>25 郵政の民営化は必然だった。あのまま郵政をほおっといても別の問題が発生していただろうな。甘い汁をすすることのできる公的な機関と、そこと比較して熾烈な競争下で精鋭化して行く民間企業との摩擦程温度差があるものはない。 目はついてるか?頭が問題か?ちゃんと読んでから話してるんだろな?揶揄したいコメントばかりを探して噛み付いてるだけでは何も変わらん。 だから「そういう資本主義経済は辞めなければならない(=変えるべき)」と書いてるはずだが? 相手にするだけ馬鹿馬鹿しいなら放置する。バカか狂人だとすぐ分かるから。頭がヒートアップするだけの人間では政治は無理だ。諍いが堪えない。だが頭を冷やして聞く耳を持つならいくらでも説明してやる。 「国家の全体主義」とは何か。 「国家」のあり方そのものが全体主義的なんだろう?それを歴史的な経緯だけでもって、負のイメージを伴って耳にして来たその「言葉」に感情的に反応して絡めとられて、言葉に附随するイメージを拭い去ろうとする努力をしない。何もしないのは人の勝手だが、その身勝手さ故の責任回避のために言葉も正しく活用されずじまいとなっている。正しく使われるべき言葉も道具も傷ついたまま眠らされている。 そうではなく、歴史的にみてこんな事例はなかったかもしれないが、例えば、全体に分け隔てなく施しのできる「心優しいまったくもって非の内どころのない王様」が仮に居たとする。それがもし国のトップだったらそりゃあそこでの「全体主義」の意味も変わってくるだろう。 言いたい事は分かる。政府がいまのままであれば「全体主義」などと言ってもそこには「独裁のイメージ」としてしか受けとる事ができないだろう。故に、それは呼び方云々の問題ではない。行なわれている政治の中身の問題だ。つまり「全体主義の名の下に行なわれて来た政治手法」がダメだからといって、「全体主義」がダメだという事にはけっしてならない。だが観念的に「そうだ」となかば「なし崩し的」に前の政治を徹底的に糾弾して否定した上で別なものに変えるために、その時、「全体合意的に」悪いものと決めつけてしまう。そうして、実際は「別のものに人の目を惹き付けさせる」政治的な対立軸を利用した「やり口」で人々を煽動する。流されるのは大衆だ。それもまた如何わしい政治的手法ではないか。そこから思考停止すると後はただ拒絶反応だけしか出来なくなる。それは人じゃなくなるのと同じくらい深刻な事だ。 かたや共産主義であれ、社会主義であれ、資本主義であれ、それぞれの枠組みの呼称がなんであれ、「主権がきちんと国民のもの」であるなら、それは第一義的に「民主的権限の枠内」に納まり、その政治は民、人々のものとなる。そうなると「民主的社会(全体資本共産)主義」という言葉も生まれてくる。 今ある「民主主義」という言葉も中身はまったく国民の心意に寄り添わない紛い物。だから問題である訳だ。で、本来、「国家」という枠組みと「民主主権」とはその建立の理念の元で一体のものであるはずだ。だがいまそれがばらばらに切って分けられている。本来その二つは切って切れないもののはずだ。 何故そうなったか。いつからそうなったか。歴史を遡って人の歴史がどれほど長い間同じように続いてこようとも、間違っていると感じたのなら帰るべき岐点となる。 国民主権が破壊されて、騙しのテクニックばかり上手になって悪徳政治ばかりが横行して来た。いつからか?はたしていつからだろうな。明治か?秦の皇帝からか?エジプトのツタンカーメン王の王位継承争いからか?しかしまずはそのことなどどうでもいい。これからと今だけが重要だ。 指導者、トップが「排除の論理」に心傾く者であれば、それ以下の社会性はなべてみな「排除傾向に従えられる」こととなる。 トップが詐欺師の集団であれば、社会全般、弱者からの搾取ばかりが横行する。 だから我々にとって否定すべきもの、唾棄すべきものとなっているわけだ。であるならば、それらをひっくり返す必要がある。 民主主義とは能力の優劣で推し量らないことが基本的人権を守るという事だ。 そしてトップを据え置かないもの。 そのことではじめて本来的に「民主=国民全体主義」と言えるのではないのか? これまでの歴史で培ったそれぞれの主義、社会づくりのやり方の善い所は残して、それぞれのいいところを抜き取りミックスすればいいだけ。 字引するだけで何かを得たと勘違いを起こす頭だけではバカ同然となる。 辞書の意味が正しいとするのではなく、今ある形を意味あるものへ作り替える。自分たちが欲するものに作り替えることだけが人としての役割だ。 何かを変える、改善するにはそういう意識的なエネルギーの塊で挑まねばなら無い。 それぞれにある主義主張も全体に貢献するものであるか、部分的に活用できるものはないか、一度全体で見渡してみる必要がある。ただ、レッテルを貼っておしまいにするだけの思考停止ではダメだ。 使い勝手の良いものにするために頭を活用するだけだ。なるものはなる。ならないものはならない。 いわば「民主的社会資本全体共産ミックス主義」を可能とするのは、個々に於ける多様性の受け入れの許可と同じ。それぞれの理想も個々に対する不可侵害の厳守の上に可能とする。 いずれもトップ一人の判断によるところではなく、国民全体の多数決でもない、腹を割った話合いとそれぞれの希望を全体が聞く耳を持つ事が何より肝要だ。 知恵と感性と心が息衝く、人の力が自然と活性化する政治を執り行なうということ。それには教育を一から変える必要が出てくるな。世の中が本当に基本的に生きるのに何の不安もないところに持っていく事で、人の意識は変わる。基本的人権と生活の保障に目処が立って、はじめて性善説が確かなものとなる。奪い合う必要が無くなるからだ。 まずは前段階として、その為、国民に活力の源泉たるエネルギーを与えなければならない。 企業のあり方も変わるだろう。民主主権前提の資本と社会主義のミックスであれば、それぞれインフラを強化し、根本の社会運営が安定した所で、その基本循環を保護し、侵害しない認識の元で、その上に自由経済、自由取り引きを可能とする。 そこでは主義主張毎に違うトップを立てたりせず、すべての考えに精通するものを育てる。意識の高い人間だけが政治をすればいい。 全体でそれぞれが必要とするものをどう分け合えるかを話し合って決める。企業の人件費もBIが基本となれば安く済むし、雇用を大きく短期的に活用しても誰も困らない。 「全体は一人のために」という合意的枠組みの元で、国民全体でとりまとまって政治が動くようにする。基本、積極的に相手の意志を汲取るように議論をする。和平プロセスにこのことは欠かせない。 「積極的な外交」などと「よくお前が言うな」と呆れたが安倍も同じ事を口にしていたが、中身がまったく伴わないのはいつものことだ。口先だけの政治家はもはや二度と要らないだろう。 「積極的な平和貢献」とは自分の命を差し出しても相手を救おうとすることで相手と袂を分かつことができる。懐に飛び入るものだけが人の心を掴むことができる。リーダーの資質にはこれがなくてはならない。私にはそんな高尚なものはないが、そうした人物を少なくともひとり知っているかいないかで人の心は変わってくる。 これまでのようなひとつの中央政権で何もかも決めて、それを下々へただ受け渡すというような指令系統は当然ダメということになる。 地方に自治権をいくつも分散していても、いざという時無責任にひとりのトップに委ねるというのでは全然だめ。市町村単位で現場により近いところに現場を知るものをリーダーとして置き、暫時的な行政権限を与えて、総合的な判断はそのひとつ上の統括的立場のもとに集って議決して決める。 現場の声を吸い上げるリーダーは基本的に立てるものではなく、企業の実態を知るよく歩き回る現場畑の人間からスカウトする。その働き如何でおのずと決まる。若者には地域の企業周りをさせて、様々な職場を実体験してもらい、地域社会貢献、企業の実態をつかむことが必要。そうして地域の人間を育てる。 常に現場に目配せできる人間が数多く必要。自主性を育むには実地体験のみ有効。それぞれの産業分野においてどう人員を配置できるか。どう改善できるか。全体に必要とされる産業に対して、全体の力を均等に配分するにはどうした取り組みが何が必要なのか。などを考えてもらう。 「上から下へ」ではなく、これからは「下から上へ、やがて横のみの広がりへ」 改革はやはり現場から。地方の末端から網をかけて中心部へと追い込む様な形になる。 小さな現場から繋いで行って、大きな社会的取り組みへと発展するのがここから起きる革新的出来事となる。下から突き上げるボトムアップの声の圧力によって改革が推進されていくと考える。 まずは一戸世帯で生活の不便な人と中央をどのように繋げるか。 地方の一人暮らしや限界集落に住む人達とどう繋がりを維持するか、から発想が広がって行って欲しい。都心部は都心部で資本主義経済中心のまま、しばらくはこのままだろう。だからそこは除外する。 地方行政、地元の企業とどう連繋をとるか、繋がりを生むかが鍵。地方行政もいまのままでは全然役に立たない。だからボトムアップ型社会提言で変えて行く。その先駆け、走りをどうするか。その具体的な算段もある。 民主的というのは集団的自営(自衛ではない)という意味とし、そこでの資本をもとにした産業なのだから民主資本的なものとする。それ以外の個人的資本力による企業はその下に据え置くものとする。 民主的人権をなにより中心的に配置し、それを主体とす。集団的自営を基本軸においた社会保障の循環的かつ恒常的枠組みを侵害するものを採用しない。それが民主社会的取り組みである。 それぞれの地域毎の特性を重視し、より柔軟に地域経済が活発となる交易を可能とする。国はそれぞれの地域の経済交流の活性化より成るものとする。 全体性の枠組みは一括して制定するのではなく、まずそれぞれの地域毎の地域性を活かすより細分化された行政力の柔軟な取り組みを可能とする所から改善をみる。 資本は個人に十分な資金源(BIなど)を供給する事で、個々に事業資本を出し合うことによって、それを合資としていくらでも民主資本を創出する事が可能となる。失敗を前提に、なんどでも地元に必要とされる産業草案の実験が可能となる。それはほぼ、ボランティア活動同然、または善意のみからなる社会貢献、奉仕の精神の自然な育みを果たす事になる。 変化し続けることをもって恒久的に改善しつづける仕組みとする。そうするべく全体で取り組むことが必要。 そこではこれまでの資本経済等で培ったノウハウをそのまま活かせる枠組みとすることも可能。 それはネガティヴな意味での「全体主義」とか、「共産主義」といった言葉の括りに囚われない。 それぞれにおける地方、生活環境の自治がすべてであり、その根幹の経済循環のサークルを全体包括的な経済の循環とし、それを保護する(これが真の意味での自国ファースト)。その上でそこに他経済的サークルを幾重にもレイヤーを重ねる事は可能。優先すべき基本をしっかりと守りさえすれば、それを侵害しない範囲で自由な枠組みを取り入れ活用する。 地域(自国)ファーストの経済枠を破壊さえしなければ、そこに別資本の交易経済を誤り無くフェアトレードとなるよう、枠組みが必要。そうした場合、それぞれの国の人口数に対しての生産能力と物価の比率をきちんと把握する事も必要で、そこからが本当の本格的な技術支援、文化的な理念による心の交流が互いに出来るようになってくる。 机上で本開き、理屈だけを知識として叩き入れても屁理屈ばかりしか出ず、人として何の役にも立たない。 BIが撒かれる事となれば、所有する金を比較して一円でも多いものを金持ちというだけであった。そんな意味も無い事に価値はない。 これまでの金持ちとされてきた者とは本当の金持ちは僅かだ。富をただ独占的に占有するだけのただの変態は犯罪者と同じ。本当の富めるもの(トミ)とは、人のために尽くし、その過程を経たことにより当然人々から慕われるという必然的結果が招いたもの。人を愛し、故に人に愛される者の事を言う。必然的にそこに金も集まるというだけの話。それが本当の金持ち。だから我々が作る社会では皆が"金持ち"となる。 それぞれが富めるものとなり、小口出資者として、組織化し、合資会社を設立し、地域経済を営む。まずは独り身で五体健康でない人々の手足となる仕事を作る。地域に分散し、交流を促す蜂となる。 それぞれがリーダーで、それぞれが対等な顧客となる関係性でそこには一切の上下関係をなしとする。故に、互いに敬い、献身的な姿勢で接する事になる。でなければ人付き合いなどすぐに破綻するだろう。 身分や能力差などに拠る偏見や差別もそうして撤廃したところに、学びがある。万人において身体健康の不安も減ずる。人として精神性を満たす事が心の豊かさを生み出す事となる。 正しい、地に着いた学問だけを中心に栄えることになる。 そうして新たな資本構造、新たな組織構造、新たな社会インフラ、企業構造体を作って(中身はこれまでのものとの融合だが徐々にその枠組みの中で変化して行く事になる)、個々の権限を保持させる。いわば社員ひとりひとりが筆頭株主で社長の様なものへと変わって行く。 キリがないので以上。
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