック競技、やり投げ、レスリング、ボクシング ・・・ 早い話が「バトル(戦闘)」。つまり、スポーツの原点は疑似暴力(アグロ)だったのである。 ところで、オリュンピア祭で讃えられたのは? もちろん、敗者ではなく、勝者。 つまり、この時代は、 ・強者=価値が高い → 善 ・弱者=価値が低い → 悪 だったのである。 じつは、「強者=善、弱者=悪」には科学的な根拠がある。そもそも、現実世界は「弱肉強食」。そして、われわれ人間が今あるのも弱肉強食のおかげ。弱肉強食セット「突然変異と自然淘汰」で、原始細胞から人間に進化したのだから。 ところが、この自然の摂理にかなった価値観をユダヤ教とキリスト教が逆転させたとニーチェはいう。 つまり、 ・強者=価値が低い → 悪 ・弱者=価値が高い → 善 なんのこっちゃ?だが、気を取り直して、ユダヤ教とキリスト教のバイブル「旧約聖書」をチェックしてみよう。 じつは、「旧約聖書」は一人で一気に書きあげたものではない。複数の予言者のメッセージを編集したものである。内容は、壮大で一大叙事詩の感があるが、中にはユダヤ教徒への教訓もある。 たとえば ・・・ ユダヤ民族は神に選ばれた民である。だから、唯一神ヤハウェを信仰せよ。そうすれば、神はユダヤ民族の敵をことごとく滅ぼしてくれる。 ところが、敵は滅びるどころか、増える一方だった。そして、1932年から1945年にかけて、歴史に残る「ユダヤ人の迫害」が起こる。ナチスドイツの強制収容所で、600万人のユダヤ人が殺害されたのである。震撼すべき犠牲者の数だが、「殺戮」視点でみれば、最悪でない。 というのも ・・・ 米国の図書館員マシュー ホワイトの著書「ランキング・残虐な大量殺戮上位100位」によれば、歴史上、ナチスを超える大量殺戮は3つ存在する。 ・チンギスハーン(約4000万人) ・中国の毛沢東(約4000万人) ・ソ連のスターリン(約2000万人) (※1) もうすぐ1億 ・・・ ここまでくると、残酷な殺戮も「数字」にしかみえない。 じつは、ユダヤ人を迫害したのはナチスだけではなかった。程度の差こそあれ、ヨーロッパ全土に蔓延していたのである(デンマークは例外)。 1894年、フランス、ユダヤ人将校の冤罪に端を発する「ドレフュス事件」。さらに、1940年、ナチスに占領されたフランス・ヴィシー政府は、過酷なユダヤ人政策を強行した。様々なユダヤ人法を成立させ、次々とユダヤ人を強制収容所に送り込んだのである。 特に、1942年7月に実施されたユダヤ人狩り「春風計画」は凄まじかった。フランス側官憲4500人がユダヤ人の住居を襲い、1万2884名を捕え、アウシュヴィッツ収容所に送り込んだのである。その徹底ぶりは本家ナチスを凌駕する。意外に思えるかもしれないが、フランスの反ユダヤ主義は歴史的にみて根が深いのである。 また、東ヨーロッパでもユダヤ人の迫害が横行した。たとえば、1930年代、ルーマニア、ハンガリー、ユーゴスラヴィア、チェコスロヴァキア、リトアニア、ポーランドで大規模な暴力沙汰が起きている。ユダヤ人が路上で襲撃されたり、住居が放火されたり、店舗が破壊されたのである。 とくに、バルト海諸国やウクライナでは反ユダヤ感情が強かった。そのため、第二次世界大戦中、多くの住民がドイツ軍に協力した。たとえば、1941年6月28日、リトアニアで起きた「死の砦事件」。コヴノの第9要塞でユダヤ人8万人が虐殺されたのである。 さらに、キリスト教もユダヤ人を差別した。 1936年、ポーランドで、それを象徴するような事件が起きている。 まず、キリスト教イエズス会の機関誌にこんな記事がのった。 「われらの子弟が、ユダヤの低劣な倫理観に汚染されないよう、ユダヤ人学校を別にもうける必要がある」(※3) さらに、ポーランドのカトリック教会のフロンド枢機卿は、 「ユダヤ人たちが詐欺行為を働き、高利貸しを仕事とし、白人売春婦の売買をもっぱらにしているのは事実である」(※3) それが事実かどうかはさておき、神がユダヤ人を助けてくれなかったことは事実だ。 そこで ・・・ ユダヤ教の教えは変質した。力で勝ち目がないなら、道徳をでっちあげて、そこで優位に立とう。そして、このような価値観を集大成したのがキリスト教である ・・・ ニーチェはそう考えたのである。 ゴルゴダの丘で磔刑に課せられたとき、イエスはこうつぶやいた。 「父(神)よ、かれらをお許しください。かれらは何をしているのかわからないのです」 殺される弱者・イエスは、殺す強者・ローマ兵に哀れみをかけることで、「弱」から「善」に大変身したのである(命と引き替えに)。 つまり ・・・ 相手が力づくできたら、負けてあげましょう。力で負けても、本当に負けたわけではないから。そもそも、力づくで思いを遂げようなんてサイテー。神の前では、力をふるう方が「悪」で、犠牲者は「善」なんだからね。 こうして、ユダヤ教とキリスト教の出現によって、「強善弱悪 → 強悪弱善」のコペルニクス的転回が起こったと、ニーチェは考えたのである。 ところで、よく考えると ・・・ 「弱者=善」というのもヘンな話。 「強弱」は物理学、「善悪」は概念。属性が違うものをいっしょにしてどうするのだ? ■超人 ここで、ニーチェの哲理を一度整理しよう。 ユダヤ教とキリスト教は、現実世界で負けた恨みを晴らすために、精神世界で勝利しようとした。その仕掛けが「道徳」である。 つまり ・・・ 弱者は協調的で優しいので「善」。一方、強者は自己中で強引なので「悪」。こうして、強者は表彰台から降り、かわりに、弱者が上ったのである。つまり、弱者が勝者にすりかわったわけだ。 それにしても ・・・ 負けを素直に認めればいいものを、卑屈な話ではないか。そこで、ニーチェはこのような道徳を「奴隷道徳」とよんだ。奴隷道徳は、道徳の名を冠しているが、弱者を救済するための方便にすぎない。詭弁を弄して、正当化しようが、根源はひがみとねたみ。そこで、ニーチェはこのような価値観を「ルサンチマン(フランス語で「ひがみ・ねたみ」)」とよんで、忌み嫌った。 そして ・・・ ニーチェの鋭い批判は祖国ドイツにも向けられた。ドイツ人もルサンチマン化しているというのだ。実際、ニーチェは著書「偶像の黄昏」の中でこう書いている。 「かつて思索の民とよばれたドイツ人は、今日そもそも、思索というものをまだしているだろうか。近頃では、ドイツ人の精神にうんざりしている ・・・ ドイツ、世界に冠たるドイツ、これはドイツ哲学の終焉ではあるまいか、とわたしは恐れている。ほかのどこにも、ヨーロッパの『二大麻薬』、つまり、アルコールとキリスト教、これほど悪徳として乱用されているところはない」(※2) アルコールとキリスト教は「二大麻薬」!? やっぱり、ニーチェはナチスのお仲間? というのも、1937年9月12日、ニュルンベルクで開催された第9回ナチス全国党大会で、ヒトラーはこんな演説しているのだ。 「ボリシェヴィキ(ロシア共産主義)は、人類がかつて経験したことのない最大の危機であり、キリスト教出現以来最大の危機である」 ボリシェヴィキとキリスト教は「二大麻薬」!? つまり ・・・ ニーチェとナチスは、キリスト教(道徳)の天敵、そして、力の賛美者。だから、ニーチェとナチスはお仲間というわけだ。もちろん、ナチスは全体主義、ニーチェは個人主義という根本的な違いがあるのだが、ナチスの磁力があまりに強力なので、わずかな一致で、お仲間にされたのである。 ではなぜ、ニーチェはルサンチマンと道徳を否定したのだろう? このような卑屈な考えは、人間本来の欲望を押し殺すと考えたから。 人間本来の欲望って? 今ハマっているアクションRPG「ディアブロ3」の世界なら、 ・筋力:9999(最大値) ・敏捷性:9999(最大値) ・知力:9999(最大値) ・生命力:9999(最大値) 現実の世界なら、権力、金力、名誉! ニーチェは、このような純粋で健全な欲望を「力への意志」とよんだ。そして、この意志を持ち続ける人間を「超人(ウーヴァーメンシュ)」とよんで、人間かくあるべしと鼓舞したのである。 ただし、ここでいう「超人」は、まれな資質を有し、困難な目標を成し遂げるスーパーマンではない。資質がイマイチで、成功の見込みがうすくても、自分の欲望から目をそらさず、挑戦する人間をいう。つまり、結果ではなく、意志。だからこそ、ニーチェは「力への意志」とよんだのである。 さらに、ニーチェは超人とルサンチマンがせめぎ合う未来を予言した。 ルサンチマンは、信仰によって骨抜きにされ、自分の欲望を直視することができない。さらに、自分というものがなく、「群れ」でしか生きられない。だから、本当は弱虫。ところが、それを認めず、道徳をでっちあげて、自分は上等だと言い張る。こんな独りよがりの妄想が、長続きするわけがないと。 その結果 ・・・ 誰も神を信じなくなる。信じてもらえない神は、神ではない。ゆえに、神は死んだのだと。 その瞬間、道徳も崩壊する。なぜなら、道徳は神なくしてありえないから。 一神教の信者が道徳を守るのは、神罰を恐れるからである(少なくとも、そう教えられる)。ところが、神がいなくなれば、神罰もなくなる。つまり、「神が死んだ」瞬間、道徳も崩壊するのだ。 こうして、遠くない未来に、二大宗教的価値観「信仰と道徳」が崩壊する。そのとき、ルサンチマンはよりどころを失い、ただ生きながらえるだけの生き物になる。それが「末人」というわけだ。 一方、「超人」は、時代や環境に左右されることはない。自分で価値観をつくることができるから。だから、神が死のうが、既存の価値観が崩壊しようが、迷わず、まっすぐ生きていける。つまり、超人とは、何事にも束縛されない「自由」と、自己実現の「意志」を持った人間なのである。 これが、ニーチェの「超人思想」。 力強く、斬新で、カッコイイ。でも、暴力的で危険である。根っこにあるのは「背神」と「反道徳」、つまり、反宗教だから。 ところが、ニーチェは、初めは熱心なキリスト教徒だった。少年時代に、こんなことを書いている ・・・ 「神はすべてにおいて、あやまちを犯さないよう、わたしを導いてくださった。だから、わたしは一生を神への奉仕に捧げようと決心した」 一体、何がニーチェを変えたのか? おそらく、「狂気」。 ドーパミン過剰の激しい性質は、中庸と安定を好まず、左右のどちらかに振り切れる。その結果、既存の価値のことごとく破壊する。それで、新しい価値を生めばよし、破壊でおわれば、その先に待っているのは ・・・ 狂気の世界。 つまり、勇ましいニーチェの超人思想も、結末は超人か狂人か? それを自ら体現してみせたのが、ニーチェ自身だったのである。 参考文献: (※1)殺戮の世界史〜人類が犯した100の大罪 マシュー ホワイト著、住友進 訳 早川書房 (※2)「エリーザベト・ニーチェ―ニーチェをナチに売り渡した女」 ベン マッキンタイアー (著), Ben Macintyre (原著), 藤川 芳朗 (翻訳) (※3)ヒトラー全記録 20645日の軌跡 阿部良男 (著) 出版社: 柏書房 http://benedict.co.jp/smalltalk/talk-251/ ▲△▽▼
ニーチェとナチス〜レニの意志の勝利〜
■ワーグナーの信奉者
神は死んだ ・・・ ニーチェは自著「ツァラトゥストラはかく語りき」でかく語った。 この不用意な一言が、キリスト教徒の心情を逆なでにし、反キリストの烙印を押されたことは想像に難くない。大哲学者ニーチェも、熱心なキリスト教徒からみれば、ただの背信者なのだ。つまり、20億人が敵!? さらに ・・・ ニーチェは「ナチスのシンパ(賛同者)」の嫌疑もかかっている。もし、それが本当なら、全人類が敵!? 歴史的名声をえているニーチェ像も、じつは薄氷の上にあり、いつ水没してもおかしくないわけだ。 では、本当のところはどうなのだろう? 第一の疑惑はワーグナーがからんでいる。 ワーグナーは、言わずと知れたドイツの大音楽家である。19世紀ロマン派歌劇の王様で、「ニーベルングの指環」、「トリスタンとイゾルデ」など、荘厳かつ芝居がかった楽曲で名声をえている。 そのワーグナーの熱烈な信奉者がニーチェだったのである。ニーチェは、学生時代にワーグナーの楽曲に感銘をうけ、個人的な交流が始まった。その後、ワーグナーを讃える書を書いて、インテリからひんしゅくを買った。 そして ・・・ ヒトラーも熱心なワーグナー信奉者だった。ヒトラーは、17歳のとき、シュタイアー実科中学校を放校処分になり、ウィーンに旅行したが、そのとき、友人のアウグスト・クビツェクに絵葉書を送っている。そこにはこう書かれていた。 「僕は今、ワーグナーに夢中だ。明日は『トリスタン』を、明後日には『さまよえるオランダ人』を観るつもりだ」 ヒトラーは、その後、ドイツの総統にまで上りつめるが、ワーグナー熱が冷めることはなかった。定期的に劇場に出かけ、ワーグナーの荘厳な歌劇に酔いしれたのである。 ということで、ニーチェはワーグナーをハブに、ヒトラー(ナチス)のお仲間とみられたわけだ。とはいえ、音楽の趣味が同じだからといって、ナチスシンパ呼ばわりされてはたまらない。 ところが ・・・ ワーグナーは偉大な音楽家にみえるが、うさん臭いところもあった。天上天下唯我独尊で傲慢不遜、しかも、金遣いがあらく、年中金欠だったが、問題はそこではない。 彼の代表作「ニーベルングの指環」は、天界と人間界をまたぐ、壮大な戦争叙事詩だが、モチーフは北欧神話。つまり、神々と北欧ゲルマン人を讃える物語なのだ。 北欧ゲルマン? じつは、ワーグナーは、北欧ゲルマン人至上を信じる偏屈な反ユダヤ主義者だった。しかも、彼の2度目の妻コージマも反ユダヤ主義者で、夫婦そろって人種差別主義者だったのである。 ゲルマン人最高&ユダヤ人最低? ナチスの教義そのままではないか。 じゃあ、ワーグナー夫婦はナチス信奉者だった? ノー! この二人がナチス信奉者であるはずがない。ナチスが創設される前に死んでいるから。 それに、17歳のヒトラーがワーグナーに魅せられたのは音楽であって、偏屈な人種差別ではない。この頃、ヒトラーのユダヤ人に対する差別意識は、ヨーロッパ人としては平均的なものだった。驚くべきことに、21歳の時、ヒトラーには、ヨーゼフ ノイマンというハンガリー系ユダヤ人の親友がいた。彼に自分の描いた絵を売ってもらっていたのである。 ニーチェもしかり。はじめに、ワーグナーの楽曲に感動し、個人的なつき合いが始まり、彼の知性に魅了されたのである。 そもそも、ニーチェは人種差別主義者ではなかった。彼は「ユダヤ教」を嫌っていたが(厳密には一神教)、「ユダヤ人」を差別していたわけではない。 というわけで、ワーグナーをからめて、ニーチェを「ナチスシンパ」呼ばわりするのは正しくない。 ところが ・・・ やっかいなことに、そう思われてもしかたがない事実があるのだ。ニーチェは著書の中でこう書いている。 「ちっぽけな美徳やつまらぬ分別(道徳)、惨めな安らぎ(宗教)を求めることなかれ、強固な意志と不屈の精神で成し遂げるのだ」 つまり、「道徳」と「宗教」を否定し、内なる声に従い、雄々しく生きよと鼓舞したのである。 これがニーチェ哲学の根幹をなす概念「力への意志」である。そして、この勇ましい思想が、ナチスに利用されたのである。 ■ナチスの映画 1934年、ナチスは党のプロパガンダ映画「意志の勝利」を制作した。1934年9月4〜5日に開催されたナチスの全国党大会の記録映画である。 タイトルといい、内容といい、ニーチェの「力への意志」を彷彿させる。 ところが、この映画は、現在、ドイツで上映が禁止されている。ドイツでは、映画であれ、TVであれ、Tシャツであれ、「ナチス」の露出は禁じられているのだ。 禁じられると、よけいに観たくなる! 心配無用。日本ではDVDがふつうに手に入る(amazonで3,730円)。 それにしても日本はいい国だ。言論・思想の自由とかで、言いたい放題、見せたい放題、何をしても許されるのだから(皮肉です)。そこで、DVD版「意志の勝利」(※1)を購入してみると ・・・ 暴力シーンやエロいシーンはゼンゼンない。むしろ、荘厳で美しく、芸術的(そして眠くなる)。 ということで、発禁の理由は、ひとえに「題材=ナチス」。 では、映画の内容はどうなのか? 「ナチス」がムンムン伝わってくる。 冒頭、いきなり、鷲と鉤十字をかたどった像の下に、「Triumph des Willens(意志の勝利)」が映し出される。 そして、重々しい文言 ・・・ 1934年9月5日、世界大戦勃発から20年後、ドイツの受難から16年が経過、ドイツの復興が始まって19ヶ月、アドルフ・ヒトラーは閲兵のため、ニュルンベルクを再訪した ・・・ シーンは変わって、飛行機のコックピット。眼前にみごとな大雲海が広がっている。重厚なサウンドと相まって、気分が高揚する。飛行機は徐々に高度を下げ、雲の割れ目から古都ニュルンベルクが見える。大聖堂をはじめ、荘厳な石造りの建物が整然と並ぶ。中世を思わせる美しい街だ。 飛行機がニュルンベルクの飛行場に着陸する。大勢の民衆が出迎え、歓声をあげている。ヒトラーが飛行機から降り立つと、「ハイル、ハイル、ハイル」の大合唱だ。 オープンカーで、ドイッチャー・ホーフ・ホテルに向かうヒトラー。その途中、道の両側の建物から鉤十字のナチス旗が垂れ下がり、人々が熱狂的に手を振っている。 ホテルに到着すると、母と娘がヒトラーに花束をわたし、笑顔でこたえるヒトラー。絵に描いたような演出だ。ヒトラーがホテルに入ると、 「われらの指導者、姿をみせて!」 の大歓声がわきおこる。ヒトラーが窓から姿をあらわし、それに笑顔でこたえる。強固な意志と不退転の決意を秘めながら、民衆には心を開く、我らが指導者というわけだ。 映像はモノクロだが、美しく、荘厳で、力強い。演出もカメラワークも、時代を考慮すれば新鮮だ。映画全体に一大叙事詩のような風格がある。こんな映画を撮れる監督はそういない。現代なら、スタンリー・キューブリック(故人)かリドリー・スコットか? ■レニ リーフェンシュタール ところが ・・・ 「意志の勝利」を撮ったのは、キューブリックやリドリースコットのような映画界の重鎮ではなかった。レニ リーフェンシュタール、当時まだ32歳の美しい女性だった。 この映画の2年前、1932年3月、レニ リーフェンシュタル監督兼主演の映画「青の光」が公開された。ヒトラーはこの映画をみて感動したのである。その後、レニはヒトラーの大のお気に入りになり、1938年のベルリンオリンピック「民族の祭典(オリンピア)」の監督も任されている。 「意志の勝利」は高い芸術性が評価され、数々の賞を受賞し、レニも栄光と名誉を手に入れた。ところが、戦後、評価は一変する。ナチスが全否定されたのだ。結果、「意志の勝利」は上映が禁じられ、レニ自身も、ナチスに協力した罪で訴えられた。最終的に無罪になったものの、誹謗中傷はその後もつづいた。 この不遇に対し、レニはこう反論した。 「わたしはナチスに加担したわけではない。美を追求しただけだ」 たしかに、レニの映像は「美」をねらっている。しかし、その「美」は穏やかな自然の美ではない。超越した力の美である。そして、脚本は明確に「ナチス礼賛」。これでは、「ナチスの協力者」と言われてもしかたがないだろう。もっとも、そうしないと、映画は完成しなかったのだが。実際、ナチス宣伝相ゲッベルスがあまりに口うるさいので、レニはヒトラーに苦情を訴えている。 ということで、レニはヒトラーから依頼されてこの映画を撮ったのだが、結果として、ナチスを利用して自己実現することになった。フォン ブラウンが、ナチスの超兵器V2ケットを利用して、ロケットの夢を叶えたのと同じように。 論より証拠、映画の内容を精査してみよう。 脚本と演出から、この映画のテーマは3つ確認できる。 1.ヒトラーは偉大な指導者 2.ドイツの若者は健全でパワフル 3.ナチスドイツは階級のない社会 では、この3つが映像でどう表現されているかみていこう。 【ヒトラーは偉大な指導者】 飛行場に到着したヒトラーを出迎える熱狂的な民衆。オープンカーで移動中、道すがらナチス式敬礼でヒトラーを讃える民衆。母娘から花束を渡され、笑顔でこたえるヒトラー ・・・ ヒトラーは国民から崇拝されると同時に、愛される指導者でもある。 さらに ・・・ ヒトラーの演説は分かりやすく、力強い。要点をしぼって、カンタンな言葉で何度も繰り返す ・・・ ヒトラーは頭がよくて、頼りがいがある。ドイツを再び繁栄に導いてくれるに違いない。 というわけで、ヒトラーの演出は「偉大な指導者」にフォーカスされている。 【ドイツの若者は健全でパワフル】 ニュルンベルク郊外に設営された無数のテント。ヒトラーユーゲント(青少年団)の野営地だ。ここで、多くの若者が共同生活をおくっている。 朝起きて、ヒゲをそり、顔を洗う、こんな日常でさえ、限りなく健全で明るい。水掛けをしてふざけあうカットも、民族の一体感を感じさせる。そして、みたこともない大鍋でスープをつくって、大量のソーセージを煮込んで、みんなでモリモリ食べる。調理と食事という日常の風景なのに、物量が多いだけで、力強さを感じさせる。 食事が終わると、相撲とボクシングをあわせたような格闘技や騎馬戦に興じる ・・・ じつは、スポーツは疑似暴力(アグロ)。 というわけで ・・・ ドイツの若者は、共同生活を楽しみ、スポーツを愛する。だから、健康的で、明るく、パワフル。心の病気などどこ吹く風だ。 そして ・・・ こんな若者にささえられたドイツの未来は明るい! とはいえ、これが当時のドイツ青少年のスタンダードと言うわけではない。この映画が撮られた1934年、ドイツの若者がすべてヒトラーユーゲントとは限らなかったから。ところが、1936年、「ヒトラーユーゲント法」が成立し、すべての青少年の入団が義務づけられた。つまり、「ドイツの青少年=ヒトラーユーゲント」。 以前、265代ローマ教皇ベネディクト16世が、ヒトラーユーゲントの団員だったことが取り沙汰された。もちろん、的外れ。この時すでに、ヒトラーユーゲント法が成立していたから。 【ナチスドイツは階級のない社会】 民族衣装に身を包み、収穫の行進をする農民たち。ナチスは農業・農民を重視します!が映像からヒシヒシ伝わってくる。そもそも、ヒトラーが東方生存圏の拡大をもくろんだ理由は、ドイツの食料不足にあったのだから。 ヒトラーがドイツ労働者戦線指導者ロベルトライをともない、労働戦線の隊員たちを観閲する。続いて、ナチス幹部の労働者を讃える熱い演説。 この2つの映像は、ナチスドイツが農民と労働者を重視する、つまり、「階級のない社会」であることを示唆している。また、先の「ヒトラーユーゲントの野営地」の映像は、ナチスドイツが個人が全体に従属する「全体主義」であることを暗示している。 つまり、ヒトラーの狙いは、「階級のない社会=共産主義」と「個人より国家=全体主義」にあったのである。 そして ・・・ 後者の「全体主義」は、おそらく、ヒトラーの戦争体験によっている。 1918年10月13日、第一次世界大戦中、イープルの前方の南部戦線で、イギリス軍は毒ガス「マスタードガス(ドイツ軍は黄十字ガスとよんだ)」を使用した。ヒトラーはその毒ガスをもろにあびたのである。 その時の苦悩と覚醒が、ヒトラーの著書「わが闘争」に記されている ・・・ ガスに倒れ、両眼をおかされ、永久に盲目になりはしないかという恐怖で、一瞬、絶望しそうになったときも、良心の声がわたしを怒鳴りつけたのだ。あわれむべき男よ、なんじは、幾千の者がなんじより幾百倍も悪い状態に陥っているのに、それでも泣こうとするのかと ・・・ わたしは、祖国の不幸にくらべれば、個人的な苦悩というものが、すべてなんと小さいものかということを知ったのだ(※2)。 まさに、全体主義 ・・・ でも、「共産主義+全体主義」なら、まんまボリシェビズム(レーニン式共産主義)では? たしかにやってることは変わらない、では身もフタもないので、ムリクリ両者の違いを捻出すると ・・・ 憎む相手。 ボリシェビズムの敵は、資本家、つまり「階級」。一方、ナチスの敵は、ユダヤ人とスラヴ人、つまり「人種」。 ヒトラーは「ヨーロッパの新秩序」を掲げ、人種ヒエラルキー社会をもくろんでいたのである。それが、イデオロギーとよべるかどうかはさておき、上から順番に ・・・ 第1位:ゲルマン人(ドイツ・オーストリア) 第2位:ラテン人(南ヨーロッパ) 第3位:スラヴ人(東ヨーロッパおよびロシア) 第4位:ユダヤ人 ヒトラーは、ドイツの資源不足(特に食糧)を憂慮していた。そこで、新たな生存圏を獲得するため、上記リストの下位の土地をねらったのである。ところが、第4位のユダヤ人は広い領土をもたない。一方、第3位のスラヴ人が住むロシアは広大で、天然資源は無尽蔵(特に鉱物資源は世界トップ)。そこで、ヒトラーはロシアを征服しようとしたのである。 ヒトラーは、「優れたドイツ人が狭い土地に住み、劣ったスラヴ人が広い土地に住むのはがまんならない」と側近にもらしていたという。その意識が、第二次世界大戦を招いたのである。 ただし、第二次世界大戦の直接原因はヒトラーにあるのではない。イギリス首相チェンバレンの愚策にある(イギリス議会の総意でもあったが)。ヒトラーはフランスはもちろん、ポーランドも侵攻するつもりはなかったのだから。 ということで、ナチズムもボリシェビズムも「敵を憎んでやっつけろ」が基本で、異民族や価値観の違いを認めて、折り合う気がさらさらない。だから、隣国にとってはハタ迷惑なのだ。 日本のお隣にも、お仲間がいるって? 否定はしませんけどね。 話をレニにもどそう。ゲッベルスにちゃちゃを入れられたか、身の危険を感じたか分からないが、結果として、映画は「ナチス礼賛」になってしまった。 その真骨頂が、ナチスの副総統ルドルフ・ヘスの演説だろう。映像を観ていると、歯が浮いてくる ・・・ わが総統 ・・・ 人々は理解することになるでしょう。我々生きるこの時代の偉大さを、我が国にとって、総統がいかに重要な存在であるかを。 あなたはドイツです。 あなたの指導のもと、ドイツは真の祖国となる目的を達成するでしょう。世界中すべてのドイツ民族のために。あなたは我々に勝利を約束なさった。そして、今、我々に平和を与えてくださる。ハイル・ヒトラー!ジークハイル! それにつづく、「ジークハイル!」の大合唱。 ところが ・・・ このヘスの演説の合間に、2秒ほど、ナチスナンバー2のゲーリングの表情が映るのだが ・・・ その白けた顔。そこにはこう書いてある。 「よう言うわ」 これはカットですよ、レニ監督。 ■ニーチェとナチス というわけで、ニーチェの思想とナチスの教義は似ているが、共通するのはイケイケぐらい。そもそも、ニーチェの「力への意志」の核心は個人主義にあるが、ナチスは頭のテッペンからつま先まで全体主義。だから、根本が真逆なのだ。つまり、ナチスは、都合のよいところだけ、ニーチェ・ブランドを利用したのである。宗教的道徳を捨て、力を信じて、お国のために死んでくれ!と。 ところが、ヒトラーがニーチェを愛読していたという証拠はない。ヒトラーは大変な読書家だったが、ジャンルは歴史と地理と戦争物に限られていた。ただし、第一次世界大戦中、戦場でショーペンハウアーを読んでいたという記録がある。 ショーペンハウアーといえば、19世紀を代表する大哲学者だが、大学入試(大阪大学)の現国の問題にもなっているので、特別難解というわけではない。とはいえ、個人的には難解だし、そもそも陰気臭い。でも、ひとつだけ感動した言葉がある。 「人間、40才までが本文、それを過ぎたら注釈の人生」 偉人の名言の中でも、ひときわ目立っている。あまりのインパクトに卒倒しそうになった。 それはさておき、ショーペンハウアーは「意志」にからんで、ニーチェに影響を与えているので、ヒトラーの心をとらえた可能性はある。 一方、イタリアのファシスト党首ムッソリーニは、ニーチェを愛読していた。彼は自著「力の哲学」の中で、 「ニーチェは19世紀最後の4半世紀で、最も意気投合できる心の持ち主だ」 と持ち上げている。 ムッソリーニの「覇道の人生」を正当化しているのだから、無理からぬ話だ。とはいえ、ムッソリーニは、世間に流布されたような無教養で粗野な人物ではなかった。大変な読書家で、数カ国語をあやつるインテリだったのである。 というわけで、ヒトラーがニーチェの信奉者だった証拠はないが、お仲間のムッソリーニはそうだった。だから、ニーチェはファシズムを産んだわけではないが、加担したことは否定できない。 しかし、ニーチェの一番の問題はそこではない。 彼の理想と現実の埋めようのないギャップ。 ■ニーチェの末路 ニーチェは読者にむかって ・・・ 「己の内なる声に耳を傾けよ。その声に従って、生きよ。道徳やルールに惑わされてはならない」 と、危険な生き方を強要しておきながら、自分は35歳でニートになってしまった。体調不良で、大学の教授をやめたのである。その後、気候の良い土地を転々としながら執筆に専念した。早い話が在野の学者。 ところが、ニーチェの転落はここでとどまらなかった。45歳で、生きながらにして、アリ地獄に落ち込んだのである。 1889年1月3日、トリノの街を散歩中に、老馬が御者に鞭打たれるのをみて、突然、馬の首にしがみつき、泣き崩れてしまった。気が触れたのである。その後、実家のナウムブルクから近いイェーナの精神病院に入院した。 病室では、たいてい口をきかず、ふさぎ込んでいた。かとおもうと、突然、大声でわめきだし、自分を皇帝とか公爵とよんで、窓を叩き壊すこともあった。そして、頭痛がはじまると、看護人をビスマルクだと言って、ののしるのだった。 「私は愚かだから死んでいる。私は死んでいるから愚かだ」 と、芝居のセリフのような呪文を繰り返した。 これはうつ病レベルではない。重度の精神障害「統合失調症」である。 やがて、病院は回復の見込みがないことを認め、1890年5月、ニーチェは退院した。その後、ナウムブルクの実家にもどり、一度も回復することなく、55歳でこの世を去った。 じつは、ニーチェの狂気は、鞭打たれる老馬をみて、突然、発現したわけではない。子供の頃、すでに、予兆があったのだ。ニーチェはこう書いている。 「僕が恐ろしいと思うのは、僕の椅子の後ろの、ぞっとする姿ではなく、その声である。どんな言葉だって、その姿が発する声ほど、身の毛もよだつ、言葉にならない非人間的なものはない。人間がしゃべるように話してくれさえすればいいのだが」(※3) 幻聴や幻覚は統合失調症の典型的な症状である。誰もが子供のとき経験する夢想世界とは別ものだ。結局、ニーチェの幼少時の予兆は現実になったのである。 ■クラーク博士の末路 ニーチェの理想と現実の人生をみると、 「Boys,be ambitious(少年よ、大志を抱け)」 を残したクラーク博士を思いだす。 ウィリアム・クラークは、アメリカ合衆国の教育者で、札幌農学校(現北海道大学)の立ち上げに尽力した。先の名言は、これから巣立つ若者へのはなむけの言葉として有名である。 ところが、そのクラーク博士 ・・・ 帰国後、大学の学長になり、順風満帆だったのに、自分の名言を実践することにした。学長を辞めて、新しい大学の創設、会社の創業に挑戦したのである。 「Old boys,be ambitious(中年よ、大志を抱け)」 ところが ・・・ 結果はすべて失敗。最後は破産に追い込まれた。その後、心臓病をわずらい、寝たり起きたりで、59歳でこの世を去ったという。 大志を抱き、現実で失敗し、悲惨な末路をたどり、名声だけが残る ・・・ 詳細はさておき、大枠、ニーチェと同じではないか。 というわけで ・・・ 挑戦する人生は素晴らしいが、身の丈を超えると、後が良くない。欲をかかず、つつましく生きるのも良き人生かな ・・・ ■ゲーテの末路 ニーチェは、寄宿学校時代、文学サークル「ゲルマニア」をつくり、シェークスピアやゲーテをよみあさった。 そのゲーテだが、詩人、劇作家、小説家、科学者、弁護士にして政治家と、ニーチェの「力への意志」を地で行くような「攻め」の人生だ。 ところが ・・・ その「攻め」のゲーテが、晩年、こんな言葉を残している。 気持ち良い人生を送ろうと思ったら ・・・ 済んだことをクヨクヨしないこと、 むやみに腹を立てないこと、 現実を楽しむこと、 人を憎まないこと、 そして、未来を神にまかせること。 人生は複雑である。 参考文献: (※1)意志の勝利[DVD] 販売元:是空 (※2)わが闘争(上)―民族主義的世界観(角川文庫) アドルフ・ヒトラー (著), 平野 一郎 (翻訳), 将積 茂 (翻訳) (※3)「エリーザベト・ニーチェ―ニーチェをナチに売り渡した女」ベン マッキンタイアー (著), Ben Macintyre (原著), 藤川 芳朗 (翻訳) 白水社 http://benedict.co.jp/smalltalk/talk-249/ _____
ニーチェとルサンチマン〜道徳の正体〜 http://benedict.co.jp/smalltalk/talk-250/
■ニーチェかサルトルか
昭和51年、日本の高度経済成長のまっただ中、こんなTV CMが流行した ・・・ 「ソ、ソ、ソクラテスかプラトンか〜、ニ、ニ、ニーチェかサルトルか〜、みーんな悩んで大きくなった〜」 作家の野坂昭如が歌ったウィスキーのCMである。哲学者をまとめてコケにしたようなバチ当たりなCMだが、悪意は感じられない。彼の不思議なキャラのおかげだろう。野坂昭如は、言動はハチャメチャだが、どこか憎めない。何をしても許されそうな ・・・ そういえば、大島渚監督の結婚30周年パーティで、主役をグーで殴って大騒動になった。犯行映像も残っており、証拠は万全なのだが、訴えられたという話は聞かない。 とはいえ、彼のすべてが不真面目というわけではない。直木賞を受賞した「火垂るの墓」は何度もみても泣ける(ただしアニメ版)。 ところで ・・・ 冒頭のCMは、哲学者の有名どころはソクラテス、プラトン、ニーチェ、サルトルと言っているようなもの。つまり、ニーチェは日本でもポピュラーな哲学者なわけだ。 では、ニーチェと聞いて、何を思い浮かべるか? ツァラトゥストラはかく語りき 神は死んだ 超人思想 ・・・・ ニーチェの象徴、3大キーワードである。 ところが、この3つはすべて、ニーチェ哲学の重要な概念「力への意志」にからんでいる。 ニーチェは著書「ツァラトゥストラはかく語りき」の中で、「神は死んだ」と宣言し、人間のあるべき姿「超人思想」を提唱したから。 しかし ・・・ ニーチェが本当に言いたかったのは、「神は死んだ」ではなく「神は妄想である」だったのだ。 そこで、100年後、生物学者リチャード ドーキンスはニーチェを代弁した。彼は著書「利己的な遺伝子」で、生物は遺伝子の乗り物にすぎないと暴露し、さらに、著書「神は妄想である」で、人間を創造したのは進化の法則で、神ではないと言い切った。つまり、神と宗教を否定したのである。 ということで、ニーチェは哲学、ドーキンスは生物学、それぞれ異なったアプローチで同じ結論に到達したのである ・・・ 神は妄想ナリ。ところが、ロジックの鋭さと辛辣さでは、ニーチェが一枚上手。 ■ルサンチマン ニーチェ版「神は妄想」は用意周到である。まず、彼が最初に持ち出したのが「ルサンチマン」だった。 ルサンチマン? 響きはいいが、非常に危険な言葉である。フランス語で「恨み」とか「嫉妬」という意味だが、哲学用語としての意味は最悪 ・・・ 絶対にかなわない強者に対し、ねたむ、ひがむ、陰口をたたく ・・・ ここまでは想定内だが、ルサンチマンは陰湿でしつこい。相手を悪者に仕立てあげ、自分を正当化する。そして、ここが肝心なのだが ・・・ すべて想像の中で、行動は一切ナシ。 なんで? 立ち向かえば瞬殺されるから。 なんと惨めな。 「あんた立派だね。頑張れば ・・・」 ぐらいの皮肉の一つも言って、あきらめればいいのに。 ところが、ルサンチマンは、それでは腹の虫がおさまらない。卑屈というか、偏屈というか、いびつというか ・・・ 具体例をしめそう。 マイクロソフトは、OS(Windows)とOffice(Word、Excel)で成功し、ソフトウェア業界の王族として君臨している。革命でも起こらない限り、王座は安泰だろう。なぜなら、OSとOfficeは初めにやったもん勝ちだから。 たとえば、何か面白いアプリを思い付いて、開発するとしよう。どのOSを選ぶ? もちろん、Windows、次に余裕があれば、Macかな。もっとも、昨今は、タブレットやスマホが急伸しているので、AndroidかiOSかもしれない。つまり、普及しているOSほど、アプリが多いわけだ。だから、一旦、劣勢になったOSが挽回するのは不可能。 さらに、ビジネス現場ではWord、Excelがデファクトスタンダードになっている。外部とのデータのやりとりはPDFが多いが、Word、Excelのファイルを使うことも多い。だから、カネを惜しんで中国製のOffice互換ソフトを買ったところでさほど意味はない。 つまり、マイクロソフトの目を見張る成功は、実力ではなく、既得権益によっている。だから、どんなに優れた商品を開発し、どれほど広告を打とうが、勝ち目はないわけだ。これが、王族と言われるゆえんである。 さて、ここで、ルサンチマンの登場である ・・・ オデは知ってるぞ。マイクロソフトが成功したのはタナボタ、実力があったわけじゃない。1980年、IBMがパソコンに参入したとき、マイクロソフトのMS-DOSが採用され、「パソコンOS=マイクロソフト」が既成事実になったことがすべて。運というか、成り行きというか ・・・ 実際、あのとき、最有力はデジタルリサーチのCP/Mだったんだからな。 だから、マイクロソフトが市場を征服しようが、神様よりお金持ちになろうが、絶対に認めん。 じゃあ、WindowsとOfficeは使っていないの? あ、いや、使っているけど ・・・ 好きで使ってるわけじゃないぞ。みんなが使っているから、使っているだけだ。 では、WindowsとMacどっちがいい? そりゃもう、Mac! Appleと比べれば、マイクロソフトなんてゴミみたいなもんだ。いいか、よく聞け、オデはAppleには一目置いているけど、マイクロソフトなんか絶対に認めないぞ(Macを実際に使ったことあるのかな)。 それに ・・・ マイクロソフトはあんなに稼いでいるのに、WindowsXPのサポート打ち切りとか、ふざけたこと言いやがって。売るだけ売っておいて、無責任な話だ。たしかに、金持ちかもしれんが、性根はサイテーだ! もう一声 ・・・ 創業者のビルゲーツも二代目CEOのスティーブンバルマーもユダヤ人っていうじゃないか。「ベニスの商人」の金貸しシャイロックだな。オデは、こんなエゲツナイ商売する連中とやり合うつもりはない。そこで、焼鳥屋をやることにした。あいつらと違って、オレは品があるからな。 これが、ルサンチマン。 では、ルサンチマンの逆は? たとえば、Google。 ボクたち、マイクロソフトがソフトウェア業界の王族だってことは認めるよ。大したもんだよ、ここまで来るのは。もちろん、ボクたちもイケてるけど、まともにやっては勝ち目はない。だけど、逃げたりはしない。土俵を変えて勝負するんだ。マイクロソフトはデスクトップのキングなら、僕たちはウェブのキング。そして、いつかウェブがデスクトップを超える日が来る。そのとき、マイクロソフトを打ち倒すんだ! その「いつか」だが、遠い未来ではなさそうだ。 ということで、ヘソ曲がりをのぞけば、100人中100人がGoogleを絶賛し、ルサンチマンを軽蔑するだろう。 とはいえ、ラッキーなマイクロソフトや、ルサンチマンなソフト会社や、今をときめくGoogleでたとえても、いまいちピンとこない。ところが、ニーチェが説く「ルサンチマン」は強烈だ。 ■一神教と多神教 ニーチェは著書「道徳の系譜」の中でこう書いている ・・・ 「高貴な道徳」は、どれも誇らしげにみずからを肯定するところから発展するものだが、「奴隷道徳」は最初から外部のもの、異なっているもの、自分以外のものを否定する、この否定こそが、この道徳の創造的な行為なのだ。 まわりくどいので、カンタンにまとめると、 ・高貴な道徳 =社会の道徳 ・奴隷道徳 =宗教の道徳 そして、「奴隷道徳=宗教道徳」の本質は、自分以外を否定することにあると言っているのだ。ちなみに、ここでいう宗教とは「旧約聖書=ユダヤ教&キリスト教」に限定される。 では、なぜ、仏教やヒンズー教ではなく、「ユダヤ教&キリスト教」なのか? 一神教だから。 一神教は、他の神を一切認めない排他的な宗教である。たとえば、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教 ・・・ じつは、この三大宗教には「唯一神」以外にも共通点がある。 旧約聖書をバイブルにしていること、「普遍的な道徳」をもつことである。ここで、「普遍的道徳」とは、国や民族を超えて有効な道徳をいう。たとえば、ユダヤ教の「十戒」。読んで字のごとく、10の戒めがあるのだが、両親を敬えとか、人を殺してはいけないとか、嘘をつくなとか ・・・ 誰でも理解・納得できるルールだ。 一方、一神教の反対言葉「多神教」は ・・・ 文字どおり、複数の神を包含する。さらに、多神教の神は、地域に根付いており、普遍性がない。たとえば、古代都市テオティワカンでは「ジャガー神」があがめられたが、ジャガーがいない地域では、宗教そのものが成立しない。 さらに、多神教は、普遍的道徳をもたない。それどころか、生贄(いけにえ)を要求する性悪の神までいた(決めたのは人間だが)。2012年人類滅亡説で話題になったマヤ文明はその最たるものだろう。生贄を制度化していたのだから。 また、古代では、地球上のいたる所でシャーマニズムが存在した(一部の地域では今も存在する)。霊と交信するシャーマンが、占いや儀式を取り行い、為政者を補佐するのだが、王を兼ねることもあった。邪馬台国の卑弥呼もその一人だろう。 というわけで、多神教やシャーマニズムは、太陽や星々、森や動物の霊など、自然をモチーフにしている。つまり、自然と結びついた「自然神」なのだ。ところが、一神教は抽象的な唯一神をつくりあげ、それを崇めるよう強要する。さらに、文明化の名のもとに、森林を伐採し、神々などいないことを証明する。つまり、多神教が「自然神」なら、一神教は「人工神」なのだ。 一方、日本は世界に類を見ない無神論の国である。もっとも、戦国時代までは、日本は熱心な仏教国だった。ところが、織田信長がそれを一変させた。信長は、宗教が政治に口出しすることを極端に嫌い、宗教勢力を根絶やしにしたのである。一向宗「本願寺」との熾烈な総力戦の果てに。 その結果、日本の宗教勢力は弱体化し、無神論の国となった。盆は仏壇の前でチーン(仏教)、クリスマスイヴはケーキをほおばり(キリスト教)、正月には神社(神道)でパンパン。はた目で見ると、花見と変わらない。 ところで、一神教で道徳が重視されるのはなぜか? 治安と秩序をたもつため。 じゃあ、一神教は性悪説!? イエス! そもそも、キリスト教の教えによれば、人間には七つの大罪があるという。ところが、人間は神が創造したというではないか。全知全能の神が罪を作った!?矛盾してません? それとも、神はあえて不出来な人間を造り、大罪で苦しむの眺めて楽しんでいる? やっぱり、この世界は神の見世物小屋かもですね。 話をもどそう。 宗教が治安と秩序に一役買っているとしたら、無神論の日本はどうなるのだ?日本の治安と秩序は世界最高なのに。 1946年、アメリカで、この謎を解く書が出版された。タイトルは「菊と刀」、著者は文化人類学者のルース フルトン ベネディクトである。若き日のエリザベステーラーを彷彿させる美人だが、文体は陰気くさく読みづらい。その中で、彼女はこう説明している。 西洋人は「罪の文化」で、神罪を恐れて悪いことをしない。一方、日本人は「恥の文化」で、「世間体」を気にして悪いことをしない。 たしかに、江戸時代のハラキリ、太平洋戦争中の玉砕をみるまでもなく、日本人は世間体を気にする。つまり、「恥の文化」は宗教同様、治安と秩序に貢献しているわけだ。もっとも、最近は「恥知らず」な犯罪が増えているので、新しい「××の文化」をつくる必要がありそうだ。 ■奴隷道徳 「ルサンチマン」に話をもどそう。 ニーチェによれば ・・・ 宗教も神も、ルサンチマンというひねくれ者が作りだした「妄想」にすぎない。戦っても勝ち目はないので、想像上の復讐で埋め合わせしているだけ(身もふたもない)。 そして、ルサンチマンの源流はユダヤ教と言い切ったのである。 これは興味深い。さっそく、ユダヤ教の歴史をみてみよう。 ユダヤ人が最初に王国を築いたのは紀元前1021年のイスラエル王国である。その後、強国エジプト王国と共存しながら、ダビデとその子ソロモンの治世で全盛期をむかえた。ところが、ソロモン王が死ぬと、内部抗争がおこり、王国はイスラエル王国とユダ王国に分裂した。 そして、ここからユダヤ人の苦難が始まる。 まず、紀元前597年、南方のユダ王国が新興の新バビロニアに滅ぼされた。さらに、ユダヤ民族の支配階級が新バビロニアに連行されたのである。歴史上有名な「バビロン捕囚」である。 ところが、バビロン捕囚には副産物があった。ユダヤ人が新バビロニアの優れた文化に接することができたのである。中でも、重要と思われるのがギルガメシュ叙事詩(古バビロニア版 or ニネヴェ版)である。 というのも ・・・ 後に、ユダヤ人が編纂する「旧約聖書」に、ギルガメッシュ叙事詩とソックリの部分があるのだ。 時間軸にそって説明しよう。 バビロン捕囚から60年後、ユダヤ人に転機が訪れる。紀元前539年、アケメネス朝ペルシアがバビロンに侵攻し、新バビロニアを滅ぼしたのである。ペルシアは異民族に寛大な帝国だった。王キュロス2世の命により、ユダヤ人はエルサレムに帰還することが許されたのである。その後、ユダヤ人は旧約聖書とユダヤ教を成立させた。 その旧約聖書の中に、「ノアの方舟」というエピソードがある。 じつは、それがギルガメシュ叙事詩の「ウトナピシュティムの洪水伝説」ソックリなのだ。というわけで、バビロン捕囚がユダヤ教成立に一役買ったの間違いない。 しかし、重要なのはそこではない。 イスラエル王国が滅亡し、現実世界で強者から弱者に転落したタイミングで、ユダヤ教が成立したこと。しかも、その教義というのが ・・・ 「ユダヤ民族は選ばれた民である。絶対神ヤハウェを信仰せよ、そうすれば、神が敵対する民族をすべて滅ぼしてくれる」 ところが、その後の歴史をみれば明らかだが、神はユダヤ民族を救ってはくれなかった。それどころが、第二次世界大戦まで、ユダヤ人の迫害が続いたのである。 そのユダヤ教の流れをくむのがキリスト教だが、初めから苦難の連続だった。創始者イエス キリストの受難から始まり、その後も、ローマ帝国で迫害されたのである。しかも、その迫害は常軌を逸していた。女子供を含む多数の信者が、コロッセウムに引きずり出され、ライオンに噛み殺されたのである。ところが、いくら祈っても、神はライオンを退治してくれなかった。 つまり、キリスト教は、創設当初から、強者に立ち向かう術を持たなかった。そのぶん、教義はパッシブであり、それはイエスの最期の言葉からもうかがえる。 イエスは、ゴルゴダの丘で手と足にクギを打ちつけられたときこう言ったという。 「父(神)よ、かれらをお許しください。かれらは何をしているのかわからないのです」 自分を殺そうとする敵をかばうのだから、慈悲深くみえる。しかし、見方を変えれば、勝ち目のない敵を蔑むことで、自分を上に置く、欺瞞(ぎまん)ともとれる。このように、現実では勝つことのできない弱者(キリスト教徒)が、精神世界での復讐のために創り出した価値観を、ニーチェは「僧侶的・道徳的価値観」とよんだ。そして、このような卑屈な負け惜しみをルサンチマンと呼んだのである。 つまり ・・・ 勝ち目のない惨めな現実から逃れるため、自己を正当化しようとする願望が「奴隷精神」、その手段が「奴隷道徳」なのである。そして、「奴隷道徳」こそが人間を堕落させたのだと。 なんという危険な思想だろう。 ニーチェは背神者であり、偶像破壊者であり、反逆者なのだ。 ところが、二ーチェは宗教と神を否定するだけのクレーマーではなかった。神が死んだ後、人間がどう生きるべきかを示したのである。 神を捨てて、オーヴァーマン(超人)たれ! これがニーチェの十八番「超人思想」である。 http://benedict.co.jp/smalltalk/talk-250/
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