★阿修羅♪ > 近代史4 > 219.html
 ★阿修羅♪
▲コメTop ▼コメBtm 次へ 前へ
仏教
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/219.html
投稿者 中川隆 日時 2020 年 2 月 23 日 19:59:58: 3bF/xW6Ehzs4I koaQ7Jey
 

(回答先: 中川隆 _ キリスト教関係投稿リンク 投稿者 中川隆 日時 2020 年 2 月 23 日 19:57:41)


仏教

釈迦の言葉
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/741.html

参考資料 _ ダンマパダ
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/737.html

参考資料 _ スッタニパータ
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/736.html

参考資料 _ ブッダ最後の旅
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/738.html
 

  拍手はせず、拍手一覧を見る

コメント
1. 中川隆[-13576] koaQ7Jey 2020年2月23日 20:41:21 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-90] 報告

釈迦の本当の教え
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/735.html

釈迦の悟りとは何であったのか?
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/739.html

不可触民(ダリット)の世界 _ 釈迦が見た地獄とは何だったのか
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/707.html

タイは天国に二番目に近い国 1 _ タイの仏教
www.asyura2.com/09/reki02/msg/377.html#c5

仏教信仰は人間を堕落させる _ タイが売春国家になった理由
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/708.html

被差別部落出身の有名人は? _ 法華経は宗教ビジネスの聖典
http://www.asyura2.com/11/lunchbreak45/msg/860.html#c169

浄土真宗と創価学会は被差別同和部落民の宗教
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/371.html

被差別同和部落の起源 _ 朝鮮からの渡来人が先住の縄文人・弥生人をエタ地域に隔離した
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/113.html

2. 中川隆[-13574] koaQ7Jey 2020年2月23日 20:43:51 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-88] 報告

天皇家は推古朝以降 江戸時代までずっと仏教徒だった
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/525.html

仏教衰退 _ 全国で無人の寺や無縁墓が急増
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/732.html

3. 中川隆[-13570] koaQ7Jey 2020年2月23日 21:28:05 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-84] 報告

西洋の達人が悟れない理由
2. 梵我一如はエロスの世界
3. 秘密仏教(密教)とは…
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/385.html

4. 中川隆[-13316] koaQ7Jey 2020年2月29日 19:57:25 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[205] 報告

仏教信仰は人間を堕落させる _ タイが売春国家になった理由
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/708.html

タイは天国に二番目に近い国 1 _ タイの仏教
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/377.html#c5

5. 中川隆[-13058] koaQ7Jey 2020年4月06日 12:35:09 : pusBXgIaZg : MVFpUkJNanQydFE=[12] 報告

ドキュメンタリー映画 - 中村元 - ブッダの生涯 【HD】





●本動画は後世に脚色された超人的なお釈迦様ではなく、歴史的人格としてのブッダの誕生から入滅までを解説されています。

解説者は中村元(なかむら はじめ、1912.11.28-1999.10.10)先生。
インド哲学や仏教学の世界的権威で、多くの論文や著書を記され、東京大学教授、同大学文学部長、同大学名誉教授を歴任された他、東方学院の開設や比較思想学会を創設。世界各地で講演され、NHKの「こころの時代」にも度々出演され、ブッダの生の教えを広めて下さいました。


●ブッダ入滅後のインドの仏教

ブッダが入滅して約100年が経ち第二回結集(けつじゅう、編纂会議のこと)が行われた際、托鉢で金銭による布施を受けることの是非やサンガ(出家修行者の組織)の運営方法等で論争が起き(十事非法)、進歩派であり多数派の大衆部(だいしゅぶ)と、保守派であり少数派の上座部(じょうざぶ)に分裂しました(根本分裂)。
2つの部派はさらに20(異説あり)に分裂し、それぞれが独自に教義の発展と体系化を行った為、 原始仏教は部派仏教へと変容しました。

紀元前1世紀頃になると、それまで出家して厳格な戒律を守り修養を積むことによって解脱できるとしていたのに対し、出家・在家にかかわらず成仏できるとする大乗思想が興り、2世紀に空の思想を説いた龍樹が、5世紀頃に無著(無着)と世親(天親)が大乗仏教を体系化しました。こうした動きと前後して菩薩修行者が瞑想中に得た事象もブッダの真正な教えであるとして書き記すようになり、如来蔵経や勝鬘経(しょうまんぎょう)、種々の般若経(はんにゃきょう)、維摩経(ゆいまきょう)、法華経(ほけきょう)、華厳経(けごんきょう)、無量寿経(むりょうじゅきょう)その他多数の経が仏典として後世に伝えられるようになりました。

一方で5世紀頃にヒンズー教の儀礼や呪句などを取り入れた密教が出現し、上記の大乗経典と同じように大日経や金剛頂経等が7世紀頃に生まれ曼荼羅が描かれるようになり、インド国内やネパールではヒンズー教の影響が色濃くなって行きました。

12世紀になるとアフガニスタンからイスラム教政権のゴール朝がインドを侵略し、仏教寺院を次々と破壊、僧侶や尼僧を殺戮し、仏教徒はヒンズー教等に吸収され、インドでの仏教は13世紀初頭に途絶えてしまいました。


●仏教の広まり

インドやネパールではサンスクリット語で、スリランカからミャンマー、タイ、カンボジアなど東南アジア諸国には上座部の保守的な仏教がパーリ語で伝わり(南伝仏教)、シルクロードを通って中国や台湾、日本、ベトナム等には漢訳で、チベットやブータン、モンゴル等にはサンスクリット語のチベット語訳でそれぞれ主に大乗仏教が伝わり(北伝仏教)、伝承先の国策や風土、民族性、土着信仰や哲学、他の宗教、輩出した人材や翻訳者の指向等の影響を受けながら定着しました。

正確な年代は不明ながら、1世紀から2世紀頃に現在のアフガニスタン東部からパキスタン北西部にかけて存在していた古代王国ガンダーラに仏教が伝わると、ギリシャ文明と融合してそれまでタブーとされていたブッダの姿が表されるようになり、色々な素材でそれぞれの美意識で様々な仏像が製作されるようになり信仰の対象となっていきました。


●ネパールの仏教

ブッダ生誕の国ネパールでは、その地理的側面から早期に仏教が伝わり、インドで仏教が廃れた後もヒンズー教やカースト制の影響を強く受けながらサンスクリット語による大乗仏教を受け継いでいます。


●スリランカと東南アジアの仏教

紀元前3世紀に上座部仏教が公伝し、4世紀以後に大乗仏教や密教が入り、9世紀にシヴァ教徒が侵入、16世紀以降にポルトガルやオランダ、イギリスの支配を受け上座部仏教は壊滅的な打撃を受けたものの、12世紀にヴィジャヤバーフ1世による復興、パラッカマバーフ1世による大乗仏教や密教の排除、近隣諸国からの比丘の応援、19世紀にアナガーリカ・ダルマパーラの功績等があり、スリランカも他国の危機に応援し、東南アジア諸国ではパーリ語による上座部仏教の下、出家者(男性のみ)は厳しい戒律を守り、瞑想を行い、教理を学ぶ修行生活の中で煩悩を滅し阿羅漢になることを目指し、女性や在家信者は僧を敬い食事を布施することや寺院への寄進、パゴダの新増築(ミャンマー)、短期出家(タイ、カンボジアの成人男子)、五戒を守ること等によって功徳を積み、より良い生まれ変わりを目指しています。



●中国の仏教

仏教伝来には渡来人が活躍しました。2世紀に仏典を初めて漢訳した安世高、続く支謙や竺法護等が活躍した古訳時代、後秦の西暦401年に長安に入った鳩摩羅什や6世紀に南朝の梁の武帝に招聘された真諦の活躍(旧訳時代)によって礎が築かれ、智が天台宗を大成し、インドから渡った達磨が禅宗を、曇鸞が浄土教を開宗。7世紀には西遊記のモチーフになった玄奘、法相宗の基、華厳宗の法蔵、 浄土教の道綽や善導、北宗禅の神秀が、8世紀には密教の不空等が膨大な経典を訳出(新訳時代)や著作を著し、それぞれの宗派が根本経典を定め、他を相対的なものとする教相判釈を行い、宗派毎に教義の宣揚を図り中国の仏教は最盛期を迎えました。
その後8世紀の安史の乱や後の三武一宗の廃仏、文化大革命等によって、大陸での仏教は衰えましたが、漢訳仏典や各宗派の教義は台湾や日本、ベトナムでの仏教信仰に大きな役割を果たしました。


●チベットの仏教

7世紀に大乗仏教を導入し、9世紀頃にサンスクリット語の仏典が忠実にチベット語に翻訳され、その後にラン・ダルマによる廃仏が行われたものの、パーリ語、漢訳と並ぶ大蔵経を現代に受け継いでいます。8世紀以降には後期密教も伝わり、顕密一体の仏教となりました。
14世紀になると、この世の全ての衆生を救い終わるまで過去の如来や菩薩が何度も転生して現れるという化身ラマが信じられるようになり、17世紀にダライ・ラマ5世が最高権威に就いて以降、時のダライ・ラマを法王国主とする制度が定着しました。

しかし1949年に開始された中国共産党軍によるチベット併合政策以降、中国政府による侵攻や虐殺、寺院破壊、監視や隔離、洗脳が続いており、1959年にダライ・ラマ14世はインドで亡命政府を宣言し、国体とチベット仏教の保持を図っています。



●日本の仏教

日本へは飛鳥時代の538年(元興寺縁起、上宮聖徳法王帝説による)に漢訳の大乗仏教が公伝し、推古天皇の三宝興隆の詔、聖徳太子(厩戸皇子)の十七条憲法制定等で仏教の興隆に力を注がれ、豪族が氏寺を建立し信仰するようになりました。

奈良時代には唐出身の鑑真、インド出身の菩提僊那(ぼだいせんな)等を招請し、僧尼令(そうにりょう)によって僧侶になる手続きや資格を定め、南都七大寺で南都六宗が形成され鎮護国家と学問を中心とする国家仏教として発展しました。

平安時代には最澄や空海等が唐へ渡って天台や密教、禅、戒律等を学んで帰り、最澄は天台宗(台密)を開き、比叡山に戒壇(延暦寺)を建立するべく尽力し、空海は高野山に金剛峯寺を、京都に東寺を建て真言宗(東密)を開き、加持祈祷の呪術的な力を利用する密教が広がり、現世利益を主とした貴族仏教となって神仏習合も進みました。一方で後の法然や親鸞に大きな影響を与えた源信による浄土思想も人々の心に浸透していきました。

鎌倉時代になると末法思想から大衆救済志向が強まり、法然が浄土宗を、親鸞が浄土真宗を、日蓮が日蓮宗を、一遍が時宗を、能忍が達磨宗を、宋に渡って修行した栄西が臨済宗を道元が曹洞宗を開宗し、貞慶が法相宗の、高弁が華厳宗の、覚鑁が真言宗の、良源が比叡山の、律宗の叡尊・忍性が戒律の復興に尽力する等、宗祖や中興の祖となる人材を数多く輩出しダイナミックに展開しました。また僧侶の妻帯は明治時代になるまで禁止されていましたが、親鸞は出家者の肉食妻帯を禁じず自らも妻帯しました。

室町時代から安土桃山時代の間の前期には臨済宗が幕府と結びついて興隆し、曹洞宗は地方に大きな勢力を持つようになり、浄土真宗は蓮如が本願寺を再興し講を形成して北陸一帯に広まり、日蓮宗は京都で町衆の信仰を獲得しました。応仁の乱以降は一揆や石山合戦が起き大名は融和と弾圧政策を取りました。

江戸時代になると直後の1601年から1615年に主に関東と畿内の有力寺院や宗派に寺院法度が布達され、寺院が領主の境内への立ち入りを拒否できる守護不入権の廃止、僧兵や犯罪者、浮浪者の取り締まり強化、各宗派毎に本寺を複数にする、幕府の命令を宗派内に通達する触頭(ふれがしら)寺院の指定、僧侶の資格や昇格制度、寺や僧階毎に僧衣の色等の指定、検地、寺を持たない民間宗教者の新寺の建立や俗人宅を借り受けて寺院に準ずるような行為の禁止、回国先での布教禁止等の統制が開始されました。

また本寺と末寺を上下関係に組み込む本末制度も設けられ、末寺は本寺に従う、本寺の許可なく末寺に居住してはならない、法華経の信者でないものから施しを受けたり与えてはならないとした日蓮の主張を守る寺院(不受不施派)の活動禁止、本寺末寺名簿(寺院本末帳)の報告義務が課せられました。さらに主にキリスト教徒を弾圧する目的から、寺院と檀家を固定する檀家制度が制定され、全員がいずれかの寺の檀家に編入し、転居や旅行、婚姻等による家の移動時は所属する寺から証文を受けなければならないとする寺請(てらうけ)制度が定められ、寺社奉行を設置し宗旨人別改帳(戸籍)が作成され管理が徹底されました。1654年には明の隠元隆gが来日し黄檗宗を開宗しました。

1665年になると上記政策は諸宗寺院法度として全国の寺社に布達され、各宗派の儀式・作法を守る、それを出来ない者を住職にしてはならない、本寺は末寺に理不尽な要求をしてはならない、末寺は結束して本寺に抵抗してはならない、僧階毎の僧衣色の指定、堂塔や伽藍を拡張したり華美にしてはならない、寺領の売買や質入れの禁止、出家希望者は領主や代官の許可を得る、次の住職の契約を金品で決めない、例外として妻帯を認めている浄土真宗を除いて寺に女性を住まわせてはならない等が定められました。

江戸時代中期になると檀家制度は強化され、檀家が檀那寺を変更することは認められなくなり、葬儀や法事は檀那寺で行うことが定められると武士階級だけで行われていた初七日、二七日、三七日、四七日、五七日、六七日、七七日、百ヶ日、一周忌、三回忌の法要を庶民も行うようになり、さらに七回忌、十三回忌、三十三回忌と増え、1700年頃には十七回忌、二十三回忌、二十七回忌、三十七回忌、五十回忌も加わり、墓石の建立も求められるようになり、日本の仏教は葬式や先祖供養の儀礼が主になりました。

明治に入ると、1868年に神仏分離令が、1870年に大教宣布が出され、1871年に寺社の朱印地・黒印地・除地の廃止、戸籍法の制定、廃藩置県の施行、僧尼令や寺請制度の廃止等が立て続けに実施され、神道の国教化と廃仏毀釈運動の励起によって各地の寺院や仏像等が襲撃・破壊され、仏教界の一部は政府や社会に対して存在意義の再構築を図ると共に、海外に人材を派遣してサンスクリット語やパーリ語、チベット語の仏典研究も始め、これまで宗祖にばかり向けていた視線を教祖にも注ぐようになりました。

大正、昭和、平成、令和になると、原始仏典や南伝仏教の研究が進み所属宗派の教えとは別に原始仏教と向き合う人、所属宗派を離れて新興宗教団体に移る人が現れ、一方で昭和の高度成長期以降、親や郷里から離れ都市部に就職して生活基盤を築く人や土着の生活をしない人が増え、仏教に親しまずに寺離れや墓離れする人も増えています。




●索引
はじめに・・・0:00:00
誕生・・・・・0:12:26
成長・・・・・0:31:51
出家・・・・・0:54:02
悟り・・・・・1:31:52
初めての説法・1:53:28
伝道・・・・・2:08:50
入滅・・・・・2:15:40
おわりに・・・2:27:18
6. 中川隆[-6464] koaQ7Jey 2021年3月20日 19:34:10 : LRGR9xOt0w : SElKY3RQejZJUFE=[39] 報告
 日本的ストイックの体現者たち 2021年03月20日
http://tokaiama.blog69.fc2.com/blog-entry-1438.html


 日本人は一心不乱、脇目も逸らさないストイック人生が好きだ。ズボラな私から見ると、ストイックな人々は超人であり、神様みたいに見える。

 日本的ストイックの殿堂といえば、何といっても比叡山。比叡山で得度して堂守や住職などの管理職になろうと思えば、誰でも定められた修行をこなさねばならない。
 その修行が半端でない。それを知った世界中の人が仰天し、驚愕するような凄まじい修行なのだ。多くの外国人は、最初それを信用しようとしない。

 比叡山行の最高峰にあるのが「千日回峰」である。
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%83%E6%97%A5%E5%9B%9E%E5%B3%B0%E8%A1%8C_(%E6%AF%94%E5%8F%A1%E5%B1%B1)

 行者は、午前1時に起床し、滝行の後に回峰行に出て、30〜40Kmあまりを歩いて坊に戻り、平常の勤行務をこなす。これを最初の3年は年間100日、次の2年は年間200日行う。食事は二食、1000Kカロリーに満たない精進食だ。

 これを完行すれば、「堂入」という恐ろしい行が待っている。足かけ9日間の間、食べること、飲むこと、寝ることが許されず、真言を唱え続けなければならない。
 普通の人なら100%死亡するといわれるが、5年間にわたる回峰行で鍛え上げた肉体だけが生き延びることができる。

 その後、6年目には行程が60Kmとなり、7年目からは84Kmの京都大回りを100日行い、回峰行を100日続ける。9年目に満行となり、大阿闍梨の称号が与えられる。
 これは宗教行のなかで、世界でもっとも苛酷といわれている。
 特攻隊出身の酒井雄哉は、この千日回峰行を二回行った戦後唯一の行者である。
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%85%92%E4%BA%95%E9%9B%84%E5%93%89

 https://www.youtube.com/watch?v=xhcy5tr2kMI

 これは40年くらい前に、NHKが酒井雄哉の特集を組んでから、広く世間に知られるようになった。ほぼ同じような修行が、吉野金峯山寺にもあり、複数の完行者を出している。
 吉野真言宗の塩沼亮潤は、完行後、この凄まじい行の意味を広く認知させる活動を行っている。
 https://www.youtube.com/watch?v=y7UKACmylZk

 私は、この行者たちの動画や著作を見てから、日本という国の奥深さを思い知らされた。政治の表舞台に出ているのは強欲な馬鹿か阿呆ばかりだが、日本の底辺には、恐ろしい人々がいるものだと深く心に染み入る。
 この行を知って、私は、京都という大都市の本当の意味を理解することができたように思った。京都は、この行者たちへの苛酷な行への信仰と帰依によって1000年以上も成立しているのだと理解した。

 人は、自分のできない困難に立ち向かい克服する真摯な努力を見て感動するのだ。
 京都大回り行中に、京都市内で行者が通りかかると、大半の京都市民が、そこに平服して行者の加持を待つ。下校途中の学生でさえ、行者の邪魔にならないよう気を遣う。
 この姿を見ていると、京都という街を本当に支えてきたのは、こうした行であろうと理解できる。行者から気迫が伝わってきて、誰もが自然に謹厳な姿勢になるのだ。

http://tokaiama.blog69.fc2.com/blog-entry-1438.html

7. 中川隆[-13349] koaQ7Jey 2022年4月07日 09:25:00 : UZ1ShPGIms : RXBHS2VjSFJuMUk=[3] 報告
これが仏教学の定説:
 世に広まっている誤解に、釈尊は「六道輪廻」から解脱することを説いた、つまり生まれ変わりからの解放を説いたというものがあります。

しかし実は「輪廻」も「解脱」も元来、古代インドの支配階級だったバラモンの考えで、それらを含む思想が釈尊と同じころに『ウパニシャッド』という文献にまとめられてきますが、それは釈尊のとられる考え方ではありません。 それどころか、それらを批判していったのが釈尊でした。


 そもそも釈尊の当時は、正統的なバラモン思想に対抗する一連の革新的思想家が出てきた時代です。

かれらは沙門(しゃもん=努力する人)と呼ばれ、釈尊もその中の一人でした。

釈尊の師であったといわれるアーラーラ・カーラーマやウッダカ・ラーマプッタもそうですし、ジャイナ教の始祖ヴァルダマーナなど、「六十二見九十五種」という言葉もあるように、何十何百もの方々がさまざまな教えを説いていたといわれています。

 その中にも生まれ変わりを否定する人はたくさんいたのですが、釈尊がそれを否定した仕方はきわめて簡単です。 生まれ変わりという考えは、われわれが常住不変・永遠不滅の「我」(霊魂のようなもの)を持つということを前提としますが、釈尊はそのような「我」はないと言われたのです。

 趙樸初『仏教入門』(法蔵館)の記述にしたがえば、釈尊はわれわれも含め生き物はすべて、さまざまな物質的要素(地・水・火・風・空)と心理的要素(感覚器官・感覚・印象・思惟・判断力など)の集合体であり、しかもそれらすべての要素が一瞬ごとに生滅・変動していると考えました。

そうであれば、そこには輪廻の主体となる不変の「我」はどこにも見いだすことができないということです。これが「無我」といわれる考え方です。

 ただし、釈尊が冷静に学問的に研究した結果、そういう結論に達したのかどうかは微妙です。むしろ、輪廻という考えを否定するという動機にしたがってそう考えたと見ることもできます。

 というのも、ここは非常に大事な点ですが、釈尊を含む革新的思想家たちがバラモンの教えを批判するのは、それがバラモン支配の社会を支えるための教え(今ふうに言えばイデオロギー)だったからです。

たとえば、輪廻という考えは厳然としてカースト制を支える教えとしてあります。

つまり、現在バラモンであるものは前世によい行いをしたからであり、反対にシュードラにあるものは、前世でわるい行いをしたからであり、来世でよい境遇に生まれたければ善いことをせよというわけですが、その善悪の基準とは、つねにカースト制を含む社会が存続するのに都合のいいものです。

善を行ない悪を行うまいとして道徳を守れば守るほど、一方では安逸を貪り、他方ではいかに努力しようとも悲惨な状況から抜け出すことの出来ない階層が存在するという状況が続くわけです。

 これだけでも皮肉ですが、しかも、悲惨な状況にある者は、その状況を自分の前世の行いからくる運命のように受け入れて生きていくしかないと思いこんでしまうという点で、二重に悲惨なのです。

要するに、輪廻は身分差別には当然の理由があるんだという「こじつけ」として機能していたと考えることができます。

 ですから、釈尊が輪廻を否定し「四姓平等」(四姓とは、バラモン:司祭者・クシャトリヤ:王族・ヴァイシヤ:庶民・シュードラ:隷民)を表明したということは、「カースト制度を正当化しようとするいかなる考えかたも許さない」ということを意味したわけですから、カースト制と闘う態度を明確にしたということができます。

 しかし、残念ながら世間には、釈尊が輪廻を説いたというたぐいの仏教入門書が少なくありません。

しかし逆に言えば、その本が輪廻を釈尊が説いたもののように言っているかどうかは、その本が信用できるかどうかの一つの指標になるのではないでしょうか。
http://www2.big.or.jp/~yba/QandA/98_10_21.html


スッタ・ニパータは釈迦の本当の教えなのか?

仏教学を学ぶ者にとって、釈迦が、神の存在や霊魂の不滅性の是非を説かなかったことは、初歩中の初歩であるのだろう。そして、多くの仏教本には、釈迦は、人間にとって知ることのできない形而上学的諸問題については、それを問うても解答の出ないものであり、釈迦は、それらをことごとく捨て去ったと書かれている。(無記説)

ところで、最古の経典『スッタ・ニパータ』に登場する釈迦は、「無執着説」を説きながら、一方では、「輪廻からの解脱」ということを言う。最初から、霊魂の不死性を肯定も否定もしなかった仏陀が、一体、何故に、再び「輪廻」という言葉を持ち出してくるのだろうか?

これらのことは、『スッタ・ニパータ』を読んだときから、どうしても、私の頭から離れなかった疑問点であった。そして、もともと、本経典は、別々の時代に書かれた別の経典から編集されたものであり、全く別のものとして仏教を誤解釈した釈迦弟子が、仏陀の言葉として書き記したものであるのだろうか?

あるいは、釈迦は最初から輪廻を信じていて、これらは、何かの点によって繋がっているものであるのだろうか? それとも、それらはナーガールジュナ(龍樹)が言うような「勝義諦」と「世俗諦」なのだろうか?

実を言うと、先日、由緒ある曹洞宗のお寺に、日本を代表する仏教学者である奈良康明先生の講演会があり、話が終わった後に、個人的に、これらの質問をもって行ったところ、お寺の奥にあった小部屋に、先生から直々に案内され、一対一で、先生からの、これらに関する解答を頂いたのでした。


『釈迦は無我説を説き、霊魂の不滅性は説かなかった。

しかし、当時の一般民衆のほとんどが輪廻思想を信じていて、釈迦は霊魂の不滅性を否定はしなかった。霊魂の不滅性を否定したなら、托鉢で飯も食えなくなっただろうし、それを信じる者には、その道で行きなさい、といった感じだった。

だから、スッタ・ニパータのは矛盾はない。』


その日の夜に、仕事が終わった後に、スリランカ出身の友人B氏と、これらについて、さらに深い部分にまで及んで話し合ったところ、まったく別の説が浮かび上がってきた。

その彼の説はこうである。

『当時のインドでは、ほとんどの人が輪廻を信じていて、釈迦は輪廻からの解脱に挑んだ。その到達点は梵我一如のそれと同じであり、ニルヴァーナに至った釈迦には輪廻それ自体が無くなってしまった。

それゆえに、神(ブラフマン)の領域にまで達した釈迦にとってはアートマンは輪廻することが無くなったために、霊魂は不滅ではなくなった。』


しかし、B氏の説はバラモン教や梵我一如とその到達点ばかりではなく、それに至る道までもが同じではないのか?

一体、釈迦の仏教は梵我一如であったのだろうか?

いや、そんなはずはないだろう。釈迦の仏教が梵我一如の達人であったのなら、仏教は仏教である意味は喪失してしまうことになるのだろう。

私は、仏教のニルヴァーナの境地とバラモン教の境地とは、同一のものであることはB氏の意見と一致するが、釈迦の山頂に登る手法は、梵我一如のそれとは異なっていたのではないのかと思っている。

そして、「釈迦は霊魂の不滅説を説かなかった(否定も肯定もしなかったという意味)。

しかし、当時、霊魂の不滅性を信じる多くの一般民衆に対しては、霊魂の不滅性を否定はしなかった。」

という奈良先生の説に、私は賛同している。

もしかしたら、修行のレベルに合わせて釈迦は説法をされたのであろう。(対機説法)
http://blogs.yahoo.co.jp/dyhkr486/47870614.html

▲上へ      ★阿修羅♪ > 近代史4掲示板 次へ  前へ

  拍手はせず、拍手一覧を見る

フォローアップ:


★登録無しでコメント可能。今すぐ反映 通常 |動画・ツイッター等 |htmltag可(熟練者向)
タグCheck |タグに'だけを使っている場合のcheck |checkしない)(各説明

←ペンネーム新規登録ならチェック)
↓ペンネーム(2023/11/26から必須)

↓パスワード(ペンネームに必須)

(ペンネームとパスワードは初回使用で記録、次回以降にチェック。パスワードはメモすべし。)
↓画像認証
( 上画像文字を入力)
ルール確認&失敗対策
画像の URL (任意):
投稿コメント全ログ  コメント即時配信  スレ建て依頼  削除コメント確認方法

▲上へ      ★阿修羅♪ > 近代史4掲示板 次へ  前へ

★阿修羅♪ http://www.asyura2.com/ since 1995
スパムメールの中から見つけ出すためにメールのタイトルには必ず「阿修羅さんへ」と記述してください。
すべてのページの引用、転載、リンクを許可します。確認メールは不要です。引用元リンクを表示してください。
 
▲上へ       
★阿修羅♪  
近代史4掲示板  
次へ